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プラトン「国家」~13/13 ハイデガーの存在と時間

家具について、<実相>(イデア)はということになると二つあるだけだろう-寝椅子のそれが一つと、机のそれが一つ。今二つの家具のそれぞれを作る職人が、その<実相>(イデア)に目を向けて、それを見つめながら一方は寝椅子を作り、他方は机を作るのであってそれらの製品を我々が使うのである。

それぞれの種類の手仕事職人が作る限りのものをすべて何でも作るような職人のことだ。すべての家具だけでなく、大地から生じる植物のすべてを、動物のすべてを、自分自身、大地、天空、神々とすべての天体と地下の冥界にある一切のものを作る。むずかしい仕方ではないよ。鏡を手に取ってあらゆる方向にぐるりと回してみる気になりさえすればよい。

そう見える所の(写像)を、しかし本当にあるのではないものを。

では寝椅子づくりの職人の場合はどうだろう。ついさっき君は、こう言っていたのではなかったかね?彼は<実相>を-これをわれわれはまさに寝椅子であるところのものと言うわけだが、その実相を-作るのではなくて、ある特定の寝椅子を作るのである、と。

後のハイデガー存在と時間より、本質存在と事実存在 「デアル」と「ガアル」である

では手綱や馬術がどのようなものでなければならぬかを、画家は知っているだろうか?それとも実は制作者である鍛冶屋や革職人でさえ知らないのであって、そのことの知識を持っているのはそれらを使うすべを心得ている人、すなわち馬に乗る人だけではないだろうか?それぞれのものについて、今挙げたような3つの技術があるのではないかね-すなわち、使うための技術、作るための技術、真似るための技術。

こうしていまやわれわれは正当な理由をもって作家(詩人)をとらえ、彼を画家の片割れと規定することができるだろう。なぜなら真理と比べれば低劣なものを作り出すという点でも画家に似ているし、また魂の同じく低劣な部分と関係を持ち、最善の部分とは関係を持たないという点においても、彼は画家とそっくりだからだ

ホメロスを断罪するなれば、ルネサンスの始祖「ダンテ」も相当に罪深い。それに続いた美術・芸術など、ヨーロッパ中心のキリスト教観という虚構を現代に引き継いで作り出した。


滅ぼしたり損なったりするものはすべて悪いものであり、保全し益する者は善いものだということだ。


後の市場原理、メンデルの優勢の法則である。


プラトン「国家」~12/13 独裁の発生源は民主制

民主制のもとでは、他のどの国よりも最も多種多様な人間たちが生まれてくることだろう。様々な国制の中でも一番美しい国制かもしれないね。この国制を最も美しい国制であると判定する人々も、さぞ多いことだろう。この国は、その放任性のゆえに、あらゆる種類の国制を内に持っている。たとえ君に支配する能力が十分にあっても、支配者とならなければならない何らの矯正もなく、さりとてまた君が望まないならば、支配を受けなければならないという強制もない。

とくにずば抜けた素質を持つものでもない限り、早く子供の時から立派で美しいことの中で遊び、すべて立派で美しい仕事で励むのでなければ、けっして優れた人物とは、なれないだろう。すべてこうした配慮をこの国制はなんとまあ高邁(こうまい)なおおらかさで、足下に踏みにじってくれる。国事に乗り出して政治活動をする者が、どのような仕事と行き方をしていた人であろうと、そんなことはいっこうに気にも留められず、ただ大衆に好意を持っていると言いさえすれば、それだけで尊敬されるお国柄なのだ。

若い時から訓練すれば取り除くことのできるような欲望、何一つ為になることがなく、場合によっては害をなすことさえあるような欲望、これらすべての欲望を<不必要な欲望>であるという。われわれが雄蜂と呼んでいた人間とは、そのような快楽と欲望に満たされていて<不必要な欲望>に支配されている人間のことを言っていたわけだね?他方、<必要な欲望>に支配されている人が、けちで寡頭制的な人間に他ならないわけだね?

雄蜂は名もなき民、寡頭制的な人間とは、必要なもの=エネルギーを供給したロックフェラーである。

寡頭制から民主制が生じてくる過程と民主制から僭主独裁制が生じてくる過程とはある意味で同じ仕方によると言えないだろうか?たぶん、民主制のもとにある国で、こんなふうに言われているのを聞くことだろう-この自由こそは、民主制国家が持っている最も良きものであって、まさにそれゆえに、生まれついての自由な人間が住むに値するのはただのこの国だけである。そのようなことへのあくなき欲求と、他のすべてへの無関心が、ここでもこの国制を変化させ、先制独裁制の必要を準備する。民主制の国家が自由を渇望した挙句、たまたまたちのよくない酌人たちを指導者に得て、そのために必要以上に混じりけのない強い自由の酒に酔わされるとき、国の支配の任にある人々はあまりおとなしくなくて、自由をふんだんに提供してくれないような場合、国民は彼ら支配者をけしからぬ連中だ、寡頭制的な奴だと非難して迫害するだろう。

このような国家においては必然的に自由の風潮は隅々にまでいきわたって、その極限に至らざるを得ない。このような状態の中では、先生は生徒を恐れてご機嫌を取り、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の態度をとる。一般に、若者たちは年長者と対等に振る舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て機知や冗談でいっぱいの人間となる。買われてきた奴隷たちが、男でも女でも、買った方の主人に少しも劣らず自由であるという状態のうちに達成されるだろう。

僭主独裁制が成立するのは民主制以外のほかのどのような国制からでもないということだ。すなわち、思うに、最高度の自由からは、最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくるのだ。民主制の国家を3つの構成集団に分けてみることにしよう。雄蜂族、尊敬されず、支配の役職から遠ざけられているから、鍛えられていないし、勢力も強くはならない。けれども民主制のもとでは、国の先頭に立つ指導者層は、少数の例外を除けばまさにこの種族であると言って良いのだ。

安倍さん?麻生さん?ブッシュJr?

もう一つの階層が、つねに大衆から区別される。すべての者が金を儲けることにつとめるとしたら、生まれつき最もきちんとした性格の人々が最も金持ちになるだろう。雄蜂どもにとってそこは最も沢山の蜜があって、蜜を取るための最もふんだんな供給源となるわけだ。しかしこの階層の者は、蜜の分け前にあずかるのでなければ、あまりたびたび集まろうとはしないものですよ。だから現にいつも分け前にあずかっているのだ。先頭に立つ指導者たちが、もてる人たちから財産を取り上げて民衆に分配しながらも、なお大部分を自分で着服できるその範囲内でね。

最後に民衆が無知ゆえに中傷家たちにだまされて彼らに危害を加えようとするのを見ると、本当に寡頭制的な人間になってしまうのだ。民衆の習わしとして、いつも誰か一人の人間を特別に自分たちの先頭に押し立てて、その人間を養い育てて大きく成長させるのではないかね。すなわち、僭主が生まれる時はいつもそういう民衆指導者を根として芽生えてくるのであって、他の所からではないのだ。民衆の指導者となったものが何でもよく言うことを聞く群衆をしっかりと掌握したうえで、同胞の血を流すことを差し控えることなく、よくやる手口で不正な罪を着せては法廷に引き出して殺し、こうして一人の人間の生命を消し去り、その穢れた口と舌で同族の血を味わい、さらに人を追放したり死刑にしたりしながら、負債の切り捨てや土地の再分配のことをほのめかすとするならば、このような人間はその次には敵対者たちによって殺されるか、それとも僭主となって人間から狼に変身するか、このどちらの途を選ばなければならない運命にあるのではないだろうか?

僭主となった当初、誰にでも微笑みかけて、負債から自由にしてやり、周囲の者たちに土地を分配してやるなどして、情深く穏やかな人間であるという様子を見せるのではないかね。いったん外なる敵たちとの関係において、あるものとは和解し、あるものは滅ぼしてその方への気遣いから解放されてしまうと、まず第一に彼のすることはたえず何らかの戦争を引き起こすということなのだ。民衆を指導者を必要とする状態に置くためにね。


プラトン「国家」~11/13寡頭制から民主制へ

言論の修練にあずかる期間としては、持続的かつ集中的にそれに専念して他のことは一切行わず、修練するとするならば5年間。その期間が終わった後で、戦争に関する事柄の統率などの若いものに適した役職を義務として課さなければならないことになるからだ。そうした実際の業務の中でさらにもう一度、あらゆる方向への誘惑に対して確固として自己の分を守り続けるか、それとも動揺して脇へそれることがあるだろうかということを、試さなければならない。15年間。そして50歳になったらば、あらゆる点で最も優秀であった者たちを最後の目標へ導いていかなければならない。魂の眼光を上方に向け、すべてのものに光を与えているかのものを、直接しっかり注視させるということだ。そして彼らがそのようにして善そのものを見て取ったならば、その善を模型(模範)として用いながら、各人が順番に国家と個々人と自分自身とを秩序付ける仕事のうちに、残りの生涯を課すように強制しなければならない。彼らは大部分の期間は哲学することに過ごしながら、しかし順番が来たならば各人が交代に国の政治の仕事に苦労をささげ、国家のために支配の人につかなければならないのだ。

自分に代わる国家の守護者を後に残したならば、彼らは<幸福者の島>へと去ってそこに住まうことになる。国家は彼らのために、公の行事として、記念碑を立て犠牲をささげる儀式を行うことになろう。ピュティア(デルポイ)の神託がよしとされるなら神霊(ダイモーン)として祀り、そうでなければ、祝福された(エウダイモーン)神的な人々として讃えながら。

後の国家元首の「任期」である。

彼らのうちで哲学においても戦争に臨んでも最も優れている人々が王となること。支配者たちはその任に着くと、兵士たちを我々が先に述べたような住居へ連れて行って住まわせるのであるが、そこには誰にも何一つ私有されるものは無く、それはみなの者に共同の住居であるということ。彼らは誰も、こんにち一般の人々が所有しているようなものを何一つ所有してはならず、いわば戦争の専門競技者であり国の守り手であるから、他の人々から守護の任務に対する報酬として、仕事に必要なだけの糧を1年分受け取り、自分自身と他の国民の面倒を見ることに専念しなければならない。

4種類の国制、僕が言おうとしている国制は一般に通用している名称を持ったものばかりだからね。すなわち、まず、多くの人々から賞賛されているところの、かのクレタおよびスパルタふうの国制(名誉支配制ティーモクラティアー)がある。それから、二番目の国制で第二番目に賞賛されているもの寡頭制(オリガルキアー、財産の評価を基準とする有産階級による支配制))と呼ばれている国制があり、これは実は多くの悪をはらんでいる国制だ。それから、その敵対者であり、それに続いて生じてくる民主制。そしてこれらすべての国制にたちまさる高貴な僭主独裁制。これが第4番目にあって、国家の病として最たるものだ。世襲王権性だとか金で買われる王制だとか、またこれに類するさまざまの国制だとか言ったものは、いま挙げたものの中間的なところに位置づけられるものだろう。

あなたの言われる寡頭制とはどのような制度のことでしょうか?

財産の評価に基づく国制だ、つまり、金持ちが支配し、貧乏人は支配にあずかることのできない国制のことだ。各人が持っている、。彼ら自身もその妻たちも、法に従わずにね。

デュポン家のGM売却と譲渡益課税非課税。あるいはマイクロソフトの初の配当とブッシュ減税などがこれに当たる。

寡頭制から民主制への変化は、およそ次のような仕方で起こるのではないだろうか。寡頭制国家の支配者たちがその任にあるのは、多くの富を所有しているおかげなのであるから、彼らは若者たちのうちに放埒な人間が出てきても、これを法によって取り締まって、自分の財産を浪費して失うことができないように禁止することを欲しない。というのは、この支配者たちには、そういう者たちの財産を買い取ったり、それを担保に金を貸したりすることによってもっと富を増やし、もっと尊重されるようになろうという気があるからだ。

金を儲けている者たちは、身をかがめて仕事に熱中し、そうした貧乏人たちのことは目にも入らぬふりをして、その他の人々のうちに言うことを聞くものがあれば、そのつど金銭の毒針を差し込んで傷つけ、そして親金の何倍もの利息を取り立てては、雄蜂と乞食を国のなかにますます生み増やしていくのだ。支配者たちは支配される者たちを、国の中にいま言ったような状態に置いているのだ。

痩せて日焼けした貧乏人が、戦闘に際して、日陰で育ち贅肉をたくさんつけた金持ちの側に配置された時、貧乏人は金持ちがすっかり息切れして、なすすべもなく困り果てているのを目にするだろう。-このような場合、彼は、そんな連中が金持ちで居るのは自分たち貧乏人が臆病だからだ、というように考えるとは思わないかね? そして自分たちだけで集まるときに「あの連中は我々の思いのままになるぞ。何の力もないのだから」ということを、お互いに口から口へと伝え広めていくとは思わないかね?

貧しい人々が戦いに勝って相手側の人々のうちのあるものは殺し、あるものは追放し、そして残りの人々を平等に国制と支配に参与させるようになった時、民主制というものが生まれるのだ。そして大ていの場合、その国における役職はくじで決められることになる。

2200年後のフランス革命である。


プラトン「国家」~10/13排他的な哲学者、学問の最高位

最も重要な学問について、

1位:数と計算
2位:幾何 (数は幾何よりも抽象概念だから上位、指で示した1は、何指で示そうが、1は1という抽象性を持っている)

3番目の学科としては天文学をそれと定めることにしようか? 平面の次に、もうすでに円運動のうちにある立体を取り上げたからだ。立体をそれだけで取りあげる前にね。しかし順序としては2次元の次には3次元を取り上げるのが正しい。そしてこれは、立方体の次元や一般に深さを分け持つものについて考えられるものであるはずだ。

しかしそうした事柄はソクラテス、まだ完全に発見されたと言えないように思えますが。

次には深さを持った次元の研究が来るのが順序なのに、その探求の仕方の現状がおかしなものなので、それを飛び越してしまって、幾何の次に天文学を上げたのだ。これは深さを持ったものの運動にかかわるものなのにね。

当時、天文学に必要な数学以上に天文学が進んでいたようだが、2300年後の理論物理学とゲージ理論の時間差である。

どうも君は、上方の事柄について学ぶということがどういうことかをしごくおおらかな解釈で自分の心の中に受け取っているようだね。きっと君は誰かが上を仰ぎながら天井に多彩の模様を眺めて、何かを学び知るような場合でも、その人は目によってではなく、知性によって観ているのだと考えるのだろうからね。僕としては目に見えない実在にかかわるような学問でない限り、魂の視線を上に向けさせる学科としては他に何も認めることはできない。

天文学は空を見上げているだけのバカだと嫌味を言っている。

天空にあるあの多彩な模様(星)は、それが目に見える領域にちりばめられた飾りであるからには、このような目に見えるもののうちでは確かに最も美しく、最も正確ではあるけれども、しかし真実のそれと比べるならば、はるかに及ばないものと考えなければならないということだ。真実のそれとはすなわち、真に実在する速さと遅さが、真実の数とすべての真実の形のうちに相互の関係において運行し、その運行のうちに内在するものを運ぶところの、その運動のことであって、これらこそはただ理性(ロゴス)と思考によってとらえられるだけであり、視覚によってはとらえられないものなのだ。

ちょうど幾何学を研究する場合と同じようにして、<問題>を用いることによって天文学を追求し、天空に見えるものにかかずらうのは止めることになるだろう-もしわれわれが本当の意味で天文学研究に参与することによって、魂の内に本来備わっている知の機能を無用の状態から救って役に立つものにしようとするのならば」

これが実現するのは1900年後、コペルニクスの天文学まで待たなければならない。従来、実験実証によって証明してきた理論物理学は発展しすぎて、宇宙の始まりまで論じていることから、プラトンの言う、視覚によってとらえられないただのロゴスと思考によってとらえられるだけの領域に到達している

18歳当時の私もプラトンのような考えで、数学と理論物理学こそが学問であり、「目に見えない実在にかかわるような学問でない限り、魂の視線を上に向けさせる学科としては他に何も認めることはできない。」というのに激しく同意していたw まぁ、俺も若かった。許してくれや。

数学の中では数論、これが数学の中の哲学、役立たず君。数論のために代数学をはじめとする数学だけではなく、解析や幾何などあらゆる分野を総動員するが、数論によるほかの数学分野の貢献は難しい。そして数学の中でも、統計や金融工学は、言わずもがな、プラトンのいう所の天文学扱いだw ましてや他の学問は言語道断。経済学や心理学など二流の学問として嘲笑の対象であった。そして私が不思議だったのは医療や法律などという「もはや学問ですらない実学」に優秀な学生たちが向かっていることだった。私の友人で法学部なのに、選択科目で取ってる数学に対する質問が、本質的で鋭かったので、「なんで法学部なんかに行ったの?」と思わず聞いてしまったほどだ。いわゆる数学科のエリートコースである灘・数学オリンピック組が、医学部や法学部に流れるというのは、もはや怪奇現象w 現在では合格者最高点が公表されているので、世間の認識では全学部最高得点者が、最難関の医学部以外の法学部や理学部に流れているように見えている。今は大人になったので、その優秀な学生たちが、医学部や法学部に進むのは大いに結構だが、彼等には早くダブルメジャー・トリプルメジャーを認める方向で変わってほしいとは思う。

しかし、心理学や法学をバカにしていたことよりも、コンピュータをバカにしていたことが、もはやトラウマ的後悔(数学を専攻したことは後悔してない)となっている。「子どもがYoutubeばかり見ていて困ったもんだ」と嘆く親御さんに対しても、「しかしYoutubeを否定されるのはいかがなものかと。世界最高峰の機械学習のテクノロジーを使ったあなたへのお薦めはあなどれません! アマゾンは世界中のあらゆる本を読んだことがある先生。教科書を読んだり学校で学ぶのは過去の学問、将来の産業は大人たちがバカにしている遊びから生まれる。」とまで言ってしまうほどのトラウマだw

しかし言い訳なんだが25年前の「情報処理」の授業つまんなかったねぇ…。相対論の授業も、お世辞にも面白いものではなかったので、私が個人的に背景を知っていたから面白く解釈できただけか。25年前の情報処理の授業では、機械学習だ、ビットコインで使用される楕円関数とは…みたいのは無理だろうが、俺なら少なくともプログラミングは無しで、フォン・ノイマン型コンピューターとは何か? チューリング・テスト、インターネットの成り立ちくらいで設計したがなぁ…。情報処理の授業でそういうこと言ってた? 俺が聞く耳持たなかっただけ??

算数や幾何をはじめとして、哲学的問答法を学ぶために必ず前もって履修されなければならないところの、すべての予備教育に属する事柄は、彼らの少年時代にこれを課すようにしなければならない。ただし、それらを教えるにあたっては、けっして学習を強制するようなやり方をしてはいけないけれども。自由な人間たるべき者は、およそいかなる学科を学ぶにあたっても、奴隷状態に置いて学ぶというようなことは、あってはならないからだ。事実、これが身体の苦労ならたとえ無理に強いられた苦労であっても、なんら身体に悪い影響を与えるようなことはないけれども、しかし魂の場合は、無理に強いられた学習というものは、何一つ魂の中に残りはしないからね。

後に各国憲法上で採用された「学問の自由」である。


プラトン「国家」~9/13 マキャベリ以前の君主論

哲学者たちが国々において王となって統治するのでない限り、あるいは現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが真実にかつ十分に哲学するのでない限り、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの2つのどちらかの方向に別々に進むのを強制的に禁止されるのでない限り、国々にとって不幸の止むときは無いし、人類にとっても同様だ。

最も優秀なるものを哲学者と呼ぶか、それを導き出すスキームである憲法であるかが違うだけで、2300年後のヒトラー、最良の憲法と国家形式は、民族共同体の最良の頭脳を持った人物を、最も自然に確実に、指導的重要性と指導的影響力をもった地位につけるものである。 我が闘争より

<知識>のほうは<あるもの>を対象としてそれにかかわる-すなわち、<あるもの>がどのようにあるかを知るのが、<知識>の本性だろうね。他方、<思わく>のはたらきは、われわれの主張では、思わくすることなのだね? はたしてその対象は<知識>が知るところのものと同じだろうか?つまり、<知られるもの>と<思わくされるもの>とは同じものであろうか? それともそういうことは不可能であろうか?

同一であることは、ありえないことになります。

では<あるもの>が<知られるもの>だとすれば<思わくされるもの>は、<あるもの>とは別の何かだということになるだろうね? かといって<あらぬもの>を思わくするということになるだろうか?それともありもしないようなものは、それを思わくすることすら不可能だろうか? 思わくする人は、その<思わく>を何かに差し向けるのではないかね?それとも、思わくはしているが何も思わくしていないというようなことが可能なのだろうか?すると<思わく>は、この両者の外にあるものだろうか?明確さにおいて<知>を超えるものであったり、あるいは不明さの点で<無知を超えるものであったりするだろうか? 思わくは知と比べれば暗く、無知と比べれば明るいもの、両方の極のうちに位置づけられるのだね。思わくは両者の中間的なものだということになるだろう。もし「同時にありかつあらぬ」と言ってもよいようなものが何かあるとわかれば、そのようなものは、純粋に<あるもの>と完全に<あらぬもの>との中間に位置づけられる。<知識>と<無知>とのやはり中間に現れるようなものだろうと。われわれに残されている仕事は、あるとあらぬの両方を分け持つ者、純粋にどちらとも正しくは呼べないようなものを、発見することだろう。

600年後のナーガールジュナの中観、「空」である。

ある人の欲望が、ものを学ぶことや、すべてそれに類する事柄へ向かってもっぱら流れている場合には、思うに、その人の欲望は、魂が純粋にそれ自身だけで楽しむような快楽にかかわることになり、肉体的な快楽については、その流れが枯れることになるだろう。ひいては、そのような人は節度ある人間であって、けっして金銭を愛し求める人間ではないだろう。なぜなら余人はいざ知らずそのような人だけは、人々が熱心にお金を求め散在することによって獲得しようと願うさまざまのものに対して、まったく関心がないはずだから」

100年前に遠い地にてシッタールタが、悟りを開くものは金銭に触れるな、んー、シッタールタと言ってることは、ここだけではなく沢山ある。まあ、いいか。

哲学を志して、若い時に教養の仕上げのつもりでそれに触れた上で足を洗うということをせずに、必要以上に長い間哲学に時を過ごした人たちは、その大多数が、よしまったくの碌でなしとまでは言わぬとしても、正常な人間からほど遠いものになってしまう。最も優秀だと思われていた人たちでさえも、あなたが賞揚するこの仕事のおかげで、国家社会に役立たない人間となってしまうことだけは確かなのだ。

ここが「ソクラテスの弁明」で言及されていたソクラテスの罪。若者たちを堕落させたもの。それは「哲学」という不毛の学問であったことが、この部分で分かる。しかし、当時から哲学は役立たずと言われていたのか。高校から大学に行くにつれ、化学が物理に、物理が数学に、数学は哲学へなんていうものだから、不完全性定理のことも頭の片隅におきながら哲学も少しかじってみたが、「不毛な屁理屈」としか思えなかった。そんな私も学問の最高峰である数学と理論物理学が、今となっては、”必要以上に長い間費やしてはいけない学問”になってしまったのではないだろうかと思っている。大統一理論もリーマン予想も、世界中で10人くらいの人しか証明の正しさを理解できないだろうし、最高峰故に陥ってしまった数学の哲学化か。

教育と無教育ということに関連してわれわれ人間の本性を、次のような状態に似ているものと考えてくれた前。地下にある洞窟状の住まいの中にいる人間たちを思い描いてもらおう。光明のある方に向かって長い奥行きを持った入口が洞窟の幅いっぱいに開いている。人間たちはこの住まいの中で子供の時からずっと手足も首もしばられたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前の方ばかり見ていることになって、縛めのために頭を後ろへめぐらすことはできない。人たちは洞窟の一部に火の光で投影される影しか見ることができない。

彼の一人が、あるとき縛めを解かれたとしよう。そして急に立ち上がって首をめぐらすようにと、また歩いて火の光の方を仰ぎ見るようにと、強制されるとしよう。そういったことをするのは、彼にとって、どれもこれも苦痛であろうし、以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても目がくらんでよく見定めることができないだろう。そのとき、ある人が彼に向かって「お前が以前に見ていたのは、愚にもつかぬものだった。しかしいまは、お前は以前よりも実物に近づいて、もっと実在性があるものの方へ向かっているのだから、前よりも正しく、物を見ているのだ」と説明するとしたら、彼は一体何と言うと思うかね?彼は困惑して、以前見ていたもの「影」のほうが、今指し示されているものよりも真実性があると、そう考えるだろうとは思わないかね?

真実を観たがらないのは古今東西変わらない人間の性質か。影ばかり見ていると実体より影が真実性を帯びてくると。日経新聞は補完的に読むしかないな。日経新聞を中心に世の中見てたら影が実体になってしまうよw

その国において支配者となるべき人たちが、支配権力を積極的に求めることの最も少ない人間であるような国家、そういう国家こそが最もよく内部的な構想の最も少ない状態で、治まるのであり、これと反対の人間を支配者として持った国家はその反対であるというのが動かぬ必然なのだ。

真の意味の富者とはすなわち、黄金に富むものの事ではなくて、幸福な人間が持たねばならぬ富-思慮あるすぐれた生-を豊かに所有する者のことだ。これに反して、自分自身の良きものを欠いている飢えて貧しい人々が、よきものを公の場からひったくってこなければならぬという下心のもとに公共の仕事に赴くならば、善い政治の行われる国家は実現不可能となる。そうすると、国を守る役に、どのような人々がいるだろうか?それはただ国がそれによって最もよく治まるような事柄について、最も多くの知恵を持つ人々、しかも政治的生活にまさる善き生活と他の名誉とをもっているような人々だけではあるまいか。

これ、まだ見ぬ将来、しかし近い将来到来するであろう「発行者なき暗号通貨」の時代?


プラトン「国家」~8/13 マルクスと選民思想

これらの女たちのすべては、これらの男たちすべての共有であり、誰か一人の女が一人の男と私的に同棲することは、いかなる者もこれをしてはならないこと。さらに子供たちもまた共有されるべきであり、親が自分の子を知ることも、子が親を知ることも許されない。妻女も子供も共有であることが、もし可能でさえあれば最大の善であることを否定するような異論は起こらないであろう。

支配者たちがその名に値するものであるべきならば、そしてその補助者たちも同様とすれば、後者は命じられた事柄を進んで実行し、前者は、あるいは自ら法に従いながら、あるいは我々が彼らに一任した事柄については法の精神にのっとりながら命令を下すことだろう。それでは立法者としての君は、男たちを選び出したのと同じようにして、できるだけこれと同じ素質の女たちを選び出して、彼等に引き渡すだろう。そしてこれらの男女は家も食事も共同で、私的には誰もその種のものを所有していないのだから、みなが同じところで一緒に暮らすことになり、思うに、あの自然から与えられた必然性に導かれて、やがて互いに結ばれるにいたるだろう。

どうすれば最もためになる結婚となるだろうか? 僕は君の家に猟犬や血統の良い鳥がたくさんいるのを見ているからだが、そうした動物たちの結婚と子供作りのことに、何か注意してみたことがあるかね? その動物たちはみな血統の良いものばかりだと言っても、そのなかでも特に優秀なのがいくらかいて、それとわかってくるのではないかね。では君は全部に同じように子を産ませるかね、それともできるだけ最も優秀なのから子を作るように心がけるかね。

最も優れた男たちは、最も優れた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちはその逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方の子供たちは育ててはならない。

2100年後から始まるダーレーアラビアン・バイアリーターク・ゴドルフィンアラビアンのサラブレッドである。馬だけではなく、動植物には適用されている。小さな範囲で人間に対して試みた例はあるが、現在、成功した事例はない。これ、現在否定されている考えなのかなー? 

というのは多様性の強さ。大学や企業のリクルーティングにおいて、多様性を重視する傾向にある。一次元的な優劣による判断は難しいという結論なのだろうか。

シンガポールの政府主催合コンは
「男たちを選び出したのと同じようにして、できるだけこれと同じ素質の女たちを選び出して、彼等に引き渡すだろう。」
と同じことをやってる?

