月: 2022年2月

裏切られた自由

p83 1938年からヨーロッパで戦いの始まった直後(1939年9月)までは、ルーズベルトは参戦を考えてはいなかったと思う。彼が干渉主義的な政治手法を取ったのは、ニューディール政策の失敗を国民の目からそらすためだったのだろう。権力者がよく使う、昔ながらの手法である。外国からの侵略の危機を訴え、パワーポリティックスに参画したかった。つまりマキャベリズムなのである。

p567 1943年ルーズベルトは改めて無条件降伏を表明したのである。スターリンは無条件降伏要求に抗議した。スターリン元帥は、戦争手段としてみた場合、ドイツの課す条件を定義しない無条件降伏要求の方針が適当であるか否かについて問うている。無条件降伏要求は条件をあいまいにするものであり、それがドイツ国民を一つにしてしまう逆効果になりかねない。降伏条件を明らかにしておけば、仮にその条件がどれほど厳しい物であっても、ドイツ国民は、何を覚悟しなくてはならないかをはっきりと認識できる。スターリン元帥は、その方がドイツの降伏を早めるのではないかとの意見である。
スターリンは、ヒトラーおよびナチスと一般国民との間に違いがあるとした。ドイツ軍部の間にも前者との溝があるとしていた。こうした溝にくさびを打ち込む、つまり支配するものと、されるものを離反させる機会を見逃していない。しかしその機会は、ルーズベルトとチャーチル(の無条件降伏要求)によって失われてしまった。無条件降伏要求は無条件の抵抗を生む。反ヒトラー戦力の意志を削ぐ。その結果、この戦争は長引くことになろう。

下p188 ドイツは1939年9月にポーランドに侵攻した。ドイツはポーランド外務省から多くの文書を押収し、アメリカの関与を示すものを公開した。ウィリアム・C・ブリット駐仏大使が、ルーズベルトの名代として、ポーランドおよびフランスの官僚たちに対して工作を仕掛けていたことを示す文書であった。


指名される技術

セミの寿命が素数である理由
 日本のセミは地中で7年地中で7年、幼虫として生き、そして羽化するために地上に出てきて、交尾して死にます。つまり寿命は7年です。一方アメリカのセミは11年から13年、地域によっては17年ゼミもいる。セミの周期というのはどういうわけかすべて素数なのが特徴です(数学の世界では有名な話)。なぜ素数なのか?いや、なぜこんな話にここで突然触れるのか?これが自然界が作った、出会いたくない相手と出会わないための技だからです。地上で天敵と遭遇する確率を極限まで低くするためには、寿命は大きい素数であった方が良い。出会いたくない敵と次に地上で遭遇する期間が指数的に長くなる。自然界は、こうやってトラブルを回避してきたわけです。

世の中には「カリスマ」と呼ばれる経営者が何人もいます。彼らと面会していて共通していること、それは来客の対応をしている時には相手に時間を独占させる、ということです。仕事ができない経営者は、来客中でも時間を気にしたり、秘書からのメモにわざとらしく目をやったり、忙しげなフリをして応接室を突然離れたり、とにかく落ち着かない。「ごめんなさい、ドタバタしてて」と謝りながら、結局、来客の面会という貴重なチャンスを無駄にしている。なので、仕事ができない経営者はすぐにわかるものです。
 それに対して、ホンモノは実にゆったりとしています。相手の話にしっかりと耳を傾け、そして考えをしっかり伝える。あたかも「僕との面会がそんなに楽しいのか?」と錯覚すら与えるのです。しかし大物ですからヒマなはずがない。客との会話に集中し、それ以外のことをシャットアウトしているだけの話です。ニセモノは、他にもあれこれやりたいことがあるからじたばたする。そして見苦しい。だから結局、相手の心をつかめないのでしょう。ホンモノは、しっかりと集中し、その日の内に話の決着をつける。相手をその気にさせるのも抜群にうまいのです。
 つまりプロ中のプロとは、一番大切なことを見失わない。その一点において、集中力がすごい。ダメな営業マンやキャバ嬢のようにギリギリになるまで、とか、めんどくさいから、とかそういう刹那的な理由で、自分のゴールを変えない。だから、もしかしたらプロとは、自分の願望を実現するためのシナリオをすでに持っているのではないだろうか?ブレずにそれをひたすら遂行する人のことを言うんじゃないか?そんな気さえするのです。

指名される技術 六本木ホステスから盗んだ、稼ぐための仕事術

アルティメット出版による

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メディア論―人間の拡張の諸相

表音アルファベットは独特の技術である。象形文字や音節文字など、色々の種類の文字があったけれども、意味論的に無意味な文字が意味論的に無意味な音声に対応するように用いられる表音アルファベットはただ一つしかない。視覚の世界と聴覚の世界の、この厳しい分割と並行は、文化の問題として言えば、粗雑で容赦がなかった。表音文字で書かれた言葉は、象形文字や中国の表意文字のような形式では確保されていた意味と近くの世界を犠牲にする。しかしながら、こういった文化的に豊かな文字の形式は、部族の言葉からなる呪術的に不連続で伝統的な世界から、冷たく画一的な視覚メディアの世界に、突然に転移する手段を提供しなかった。中国社会は幾世紀にもわたって表意文字を使用してきたが、その家族および部族の継ぎ目のない網の目が脅威にさらされることがなかった。
したがって表音アルファベットだけが「文明人」-書かれた法典の前に平等な個々の人-を生み出す手段となった技術である。そう主張することができる。個人と個人の分離、空間と時間の連続、法律の画一、こういうものが文字文化を持った文明社会の主要な特徴である。インドや中国のような部族の文化は、その知覚や表現の広範さと微妙さの点で、西欧文化よりはるかに優れているのかも知れない。けれどもわれわれはここで価値の問題にかかわっているのではなく、社会の形態にかかわっているのである。部族の文化では個人とか個々の市民とかの可能性は考えられない。
幾世紀にもわたる表音文字文化の時代を通じて、われわれは論理と理性のしるしとして推論の連鎖を好んできた。中国の文字はこれと対照的で、表意文字一つ一つに存在と理性についての直観全体が賦与され、視覚的な連鎖に心的な努力と組織のしるしとして役割をあまり与えない。
いかなる連続、自然的あるいは論理的連続にも、因果の関係は示されていないのだということを18世紀に証明したのはデイヴィッド・ヒュームであった。連続は単に付加であるにすぎず、因果ではない。イマニュエル・カントに言わせると、ヒュームの議論は「わたくしを独断のまどろみから目覚めさせた」というのだ。しかしながら、連続を論理と見るのが西欧の偏見であって、その隠された原因がすべてに浸透するアルファベットの技術にあるということに、ヒュームとカントも気づいていなかった。

「コミュニケーション」という用語ははじめ道路や橋、海路、河川、運河などと関連して広義の用法を持っていたが、のちに電気の時代には情報の移動を意味するように変わってきた。たぶん、電気の時代の性格を規定するのにこれ以上ないほど適切な方法は、まず「コミュニケーション(伝達)としてのトランスポーテンション(輸送)」という観念の生じてきたことを研究し、つぎにその観念が輸送から電気による伝達の意味に変わるのを研究することであろう。英語のmetaphorすなわち「暗喩」ということばは、ギリシャ語のmetaに、「向こうまで運ぶ」あるいは「輸送する」の意のphereinがついてできたものである。

失業対策委員会のメンバーである経済学者と話す機会があった時、私は新聞を読むことは一種の有休雇用と思わないかと尋ねてみた。案の定、彼はいかにも腑に落ちないという風だった。しかしながら、広告をほかのプログラムと結びつけるあらゆるメディアは、一種の「有給学習」である。やがて将来、子供は学習することによってお金を支払われることになろうが、そのとき教育者は、センセイショナルな新聞が有給学習の先駆者であったことを認識するであろう。この事実にもっと早く気づくことができなかったのは、一つには、機械と産業を中心にした世界では、情報の処理と伝達は主要事業にならなかったためだ。しかし電気を中心にする世界では、容易にそれは支配的事業となり、富の手段となる。

19世紀末の絵画と聞けばすぐに思い出される印象主義の世界は、スーラの点画主義、モネやルノワールの分光の世界に、その極致を見出した。スーラの点描画法は、電信によって画像を送る現在の技法に近似しており、また走査線によってつくられるテレビ映像やモザイクの形態に近いものである。すべてこういったものは、のちの電気の諸形態を先取りしたものであった。なぜならおびただしい数のイエス=ノーの点と線を持つデジタル・コンピューターと同じように、これらの技法はどんな事物であれ、その対象となるものの輪郭を、おぶただしい数の点を使って撫でるように触れていくからである。

サルヴァドール・ダリは人々の熱狂を引き起こすのに、ただサハラやアルプスを背景にして、たんすやグランド・ピアノを背景とまったく関係のないそれ独自の空間に置いて見せさえすればよかった。事物を印刷術で特色である画一的で連続的な空間から解き放つというそれだけのことで、われわれは現代芸術と現代詩を手中にしたのである。その解放によってどれだけの大騒動がもちあがったかを考えてみれば、印刷術による心理的圧迫がどれほど大きかったかを推し量ることができよう。


ウンベルトエーコの世界文明講義

P94.キッチュの真正なモデルはボルディーニである。
ピエロマンゾーニ 芸術家の糞
偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテース

醜いものが美術史に登場するのは、キリスト教ありきのことであると、ヘーゲルが私たちに思い出させてくれる。理由はこうである。「ギリシア的な美の様式では、磔刑のキリストを表現することはできない。茨の冠をかぶり、十字架を背負って、体刑の場所まで自らの体を引きずり歩くキリストを表現することはできないのだ。そこで苦しみに満ちた、醜いキリストが登場するのである。」さらにヘーゲルはこうも言っている。「神と対立する敵たちは、彼を断罪し、愚弄し、拷問し、十字架にかける、徹底的に邪悪な者として表現されている。内的な邪悪さや神に対する敵意の表現は、醜さや、無作法、蛮行、怒り、また外見の歪みとして外部に現れる。」。つなづね極端なニーチェは「キリスト教が世界を醜く、邪悪にしようと決断したことで、実際に世界が醜く邪悪になった」とまで言い放った。

