国家というものがなぜ生じてくるかと言えば、我々が一人一人では自給自足できず、多くのものに不足しているからなのだ。

必要のうち第一で最大の者は、生きて存在するための食糧の備え(供給)だ、第二は住居、第三は衣服類のそれだ。どのようにすれば国家はそれだけのものを供給するに足るだけのものとなるだろうか。農夫が1人、大工が1人、織物工が1人いることになるのではないかね?

農夫は一人で4人分の食糧を供給しー、それとも他の人々のことはかまわずに、食糧の1/4を1/4の時間で自分だけのために作り…

一人が一つの仕事だけする場合がうまく行くだろう。

国家そのものを、輸入品の必要が全くないような地域に建設するということは、ほとんど不可能である。そこで貿易商もまた、必要だということになる。知能的な事柄にかけては共同者としての値打ちがあまりないけれども、力仕事のためには十分なだけの体の強さを持っていうような人々、賃銭取りも国家の成員として補充されるべき人々であるようだ。

我々が最初に語っていたもの-家や衣服や履物-にしても、もはや必要最小限にとどめるべきではなく、絵画や刺繍を始めなければならないし、金や象牙や全てその類のものを手に入れなければならなくなる。国家をもっと大きくしなければならない。先の健康な国家ではもう十分ではなくなって、今やこの国はもはや必要のために国々の中に存在するのではないような様々なものを、数・量ともにいっぱい詰め込まなければならないからだ。領土にしても、先にはその時の住民たちを養うのに充分であったのが、いまではとても充分ではなくなって、小さすぎるものとなるだろう。戦争というものが悪い結果をもたらすか、善い結果をもたらすかについては、まだ言明を差し控えることにして、さしあたって我々としては、これだけのことを言うにとどめることにしよう。我々はさらに戦争の起源となるものを発見した。

戦争の技術よりも靴づくりの技術の方により多くの気を配らねばならぬということがあるだろうか?
いいえ、けっして。
そうすると、国の守護者の果たすべき仕事は何よりも重要である明けに、他の様々の仕事から最も完全に解放されていなければならないだろうし、最大限の技術と配慮を必要とするだろう。

後の「フランスとシャルル・ドゴール」であるw パリ陥落したにも関わらず、何にも早く核開発既得権。

何にもまして国防、守護者は最も優秀でなくてはならず、そのためには教育が必要。

次のことを簡単に見逃してよいものだろうか、行き当たりばったりの者どもがこしらえ上げた物語を子供たちが聞いて、成人したならば必ず持ってもらいたいと我々が思うような考えとは、多くの場合制反対の考えを彼らがその魂の中に取り入れるのを?

ヘシオドスとホメロスが我々に語った物語。クロノスがどのようにしてウゥラノスに復讐したか、クロノスがやったこと、息子から受けた仕打ちの話など、たとえ本当の事であったとしても、思慮の定まらぬ赤い人達に向けて、そう軽々しく語られるべきではないと思う。

キマシタ。「多神教批判の前哨戦」のギリシャ神話批判です。不道徳な神々、ウラヌス、クロノス、ゼウスの親殺し、子殺し、オイディプスと近親相姦など、スキャンダラスで奔放なギリシャ神話上の”神々”は神として適切か? 僕はギリシャ神話批判はしないがね、ダンテ「神曲」に対してはプラトンと同意見だ。ギリシャ神話と聖書とローマ史をごちゃごちゃにして、面白おかしく、「作りごとの物語」で仕立て、ヨーロッパ中心のキリスト教観という虚構を作り出した張本人だ

いやしくも神であるからには、真に善きものであるはずであり、有害なものではないはずだ。何らかの悪の原因であるということもない。ホメロスであれ他の詩人であれ、

ゼウスの宮の床には2つのツボが置かれてある。その一つには善き運命が、もう一つのには悪い運命が満たされて、ゼウスが両方の運命を混ぜ合わせて与える人は-時には不幸に会い、ときに幸せに会う しかし混ぜ合わせずに一方だけをそのまま与えられる者は-つらく厳しい飢えに駆られて、尊い大地を追われさまよう またゼウスは我々に 善きものをも悪しきものをも施し与える

というようなことも容認してはならない。

神とは魔法使いのようなものであって、あるときにはいろいろと多くの形へと実際に変身して自分自身の姿を変え、またあるときにはわれわれ欺いて、自分についてただそのように見せかけることにより、そのときそのときで、故意にさまざまの違った姿で現れることができるものだと思うかね? それとも神は単一な性格のものであって、自分自身の姿から抜け出すというようなことは到底あり得ないと思うかね?

ちょっとすぐには答えられませんが

では、もし何かが自分自身の姿か抜け出すとすれば、自分が自分で変わるか、他のものによって変えられるか、このどちらかでならないのではないか? まず、他のものによって動かされ変容させられるということの方だが、これは、最も優れた状態にあるものには最も起りえない。また、最も勇気があり最も思慮ある魂ほど、外部からの影響によって乱されたり変容を受けたりすることが、最も少ないのではないかね? 生まれつきにせよ、技術によるものにせよ、あるいはその両方によるものにせよ、すべてすぐれた状態にあるものは、他のものによる変化を受け付けることが最も少ないということになる。神及び神に属するものは、あらゆる点で最も優れた状態にあるはずだ。この観点から考える限り、神がいろいろと多くの姿を取るということは、もっともありえないことになるだろう。

神は自分で自分を変化させたり変様させたりするのだろうか?その場合は神はより優れたもの、より美しい者へと自分を変えるのだろうか、それとも自分より劣ったもの、より醜いものへと変えるのだろうか?

自分より劣ったものへでなければなりません。神が美しさや優れてあることにおいて不完全なところがあるとは我々には決して言えないでしょうから。

そうだとすればアデイマントス、神々であれ、人間たちであれ、みずからすすんで自分をなんらかの点で劣ったものにしようとするものが誰かいると思うかね? 神が自分を変様させようと望むこともありえないことになる。

偽りというものは、神々からだけでなく人間たちからも憎まれるものだ。神にとって偽りは役に立つのだろうか? 創作のための偽りということは、神の内にはありえないわけだ。神的なものは、どのような観点から見ても偽りとは一切無縁であることになる。したがって神とは全き意味において、行為においても言葉においても単一にして真実なものであり、自ら実際に変身することもなければ、現においても夢においても、幻影によっても言葉によっても兆を送ることによっても-他のものを欺くということもないのだ。

われわれはホメロスを多くの点で賞賛するものではあるが、しかしゼウスが「偽りの」夢をアガメムノンに送る件は、賞賛しないであろう。

とこんな感じで、多神教から一神教へのソクラテス的論理が紹介されている。私は神学の専門ではないので、これだけで一神教の論理整合性を主張するにはおそらく不十分であろうが、その原型を認めることができる。また同時に上記文章中の

現においても夢においても、幻影によっても言葉によっても兆を送ることによっても-他のものを欺くということもない

後の宗教の基本、ユダヤ・キリスト・イスラームだけでなく仏教においても言われた「偶像崇拝の禁止」につながっていく。プラトンやソクラテスが、一神教や偶像崇拝の禁止を言ったのではない。だが、歴史的に後に出てきた概念につながる発言があったことが面白いではないか。もちろん、プラトンは「マルクスの資本論」と同じことを言ってるのではない。だが、それを彷彿とさせることを言っているのだ! もうちょっと待ってね、出てくるから。