楽しみと苦しみが共にされて、できる限りすべての国民が損失に関して同じことを等しく喜び、同じことを等しく悲しむような場合、この苦楽の共有は国を結合させるのではないかね? これに反して、そのような苦楽が個人的なものになって、国ないしは国民に起っている同じ状態に対して、ある人々はそれを非常に悲しみ、ある人々はそれを非常に喜ぶような場合、この苦楽の私有化は、国を分裂させるのではないかね? それは国の中で、「私のもの」とか「私のでないもの」とかいった言葉が、同じ時に一緒に口にされないような場合ではなかろうか。

この人たちは家も土地もどんな持ち物も、いっさい自分だけのものとして私有してはならない。国を守る仕事の報酬としてのほかの人々から暮らしの糧を受け取って、みなで共通に消費しなければならない。もし彼らが真の意味での守護者であろうとするならば。

後のマルクスである。より明確に所有を否定している。


プラトン「国家」~7/13 国家の上位概念、ユーロ誕生

われわれが設立したような国家のほかに、国家と呼ぶに値するものが何かあると思っているとはね。

おや、では何と呼ぶべきなのですか?

他の国々のためには、もっと大きな呼び名が必要だ。なぜなら、そのひとつひとつがそれ自身、たくさんの国々なのであって、けっして一つの国家ではないのだから。いかなる場合でも二つの互いに敵対する国が、そこにある。すなわち、貧乏な人々の国と金持ちの人々の国とがそれであり、さらにそのそれぞれのうちに、きわめてたくさんの国が含まれているのだ。もし君がそれらを全体として単一の国家のつもりで相手にするなら、たくさんの国々を相手にするつもりで、一方の側の人々の財貨と権力、あるいは身柄そのものを、他方の人々に与えるというやり方を取れば、君はつねにたくさんの味方と少数の敵をもつことになるだろう。

200年後の秦帝国、始皇帝と朝廷である。400年後のローマ帝国とジュリアス・シーザー。2400年後のEUである

国家の全体も自然に一つの国となって、けっして多くの国に分裂することのないようにしなければならないのだ。あれやこれやと大変なことをたくさん彼らに命じているわけではなく、たった一つの大きなことを、大きさというより十分なことを守りさえすれば。

教育と養育のことだ。事実もし彼らがよく教育されて適正を知る人間となるならば、これらすべてのことや、さらには妻女の所有とか、結婚や子供を作ることといったような、我々がさしあたって省略して語らずにいる問題をも、容易に理解するだろう-これらすべては諺に言われるように、できるだけ「友のものは皆のもの」としなければならないとね。

後のマルクスである。所有と家族は社会的に何の合理性もない、というようなことはこの後も繰り返し出てくるので、都度、抜き出していく。

市場や都市や港に関する諸規定、あるいはその他これに類するいっさいのことなど-こういったことについて、我々はあえて何らかの立法を行うべきだろうか?立派で優れた人たちに、いちいち指図するには及ばないでしょう。そうしたことのうち、規定される必要のあるかぎりの法律の内容は、そのほとんどを彼らはきっと容易に自分で見出すでしょうからね。

後の資本主義、市場原理と自由競争である。

不節制な病人たちの生涯の過ごし方たるや、まことにご愛嬌ものだ。なぜって治療を受けながら何一つ効果を上げるわけでもなく、ただますます病気を複雑に大きくしていくだけで、それでいていつも、誰かある薬をすすめてくれる人があると、その薬で健康になれるだろうと期待し続けているのだからね。

後の米国、国民皆保険制度を認めない世論である。

単純にして適正な欲望、知性と正しい思惑に助けられ、思惟によって導かれる欲望はと言えば、君はそれを少数の、最も優れた素質と最も優れた教育を与えられた人々の中にしか、見出さないだろう。多数のつまらぬ人がいだく欲望が、それよりも数の少ない、より優れた人々の欲望と思慮の制御のもとに支配されているのを、君は目にするのではないかね。

プロレタリアートとブルジョワジー、消費する民と投資する資本家である。

各人は国におけるさまざまの仕事のうちで、その人の生まれつきが本来それに最も適しているような仕事を、一人が一人ずつ行わなければならないということ。そして、自分の事だけをして余計なことに手出しをしないことが正義なのだ。

後のホッブス、個人主義である。

女子も男子も同じ目的のために使おうとするなら、女たちにも同じことを教えなければならないわけだ。女子にも二つの術、音楽・文芸と体育、を課するほか、戦争に関する事柄も習わせ、そして男子と同じように扱わなければならないことになる。

2300年後の婦人参政権である。プラトン自身も他の箇所では「女は劣っている」とか書いていたので、すぐに理解されなかったのは無理もない。

あらゆることにおいて女性は男性に、ずっとひけをとると言って差し支えないでしょう。たしかに、色々の仕事にかけて、女が男よりも優れている例は数多くあります。しかし全体として見れば、あなたの言われる通りでしょう。

ね?


プラトン「国家」~6/13 ムハンマド、後退は死

もし人がハデスの国(冥界)の存在を信じ、しかもそこにはいろいろと恐ろしいことがあると信じているとしたら、死を恐れない人間、戦いにおいては敗北や隷属よりも死を選ぶような人間になると思うかね?

いいえ、けっして。

するとどうやら、われわれはそうした物語についても、それを語ろうと試みる人たちを監督して、ハデスの国でのことをそう一概に悪く言わずにむしろ讃えるように要請しなければならないだろう。彼らが現在語っている事柄は、真実の事でもないし、やがて戦士となるべき人々にとって有益なことでもないのだから。

1000年後の「ムハンマドとジハードの戦士たち」である。

名のある立派な人物たちが悲しんだり嘆いたりするくだりも、我々は削除すべきだろうか。立派な人物というものは、自分の友である立派な人物にとって死ぬことが恐ろしいことだとは、けっして考えないだろうと我々は主張する。そのような立派な人物こそはとりわけ、よく生きるために自分自身だけで事足りる人であって、他の誰よりも格段に、自分以外のものを必要とすることが最も少ないのである

ベルセルク第7巻、グリフィス、「オレの采配で命を落とした仲間たちに何ら責任を感じていないよ。なぜならそれはあいつらが自分自身で選んだ戦いなのだろうから。このオレがそうである様にね。でももしあいつら死者たちのためにオレに何かしてやれることがあるとしたら、それは勝つこと。あいつらが命を懸けてまでしがみついたオレの夢を成し遂げるために勝ち続けることだ。俺の夢は仲間の屍の上に立つことでしか実現できない、しょせん血塗られた夢だ。そのことで後悔や後ろめたさはない。だが…何百何千の命を懸けながら自分だけは汚れずにいられるほど…それほど俺の欲しいものはたやすく手に入るものではないんだ。」

ベルセルク第6巻、グリフィス、「私にとって友とは、決して人の夢にすがったりしない…誰にも強いられることもなく、自分の生きる理由は自らが定め進んでいく者…そしてその夢を踏みにじる者があれば全身全霊をかけて立ち向かう…たとえそれがこの私自身であったとしても…私にとって友とは、そんな…対等の者だと思っています。」

語り方の2つの種類といったのは、正しい吟唱のための語りはほとんど同じ調べを取り、単一の音調のうちになされることになるのではないかね。ではもう一人のほうの語り方は、まったく反対に、ありとあらゆる音調とリズムを必要とするのではないだろうか?なにしろこの語り方は、ありとあらゆる形の変化抑揚を持っているのだから。我々の国家にはこれらすべてのものを受け入れるべきだろうか。それとも混合されないどちらか一方だけにすべきだろうか?

優れた人物の真似を行う、混合されない様式を受け入れるべきです。

しかしね、アデイマントス、混合された様式だって確かに楽しいものだし、さらにずっと、子どもたちや、その養育係の者たちにとって、そして大多数の大衆にとって一番楽しいのは君が選んだのと反対の方の様式なのだよ

後のスティーブ・ジョブズ 神のプレゼンテーション、田中角栄、ヒトラー「歴史を変えるのは書かれた言葉ではなく、話された言葉による」、わが闘争より


プラトン「国家」~5/13 戦争の必然と一神教

国家というものがなぜ生じてくるかと言えば、我々が一人一人では自給自足できず、多くのものに不足しているからなのだ。

必要のうち第一で最大の者は、生きて存在するための食糧の備え(供給)だ、第二は住居、第三は衣服類のそれだ。どのようにすれば国家はそれだけのものを供給するに足るだけのものとなるだろうか。農夫が1人、大工が1人、織物工が1人いることになるのではないかね?

農夫は一人で4人分の食糧を供給しー、それとも他の人々のことはかまわずに、食糧の1/4を1/4の時間で自分だけのために作り…

一人が一つの仕事だけする場合がうまく行くだろう。

国家そのものを、輸入品の必要が全くないような地域に建設するということは、ほとんど不可能である。そこで貿易商もまた、必要だということになる。知能的な事柄にかけては共同者としての値打ちがあまりないけれども、力仕事のためには十分なだけの体の強さを持っていうような人々、賃銭取りも国家の成員として補充されるべき人々であるようだ。

我々が最初に語っていたもの-家や衣服や履物-にしても、もはや必要最小限にとどめるべきではなく、絵画や刺繍を始めなければならないし、金や象牙や全てその類のものを手に入れなければならなくなる。国家をもっと大きくしなければならない。先の健康な国家ではもう十分ではなくなって、今やこの国はもはや必要のために国々の中に存在するのではないような様々なものを、数・量ともにいっぱい詰め込まなければならないからだ。領土にしても、先にはその時の住民たちを養うのに充分であったのが、いまではとても充分ではなくなって、小さすぎるものとなるだろう。戦争というものが悪い結果をもたらすか、善い結果をもたらすかについては、まだ言明を差し控えることにして、さしあたって我々としては、これだけのことを言うにとどめることにしよう。我々はさらに戦争の起源となるものを発見した。

戦争の技術よりも靴づくりの技術の方により多くの気を配らねばならぬということがあるだろうか?
いいえ、けっして。
そうすると、国の守護者の果たすべき仕事は何よりも重要である明けに、他の様々の仕事から最も完全に解放されていなければならないだろうし、最大限の技術と配慮を必要とするだろう。

後の「フランスとシャルル・ドゴール」であるw パリ陥落したにも関わらず、何にも早く核開発既得権。

何にもまして国防、守護者は最も優秀でなくてはならず、そのためには教育が必要。

次のことを簡単に見逃してよいものだろうか、行き当たりばったりの者どもがこしらえ上げた物語を子供たちが聞いて、成人したならば必ず持ってもらいたいと我々が思うような考えとは、多くの場合制反対の考えを彼らがその魂の中に取り入れるのを?

ヘシオドスとホメロスが我々に語った物語。クロノスがどのようにしてウゥラノスに復讐したか、クロノスがやったこと、息子から受けた仕打ちの話など、たとえ本当の事であったとしても、思慮の定まらぬ赤い人達に向けて、そう軽々しく語られるべきではないと思う。

キマシタ。「多神教批判の前哨戦」のギリシャ神話批判です。不道徳な神々、ウラヌス、クロノス、ゼウスの親殺し、子殺し、オイディプスと近親相姦など、スキャンダラスで奔放なギリシャ神話上の”神々”は神として適切か? 僕はギリシャ神話批判はしないがね、ダンテ「神曲」に対してはプラトンと同意見だ。ギリシャ神話と聖書とローマ史をごちゃごちゃにして、面白おかしく、「作りごとの物語」で仕立て、ヨーロッパ中心のキリスト教観という虚構を作り出した張本人だ

いやしくも神であるからには、真に善きものであるはずであり、有害なものではないはずだ。何らかの悪の原因であるということもない。ホメロスであれ他の詩人であれ、

ゼウスの宮の床には2つのツボが置かれてある。その一つには善き運命が、もう一つのには悪い運命が満たされて、ゼウスが両方の運命を混ぜ合わせて与える人は-時には不幸に会い、ときに幸せに会う しかし混ぜ合わせずに一方だけをそのまま与えられる者は-つらく厳しい飢えに駆られて、尊い大地を追われさまよう またゼウスは我々に 善きものをも悪しきものをも施し与える

というようなことも容認してはならない。

神とは魔法使いのようなものであって、あるときにはいろいろと多くの形へと実際に変身して自分自身の姿を変え、またあるときにはわれわれ欺いて、自分についてただそのように見せかけることにより、そのときそのときで、故意にさまざまの違った姿で現れることができるものだと思うかね? それとも神は単一な性格のものであって、自分自身の姿から抜け出すというようなことは到底あり得ないと思うかね?

ちょっとすぐには答えられませんが

では、もし何かが自分自身の姿か抜け出すとすれば、自分が自分で変わるか、他のものによって変えられるか、このどちらかでならないのではないか? まず、他のものによって動かされ変容させられるということの方だが、これは、最も優れた状態にあるものには最も起りえない。また、最も勇気があり最も思慮ある魂ほど、外部からの影響によって乱されたり変容を受けたりすることが、最も少ないのではないかね? 生まれつきにせよ、技術によるものにせよ、あるいはその両方によるものにせよ、すべてすぐれた状態にあるものは、他のものによる変化を受け付けることが最も少ないということになる。神及び神に属するものは、あらゆる点で最も優れた状態にあるはずだ。この観点から考える限り、神がいろいろと多くの姿を取るということは、もっともありえないことになるだろう。

神は自分で自分を変化させたり変様させたりするのだろうか?その場合は神はより優れたもの、より美しい者へと自分を変えるのだろうか、それとも自分より劣ったもの、より醜いものへと変えるのだろうか?

自分より劣ったものへでなければなりません。神が美しさや優れてあることにおいて不完全なところがあるとは我々には決して言えないでしょうから。

そうだとすればアデイマントス、神々であれ、人間たちであれ、みずからすすんで自分をなんらかの点で劣ったものにしようとするものが誰かいると思うかね? 神が自分を変様させようと望むこともありえないことになる。

偽りというものは、神々からだけでなく人間たちからも憎まれるものだ。神にとって偽りは役に立つのだろうか? 創作のための偽りということは、神の内にはありえないわけだ。神的なものは、どのような観点から見ても偽りとは一切無縁であることになる。したがって神とは全き意味において、行為においても言葉においても単一にして真実なものであり、自ら実際に変身することもなければ、現においても夢においても、幻影によっても言葉によっても兆を送ることによっても-他のものを欺くということもないのだ。

われわれはホメロスを多くの点で賞賛するものではあるが、しかしゼウスが「偽りの」夢をアガメムノンに送る件は、賞賛しないであろう。

とこんな感じで、多神教から一神教へのソクラテス的論理が紹介されている。私は神学の専門ではないので、これだけで一神教の論理整合性を主張するにはおそらく不十分であろうが、その原型を認めることができる。また同時に上記文章中の

現においても夢においても、幻影によっても言葉によっても兆を送ることによっても-他のものを欺くということもない

後の宗教の基本、ユダヤ・キリスト・イスラームだけでなく仏教においても言われた「偶像崇拝の禁止」につながっていく。プラトンやソクラテスが、一神教や偶像崇拝の禁止を言ったのではない。だが、歴史的に後に出てきた概念につながる発言があったことが面白いではないか。もちろん、プラトンは「マルクスの資本論」と同じことを言ってるのではない。だが、それを彷彿とさせることを言っているのだ! もうちょっと待ってね、出てくるから。


プラトン「国家」~4/13 キリストの磔、そしてロスチャイルドとモルガン

さて、不正な人間をこのように想定したうえで、その横に今度は正しい人間を-単純で、気高くて、アイキュロスの言い方を借りれば「善き人と思われることではなく、善き人であることを望む」ような人間を議論の中で置いてみましょう。正しい人間からはこの「思われる」を取り去らなければなりません。もしも正しい人間だと思われようものなら、名誉や褒美が彼に与えられることになるでしょう。そうすると、彼が正しい人であるのは「正義」そのもののためなのか、そういった褒美や名誉のためなのか、はっきりしなくなるからです。こうして一切のものをはぎとって裸にし、ただ正義だけを残してやって先に想定した人間と正反対の状態に置かねばなりません。すなわち、何一つ不正を働かないのに、不正であるという最大の評判を受けさせるのです

この直後のソクラテスがまさにそうなるだが、(具体的に知りたい人はの「ソクラテスの弁明」へ)
その400年後の「イエス・キリストの犠牲」が必要悪であったと予言しているのである。

正義だけを残して、不正であるという最大の馮がんを受けたものは、磔にされる、とまで言っているので、まさにキリストの処刑の予言とも思えるのだが、予言というオカルトめいた表現は不適切かもしれない。哲学する=真理の探究、一つの真実に対して無数に存在しうる偽り。真理に言及すれば、一つの真実、それが繰り返される確率が高くなり、将来予想が当たったと拡大解釈ができるわけだ。だが、誰も将来を予測することはできない。市場競争の世界でも、成功した者が正確に将来を見通せていたわけではなく、誠実な対応=真理の追求、それが結果的に将来予想が当たったように見えるだけだ。

そういう意味ではこれは、後の「キリストの犠牲」に留まらず、後の「信仰・学問・言論・表現の自由が憲法上で保障されている」ことに、うすーーーく、つながっている。

不正な人間こそは、真実に即してことを行い、人の評判のために生きるのではない以上、不正と思われることをではなく、不正であることを望んでいる。彼はまず、正しい人間だと思われているがゆえに、その国の支配権力を手に入れるだろう。どこからでも好きなところから妻をもらい、誰であれ好きなものの所へ子どもたちを縁付けるだろう。誰とでも望むがままの相手と組んで仕事をしたり、交際したりするだろう。そして、不正を働くことを何ら気にしないから、そういうことをすべて、自分の儲けのために利用して利益を収めるだろう。さらに私的にせよ公的にせよ争いごとをのぞんでは、敵方に勝って多くを獲得し、より多くを獲得すればこそ金持ちとなって、友には恩恵を施し敵には害を与え、神々には物惜しみせず豪勢に数々の生贄を供え、捧げものを奉納するだろう。

国の支配権力を手に入れる=「我に通貨発行権を与えよ。さすれば法など誰が決めようがどうでもよい」 マイヤー・ロスチャイルド

仮想通貨は少なくとも、さらに10倍は上がる根拠

後の「ジョン・ピアモント・モルガンとベルサイユ条約」である。後の「人類史上最大の富の独占者ジョン・ロックフェラー」であるとも言える。これが資本主義批判、すなわち、私が「これが後のマルクスである」と言うことへの伏線である。だが、もっとマルクスに近い表現にまで、ソクラテス・プラトンが迫っているので、ここでは、資本主義批判に留めておこう。

ただここで、馬鹿と天才は紙一重ではないが、究極の不正と正義も紙一重である。詐欺師と言えるレベルの不正は語るに値せず、不正も極めれば歴史に名を残す。私は、モルガンとロックフェラーを悪者扱いするつもりはないが、プラトンの言うところの正義ではなく、不正な人間だと言っているのだ。


プラトン「国家」~3/13 スターリンと大英帝国

指輪の玉受けを自分の方に、手の内側へまわしてみたのです。するとたちまち彼の姿は目に見えなくなって、彼等はギュゲスがどこかへ行ってしまったかのように涸れについて話しているではありませんか。玉受けをまわして内側に向ければ姿が見えなくなるし、外側に向けると、見えるようになるのです。ギュゲスはこれを知ると、さっそく王のもとへ報告に行く使者の一人に自分が加わるように取り計らい、そこへ行ってまず王の妃と通じたのち、妃と共謀して王を襲い、殺してしまいました。そしてこのようにして王権をわがものとしたのです。

後の「ポール・バーホーベン、インビジブル、姿は見えないが、殺意は見える」である。

人は言うでしょう、このことこそは何人も自発的に正しい人間である者はなく、強制されてやむを得ずそうなっているのだということの動かぬ証拠ではないか。つまり、正義とは当人にとって個人的には善いものではない、と考えられているのだ。すべての人間は不正の方が個人的には正義よりもずっと得になると考えているからに他ならない。

後の「オリバー・ストーン、ナチュラル・ボーン・キラーズ」である。

もし極度に不正な人間であるべきならば、色々の不正事を企てるにあたって誤ることなく、人目をくらますようでなければなりません。発見して捕らえられるような者は、へまな奴だと考えるべきです。なぜならば不正の極致とは実際には正しい人間ではないのに、正しい人間だと思われることなのですから。彼は最大の悪事を働きながら、正義にかけては最大の評判を自分のために確保できる人であると考えなければなりません。

後の「スターリン、一人殺せば殺人だが、百万人の死は統計上の数値に過ぎない」である、と書こうとしたが、独裁者とも言われている面もあるので…

後の「日の沈まぬ大英帝国による世界、植民地支配」であるw この方が良いかな。

大英帝国というのならば、地図を塗り替えた男、ジュリアス・シーザーでもチンギスハンでもナポレオンでも同じだろ、ってのがあるかもしれないけど、大英帝国のアジア支配は現代で、その支配冷めやらぬ現在でも未だに反発が少ない(少ないだけでかなりあるけどさ)のが、よりリアリティが感じられるからだ。香港が中国返還を恐れ、未だに選挙制度が非民主的なのだが、それは中国が新たにやったことではなく、イギリスが香港に対して行った愚民化政策の継続なのである。イギリスの最大の罪はイスラエルとパレスチナ問題だと個人的には思うが、アジア的な視点でも、アヘン戦争、日本だったら武器商人グラバーの暗躍、インドネシアから見ればカリマンタン=ボルネオの北半分の領有権をマレーシアが主張しているのは、イギリスとマレーシアの策謀に過ぎない。

我々アジアから見ると反発は薄くなるが、当の大陸ヨーロッパから見ればヒトラーは、著書「わが闘争」の中で

わが闘争 下 国家社会主義運動 6/7~ヨーロッパ外交政策
https://ichizoku.net/my-ideology/20130620/european-foreign-policy/

「今日のヨーロッパの勢力関係を冷静に吟味してみると、次のような帰結に達する。つまり、300年この方わが大陸の歴史は、ヨーロッパ各国の勢力関係を均衡させ、相互に牽制させるといった方法によって、自己の巨大な世界政策的目標にとって必要な後方守備を安全にしようとするイギリスの企てにより決定的に支配されていた。

と憎々しげに書いている。ドイツにとってはドーバー海峡、地中海を持っている国にとってもジブラルタルとスエズ運河とイスラエル、さらにヨーロッパ外でも、アングロ・イラニアンとホルムズ海峡、マレーシアとマラッカ海峡、シンガポール、香港など、すべての要所をイギリスが抑えてる。

ここで大英帝国の強さの根源、日本において希薄な意識は、ロジスティクス(兵站)の重要性だ。やれ核武装だ、ゼロ戦と戦艦ヤマトはすごかっただの、上杉謙信戦闘力100だの表現が多い。イギリスの強さは兵器の強さではなく兵站だ。日本の歴史だって同様の事がたくさんある。強調して触れられてるのは、信長の桶狭間、石山本願寺、ロジェストウェンスキー航海、ハワイ・サイパンをはじめとする太平洋群島列島、まぁ挙げればきりなくあるが。B29と核兵器も大きいよ、それは否定しないよ。でも、もっとくだらない次元で良い。日本のゲームは兵站を意識してない。信長の野望では、どんな大軍でも瞬間移動できたり、ドラクエでは食料も確保せずに無限に歩き回れる。

話がそれすぎた…ごめん。


プラトン「国家」~2/13 年収1ドルCEOジョブズと租税回避

正しさ、正義、ということですが、果たしてそれは、本当のことを言う正直な態度の事であり、誰かから何かを預かった場合にそれを返すことであると全く無条件に言い切ってよいものでしょうか。それとも、ほかならぬそういう態度でも、時と場合によっては、正しかったり正しくなかったりすることもありうる、と言わねばならないでしょうか。

誰かから金をあずかっても、その返還と受領が害になるような場合、しかも返す人と受け取る人が友であるような場合には、それを返すことは「借りたものを返す」ということにはならぬと、そういうわけだね? シモニデスは正義とは何かということを、それぞれの相手にふさわしいものを返し与えるのが正しい、ということらしいが、ただこのふさわしいもののことを借りているものという言葉で表現したのだから。

シモニデス、医術と呼ばれているものは、何に対して、どのような借りているものを、すなわち、本来それにふさわしいものとして何を、与える技術の事なのでしょうか?

友と敵に対して、利益と害悪を与える技術だということになります。

してみるとあるものの有能な守り手は、そのものの有能な盗み手でもあるわけだ。

よく判断を誤り、実際には良い人間でないのにそう思ったり、あるいはその反対だったりすることがしばしばあるのではないか?