教皇ヨハネ・パウロ二世が、回勅「信仰と理性」(1998年9月14日)でこう断言していた。
近代哲学はその探求を存在に向けることを忘れ、自らの研究を人間の知識に集中した。人間の心理を知る能力に働きかけるのではなく、限界や条件付けを強調することの方を好んだのだ。そこからさまざまな形の不可知論や相対主義が生まれ、哲学的探究を、総体的な懐疑主義の流砂のなかで迷子にしてしまった。さらにラッツィンガー(枢機卿)は2003年の説法でこう話した。「なに一つ確固としたものを認めず、各人の自我と欲求だけを唯一の尺度とする相対主義の専制政治ができあがろうとしている。しかし私たちにはもう一つの尺度がある、しれは神の子、すなわち真実のひとである。」ここでは真理の二つの概念が矛盾し合っている。ひとつは、発言の意味論的属性であり、もうひとつは、神性の属性である。これはカトリックの聖典、少なくとも私たちが翻訳を通して知っているもの、においてすでにどちらも真理の概念として現れているという事実による。真実をなにかと、ものごとの状態のあり方の間の一致として用いる時、(「本当に言う」という意味で「あなたたちに真実のことを言う」)と真理を神性に固有のものの意味で用いる時、(「私は道であり、真理であり、いのちである」)がわかるのである。これがもとで多くのカトリック教会の神父たちは、今日ラッツィンガーが相対主義と定義するところの立場を取った。なぜならそれは、救済のメッセージという、この名にふさわしい唯一の真実にさえ関心を払っていれば、世界に対する主張が実際の状況と一致していなくても心配することはないという立場だったからである。聖アウグスティヌスは、地球が球形か平らかという議論に際し、球形の方に傾いていたようだが、それが事実かどうか知ることは魂を救うのに役に立たないことを思い出し、したがって実際どの理論も同じことだと判断した。

不誠実の最も素晴らしい描写は、ジャン=ポール・サルトルの「存在と無」(1943年)のなかにある。ある女性が男性の家に行く場面で、女性は男性が自分を手に入れたいと望んでいることを知っている。男性のアパートに入った時点で自分の運命は決まることを彼女は理解しているはずである。<中略>この一節は少し男性主義的なところがあるかもしれない。しかし、サルトルの外見を思い出してみると、むしろサルトルが哀れに思えてくる。相手の方は一体どんな女性だったのだろうか。

他人の陰謀に思いを巡らせればめぐらすほど、自分の理解の無さを正当化するためにますます陰謀にのめり込み、他の陰謀に釣り合うだけの自分の陰謀を考え出すことになる。陰謀が本当の陰謀であるならば、秘められたものでなければならない。内容を知ることで欲求不満が解消される類の秘密は確かに存在する。その場合、秘密が救いをもたらしてくれるか、あるいては秘密を知っていること自体が救いを意味するかのどちらかだ。そんなに輝かしい秘密など存在するのだろうか。もちろん存在する。ただし、その秘密を知ることはあり得ない。暴かれた暁にはがっかりするしかないのだから。アッリエがローマ帝政期を騒がせた神秘にまつわる熱狂について聞かせてくれたのではなかったか。

カール・ポパーは1940年代の時点で「開かれた社会とその敵」にこう書いていた。社会における陰謀説とは、ある思い込みから成っている。それはある社会的現象を説明するためには、そのような現象の実現に関心を持ち、それを企て、促進するために結束した個人や団体をあぶりだせばいいという思い込みである。


監獄の誕生 原題「監視すること、および処罰すること」

二つの構成要素、司法権が秘密裏に行う調査のそれ、をそなえた機構によって真実を生み出させることが目標とされるのである。つまり、自白を行う、必要な場合には苦痛を受ける身体こそが、これら二つの機構の装置を確実にするのであって、だからこそ、我々は古典主義時代の処罰制度をすみずみまで考察し直さない限りは拷問に対しる根本的批判は、ごくわずか行っただけに終わるだろう。「忍耐強く抵抗する」場合には、それに打ち勝ち、白状すれば負けることになる。裁判官の方でも、拷問を貸すことは危険を冒すことになる。しかもそれは容疑者が死ぬ事態に直面する懸念だけに止まらない。彼は自分の集めたいくつかの証拠という賭け金を危険にさらすのである。規則に基づいて被告人が「忍耐強く抵抗し」白状しない場合にやむを得ず職を辞す定めになっているのだから。そうなると新体系を課せられた者が買ったことになる。そうした事態が生じるのを避けるために「証拠の留保を伴う」拷問を加える習慣が生まれたのであって、それは重い事件に用いられたのだった。

身体刑の儀式では中心人物は民衆なのであって、現実に直接に彼らが現場に居合わせることが儀式の仕上げに要請される。罪人に猛威を振るう権力の姿を見物することで恐怖の効果を生じさせるためにも、見せしめということを狙ったのであった。立会人であることは人々が所有もし請求もする権利であって、密かに行われる身体刑は特権的なそれだとされ、人々はその刑は完全に厳格に行われたのではないかと怪しむ。レスコンバの女房が絞首刑に処される際、気を利かして顔を隠してやった。群衆はひどく不平を述べ立て、これはレスコンバの女房とはちがうと言い出す始末であった。

今日のように拘禁が死刑と軽度の刑罰との、処罰の全中間領域を覆いつくすことができるという観念は当時の改革者たちには即座に考えつきえない概念であった。瞬く間に監禁が懲罰の本質的形態となった。ナポレオン帝政政府は、刑罰と行政と地理に関するすべての階層順位に応じて、現実に具体化することを直ちに決定したのである。各治安裁判所と結びついた、町村警察の留置室が、各軍には留置場が、どの県にも懲治が設けられ、重罪を宣言された者や1年以上の刑に処せられた有罪者を収容するいくつかの中央監獄が置かれ、若干の港に徒刑囚監獄が設置された。かつての処刑台では受刑者の体が、儀式ばった調子で明示される君主権力のさらし者にされていたし、処罰の舞台の上で懲罰の表象が社会の構成員全体に常時示される恐れがあったが、そうした事態に変わって現れたのが、国家の管理装置の総体そのものに組み込まれる、閉鎖的で複合的で階層化された大いなる構造である。保護をする壁ではもはやなく、威光によって権力と富を誇示する壁ではもはやなく、19世紀に物質的であり象徴的でもある単なる形象となるだろう。早くも総督政府時代(1799~1804年)内務大臣は、今後活用される見込みのある各種の監獄について調査を依頼されていた。数年後には国費の見込みが建てられて、社会秩序を守る新しい城塞は、自らが体現し奉仕する権力の充足のために建設された。ナポレオン帝政はそれらを実はもう一つ別の戦い(対外戦争を指す)のために利用した。

ベンサムが一つの技術的計画として記述していておいた事柄を、ユーリウスのほうは一つの歴史過程の完成として読み取っていたわけである。現代社会は見世物の社会ではなく監視の社会である。我々がそう思うよりもはるかに、我々はギリシア的ではない。我々の居場所は、円形劇場の階段座席でも舞台の上でもなく、一望監視のしかけの中であり、しかも我々がその歯車の一つであるがゆえに、我々自身が導くその仕掛けの権力効果によって、我々は攻囲されたままである。歴史の神話学におけるナポレオンという人物の重要性は、多分その起源の一つをこの点に持つに違いない。この人物こそは、統治権の君主的で祭式本位な行使と、際限のない規律・訓練の階層秩序的で常設的な行使との、接合戦に位置するからである。


グーテンベルグの銀河系

P94 現実の構成要素の中に線形的性質や均質性を見出したことが、表音文字の新秩序の下でギリシャ人が行った「発見」であり
また彼らの感覚生活における変化であった。ギリシャ人たちはこうした視覚による認識という新しい知覚形式を芸術に表現したのだった。ローマ人たちは線形成と均質とを市民生活、および軍事活動の分野にまで押し広げた。そこから生まれたのがアーチ建築に見られる自分の視点を中心にしたアーチ型の世界、囲われた空間、もしくは視覚的な空間だった。ローマ人たちはギリシャ人の発見に何かを加えたというわけではなかった。彼らは非部族化と視覚化という同じ体験をしていたのであって、線形成を帝国という形で、均質性を市民や彫像や本の大量生産という形で拡大したのであった。仮にローマ人が今日の世界を訪れたとすれば、おそらくアメリカ合衆国をいちばん居心地よく思うであろうし、それに対しギリシャ人なら西欧社会にある「後進地域」でまだ口語文化の残る場所、アイルランドや南北戦争以前の米国南部のような場所を好んだことであろう。

デジデリウス・エラスムス,ウィリアム・アイヴィンズ「版画と視覚型コミュニケーション」、ピエトロ・アレティーノ最初のルポタージュ屋、最初のジャーナリスト。

活版印刷、人類初の大量生産。写本文化にはない著者を生み出した。

ナショナリズムと印刷、印刷の発見の影響は、16~17世紀の野蛮な宗教戦争の中に明らかに現れていた。権力をコミュニケーション産業へ使用することによって、各民族語の成立、ナショナリズムの勃興、革命、そして20世紀における新型の野蛮な暴力の行使が促進された。印刷技術が作業と生産の方法に応用されるまでナショナリズムは、その十全な幅広い発展を見ることはなかったのである。


金持ち課税

民主主義国は不平等が大きくなると富裕層に課税する。
第一の理由は、最上位層の所得や富の総額がそれ以外の社会と比較して大きくなれば、有権者は負のインセンティブ効果が大きくなりすぎない範囲で富裕層への課税を重くすることが自分たちの利益に適うと考える、ということである。支払い能力主義に賛同している有権者も、この選択を好ましいと思うかもしれない。第二の理由は、人々が結果の不平等が機械の不平等から生じていると考えているからである。第3の理由は、不平等の影響が政治体制に及ぶことを恐れるからである。

擁護すべき貧乏人と抑制すべき金持ちが存在する場合には、最大の悪がすでに行われているのである。法のあらゆる力が発揮されるのは、中程度の階級に対してだけである。つまり法は金持ちの財宝に対しても貧乏人の窮乏に対しても同じように無力なのである。前者は法をくぐりぬけ、後者は法から見落とされる。前者は法の網を破り、後者は法をすり抜けてしまう。 by ジャン=ジャック・ルソー
出エジプト記 ここでは神の前では全員が平等だと考えられている。「あなたたちの命を贖うために主への献納物としての支払う額は銀は半シュケルである。豊かな者がそれ以上支払うことも、貧しいものがそれ以下支払うことも禁じる」。市民の平等な扱いということでは、全員が同じ率で払う税も考えられる。「フラットタックス」運動を支持した初期の知識人が考えていたのがまさにこれだ。ロバート・ホールとアルヴィン・ラブッシュカが1981年に次のように述べている。「思い出してほしい。ごく最近まで、公正とは法の下での平等な扱いを意味していた。公正を同一ということに置き換えて、富裕層に多く支払わせるというのは現代の発明であって、彼等は税制度を利用して所得を再配分し、全員を平等にするべきだと信じているのである」

