p383 「サイクス=ピコ協定」については様々な誤解がある。100年後の現在でも、まだ、この協定が現代の中東の国境線を決定したと信じている人がたくさんいる。だが、実際はサイクスとピコが線引きした地図は今日の中東の国境とは全く違う。この協定が策定していたのは、シリアとメソポタミアで英・仏が「直接であろう間接であろうと、自国の思い通りに管理もしくは支配できる」植民地支配県の確立できる領域を定義したものである。たとえば、フランスが要求している「ブルーエリア」は北はアレクサンドレッタ湾を囲むメルスィンとアダナから、南は現代のシリアとレバノン沿岸の古代港湾都市ティレまでの東地中海沿岸地帯、および、現代のトルコ共和国に入っている北は、スィワス、東はディヤルバクルとマールディンまでのアナトリア東部が入り、英国が承認を要求した「レッドエリア」はイラクのバスラ州とバグダート州である。「ブルーエリア」と「レッドエリア」の間の広大な土地は、「ゾーンA」シリア内陸部のアレッポ、ホムス、ハマ、ダマスカス、イラク北部のモスルはフランス、「ゾーンB」イラクからアラビア半島北部の砂漠地帯からシナイ半島のエジプトの境界線までは英国の関節支配下に置くとされている。この2つのゾーンは「独立したアラブの首長の宗主権下のアラブ連合諸国に組み入れられるとされているが、この方式ではマクマホンの太守フサインとの約束と矛盾する。英・仏が合意できなかったエリアはパレスチナだった。しかもロシアの野心も交渉をややこしくさせかねなかった。そこでサイクスとピコはパレスチナを「ブラウンエリア」と呼んで国際管理下に置き、ロシアと「ほかの連合国およびメッカの太守の代理人」との交渉によって最終的に決定することを提案した。サイクス=ピコ協定の中で太守フサインについて言及されているのはこの部分だけである。