多くの人たちにとって、彼らが人間の判断を誤る限り、友に対しては害を与え-その相手は実際には悪い人間-、敵に対しては益をなすーその相手は実際には良い人間なのだからね-のが正義である、ということになるだろう。

トラシュマコス「もし正義とは何かを本当に知りたいのなら、質問する方ばかりに回って、人が答えたことをひっくり返しては得意になるというようなことは、やめるがいい。答えるように問うほうがやさしいことは百も承知のくせに!」

後の「裁判制度」である。法を定めたとしても、それを杓子定規に適用し、正義と不正を判断するのが難しい。当時から裁判制度はあり、それによりソクラテスは処刑されるのだが。

優れた人たちが支配者の地位につくことを承知するのは、金のためでも名誉のためでもないのだ。なぜなら、支配の仕事のための報酬をあからさまに要求することによって、金で雇われた者と呼ばれることも、役職を利用して密かに自らの手を汚すことによって盗人になることもともに彼らの欲するとことではないからね。もし、支配者となることを彼らに招致させようとするならば、強制と罰とが彼らに課せられなければならない。強制されるのを待たずに進んで支配者の地位につこうとするのはみっとももないことだと一般に考えられているのも、おそらくは、こういうところから由来しているのだろうね。罰の最大なるものは何かといえば、もし自分が支配することを拒んだ場合、自分より劣った人間に支配されるということだ。立派な人物たちが支配者になる時には、こういう罰が怖いからこそ、自分が支配者になるのだと僕は思う。

Forbes The World’s Billionaires
https://www.forbes.com/billionaires/list/#version:static

後の「1ドルCEO、スティーブジョブズ」である。ビリオネアは、相続で得たロレアルのリリアンばあちゃん(最近死んでそのまた娘の新しいリリアンばあちゃんになったが)を除き、生涯現役だ。誰もが持ちえぬその富を、もっとも効率よく配分する、それが彼らの責任なのである。

人に不正を加えることは利(善)、自分が不正を受けることは害(悪)であるが、ただどちらかといえば、自分が不正を受けることによって被る害の方が、人に不正を加えることによって得る善(利)よりも大きい。そこで人間たちがお互いに不正を加えたり受けたりし合って、その両方を経験してみると、一方を避け他方を得るだけの力のない連中は、不正を加えること儲けることもないようにお互いに契約を結んでおくのが、得策であると考えるようになる。このことからして、人々は法律を制定し、お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして法の命ずる事柄を『合法的』であり『正しいこと』であると呼ぶようになった。これがすなわち、正義なるものの起源でありその本性である。つまり正義とは、不正を働きながら罰を受けないという最善の事と、不正な仕打ちを受けながら仕返しをする能力がないという最悪の事との中間的な妥協なのである

後の「米国超大手グローバル企業の租税回避」である。合法的な節税であるw


プラトン「国家」~1/13 プラトンとマズローの段階欲求説

ソクラテスの弁明がプライム・リーディングで無料だったから、適当に読んでいたら意外に面白かったので、2400年前と旧約聖書並みに古いが、「プラトンの国家」でも読んでみるかと、さっそくアマゾンでポチってみました。アマゾンの戦略通りの動き? 僕の印象ではアマゾンやYoutubeの「あなたへのお薦め」の精度は本好きの友人が一人増えたと思うほどに、的確なアドバイスで、とても気に入っています。

例えば、適当にYoutubeのあなたへのお薦めに従っていただけなのに、「ダン・アリエリーの行動経済学」の講義であったり、ヨーロッパで美術館が異様に安かったので美術館巡りをしていて、そこで飾ってあった絵は一体なんだったのか?とふと思いを巡らせただけで

ドラクロワ=絵画における3つの革命
https://www.youtube.com/watch?v=FrvWy61XOdE&t=1371s

こんなのに辿り着き、さらにそのお薦めを見ていくとさらに拡大し、それらを参考にしながら今度はアマゾンで「美術史」などのキーワードで本が出てきて…と無限に拡大できる。

ただ、アマゾンは、ほんの出来心で「エッチな漫画」を一度でもクリックしてしまうと、お薦めが、それ一色になってしまうので、言動には注意しなければならない繊細なお友達ですが。

「国家」全篇の構成

正義の定義-国家と個人における-(第2~4巻)
理想国家のあり方と条件、とくに哲学の役割について(第5~7巻)
哲人統治者のための知的教育
不完全国家とそれに対応する人間の諸形態(第8~9巻)
 理想国家(優秀者支配制)から名誉支配制への変動
 寡頭制国家と寡頭制的人間
 民主制国家と …同様…
 僭主独裁制国家と …同様…

概要のさらに抜粋だが、どう? これだけ見ても、ちょっと面白そうでしょ? 2400年前に民主制国家語るかね? ちょっと聞いてみようではないか。

ソクラテスの弁明では、ソクラテスが神々を否定し、ダイモーンなる邪教の推奨や若者の堕落の原因となったから…と処刑の理由が述べられているが、それが何なのかが、どうもわかりにくい。国家の方がより具体的でわかりやすいと思う。

老いについて

我々の大部分の者(ソクラテスと同じくらいの年寄り)は、悲嘆にくれるのが常なのだ。若いころの快楽が今はないことを嘆き、女と交わったり、酒を飲んだり、陽気に騒いだり、その他それに類することをあれこれやったのを思い出しながらね、そして彼らは何か重大なものが奪き去られてしまったかのように、かつては幸福に生きていたが今は生きてさえいないかのように嘆き悲しむ。老年が自分たちにとってどれほど不幸の原因になっていることかと、めんめんと訴えるのだ。

しかし、ソクラテス、どうもこの私には、そういう人たちは、ほんとうの原因でないものを原因だと考えているように思えるのだよ。なぜって老年が本当にそういったことの原因だとすれば、この私とてもその限りでは同じ経験を味わったはずだし、私だけでなくおよそこの年齢に達した人なら、みな同じことだろうからね。こういった事柄にしても、身内の者たちとの関係がどうのこうのということにしても、その原因はただ一つしかない。それは、ソクラテス、老年ではなくて、人間の性格なのだ。端正で自足することを知る人間でありさえすれば、老年もまたそれほど苦になるものではない。が、もしその逆であればそういう人間にとっては、ソクラテス、老年であろうが青春であろうが、いずれにしろ、つらいものとなるのだ。

民はいつの時代も、「老い」や「金欠」の”せい”にしているものだ。ちなみに全部は書かないが、このケバロスの意見に対して、ソクラテスが反論する。

「あなたがそのように言われましても、多くの人々はあなたのおっしゃることをそのままには受け取らないでしょう。あなたが老年を楽に堪えておられるのは、べつに性格のおかげなどではなくて、あなたがたくさんの財産を持っているからこそなのだと、こう考える事でしょう。」

と続いていく…面白いでしょう? 
ここでは「端正と自足することを知る」という非常に短い表現にとどめているが、この後の展開まで読んだ上ならば、この表現は、

後の「マズローの段階欲求説」の第5欲求、自己実現欲求を満たした者と、現在から遡れば拡大解釈できる。

もちろん、「マズローの言ってることは2400年前にプラトンが言っていた」とまでは言わない。だが、似たようなこと、その原型になるようなこと、今でも議論されているようなことと同じことを2400年前に議論していた、とは言えるだろう。今後、

「後のマズローである」

というような表現を多発していく。原始的な議論故に、現代の議論をいくつかかいつまんで読んだ後で、プラトンの「国家」を読むと、意外に広くカバーしていて面白い。マックス・ウェーバーの社会学、宗教観と経済学を同時に捉える見方を2400年前にしているのは「さすがはプラトン」だ。


何度聞いても面白い映画解説 町山智浩

映画じゃなくて漫画なんだが。

町山智浩が漫画『ザ・ワールド・イズ・マイン』を語る

この解説はなかなか神がかっていて面白い。ワールドイズマインとスカーフェイスは少なくとも見た上で聞くとなお良いだろう。

ワールド・イズ・マイン 新井英樹

という一つの漫画を語る際に、

スカーフェイス 監督:ブライアン・デ・パルマ、主演:アルパチーノ

映画中のWorld is yoursが漫画タイトルになっているほどの重要作だが、他にも

ナチュラルボーンキラーズ オリバー・ストーン
時計仕掛けのオレンジ スタンリー・キューブリック
インビジブル ポール・バーホーベン
国家 正義について プラトン
2001年宇宙の旅 スタンリー・キューブリック モノリスに触れることで、人は、人を殺すサルに。
タクシー・ドライバー 監督:マーティン・スコセッシ 主演:ロバート・デニーロ
19歳の地図 中上健次
檸檬 梶井基次郎
復讐するは我にあり 監督:今村昌平 小説:佐木隆三
世界の中心で愛を叫んだ獣 ハーラン・エリスン
脇役の名前、三隅俊也みすみとしや、映画監督の三隅研次と伊藤俊也の合体なのでは?
ペットセメタリー
シャイニング 小説として紹介しているが、スタンリー・キューブリックによる映画化も。

とまあ、すごい数の映画を絡めて、ワールドイズマインを語る。ここであげられている映画については邦画以外は私は全部見ているが、主人公の論理が、ラスコーリニコフの主張と似ている場合もある。

町山氏はドストエフスキー「罪と罰」については直接的に触れていないものの、

人はなぜ人を殺してはいけないか?

この一大テーマを題材にした映画はたくさんある。ワールドイズマインの漫画の中でも「人はなぜ人を殺してはいけないか?」という質問を総理大臣に尋ねるシーンがある

例えばニュートンの発見が、なんらかの事情の組合せによって、この発見を妨げる十人百人の生命を犠牲にしなければ、一般人類の所得となりえないとすれば、 ニュートンは自己の発見を生かすために、当然これら十人百人の生命を屠る権利をもっているわけである。ぜんたいとしてこれらの非凡人は、マホメットにしても、ナポレオンにしても、新しき律法を与えんがために旧き律法を破壊し、流血の惨をも厭わなかった意味において、すべて犯罪人といわなければならぬ——これがラスコーリコフの犯罪に対する理想的根拠なのである。

ニーチェ ツァラストラはかく語りきの超人思想とも類似している。時計仕掛けのオレンジのアレックス、タクシードライバーのトラビスが屈折した過程でたどりつく様子を映画的に表現している。

罪と罰をダイレクトに漫画化した作品もあり、日本で読んでみたが、舞台を現代日本に置き換えているので、原作原理主義者は卒倒してしまうだろう。現代日本なので、革命前夜のサンクトペテルブルグの不穏な空気や貧しさが全く無く、全体的に軽い感じの話になっているが、かなりの努力をもって原作を現代日本的表現に直したのがわかる。

落合尚之氏の才能が最もよくわかるのが、原作通りのシーンが一つあり、群衆が老いた馬を叩き殺すシーンを漫画で表現している。だが、漫画「罪と罰」では、そのシーンだけが異様なまでに暗く、浮いている。だから落合氏の表現力をもって、原作の「罪と罰」をそのまま漫画化してしまえば、革命前の不穏な空気の漫画化ができるかもしれない。

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すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 4/4~女に生まれた時点で殻の外

会社の評価軸は、「仕事」ではない

会社とは、人が仕事をするために存在する組織のはずだ。そして社員は、そこで何を生み出し、何を世に送り出せるかで評価されるべきだと思っている。しかし、軍隊式の組織では「仕事で評価する」という考え方自体がない。もはや会社の目的が「仕事」ではなく「秩序」の維持になってしまっている。多くの人たちが「月曜日が憂鬱だ」「宝くじがあたったら会社をやめたい」などというのは、その人たちが会社で行っているのが、筒所のための労働であり、軍隊の行進練習のようなものだからだろう。面白くもなんともなくて当然だ。

私の友人の名言、「日本の会社は結果じゃなくて犠牲を求める」が思い出される。

私の個人的な経験では、会社で我慢を強いられたことはほとんどなく、「会社の資本と人材を使っていいですよ。」という印象だ。おそらく、「月曜日が憂鬱」とか言ってる人は会社に求められている人材ではない。互いにとって不幸だからとっとと辞めればいいだけのことだ。

「辞められるわけがない」は嘘だ

「辞めたら次の職が見つからないかもしれない」「人手不足だから自分が止めたら周りが迷惑する」などと言って首を横に振る。危ない兆候だ。こうした「辞められない理由探し」に走っている状態の人はだいたい心の健康を既に害している。彼らは口を揃えて「会社を(学校を)辞めたら大変なことになる」と人を脅す。僕は東大を中退しているが、大変な目に何て一切逢わなかった。会社をやめて転職したり、独立したりといった経験を持っている人だって大勢いる。「大変なことになる」というのは、ただのデマなのである。

ヤクザじゃねぇんだからさw

俺も大学の付属高校を中退しているから、「高校中退して結果的に良かったじゃん」とよく言われる。
会社辞めて、給料がない状態が10年以上続いているが、全然、困ってないね。このライフスタイルは女性を真似たものだ。どういうことかわかりやすく説明したのがチキリンで、チキリンと勝間和代との対談の中で、チキリンは「女というだけで、社会のレールから外れていた。」と述べていたように記憶しているが正確を期すために、もう一度見てみよう。

勝間和代 & ちきりん 『変化の時代の乗り切り方』

41分のところ。レールじゃなくて「殻の外」と言っている。書き下そう。

勝間「一般の人がなぜ殻をやぶれないか考察したことは?」
ちきりん「私も勝間さんも女じゃないですか、最初から殻がやぶれていたじゃないですか。自分がちゃんとした殻を持って生まれていたら、卵の中に住んでるみたいな世界の人生だったら、それをやぶって外に出るのは私も怖い。だから女で良かった。しょうがないから外に出た。殻の外の方が楽しいじゃんみたいな世界だった。リスクなんて取ったって大して怖くないんだけど、見えないと怖い。女に生まれた段階で、『仕事ないですよ』と言われた段階で、殻の外にいるので、怖いものは何もない。そこはラッキーだった。」

「女というだけで殻の外だった。だからリスクは怖くなかった。」というのを、殻の中の俺が見よう見真似でやっただけだ。チキリンがよく主張している「ゆるく考えよう」「目標を下げよう」「成長を全然考えてない」「ダラダラ生きよう」を採用すればいいだけだ。低い目標でダラダラ生きるのに才能も財力も必要ないのは明らかだ。

チキリンは頭の良い特別な女性だから…、という意見に反論するために、

2014/06/11 意外に最適行動するバカお嬢様
マジでバカだから。低収入だから。それでもバカお嬢様連中は自由でカネがあるんだ。

でも、お嬢様? カネがある? という意見に反論するための例もさらにあるぞ。

バカお嬢様は横浜という土地に寄生する、ホリエモンの言葉で言うL人材で成功しているパターンだ。一方、私の知っているタイのキャバ嬢たちは、バンコク、実家のあるタイの田舎、シンガポール、東京、台北、クアラルンプールと飛び回り、遊びまくってるぞw これはホリエモンの言うG人材だ。特別な才能と豊富な財力? あるわけねぇ。

ホリエモンも繰り返し述べていたことではあるが、グローバルGとローカルLというのは、資本論よろしくのブルジョワジーとプロレタリアートの優劣ではない。Gが優れているということはない。日本人だとG人材はなかなか発見が難しく、いたとしても「豊富な財力」を背景にしている人になってしまっている傾向はあるが、タイのような新興国の若年層なら、グローバル人材に能力や資本力が必要ないことがよくわかる。SNSを駆使しながら「私は今東京。あなたが東京にいるなら会いましょう」みたいな感じだよ。


すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 3/4~「自称凡人」の誕生の過程

没頭は「天才の特権」ではない。

没頭する力は誰にでも備わった普遍的な力である。あなたも、かつては「没頭の達人」だったはずだ。そう、子ども時代である。子ども時代は、誰もがあらゆることに没頭しながら生きている。彼らは大人にとってはちっとも面白くないようなことを何十分でもやり続ける。

ただし、「子どもはみんな天才だ」などという甘ったるい言葉には僕は共感できない。子どもが天才なのではなく、これが人の「通常モード」なのだ。ただ、ほとんどの人は成長の過程で没頭を押し殺し、いつしか没頭そのものを忘れてしまうのである。どうして人はこの存在を忘れてしまうのだろう?

そのきっかけを作るのは、親である。

部屋や服を汚したり、遊びに夢中になったりといった幼児の行動を、親は一日中制止し続ける。もちろん、子ども自身に危険が及ぶような行為は止めなければならない。しかしほとんどの親は、幼児の行動を管理する延長で、ある程度大きくなった子供にまで「これをしちゃいけません」「あれをしちゃいけません」という禁止のシャワーを浴びせかける。大半の子供はこの時点で、「そうか、やりたいことをし続けるのは悪いことなんだ」と思い込むようになってしまう。あとは学校の禁止シャワーで仕上げれば、「自称凡人」の誕生だ。

子育ての基本、禁止。嫌だねぇ…。

僕には「好きなことに打ち込むことは悪いことである」という価値観はさっぱり理解できない。「子どもがサッカーに夢中で、サッカーの強い高校に行きたいというんです。でもJリーガーになれる人はごく一部だし、できれば普通の進学校に進んで勉強してほしくて…」この手の意見は耳にタコができるほど聞いてきたが、素直に言うと僕には意味がわからないのだ。

「サッカー選手になれる確率は低いのだから、サッカーにハマるのは無駄だ」。これは裏を返せば、「サッカーをやるからには、サッカー選手にならなければならない」という謎の強迫観念にとらわれているということだ。サッカーという入り口は、サッカー選手という出口にしかつながっていない…とても窮屈な考え方だ。まさに「用意されたレール」式の発想である。いちいち解説するのもおかしな話だが、「サッカーに没頭する」という体験がもたらす可能性は、「プロのサッカー選手になる」ことだけじゃない。もしかしたら彼は途中でサッカーグッズの開発に興味を持つかもしれない。サッカー漫画にハマって漫画家を目指し始めるかもしれない。サッカー部でできた友達と何か関係ない仕事を始めるかもしれない。10年後にはサッカーにまつわるまったく新しいビッグビジネスが生まれており、彼のスキルがたまたまそれに生きるかもしれない。

「土地を持っています。巨大施設は作れなさそうな狭さなので、ラグジュアリーなホテルをここに建てようと思うのですが、周りには競合となりそうな宿泊施設も多いです。堀江さんならどのような方法で差別化を図りますか?」
土地がある。狭さから見てこう言ったことにしか使えない。どうすればそこで勝ち上がれるだろうか。この質問は「ホリエモンチャンネル」でも取り上げ、「順序が逆だ」と指摘した。土地があるからホテルを作るのではなく、「ホテルを作りたいから土地を探す」のが本来の順番だ。

ホリエモンはこの本とは別に、同じことを言っている。

「ニーズなんか、今はそんなにないですよ。」

――一般への普及を度外視した場合、投機以外のビジネスの参入機会もあると思います。FinTechのような融資や保険、送金といった分野では、ビットコインが活かせるビジネスがあるのではないでしょうか。例えば、今までもP2Pレンディングはあったと思いますが、これをブロックチェーンで出来る可能性もあるのではないかなと。
なんで?
――後進国では銀行口座を持っていない人がいて、そういう人たちに支援するのにビットコインは最適ではないかと考えていまして。
それはビットコインじゃなきゃ駄目なんですか?お金を集めるにせよ、ビットコインを持ってる人が全然いないじゃないですか。普通にドル建てでクラウドファンディングした方がいいんじゃないですか?
――銀行口座を持っていない人とか、あとは少額でいいから欲しいって人はいると思います。極論、1,000円でもいいって人はいると思うんです。
そういう人たちはそもそも、ビットコインを受け取るPCも持ってないでしょ。
そうやってビットコインを無理やり使おうとする考えはやめた方がいいですよ。先に問題があって、それを解決するのにビットコインが必要だから使うって考えなきゃ

ビットコイン信者は邪魔でしかない

あなたちょっと、ビットコインにはまりすぎてて、発想がビットコイン原理主義者みたいになっちゃってますよ。ビットコインじゃなくちゃ駄目だ、ビットコインを使わないと、みたいな。無理やりビットコインに結びつけようとしてる。
そういう発想になったら、おかしな方向にしかいかないし、「何あいつ。あのビットコイン野郎、なんなの?」みたいに思われますよ、はっきり言って。そういう現実離れしたよくわからない話は、普及の邪魔にしかなってない。インターネットの黎明期の時にもいたんですよ。あなたみたいな人が。実際に普及させようとしてる人を馬鹿にしてるようにしか見えませんよ。

この対談の相手がどんな人だか覚えていないが、このような「順序逆転現象」、目的と手段の取り違えは、もっと広い範囲で起こっている。同じことを伊賀泰代氏が「イノベーション・エイエイオー」と揶揄している。

2017/04/07 技術が重要なんだけど、技術だけではない現状


すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 2/4~学校と産業革命

「使いやすい労働者」を大量生産する工場

学校はそこに通う人間を、とにかく「規格」どおりに仕上げようとする。建前上は「個性を大切にしよう」「のびのびと育ってほしい」などと言うものの、その裏にはいつも「ただし常識の範囲内で」という本音が潜んでいるのだ。

学校と工場が似ているのは、実は当然のことなのだ。そもそも学校は工場の誕生と連動して作り出された機関なのである。一定の年齢に達した子供を1か所に集め、読み書きや計算を教えるーこうした学校制度の基礎は19世紀、つまり産業革命期のイギリスで生まれた。

読み書きソロバンができ、指定された場所に毎日規則正しく通い、リーダーの指示に耳を傾け、言われた通りの作業に励む。そんなサイクルをこなせる「きちんとした大人」を大量に用意するには、子供のころから仕込むのが一番手っ取り早い。学校はもともと、子供という「原材料」を使って「産業社会に適応した大人」を大量生産する「工場」の一つだったのである。今の学校もこの原則は全く変わっていない。

使用する教科書を国家がチェックするという制度自体、先進国の中では極めて稀である。日本以外で検定制(国定教科書)を採択している国を見ると、韓国や中国、ロシア、そしてトルコやキューバなどの開発途上国が続く。

インターネットがもたらしたものについて、「国境がなくなった」と考えている人は多い。遠い外国の情報を瞬時に、リアルタイムで入手できるようになったと。しかし、インターネットがもたらした本当の衝撃は、国家がなくなることなのだ。僕たちの「〇〇国に住む〇〇人」という意識は着実に薄まっている。一部の年寄りが言うように、日本人が軟弱になったからなんかじゃない。「国はいのちよりも大事なものである」というストーリーに説得力がなくなっただけだ。「日本に住む日本人である」ことよりも、「インターネットがつながっていること」「アマゾンの配達が届く場所であること」「スマホの充電ができること」の方が日々の生存戦略に関わってくる。もちろん、まだ「国」という枠組みは残っている。国家(税金による富の再分配)という機能は今後も残るだろう。だが、それを支える「国民」そして「国民国家」という概念はもはやファンタジーに過ぎない。というより、そもそも想像上の産物なのだから化けの皮がはがれたというべきか。今や「国民」を作るための洗脳装置は不要になった。これから人類は「国」から解き放たれた、真に自由な「民」となるのだ。

うん…そうね。今既に、ほとんど国から解放された民になってる。

グローバルとローカル

ローカル人材の特徴、一つはとにかく保守的な人が多いという点。マイルドヤンキーは、仲間との絆を重んじ、その中に上下関係を作りたがる。どんどん変化していく仲間よりも「はい、兄貴の言う通りです」と付き従ってくれる”子分”を欲する傾向が強い。L人材が好むコンテンツを見れば、その嗜好性は明らかだ。『ONE PIECE』のメインキャラクターたちは、常に仲間のために死に物狂いで戦い、涙する。ジャニーズやAKB48、EXILEといったアイドル歌手が売りにしているのも、歌というよりはむしろグループメンバー間の絆や、ファンとの連帯感の方だ。

もう一つ重要なのは地方の”居心地の良さ”は、非常にもろい条件の上に成り立っている、という事実である。確かに地方は家賃が安く、駐車場代もかからない。少し車を飛ばせば、大型商業施設にたどり着ける。そこに行けば何でも揃うし、遊ぶ手段にも事欠かない。ただ、こうした”楽園”の維持費となっているのは、その地方自体の税収ではなく、地方交付税交付金だ。つまり、大都市圏で働く高所得層の納めた税金が地方に回っているからこそ。地方の居心地の良さは守られているのである。

仮想敵が居ないと生きられないN人材

GにもLにも行けなかった人はN人材になる。N人材は「国家」を生きる人材だ。グローバルな価値観を受け入れられず、さりとてローカルでおだやかに過ごす踏ん切りもつかなかった人たち。つまり、時代の変化についていくことができなかった人たちである。時代の変化に取り残されている人たちの存在は、数年前からはっきり可視化されてきたと思う。例を上げると、2010年頃から、やたらと「日本の素晴らしさ」をネタにするテレビ番組が増えた。ひたすら日本を礼賛する書籍や、逆に中韓への批判を書き連ねた書籍が店に並ぶようになったのも同じころだった

こうしたブームの始まりは、僕がグローバリゼーションの加速を感じたタイミングと完全に一致している。2010年以降、世界規模でスマホの普及率が上がり、インターネット上で世界の人々の連携が進んだ。その中で、変化を恐れる人たちは内にこもり始めた。そして閉じこもる己を正当化するために「どこよりも素晴らしい国、ニッポン」というNのフィクションを作り出したのだ。

「国家」というのは時代遅れの「古い常識」にすぎない。だからそこにしがみつき、居場所を求めている人たちは、メインストリームに取り残され、じわじわと苦境に追いやられる。だがその苦しみの原因がわからず、いつしか「仮想敵」を作り上げてしまう。

日本だけの現象ではない。トランプ支持者とEU離脱はこの現象がグローバルに起きていることの好事例だ。


すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 1/4~支配されるという特権

「何かしたい」けど、「今はできない」人たち

「やればいいじゃん!」 これは僕が口癖のように言っているアドバイスだ。「やりたい」と言いながら、さまざまな言い訳を並べ立て「今はできない」と逃げ回っている人たち。彼らは、大きく2つのパターンに分けられる。一つは「本当に何もやりたくない人」だ。口先では理想を語り、大きな夢を語るものの、本気でそれを実現したいとは思っていない。夢を語っている自分が気持ちいい、というタイプの人たちだ。申し訳ないが、そういう人が本書を読んでも得るものは無いだろう。悪いことは言わないから、今すぐ本を閉じて、もっと心地の良い「夢」を語ってくれる自己啓発書を買った方がいい。

2008/09/23 被支配階級の特権

タルタロス「縛り付けた覚えなどないな。彼らは力で支配されることを望んだのだ
ハミルトン「望んだだと?
タルタロス「そうだ・・・世の中を見渡してみろ。どれだけの人間が自分だけの判断で物事を成し遂げるというのだ?
      自らの手を汚し、リスクを背負い、そして自分の足だけで歩いていく・・・
      そんなヤツがどれだけこの世の中にいるというのだ?
ハミルトン「・・・・・・
タルタロス「貴公らの革命を思い出してみよ。貴公らが血を流し、命を賭けて守った民はどうだ?
      自分の身を安全な場所に置きながら勝手な事ばかり言っていたのではないのか?
ハミルトン「彼らは自分の生活を維持するだけで精一杯だったのだ・・・
タルタロス「いや、違う。被害者でいる方が楽なのだ。弱者だからこそ不平を言うのではない
      不満をこぼしたいからこそ、弱者の立場に身を置くのだ。彼らは望んで『弱者』になるのだよ
ハミルトン「馬鹿な・・・人には自分の人生を決定する権利がある。自由があるのだ!
タルタロス「わからぬか! 本当の自由とは誰かに与えてもらうものではない。自分で勝ち取るものだ
      しかし、民は自分以外の誰かにそれを求める。自分では何もしないくせに権利だけは主張する
      救世主の登場を今か、今かと待っているくせに、自分がその救世主になろうとはしない。それが民だッ!

ハミルトン「人はそこまで怠惰な動物じゃない。ただ、我々ほど強くないだけだ
タルタロス「・・・聖騎士よ、貴公は純粋過ぎる。民に自分の夢を求めてはならない。支配者は与えるだけでよい
ハミルトン「何を与えるというのだ?
タルタロス「支配されるという特権をだッ!

俺はこれを何度引用したことかw

教育は、よく「投資」にたとえられる。子供たちへの教育は未来への投資だとか、社員教育は会社にとって投資であるとか、スキルアップのための自己投資と言ったフレーズは、あなたもしばしば見聞きするだろう。僕ももちろん、「学び」はそれぞれにとっての投資であるべきだと思う。投資とは、投資した側へのリターンが発生すること、すなわい投入した資本がそれ以上に大きな価値を社会に生み出すことを言う。だが、今の学校教育は「投資」になっていない。いざという時に引き出すための「貯金」にとどまっているのだ。

貯金の本質は我慢である。そして99%の我慢は、ただの思考停止にすぎない。一方、投資の本質は先読みだ。自分が何を求め、どんな社会でどう生きたいのか考え抜くことが求められる。

メディアはこぞって「あれだけの高学歴で、なぜ新興宗教に?」と大騒ぎしていた。世界的エリートになるはずの者たちが、あんな宗教にダマされるなんてわけがわからない、というわけだ。僕の目に映る彼ら学校教育のエリートは、「洗脳されることに慣れた人たち」だった。もともと洗脳に慣れた人たちが、信仰先を変えただけ。彼らは結局、出家と称して世俗から離れた後も、「親のようなもの」を求め、「学校や会社のようなシステム」を欲し続けていたのだ。これらの欲求の根っこにあるのは「目上の人に認められるのは良いことだ」「与えられた環境で我慢(修行)し、上の位を目指すべきだ」といった、誰もが抱えるごくありふれた思い込みーそう、「学校で教えられた常識」である。

僕は宗教には何の興味もない。肯定も否定もしない。それによって幸せになれると思うのであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。はっきり言って、幸せになれる確率が低すぎる。その理由もおいおい述べよう。残念ながら普通に暮らしている限り、「常識」という教義の危険性に気づく機会は少ない。それは「常識」の洗脳が、国家ぐるみで行われているからだ。国家は全国に46,000箇所もの”出先機関”を設け、この国で暮らす人たち全てをその魔の手にかけている。その出先機関とは「学校」だ。

学校にとっては知識など、添え物程度の意味しかない。学校はただ、ゆがみきった「常識」を植え付けるために存在する機関なのである。ここで簡単に「知識」と「常識」の違いについて触れておこう。知識としては、原則として「ファクト」を取り扱うものだ。主観の一切入り込まない事実に基づく知。それが知識である。一方、常識とは「解釈」である。主観の入りまくった、その時代、その国、その組織の中でしか通用しない決まりごと。それが常識である。

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なんでお店が儲からないのかを僕が解決する

行き詰っている店主が必ず口にすること

悩みとして必ず出てくるトップ3は決まっている。「食べログ」「ドタキャン」「人材確保」だ。

なぜ食べログが「悩みの種」になってしまうのだろうかというと、「あることないこと」とは言わないまでも、重箱の隅をつつくような小さな問題を論い、低い点をつける人がいるからだ。

ホテルのレビューも同じだ…。俺が泊まるような安いホテルに対して、古い、汚い、朝食がまずい、などと書いている奴が多いので、レビューは見ないことにしている。

若者に辞められないために、一つ考えられるのは給料を上げることだ。そんな財源はない?ないなら作るしかない。彼らは十分な給料、ボーナス、福利厚生を与えるために、価格を上げるのだ。「安い値段で料理を出して、お客さんに喜んでもらいたい」と言うけれど、誰かが犠牲になってまで安い料理を出すのは不健全じゃないか?