不平等(貧富格差拡大)、民主化(0.1%が50%以上の富を持つ)ことが所得税の累進課税に寄与したか?
いないな、戦争のための大規模動員。

第一次大戦に参加して大規模動員した10国と、中立を保つか、参加は下が大規模動員をしなかった7国について、1900年から1930年までの最高税率に関する入手可能な情報を示したものだ。戦争のための大規模動員をしたとする条件は、参戦国であり、かつ、総人口の少なくとも2%を軍に動員したことである。動員国では、戦争に伴って富裕層課税に向けた大きな動き(平均最高税率50%)が起こっている。非動員国でも最高税率は上がっている(20%+)が、上がり幅はずっと小さい。

1941年7月、合衆国の第二次世界大戦への参加が未決問題だった時に、ギャラップ社は全米の成人人口から調査対象を抽出し、次のような質問をした。-「国防費支払いの一助とするため、政府は所得税を引き上げざるを得なくなると思われます。もしあなたが決定者だとしたら、4人家族で所得がXドルの典型的な家族に、どれくらいの所得税の支払いを求めますか」
この調査ではスプリット・バロット法のアンケートを用いて、年間1000ドルから100,000ドルまで8つの所得層について望ましいと思われる税率を聞き出している。社会経済地位(SES)の異なる集団の回答者のデータを表した。すべての所得層が富裕層課税の強化を指示するようになりうる。

我々は奇妙な現実と直面する。相続税は徴収が容易だが、どの国を見ても、これが歳入の約10%を超えたことは一度もない。過去数十年でも、合衆国の連邦遺産税および贈与税の収益は、連邦歳入の約1%を占めているだけなのである。

戦時利得は「富の徴兵=富裕層課税」すれば良い。

1909年1月、イギリス、労働は、4つの原則が税制度の指針となるべきだとした。

1.課税では、支払い能力と国家が個人に与える保護および利益とが釣り合っているべきである。
2.個人が自らの身体的必要および基本的必要を満たすための手段を侵害する課税は実施するべきではない。
3.課税は共同利益、すなわち富の不労増加分すべての確保を目的とするべきである。
4.したがって、税は不労所得に課されるべきであり、また、莫大な富の私的保有防止を意図的に目指すべきである。

鉄道と近代的大規模軍

過去2世紀にわたる工業化社会に戻ってみよう。軍事テクノロジーの、ひいては動員の変化が同様の社会変化につながった可能性はあるのだろうか。この疑問に答えるには19世紀初頭のヨーロッパで戦争がどのように戦われていたかを考える必要がある。戦いは中世から大きく進化し、十分な訓練を受けた国家軍が遂行するようになった。軍の構成は大半が歩兵で、火器を使用していた。しかし、それ以外のことではそれほど大きな変化はなかった。軍はまだ徒歩で戦場へと行進していた。食料はすべて、兵士とともに運ぶか、現地で略奪するか、大型馬車を使って後方から供給していた。供給の問題は任意の時点のある地点で維持可能な軍の規模に上限を課していた。ナポレオンにしてもなお、古代から軍を制約してきたのと同じ兵站上の困難には縛られていた。腹が減っては戦はできぬとわかっていても、この制約を満たす方法は、よほど効果的な略奪か、嫌になるほど遅い後方からの物資提供しかなかったのである。
兵站問題の解決策の端緒が開かれるのは、ようやくナポレオンの死から4年が過ぎてからだった。すなわち、蒸気機関で動く車を供えた鉄路である。鉄道の登場は、電信の発明と併せて欧米の、そしてその他の社会を根本的に変えた。鉄道の登場によって、戦争の規模は劇的な拡大が可能となった。鉄道は人間をすばやく運べるだけでなく、食料となる物資も運ぶことができた。最初の旅客列車は1820年代に走ったが、これはまだきわめて原始的な輸送システムだった。それから数十年かけてようやくレール、機関車、列車の設計にイノベーションが起こり、大人数の部隊を遠く離れたところまで運べる鉄道になっていった。鉄道を軍事面で初めて大規模に利用したのはナポレオンの甥にあたるナポレオン3世で、1859年のイタリア遠征でのことだった。鉄道はもちろんアメリカの南北戦争(1861~1865年)でも盛んに利用された。この戦争は多くの面で、来るべきヨーロッパの紛争の破壊性を先取りするものだった。また先に指摘したように、富裕層課税のための補償論が主張され始めるのもこの戦争である。

大規模軍の終焉

19世紀の技術革新は大規模軍を可能にすることに寄与した。20世紀の技術革新は、大規模軍を線上で望ましいものでなくすることに寄与した。大規模軍の時代は、特定の技術状態の存在に依存していた。この状態では、人員を大量に輸送し、適切な供給を維持することが可能だったが、爆発力の精確な遠隔送達はまだ実現していなかった。20世紀を通じてこの状況は変化した。遠隔地からの爆発力の送達が現実のものとなり、時とともに、それがどんどん精確になっていった。今日では、先進的な兵器システムを有する国は、誤差数十センチという精確さで爆発物を送達することができる。こうした展開が大規模軍の終焉を告げたことはほぼ間違いなく、それとともに、富の徴兵を含めた補償論の可能性も潰えてしまった。
ここまでの主張に反対して破壊的な空軍力は第二次世界大戦からあったし、第二次世界大戦は間違いなく大規模動員の戦争だったとする考えもあるだろう。ここで往々にして見落とされがちなのは、空爆が時代とともにどれほど正確になったのか、約70年前にはどれほど不正確だったのかということだ。空中から送達される弾頭の正確さを判断する最も一般的な基準は、平均誤差半径だ。任意の危機の平均誤差半径とは、標的を中心として弾頭が円内に着弾する確率が50%になる円の半径を言う。1944年、当時の最新テクノロジーであるノルデン爆撃照準器を使った合衆国のB-17の乗組員は300mの平均半径誤差で従来型の爆弾を送達することができた。これは市民に大惨事をもたらすには十分だったかもしれないが、軍事面ないし産業面の特定の標的に命中させられるほど精確ではなかった。時代をヴェトナム戦争まで早送りしてみよう。これはほとんどが従来型の、誘導装置のない爆弾で戦われた戦争だったが、同時に合衆国がレーザー誘導爆弾を初めて使用した戦争でもあった。レーザー誘導装置を備えたBOLT-177爆弾を使って1968年に遂行された攻撃では、23メートルの平均誤差半径が達成された。合衆国によるレーザー誘導爆弾の導入で最も興味深い要素の一つは、これがすぐさまソ連の軍事計画担当者の思考に影響したことだ。ソ連軍は北ヴェトナムからの報告を通して、レーザー誘導爆弾がどれほど効果的かを知った。大規模な装甲部隊で大陸を推し渡るという考えに立脚してヨーロッパでの軍事戦略を立てていたソ連軍にとって、これは深刻な問題だったのである。
精密誘導兵器の発達とは別に列強がもはや大規模動員の戦争を戦わなくなった明白な理由がもう一つある。1945年以後、列強同士が戦わなくなったことだ。今日では、列強の軍が展開するのは反乱軍との戦いがほとんどで、これには大規模軍はあまり効果がない。2000年前の漢王朝は、そうした状況では大規模軍によるものから資本集約的な形態の戦争に切り替える方が理に適っていることに気が付いた。ここ数十年の合衆国も同じ結論に到達していると思われる。

戦後コンセンサスはあったのか

累進課税の主張者が富裕層課税のための強力な補償論を主張できたのは、間違いなく戦後の文脈があったからだ。その中心にあったのは戦争中に犠牲を払ったものは補償されるべきであり、戦争から利益を得たものは課税されるべきだという考えかただった。

イギリスをはじめとする戦勝国の状況を考えてみよう。イギリスではドイツの降伏から2か月後に総選挙が実施され、労働党が下院で大勝利を収めた。これが福祉国家イギリスの確立に道を開いたことはよく知られている。労働党の勝利は、高所得と莫大な富への重課税を含めたイギリスの諸政策を固めることに寄与した。周知のように1945年の選挙では、戦争終結時のウィンストン・チャーチルの個人的な人気にもかかわらず、労働党が地滑り的勝利を収めた。

次にフランスをはじめとする被占領国の状況を考えてみよう。フランスのような国では占領軍との協力が広範囲に行われていたため、補償論は戦ったものを認定することよりも、不公正な利益を得たものから資源を搾り出すことの必要性に重点が置かれた。評議会のプログラムは、とりわけ戦時利得を対象とした累進税の創設を求めていた。フランスの暫定政府は、戦争中に発生した「違法な」利益全てに課税すると発表した。これには闇市場からの利益のほか、敵軍との商取引があった場合には、その利益もすべて含まれた。そこでの論理は明確な補償論だった。占領下で国民が貧しくなったのに一部のものは豊かになった。フランス政府は一連の重要産業の国有化を実施した。ルノーの国有化には、占領期に同社がドイツ国防軍のために車両を生産していたことも与っていた。

第三の例としてドイツのような敗戦国の状況を考えてみよう。この場合、補償論の問題は、勝者をどう認定するかということでもなければ、敵による統治の存在から利益を得た者にどのような制裁措置を取るかということでもなかった。戦争で損害を被った者が強く感じていたのは、自分たちは戦争に犠牲になったのに、敗戦の最中にあってなお利益を得た者がいるということだった。1945年から長い年月をかけて個人にどう補償するのか、敗戦の負担をどう公平化するのかについての考えがまとまっていった。こうして1952年、ようやく一連の「負担調整」法が成立した。このときの法律には、幸運だった者から不運だった者への大幅な富の再配分が含まれていた。これは実物資産に50%の税をかけ、30年かけて支払わせるというもので、結果として事実上の資産税となった。

最後にスウェーデンのような戦争に加わらなかった国の状況を考えてみよう。スウェーデンは交戦国の市民が払ったような犠牲を目にすることはなかったが、それでも戦争によって経済全般がが混乱したことで経済が深刻な打撃を受けた。またスウェーデン政府はうまく中立を維持できるかどうかわからなかったことから、大規模軍の動員も行っている。このような文脈の中で、スウェーデン社会民主労働党は、ヨーロッパのほかの国の左翼政党と同様に補償論を用いて再配分的な経済政策への指示を築こうとした。

要約すれば様々な国が様々な状況にあった1945年には、集団的な負担分配をめぐる議論に大きく影響していたということである。犠牲を払った者に保証し、利益の多い立場にあった者に課税するという最配分的な施策が含まれていたのだ。戦後補償を巡るこうした議論は、所得税や相続税の最高限界率はどれほどであるべきかという問いに直接焦点を当てないものが多かった。戦時中に最高税率が上がっていたために、それが新たな現状法制となっていたのだ。一度現状化したものを覆すのは難しい。

1952年、ギャラップ社は2097人のサンプルに対して、賛成、反対、意見表明無しの3択で回答を求めた。

裕福な人々の多くは現在、所得の90%もの連邦所得税を払っています。連邦議会では、連邦政府が戦時を除いて誰の所得にも25%を超える課税ができない法律を成立させようとしていますが、あなたはそれに賛成ですか、反対ですか?

