これらの女たちのすべては、これらの男たちすべての共有であり、誰か一人の女が一人の男と私的に同棲することは、いかなる者もこれをしてはならないこと。さらに子供たちもまた共有されるべきであり、親が自分の子を知ることも、子が親を知ることも許されない。妻女も子供も共有であることが、もし可能でさえあれば最大の善であることを否定するような異論は起こらないであろう。

支配者たちがその名に値するものであるべきならば、そしてその補助者たちも同様とすれば、後者は命じられた事柄を進んで実行し、前者は、あるいは自ら法に従いながら、あるいは我々が彼らに一任した事柄については法の精神にのっとりながら命令を下すことだろう。それでは立法者としての君は、男たちを選び出したのと同じようにして、できるだけこれと同じ素質の女たちを選び出して、彼等に引き渡すだろう。そしてこれらの男女は家も食事も共同で、私的には誰もその種のものを所有していないのだから、みなが同じところで一緒に暮らすことになり、思うに、あの自然から与えられた必然性に導かれて、やがて互いに結ばれるにいたるだろう。

どうすれば最もためになる結婚となるだろうか? 僕は君の家に猟犬や血統の良い鳥がたくさんいるのを見ているからだが、そうした動物たちの結婚と子供作りのことに、何か注意してみたことがあるかね? その動物たちはみな血統の良いものばかりだと言っても、そのなかでも特に優秀なのがいくらかいて、それとわかってくるのではないかね。では君は全部に同じように子を産ませるかね、それともできるだけ最も優秀なのから子を作るように心がけるかね。

最も優れた男たちは、最も優れた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちはその逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方の子供たちは育ててはならない。

2100年後から始まるダーレーアラビアン・バイアリーターク・ゴドルフィンアラビアンのサラブレッドである。馬だけではなく、動植物には適用されている。小さな範囲で人間に対して試みた例はあるが、現在、成功した事例はない。これ、現在否定されている考えなのかなー? 

というのは多様性の強さ。大学や企業のリクルーティングにおいて、多様性を重視する傾向にある。一次元的な優劣による判断は難しいという結論なのだろうか。

シンガポールの政府主催合コンは
「男たちを選び出したのと同じようにして、できるだけこれと同じ素質の女たちを選び出して、彼等に引き渡すだろう。」
と同じことをやってる?

楽しみと苦しみが共にされて、できる限りすべての国民が損失に関して同じことを等しく喜び、同じことを等しく悲しむような場合、この苦楽の共有は国を結合させるのではないかね? これに反して、そのような苦楽が個人的なものになって、国ないしは国民に起っている同じ状態に対して、ある人々はそれを非常に悲しみ、ある人々はそれを非常に喜ぶような場合、この苦楽の私有化は、国を分裂させるのではないかね? それは国の中で、「私のもの」とか「私のでないもの」とかいった言葉が、同じ時に一緒に口にされないような場合ではなかろうか。

この人たちは家も土地もどんな持ち物も、いっさい自分だけのものとして私有してはならない。国を守る仕事の報酬としてのほかの人々から暮らしの糧を受け取って、みなで共通に消費しなければならない。もし彼らが真の意味での守護者であろうとするならば。

後のマルクスである。より明確に所有を否定している。