「お客さんが来ない」と頭を悩ませているお店に多いのが、「いいものを誰もが食べられる値段で」という価格帯だ。値付けの問題というよりも、料理と価格への思い入れが強すぎて失敗している。出したいものは上を見ていて、価格は下を見ている。これは必ずしわ寄せが出るパターンだ。

しわ寄せはデフレの原因として日本を全体を覆っている。飲食店だけの問題ではない。金融政策以上に、このデフレマインドが強烈に効いているというのが私の意見だ。見かけ上の値上げに過剰反応する国民性なんだ。お値段据え置きで量を減らす。わざわざパッケージを作り直すコストを考えれば値上げが効率が良いのだが、消費者が過剰反応しすぎるので、できない。

きちんとした経営のお店にとってはクレジットカードの控えによって入金管理できるのは、手数料以上にいいところがある。入金が間違えようがなく管理され、自動的にリスト化される。忙しい営業が終わった後にこまごまと計算機を叩く必要なく、だ。またドタキャンの問題解決にもつながるけれど、顧客管理ができる。カード番号から得られる情報は多く、キャンセルが多くお客さんのチェックも可能なはずだ。オンライン予約と連動させていけばキャンセルフィーを請求することもできる。

「現金のみ」で怪しい小遣いを手に入れるのもいいけれど、まったくスマートじゃない。クレジットカード払いを積極的にすることは、お客さんの利便性だけではなく、お店の利便性にも必ずつながる。原始的なところだと、アルバイトがお釣りをちょろまかすなんて言うことも一切心配しなくてよいのだ。

規制の緩さが日本のレストランを育てた

日本は様々な規制が厳しいといわれている。しかし、飲食業に関しては、世界レベルで見ると実はとてもゆるい国だ。パリやロンドンで新しいお店を出そうと思ったら、まず場所の確保が難しい。建築基準が厳しくて、高層ビルがそうそう建たないから場所の空きがないことが大きい。高層ビルがバンバンできてお店を大量に誘致する東京は、状況がまったく違う。また、欧米では酒販ライセンスが非常に難しい。アメリカなら州によって異なるが、エリアや時間帯によって細かく規制されている。お店ができあがっているのに「酒販ライセンス待ち」になったり、結局取れずにお酒を出すことができないお店も多いのだ。衛生面では日本が厳しいと思いきや、そんなことはない。たまたま生レバーやユッケに関しては規制が設けられているけれど、基本的に食品衛生責任者の講習を一人が受ければ良いという形になっている。シンガポールだったら、ウェイターになるのでも同等のテストをパスしなければならないそうだ。日本では考えられないがニューヨークでは寿司を素手で握ったお店が州の衛生法に抵触したという理由で罰せられた。

そういった事情を知る人が訳知り顔で「日本ももっと規制を強化して悪徳業者を一掃しよう」なんていうツイートや発言をしているのを見聞きするけれど、大間違いだ。規制がゆるくて、「誰でもお店を出せる状況」だからこそ、日本の飲食業界は多種多様に発展し、こんなに面白いんじゃないか。

バンコクが安く楽しいのは規制が緩いから、とは思っていたけど、確かに東京もパリよりは規制が緩そうだ。漫画の発展も、「漫画なんか書いているヤツは遊びだから、彼等の労働を守ってやる必要がない」という差別意識が、規制のない自由な競争を促し、世界に対する競争力を持っている面もあろう。労働者を過剰に守る労働基準法は日本のガンだと思っているが、漫画の世界にはそんなもんはねぇ。

現代のコミュニケーションツールを使って産地と直接「つながる」

何よりも大きいの仕入れ。「毎日築地に行く」なんて自慢にもなりはしない。現在のコミュニケーションツールを使えば、産地直送でいくらでも魚や野菜を買えるのだから。直接取引になるのでコストが抑えられるのは当然。流通もよくなっていて、あっという間に新鮮なものが必要な量だけ届けられる。築地のヒエラルキーは厳しく、いいものや貴重な素材は、当たり前のことだが長い付き合いの料理人に渡される。そのヒエラルキーもすっ飛ばせるのが産直との一から作るつながりなのだ。

小さな店なら使う量も知れているだろうから、少ししか取れない貴重なものを送ってくれたり、走りの素材、ときには「他の人は使わないけど、実はおいしいんだよ」と、チャレンジアイテムも喜んで送ってくれる。これは、大規模経営では不可能なやり取りだ。わからないことがあったら「試してみたいけど、どうやって食べるとうまい?」と聞けば、きっと新しい料理のヒントをくれる。

日本はそもそもロジスティクスに強い国だ。インターネットを駆使し、コミュニケーションツールを持つ世代には、前時代の料理人や生産者には真似できない広い世界が広がっている。

私でも石巻でやれることだ。ビジネス目的ではないが、直接生産者とのコンタクトはできる。

職人にしか作れないものは作るな

職人技、職人仕事というとても耳障りが良いのだけれど、実際にビジネスになると決して歓迎すべき言葉ではない。この考え方で成功したのが「牛角」。肉は切り方でおいしくもまずくもなるが、それまで焼肉業界でも「職人」が肉を切り出して、その方法は公表することなく高級外食として君臨していた。「牛角」はそのような肉の切り方を完全マニュアル化、アルバイトでも肉が切れるようになり、こうすることでコストを大幅に削減することができた。これは焼肉業界にとって革命的な出来事だったと思う。

2017/04/21 抵抗勢力、イノベーションを拒む人々 
2017/01/27 三田氏を斬るシーズン3 5/9~トレーディング業務でのAI活用

で既に同じことを述べている。

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バフェットからの手紙 第4版 6/6~会計制度に全てを求めてはならぬ

しかし、もしみなさんが資本集約的な企業の株の100%を過去10年間持っていたならば、標準的な会計方法で完全に、そして入念な厳格さで計上される留保利益はわずかばかりか、あるいはゼロの経済上の価値しかもたらしていなかったでしょう。会計方法に対する批判をするためにこう述べているのではありません。私たちはより良い会計方法を開発する作業をしたいとは思いません。会計上の数値は、企業評価の始まりであって終わりではないということを経営者と株主は理解すべきだということを申し上げたいだけです。

純利益の危うさ、これは会計上の数値は企業評価の始まりと言えば良いのか。

現在、FASB(会計基準審議会)はプーリング法をやめる提案をしており、多くのCEO(最高経営責任者)が争う構えを見せています。これは重要な争いになると思いますので、私たちはあえていくつか意見を述べておきます。まず、のれんの償却費用はたいていまやかしだとする多くの経営者の意見には賛成です。現実と反しているような償却を会計原則で義務付けることは通常極めて厄介です。ほとんどの会計上の費用は、たとえ正確に測定されないとしても、実際に起こっていることに関連するものです。例として、減価償却費によって有形資産の価値の低下を測定することはできませんが、これらの費用は少なくとも実際に生じていることを説明しています。有形資産の価値は常に下がるものなのです。同様に、棚卸資産の減耗費、焦げ付いた売掛債権の償却費、保証料の発生などは実際の費用を反映した費用です。これらの費用の年間発生額は正確に測定することはできませんが、見積もりを行う必要があることは明らかです。 

対照的に、経済的のれんの価値については多くの場合、低下することはありません。たしかに、時間の経過とともにその価値が実際には上昇することが非常に多い―恐らくはほとんど―のです。経済的のれんは性質上土地とよく似ています。両方の資産の価値は間違いなく変動しますが、その変動の方向性はまったく定まっていません。たとえばシーズ社の場合、経済的のれんの価値は7、8年間にわたり不規則ながら極めて着実に上昇してきました。また、私たちが事業を適切に運営すれば、このような成長は少なくともさらに7、8年間は続くでしょう。 のれん費用というフィクションから抜け出すために、経営者はプーリング法というフィクションを利用します。

エンロンの会計操作よろしく、連結対象にするとのれん費用の償却が発生するが、売買目的有価証券に入れた瞬間に、時価評価。

この会計原則は、二つの川が合流する場合、その流れは区別できなくなるだろうという空想的な考え方に基づいています。この考え方において、企業はより大きな会社に合流するのであって、「買われた」などということはないのです(たとえ多くの場合、巨額の「売却」プレミアムを受け取るとしても)。したがって、のれんが生じることはなく、これによる面倒な費用も発生することはないのです。その代わり、存続する企業の会計は、事業がずっと一つの企業で行われてきたかのように処理されるのです。 空想はこれまでにしましょう。合併の現実は通常はるかに異なります。買収する側とされる側が紛れもなく存在し、取引がどのような形をとっていたとしても後者は「買われる」ことになります。そうではないと思われるのであれば、仕事を奪われた従業員にどちらの会社が征服した側でどちらが征服された側だったのか尋ねてみてください。誤解の余地はないでしょう。したがって、この点においてFASBは正しいのです。大半の合併において購入が行われてきました。なるほど、本当に「対等の合併」というのも幾つかあります。しかし、それはごくまれなことです。 マンガーも私も、購入を正確に記録したいと望むFASBを満足させ、同時にのれんの減少という無意味な費用に対する経営者の反論にかなうような現実的な方法があると考えています。まず、買収する側の会社に購入価格を―支払いが株式か現金かにかかわらず―適正価値で記録させます。

ほとんどの場合、この手続きによって経済的のれんを示す巨額の資産が計上されることになります。その後、この資産は帳簿に残したままとし、償却は求めません。その後、経済的のれんの価値が損なわれた場合は(時としてそのようなことは実際に起こりうるのですが)、ほかの資産について価値が損なわれたと判断される場合と同じように償却を行うのです。 私たちの提案する原則を採用する場合には過去にさかのぼって適用し、買収の会計処理をアメリカ国内で一貫性のあるものとすべきでしょう―現在の会計原則とは大違いです。一つ予想しておきます。この計画が実行されれば、経営者は買収をもっと賢く組み立て、会計上の利益に関する非現実的な結果ではなく、株主に実際にもたらされる結果に基づき現金を使うべきか株式を使うべきかを決めることになるでしょう。


バフェットからの手紙 第4版 5/6~ファッションで株を買う経営陣

5章 合併・買収
A.ひどい動機と高値

私たちの買収の決定は、現実の経済的利益を最大にすることを目的としたものであって、事業領域や会計上の数字を最大にすることを狙ったものではありません(長い目で見れば、経済的な実体以上に会計上の見栄えを重視する経営者は、ほとんどそのどちらも達成することはできません)。即座に収益に影響するかどうかは分かりませんが、素晴らしい企業Tの株式を1株当たり2Xで、100%購入するより、私たちは1株当たりXで10%を買う方を選びます。たいていの企業の経営者はまさにその反対のやり方を好み、その行動を正当化する理由は無限にあるように思われます。

武田の役員さーん、全株取得の正当性ホントにあったのかな?

フォーチュン500に入る企業の経営者の一人に、彼の会社がその有名なリスト上のどのあたりに位置しているか聞いてみると良いでしょう。すると必ず、売上高ランキングにおける順位そのままの数字を答えるはずです。しかし、収益性によるランク付けを尋ねたら、彼は自分の会社がフォーチュンのリスト上のどこに位置するのかは答えられないと思います。

私も同意見だ、前から
「素人は、株を買う時でさえ、商品と売上ばかりに注目し、収益構造と純利益を見ない。」
と言っているが、日経新聞の論調も例外ではないな。

新設された企業や創立から間もない企業が過去10年間に生み出した真の価値は膨大な額に上り、これから先もさらに価値が生み出されることについて私たちも喜んで認めましょう。しかし、中間時点の価値がどれほど高くても、企業の存続期間全体では損失が生じているのであれば、価値は生み出されるのではなく、損なわれてしまうのです。このような場合、実際に起きているのは富の移転であり、それも大規模なものであることが多いのです。最近、プロモーターは、恥知らずにも鳥のいない藪を売買することで、何十億もの資金を一般大衆の懐から自分の財布(さらには友人や同僚の財布)へと移しています。バブル市場がバブル企業を誕生させたというのが事実です。バブル企業は、投資家のため利益を生み出すことよりも、投資家から利益を吸い上げることを目的に作られたものです。企業のプロモーターにとって、最大の目標は利益ではなく、IPOとなっている場合があまりにも多く見られます。実際のところ、こうした企業の「事業モデル」は時代遅れのチェーンレターであり、報酬に飢えた投資銀行家が熱心な郵便配達人の役回りを演じているのです。

しかしあらゆるバブルにはそれを弾けさせる針が待ち構えています。そして両者が最終的に出会ってしまった時、新たな投資家たちは昔ながらの教訓を学ぶのです。第一に、ウォール街の輩たちの多くは-そこでは品質管理が褒められることはありません-、買ったものを全てを投資家に売りつけるということです。第二に、投機というのはたやすくできるように見える時が一番危ない、ということです。

私の中のバブル信号、IPOの数はそのうちの一つ。


バフェットからの手紙 第4版 4/6~民が陥りがちな過ちの数々

買おうとしている資産の将来の利益ではなく、価格変動に注目しているのならば、それは投機です。

みなさんは生涯を通してハンバーガーを食べたいと考えましたが、ご自身では家畜を育てていません。さてこの場合、牛肉の価格は上がってほしいと思いますか?それとも下がってほしいと思いますか? みなさんがこの先5年間にわたって蓄えを増やしていくとします。あなたはその間株式市場が値上がりしてほしいと思うでしょうか。それとも値下がりしてほしいと思うでしょうか。多くの投資家がこの答えを間違います。今後、長い間株式を買い越すにもかかわらず、株価が上がれば喜び、株価が下がれば悲しむのです。つまり、これから買うことになる「ハンバーガー」の価格が上がったと言って有頂天になっているわけです。こうした態度はバカげています。

インプライドボラティリティとかけて、俺の相場観ととく、その心は、いつも下落を期待して笑ってる。うーん、今一つ面白くないな…。

リーマンショック以降上がり続ける株価を見てて、憂鬱になっている今日この頃。

当時の私は、どの組織でも優秀で知性と経験豊かな経営者が合理的なビジネス上の判断を行っているものと思っていたのです。しかしその後、そうでは無いと気がつきました。現実には組織由来の旧習が動き始めると、おおむね合理性の出番はもうないのです。それ例は以下のようなものです。

①ニュートンの運動の第一法則に支配されているかのように、企業は現状の方向をかたくなに守ろうとする。
暇の時間を潰すために仕事を増やすかのように、企業は事業計画や買収計画を実行して手持ちの余裕資金を使い尽くす
③トップが入れ込んでいる事業は、それがどれほどバカげたものでも、部下たちによる収益上、あるいは戦略上の詳細な分析によって迅速にサポートされる。
④事業拡張、買収、役員報酬の設定など何であれ、同業他社が行えば、企業は無意識に追従する

イッテー…なんかほとんどすべての大手企業に当てはまりそうな厳しいご指摘w

特定の通貨建てのマネーマーケットファンド、債券、モーゲージ、銀行預金、その他のインカム性の投資、こうした投資対象の大部分は「安全」であるとみなされています。しかし、こうした商品は実際には最も危うい資産です。こうした商品が期日通りに利払いや元本の償還を続けていたとしても、多くの国々の投資家は過去100年の間にこれらの商品に投資していたことで購買力を失ってきました。さらに、こうした悲惨な結果は絶えず繰り返されていくでしょう。お金の最終的な価値は政府が決定します。金融システム上の力学から政府は場合によってはインフレを生み出すような政策に走ってしまうことがあります。このような政策は時として制御が聞かなくなってしまうのです。通貨の安定を強く願っているアメリカですら、私がバークシャーの経営を引き継いだ1965年以降、ドルは86%という驚くほどの下落を示しています。当時私たちが1ドルで買っていたものは、今や少なくとも7ドルはかかります。課税企業の場合、状況はさらに悪いものでした。この同じ47年間、継続的に発行されてきた米財務証券の利回りは年率5.7%でした。これは十分だと感じられるかもしれません。しかし個人投資家が平均25%の所得税を納めているとすればこの5.7%のリターンは実質所得の面では何も生み出していないことになります。投資家にとってはっきりしている所得税によって利回りのうち1.4%がはぎとられ、さらに表面的には分からないインフレという税金によって残りの4.3%が失われるのです。

金利信仰に対する良い事例です。

LTCMが利用していた金融派生商品の一つはトータルリターンスワップでした。これは株式など様々な市場において100%のレバレッジを利用する取引です。例えば取引の当事者A(通常は銀行です)は株式の購入に必要な資産を全て拠出し、当事者Bは資金の拠出を一切せずに将来ある時点で銀行が実現した利益を受け取るか、損失を支払うことに合意するというものです。この種のトータルリターンスワップは取引証拠金制度を無意味なものにしてしまいます。そのうえ、他の種類の金融派生商品によって、規制当局がレバレッジを抑制し、銀行、保険会社およびその他の金融機関のリスク特性を全般的に把握する能力は著しく低下してしまいます。

デリバティブは規制や会計や税制を飛び越えてしまうなぁ…。


バフェットからの手紙 第4版 3/6~ローカル産業たる鉄道・電力事業

私たちが保有する2つのとても大きな事業であるBNSF(バーリントン・ノーザン・サンタフェ・レイルロード・コーポレーション)とミッドアメリカン・エナジー(後にバークシャー・ハサウェイ・エナジーに社名変更)は、他の多くの事業とは違った重要な共通の特性を有しています

両者に対する規制は非常に多く、どちらも工場や設備への大規模な投資ニーズは尽きることがありません。またいずれの会社も地域の評判を高め規制を遵守するために効率的で顧客に満足を与えるサービスを提供する必要があります。その代り、両社は将来の資本投資によって合理的と考えられる利益を獲得することが確実に認められるべきです。

鉄道はわが国の将来にとって不可欠のものです。鉄道はアメリカの都市間貨物輸送の42%(トン/マイルで測定)を担っており、BNSFは他の鉄道会社よりも多くの量-業界全体のおよそ28%を扱っています。ざっと計算すればアメリカ全体の都市間輸送の11%以上をBNSFが担っているのです。人口が西部に移っていることを考えると、私が引き受けている割合は若干高まっているかもしれません。23,000マイルに及ぶ線路とそれに付随する橋やトンネル、エンジンや車両を絶えず維持し、改善していかなくてはなりません。

ミッドアメリカンは240万のアメリカの顧客に電力を供給しています。アイオワ、ワイオミング、ユタは最大の事業者で、他の州でも重要な電力供給会社として営業しています。また私たちのパイプラインでは、アメリカの天然ガスの8%を輸送しています。ミッドアメリカンは2002年にノーザン・ナチュラル・ガス・パイプラインを買収しました。その直後において同社のパイプラインとしての業績は43社中最下位でしたが、最近発表された報告書では第2位となることができました。ちなみに第一となったのは私たちが保有する別の会社のカーンリバーです。電力事業についてはミッドアメリカンと比較できる記録があります。私たちはアイオワ州の会社を1999年に買収していますが、それ以降、アイオワ州では電気料金を上げていません。アイオワ州の他の主要電力会社は同じ期間に70%以上の料金を引き上げ、今では私たちの料金を大きく上回っています。

ちゃんと調べてないんだが、ロックフェラーやエンロンの本を読んでいると、アメリカにも、

旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律
電力事業法

に似た法律があるっぽい。地域独占と価格統制を利用して、ロックフェラーやエンロンは鉄道利用料のリベートや電力トレーディングを行っていた。はっきり書いてないが、バフェットもそこを突いてるな。

鉄道や電力・パイプラインは、土地にべったり張り付いているので、グローバルな競争や新規参入に悩まされることがない。航空機の時代に鉄道?と私なら思ってしまう所だ

サーバンス・オクスリー法が2002年に成立したとはいえ、現実が大きく変わることは見込まれません。監査委員会が監査役の逃げ場をふさぎ、彼らが知っていることや疑わしいと考えていることをはっきりと述べなければ多額の違約金を支払うことになると理解させなくてはならないです。監査委員会がその使命を遂行するには監査役に記録すべきことや株主に報告すべきことに関する4つの質問を投げかけてみることだと私は考えます。

1.監査役が会社の財務諸表の作成についてのみ責任を負う場合、多少なりとも経営者が選んだ方法とは違うやり方で作成を行ったことがあるでしょうか。それは大きな違いであるか些細な違いであるかに関わりません。監査役が何か違ったやり方を取ったのであれば、経営者の論拠と監査役の責任の両方について明らかにしなくてはなりません。その上で監査委員会が事実を評価します。
2.監査役が投資家である場合、彼は報告対象機関の会社の財務的業績を理解するために不可欠な情報について-分かりやすい言葉で-説明していたでしょうか。
3.会社は、監査役自信がCEOであったなら従うものと同じ内部監査手続きに従っているでしょうか。そうでなければ、その違いはどのようなものであり、なぜそれを採用したのでしょうか。
4.監査役は-会計面あるいは業務面のいずれかで-収益や費用をある会計期間から別の会計期間に移すことを狙った、あるいはそうした効果が生じる行為に気づいているでしょうか。

監査役は追い込まれれば自分の義務を果たすでしょう。追い込まれることができなければ、結果は見ての通りです。


バフェットからの手紙 第4版 2/6~質の良い株主様に持っていただくために

株式分割はアメリカ企業におけるありふれた行動であるが、バフェットは、これが株主の利益を損なうことを指摘している。

①株の売買の回転率を上げることによって取引コストが上昇すること。(取引手数料とAsk Bid Spreadのこと)
②株価ばかりにとらわれた短期的で市場志向の株主を引き付けること。
③その両方の結果として株価は企業の内在価値と乖離すること。

単元株価格を下げたり、株主優待などの政策には、私も反対だ。バークシャーのクラスBに相当する種類株、議決権のない優先株は最低取引価格をどんどん下げ、誰でも取引できるようにし、普通株の最低取引単位は、1000万円以上とならば、株主総会で不毛な質問をするゴミ株主を一掃できる

総会が非生産的なものとなる原因は、多くの場合、企業の問題よりも自分が壇上で話すことばかりに気を取られるような出席株主にあります。ビジネスに関する討議をすべき場が、素人芝居、恨みのはけ口、あるいは議論を擁護するための場と化してしまっているのです。(これはどうにもならない現実です。人は株価を払った見返りとして、話を聞かざるを得ない立場の顧客に対して、いかに世界を動かすかについて得々と語るものなのです)。こうした状況の下、自分自身にしか関心を持たない株主の常軌を逸した言動によって、企業に関心を持つ人々の出席率は下がり、総会の質は年々、低下の一途をたどっているのです。

アメリカでもいっしょか。国を問わない、民の習性のようだ。

もしストックオプションが役員報酬でないとしたら、それは一体何なのでしょうか。もし役員報酬が費用でないなら一体何なのでしょうか。もし費用が企業の利益の算出上、無視してよいとするならば、どこでそれを計上したらよいのでしょうか」。

むぅ…、株主に対して誠実な会計制度を…。バフェットはこんなことも指摘していたのか…。

取締役会のメンバーとしての必須条件は、事業に精通し、自分の職務に関心を持ち、株主本位に行動することです。ほとんどの場合、単に彼らが有名であるとか、毛色の違う人間を加えるためといった理由で、取締役が選任されています。この慣習は正すべきです

なんか…、これみんな読んだほうが良いんじゃないかな…。

ほとんどのCEOのみなさんは子供たちの資産の受託者又は隣人として喜んで迎えていただけるような人々です。しかしCEOのなかには、近年職場で良くない行動をとるものがあまりにも増えており、数字をごまかし、さほど良くもない業績に常識を外れた報酬が支払われています。とてもお行儀のよい人達が集まる会議室で、CEOを交代させるべきかどうかという問題を提案することはほとんど不可能です。同じようにCEOがOKを出した買収の提案に疑問を投げかけることも気まずいものです。特に、内部のスタッフと外部のアドバイザーが出席し、口を揃えてCEOの提案に賛成しているのであればなおさらでしょう(もし賛成していなければ会議室には居ないでしょう)。

ソフトバンクのアーム社の買収金額に対して社外取締役永守さんが異議を唱えたのはとても健全な例ですね。永守さん自身も「意見の相違があるのは問題では?」と問われて、「孫さんに賛成だけするならば私がここに座っている意味がない」と極めてまっとうなことをおっしゃっていました。

バークシャーが株式を保有することで、最高の取締役ですらさらに効率を高めることができるかもしれません。第一に私たちは通常CEOの仕事とされているような儀礼的で非生産的な活動を全てなくしています。バークシャーの取締役は全体として自らの仕事に専念しています。第二に、私たちが取締役に与える使命は単純です。会社を経営する際には、

①自らがその会社を100%保有していると考える。
②その会社があなたやあなたの家族が持つ資産のすべてであり、この先もそうであると考える。
③少なくとも一世紀の間はその会社を売ったり、合併を行ったりしてはならない。

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バフェットからの手紙 第4版 1/6~進まないガバナンス向上

バフェットとバークシャーは予言を書かない。予言は悪しき慣習であり、しばしばほかの企業経営者が年次報告書に化粧を施す原因ともなっている。

株価の予言をしない。意味無い。

CEOと取締役会の間には慣習的になれ合いの関係が存在するため、取締役会が上司的な役割を果たすことを期待できないことである。これらの主な、解決策として、経営陣のストックオプションを与えることが一つの優れた方法としてもてはやされる一方で、取締役会の機能の重要性も説かれているのである。取締役会の会長とCEOを別個にして機能を切り離すこと、監査や任命権、報酬決定に関する永続的な委員会の設定も、功を奏すであろうという。

SOX以前の手紙ですね。企業統治の向上を目指して法を常に改正し続ける。そして、日本もそれに追随して委員会等設置会社なるものがある。そこでこの話を思い出す。

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遠藤周作 沈黙より

もう一つ注意しなければならないことは、トモギ村の連中もそうでしたがここの百姓たちも私にしきりに小さな十字架やメダイユや聖画を持っていないかとせがむことです。そうしたものは船の中にみなおいてきてしまったというと非常に悲しそうな顔をするのです。私は彼らのために自分の持っていたロザリオの一つ一つの粒をほぐしてやらねばならなかったのです。こうしたものを日本の信徒が崇敬するのは悪いことではありませんが、しかし何か変な不安が起こってきます。彼らは何かを間違っているのではないでしょうか。

なんのつながりがあるのか意味がわからないか? バードレの物質文明に一神教を布教することに対する漠とした不安。これは伏線だ。

日本における「コーポレート・ガバナンスの向上」とかけて、「キリスト教の布教活動」ととく。その心は?

「20年間、私は布教してきた」 フェレイラは感情のない声で同じ言葉を繰り返し続けた。「知ったことはただこの国にはお前や私たちの宗教は所詮、根を下ろさぬということだけだ」「根を下ろさぬのではありませぬ」司祭は首を振って大声で叫んだ。「根が切り取られたのです」

この国者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼らの神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思い込んでいた」

「バードレは知るまいが、五島や生月にはいまだに切支丹の門徒宗と称する百姓どもがあまた残っておる。しかし奉行所ではもう捕える気もない」
「なぜでございます」と通辞が聞くと、
「あれはもはや根を絶たれておる。もし西方の国々からこのバードレのようなお方が、まだまだ来られるなら、我々も信徒たちを捕らえずばなるまいが…」と奉行は笑った。「しかし、その懸念もない。根が立たれれば茎も葉も腐るが道理。それが証拠に五島や生月の百姓たちがひそかに奉じておるデウスは切支丹のデウスとしだいに似ても似つかぬものになっておる。やがてバードレたちの運んだ切支丹は、その元から離れて得体のしれぬものとなっていこう。」
そして筑後守は胸の底から吐き出すようにため息を漏らした。
「日本とはこういう国だ。どうにもならん。なあ、バードレ」

ガバナンス向上とセットで「沈黙」を引用するこの笑いのセンス。かなり自信作なんだけど笑ってもらえた?