僅差の51%で所得税制限の支持派が多数派となった。1952年という早い段階で、これほど劇的な所得税政策の再方向転換をアメリカ国民の過半数が支持するということが、本当にありうるのだろうか。

成長への危惧が税の引き下げにつながったのか

富裕層への税を重くしすぎると彼らの活動が縮小して投資が減るだろう、そうなれば誰もが困ることになる。累進課税が成長に与える影響についての批判は5世紀前から存在していた。サッチャー時代のイギリスのマニフェストは、課税による高コストをことさら強調していた。合衆国1980年の共和党の綱領は「税率の引き下げは、経済成長と生産高と所得の増加を生み出し、それが最終的に歳入の増加をもたらすだろう」

グローバリゼーションが富裕層課税を不可能にしたのか

法人は確かにそうだが、個人所得の課税はどうだろうか? 高所得者ではない個人の税率にグローばりぜーしょな影響するというのはあまりありそうもない話だ。ではなぜ高所得者は影響を受けるのだろう。高い個人所得は資本からの利益によるものかもしれないし、労働による利益を通してのものかもしれないという事実だ。資本所得の場合であれば、金融のグローバル化によって個人が簡単に富を国外に移せるようになったかどうかだ。資本規制の多い国では所得税の最高税率も高いかというと、事実はそうなっていない。法定税率を実効税率に置き換えても、また所得税を再考相続税率におきかえても全く同じ結論に到達する。資本移動は法人所得税カットへと各国を誘導したかもしれないが、それを個人所得や相続への課税に持ち込むまでには至らなかったようだ。

累進課税は公正か?

レーガンとサッチャーによる「我々は勤労と責任、成功に報いるために、すべての水準で所得税を削減する」。1980年アメリカ共和党の綱領「削減の根拠は、個人が自ら稼いだものを保持し、使用する権利にある」。富裕層への課税を重くするべきだと結論付けている人は多い。事実、年間所得が25万ドルを超える人の税を上げるべきだと思うか、という問いに明確に表れてくる。
キャメロン・バラード=ローザおよびルーシー・マーティンとの共同研究で典型的なアメリカ人2500人を対象とするフィールド調査を行った。

年間Xドルの所得のある家庭が合衆国国内で支払う税を考えてください。以下のリストから年間Xドルの所得のある家庭が支払う限界税率としてあなたが望ましいと思うものを選んでください。
年間所得 10k、35k、85k、175k、375k 税率 0%、5%、…、80%
全ての回答者に37万5000ドル(375k)を超える区分について望ましい税率を答えるように求めた。望ましい税率の平均は33%だ。現在の合衆国で実際支払う限界税率は39.6%だからそれより低いことになる。この調査からはっきりわかるのは、アメリカ人が最高税率の大幅な引き上げをのぞんでいるという考えはほとんど支持できないということだ。


良き社会のための経済学

よく耳にする「バイ・アメリカン」や「バイ・フレンチ」の類のキャッチフレーズも、絆の弱体化に対する不安の表れだろう。だが、絆が弱まることにはメリットもある。まず、贈与経済では依存関係が生まれやすい。社会学者ピエール・ブルデューは、与える者と与えられる者との間に上下関係が生まれる可能性を指摘する。そのような関係には「打算の無い寛容の装いの下に隠された暴力」が存在するという。一般的に言えば、社会のきずなには多くの美点があるにしても、息苦しさや束縛につながることもある。

最後通牒ゲーム プレーヤー1が10ユーロの配分を任され、自分とプレーヤー2の取り分を提案する。ここまでは独裁者ゲームと非常によく似ている。しかし、この先が違う。分配の最終決定はプレーヤー2がプレーヤー1の提案を受け入れるかどうかにかかっているのである。プレーヤー1の提案を2が拒絶したら、どちらのプレーヤーも何ももらえない。実際にこのゲームをやってみると、半々に分けるという提案は必ず受け入れられる。一方、プレーヤー1が9ユーロで2が1ユーロという提案はまず拒絶される。8ユーロと2ユーロの組み合わせもしばしば拒絶される。プレーヤー2にとっては1ユーロか2ユーロでもゼロよりましであるにもかかわらず、拒絶するのである。

心理学の分野で開発されたゲームでは、ばれる恐れがない場合には人はあっさりとインチキをすることが確かめられた。1~10ユーロが等しい確率で当たるくじを引いてもらう。被験者は当たった金額を実験者に申告すると、申告通りの金額をもらえる。被験者がみな正直者で、かつサンプル数が十分に大きければ、おおむね10%が1ユーロと申告し、10%が2ユーロという具合になるはずだ。ところが実験では高い金額になるほど出現頻度が本来以上に多くなったのである。だが話はここで終わらない。二回目の実験では、同じゲームをするのだが、その前に実験者が被験者に対し「モーセの十戒」または大学の倫理規則を読み上げる。すると、被験者のインチキが1回目より大幅に減った。インチキがいかによからぬことかが強調され、記憶に焼き付けられたのだと考えられる。この実験で、完全に合理的なホモ・エコノミクスという古典的な概念は破られたといってよかろう。

公務員は「国家に奉仕する」のではない。そもそも「国家に奉仕する」という的外れな表現は、公職の目的を完全に取り違えていた。公務員は「市民に奉仕する」のである。

議員の数も多すぎる。アメリカの上院は非常に活発に活動しているが、議員数は100名である。一方、アメリカの上院に相当するフランスの元老院は、人口がアメリカの1/5にもかかわらず、348名もいる。下院に相当する国民議会は577名。国民一人当たりの議員数で見ると、アメリカはフランスの1/10である。個人的には、フランスの議員数を減らす代わりに、専門知識を備えたスタッフを増やすのが良いと考えている。

大多数の経済学者は、グローバルなレベルでのカーボン・プライシングを提言している。そのための方法で意見が分かれるにしても、それは価格付けの原則と比べれば副次的な問題にすぎない。多くの社会運動団体(たとえば環境運動家の二コラ・ユロ)、NGO,シンクタンクなども意見を共にしている。たとえばIMFのクリスティーヌ・ラガルド専務理事と世界銀行のジム・ヨン・キム総裁は、2015年10月8日に次のような共同声明を出した。
「よりクリーンな未来を目指すためには、政府が行動を起こすとともに、民間部門に適切なインセンティブを設けることが必要である。その柱となるのが、強力な公共政策の下でのカーボン・プライシングだ。燃料、電力を始め、炭素を排出する産業活動に対して、現在より高水準の炭素価格を設定するなら、クリーンな燃料の活用、省エネルギー、クリーン技術への投資を促すことができよう。炭素税、排出権取引など価格付けメカニズムを導入する一方で非効率な補助金を廃止すれば、企業も世帯も、地球温暖化との戦いにおいて長期的に何に投資すべきなのか、明確に判断できるようになる」
どの国も、どの産業も、どの企業も世帯も、炭素を排出したら同じ価格を払う-これこそ、最高にシンプルな方法ではないだろうか。だがこれまでのところ、世界は明らかに複雑なやり方の方が好きらしい。

フランスの失業問題 CDD(有期雇用契約)とCDI(無期雇用契約) ILO定義で290万人、10.6%(2015年)
失業補償310億ユーロ、消極政策(失業保険)がGDP比1.41%、積極政策(職業訓練、補助金付き雇用)が0.87%。これに雇用主負担軽減措置やCICE(雇用促進税額控除、企業の競争力を高めるために支払い報酬額に応じて税額控除を適用する措置)を加えれば、GDP比3.5~4%となる。

雇用の保護を定めた法規と職場のストレスは正の相関関係があるという。雇用が硬直的なうえに新規雇用機会が少ないとなれば、雇用者と被雇用者の関係は様々な形で悪化する。

企業が直接的な解雇コストを負担しないフランスの現在の仕組みは、この他にも見えない重大な影響を引き起こしている。経済活動の変動が大きい業界ほど得をする仕組みになっている。こうした業界は構造的に頻繁に解雇せざるを得ないので、結局は失業保険のコストをごく一部しか負担しないことになり、他部門が払い込んだ保険料を食いつぶす形になる。このような仕組みで割を食うのは、雇用が比較的安定していて解雇が滅多にない業界である。

雇う側と雇われる側の共謀 この「労使の共謀」ではまず辞職つまり自主退職を「解雇」とする。自発的に辞めたら失業保険は受け取れないからだ。解雇扱いにすることによって雇用主も退職者も得をする。2008年に「合意による労働契約の解消」が導入されて、この種の共謀が事実上合法化され、もはや労使で解雇を偽装する必要もなくなった。

同じヨーロッパの国同士で殺し合う戦争に疲れた欧州大陸では、新しいヨーロッパの建設が人々の希望の星となった。人の行き来やモノやサービスの貿易や、資本取引の自由を保障して、保護主義を未来永劫追放しよう。市場開放などの改革を通じて経済を近代化する困難な仕事を第三者機関、つまり欧州委員会(EC)にやらせようという意図である。統一通貨ユーロは希望そのものだった。経済が好調な国から不調な国へ自動的に移転を行う財政同盟が存在しない。さらに、文化や言語の違いから、労働者の移動可能性が限られている。したがって雇用機会に関する限り、地域的なショックをユーロ圏全体で吸収する余地は小さい。現時点でヨーロッパ各国間の労働者の移動は、アメリカの州間移動の1/3にとどまっている。連邦制をとる国では財政移転と労働者の移動性の二要素がショックの安定化装置となるのだが、ヨーロッパではそのどちらも機能していないのである。しかも通貨統合の結果、貿易収支が赤字に陥った国にとって国際競争力回復の手段である為替切り下げの可能性も、排除されている。

