新約聖書以外で最古の最も信頼できるイエスの足跡に関する記述は、一世紀のユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフス(紀元100年没)、94年に書いたとされる彼の『ユダヤ古代誌』にローマのユダヤ総督フェストゥスの死後、アナヌスというなの極悪非道な大祭司が「メシアと人の言うイエスの弟ヤコブ」を不当に糾弾して、違法行為の罪で石打の刑に処したというさりげない記述が見られ、その一節は、新総督アルビヌスがようやくエルサレムに着任した後のアナヌスに関連した出来事へと続いている。

初期キリスト教徒はイエスの生涯に無関心だった。
初期の文書はイエスの誕生や幼少期の物語には少しも触れていない。紀元50年頃に編集された「Q資料」には、イエスが「洗礼者ヨハネ」から洗礼を受ける前に起こったことについての記述は皆無である。新約聖書の大半を占めるパウロの書簡はイエスの十字架刑と復活以外の彼の人生での出来事については何の見解も示していない。だが、イエスの死後、人間としての彼への関心が高まるにつれて、イエスの幼少時代の空白を埋めることと、とくにナザレ生誕の問題を取り上げる必要が出てきた。なぜなら、イエスを誹謗するユダヤ人たちから、彼がナザレ生まれならメシアであるはずがないと中傷されたからである。少なくとも予言とは一致しない。そこでイエスがダビデ王と同じ町で生まれたこと、にするために、彼の両親をベツレヘムにゆかせることにしたのだ。
ルカが目を付けたのは住民登録である。ルカによれば、「その頃、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録せよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であった時に行われた最初の住民登録である。人々はみな、登録するために各々の自分の町へ旅立った。ヨセフもまた、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」と書いた上で、読者が大事な点を見逃さないように「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので」(「ルカ」2章1-4節)と付け加えている。ルカの書いている話の中で正しいのは一つだけだ。ユダヤが公式にローマの一州になったのはヘロデ大王の死後10年目の紀元6年で、この年にシリア州総督キリニウスがルカの言うような「ローマ全領土」ではなく、ユダヤ、サマリア、イドマヤの全住民と土地、奴隷のすべてについて登録を行わせたことである。これにはイエスの家族が住んでいたガリラヤ地方は含まれていない。ルカのもう一つの間違いは、キリニウスの行った住民登録年代である紀元6年をイエスの誕生年としていることである。多くの学者たちは、イエスの誕生は「マタイによる福音書」に記されている紀元前4年頃としている。だが住民登録の唯一の目的は課税台帳をつくるためであり、ローマ帝国の法律では、住民の生まれた場所ではなく、居住地の資産をもとに税額を決めていた。

「ルカによる福音書」の読者は古代世界の多くの人がそうであったように、神話と現実を厳密に区別せず、この2つは彼らの宗教的体験の中で緊密に絡み合っていた。つまり彼らにとっては実際に何が起こったかということよりも、それが何を意味するかということの方に関心があったのである。ルカによるキリニウスの住民登録の話も、マタイによるヘロデの男児抹殺の話も、我々が今日考えているような「歴史」として読まれることを意図して書かれたものではなかった。ましてやもし自分の息子たちが殺害されるという忘れがたい出来事なら、きっと覚えているに違いない彼らの同時代人に「事実」として読まれることを前提としてはいなかったであろう。マタイにとって、イエスがベツレヘムで生まれたことが必要であったのと同じ理由で、エジプトから出てくる必要があったのだ。マタイは、イスラエルの再興という、単純だが、最も重要なメシア的預言を成就することなしに死んだ素朴な無学者が本当に「油を注がれた者」なのかどうかというイエスの中傷者たちからの異議申し立てに答えるためにも、自分と同時代のユダヤ人のために祖先が残した様々な預言を読み解き、イエスをその昔の王や預言者の子孫として位置づけなくてはなからなかった。

処女降誕伝承とイエスの家族

イエスに兄弟が居たことは、彼の母マリアがカトリックの教義では永遠の処女とされているにもかかわらず、事実上、議論の余地はない。イエスの死後、初期のキリスト教会の最重要リーダーになるイエスの弟ヤコブについては、ヨセフスさえも言及している。イエスには少なくとも、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという4人の兄弟と福音書では触れられているが名前も数もわからない姉妹もいる大家族の一員だったと考えてはいけない理由は少しもない。イエスの父ヨセフについては、幼少期の物語に登場した後は福音書からすぐに消してしまって、ヨセフはイエスがまだ子供の頃死んだというのが大方の意見が一致するところである。マタイとルカの幼少期物語以外には、新約聖書のどこにも処女降誕を思わせる記述はない。

福音書の記述が信じられるものであるとすれば、アンティパスは自分の腹違いの兄弟の妻ヘロディアスとの結婚をヨハネが避難したことに腹を立てて彼を牢に入れた。ずるがしこいヘロディアスはヨハネを牢に入れたことくらいでは満足せず、彼を殺す計略を立てた。サロメは母親に「何をお願いしましょうか?」と相談した。「洗礼者ヨハネの首を」とヘロディアスは答えたという。残念ながらこの福音書の記述は信用できない。ヘロディアスの最初の夫をフィリポとしているがこれは間違いだ。またヨハネが処刑された場所はマカイロス要塞なのに、ディベリアスにあるアンティパスの宮殿とごっちゃにしている。福音書の物語全体が、アハブ王の妻イゼベルと預言者エリアとのいざこざを描いた聖書の物語を意図的に反映させ、奇想を凝らした民話に仕立て上げているように読める。

厄介だったヨハネの存在

マルコが言うように、ヨハネによる洗礼が罪の赦しのためであったとすれば、イエスがそれを受けたことは彼の罪がヨハネによって浄化される必要があったことを示唆する。イエスはヨハネの他の弟子の一人と同じように、彼の運動に参加を認めてもらおうとしたことになるのは確かだ。ヨハネは人気があり、大変尊敬され、至る所で認められていた祭司であり、預言者だった。彼の名声はあまりに大きかったため、無視することはできず、彼がイエスに洗礼を授けたこともよく知られていて隠すわけにはいかない。その物語はどうしても入れなくてはならないが、それは改ざんして、差支えの無い話にする必要があった。イエスが上位で、ヨハネが下位に、役割を逆転させればいいわけだ。そういうわけで、ヨハネの役割は段々退行していって、最初に書かれた「マルコによる福音書」ではヨハネは預言者で、イエスの教師として紹介されているが、最後に書かれた「ヨハネによる福音書」ではこの洗礼者はイエスの神性を認める以外には何の役割もはたしていないように書かれている。