食と文化の謎 7/7~最善採餌理論

ミルク・ゴクゴク派と飲むとゴロゴロ派

ロバート・ロウイーの本に出会うまで、私はミルクについて何も知らないも同然だった。彼は有名な人類学者で、人間の「気まぐれで不合理な」食慣習の事例をいろいろ集めるのが好きだった。ロウイーは「中国人、日本人、朝鮮人、インドシナのひとびとがミルクを飲むことに深い嫌悪感を持っているという、驚くべき事実」を発見した。私もびっくりした。中華料理の愛好家であり、よく食べに行く私としたことが、中華料理にメニューにミルク料理が一つもない、ということに全く気が付かないでいたのである-魚や肉料理にクリームソースが使われていない、チーズものっていなければスフレもない、野菜、麺、ご飯、まんじゅうにバターが使われていない。

ラクターゼ不受容の地理的分布を眺めてみれば、中国人やほかの東アジア、東南アジアの人々がなぜミルクを嫌悪するのか、まったく自明なことのように思われる。つまり、彼らはラクターゼ欠乏であり、消化できないからミルクを嫌ったのだ。この点に関して中国人はなぜインド人と違っていたのか。東洋で酪農を嫌った地域ではインドの農耕システムのような動物を使ったスキ耕作に依存しない、集中的灌漑農耕が行われていた。インドのように大量の使役動物を村の中や近くに飼っておく必要のなかった中国では、雄牛を生ませるために大量の雌牛を飼う理由などなく、それゆえ、動物を農耕に使う副産物としてそのミルクを利用しようなどという気は、まったく起きなかった。

昆虫栄養学

生態学者は、最善採餌理論というものを考えだした。この理論は、動物は、手に入れられるものの中でもっともコスト/ベネフィット比のよい「お徳用」食料を選んでいることを言っていると同時に、特定の食物がどういう条件になるとコストがかかりすぎるようになって、採集したり捕まえるのに割が合わなくなるのかを正確に算定する方法も示している。最善採餌理論によれば、狩猟者、あるいは採集者は、捕獲採集に費やす時間に対して、獲得できるカロリーの比率が最も高い種類のものだけを、捕まえたり集めているであろう、という。

実例で説明すると、いま、ある森に野豚、アリクイ、コウモリの三種だけがいるとする。さらにその森で探し回っての豚を見つけるのに4時間かかり、処理(しとめ料理その他にする)に2時間必要で、カロリーが2万だと仮定してみる。さてアリクイの処理時間も同じく2時間で、しかしカロリーの見返りは1万だけの場合、狩人はアリクイに出会ったら追いかけるべきであろうか。

4時間の探索で野豚しか得られなかった場合、狩人のカロリー収益は

20000カロリー/(4時間+2時間)=3333カロリー/時間

狩人がアリクイも捕まえることにしたら

(20000+10000)/(4時間+2時間+2時間)=30000/8=3750カロリー/時間

3750カロリーは3333カロリーより多いのだからアリクイを見逃す手はない。コウモリの場合はどうか。コウモリの「処理時間」も同じく2時間、しかしカロリー収益は500だけだとすると、狩人はコウモリを取るべきか。

(20000+10000+500)/(4時間+2時間+2時間+2時間)=30500/10=3050カロリー/時間

ダメ。アリクイかの豚を追いかけるのをやめてコウモリをつかまえることにしたら、「時間の浪費」になる。この説は、ある食品-たとえば昆虫-の多寡が、食物「リスト」のなかで占めるその食品の位置にどんな影響を与えているのか、という問題を考えるとき、とくに興味深いものがある。全体のカロリー収益率を下げるような食品は、それがどんなに豊富になろうと、リストに加えられることはない。上位の食品の多寡のみが、そのリストにのる食品の数をかえる。

昆虫は捕まえやすく、重量当たりのカロリーとタンパク質の収益率は高いかもしれないが、大型哺乳類や魚に比べて、また、げっ歯類、鳥類、ウサギ、トカゲ、カメなどの小型脊椎動物とくらべても、大部分の昆虫の場合、それをつかまえ、料理して得られる益は非常に小さい。それゆえ、大型脊椎動物を手に入れる機会が少ない社会ほど、食物品目の幅が広く、そして昆虫類をたくさん食べるのではないかという予想がたてられる。

人肉食の原価計算

人間を食べる人たちが獲物の人間をどうやって調達しているのか、という問題をまず処理しておかなければならないのだ。基本的に食用の死体を手に入れる方法は2つある。食べる人間が食べられる人間を強制的に狩り集め、捕獲し、殺すか、自然死した縁者の死体を平和的に獲得するか、のどちらかである。暴力的手段による死体の獲得は、戦争の一側面である。

多くの部族社会や村落社会で葬制の慣習によって親類の遺体の一部を食べなければならないといっても、それは、たいてい、死者の灰や炭状になった肉、あるいは臼でひいた骨粉である。そんなわずかな量では蛋白質やカロリーの足しにはほとんどならない。もっとも熱帯地域では、骨や灰の摂取は、希少ミネラルをリサイクルする重要な手段であったろう。平和的に獲得する死体が潜在的に持つ食料としての価値に無関心なのは、一つには、そのような食糧の非効率性と健康に対する有害性のためだと考えられる。非効率であるというのは、自然死の場合、たいてい死ぬまでに体重をかなり減らしており、肉があまりに少なく、料理するのにかかる費用を賄えるほど残っていないからだ。健康に有害であるというのは、そういう死体は伝染病の病気にかかっていることがよくあるからだ。これと反対に、戦争で殺したり捕獲したものは、そうした運命に遭遇するまで、良い栄養状態、健康でいた可能性が高い

どの社会でも厳しい制裁があることが、第一次集団内の成人成員が互いに殺し合い食べたりしないようにする防波堤になっている。実際のところ、近親者を殺して食べてはならないというタブーは、人間が集団で暮らし、日々助け合っていかなければならないとしたら、最も基本的な前提条件である。このタブーは、カニバリズムが力ずくで捕獲した死体に対して行われるのであるなら、その死体は社会的に遠い人間-よそ者や完全な敵-のものでなければならない、ということを必然的に意味している。

戦争カニバリズムのコストとベネフィットの予備的概算を少し行ってみよう。戦争を肉獲得のための組織された一つの狩猟形態として見てみると、コストがベネフィットをはるかにオーバーしている。人間は大型動物ではあるが、数匹を捕まえるだけでも莫大な労力がかかる。狩られるほうも、狩るほうと同じくらい機敏で逃げ足が速く、狩についてよく知っている。また獲物動物として、人間はもう一つユニークな特徴を持っている。バクや魚やイナゴとちがって、人間の場合は、その数が狩人の数より多くなればなるほど、獲物としての魅力は減る。それは人間は地球で最も危険な獲物だからであり、狩人に殺されるのと同じくらいの可能性で狩人の何人かを殺すことがあるからだ。最善採餌理論にしたがえば、狩人が出会った人間をとらえることなど、普通はあり得ない。そういうものはパスして、ヤシの木につくイモムシやクモをとったほうが、よっぽどよい

しかし戦争カニバリズムを行う人々は、人肉を目的とする狩人ではない。戦争にいった副産物として人間の肉を手に入れるのだ。だから捕虜の肉を食べるのは、コストとベネフィットの観点から見て、まったく合理的なことだった。非のうちのどころのない上質の動物性食物源をあたら無駄にするのとは全く逆の、栄養を考えれば実に賢い、もう一つの選択肢であり、しかも、フォレ族の場合のような罰則は何も伴っていないのである。捕虜の肉は、余禄の動物性食物として、とくにふだん肉の割り当てが少ない人たち、とりわけ女たちに喜ばれたに違いない。女性はたいてい、肉に飢えていた。そのため、トゥピナンバ族やイロコイ族の女たちが、人食いの宴会を伴う諸儀礼で目立った役割を演じるのである。

捕虜を捕まえ、戦場でそれを食べ、家まで連れ帰るのが軍事的に容易になればなるほど、戦争カニバリズムの程度と規模も大きくなるのではないか、と予想されるだろう。この予想が当てはまるのは、首長制の社会発展段階までである。国家という政治組織形態が登場するとともに、戦争カニバリズムは突然という感じで行われなくなる。国家レベルの社会と、部族あるいは村落レベルの社会との間には、根本的な違い3つある。国家レベルの社会は、第一に、農民や労働者が大量の余剰食物その他生産できる生産力の高い経済を持っている。第二にそういう社会は、征服した領土と人民を一つの政府の傘下に置くことができる政治組織を持っている。第三にそういう社会には、平民や従属民から貢物や税を取り立てることによって政治的及び武力的な力得ている支配階級が存在する。国家レベルの社会の農民と労働者は、一人一人が余剰の生産物と労役をうみだすことができるので、国家の人口が多くなればなるほど余剰生産物の量が増え、税と貢物の基盤が大きくなり、支配階級の力が強固になる。これとは逆にバンドや村落社会は、大量の余剰物を生産できない。バンド社会や村落社会には、打ち負かした敵を中央政府のもとに組み入れられるような軍事的、政治的な組織がないか、あるいは、税の徴収による駅にすがっている支配階級がない。それゆえ、バンド社会や村落社会にとって、勝利者に最も益をもたらす戦略というのは、近隣集団の人間を殺すか、追い散らして、資源に対する人口圧力を低めることである。余剰物を生み出せない捕虜を、奴隷に使うために連れてきても養わなければならない口がもう一人分増えるだけである。捕虜を殺し、食べてしまうということは当然考えられる結果である。

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食と文化の謎 6/7~牛肉とハンバーガーの法的定義

牛肉はどうして最後には王者になったのか。それは、牛肉生産と市場システムの変化があいまってのことであり、それが第二次世界大戦以後に出現したライフスタイルにうまくあっていたからである。20世紀が進むにつれて、アメリカ合衆国の牛肉生産において放牧地が果たす役割は縮小するばかりだった。「肥育用牛」の飼育にかける時間と仕上げ肥育にかける時間がどんどん短くなっていった。品種改良、人工的な牧草栽培、科学的経営によって、肥育用牛は、今や4か月で400ポンドに育てることが可能だ。それらは牧場主から肥育業者に売られ、そこで生コントラックのような機械で最適温度に温めて日夜与えられる混合飼料をなかば強制的に食べさせられる。なかには高蛋白大豆、魚粉、高カロリートウモロコシ、ソルガム(アワの一種)、ヴィタミン、ホルモン、抗生物質が配合されている。牛たちは日がな食べ続け、夜を昼に変えるまばゆいばかりの照明の下、夜通し食べ続ける。かれらがどんなに食べようとかいば桶はいつも餌であふれ、ここでの4か月でさらに体重を400ポンド増やし、解体処理を待つばかりとなる。

牛肉の生産方法の変化とともに重要だったのは、牛肉の消費形態の変化である。まず最初に、郊外に家を持つ階層が育ち、庭を調理と客のもてなしに使うようになった。都市から郊外に逃れてきた人々にとって戸外での炭火焼きは、鬱積したリクレーション願望とグルメ願望の成就に他ならなかった。裏庭の炭火焼きは、食堂も鍋もいらない便利さの上に、手早くできる料理なので、夫が主人役を務め、昔の首長のように祭を主催し肉をふるまうという大役を演じることが多かった。そして、このような裏庭の肉分配者が網に乗せたのは牛肉だった。裏庭料理では豚のひき肉を使うのは技術的に難しかった。豚肉のパテを網で焼けば下に落ちてしまうし、フライパンで焼くのでは、わずらわしい台所仕事からの解放という意味がなくなってしまう

それより大きな問題は、豚肉には寄生虫の恐れがあるために、牛肉よりも長い時間をかけて料理する必要があることだった。信じられない話だが、合衆国農務省は豚肉の寄生虫検査を行っていない。豚肉の中のセンモウチュウを探すには顕微鏡検査しかないが、その方法では時間と費用がかかるわりには十分な効果が望めない。その結果、アメリカ人の約4%は筋肉中にセンモウチュウが住みつき、症状が出た時にも、軽い風邪ぐらいに思い過してしまう。顕微鏡検査はしないかわりに、1930年代、農務省の公衆衛生局とアメリカ医学協会は、豚肉はピンクから灰色にかわるまでよくよく火を通すようにという徹底した教育活動を行った。この警告に従って灰色になるまであぶると、豚肉はすっかりかたくひからびてしまうので、豚の厚切り肉の炭火焼きは影をひそめることになった。バーベキューやスペアリブは脂肪が多くよく焼いてもやわらかくて肉汁も残るので手軽な解決策だが、ハンバーガーやステーキよりも肉がずっと少ないうえに食べづらく、パンにものせられないので、便利な食べ物としてはハンバーガーよりも分が悪い。

郊外への人々の移動に続いて、ほどなく他の社会変化も起こり、それがまたアメリカ人の牛肉好きを助長した。それは、女性の社会進出、共稼ぎ家庭の形成、フェミニズムの台頭であり、しだいに強まる女性の鍋、流し、レンジに対する反感の増大だった。このような社会変化は戸外での盛大な牛肉パーティーの舞台をしつらえただけでなく、アメリカが世界の料理になした最大の貢献、すなわちファーストフードのハンバーガーを登場させることになった。賃金獲得者が二人いる戦後の新世代の家庭にとってファーストフード・ハンバーガーのレストランは-たとえ持ち家がなく、裏庭でバーベキューができなくとも-戸外で食事し、台所仕事のわずらわしさから解放される機会を与えてくれた。しかもその費用は、家庭でほどほどの料理をつくったばあいと大して変わらない額で済んだ。とくに、働いている女性がよくするように、主婦の家事労働をお金に換算するなら、十分見合う金額だった。

私に言わせれば、ファーストフード・レストランの台頭は、少なくとも社会的には、人間を月に送り込んだのと同じくらい重大な出来事だった。かのエドワード・ベラミが、社会的反響をよんだユートピア小説『ルッキング・バックワード』の中でした予言が思い起こされる。彼は社会主義の医大の業績の一つは、資本主義的な食事をやめさせることだと言っている。ベラミの小説中の主人公は。1887年に眠り、夢の中で目覚めると、そこは2000年の世界だった。色々な驚きに出会う中で、彼にとって最も印象深かったのは、アメリカ人がここに買い物をし、料理を作って食事をすることが無くなっていることだった。そのかわり彼らは、新聞に出たメニューをもとに注文を受けて地域の調理場で作られた料理を気持ちの良いクラブで食べるのだ。マクドナルドもウェンディーズもバーガーキングも、ベラミが思い描いたような高級料理や豪華なサロンこそないが、快適に外で食事するという夢の実現に、かつて例を見ないほどに使づいて見せた。資本主義のただなかで成長をとげたマクドナルド、ウェンディーズ、バーガーキングは、中央集権化、効率化、共同化という条件が意味をなさない-食べものは安くて栄養がある上に、いくらでも即座に食べられる。誰も待つ必要はなく、皿その他の食器類は使い捨てだから洗う手間もいらない。

豚肉をファーストフード・レストランのブームに組み込むためのてっとり早い解決策は豚肉と牛肉を混ぜたハンバーガーを売ることだった。現に、フランクフルトソーセージは牛豚あいびき肉の製品で、しかも長らく豚肉産業を支えている屋台骨の一つだ。しかし、どのファーストフード会社も、今のところ、そのような商品を売り出そうとはしていない。合衆国で売られているハンバーガーはすべて、フランクフルトとは違って、牛肉だけでできていて、他のものは一切混ぜていない。たいていのアメリカ人は知らないが、そのわけは簡単だ。法律上、100%ビーフ以外のハンバーガーは存在しないのだ。合衆国農務省令は、牛肉以外の脂身をふくまないひき肉のパテをハンバーガーと定めている。もしごくわずかでも豚肉かその脂身が入っていれば、それは「パテ」、「バーガー」、「ソーセージ」とは呼べても「ハンバーガー」とは呼べない。言い換えれば、政府の定めるところによって牛肉産業は、アメリカでもっとも人気の高いコンビニエンス・フードの特許権ないしは登録商標をもっているというわけだ。現行法規(連邦法1946年、319・15のB)には次のようにある。ハンバーガー 「ハンバーガー」とは、生と冷凍、あるいはそのいずれかの細切れ牛肉に、ときによって牛の脂身、そして調味料を加えたものとする。それには30%以上の脂身、水、リン酸塩、つなぎ、増量剤を加えてはならない。牛のほお肉は、本条の(a)項で定めた条件にしたがって、ハンバーガーの調理に使うことができる。

豚のひき肉は食べても差し支えない。牛のひき肉もしかり。しかし、両方を混ぜて、それをハンバーガーとよんではいけない。それでは、まるでレビ記の再現のように、うさんくさい話だ。しかし、本来の豚肉タブーもそうだが、ある面では無意味にみえるものが、別の見方をするときわめて実際的な意味を持っているものだ。この規定の核心は、牛ひき肉の脂肪含有率はひくまえの肉そのままであるのに対し、ハンバーガーは100%牛肉製品でなければならないと言いながら、30%まで脂身をまぜてハンバーガーが作れるわけだ。次に牛ひき肉について定めた法規を上げ、関係箇所に傍点を施した。

牛こま切れ肉、牛ひき肉 「牛こま切れ肉」あるいは「牛ひき肉」は、生と冷凍、あるいはそのいずれかの牛肉をこまぎれにしたもので、調味料を加えても良いが、牛の脂身を添加してはならない。また脂身は30%を超えてはならないし、水リン酸塩、つなぎ、増量剤を加えてはならない。

この難解な定義と不可解な禁止が意味するところは、つまり、どちらも片方だけでは売り物にならない成分-ある種の牛肉とある種の牛の脂身-を混ぜ合わせたものがハンバーガーであると、連邦政府がお墨付きを与えたということだ。いつの時代も、一番安い牛肉は、仕上げ飼育のできていないやせた放牧去勢牛だ。しかい、この肉をひいてそれだけでハンバーガーを作ろうとしても料理の途中で崩れてしまう。放牧牛でハンバーガーを作ろうとすれば、万国共通のつなぎ剤である脂肪が必要なのだ。そのばあい、動物性であれ、植物性であれ、どんな脂肪でもその役目は果たすだろうが、パテやソーセージではなく、ハンバーガーを作ろうというのだから、それは牛からとった脂肪でなければならない。ここで話は、飼育用地と、そこで4,5か月も1日24時間トウモロコシ、大豆、魚粉、ビタミン剤、ホルモン剤、抗生物質を取り続ける牛に移る。こういう牛は太っていて太鼓腹をしていて、解体した後でそれをそぎ落とさなくてはならない。つまるところ、飼育牛の脂肪と痩せた放牧牛が産業用ひき肉機のなかで合体し、やがて国民的な食糧であるハンバーガー用肉に変身して姿を表すのだ。もし、ハンバーガーを、豚肉と牛の脂身、または牛肉と豚の脂身でつくったなら、あるいは肉と脂身を別々の牛からとることが禁止されたなら、牛肉産業自体が一夜にして崩壊してしまうだろう。

ファーストフード企業は、安いハンバーガーを作るのに飼育牛の無駄な脂身が必要だし、飼育牛業界は、飼育牛のコストをさげるためにハンバーガーが必要なのだ。その関係は象徴的で、あなたがステーキを食べれば、他の誰かがハンバーガーが食べられるようになるし、その逆に、あなたがマクドナルドでハンバーガーを食べると他の誰かがリッツで食べるステーキに助成金を出していることになるのだ。豚肉と豚の脂身がハンバーガーからしめだされたのは、豚肉生産者よりも牛肉生産者のほうが政界に大きな影響力を持っていたからではないかと思われる。牛肉産業は長い間比較的少数の大規模な牧場主や飼育会社に支配されてきたのに対し、豚肉産業を担ってきたのは比較的多数の中小規模農場だった。二者のうち、集中化が進んでいる分、牛肉産業のほうが農務省の法規に対して影響力を持てるのであろう。

厄介な問題が残っている。脂肪の少ないハンバーガー用肉の最も安いものは、オーストラリアやニュージーランドなど、人口密度が低く牧草地が豊富な諸外国にある。ファーストフード・チェーンは、放っておいたら肉のほとんどを外国から買ってしまう。そういうことにならないように、連邦政府は、牛肉輸入を制限する割り当て量を定めている。それでもアメリカ人が消費する牛ひき肉のほぼ20%は外国産である。外国産の牛肉がどのようにして消費者の胃袋に入るか、詳しいことはだれにもわからない。ひとたび税関を通過してしまうと、それがどこをとおり、加工業者はそれをどう処理したか、記録を残している仲介業者はいない。ファーストフード・レストラン・チェーンのなかには、自社のハンバーガーは100%牛肉かつ100%国内産であると強調するものもある。しかし、一方では沈黙を守るものもあって、アメリカ人の肉事情にさらに一つ謎を加えている。

結局のところ牛肉は、100%ビールのハンバーガーの影響によって、つい最近になって豚肉より優位になったということだ。仕上げのできていない放牧牛の肉と、飼育牛の余分な脂身をむすびつけることによって、ファーストフード・チェーンは、穀物を肉に変える変換器として豚肉のハンバーガーを分類上の変則物として禁止したことは、レビ記のタブーと比較的類似以上の意味を持っている。

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食と文化の謎 5/7~牛肉出世物語

アメリカ人は一人当たり年間150ポンドの「赤身肉」を食べる。その重量の60%はビーフと子牛肉(ヴィール)、39%が豚肉、1%が子羊肉(ラム)と羊肉(マトン)で、ヤギ肉の量はあまりにわずかで数字にならない。

1632年、プリマス植民地には、6頭のヤギ、50頭の豚、そしてたくさんのメンドリがいた。ようやく翌年になってやってきた牛は肉用ではなく乳用だった。初期の居住地ではどこでも、牛よりも豚やヤギや羊のほうが大切な肉減だった。1633年、マサチューセッツ・ベイ植民地について記述したウィリアム・ウッドは、「4000人の住人に対して、牛は1500頭、ヤギは4000頭、豚は無数にいて、とても貧しいなどといえようか」と言っている。1634年のジェイムズタウンでは、「良家」が食べる「赤身肉」は豚肉と子羊肉だけだった。植民地の夕食テーブルから最初に締め出された「赤身肉」はヤギだった。乳牛が植民地のミルクの需要を十分に満たすようになるとすぐに、ヤギはめったに口にされない肉になった。植民者はヤギを主にミルクの供給源として飼っていたから、肉は副産物だったのだ。ミルクと肉の供給源としてヤギが牛に勝てるのは、牧場が小さく草が乏しいときに限られる。しかし、植民地アメリカにあったのはそれとは正反対の条件だった。

羊肉の場合はどうか。羊肉は-とくに子羊肉-は味覚の点でヤギ肉よりかなり上位にランクづけられているが、牛肉や豚肉よりはるかにしただ。羊肉もヤギ肉が衰退したのと同じ理由で、食べるに悪く、考えるに悪い肉となった。羊肉や子羊肉が副産物である場合には、羊は大量に肉を供給する効率よい動物となりうる。それだからこそ、伝統的なイギリス料理で羊肉や子羊肉が重んじられるのだ。羊毛用の羊飼育の副産物だった。アメリカ人がヤギと羊を飼育し食べることに興味を失ったのは、一つには、それにかわるものとして豚肉、牛肉、子牛肉がたやすく手に入ったからだ。植民地時代の生態学的・人口学的条件下では、ヤギや羊に比べて豚や牛のほうが効率よい肉源だったことが最近まで豚の牛の二つがアメリカ人の最も好きな肉の首位の座を巡って争うことになった理由なのだる。

うっそうとしたアメリカの森林は、豚飼育に特に好都合な環境だった。植民者がインディアンとオオカミを追い払い、どんぐり、ブナの木の実、ハシバミの実をひろったあとの森に「森豚」とよばれる頑強な品種の豚をはなすと、ほうっておいても自力で生きた。北部の植民地では、豚は放し飼いにされ、自分で餌をあさって生き、冬には囲いの中に入れられた。ヴァージニア以南ではメス豚がトウモロコシを餌に囲いの中に呼び込まれる狩集の時期を除いて、1年中放し飼いだった。殺す前の一か月ほどもトウモロコシを与えれば、肉がしまり、すばやく体重が増すことを農民は古くから知っていた。1700年にはすでに、トウモロコシでの仕上げは市販用豚生産の方法として確立していた。豚とトウモロコシの結びつきは、まさに神の恵みだた。豚牛の5倍の効率でトウモロコシを肉に変えることができる。

農業のフロンティアがアレゲーニー山脈を越えて中西部に進むにつれ、豚、牛、トウモロコシ生産の中心地も一緒に移っていった。土壌と気候は、トウモロコシに理想的だった。道路網が未発達で馬車での輸送には多大な経費がかかった当時のオハイオ盆地では、売り切れないほどのトウモロコシがたやすく収穫できた。余剰トウモロコシをさばく最良の方法は、それを豚や牛に食べさせ、育った家畜を、東部海岸の諸都市まで山を越えて歩かせることだった。(本当を言えばバーボンにして瓶につめ、船で輸送することだったのだが、連邦政府は蒸留酒製造業者に課税し、「ムーンシャイン」(密造ウイスキー)を違法としていた)

輸送手段が発達すると、コーン・ベルトの農民は森豚の飼育をやめ、目方と脂肪の多い品種の飼育に切り替えた。この「ラード豚」は、仕上げの時だけ飼料を与えるという従来の方法を取らなかったが十分に採算が取れた。それはほとんどトウモロコシだけで飼育されてシンシナティに搬送され、解体されたのだが、その量たるや莫大でシンシナティは「ポーコポリス(豚の都市)」と呼ばれるようになったほどだ。コーン・ベルトが広がると、農民は豚のほかに肉牛も飼うようになった。牛は大草原の草と干し草を食べて育ち、仕上げにトウモロコシで太らされてから、山を越えて東部の諸都市までひかれていった。そういうとき、牛は途中で売られているトウモロコシを食べ、豚はそのあとをついていき、未消化のトウモロコシかすがたっぷり含まれた牛の糞を食べていたものだ。

以前には、牛肉と豚肉のどちらのほうが好まれていただろうか。植民地時代後期と19世紀初頭には、塩漬け肉と樽詰め肉に関する限り、国内のほとんどどこでも豚肉のほうが好まれた。そのなによりの証拠に、豚肉のほうが牛肉よりはるか多量に生産されていたにもかかわず、つねに塩漬け豚肉のほうが塩漬け牛肉より値段が高かった。たとえば、1792年のフィラデルフィアでは、豚肉一樽が11.17ドルだったのに、牛肉一樽はわずか8ドルだった。この不釣り合いは南北戦争勃発時までつづいた。

ニューヨークやニューイングランドでは、豚肉好きはそれほど昂じなかったようだ。ニューヨークを例にとって考えれば、北部人は豚の生肉や保存肉よりも牛の生肉を好んだ。ニューヨーク市では、1854年から1860年の間、年平均1億3200万ポンドの牛生肉が卸売されたのに対し、豚肉はわずか5300万ポンドにすぎなかった。北部人が豚肉に対して関心が薄いことの理由の一つに、南北戦争の前、北部では豚が羊に比べて少なくなったことがあげられる。1860年当時のヴァーモントの農場では、25頭の羊に対して豚は1.5頭に過ぎなかった。一人当たりの豚の頭数で考えると、南部と中西部では二頭を飼育していたのに対し、北部では0.1頭にも満たなかった。豚が少なくなったのは、北軍の船の建造や製造工業に供するために森が切り倒されたからであり、トウモロコシ栽培がほとんど行われなくなったのは、乳牛の群れを飼うために、耕地が牧場に変えられたからだ。国民的現象としてのアメリカ人の牛肉好きは、海のかなたのイギリスではなく、ミシシッピー川をわたった大平原にその端を発しているのだ。ここは、豚ではなく牛の飼育にこそ最適な場所だった。そして、草原を牛にとって安全な場所にするためになすべきことは、二世紀前に森を豚にとって安全な場所にするのに必要だったことと同じだった。つまり、インディアンとオオカミを追い払うことだった。ここでは、もう一つ、バッファローが問題となった。飼いならされた動物ではないので市場まで歩かせるわけにもいかず、そのうえ商業的価値はほとんどなかった。そこでバッファロー・ビルのような狩猟者たちは、バッファローを撃ち殺し、現場で皮をはぎ、解体して、選んだ部位を馬車にのせて鉄道敷設の飯場やフロンティアの街に運び、牛にとって安全な草原づくりに一役かったのである。バッファローが姿を消すと、あとは牛の天下、はてしもない大草原で思う存分草をはみ、処理できないほど急速に数を増やしてしまい、当然、牛肉は安くなり軍隊は牧場主から牛を買ってインディアン保留地に供給し、インディアンを飢えから守った。

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食と文化の謎 4/7~馬は乗るものか、食べるものか

アメリカ人はなぜ馬肉を食べないのだろうか。馬肉の謎は、他の文化を広く見渡すと、さらに深まる。ヨーロッパ大陸の大部分の民族は馬肉を食べる。フランス人、ベルギー人、オランダ人、ドイツ人、イタリア人、ポーランド人、ロシア人、みな馬肉を食べるに良いものと考え、1年間にかなりの量を食べる。フランスでは3人に1人が馬肉を食べ、一人当たりの平均年間消費量は4ポンドであり、これはアメリカにおける子牛の肉、ラム、マトンの一人当たり平均消費量より多い。第二次世界大戦後、販売量は減少しているものの、フランスにはまだ3,000軒の馬肉専門の肉屋がある。