競争不在のデメリットを示す面白い例を挙げよう(不利益を被った世帯にとっては少しも面白くないかもしれないが)。フランスでは1973年に制定されたロワイエ法および1996年に制定されたラファラン法により大規模小売店舗の出店が厳しく規制されており、売り場面積300㎡以上の店舗は当局の出店許可を得なければならない。この法律の目的はスーパーマーケットの市場支配力を弱め、街の小さな店を保護することだったと思われるが、実際には法案成立と同時に既存の大型スーパーチェーンの株価が跳ね上がった。誰もがこれで既存店はこの先競争から守られ、しかもすでに大型店舗で営業している以上、規模のメリットが活かせると正しく判断したからである。実際にこの法律のせいでその後10年間、ハイパーマーケットは出店できなかった。さらにラファラン法と同じ年にギャラン法(流通関係の正義と公平に関する法律)が制定され、サプライヤーから得た値引きを売値に転嫁することが禁じられた。その結果、大型店で小売価格が押し上げられたことは言うまでもない。私自身は大都市に住んでいるので近くにたくさん店があり、値上げされれば別の店で買うことができた。だが都市部の住人はごく一部に過ぎず、フランスの規制当局は他の大勢の消費者の犠牲を強いたと言わざるを得ない。

政府には未来に大ブレークするものを当てる能力など備わっていない。そこでアメリカやイギリスなどでは政府が特定の産業の振興に影響を及ぼすべきではないとされている。つまり勝ち馬を当てようとするな、ということだうまく行ってもまぐれ当たりに過ぎず、悪くすれば利益団体を喜ばせるだけになりかねない。この主張の根拠となっているのが、政府主導の壮大なプロジェクトの大失敗である。その代表格が超音速旅客機コンコルドだ。また膨大な公的資金を投じて生き残ってきたフランスのブル社は、国家助成を得てIBMに拮抗するスーパーコンピューターを開発するという。また一時国有化され、その後民営化された者の事業の相次ぐ分離など経営が一向に安定しないテクニカラー(旧社名トムソン)の例もある。きわめて示唆的な例として2005年に発足した産業革新局が挙げられる。インターネットのためのマルチメディア検索エンジン開発プロジェクト「Quaero(クエロ)がそうだ。このプロジェクトには、フランスからトムソン、ドイツからドイツ・テレコムなどが参加し、既にフランス政府から9900万ユーロの資金が投じられている。一体フランス政府は、スタート時点からすでにグーグルに気の遠くなるほど遅れを取っているというのに、本気でクエロがグーグルを追い越せると信じているのだろうか。


マーケット感覚を身につけよう ちきりん

「読む能力」に関して、今、重要になりつつあるのは、「何を読むか」を判断する力です。昔の学生は、読むべきものを自分で選ぶ必要はありませんでした。誰でも簡単に手に入るようになっている情報、すなわち、書籍化されている情報は出版社なり教育機関なりが「読むべき価値のある文章」として選別したものだけだったからです。ところが今は情報が溢れかえっており、その質も大きくばらついています。「本に書いてあるのだから正しいのだろう」などと思っていては、知らず知らずのうちに偏った考えを刷り込まれてしまいます。そんな環境を生きるこれからの人に必要なのは、「何を読むべきか自分で考え選択する力」です。

秋葉原のオタクカルチャーや食に関しては東京は世界レベルの競争力を持っています。ところが「アジアにおける国際的な金融センターになる」という目標や「アジアのハブ都市になる」といった関西経済圏のスローガンは全く成功しないまま立ち消えになっています。

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モルガン家 下

ラモントは、イタリアの起こしたエチオピア戦争をアメリカの西部開拓にたとえて次のように記した。「首領(ムッソリーニ)がアフリカの新しい帝国の発展について語っているが、今後のエチオピアには、農業・経済開発の仕事が残されている。広大で肥沃な土地が、ほとんど人の住まない未開墾のままである。今後、その土地は、イタリア移民の勤勉にして賢明な工作に任されることになるが、約半世紀以上も前に、広大なアメリカ西部の資源がアメリカ移民の手で開発されたのと事情は全く同じである」

リビア、ケルキラ島、エチオピア、スペインの各地でイタリアが次々と暴虐の限りを尽くした後では、このようにムッソリーニの指南役を買って出ることは、ひどくお門違いと思われる。

モルガン家(下) 金融帝国の盛衰 (日経ビジネス人文庫)

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資本主義の思想史

ヘルベルト・マルクーゼの洞察「市場はあなたが本来必要としていないものを買わせようとする人々で満ち満ちており、その結果あなたは時間と快楽、そして創造性を犠牲にしているのだという認識だ。一方、フリードリッヒ・ハイエクは「市場は他の形では伝えられない情報を流すことで個人の多種多様な活動を調整し、目的が全く相反する人同士であっても共通する手段に注目すれば互いに協力し合うことも可能であり、同意の必要性を最小限に抑えることができる、という洞察である。

ヴォルテール 近代ヨーロッパの知識人が資本主義をどのように考えていたのかという研究は、ヴォルテールから始める必要がある。これは特に彼が「知識人」の役割を作り出すことに貢献したからに他ならない。独立した著述家、あるいは「世論」という現象が存在するようになったのである。フランスの蔵相ジャック・ネッカーは世論を「財力、警察、軍隊を持たない見えざる権力」と呼んだ。世論の形成に献身した独立の文筆家としての知識人の 興隆は18世紀に同時進行した2つの展開によって可能となった。一つは文筆家の経済的基盤ががパトロンによる庇護から市場に移ったこと。もう一つは統治者である王に直接訴えるのではなく、知識を与えられた公衆に依拠した新しい政治形態の成長である。

エドマンド・バーク 賃金を労使間の交渉ではなく、治安判事に設定させるのは農業経済についての重大な決定を知識も関心もないような者の手に委ねることに等しい。政治家が、食糧価格を下げるように政府の介入を求める都市住民の声に耳を傾けるのはばかげている。農業は商業の共通原則、すなわち関係者すべてが最も高い利潤をめざすという原則にしたがって動かなければならない。

ヘーゲル ヨーロッパのドイツ語圏の大半がナポレオンに征服され、多くの従属国がフランスの庇護の下に生まれた。そこでは「ナポレオン法典」が採用されたが、これは史上初めて宗教や出自にかかわらず人は法の下で平等であるとうたったものである。しばしば歴史的にみられるところであるが、外国に征服されるという脅威は国を守るための近代化を促進させることになるのだ。

シュンペーター 知識人集団は…批判で生計を立てており、その地位はすべて、批判の鋭さに依存している」。資本主義に対する反感は、また、教育ある男女が周期的に過剰生産されることによっても助長される。

ドイツやオーストリアでは、ユダヤ人は資本主義の代表者としてみなされていた。それは国民の多くの階級が伝統的に商業を嫌っていたため、より高く評価される職業から実際に排除されていたユダヤ人が、それらにたやすく参入することができたからであった。ドイツにおいて、反ユダヤ主義や反資本主義が、この商業活動への軽蔑という同じ根源から生まれてきたという事実は、現在までそこで何が起こってきたかを理解するうえで極めて重要な点であり、外国の観察者にはほとんど認識されていないことなのである。

ハイエクによればファシズムとナチズムは、資本主義の発展過程で社会的に損失を受けた者たちが、市場で否定された報酬を力ずくと手前勝手なイデオロギー理論によって取り戻そうとする絶望的な試みなのだ。

近代の資本主義社会は戦争のような国家の危機の時期を除いては、「目的の一致」というものがない点が特徴だと考えていた。計画経済は様々な財の正確な相対的価値についての社会的コンセンサスを必要とするが、これは自由社会では不可能だからである。自由社会の利点は必要な同意が最低限で済むということである。これならば自由社会での個人の選択と多様性と両立できる。

ギュスターヴ・ル・ボンの著書「群集心理ー人心の研究」、1895年にフランスで刊行され、すぐに世界各国で翻訳された同書もまた多くの点で、階層の解体や、「群衆の神権」が「王の神権」に取って代わることに関する、きわめて保守的なエリート主義者の嘆きを表していた。関心を集めたのは非合理性の原因が群衆の心理にあると分析した点である。ル・ボンは意識的な行為にはるかに重要な影響を及ぼすのは意図的な動機ではなく、「概して遺伝の影響によって形作られた無意識の基盤」だと説いた。個人が群衆になるとそのような影響が強まり非合理性が幅を利かせるようになる。さらに群衆の一員になるという事実だけで、人間は文明の階段を何段も下ってしまう。孤立している間は教養ある人物だったとしても、群衆に加わると野蛮人、つまり本能のままに動く生き物になるのだ。ル・ボンは大衆の手綱を握る可能性を提示した。大衆の見方は自分たちの利益、ことによるといかなる真剣な考えも反映してはいない。理に適っていることを訴えても意味はない。必要となる条件は、劇のように抗しがたく衝撃的なイメージ、「人心を満たし、それをつかんで離さない」ような「絶対的でゆるぎない単純な」イメージである。

資本主義の思想史: 市場をめぐる近代ヨーロッパ300年の知の系譜

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戦略の世界史

1848年のドイツでの革命のためにマルクスが抱いていた戦略は「急進化したフランス革命」という表現に要約された。『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』自体が、1789年革命との比較に基づいた著作だった。マルクスは1789年革命よりも前に築かれた理論的構成概念にもとらわれていた。この概念は最初に試す機会において、政治の実践にはあまり役立たないことが明らかになった。マルクスの理論は、プロレタリアートに対してその真の利益と歴史的役割について説くうえで、他の者たちよりも優位に立ち、凌ぎつづけるという説得力のあるナラティブを提示した。だが1848年には、数が少なく政治的に未熟なプロレタリアートがより広い層の一階級に過ぎず、何らかの形で進歩するには連携の必要があると考えるようになると、この理論は破たんした。マルクスの概念には4つの基本的な問題があった。

第一に、階級というものは、単なる社会的あるいは経済的区分ではなく、その構成員に快く受け入れられるだけのアイデンティティでなければならなかった。プロレタリアートはそれ自体が階級であるというだけでなく、政治上の一勢力という自覚を持った自分たちのための階級である必要があった。
第二に、一つの階級として意識を高めるには、対立する国や宗教の主張を覆す必要があったが、多くの労働者にとって社会主義者、愛国者、キリスト教徒であることは矛盾ではなかった。
第三に、「共産党宣言」で主張された階級の二極化と異なり、1848年の階級構造は極めて複雑だった。歴史的には消滅したとみなされうるが、当時ははっきりと存在していたグループがあった。こうした状況において、様々な政治構造や結末がもたらされる可能性が生じていた。マルクスは「小工業者や小商人、金利生活者、手工業者、農民、これらすべての階級はプロレタリアートに転落する」と考えていた。しかし、これらのグループは必ずしも都市部の労働者階級と同一視されるものではなく、それぞれに固有の利害があった。
第四に、最大の混乱は、「共産党宣言」が、プロレタリア革命の前に必ずブルジョワ革命が起きることを前提としている点にあった。ブルジョワ革命は、プロレタリアートの発展と、工業化社会で主導権を握ることへのプロレタリアートの意識を促す条件を整えるだろう。だが、その実現には時間がかかる。ブルジョワには、その企業家的創造性を通じて既存の秩序を転覆したり、回避したりすることが可能だった。やがて政治情勢が追いつき、この活力に満ちた階級の居場所ができる。そうなれば民主主義の拡大という形でプロレタリアートも恩恵を受ける。しかし、もし理論が正しいのだとすれば、ブルジョワ革命がもたらすのは労働者階級の漸進的な発展ではなく、一層の搾取と窮乏化であった。

