p83 1938年からヨーロッパで戦いの始まった直後(1939年9月)までは、ルーズベルトは参戦を考えてはいなかったと思う。彼が干渉主義的な政治手法を取ったのは、ニューディール政策の失敗を国民の目からそらすためだったのだろう。権力者がよく使う、昔ながらの手法である。外国からの侵略の危機を訴え、パワーポリティックスに参画したかった。つまりマキャベリズムなのである。

p567 1943年ルーズベルトは改めて無条件降伏を表明したのである。スターリンは無条件降伏要求に抗議した。スターリン元帥は、戦争手段としてみた場合、ドイツの課す条件を定義しない無条件降伏要求の方針が適当であるか否かについて問うている。無条件降伏要求は条件をあいまいにするものであり、それがドイツ国民を一つにしてしまう逆効果になりかねない。降伏条件を明らかにしておけば、仮にその条件がどれほど厳しい物であっても、ドイツ国民は、何を覚悟しなくてはならないかをはっきりと認識できる。スターリン元帥は、その方がドイツの降伏を早めるのではないかとの意見である。
スターリンは、ヒトラーおよびナチスと一般国民との間に違いがあるとした。ドイツ軍部の間にも前者との溝があるとしていた。こうした溝にくさびを打ち込む、つまり支配するものと、されるものを離反させる機会を見逃していない。しかしその機会は、ルーズベルトとチャーチル(の無条件降伏要求)によって失われてしまった。無条件降伏要求は無条件の抵抗を生む。反ヒトラー戦力の意志を削ぐ。その結果、この戦争は長引くことになろう。

下p188 ドイツは1939年9月にポーランドに侵攻した。ドイツはポーランド外務省から多くの文書を押収し、アメリカの関与を示すものを公開した。ウィリアム・C・ブリット駐仏大使が、ルーズベルトの名代として、ポーランドおよびフランスの官僚たちに対して工作を仕掛けていたことを示す文書であった。