馬肉食は奇妙なアップダウンを繰り返してきている。石器時代にさかのぼると、旧世界の狩人たちは野生の馬を貪り食った。馬を最初に手なずけ家畜化したアジアの遊牧民は、北ヨーロッパのキリスト教化以前の人々と同じく、馬肉を消費し続けた。馬肉に対するタブーがはじめてあらわれるのは、中東に古代帝国が起こったときである。ローマ人も馬を食べるのを拒否した。そして、中世初期には教皇の布告によってすべてのキリスト教徒に馬肉が禁じられると、馬はヨーロッパにおける聖なる牛に今にもなりそうな気配だった。ところがフランス革命の頃、馬肉はヨーロッパの食卓に復帰し始める。19世紀の終わりには、ヨーロッパ人-イギリス人を除く-は再び馬肉を大量に消費するようになっていた。第一世界大戦の直前にはパリジャンは年間1万3000トンも食べていた。ところが第二次大戦後、趨勢は再び逆に向かう。

石器時代の馬狩りの良き時代はたちまちに過ぎ去った。少なくとも地質学的に言えばたちまちである。気温がどんどん上がっていった。草原は森林に代わり、馬はもはや西ヨーロッパで群生できなくなった。しかし、アジアのウクライナからモンゴルに続く樹木のないステップ地帯はまばらに生えた草でおおわれ、野生馬の生き残りの群を養えた。人類が馬を飼いならし、家畜にくわえたのは広大な半砂漠の草原地帯だった。馬が家畜化された正確な場所と時は特定できない。しかし、それが起きたのは他の家畜に比べてずっと後ということだ。

馬はアジアの遊牧民にとって最も重要な生産手段であり、また、かれらが最も誇りにする財産だった。しかし、だからといって英雄や「有力者」の宴のために肥えた雌馬を殺すのを禁止することにはならなかったし、結婚式の客に煮た馬の頭や馬肉ソーセージをふるまうのを禁じることにもならなかった。その点に関して、中央アジアの遊牧民は前章で議論したアラブの中心地域のラクダ遊牧民ベドウィンによく似ている。長い旅の間、馬肉は非常食として欠くことができなかった。のちのモンゴル軍の行動から判断して、馬肉を食べる自由は彼らにとって軍事的に必要だった

馬肉対するタブーが最初に現れたのは、おそらく、アジアと中東の人口密度の高い農耕文明が周囲の遊牧民から馬を取り入れ、自分たちの必要に合わせて馬を利用するようになった後に違いない。中東の初期の諸帝国は多くの人口と反芻動物の群を抱えていたから、大量の馬を飼うのは困難だった。馬は草を食べるので豚ほど人間と競合しないが、牛、羊、ヤギよりはるかに多くの草を必要とする。自然の牧草を食べて育つ馬は、自分の体重を維持するのに牛や羊より33%多くの草を必要とする。また、キルギスでは、雌馬の搾乳は、ちょっとした間違いでも非常に危険なため、経験豊かな熟練者だけに任されている。

農耕文明はなぜ馬を欲しがったのか。馬が家畜化され引具をつけて荷馬車をひかせる技術ができるとすぐに、馬はある使われ方をされるようになり、それが中世まで馬を飼う一番の目的になった。アジアの周辺起きた古代農耕文明は、馬を戦争用のエンジンとして欲しがったのだ。馬を騎兵の乗り物として使い始めたのは紀元前900年ごろ、アッシリア、スキタイ、メディア帝国が起こった頃である。その後、鞍とあぶみが発明されるとともに戦士は馬に乗ったまま剣を振るい、槍をつき、矢を射ることを習得しなければならなくなった。

ローマ帝国の崩壊の根本的な原因を説明しようと多くの説が出されている。しかし、ローマの社会的、政治的問題には他に何か原因があったのではないかという反論の心配などする必要なく、ローマ軍に敗北をもたらしたのは馬だ、と言い切ることができる。南ヨーロッパは、人間と反芻動物が高密度で住み、しかし自然の牧草地を欠いていたので、戦争用の馬を大量に買うのに適していなかった。そのうえ、生粋のローマ人は優れた歩兵ではあったが、騎馬兵としては不慣れだった。ダニューブ川のむこうから馬に乗って帝国を脅かす野蛮人から国を守るため、ローマ人は野蛮人の騎馬兵-スキタイ人、サルマチア人、フン族-を雇っていた。

ダニューブ川の対岸に、一人馬の数の方が多い部族が次々に現れては国境を脅かした。それら「野蛮人」にローマ帝国は結局屈服した。ゴート族と西ゴート族は紀元378年にアドリアノープルでローマ軍を破り、410年にはローマ市そのものを奪った。ヴァンダル族はゴール地方とスペインを席巻し、429年、はるばる北アフリカに至った。ずっとのちに中国からハンガリー平原まで、ユーラシアを征服したモンゴルの騎馬民も同類だった。

632年のマホメッドの死からわずか70年後、将軍アル・タリクに率いられたイスラム軍は、後年ジャバル・アル・タリク、(つづめて言えば)「ジブラルタル」、つまり「タリクの山」と言われるようなる岩場に到達し、スペイン侵略をうかがった。70年の間に、彼らは楊度をメソポタミアから大西洋に前広げていた。彼らが最初にアラビアを征服できたのはラクダのお陰だったが、それ以後は馬が彼らの主要武器だった。彼らの征服の異常に速いペースは、小型の、足の速い、丈夫な品種の馬に乗っていたためと言ってよいだろう。その馬は「今日アラブ種と呼ばれている馬の特徴である凄い耐久力と勇気を雄も雌も持っていた」。

グレゴリー三世の勅令以後、足を怪我したり病気になったり年老いた馬以外は、あるいは飢饉や籠城の時、非常食として必要になったとき以外は、ヨーロッパのどこでもめったに殺されなくなった。馬はまだ極めて経費のかかる動物だった。とくに北ヨーロッパの人口密度が南ヨーロッパの人口密度に近づき始めるにしたがって、また森や高地、残っていた自然の牧草地が姿を消すとともに、ますますそうなった。しだいに、穀物、南では大麦、北ではからす麦、で飼わざるを得なくなり、そのため人間と食物をめぐってもろに競合するようになったのだ。

中世には、馬を持つのは騎士、貴族であることのしるしだった。フランス語で馬を意味するシュヴァルを語源とする「シヴァルリ(騎士道)」という言葉がそのことをものがっている。そのことは領主から馬と甲冑を維持するに足る土地と人間を与えられ、そのかわり軍事的奉仕の義務を負う重装備の騎兵-ナイト(騎士)-に与えられた誉を表している。そういう見方を取れば、封建制度とは本質的に、重騎兵を供給するための軍事的契約だった。しかし、どの馬もそうできるわけではない。ドン・キホーテのロシナンテを思い出してほしい。騎士と120ポンドの甲冑、各種の剣類を負えるだけの大きな馬でなければならなった。16世紀の終わり頃には、良い戦馬は奴隷以上の価値があった。歴史家フェルナン・ブローデルは、フローレンスのコシモ・デ・メディチのような金持ちでも、たった2000人の騎兵の私兵を抱えるだけで破産してしまうだろう、と言っている。スペインがポルトガルを併合できなかったのは馬が足りなかったからだ。ルイ14世治世下のフランスは、戦闘中の軍を維持するのに、毎年2万~3万の馬を輸入しなければならなかった。アンダルシアやナポリで純血種の馬を買うには王の許可が必要だった。

増加する馬を養うため、農民はからす麦の生産を増やさなければならなかった。それは農地を三分することによってなされた。一つは休閑地にし、一つには秋まきの小麦をうえ、一つには春まきのからす麦を植える方法がとられた。馬にスキをひかせ、肥料を使い、畑を毎年後退させることによって、農民は馬を買えるうえに人間の消費用の穀物と家畜の生産高も上げられた。馬の力と三圃農法への転換は農業の生産性を急激に高めただけでなく、同様に急激な人口増加をもたらした。大農民は小農民をのみこんでいった。農業分野における労働力の必要量が減った。町や都市への大量移住を引き起こし、富めるものと貧しいものの間の富の分配の差を広げた。残っていた森はからす麦の作付を増やすために切り払われ、その結果、一般家庭の食卓に供される肉の量が減った。家で飼われていた豚は姿を消し、飢えと栄養不良が増えた。多くの人々にとって技術の進歩が彼らにもたらしたものはまったくの菜食主義の食事だけだった。

そういう困窮化と肉飢餓をしり目に、馬の数は増え続けた。フランス革命直前のヨーロッパには1400万頭、フランスだけで178万頭もいた、と計算している。勅令が何度も-1735年、1739年、1762年、1780年-出され、馬肉食の禁止を強化し、馬肉を食べると病気になると警告した。これは、肉に飢えた人々が禁じられた肉を以前にもまして求めていた証拠である。

1860年代には、パリの馬肉派はグランドホテルやジョッキー・クラブなどで盛んに優雅な馬肉の宴をもよおした。これは1871年のドイツ軍のパリ包囲の時の良い訓練になった。このときパリ市民は、必要に迫られて手当たりしだいに馬-6万~7万頭の馬-を食べた。19世紀末には熱狂的馬肉派は、馬肉生産業を公認化させ、馬肉の品質を保証する政府の検査制度を作らせるまでなっていた。馬肉の公認市場を開設させた圧力は、そういう市場が無かったら、その肉がひそかに、また危険ではないにしても品質が悪くなった状態で売られるであろう不要な馬が大量にいることを前提としていた。19世紀末のフランスには300万頭の馬がいた。その数は1910年をピークに、1950年の200万頭から1983年の約25万頭へと激減した。この減少は言うまでもなく、輸送手段の自動車化、農場での使役動物からトラクターへの代替、軍隊での馬から自動車への交代が原因である。

馬肉に対するヨーロッパ人の好みが奇妙な上がり下がりをくりかえしてきた理由をまとめてみよう。馬が戦争に必要な、稀少で絶滅寸前の動物で、そのうえ他の肉用動物が豊富にあったときには、教会と国家は馬肉の消費を禁止した。馬が増え、他の肉が減ると禁止は緩められ、馬肉の消費量は増えた。この方程式はイギリスにも応用でき興味深い結果が得られる。産業革命が最初に起き、最も早く都市化したイングランドは、18世紀に食糧の自給を止めてしまった。イングランドは、その海軍と陸軍を使って、世界史に例の七つの海にまたがる大帝国を築き、また、自分たちの輸出工業製品の価格に比して相対的に安い値段で食料を輸入できるような貿易交換比率をおしつけることによって、この問題を解決したのだ。イングランドは、18、19世紀にその帝国を広げることで、それまでよりはるかに遠い所にある牧草地の支配権を獲得し、安い値段で自分たちに肉を供給するための家畜を飼えるようになったのだ。

アメリカには約800万頭の馬がいる-世界で一番多い。その大部分は娯楽や競馬や「ショー」のため、また、繁殖用に飼われている。つまり、多くはペットなのだ。馬を食用に飼う精肉産業がアメリカでなぜ発達しなかったのかは理解できる-馬の消化器官が牛や豚に比べて効率が悪いからだ。しかし、他の目的で馬を買う副産物としてその肉を利用したってよいのではなかろうか。最初にいっておくと、アメリカには、実際にはかなりな規模の馬肉精肉業が存在する。ただ、その製品は海外で消費される。アメリカは世界一の馬肉輸出国であり、通貨条件が良ければ、年に1億ポンド以上の生肉、冷凍肉、冷蔵肉を外国に売っている。他の肉よりも安く買えさえすれば、多くのアメリカ人は馬肉を受け入れると思われる。しかし、そういうひとたちも、牛肉および豚肉業界の組織的な抵抗、また馬愛護者の攻撃的な戦術のため、その機会をほとんど得られない。

1980年代はじめ、安価な馬肉製品市場を作ろうとした。最上馬肉を同等クラスの牛肉より高い値段でアメリカ人に買わせようとしても無理と知ったコネティカット州のハートフォードのM&R精肉会社は、前肢部分の肉を使った加工馬肉「ステーキ」や「ホースバーガー」を売り出した。国際市場で馬の前肢肉はソーセージかひき肉用に使われており、同部位の牛肉よりはるかに安い。3つの海軍店での売り上げは、牛製品を大幅に下回る低価格馬肉製品ということで大いに上がった。レキシントン街と53番街の売店では客が列をなし、ニューヨーク市民がそのうち「ベルモント・ステーキ」と呼び始めたその味に舌鼓をうった。しかしM&R社のこの実験は短命だった。怒った自称馬愛好家やアメリカ馬協会、動物人道協会、アメリカ馬愛護協会の不満の声が、牛肉ロビイストたちの耳をとらえるようになった。モンタナ州選出の上院議員ジョン・メルチャーとテキサス州選出のロイド・ベントソンは、海軍長官のジョン・F・レーマン・ジュニアに、強い失望の意を伝えた。海軍は兵士に馬を食べさせているという印象を与えたら、志願兵を集められなくなるのではないか、それに、そうでなくても牛は生産コスト以下で売られているのだし、不況とコレステロールで評判が悪いために牛肉消費量が落ちているのに、というのである。その後まもなく三か所の海軍売店は、どれも馬肉を売るのをやめた。次に、なぜアメリかでは牛肉が王になったのか、という謎に進もう。

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技術が重要なんだけど、技術だけではない現状

ビジネス分野において、なんの問題意識も持たないまま「何か画期的なアイデアを考え、イノベーションを起こせ!」と命じられたらどうなるでしょう。そういうときに起こる現象を、私は「イノベーション エイエイオー方式」と呼んでいます。みんなで拳を振り上げ、エイエイオー!と叫んで気炎を上げる精神論的な手法を揶揄したネーミングですが、そんなやり方でイノベーションが起こることはありえません。ところが現実には「アイデア出しのミーティング」とか「ブレーンストーミング」といった名称を使い、イノベーション エイエイオー方式」の会議がどこでも頻繁に開かれています
伊賀泰代.生産性

イノベーション エイエイオー方式ワロタ。ただ、これイノベーション要らないね。全部そうだよ。フィンテックエイエイオー、AIエイエイオーw なぜそうなるかというと新テクノロジーに取り組んでますって言いたいだけなんだよ。あるいはAIは一切やってないと言いたくない。だから手段と目的の取違が起こって、AIを導入することが目的になり、何をしてるんだかよくわからないことになる。私が取り組んだ商品開発で唯一失敗したw事例を紹介しよう。

上司「面白い新商品作ってくれよ」
俺「面白いとは?」
上司「儲かるやつ」
俺「客がですか?デスクがですか?」
上司「両方」
俺「無理っすね」

解説しようw 金融商品は、結果的に客が儲かったり損したりすることがあるだけで、客が儲かる商品は作れない。デスクが儲けようと思えば、抜き幅を大きくして客から取るということになる。我々にできることは、「儲かりそうに見えるがオプション価値が大して高くないもの」を考えることだけだ。ただ、これは日本を含むアジアでは受けず、実際に売れる商品は「損しなさそうに見えるがオプション価値が高いもの」だけである。早期償還ノックインというのは、長い期間のノックインの場合、ノックインとバニラの価格の相違が小さい。そして高いクーポンは、株が上がると早期償還条項でノックアウトする効果があるので大して価値がない。そして、客があまり意味がないノックインレベルとクーポンだけ気にするように設計されているある意味完璧な商品なのである。

半導体メーカーのインテルが行った「インテル入ってる(Intel Inside)」の広告は衝撃的でした。これによりインテルは「インテルのCPUさえ入っていれば、どのパソコンでも性能は同じである」と消費者に伝えることに成功しました。これによりその後の消費者は「インテルの部品さえ入っていれば、高価なIBMやNECのパソコンを買わなくても台湾製のパソコンで十分だ」と考え始めたのです。この広告でインテルは「パソコンの部品メーカー」から「事実上のパソコンメーカー」に昇格しました。一方「パソコンの組み立て作業はコモディティビジネスにすぎない」と印象付けられたIBMやNECは、その後いずれもパソコン事業を売却しています。「パラノイアしか生き残れない」といわれ、圧倒的な性能を誇る商品を他社に先駆けて次々と開発してきたインテルは、超一流の技術系企業です。それでもこの画期的な広告戦略がなければ、部品メーカーとパソコンメーカーの地位逆転など起こりえなかったでしょう。
伊賀泰代.生産性

インテルねぇ、懐かしい名前だな。2000年以降はほとんど成長してないと言っていいかもしれないが、この環境下で時価総額170bilを維持しているのはすごい。

アップルの成功物語にもさまざまなビジネスイノベーションがてんこ盛りです。ライバルのウィンドウズやアンドロイド商品が売られる店舗に比べ、圧倒的に洗練されたアップルストアの店舗デザインや、極めてシンプルで洗練されたパッケージングなど、顧客コミュニケーションに並々ならぬ投資をしてアップル商品に高いロイヤリティを持つ顧客を育て上げたのも、マーケティング上のイノベーションです。今では、街でアップルストアを見てもだれも驚かなくなってしまいましたが、私たちはそれを目にするまで、あれほど洗練されたデザインの店で売られる情報機器など、見たことがなかったはずです
伊賀泰代.生産性

アップルストアの衝撃か。ちきりん俺より年上なのに若いな。アップルの広告といえば…こっちだ。

これ「アップルはコンピューターを民に開放する」という有名な広告
https://www.youtube.com/watch?v=2zfqw8nhUwA

古すぎ?wイノベーション全く関係ないんだけど好きな広告と言えばPepsi vs Coke adかなんかでYoutubeで無限に出てくるの面白いよね。私が子供のころ、日本でも一瞬放送された…はず。ただその後のバージョンで、モザイクがかけられたりとか、今は放送されたないと思うけど。ライバル企業の製品を出してしまうという衝撃の広告でした。そしてその後、私は大人になってから、ライバル企業の名前が、事業リスクのところにバンバン出てくるアメリカ企業の10-K(有価証券報告書)にも衝撃を受けた。

海外からの皮肉じみたジョークには、「日本人は会議の開始時刻には厳密だが、終了時刻には極めてルーズだ。しかも誰もそのことを悪いと思っていない。開始時刻にルーズなイタリア人と、終了時刻にルーズな日本人には何の違いもない」
伊賀泰代.生産性

ハハハ、海外あるある。会議を仕事に置き換えて、残業問題とかよく聞くね。


非製造業の企画や開発部門における非技術的なイノベーション

各都市から目的都市に直接それぞれ5個の荷物を送ろうとすれば全体では10路線必要になります。しかもそれぞれの飛行機に乗っている荷物は5個だけです。一方、シカゴをハブ空港として設定すれば、飛行機を飛ばすのは4路線のみとなり、1機の飛行機にはそれぞれ20個の荷物を載せられるので、1個当たりの輸送コストは大幅に下がります。(ただし旅客の場合は荷物と異なり乗り換えのストレスなども生じるので、別の最適化も必要)。現在では当たり前のように使われているハブシステムですが、これも最初に考え出され導入された時点では明らかに改善ではなく革新=イノベーションと呼べるの生産性の向上策でした。
伊賀泰代.生産性

確かに。こんなもんは技術革新ではまったくない革新の一例だが、ハブシステムが革新だって意識は日本はほとんどないだろうな。

【ニコ生】ひろゆき ベーシックインカムを実現するには④「中国が素直になった」

で言及されてるコンテナ革命もまた面白い。骨子は、コンテナがあればコンテナを開けることができないというセキュリティが保証され、物流業者に対する信用が不要になって誰でも輸送ができるようになった、というものだ。ただ、タイトルの「中国が素直になった」は、騙すよりまともにやった方が利益率は下がるが規模で言えば儲かる額が多い、ということだ。だから俺が言った「資本主義と法治国家としてまともじゃない方向性が日本の強み」は、間違ってはいないし選択の余地はないが、一流にはなれないことが確実な道でもある。コンテナの事例はブロックチェーン技術というテクノロジーによって信用が担保されれば、金融機関の資本力による信用の必然性が揺らぐということも暗示している。

付加価値が上がったか下がったかを判断するのは、企業ではなく消費者だということです。たとえ「今までよりはるかに良い商品になった!」と供給者が考えても、それだけの価値を消費者が感じなければ、価格を上げることはできません。日本企業は「付加価値を上げる=新たな機能を追加すること」、もしくは、「付加価値を上げる=高機能化すること」と考えているかのようにみえますが、欧米の家電メーカーなどは、「機能を絞る」ことで付加価値を上げる手法も多用しています
伊賀泰代.生産性

伊賀さんのご指摘ごもっともだが、あえて日本をフォローすると、日本にも「機能を絞る=わび・さび」の概念がある。

2011-11-30 利休にたずねよ3/4 ~茶の湯の極意

わび・さび出してる時点で、現在の日本での好事例を探すのに俺も苦労していることの証拠でもあるんだが。戦国時代の経済成長によって、金銀両本位制からの脱却のために用意したのが、一国の徴税権ほどの価値がある茶器が登場したとか、面白い話が満載なので、「利休にたずねよ」は今一度読み返す価値がある本だと思う。

日本では、製造現場における改善運動から生産性という概念が普及したため、「生産性を上げる手段=改善的な手法によるコスト削減」という感覚が定着してしまっています。このため企画部門や開発部門など「自由に発想することが重要な仕事に従事している」(と自負している)人たちは、生産性の向上が自分たちの仕事にも極めて重要であると、長らく認識できないままになってしまっていました。

商品開発、サービス開発から、物流や在庫管理、顧客対応、研究開発や人事、経理、法務などの管理部門も含め、すべての部署で不断に生産性の向上を目指すことが必要なのであり、「うちは製造業じゃないから無関係」「開発や企画だけをやっていて、オペレーション部門を持たないから無関係」という話ではないのです。

非技術的なイノベーション、たとえば「貨幣制度の確立」とか「取引所の確立」といった経済的なイノベーション、「戸籍・住民票制度」や「裁判制度」といった社会制度上のイノベーション、「株式会社=有限責任制度」という法律上、ビジネス上のイノベーションは、すべて非技術的なイノベーションです。
伊賀泰代.生産性

では、私の方からも、「非技術的イノベーション」の事例を。

1987年1月パリ、OECDのある会議でフランスの大蔵大臣が「フランスは、メートル法と共に付加価値税で世界を征服した」と、大見得を切ったのである。

わかるかね? メートル法とVATはイノベーションだ、と言っているのだよ。貨幣制度が生産性の向上ってのは、ほとんどの人に通じないんじゃないかなー?


環境汚染と戦場を輸出し、貧困と格差を輸入する

10人の社員で10億円の利益を上げる企業のひとり当たりの利益は1億円。同額の利益を5人で達成する会社があれば、ひとり当たりの利益は2億円となり、後者の労働生産性は2倍となります。計算式の分子には売上げにや付加価値額、分母には資金や時間、労働者数など、様々な数字が入りますが、いずれの場合も生産性は「成果」÷「投入資源」という割り算で計算されます。

「アメリカのテクノロジー企業は収益は産んだけど雇用は産まなかった」 まー、よく聞く台詞だが、大体がそもそもアップルやグーグルの従業員数も知らずに言っている下らん批判だ。ただ、確かにGMより従業員数は少ない。ただ、ここではかなりわかりやすく伊賀さんが例示してくれているが、先進国企業=給料が高い、そのためには? 

企業名 従業員数 時価総額
AAPL 116,000人、756B
GM 225,000人、53B

という状態だとしたら、GMの社員に高い給料出せるわけねーじゃん。トランプさんが製造業に圧力かけて「雇用をアメリカに取り戻す」と言ってるじゃないか! という論調もよく聞くが、ラストベルトの票に対する気遣いにすぎず、アメリカ経済にとっての重要性は薄い。製造業が雇用が多い? 雇用という観点だけで言うならば、アメリカで一番従業員数が多いのはウォールマート。何人いると思うね? 230万人。GMの10倍です。新興企業でありながら実質上の物流でもあるアマゾンだって34万人。認めたくないかもしれないけど、アメリカで起きたことは数十年遅れで日本で起きるのよ? 将来の自分、あるいは自分の子供は、イオンかセブンイレブンで働くことを覚悟したほうが良いぞw

「では(生産性を上げるためには)投入資源を減らせばいいのだな」という話になるのが2番目の問題です。そこで採用される方法の大半が、昼休みにオフィスの電気を消すとか、コピーの枚数を制限するといったコスト削減策だからです。

それって生産性の向上? と思わず目が点になってしまうような事例ですね。私が出す事例は生産性の向上ではなく、震災後の4月に日本に行った時に、ほとんどすべてのオフィスで電気を消している自粛ムード。新人歓迎会は不謹慎! なんか意味あんの? と首をかしげてしまいました。

一方、海外に目を転じると、非製造業分野でも多くの事例が見つかります。たとえば、米国のクレジットカード会社や消費者ローンを提供する企業は、賃金の安いインドに特別な語学学校を作り、インド訛りのない英語を話すインド人を大量に育成しました。そして彼らを雇用することで、コールセンターをインドに移管してしまったのです。米国在住の消費者は、催促の電話がまさかインドかからかかってきてるとは思ってもみないし、その英語が、インド訛りの矯正スクールで習得されたものだとも想像していないでしょう。

この事例は知らなかったが伊賀さんらしい無難な事例と言い方だ。俺は関係ないのでもっと過激な発言をするがw、製造業が後進国に工場を作るのは、安い土地と従業員だけではなく、公害の輸出(環境規制が緩い国は対策しなくていいからコストが安い)という面もある。米国企業がやってることはそんなレベルだけではなく、例えば、戦場の輸出と軍事の民営化。あまりにもアコギなのでしょっちゅう名前が変わっているが民間軍事企業ブラックウォーター、
ブラックウォーターUSA

詳細については 「戦争請負会社 P.W. シンガー」に詳しい。

戦争請負会社 戦争請負会社
P.W. シンガー Peter Warren Singer

NHK出版 2004-12-22
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2017/12/02 追記

P・W・シンガーの戦争請負会社は、今読んでいる本で、MPRI(LLL傘下)やBRI(ハリバートン傘下)について書かれているが、ブラックウォーターについては書かれていない。参考文献を間違えてた。正しくは、

ブラックウォーター――世界最強の傭兵企業 ブラックウォーター――世界最強の傭兵企業
ジェレミー・スケイヒル 益岡 賢

作品社 2014-08-02
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だ。どちらの本も面白いので読んで損はないだろう。

追記、終わり。

その歴史的背景と必然性については、リンカーン暗殺と反ピンカートン法などもググってみれば、また面白い。

ピンカートン探偵社

アイゼンハワーの「軍産複合体の脅威」演説の前からずっと潜在的にアメリカに存在している問題の一つだな。マイケル・ムーアの映画ボウリングフォーコロンバインなども「アメリカの戦争と暴力の歴史」に触れていて、娯楽として見ても面白いと思う。

ボウリング・フォー・コロンバイン

このように日本語で本は出てるわ、Wikiでの解説もあるわ、映画まであるほどだ。

インドの語学学校まで作るグローバルアービトラージによるコスト削減の例として俺があげたいのは、「収益は、差が生み出す」。その究極のコスト削減、貧困と格差の輸入ともいえる事例は、ブラッドダイヤモンドについてWikiもあるし

ブラッド・ダイヤモンド

本もあるし、「テロ・マネー アルカイダの資金ネットワークを追って ダグラス・ファラー」

https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4532164818/globalcollabo-22/

ディカプリオ主演の同タイトルの映画まである。(それは見たことがない)

また別に

喰い尽くされるアフリカ 欧米の資源略奪システムを中国が乗っ取る日 トム・バージェス

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トム・バージェス 山田 美明

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武器と資源のバーター取引、武器輸出規制がある日本企業ではここまでできないので、徹底的な生産性の向上wに関してはどうしても米国企業が例に上がってしまうのだが、多くが日本語ソースで、Wiki、本、映画などで簡単にアクセスできてしまう。また別に、生産性の向上ってよりも究極の節税対策なのだが、皆さんもご存知の米国一流企業はまともに法人税も払ってない。これは株主利益最大化の企業努力であり、その言い訳としての代表格が「知財」。端的に言ってしまうと、スターバックスとしては「うちはコーヒー豆を輸入してるのではなく、「知財」を輸入していて原価が高いんでイギリスでは利益が上がっておらず法人税は払えません!」 というものだw ハンバーガーを売っているのではなく、マクドナルドを売っているのだ! というのと同じ発想。