フランスの社会学者 ガブリエル・タルドは1890年代に起きたドレフュス事件(ユダヤ系フランス軍大尉アルフレド・ドレフュスがドイツのスパイだったとの容疑で有罪になったことを巡る議論)を振り返り、個人が結集しなくても総意は形成されると気づいた。ここから、公衆を「精神的な集合体であり、物理的に隔たりあった個人が、心理的なつながりだけで結合した存在」とするタルドの考えが生まれた。したがってタルドは「現代は群衆の時代だと説く健筆家ル・ボン博士」に賛同できなかった。現代は「公衆あるいは公衆たちの時代である。この差はきわめて大きい」。個人は一つの群衆にしか属せないが、多くの公衆の一員となることができる。群衆は興奮しやすい場合があるが、公衆においてはより冷静な意見が交わされ、群衆ほど感情的にならない、とタルドはといた。ロバート・E・パークは同質で単純で衝撃的で、出来事を認識すると感情的に反応する群衆と、異質で批判的で事実に向き合い、複雑さを快く受け入れる、より称賛に値する公衆とに二分するこの考え方を発展させた。秩序だった進歩的社会は「異なる意見を持つ個人で構成されるからこそ、慎重さと合理的な思案に従う」公衆に依存する。ひとたび公衆が批判的でなくなれば、あらゆる感情が同一の方向に揺れ動くようになり群衆同然になってしまう。

ゲイリー・ハメル 不運にもハメルが一推し企業として挙げたのはエンロンだった。「リーディング・ザ・レボリューション」の第二版刊行に際しては、エンロンに関する記述が削除された。

戦略の世界史(上) 戦争・政治・ビジネス (日経ビジネス人文庫)

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世界経済大いなる収斂

グローバリゼーションを4つの局面に分ける。
【フェーズ1:人類が地球上に広く拡散する(紀元前20万~約1万年】食料を人のいるところに移動させるより、人を食料のある所に移動させるほうが簡単だったため、生産と消費は空間的に結合していた。
【フェーズ2:グローバル経済がローカル化する(紀元前1万年~紀元1820年】農業革命が始まって食料の生産が人のいるところで行われるようになった。都市が勃興し、古代文明が生まれた。集積地の間で貿易が行われるようになったが、国内の値段は主に地域の需要と供給の状況で決まり、国際的な需給環境は関係しなかった。
【フェーズ3:ローカル経済がグローバル化する(1820~1990年頃】蒸気革命と産業革命は人類の環境全般、特に距離との関係が完全に変わった。輸送が発達すると遠く離れたところで作られたものを消費することが経済的に見合うようになった。その結果、生産パターンがシフトする。それぞれの国が「いちばん得意なことをして、それ以外のことは輸入する」ようになると国際貿易の量が飛躍的に増えた。生産は国際的に分散していたにもかかわらず、先進国の向上にミクロの集積を築いた。過去に例を見ない所得格差へとつながっていく。
【フェーズ4:工場がグローバル化する(1990年~現在】ICT革命と第二のアンバンドリング(グローバル・バリューチェーン革命)は、グローバルな知識の分布に偏りを固定化させていた制約を小さくした。北が脱工業化する一方で南の一部での国で工業化が進んだ。

考古学的な根拠が示すように前回の最温暖期にある一つの集団がアフリカを出た。およそ125,000年前のことだ。この集団はエジプトルートを通って、肥沃な三日月地帯に入った。
ヴィンセント・マコーレイがミトコンドリアDNAから得た証拠を使って、非アフリカ系の人類はすべて、55,000~85,000年ほど前、別の気温上昇期に紅海ルートでアフリカを出た小さな集団と関係していることを証明した。
40,000年前に人類がアフリカ、アジア、オーストラリアに継続して存在していたと考えられる。北ヨーロッパは35,000年前に事だった。15,000年前にアメリカ、12,000年前にパトゴニアに到達していた。

ホモサピエンス登場後の気候変動(今日との気温差、摂氏)
一番高い所で+5、寒いところで-10だが、今以上の水準は、13万年前~約11.5万年前と13000年前というわずかな期間しかない。
出所:J.Jouzel et al.,”Orbital and Millennial Antarctic Climate Variability over the Past 800,000 Years,” Science 317, no. 5839(2007):793-797. 南極ドームC氷床コア記録による。

アジアの勃興(紀元前10000~紀元前200年) 大勢の人が物理的に集中したことで同じ発明から受けられる人が増えて、イノベーションの見返りが大きくなった。
第二段階:ユーラシアの統合(紀元前200年~紀元1350年) シルクロード。
第三段階:ヨーロッパの勃興(1350~1820年) パックス・モンゴリカの下で貿易が盛んになったが、同時に意図しない効果ももたらした。黒死病(腺ペスト)のグローバリゼーションである。1350年以降の大流行はすさまじく社会を一変させることになった。黒死病はシルクロードを介して東から西へ広がり、1347年にヨーロッパに到達した。わずか3年でヨーロッパの全人口の1/4~1/2が黒死病で命を落とした。人口が激減したヨーロッパ社会は進歩したが、イスラム世界は逆に後退したのである。西ヨーロッパ諸国は封建領主の支配のもとで勢力が均衡し停滞していたが、イスラム文明は都市を中心に反映していたからだとされる。黒死病の打撃は都市部のほうが大きかった。スティーブン・ブロードベリーは「大いなる分岐を検証する」で、黒死病のもたらすインパクトがヨーロッパとイスラム世界で異なるものとなったのは、農業の種類、女性の初婚年齢、労働供給の柔軟性、国家組織の性質によるものととしている。

分水嶺となった二つ目の出来事は15世紀に訪れた。イスラム世界の細分化、明王朝による政策的な鎖国体制、コンスタンティノープルの陥落(オスマン帝国が拡大してヨーロッパとの貿易ルートが断たれた)によって、シルクロードが遮断されたのだ。鄭和のアフリカ航海など、中国の前進がヨーロッパに伝わらなくなった。

クルーグマン=ヴェナブルズ 距離が持つ2つの側面。モノを移動させる容易さ、「貿易の自由度」。アイデアを移動させる容易さ、「知識のスピルオーバーの自由度」、貿易が自由化されると産業は一つの地域に集積するようになる。たとえば国内輸送がしやすくなると経済活動は都市部に集積する傾向がある。知識のスピルオーバーの自由化をすると、産業は分散していく。

グローバル・バリューチェーンが構築されていると、売り上げと規模の問題が決める。オフショア施設をつくる多国籍企業はすでにグローバルな競争力を持っているので、グローバル・バリューチェーンのなかにいる企業にとって、需要と市場規模は重要な要因でなくなる。発展途上国が国際サプライチェーンに加わると、他国の産業基盤にタダ乗りできるようになる。そのため、すべての工程で競争力を身につけなくても、一つの工程だけで競争力を得られるようになる。

世界経済 大いなる収斂 ITがもたらす新次元のグローバリゼーション

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カジノ産業の本質

イギリスでは馬に賭ける場合、10%の税金を賭け金にかけるか配当金にかけるかを選べる(賭けた馬が買った場合)。この場合、期待資産の観点から見れば、賭け金に課税した方が間違いなくいい。しかし、実際には、賭け金の規模が増すにつれ、配当金に課税する方を選択する傾向が強くなる。これはつまり、賭け金の規模が増すにつれ、ギャンブルの消費価値が高まるということだ。

パリ・ミュチュエル税ーパリ・ミュチュエル方式、手数料などを差し引いた全賭け金を勝者に分配する。

カジノの拡大が犯罪率の上昇を招いたと示した論文もある。しかし、この主張が正しいと言えるのは、カジノ所在地の人口のみをもとにして犯罪率を算出した時、すなわち、観光客の数を考慮しなかった時だけだ。観光客の数を考慮した実証研究では、カジノと犯罪のあいだの関連性は弱い、もしくはないという結果が出た(リース、2010年など)。

資産は盗まれても存在がなくなるわけではない。テレビはある家から別の家に移動しても、それまで同様のエンターテインメント源であり続ける。新たにサービスを受ける者が泥棒であれ、盗品ディーラーであれ、これは変わらない。(ランズバーグ、1993年、97-98)
とはいえ窃盗にまつわる社会的コストも2つ存在する。まず第一に犯罪被害者に”精神的コスト”をもたらす可能性がある。これは奪われた資産の汽船的価値とは無関係である。第二に、窃盗があると、不本意な資産の移動を防ぐための行動が生まれる。限られた資産を窃盗を防ぐために使い、錠や防犯ベルなどを購入する。物品税もわかりやすい例だ。こういった税金は資産の移動であり、その価値は費用対効果分析には属さない(ランズバーグ、1993年、96)。しかし、税金は社会的コストをもたらす。相互に利益のある自発的な取引の数を減らし、消費者と生産者の剰余金を減らす原因となる。資源が政府による税金徴収に回されることになる。会計士や弁護士を雇って税の負担を減らしたい避けたりするために資産を使うようになるのだ。窃盗や税金による不本意な資産の移動について理解すると、自発的な資産の移動は社会的コストにならないということがはっきりわかる。しかし、ギャンブル研究では通常、自発的な資産移動の金額も、ギャンブルによる社会的コストの一部とみなされる。病的ギャンブラーが社会にもたらす、いわゆる旧サイコス自摸その一例だ。富を生み出すことも破壊することもなく、再配分しているだけだというのに、である。