徹底した「生産性の向上」、本来、俺の言葉で言うと合理化なのだが、それを日本企業がまともに米国企業と競争するのは不可能だ。ブーン・ピケンズが指摘した、トヨタと小糸製作所の明確な資本関係もないのに不透明な「系列企業」という関係により、トヨタが不当に小糸製作所の利益を収奪している! という主張を退けた過去の歴史があるが、こういった「資本主義と法治国家としてまともじゃない方向性が日本の強み」として活かしていくしかない。ファイアーウォールソフトのチェックポイントというイスラエル企業が米国では軍事機密として輸出規制をしていた暗号化技術を輸出することでグローバルスタンダードを勝ち得たという事例を見習うことが重要だ。

これを下品な話ととらえないでほしいのだが、中国がポルノ規制をしているのだから、ポルノ規制がほとんどない日本は、ポルノを中国に輸出してしまえばいいんだ。アダルトビデオの不法コピーとインターネット配信は、あえて目をつぶって、AV女優と会えるイベントなどを、AKB48のような握手券方式を拡張させ、金額に上限なしでオークションすればそれなりのビジネス規模になることは間違いない。俺がやってるオンラインゲームで世界ランキング上位に行くためには月額数百万円単位の課金が必要で、ランキング上位者は、中東のオイルマネーと中国だぜ。ゲームに月額数百万円課金するバカが中国に居るんだから、ポルノでそれを取りに行けばいいんだよ。


食と文化の謎 3/7~おぞましき豚

豚肉嫌悪はどう考えても牛肉嫌悪よりももっと非合理的に思える。すべての家畜の中で、豚は、植物を肉に変える速度と効率でもっとも大きい潜在能力を持っている。一生の間、豚は、餌に含まれるエネルギーの35%を肉に変えることができる。これに比べて、羊は13%、牛に至ってはわずか6.5%にすぎない。

豚に対する恐れと嫌悪の根拠を、いわば自明な豚の不潔さに求めることは、少なくとも12世紀にエジプトのイスラム王朝サラディン王につかえた宮廷医ラビ・モーゼス・マイモニデスの時代にまでさかのぼる。「豚の口はその糞とおなじくらいきたないから」 豚の排せつ物趣味は、豚の悪しき本性の故ではなく、ご主人様の買い方に問題があるのだ。排泄物を食べるのは、他にもっと良いものが無い時だけである。豚を動物の中で最も汚いものと非難しながら、他のくそを食べる家畜に対する寛大な態度については何も説明していない。ニワトリもヤギも、動機と機械がありさえすれば、やはり糞を食べる。犬もまた、人糞に対してたやすく食欲モリモリとなる家畜だ。豚肉忌避に関するマイモニデスの公衆衛生理論が科学的に正当性らしきものを獲得するには、その後700年待たねばならなかった。1859年に寄生虫のセンモウチュウと生の豚肉の関係が医学的に初めて立証され、それ以来、これがユダヤ教とイスラム教の豚肉タブーに対するもっともポピュラーな説明となった。

旧約聖書には、食べてよい肉と禁じられた肉を区別する定則が、かなりくわしく書かれている。その定則は、習性の不浄性や肉の健康に対する有害性については何も言っていない。そのかわり、食べてよい動物の解剖学的、生理学的な、ある特徴に注意を向けている。レビ記11・1は次のように言っている。

動物のうち、すべての蹄のわかれた、偶蹄のもの、そして反芻するもの、それらは食べることができる。

なぜ豚は食べるに良くないとされているかを説明しようと本当に思うなら、一言も言われていない排泄物や有害性ではなく、この定則を出発点にしなければならない。レビ記は続いて、豚はその定めの半分しか満たしていない、とはっきり言っている。つまり、「それは蹄がわかれている」。しかし、定めのもう半分は満たしていない。「すなわち、それは反芻しない」。

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反芻動物の並外れたセルロース消化能力は、中東では人間と家畜の関係にとって極めて重要な意味を持っていた。「反芻」できる動物の飼育によって、イスラエルの民とその周辺の人々は、人間消費用の作物と家畜と分け合わずに肉とミルクを得られたのだ。牛・羊・ヤギは、草、ワラ、干し草、切り株、灌木、木の葉などを食べて大きくなる。それらはセルロースをたくさん含んでいるため、どんなによく煮ても人間が食べるには適さない。反芻動物は、食物をめぐって人間と競合するどころか、肥料としての糞とスキをひく牽引力を提供することによって、農業の生産力をさらに高めた。

豚は雑食動物だが、反芻動物ではない。実際のところ、消化器官、必要な栄養分に関して、豚は、猿と類人猿以外のどの哺乳動物より、人間によく似ている。それが、アテローム性動脈硬化症、カロリー・蛋白質不足症、栄養物吸収作用、新陳代謝などに関する医学研究に豚がよく使われる理由なのだ。

豚は中東の気候と生態環境に合っていないという、もう一つのハンデキャップを追っている。豚の体温調整システムは、暑くて、陽であぶれられるようなところの生活には全く適していない。しかし、そういう所がアブラハムの子供たちのホームグランドであったのだ。汗かきの人間は「豚のように汗をかく」といわれるが、この表現は解剖学的根拠を欠いている。豚は汗をかけない-汗腺をもっていないのだ。豚はよく汗みずくになっているが、それは外部から取った水分で身体を濡らしているためである。ここに、豚が泥の中で転げまわるのを好む理由がある。豚は転げまわることによって皮膚からの蒸発作用と冷たい地面からの伝導作用で熱を発散する。泥の冷却効果は水より勝っている。

こういったマイナスをすべて相殺するには、豚は反芻動物に比べて、あたえてくれるベネフィットがあまりに少ない。豚はスキを引けず、その毛は繊維や布に向かず、そのうえ乳用に適さないからだ。豚は肉以外ほとんど役に立たない唯一の大型家畜である。ニワトリは肉だけでなく卵も産む

レビ記は、反芻しないすべての陸上脊椎動物を徹底して禁じている。禁じられているものは、豚の他に、馬、猫、犬、ネズミ、爬虫類があり、これらはどれも反芻動物ではない。しかしレビ記の記述は、頭が変になりそうなほど複雑である。レビ記が特別に反芻動物と認定した三種類の動物も、食べるのを禁じられている。それは、ラクダと野ウサギ、そして三番目の動物はヘブライ語でシャーファーンである。これら名指しにされた三種の反芻動物が食べるに良くない理由は、「蹄がわかれて」いないから、と書かれている。

レビ記の食物規則はそれまでにあった伝統的な食物偏見と忌避を、ほぼそのまま成文化したものである。レビ記は紀元前450年まで文字に書かれなかった。これはイスラエルの歴史では非常に遅い時期である。おそらくレビ記の著者たちは、食べるに良い陸上脊椎動物が共通に持っているなんらかのわかりやすい特徴を見つけ出そうとしていたのだろう。レビ人が動物学の知識をもう少し持っていれば、反芻と言う基準の身を使い、ただ「ラクダを除く」と但し書きを付け加えるだけで良かったのだ。ラクダ以外のレビ記ではっきりと禁止されているすべての陸上動物-ウマ科、ネコ科、イヌ科、げっし類、ウサギ、爬虫類-は非反芻動物なのだから。しかし、動物学の知識に不安のあった法典編纂者たちは、ラクダだけが望ましくない反芻動物であるのか自信を持てなかった。そこでかれらは蹄が割れているという基準を加えたのだ。この特徴は、ラクダには欠けているが他の身近にいる反芻動物は備えていた。ラクダは蹄のかわりに、各足に二つのよくまがる、大きな指を持っている。

しかし、ラクダはなぜ望ましくない動物なのだろうか。ラクダが砂漠の環境に極めてうまく適応していることの反映であると考える。水を貯え、暑さに耐え、重い荷物を長距離運ぶという素晴らしい能力を持ち、しっかり閉じて砂嵐から守る長いまつげと鼻孔をもつラクダは、中東の砂漠地帯の遊牧民にとって最も重要な財産だった。しかし定住農耕民であるイスラエルの民はラクダをほとんど利用しない。砂漠以外のところでは、羊・ヤギ・牛の方が、ずっと効率よくセルロースを肉とミルクに変える変換器である。それにラクダの繁殖は極めて遅い。雌はなかなか子を埋めるようにならないし、雄も6歳にならないと交尾できない。そのうえ、雄の発情期は年に一度であり、また妊娠期間が12か月かかることが繁殖をさらに遅くしている。ラクダの肉もミルクも、古代イスラエル人の食糧に占める割合はごくわずかだった。アブラハムやヨセフのようにラクダを持っていた少数のイスラエル人も、砂漠を横断する時の運搬手段としてのみラクダを利用していたと思われる。

このような解釈は、イスラム教徒がラクダの肉を食べることを考えると説得力が増す。コーランでは、豚肉は特別に禁じられているが、逆にラクダの肉は特別に許されている。砂漠に住むイスラム教徒遊牧民ベドウィンの全生活様式は、ラクダを基盤にしていた。ラクダは彼らの主要な運搬手段であり、また、おもにミルクを取ることで主要な動物性食物源となっていた。ラクダの肉は日常食ではなかったが、ベドウィンは砂漠を旅する間、いつもの食糧がなくなってしまうと、非常食としてラクダを殺さなければならないことがよくあった。もしイスラム教がラクダの肉を禁止していたら、巨大な世界宗教になることは決してなかっただろう。アラビアの中心地を征服することも、ビザンチン帝国やペルシャ帝国を攻撃することも、そしてサハラ砂漠を越えてサヘル地域や西アフリカに到達することもできなかったに違いない。


食と文化の謎 2/7~牛は神様

動物の肉は非常に栄養豊かなのだから、どの社会でも手にいられる限りあらゆる種類の肉が、貯蔵庫に蓄えられていると思うであろう。ところが実際には、全く逆のことが多い。世界中で肉に豊富に含まれている蛋白質、カロリー、ヴィタミンに対してすさまじいまでの欲求を示す同じ人々が、特定の種類の肉に限っては食べるのを拒否する。肉が栄養豊かであるなら、なぜ、それほどの多くの動物が食べるのに悪いものとされるのだろうか。インドを例に上げれば、さまざまな非合理的な食慣行のなかでもっとも有名なもの、牛を殺すこととその肉を食べることの禁忌がそうだ。

ヒンドゥー教の歴史において、牛の保護が常に中心的な問題であったわけではない。ヒンドゥー教の最古の聖典ーリグ・ヴェーダーは、紀元前1800年から800年にかけて北インドを支配していた牛を飼う農耕民ヴェーダ人(当時のアーリア人)の、神々と慣習に対する賛歌である。ヴェーダの時代におけるブラーマン階級の宗教的義務の中心は、牛の保護ではなく、殺牛だったのだ。ヴェーダ人は、動物の供犠と盛大な肉祭を同時に行ったヨーロッパと南西アジアの戦士・牧畜民の一つだった。儀式の時、ヴェーダの戦士と祭司は、ケルト人やイスラエルの民と同じように、忠誠に対する物質的褒賞として、また富と力の象徴として、臣下、従者たちに肉を気前よく分け与えた。村、地域全体がこの肉を食べる饗宴に参加した。

それぞれの儀礼に適切な牛の大きさ、形、色について、ブラーマン祭司が払わなければならない注意は、類似の古代イスラエルの供犠に関してレビ記に詳しく指示されているものと非常によく似ている。ヒンドゥー教の聖典で上げられている動物には次のものがある。額に白い斑点のある、角のたれた、去勢してない雄牛。足の太い成熟した雌牛。不妊の雌牛。流産したばかりの雌牛。三歳の、背こぶのない、小柄な、若い雌牛。黒い成熟した雌牛。二色の成熟した雌牛。そして、赤い、成熟した雌牛。このことからヴェーダ人は牛を他の動物以上によく犠牲にささげたし、紀元前1000年期の北インドでは牛肉が最もよく食べられる肉であった、と推測できる。

そのような、おしみなく牛を殺しその肉を食べる時代は、やがて、ヴェーダ人の首長たちが、もはや大量の牛の群を富の象徴として蓄えておけなくなるとともに、終わった。森林が縮小し、牧草地にスキが入り、それまでの半牧畜生活様式は、集中的な農耕と酪農に変わった。この変化は、単純なエネルギー関係に裏付けられていた。肉食を制限し、そして酪農と小麦、雑穀、レンズ豆、エンドウ豆、その他の作物の栽培を中心にすることによって、それまで以上に多くの人間が食べていけるようになったのだ。穀物を動物に食べさせ、その肉を人間が食べた場合、カロリーの9/10、蛋白質5グラムのうち、4グラムが失われる。酪農はこの損失をかなり減らすことができる。現在の乳牛が資料をカロリーに変える効率は、同じく現在の肉牛が資料を食肉と言うカロリーに変える効率の5倍である。また乳牛は肉牛の6倍の効率で資料を食用蛋白質にかえる。

人口密度が低い間は、未開墾地の草を牛に食べさせることができたし、一人当たりの牛肉生産を高いレベルに保てた。だが、人口密度が高くなるとともに、牛は人間と食物を取り合うようになり、やがて牛の肉はコストがあまりに高くつくものになって、首長たちは牛肉食を伴う公開供犠で、それまでのように気前よく振る舞えなくなった。しだいに人間に対する牛の割合が減り、それとともに牛肉の消費量も、とくに低いカーストでは少なくなった。しかし、そこにジレンマがあった。牛を全くなくすわけにはいかなかったのだ。農民はスキをひかすための牛を必要とした。スキは北インドに多い固い土壌を耕すのに必要だった。事実、ガンジス川流域平原の開墾に牛をひかせたスキを使い始めるとともに、人口の増加と、広く肉食一般、とくに牛肉食の中止も同時に始まったのである。もちろん、社会の全階級が同時に牛肉を食べる慣習を止めたのではない。特権階級のブラーマンとクシャトリアは、一般人を招いて喜びを分かち合うことができなくなったずっと後も、あいかわらず牛を殺し、牛肉を腹いっぱい食べていたのである。

ushisan

現在のインドおよび他国の企業家たちは、インドの「過剰」家畜を肉にして、外国、とくに石油で懐の豊かな、肉を欲しがっている中東の国々へ売れない物かと、しきりに狙っている。だから、ヒンドゥーの牛肉忌避は、インド産牛肉の大規模な国内市場あるいは国際市場の発達を阻止するのに役立ち、同時に、典型的な小規模農家を破産や土地を失うことから守っているのだ。もし足かせが説かれて大規模な牛肉市場が発達したら、インドの牛の価格は必ずや国際的な牛肉価格のレベルまで引き上げられるだろう。そうなれば家畜飼料はもっぱら牛肉生産用に使われてしまい、小規模経営の農民たちは農耕用の牛を飼ったり借りたり買うのが次第に難しくなるだろう。そして年々増加する人間にではなく家畜飼育に土地を振り向けるようになると、一握りの商人や富農が利益を独り占めし、残りの農民たちは生産、消費ともに低いレベルに落ち込んでいくに違いない。

牛を殺してはならないという戒律はあるものの、ヒンドゥー教徒の農民は、役に立たない牛を計画的にとりのぞいている。つまり、必要と環境条件によって雌牛にたいする雄牛の割合を巧みに調整しているのだ。現在のインドでは、ヒンドゥー教徒農民は、不要の牛を始末するのに、そのほかもう一つの方法を用いている。イスラム教徒の商人に売るのである。かれらは村からそういう牛を引き取り、地方の市で売る。それらの牛の多くは、最終的には合法的に、そうでないばあいは牛を殺すことを宗教的に禁じられていないほかのイスラム教徒によって、始末され、そのようなイスラム教徒は、結果的に、築牛解体処理業の独占といううまみをえることになる。牛肉と承知の上、またそうとは知らずに「マトン」として、かなりの量の牛肉を買っている。この「マトン」という雑肉表示ラベルは、イスラム教徒とヒンドゥー教徒の間の平和を維持するのに役立っている。ある経済学者によると、インドの7250万頭の牽引用雄牛を維持するには2400万頭いれば十分で、3000万頭の雌牛は過剰であり、それらを殺すか海外に売ることができれば皆の益になる、と断じている。


食と文化の謎 1/7~肉が欲しい

本は常に読んでいるのだが、放浪生活の際、あまりに多くの本を持っていると重たくてつらい。4月時点で20冊ほどの本を持っていたが、現在10冊以下に減ってきた。軽くするために早く本を読みたかったので、書評も書くのをやめていたのだが、あまりに面白い本だったので、久しぶりに記録に残しておこうと思う。ヒンドゥーとイスラームの隣同士で、牛と豚を食べてはならないというのは、食料の奪い合い止めるための方便として、合理的な社会規範として成立しうるのではないか? と考えている私に対して、かなり合理的な説明を与えてくれた本でもある。

インドのヒンドゥー教徒が肉を食べず、ユダヤ教徒とイスラム教徒が豚肉を忌み嫌い、アメリカ人が犬のシチューなど考えただけで吐き気をもよおすことを考えると、何を食べるに良いものとするかを決めるポイントは、単なる消化生理学を超えたほかの何かである、と思わざるを得なくなる。

好んで選ばれる食物は、忌避される食物より、コスト(代価)に対する実際のベネフィットの差引勘定の割が良い食物なのだ。つまり、選ばれる食物は、忌避される食物に比べて一般的に、一皿当たりのエネルギー、蛋白質、ビタミン、ミネラルが多いのだ。食物によっては、非常に栄養豊かでありながら、それを作るには多大な時間と労力がかかるため、あるいは土壌や動植物の生活に悪い影響を与えるために、またそのほかの環境問題の理由で、はねつけられるものもある。世界各地の料理にみられる違いは、大部分、エコロジカルな制約と条件に理由を求められ、その制約と条件は地域によって異なることを、本書で明らかにしようと思う。

例えば、肉食中心の料理は、比較的低い人口密度、作物栽培に不向きか必要としない土地に関連がある。逆の菜食中心の料理は、高人口密度に結びついており、地勢、地味と食料生産技術の制約から、食用動物を飼育すると、人間が手に入れられる蛋白質とカロリーの総量が結局は減ってしまうことになるようなところである。このあとわかるように、ヒンドゥー教徒の場合、肉生産はエコロジー的に非実用的で、そのマイナスが肉食の栄養上のプラスをはるかに上回っているから、肉は食べないのである。栄養上のエコロジー上のコストとベネフィットは、貨幣経済上のコストとベネフィットと必ずしも同じではない、ということである。アメリカなどの市場経済では「食べるに適している」は「売るのに適している」を意味し、栄養価値とは別問題の可能性がある。母乳代用品としての乳児用の調合乳の販売は、栄養やエコロジーより収益性が優先される典型的な例だ。

狩猟採集民は、しばしば、しとめた獲物の肉の特定部分を、ときには全部を、食べないで捨ててしまうという行動である。たとえばオーストラリアのピャンジャラ族は、しとめたカンガルーに近づくと、肉に脂肪がどれだけついているか尻尾で調べ、その様子が芳しくない場合は、そのまま捨てていく。また考古学者たちの頭を長い間悩ましてきた問題がある。それは、アメリカの大平原地帯の古代の野牛狩りの跡についてである。殺した野牛の数箇所だけが持ち去られており、おそらくその部分は食べられたと思われるが、その他の部分は、食べられもせずに、倒した場所にそのまま置き去りになっているのだ。この一見不合理で気まぐれと思える行為に対する説明は、狩人たちが脂けのない肉ばかり食べていると餓死する危険があるからということだ。長年エスキモーとくらし、生肉だけを食べて健康を保つすべを学んだヴィルジャルムル・ステファンソンは、そういう食事は肉に脂肪が多い場合にのみ成立する、と警告している。かれは、エスキモーやインディアン、また、アメリカ西部海岸地帯の初期探検者たちの多くが脂けのないウサギの肉を食べすぎたためにかかったと考えられていた症状、つまりかれらが「ウサギ飢餓」と呼んだ現象の生々しい描写を残している。

普通の脂肪量の食事から、急にウサギの肉だけの食事に変えると、最初の数日間、食事の量はどんどん増え、約一週間後には、最初の3倍か4倍食べるようになる。その頃には飢餓と蛋白毒の症状が出ている。幾度も食事をする。食べても食べても空腹を感じる。食べすぎのために胃が膨れて、気持ちが悪くてたまらなくなり、漠然とした不安を覚えるようになる。一週間から10日後に下痢が始まり、脂肪を取らない限り止まらない。数週間後、死が訪れる。

ちなみに、真剣にダイエットしている人なら、この処方箋に、アーウィン・マクスウェル・スティルマン医学博士の、金儲けのうまい、効き目抜群の、しかし非常に危険なダイエットを思い起こすのではないだろうか。このダイエットは、食べたいだけの赤身の肉、鶏肉、魚をいくらでも食べさせ、それ以外は何も食べさせない方法である。この脂肪のないウサギ肉市場を買い占めた最初のダイエットクラブは、今後さらに一層の金儲けをするだろう。

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勝つ投資負けない投資 2/2~社長業

「投機」と「投資」の違いとは?
正解は、投機とは「確率」にお金を投じること、投資とは「価値」にお金を投じることです。パチンコや競輪、競馬などのギャンブルへお金を投じるのは、確率に対してお金をかけている状態であり、一定の確率で勝ち、一定の確率で負けるようにできています。一方で投資とは価値にお金を投じるものです。価値には絶対的なものはなく、需要と供給にとって大きく変動します。需要が大きくなればなるほど、供給が小さくなればなるほど、価格の均衡点は高くなっていきます。

この説明でも良いですね。僕の説明では、
2013.04.04 投資・投機・ギャンブルの違いを述べよ
「投資・投機・ギャンブルの違いを述べよ。」と著者に問い詰めたくなる。正解はないが、どのように答えるかで、その人の考えやこだわりがわかる。私の考えでは、
投資とは、リスク・プレミアムを受ける行為、ギャンブルとは、リスク・プレミアムを払う行為。
投資とは、資産価格で認識する取引態度、投機とは、損益だけで認識する取引態度。
うーん、あんまり一般向けじゃないかなぁ、リスク・プレミアムって概念を当たり前に使っているあたりが…反省ですね。

残念ながら日本では職業としての社長業というものがなく、単にプロパー社員で一番出世した人や、親会社から天下ってきた人が社長になるシステムであるため、社長の能力が要求される基準に達していないことが多く見られます。このため、私は日本株に関しては社長と直接ミーティングをしない限り、その会社へ投資することは基本的にありません。これとは対照的に、米国の場合には社長業のプロがいます。会社の業績が悪化してくると、株主やその意向を受けた委員会がその状況に適したプロの社長を探し出して、組織の立て直しを図ります。プロ社長の前職は、業種業界が全く異なることもよくあることで、電子デバイスの会社の元社長が、百貨店のトップになったり、商社の社長がアパレル企業のトップになったりということが、日常的に起こっています。社長に求められるものは業界の専門的な知識では無く、イノベーティブな組織作りなどのソフト面にあるためです。

最近どうだろう。新浪さんとかソフトバンクの次期社長とか、あっ、あれインド人かw
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勝つ投資負けない投資 1/2~株ドラマ

そんな時期に、偶然に出会ったのが株式投資でした。2005年に、『ビッグマネー!~浮世の沙汰は株しだい~』(フジテレビ)という株をテーマにしてテレビドラマを観たのがきっかけで、僕は相場の世界に入りました。そのドラマを観るうちに、「世の中にはこんなに面白い世界があったのか!」と居ても立ってもいられなくなり、すぐさま証券会社に口座を開きました。その時、僕の手には、バイトで貯めた全財産の65万円が握りしめられていました。

[このyoutubeは削除されました]
このドラマ見た人いる? 酷いドラマでねぇ、見れば、製作スタッフに株を知っている人が一人もいないのがわかる。株価が、40円、60円、35円、16円みたいな瞬間瞬間で飛び飛びの値を取ったり・・・、一番ひどいのが衝撃のラストシーン、「1分前に筆頭株主になりました」って言って株主総会に乗り込んでくるという、あきれ果てて声も出ない。でも、それで「株やってみよう」なんて人もいたんだなぁ…。


国税局資料調査課

「コメ」という部署は、国税局資料調査課の隠語である。マルサと違い、一般人にはまだ知られていない。資料の「料」と調査課の「調」をとって「リョウチョウ」とも呼ばれているが、税理士などを含めた税務の分野ではすでに知られた言葉で、隠語としての価値はなくなった。それで「料」のヘンを指して「コメ」と呼ぶようになったのだ。コメは、マルサとは違いタマリが無くても調査を実行する。蓄積されたデータをもとに調査対象者を選定し、令状なしで(むろん、納税者による承諾の明示が必要とされるが)隅から隅まで調査する部隊である。大型事案では100人を投入することもある。
強制捜査より怖い任意調査
世間ではマルサが税務当局における最強部隊のように認識されているが、徴税に関してはコメのほうが圧倒的に怖い存在である。コメは1週間に一事案を基本に調査を企画・実施しており、増差所得(調査によって把握した所得)、調査件数ともに、職員一人当たりの効果測定はコメが圧倒している。マルサの調査事績は国税庁により公表されているが、2012年度に告発したのは117億円。人員が約300人とすると、一人当たり増差所得は3900万円にすぎない。コメの調査事績は税務署の調査事績の中に混在しており、具体的な数字はベールに包まれているが、一人当たりの増差所得は5億円は下らないだろう。追徴本税に換算すると年間2億円程度になり、マルサの5倍以上だ。マルサとコメとの大きな違いは調査の性格にある。すなわち「強制捜査」と「任意調査」の違いだ。マルサは内偵の結果、「タマリ」と呼ばれる不正計算の裏付け(過少申告した利益に対応する預金、有価証券、不動産など)があった案件しか調査できない。つまり答えがわかっている案件しか調査できないのである。
マルサの「強制」は、国税犯則取締法という法律に基づいて裁判所から令状を取るという後ろ盾があることによるが、コメは令状が無くても調査が可能。しかも「任意調査」は強制調査に対する対義語なだけで、法律上は、納税者には質問に答えたり調査に応じなければならない義務がある。コメは、国税通則法に定められている「質問検査権」という権限に基づいて調査する。質問や検査にあたって、相手方の「明示の承諾」があれば、書類やその他の物件を調査することができる。財政と治安は国の根幹であり、税収は財政にとって非常に重要なものである。調査を受けずにのらりくらりといなされては困るので、調査官が持つ質問検査権はかなり強力になっている。拒否したり、虚偽の回答をした場合には、懲役1年以下などの懲罰規定も定められている。つまり、間接的に強制しているので、「間接強制調査」といわれる場合もある。任意という言葉尻をとって軽く考えている人もいるが、その点は気を付けておくべきだ。質問検査証には、権利が及ぶ範囲が明記されている。例えば京橋税務署と明記されていれば、京橋税務署の管轄しか調査はできない。しかし、コメは、東京国税局長が質問検査証を発行するので、84すべての税務署の管轄エリアを調査できる権限を持っている。税目についても同じだ。例えば税務署の個人課税部門の場合、所得税調査が業務となるので、質問検査権は所得税法に関する調査に限定される。つまり、法人を直接調査することはできない。取引相手を調査する反面調査はできるが、その法人自体を調査対象とすることができない。ところがコメの場合には全税目に対して調査できる権限を与えられているのだ。
世に出ている節税本などに書かれていることを実践しても、大した節税にはならない。極端な利益の低調は、かなり怪しいと感じる。脱税は論外としても、過少申告の動機は限られている。来期以降の不況対策、株主対策、予算・決算を重視する企業においては、事業部の実績捜査のために行われるのが一般的だ。無理な利益調整を行うと、売り上げの伸びと申告所得の伸びに歪が生じる。歪みのある企業に行けば追徴ができ、調査官の成績に加点されるので、優先して選定されるわけである。利益を圧縮する方法は、実はいくつもない。売り上げを減らす。売上原価や経費の水増し、架空経費を作る。それに棚卸資産を減らすという大きく3つほどだ。水増し発注の場合は、協力者が必要になる。本当は1000万円の支払いなのに、3000万円支払ったことにして、2000万円戻してもらうといったように、だ。しかし、調査が入った場合、発注先に迷惑をかけてしまう。ところが棚卸の過少申告は自社だけで完結できる。しかも、棚卸を減らした伝票を入れるだけなので簡単。一度手を付けられたらやめられないわけだ。


ナイスディール

ま、うん・・・一応読んだけど、折り目わずかに2ページだけだった。

蒔田雄一郎がCEOを務めるスパイスクルーズは、インターネット関連のいくつかのお事業に加えて、企業の独立支援をビジネスの柱にしていた。企業に出資して再生支援を行うという点では再生ファンドのような位置づけと言えるが、特徴的なのは労働組合への接点を通じて企業へアプローチする点にあった。蒔田はこれからの企業に経営者はいらないといった。株主はもはや企業経営上の需要な利害関係者ではない。彼らは結局のところ、従業員の利益を損なうことでしか存在しない。企業は従業員のためにこそ最大の貢献をするべきであり、そのために従業員の代表を取締役にすべきである。

この手の小説は読まない方がいいんだけど、冷やかし半分の気持ちで読むと毎度、違和感を覚える点をいくつか。
1.バイサイドとセルサイドの区別がついていない。
バイサイドは個人投資家と同じ、つまり、リスクを取る=株を持つこと、どんな会社かとか収益性が議論の中心だが、セルサイドの話なら、リスクを消すこと、発生したポジションは消すものであって、持ち続けることは無い。もちろん、一時的にとはいえ、保有するから、どんな会社なのかを、全く無視することは無いだろうが、それよりも、誰が売っているのか、誰に売るのか、誰が持っているのか、ということが中心のはずだ。
2.ビジネスに絡む女性が「不自然に」登場する。
そういうロマンスは無い。男しか登場しない。以上。
3.所詮は「村」の話なのに、世界の中心かのような表現
日本市場でも、株は比較的、世界展開できていると思うが、株でもエクイティのデリバティブ、JGB、そしてこの小説で扱っている社債市場に行くにしたがって強度の村社会。市場参加者が非常に限られている小さな小さな世界の話。どのくらい小さいかというと、JGBは発行総額・残高という意味での市場規模はめちゃくちゃデカいのに、誰も見てない。当座預金金利マイナス導入以前の、量的緩和以降、短期の国債はずっとマイナスだったのに、その時は誰も何も言わず、黒田さんの「マイナス金利導入」という単語にのみ、異様に反応していることからもわかるだろう?


紛争と難民 緒方貞子の回想 5/5~難民発生の根源

明るみに出た虐殺の実態
1996年10月以降に行われた殺戮及び残虐行為には、ザイール国軍(FAZ)と傭兵、旧ルワンダ政府軍(FAR)と難民キャンプ出身の民兵、そしてカビラが率いるAFDLとルワンダ政府軍(RPA)という、三つの集団がかかわっていた。殺戮や残虐行為の内容や規模は集団によって大きく異なっていた。AFDL部隊および同盟を組むRPAは、民間人や難民に対し大規模な殺戮を行った。AFDLの行った殺戮と残虐行為にRPAも関与していたことが明らかになると、アメリカ政府は立場を変えざるを得なくなった。忘れてはならないのは、アメリカはフツ系難民が多数を占めるザイールの難民キャンプに人道援助を行う一方、RPAと南キヴのツチ系バニャムレンゲの軍事訓練や軍事支援にも手を貸していたという事実である。アメリカ軍による軍事訓練がRPAとAFDLの軍事能力を高めており、もはや暗黙の政治支援や軽度の治安維持支援の域をはるかに超えていると広く思われていた。人道的な地雷除去と訓練プログラムを隠れ蓑に、より積極的な軍事支援が行われていたと考えられていた。
RPAの関与について国際的な監査が進むにつれ、アメリカの政治・経済・軍事面での支援が問題になった。アメリカはルワンダ政府を支持したが、これはカビラ率いるAFDLを支援したことになるだろうか?下院公聴会でのクリストファー・スミス下院議員の質問や、「人権のための医師団」の証言に対して、アメリカ政府はルワンダへの軍事支援の重要性を否定しようとした。人権問題調査チームがカビラによる妨害や活動の制限によって、任務遂行上の困難に直面すると、アメリカは調査に賛成し、これまでに行われた大虐殺の責任を追及する、という立場を取り始めた。
アフガン難民
1970年代末から23年間、アフガニスタンはずっと戦場であった。国際社会がこの国の平和と安定を確かなものとするためにようやく支援に乗り出したのは21世紀になってからで、アメリカを襲った同時多発テロの余波のさなかであった。アフガニスタンから膨大な数の難民が流出する事態を引き起こした様々な紛争は国内問題に起因するが、外国の介入が国内紛争を一段と激化させた。米ソ両超大国の冷戦対立はムジャヒディーン(イスラム聖戦士の意)などのイスラム抵抗勢力による熾烈な武装闘争に火をつけた。ソ連軍はムジャヒディーンの激しい抵抗にあい、撤退するとアメリカはアフガニスタンに対する関心を失っていった。タリバーン勢力の台頭は一部の地域を平定したが、厳格で抑圧的な統制を強めたため、国民生活は悪化の一途をたどった。また、タリバーンの支配はアフガニスタン周辺諸国の関与を強めることになった。なかでもとくにパキスタンはタリバーンを支援することで影響力を著しく強めていったのである。
終わりの見えない戦争の惨禍と、泥沼化したアフガン問題を解決しようとする国際社会の関心は薄れてゆき、アフガン国民は苦難の中に取り残されていった。1978年に共産党が政権を掌握するとアフガン国民は国を離れはじめ、1979年末のソ連軍の軍事侵攻後には大規模な難民流出が起きた。推定では1年間に630万人が周辺諸国へのがれ、そのうちパキスタンには330万人、イランには300万人が避難した。ソ連軍が撤退を開始した1989年2月から91年末までに、およそ30万から40万人の難民が故国に帰還した。その後、92年4月にカブールの共産主義政権が崩壊すると、最多の難民がいち早く本国に帰還、その数はパキスタンから120万人、イランからは20万人に達した。その後も期間は続いたものの人数は減少していった。96年9月にカブールが陥落し、タリバーン勢力が政権の座につくと、新たに5万人の難民が生じた。そのうち80%はカブール出身者であり、さらに30万人の国内避難民がアフガン北部と東部の戦闘から逃れていった。アフガン難民が置かれた状況はパキスタンとイランでは大きく異なっていた。パキスタンに逃れた難民の多くはパシュトゥン族で、この民族が多く住む地域を中心に非難した。難民の3/4は女性と子供で、ソ連と共産主義の信仰の犠牲者を対象にした豊富な資金源のお陰で、国際機関や数多くのNGOが提供する十分な医療・教育支援を受けていた。それとは対照的に、イランに逃れた難民は、タジク人、ウズベク人、ペルシャ語を話すシーア派のハザラ族で、そのうち60%は成人男子であり、イランの労働力を担っていた。イランに滞留した難民に対する国際援助は非常に限られたものであった。1979年のイスラム革命以降、イランの新イスラム政権と西側諸国は緊張関係にあったからである。

紛争と難民 緒方貞子の回想 紛争と難民 緒方貞子の回想
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紛争と難民 緒方貞子の回想 4/5~難民の定義

第三章 アフリカ大湖地域における危機
アフリカ中部の極小国ブルンジとルワンダは、2つの大国、ザイール(現コンゴ民主共和国)とタンザニアに挟まれた内陸国である。
Rwanda.jpg
> この地図上の位置だけで、海を奪われた大国の緩衝地帯。悲惨の運命が待っていそうな予感がする。
国土のほとんどは丘陵地で、人口密度は高い。人々は同じ言語を使い、文化を共有しながらも異なる部族、とりわけフツ族とツチ族の二大集団によって構成されている。旧宗主国はツチ族の長を通じて間接統治を行っていた。しかしながら、独立が近付くにつれて、多数派のフツ族は旧来の統治方法に対してますます挑戦的になり、政治的・社会的地位や権力を要求するようになっていった。1961年にフツ族が弾圧的な共和制を樹立すると、おびただしい数のツチ系住民が周辺諸国へ逃避した。1960年代初頭までに、ルワンダから15万人がザイール、ブルンジ、ウガンダ、タンザニアに流出した。1990年の時点でもなお難民だと名乗る人は、概数で60万から70万人にものぼっていた。難民に加え、多数のルワンダ人が、隣接するザイール東部のキヴ地方に移住した。
国内はフツ系とツチ系に分断され、深刻な政治的対立が続いていた。政権の座に就いたのはフツ族であったが、軍を掌握していたのツチ族であった。1993年10月21日にブルンジ政府軍がクーデターを起こし、ンダダイエ大統領が暗殺されると全土に暴動が広がり、5万人を超えるフツ系住民が殺害されたうえ、70万人を超える難民がルワンダ、タンザニア、ザイールへ流出した。
ジェノサイドと難民の避難
ルワンダでジェノサイドが起きると、フツ系住民は大部分が周辺諸国に逃れた。最初の集団は1994年4月末に国境を越えてタンザニアに流入した。その数は25万人にのぼったがUNHCRはこれには何とか対応することができた。難民の多くはキブンゴ州のフツ系農民であったが彼らは殺戮から逃れてきたのではなく、かつてルワンダ東部で起きたツチ系住民の殺害に関与していたため、ルワンダ愛国戦線(RPF)部隊が到着する前に脱出してきたのである。そのなかには、かの悪名高いムランビ市長であるジャン・バプティスト・ガテテが紛れ込んでいた。彼はかつてルワンダで起きた大量殺戮の首謀者であった。UNHCRはこの人物をベナコ難民キャンプからタンザニア警察の拘留所に移送しようとしたが、大きな抵抗にあった。5000人ほどの群衆がキャンプを取り囲み、ガテテの釈放を要求したのである。この暴動事件は難民集団の複雑な性格を示すもので、難民は大部分が、RPFの到着を阻止するために政治行動や犯罪鋼を犯した集団に属していた。この時代は、現場で活動する人道援助要員の安全を確保するにも、難民の活動を抑えるにもタンザニア警察の能力には限界があることを示すものであった。
> 虐殺加担した後で逃げた人は、果たして「難民」なのか?


紛争と難民 緒方貞子の回想 3/5~領土問題への介入

1993年2月17、私は声明文を発表、「通行妨害を受けている輸送体を基地に戻し、セルビア人勢力支配化のボスニアにおけるすべての救援活動を直ちに停止する。サラエヴォにおけるUNHCRの活動を全面的に一時停止し、包囲下にあるこの38万人都市には最小限の要員だけを残し、ほとんどの職員を引き揚げる。サラエヴォへの物資輸送及び空輸を一時停止する。UNHCRの活動が継続できるボスニアの地域ではUNHCRの救援事業を規模を縮小して維持する」「政治指導者側が援助の再開を要望し、輸送体の通行を妨害しないと保証するなら、即座に再開する」
メディアの論評は、私が決定を下す前に事務総長と協議すべきだったとするニューヨークの外交官や国連職員の批判的な見方を反映したものであった。「事務総長と事前協議せずにボスニアにおける援助活動を『現地での活動上の理由で』一時停止するという、昨日のあなたの声明を懸念している 安全地域を設置することによる将来の領土分割への影響
安全地域政策の矛盾
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私を最も驚かせたのは、オルブライト米国連大使が、安全地域はボスニア共和国領土の基礎となると言及した、次の発言であった。「領土が無い国家は無い。こうした安全地域の設置を通して我々が試みようとしていることは、これらの安全地域をいずれはボスニア国家となる地域として確立することである」。ボスニア紛争の人道問題に没頭していた私は、安全地域をこのような意味で見たことは無かった。領土問題は和平協議にとって重要であることは理解していた。しかし、人の命はどうなるのであろう?
安全地域政策は軍事作成上の位置づけであると同時に、対立する政治的利害の産物でもあった。戦争犠牲者を保護する人道的手段としては、政治的かつ軍事的打算と決定に左右されるものであった。ボスニア政府とその支援者にとって、安全地域は来たるべきボスニア国家の領土分割を軸とした政治解決の担保にするものであった。またボスニア政府にとっては、セルビア軍の陣地へ向けて発砲する場所でもあり、自国の軍隊が休息し、訓練し、装備する場所でもあった。セルビア側は安全地域をボスニア東部を支配下におさめるために制圧すべき軍事攻撃の対象と考えた。


紛争と難民 緒方貞子の回想 2/5~対立する利害

クルド難民
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UNHCR内には、難民が逃れ出た敵意に満ちたイラク国内にまで難民保護の範囲を拡大することに、深刻な懸念があった。また、庇護の代替として安全地域を設けることに強く反対する者もいた。さらにイラク国内における我々の活動拠点の存在が、周辺諸国に難民の庇護を拒否する口実に使われることが心配された。こうした前例ができてしまうと、UNHCRの基本的な難民保護のマンデート、すなわち本来の任務に弊害をもたらすかもしれない。しかも多国籍軍諸国が採択した緊急措置に異を唱えることはそもそも難民保護と援助を目的に設立されたUNHCRが、その任務を自ら否定する結果にもなりかねなかった。UNHCRは自国の外にあって、人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であること、または政治的意見を理由に迫害を受けるという十分に理由のある恐怖を有するために、自国へ帰還できない人々を保護し援助する任務と権限を与えられていた。つまり、自国内で住んでいる所から追われた人々は法的に定義された、国際的な難民保護の枠組みの外にあると理解されていた。各国は迫害される恐れがある状況下に難民を送還してはならないとする義務はあるが、庇護を与えることを強制されるものではなかった。クルド難民問題は、UNHCRの難民保護の任務にとって、厳しい試金石となったのである。国境内では任務を行使しないという報的命令を守り、越境を阻止されている人々への援助を控えるべきなのか、それとも、より現実的な人道的立場から、できる限り援助の手を広げるべきなのか? 難民支援をトルコ側から行うとすれば、トルコから国境を越えて難民を平地へ移さなければならない。ところが、地形的に平地はイラク側に広がっていた。イラク北部に安全地域を設けるという構想は、犠牲となった特定の民族集団のために、紛争に介入するという先例となった
> 国連同様「国内問題」では動けず、「国際問題」である必要がある。
第二章 バルカン紛争における難民の保護
> 物資の輸送と護衛。護衛は軍事介入?
空輸機撃墜の衝撃
空輸はサラエヴォ市民に不可欠の救援物資を運んだが、食糧、多目的ビニールシート、毛布といった生活必需品の配布から次第に都市の暮らしを便利にするものやサービスの提供へと拡大していった。例えば、郵便の輸送、新聞用紙の輸入、政府要人の輸送、そして病人や負傷者の避難も請け負った。陸上輸送隊もディーゼル油、薪、石炭などの燃料を運搬した。サラエヴォ市民はUNHCRを頼りにし、特に空輸は、国際社会がサラエヴォを忘れず、見殺しにしないというメッセージであると受け取っていた。
しかしながら一方で、メンデルーチェ特使は我々が直面している本質的な問題を私に警告した。「UNHCRはボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォを統治・管理できないことをはっきりと公言すべきです…。サラエヴォの生命維持の問題は単なる救援問題ではありません。ある勢力は他の勢力の支配地域に救援物資が運び込まれるのを見たくないという理由で、輸送を阻止しているのが現実ですRead More


紛争と難民 緒方貞子の回想 1/5~人道問題に人道的解決なし

1991年2月から2000年12月までの10年間、私は国連難民高等弁務官として世界の難民と救済に専念した。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に求められたのは、難民や国内避難民、さらに被災民まで網羅した人道救援活動を主導し、かつ調整する役割を担うことであった。
世界の辺境にあって難民の救済にあっていた私およびUNHCR職員一同に対する日本の支援に心からの謝意を表したい。財政的には、日本政府は任意拠出によって賄われている事業経費において、アメリカに次ぐ第二の大口拠出国(ドナー国)となっている。外務省は高等弁務官の補佐官として優れた幹部職員を次々と派遣し、密接な協力を続けた。また、環境庁は、難民キャンプの設営に伴う大規模な環境破壊の防止と復旧をはかりたいという私の要請に応え、三代にわたって有能な技官・行政官を派遣し、事務所の環境対策の確立に大きく貢献した。
とはいえ、難民支援活動の中で、今一つ積極的な進展が見られなかったのは、庇護を求めて来日する難民への対応である。インドシナ難民の受け入れに当たっては日本政府は1万人の枠を設け、東南アジアに出向いて日本への受け入れをはかったこともあったが、その後、個々に来日して庇護を求める人々に対する条約の適用に当たっては、人道的配慮に基づく制度の透明な運営がいまだに確立されておらず、まだ満足すべき成果を収めるに至っていない。UNHCRに赴任する際、「日本は『人道大国』としての地位を占めてほしい」と私が語ったことが伝えられている。グローバル化が進み、相互依存が深まる今日、自分の村、町、あるいは国から追われ、悲惨な状況にある人々を放置し続けることはできない。


日本仏教史 4/4~外来思想は日本に根付くか?

日本人の宗教意識-統計に見る奇妙な結果
1988年の日本の諸宗教の信者数である。
神道系 111,791,562
仏教系  93,109,006
キリスト教系 1,422,858
諸教 11,377,217
計 217,700,643
(文化庁「宗教年鑑」平成元年版による)
だがよく見ると、この数字はどこかおかしい。信者数の統計を見ると、2億を越している。そこでもう一つ別の統計を見ていただきたい。これは世論調査から出された数値である。
                日本 アメリカ
信仰を持っている人    33% 93%
信仰を持っていない人  65% 7%
(NHK「日本人の宗教意識」 日本放送出版協会1984)
信仰を持っている日本人は1/3にすぎず、アメリカと比べてみるとまさに無信仰の国と言ってよいほどである。
どうしてこのような奇妙な結果が出るのであろうか。どうやら最大の問題は信者数における神道系の数字にありそうだということは推測できる。神道系のうち、8639万人は神社本庁の信者ということになっているから、これは戦前の国家神道以来の氏神-氏子関係が持ち越されているのではないだろうか。本人の知らないうちに信者に組み込まれているとすれば、いささか恐ろしい気もする。仏教の場合、信者数の統計では9000万を超え、総人口の8割に迫る信者数を持ちながら自覚的な信者は27%にしか達しないところをみるとやはりその食い違いが気になる。信者数の統計には檀那寺と檀家の関係が持ち込まれていると思われる。
そもそも日本の仏教というのは学問的にはなかなか扱いにくい領域です。まず何よりも非常に多面的であり、かつ現代でも生きた宗教ということがあります。例えば、インドの仏教を考えてみますと、確かに仏教発祥の地であり、数多くの仏典もインド起源ですから、仏教の研究をする場合、つねにインドの仏教をおさえておかなければなりません。私たちの研究室では、日本の仏教の研究を専攻する人でも、まずインドのサンスクリット語の習得が義務付けられています
> インド哲学、俗に言う「印哲学科」か…。人気のない学科ということで名前だけは聞いたことがあったのだが、なかなか面白そうな学科じゃないか。
数理研究を進めていていつも行き当たるのは、日本の仏教は数理面の研究だけではごく一部しか解明できないという実態です。葬式仏教と言われるような仏教の実態、あるいは民衆の中に溶け込んだ様々な行事や風習などは、数理的な説明があったとしても建前にすぎず、むしろ日本人の生活習俗が仏教の形を取って現れたという面も少なくありません。例えば、古代の仏教の実態を知るのには、南都六宗の学問仏教も重要ですが、それはしょせん一部のエリート層の営みであり、大多数の民衆とは無関係です。民衆の間で信じられていた仏教の実態は、例えば「日本霊異記」などを読んだほうがよほど生き生きと描かれています。それゆえ、日本の仏教の実態を明らかにするためには、数理や歴史資料のみならず、文学やさらに仏像などの美術の分野も不可欠になります。


日本仏教史 3/4~檀家制度ができた歴史的背景

仏教の真理観
仏教思想の大きな特徴は縁起にあると言われる。縁起というのはあらゆる現象世界の事物は種々の原因や条件が寄り集まって成立しているということで、それゆえにこそ一切万物は変転極まりない、これが無常といわれることである。このように万物が変化し、演技によって成立しているということは、裏から言えば、外に依らずして自存し、永遠に存在するようなものは何もないということである。したがって、縁起の原理は実体が存在しない、無実体であるということに他ならない。またインド哲学の用語では、このような実体はアートマン(我)といわれるので、縁起の原理はアートマン否定ということになり、これはアナートマン(無我)の原理ともいわれる。大乗仏教で主張される空(シューニヤター)も基本的には同じ原理を言っているものである。さて、このような縁起・無実体の原理に立つならば、この現象世界を離れて何か真実の世界があるという考え方は否定される。このことは西洋の哲学と比べると明白である。実体主義の最も典型的な例はプラトンのイデア論に見られる。イデア論によれば、我々が見ている現象の世界はイデアの真実の世界の影のようなものであり、イデアの世界は感覚ではとらえられないものとされる。神を完全な存在としてこの世界を不完全な存在とみるキリスト教の哲学や、またブラフマンを絶対と見る。ヴェーダーンタの哲学も同様に実体主義の立場にたつということができる。これに対して、仏教では現象世界以外の世界を認めない。しかし、現象世界の自体の中に実体が存在すると見る唯物主義とも異なっている。
中国の北方に興り、ヨーロッパにまで攻め込んだ蒙古が、最初に国書を送って日本に迫ってきたのは文永5年(1268)。思想史上でもこの事件は大きな転換点を形作る。第一に、歴史始まって以来の国難はいや応なく国家意識を高め、また日本の神々への関心を高める。神道がはじめて本格的に理論化され、思想界に登場するのはこの頃から建武の中興を経て、南北朝にかけての時代である。それに対応して仏教界でもいち早く日蓮の国家思想が見られ、さらに熊野信仰と結びついた一遍の念仏などが見られる。
第二に、元の興隆と南宋の滅亡(1279)により、中国への留学はもちろん、大陸の新しい動向に左右されることもなくなった点が挙げられる。前代には最も土着的と思われる親鸞でさえ、宋の仏教界の動きに大きな関心を寄せていたが、この時代にはそれは不要であり、不可能にもなって、いや応なく独自の道を探ることになる。
第三に、前代には比較的安定した社会を背景に宗教の問題に沈潜し、思索を深めることができたが、社会の激動に伴い、現実への関心や社会的活動が強くなってきている。日蓮の国家諌暁や折伏活動、一遍の遊行、叡尊・忍性の救済活動などいずれもこうした動向と見ることができる。


日本仏教史 2/4~仏教の発展

どうして膨大な仏典ができたか
仏教がキリスト教などと違う一つの点は、その聖典の分量が膨大だというところにある。キリスト教では、旧約・新約聖書を合わせるとかなりの量になるとはいえ、一冊に収まる程度の量である。ところが仏教では、今日広く普及している「大正新修大蔵経」によると、B5判の分厚い本に三段組みでぎっしり漢文が組まれて全100巻にのぼる。もっともこのなかには中国や日本で書かれた注釈書などまで入っているが、いわゆる経典だけ取り出しても21冊になる。これでは専門家でさえ十分に読みこなしきれない。どうしてこんなにたくさんの経典ができることになったのであろうか。
伝説によると、仏典の編纂作業はブッダの滅後、直ちに開始されたという。十大弟子の一人魔訶迦葉(マハーカーシャパ)は、
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弟子の一人の比丘がブッダが亡くなってこれで自由になれると喜んでいるのを見て、これではブッダの教えは滅んでしまうと危機感を抱き、ブッダの教えを正しく伝えようと決心した。そこで仏弟子たちに呼びかけ、500人の長老たちが集まって、マガダ国の首都王舎城(ラージャグリハ)で集会を開き、ブッダの教えやブッダが定めた戒律を確認したという。ブッダ自身の用いた言語はマガダ地方の方言であるマガダ語であったと考えられるが、初期の仏教では言語を無理に統一しようとせず、各地の方言を自由に用いたようである。そのなかでとくにのちにパーリ語とよばれるようになる言語のものがスリランカに伝えられて、今日に至るまで東南アジアの仏教の聖典とされている。他方、中国に伝えられた原始経典は、聖典を意味するアーガマの音写で阿含経典とよばれたが、小乗経典として低く見られ、近代にいたるまで十分に研究されることが無かった。


日本仏教史 1/4~日本における仏教

日本仏教というのはいささか問題のある言葉で、かつて皇国史観のもとで、「日本」においてこそ「仏教」は最高の円熟に達するとされ、その独自性が「日本仏教」という言い方で表現されたことがある。いわば「日本」と「仏教」とのおめでたい調和ともいうべきものであるが、そんな経緯があるから、どうもこの言葉には抵抗がある。だが、ともかく僕にとっては、おめでたい調和ではなく、むしろ「日本」と「仏教」との相互の居心地の悪さ、どこかしっくりしないところがおもしろいのだ。大体、仏教というのはおかしな宗教で、発生地のインドでは滅びて消えているし、中国や韓国でも滅びはしないまでも、ある時代以降、積極的な思想史的な意味を失ってしまう。キリスト教だって発生地のユダヤ人社会で滅びたではないかと言われるかもしれないが、もともとユダヤ人社会でもそれほど多数を占めたり、大きな影響を残したわけではなかったであろう。ところが仏教はインドでは古代の一代期、思想・宗教界の主流ともいうべき強大な力を誇り、インド最大の哲学者シャンカラ
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でさえ「仮面の仏教徒」といわれるような大きな影響を残している。それがほとんど完全に消えてしまっているのはなぜだろう。中国だって、中世の仏教の全盛期から近世に下ると、仏教にひいきする目から見れば目を覆いたくなるものがある。日本の場合、仏教はかなり強力に生き残ってはいるが、近世以後、思想界の主流としての力は持ちえなかった。もちろん、チベットや東南アジアのように仏教の定着した地域もあるのだから一概には言えないが、どうも仏教には定着しにくい一面があるような気がする。例えば、「空」という発想にはどうにも落ち着きの悪さがある。「空」は「有」として安定することへの絶えざる否定であるから、定着することをはじめから拒否している。


シャープ「液晶敗戦の教訓」 3/3~仕組まれた価格破壊

イオンが売り出した「5万円テレビ」の衝撃
「32インチが5万円以下!」 シャープの亀山工場が稼働する前の2009年2月、流通大手のイオンが15000台限定で32インチの薄型液晶テレビを売り出した。イオンの5万円テレビは「ダイナコネクティブ」という東京のベンチャー企業がつくった。同社は大学卒業後に韓国から来日した金鳳浩氏が、2002年に立ち上げた会社で、従業員数25人のファブレス企業だった。「ファブレス」とは、製品の企画設計や開発は行うが、製品製造のための自社工場を持たない企業を言う。電機業界では1990年代に分業化が始まり、自社では生産設備を持たないファブレス企業や、ファブレスとは逆に他社から半導体チップの製造の受託生産を専門に手がける「ファウンドリ」と呼ばれる企業が次々に誕生した。また「EMS」(electronics manufacturing service)と呼ばれる企業では、家電製品を組み立てる受託生産を幅広く展開している。
「モジュール」は「すり合わせ」の対極概念
5万円テレビの事例では、液晶パネル、光学部材、バックライトについても標準的な仕様で大量に生産された汎用部品を用いる。テレビの映りを左右する中核部品にも汎用部品を用いる。信号処理基盤やテレビチューナも、異なる会社の汎用部品を力技で組み合わせる。大企業ではな考えられない設計だ。大企業の場合は、「専用部品」を用いて、一体の基板として、自社で設計・生産するのが普通だ。これは、テレビの画質の良さや組み立てやすさを追求するためである。汎用部品はモジュールである。モジュールを寄せ集めるとシステムができ、微調整は必要ない。「すり合わせ」は相手の状況を読みながら微調整を繰り返す方法だが、モジュールを使ってものづくりをする場合は、すり合わせはまったく必要ない。つまり、モジュールとすり合わせは対極の概念である。


シャープ「液晶敗戦の教訓」 2/3~亀山工場と堺工場

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新竹サイエンスパーク(新竹市東区)は、台湾のシリコンバレーとも言うべきハイテク企業の集積地である。パーク内には、国立研究所である工業技術研究院(ITRI)や、交通大学や精華大学などをはじめ、半導体の前工程だけを受託する世界最大のファウンドリ事業を展開する台湾積体電路製造(TMSC)、世界有数の液晶メーカーである友達光電(AUO)等がある。もちろん、日本のハイテク企業、アメリカのハイテク企業も、ここに台湾での拠点を持っている。広さは約8平方キロメートルでここに約400社があるので、シリコンバレーよりも面積当たりの企業の密度が高い。またITRIか海外に行ってITRIに戻ったり、ITRIから民間企業に移動するといった人の流動性も、シリコンバレーより高い。そのため、この章でテーマとしてきた技術流出も起きやすい環境にあると言える。ITRI出身で、パーク内を案内してもらった技術者はこう言った。
ここでは情報の秘密保持は不可能です。すぐに漏れます