設問2「一日にギャンブルで使用した最大金額は?」 ギャンブルをしたことがない、1ドル未満、1~10ドル、10~100ドル、…、10,000ドル以上」

以上のようなギャンブルに関する金銭面のスクリーニング調査の方法にはいくつか問題がある。まず回答者がギャンブルで失った金額の計算方法を理解していたかどうかが不明確だ。ブラッチィンスキら(2006年 127)は「ギャンブルの支出額をどのように計算するかを明示しない限り、回答者はそれぞれの方法で計算する」と述べている。その弊害は「それぞれの方法で導かれた支出額は信頼性が低い。よってギャンブルをテーマとする論文に記されたギャンブル支出額には、深刻な偏りがあるのではないかという疑問が生じる。

うん、間違いない。情報源の質が悪すぎる。競馬でもパチンコでも「俺はトータルで若干勝っている」という奴ばかりだ。それは間違ってる、おそらく引き算ができないんだ。

カジノ産業の本質 社会経済的コストと可能性の分析

ひまわり堂書店 東京本店による

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同和と暴力団 一ノ宮美成

不動産業「広洋」の岸広文。86年7月、東京地検特捜部が摘発した平和相互銀行の不正融資事件で、特別背任の共犯としても逮捕されている。平和相銀の関連会社「太平洋クラブ」所有の神戸市内の山林、いわゆる風岩の土地を60億円で購入したのだが、その際、兵庫県の同建協加盟業者「サン・グリーン」とともに同行から96億円、さらに20億円の追加融資を受けた。その追加融資分は、同行の伊坂重昭・前監査役と共謀し、手に入れた不正融資だった。

同和と暴力団 公金をしゃぶり尽くした日本の闇人脈 (宝島SUGOI文庫)

HK market ROADによる

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戦争請負会社 P・W・シンガー

シエラレオネ政府援軍の正体、南アフリカ エグゼクティブ・アウトカムズ、1995年、反乱軍を討伐。
クロアチア人がバルカン半島の均衡をいともたやすく変えたことができた理由は? ミリタリー・プロフェッショナル・リソーシズ・インコーポレーテッド(MPRI)の果たした役割の詳細。LLLの傘下。
コソボ問題の人道支援、軍を使いたくない米国は、テキサス州土木建設会社、ブラウン&ルート・サービシズ。ディック・チェイニーが会長だったことも。ハリバートン傘下。

1993年アンゴラ、南アフリカ エグゼクティブ・アウトカムズ、再訓練と空襲でUNITA(アンゴラ全面独立民族同盟)司令部を奇襲爆撃、IDAS(International Defence and Security)社、アンゴラ政府の持つダイヤモンド鉱山を防衛。空中偵察と情報収集(エアスキャン社)、地雷除去(ロンコ社とDSL社)

コンゴ モブツ政権(ジオリンク社) vs カビラ新政府(ベクテル

英国国防省 2001年「保証制予備役」制度、海軍の航空機支援部隊、陸軍の戦車輸送部隊、空軍の対艦給油飛行隊などで、1998年コソボ紛争、2001年アフガンなどで活躍。

米国 1994~2002年までに、米国国防総省は、米国に本拠地を持つ企業と3000件を超える契約を結んだ。契約金額は3000億ドルを超えると推定されている。糧食業務と言ったマイナーなものだけでなく、警備、軍事的助言、訓練、兵站支援、隊内治安維持、専門技術、情報収集など。

ロシアの原子力潜水艦クルスクが爆発した時、最初の目撃者は民間の請負査察船、エアスキャン社。

貿易は、汝自らの武器による保護とその恩恵の下に運営かつ維持されなければならない・・・貿易は戦争失くして維持することはできないし、戦争は貿易なしに行うことはできない。 ヤン・コーエン(オランダ東インド会社総督)

フランス王は歩兵部隊の大部分をスイス兵に頼っていた。スイス軍団はナポレオン戦争(1803~1815、イタリア遠征を含めれば1796年から。1803、イギリスのフランスへの宣戦布告))の直後までフランス軍に勤めた。今日でさえ、スイス人傭兵の伝統が残っている。ローマ法王の近衛軍はスイス人で1502年に教皇ユリウス二世の軍隊を補充するために雇われた軍団が進化したものである。

変化の最終的な曲がり角はナポレオン戦争、18世紀の終わりに始まった。1700年代を通して傭兵軍は存在したものの、この時期に王たちの戦争はついに国民の戦争に進化した。初期のころは個々の戦闘技術の方が人数よりも重要だったけれども、戦争の水準が上がり始め、戦場で規模の有利さという新しい考えを利用しだした。根本的な原因は火器の技術的開発が続き、必要な訓練の期間が大幅に減ったことである。クロスボウや初期の短銃は何年もの習得準備が必要だったが、マスケット銃だとかなり短い訓練期間で誰でも有能な銃士になれた。

なぜ安全保障が民営化されたか?

冷戦の終結、軍隊の削減と国家の消滅によって、公開市場に元兵士が溢れた。国家の軍隊は1989年に比べて700万人もの兵士を削減した。旧共産圏は特に。米国人は冷戦時のピークに比べ1/3ほど減っていて、英国陸軍は過去二世紀で数では最も少なくなっている。南アのアパルトヘイト政権の終焉と近隣国家が同時に改革を行った結果、軍事構造に同様の変化が起きた。削減が大きいのは後方支援の領域である。たとえば米国陸軍装備研究所だけで60%削減、しかし、軍事的展開の頻度は予想よりはるかに高くなり、米国が冷戦後の新しい介入を支援する能力にほころびが生じている。この綻びこそ、数十億ドルの兵站外注部門の始まりとなった。

軍縮が意味したのは訓練された人員が世界市場にあふれるだけでなく、大量の在庫兵器が公開市場に出回った。

サイドライン社は、シオラレオネのカバー大統領のクーデター勢力撲滅努力への助言、カマジョール民兵軍団の再建、300トン以上の兵器の空輸について、1000万ドル以上の契約をしたと報道された。この度の融資家はラケシュ・サクセナで、元タイの銀行家である。当時、サクセナはBCCI銀行詐欺事件で演じた役割のため自宅軟禁され(報道によれば、タイ国立銀行から1億ドル搾取したかどとか)、カナダから国外追放されるのを待っていた。サクセナはアフリカに事業上の権益をいくつか有していて、コノ地方のダイアモンド採掘権と引き換えにカバーを支援する交渉をしたいと望んでいた。

MPRI社は、少なくとも2002年までは、戦争犯罪法廷で名が出たことがない民営軍事請負業で唯一の企業。


ゆるく考えよう

能力のない人へのアドバイス
1)情報をため込み、安易に周囲に開示しない
2)仕事のスピードが遅いなら長時間働く
3)論理性も議論の構築力もないなら、「合成の誤謬だな」とか「前提条件がぶれていますね」といったわけのわからないコメントをしておけば、相手は当然意味がわからないため、論理的に反撃することができません。
4)不安の時は自己啓発本を読むか、もしくは、買い増しましょう。

なるべく「モノを考えない性格の人」とつきあうようにしています。「おれのこと?」と驚く友人が何人もいそうですが、これはもちろん悪口ではありません。楽観的でなんでも前向きに考えて、失敗しても大笑いして済ませることのできる人たちと一緒にいると、「こんなに大変なことでも、こういうふうに受け止めればいいのだ」と学ぶことができます。

ゆるく考えよう 人生を100倍ラクにする思考法 (文庫ぎんが堂)

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国際紛争を読み解く5つの視座 篠田英朗

20世紀に見られた経済格差の縮小は、多くの先進国で導入された著しい累進課税などの政策によって例外的に回避された現象でしかなかった、とピケティは指摘した。「経済成長に伴って経済格差は縮小する」と論じてノーベル経済学賞を受賞したサイモン・クズネッツ(1901~1985)に対する対抗理論を提示したとして、ピケティの議論は学術的評価を受けた。

20世紀はなぜ例外だったのだろうか。第一に二度の世界大戦が「総力戦」を交戦主要国に課した結果、資金調達と大衆動員の必要性に迫られた各国政府は、富裕層への課税をためらわず、社会保障を含めた社会資本の整備に邁進した。これは自由主義の原則に従った資本主義だけでは危機対応ができないという認識に基づいた、大きな政治的修正であったと言える。第二に世界大戦は19世紀資本主義によって蓄積した英米を中心とする富裕国層に対して、新興国が自らを持たざる国と表現しながら試みた挑戦としての性格を持っていた。資本主義の陥穽が生み出した世界恐慌が、世界大戦の構造的要因となったことが広く認識された。第3に19世紀以来、組織化された共産主義運動が世界各国において現実の力となっていた。先進国政府はあからさまに富裕層だけを優遇する政策は取れず、共産主義運動に対抗するためにも市場に対する国家介入をためらわず、資本主義が生み出す階級的な社会格差の是正に努めた。

「銃・病原菌・鉄ー13000年にわたる人類史の謎」ジャレド・ダイアモンドによれば、アフリカに文明が発達しなかったのは南北に大陸が伸びていたことが大きな要因であるという。なぜならユーラシア大陸では、同じ気候の下にあることなる文明圏の間で農業技術などの伝播が容易に進められ、相互影響の結果としての技術革新が次々と生まれることになったのに対して、アフリカ大陸は全く逆の条件下にあったからである。

国際紛争を読み解く五つの視座 現代世界の「戦争の構造」 (講談社選書メチエ)

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ケインズ説得論集


レーニンはこう語ったと伝えられている。資本主義を破壊する最善の方法は通貨を堕落させること。政府はインフレを継続することで、密かに気付かれることなく、国民の富のうちかなりの部分を吸収できる。この方法を使えば、国民の富を没収できるだけでなく、恣意的に没収できる。その過程で、多くの国民は貧しくなるが、一部の国民は逆に豊かになる。

保守党の政策 「
電話や電気の普及を急いではいけない。金利が上昇する。
道路や住宅の建設を急いではいけない。雇用の機会を使い果たし、後に必要になった時に身動きが取れなくなる。
全員に職をあたえようとしてはいけない。インフレを引き起こすことになる。
投資してはいけない。採算がとれるかどうか、どうすれば分かるというのか。
どんな行動もとってはいけない。他の行動がとれなくなる。
安全第一だ。100万の失業者の生活を支える政策はもう8年続けているが、悲惨な状況になっていない。この政策を変えるリスクを取る必要がなぜあるのか。
できないことを約束してはいけない。だから我々は何も約束しない。

不況と衰退のスローガンである。 1929年5月

ケインズ 説得論集 (日経ビジネス人文庫)

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「国家主権」という思想 篠田英朗

主権国家は、主権国家として認められていなければ主権国家として存在しえない。主権国家は国家主権を認める国際社会の中においてのみ存在する。
主権国家から成る国際社会と、国家以外の複数の主体が形成する広域社会は異なっている。

ラサ・オッペンハイム 1905年 国際法概説書
主権国家は排他的な国際的人格であり、国際法の主体である。国家の存立には、人民、国土、政府、そして主権という4つの要件が必要であった。もし国家が十分主権を書いているならば、それは不十分主権国家であり、不完全な国際的人格だと理解される。

アンドリュージャクソン 1832年、国民主義者の立場から、各州は実質的にもはや主権者ではない。州市民の忠誠は合衆国政府に移行した。
1861年南部諸国 アメリカ連合国大統領 ジェファーソン・デイヴィス 人民が主権を行使できる唯一の政治共同体は州であり、主権は分割されない。

デイヴィット・ヒル
フランス革命で単に君主から人民に移行しただけの絶対主権は、人権の否定につながった。それはアメリカ革命の生家の対極位置するものであった。たとえ民主主義であっても、帝国主義的で反立憲主義的なものになりうる。ナポレオンが体現した絶対的民主主義は人間に信頼を置くものだったが。合衆国で開花したワシントンの民主主義は原則に信頼を置くものであった。

アメリカ人は人類歴史上初めて、法の支配への同意が主権の放棄ではないことを示した人民である。

ソ連の考え方によれば、世界には「プロレタリアート民主国家」と「資本主義・帝国主義」国家が存在していた。「主権の制限」は「共通利益」や「共通善」などと同様に「最強の帝国主義諸大国の欲深い目的」の一環でしかない。対してソ連の主権は、社会主義的理想のもとに国益と国際協力が融合している新しい主権概念である。アメリカの「絶対的・無制約主権の概念」は社会主義諸国の一体性の対極にあるものだ。

1970年代から80年代に焦点を当て、主権概念をめぐる新しい動向に注目する。主権制限論の消滅と主権概念の形式化という現象は受け継がれ、国債立憲主義と呼ぶものが現れてくる。国家擬人説に基づいて国際社会と国内社会を単純に比較する習慣的思考法は、減退するのである。かわって国際社会でも国内社会でも共有される価値規範を強調する見方が隆盛する。1972年にイギリスは3度目の申請がようやく受理されてヨーロッパ共同体(EC)へ加入をはたした。その時主権の問題は議論されたが、主流派の論者たちは実利的目的のために主権を行使すること、あるいは「経済的主権の制限」を受け入れることを提唱していた。

「国家主権」という思想: 国際立憲主義への軌跡

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イーロン・マスク 未来を創る男 アシュリー・バンス

脳の中には普通ならば、目から入ってきた視覚情報の処理にしか使われない部分があるが、その部分が思考プロセスに使われているような感じかな。とにかく、視覚情報を処理する機能の大部分が物事を思考する過程に使われていた。

スペースXの社員には略語を使いたがる傾向があるようです。略語の過剰な使用は、コミュニケーションの邪魔になります。本当に大切なのは、会社が成長する中でも充実したコミュニケーションを維持することだと思っています。

BMWはフロントガラスも内装もバックミラーも作っていなかったんです。大手が今も手放してない部分は、内燃機関の研究、車の販売、マーケティング、最終組み立て工程だけでした。

イーロン・マスク 未来を創る男

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資本主義・社会主義・民主主義 シュンペーター

マルクスは予言者であった。彼の偉業の本性を理解するためには、マルクスの生きた時代の背景の中にそれを浮かび上がらせてみなければならない。当時は、ブルジョア意識の最頂期であり、ブルジョア文明の最低期であった。それはまた機械的唯物主義の時代であり、新しい芸術や新しい生活様式が胎内に宿っているとの兆候がまだその影を見せず、そのうえ胸の悪くなるような陳腐さのなかに時間が浪費されていたような文化的環境の時代であった。真の意味での信仰は、社会のあらゆる階級から急速に失われ、それとともにただ一条の光明すら労働者の視界から消え去っており、その一方知識人はミルの「論理学」や「救貧法」に対して満足の意を公言していた時代であった。

このとき、社会主義の現世の楽園を約束するマルクスの託宣は、幾百万の人々の心にとって、新しい一条の光明と新しい人生の意義とをもたらした。これら幾百万の人々のほとんど全部が、その託宣を真の意味において理解しかつ評価しえなかったのは大したことではない。それはあらゆる託宣の運命である。重要なのはその託宣が当時の人々の実証的な精神に受け入れられやすいような形で形成され伝達されたことであるーその実証的な精神は疑いもなく本質的にブルジョア的であった。したがってマルクス主義は本質的にブルジョア精神の所産であるということには何らの逆説も存在しない。一方においては、不運な大衆の自慰的態度たる、邪険にされ・不当に取り扱われたとの感情を比類なき力で定型化することにより、他方においてはまた、かような罪悪からの社会主義的救済が合理的検証に耐えうる確実性を有するものであることを宣言することにより、なされたのである。

完全競争とは、あらゆる産業への自由な参加を意味する。それが資源の最適配分の、したがってまた生産量増大の条件であるというのは、その一般理論の内部では全く正当である。

社会主義は作用しうるか、もちろん作用しうる。我々はもっぱら次の2つの型の社会のみを考察の対象として取り上げるのであるから、その他のものについては単に付随的に言及するにとどめる。その2つの型の社会を我々は「商業」社会と「社会主義」社会と呼ぶ。商業社会とは、その制度的類型を規定するのに次の2つの要素を上げれば足りるような社会を言う。すなわち、生産手段の私的所有と生産過程の私的契約による規制とがこれである。しかしかのような社会は、原則として純粋にブルジョア的な社会ではない。というのは、産業ブルジョアジーや商業ブルジョアジーは一般に非ブルジョアジー階層との共棲なしには生きていけないからである。さらにまた、商業社会は資本主義社会とも同一ではない。商業社会の一つの特殊な場合たる資本主義社会は、以上の他になお信用創造ー、それは現代経済生活の極めて多くの顕著な特徴を説明するものであって、現実には銀行信用、すなわち、その目的のために作り出された貨幣(手形や当座預金)によって企業者に融資することーという新しい現象が付加された場合にのみ十分に規定されうるものである。けれども、本来は社会主義に対応するはずの商業社会も、実際にはむしろ資本主義の一特殊形態として現れるのが常であるから、読者が資本主義と社会主義という伝統的な退避に執着したとしても、大して違いは生じないであろう。我々の言う社会主義社会とは、生産手段に対する支配、または生産自体に対する支配が中央当局に委ねられているーあるいは、社会の経済的な事柄が原理上私的領域にではなく公共的領域に属しているーような制度的類型に他ならない。社会主義とは万人のためのパンを意味するというようなおめでたいものは別としても、最もだと思われうる多くの仕方があるーのだから、必ずしも我々の定義が最上のものであるというわけではない。

国家という概念は封建社会の論議にも社会主義社会の論議にも立ち入ることを許さるべきではない。なぜならば、国家の意義の大部分は私的領域と公共的領域との間の分割線をひくことから生ずるのであるが、かような分割線は封建社会にも社会主義社会にも見られず、またみられるはずもないからである。このゆえに私は、自分の社会主義の定義に国家の概念を用いなかったのである。もちろん、社会主義は国家の行為によってもたらせうるものではあろう。けれどもそのことは、この行為を通じて国家がーマルクスによって指摘され、レーニンによって繰り返された如くー死滅すると言い切ることを、いささかも妨げるものではない。

日経BPクラシックス 資本主義、社会主義、民主主義 1
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99%の会社はいらない 堀江貴文

古いやり方やシステムをそのまま使い続け、新しい仕組みやシステムを導入することに抵抗を感じる人が多いのだ。
 もしそれを導入しようものなら、初めてのことを覚えるのが面倒くさいのか、「その新しいシステムを使って、いままで使っていたシステムをどう再現するか」ということを考えはじめたりする。新しいシステムをそのまま使うのではなく、いままでの自分たちの形に合わせたものにしていく。これだと新しいシステムの良い部分までも捨ててしまうことになりかねないし、意味がない。

ハンコ以外にも日本企業は、古い体質を変えられないことが多い。
 たとえば、手書きの領収証もそうだろう。どこでも買える同じような領収証に手書きで金額などを書き、ハンコを押す。会社では印字タイプのものではなく、その手書きが一番だとも言われる。
 でも、冷静に考えてみて欲しい。
 どこでも買えるような領収証の紙に、簡単に複製できる捺印、バイトが書いた手書き文字。そんな領収証など、正直、いくらでも偽造ができてしまうのではないか? それであれば、プリンターで印字したものの方がよっぽど信頼性が高いはず。
 もちろん、海外では偽造できてしまう手書きの領収証は認めてもらえず、プリンターで印字された明細書でないと認められなかったりする。
 このようなことは、日本が「ハンコさえあればOK」という謎の文化を持っているからだろう。

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損する結婚儲かる結婚 藤沢数希

原題でもいくつかの地域で母系制社会が残っている。中国の少数民族モソ人の社会では、男性はカネや権力より、ルックスや才能で選ばれるそうだ。子育てが、母親とその親族で行われるから、父親は子育ての能力より、遺伝的な資質で選ばれるのだろう。このような性淘汰が行われるので、モソ人はみなびっくりするような美形揃いだという。モソ人の社会では遺伝子の論理による、子どもの虐待などということは決して起こらないし、女性におかしな社会規範(浮気防止の貞操観念)が押し付けられることもないのだ。このように素晴らしい母系制社会が、なぜ現代では少数派になってしまったのだろうか。理由はもちろん戦争である。戦争で武器を持って戦うのは男だ。父系制社会では、集団の中の男はリーダーである父親の血縁者で固められている。父親と子供やその兄弟たちは血を分けた存在であり、命を懸けて自分たちの集団のために戦うのだ。相手の集団の男たちを皆殺しにしたら、新しい女が手に入る。それは遺伝子の論理からも正しいことで、戦うモチベーションが非常に高い。一方で、母系制社会では、武器を持って戦う男は、その辺をフラフラしているヒモ亭主だ。男にとっては、集団の他の男との血縁関係も明らかではない。子供は自分の子供かもしれないし、僧ではないかもしれない。こうした母系制社会の男が命を懸けて、集団のために戦うことは無い。どちらが勝つのかは火を見るより明らかだ。こうした部族同士の殺し合いが絶えなかった人間の歴史では、どう考えても母系制社会は滅ぼされるか、父系制社会にシフトする必要に迫られるのだ。だから現代でも母系制社会が残っているのは、山岳地帯や熱帯雨林の中など、主流派の人類に見つからなかった辺境の地の少数民族ばかりになっているのだ。

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