Category: 読書

技術が重要なんだけど、技術だけではない現状

ビジネス分野において、なんの問題意識も持たないまま「何か画期的なアイデアを考え、イノベーションを起こせ!」と命じられたらどうなるでしょう。そういうときに起こる現象を、私は「イノベーション エイエイオー方式」と呼んでいます。みんなで拳を振り上げ、エイエイオー!と叫んで気炎を上げる精神論的な手法を揶揄したネーミングですが、そんなやり方でイノベーションが起こることはありえません。ところが現実には「アイデア出しのミーティング」とか「ブレーンストーミング」といった名称を使い、イノベーション エイエイオー方式」の会議がどこでも頻繁に開かれています
伊賀泰代.生産性

イノベーション エイエイオー方式ワロタ。ただ、これイノベーション要らないね。全部そうだよ。フィンテックエイエイオー、AIエイエイオーw なぜそうなるかというと新テクノロジーに取り組んでますって言いたいだけなんだよ。あるいはAIは一切やってないと言いたくない。だから手段と目的の取違が起こって、AIを導入することが目的になり、何をしてるんだかよくわからないことになる。私が取り組んだ商品開発で唯一失敗したw事例を紹介しよう。

上司「面白い新商品作ってくれよ」
俺「面白いとは?」
上司「儲かるやつ」
俺「客がですか?デスクがですか?」
上司「両方」
俺「無理っすね」

解説しようw 金融商品は、結果的に客が儲かったり損したりすることがあるだけで、客が儲かる商品は作れない。デスクが儲けようと思えば、抜き幅を大きくして客から取るということになる。我々にできることは、「儲かりそうに見えるがオプション価値が大して高くないもの」を考えることだけだ。ただ、これは日本を含むアジアでは受けず、実際に売れる商品は「損しなさそうに見えるがオプション価値が高いもの」だけである。早期償還ノックインというのは、長い期間のノックインの場合、ノックインとバニラの価格の相違が小さい。そして高いクーポンは、株が上がると早期償還条項でノックアウトする効果があるので大して価値がない。そして、客があまり意味がないノックインレベルとクーポンだけ気にするように設計されているある意味完璧な商品なのである。

半導体メーカーのインテルが行った「インテル入ってる(Intel Inside)」の広告は衝撃的でした。これによりインテルは「インテルのCPUさえ入っていれば、どのパソコンでも性能は同じである」と消費者に伝えることに成功しました。これによりその後の消費者は「インテルの部品さえ入っていれば、高価なIBMやNECのパソコンを買わなくても台湾製のパソコンで十分だ」と考え始めたのです。この広告でインテルは「パソコンの部品メーカー」から「事実上のパソコンメーカー」に昇格しました。一方「パソコンの組み立て作業はコモディティビジネスにすぎない」と印象付けられたIBMやNECは、その後いずれもパソコン事業を売却しています。「パラノイアしか生き残れない」といわれ、圧倒的な性能を誇る商品を他社に先駆けて次々と開発してきたインテルは、超一流の技術系企業です。それでもこの画期的な広告戦略がなければ、部品メーカーとパソコンメーカーの地位逆転など起こりえなかったでしょう。
伊賀泰代.生産性

インテルねぇ、懐かしい名前だな。2000年以降はほとんど成長してないと言っていいかもしれないが、この環境下で時価総額170bilを維持しているのはすごい。

アップルの成功物語にもさまざまなビジネスイノベーションがてんこ盛りです。ライバルのウィンドウズやアンドロイド商品が売られる店舗に比べ、圧倒的に洗練されたアップルストアの店舗デザインや、極めてシンプルで洗練されたパッケージングなど、顧客コミュニケーションに並々ならぬ投資をしてアップル商品に高いロイヤリティを持つ顧客を育て上げたのも、マーケティング上のイノベーションです。今では、街でアップルストアを見てもだれも驚かなくなってしまいましたが、私たちはそれを目にするまで、あれほど洗練されたデザインの店で売られる情報機器など、見たことがなかったはずです
伊賀泰代.生産性

アップルストアの衝撃か。ちきりん俺より年上なのに若いな。アップルの広告といえば…こっちだ。

これ「アップルはコンピューターを民に開放する」という有名な広告
https://www.youtube.com/watch?v=2zfqw8nhUwA

古すぎ?wイノベーション全く関係ないんだけど好きな広告と言えばPepsi vs Coke adかなんかでYoutubeで無限に出てくるの面白いよね。私が子供のころ、日本でも一瞬放送された…はず。ただその後のバージョンで、モザイクがかけられたりとか、今は放送されたないと思うけど。ライバル企業の製品を出してしまうという衝撃の広告でした。そしてその後、私は大人になってから、ライバル企業の名前が、事業リスクのところにバンバン出てくるアメリカ企業の10-K(有価証券報告書)にも衝撃を受けた。

海外からの皮肉じみたジョークには、「日本人は会議の開始時刻には厳密だが、終了時刻には極めてルーズだ。しかも誰もそのことを悪いと思っていない。開始時刻にルーズなイタリア人と、終了時刻にルーズな日本人には何の違いもない」
伊賀泰代.生産性

ハハハ、海外あるある。会議を仕事に置き換えて、残業問題とかよく聞くね。

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非製造業の企画や開発部門における非技術的なイノベーション

各都市から目的都市に直接それぞれ5個の荷物を送ろうとすれば全体では10路線必要になります。しかもそれぞれの飛行機に乗っている荷物は5個だけです。一方、シカゴをハブ空港として設定すれば、飛行機を飛ばすのは4路線のみとなり、1機の飛行機にはそれぞれ20個の荷物を載せられるので、1個当たりの輸送コストは大幅に下がります。(ただし旅客の場合は荷物と異なり乗り換えのストレスなども生じるので、別の最適化も必要)。現在では当たり前のように使われているハブシステムですが、これも最初に考え出され導入された時点では明らかに改善ではなく革新=イノベーションと呼べるの生産性の向上策でした。
伊賀泰代.生産性

確かに。こんなもんは技術革新ではまったくない革新の一例だが、ハブシステムが革新だって意識は日本はほとんどないだろうな。

【ニコ生】ひろゆき ベーシックインカムを実現するには④「中国が素直になった」

で言及されてるコンテナ革命もまた面白い。骨子は、コンテナがあればコンテナを開けることができないというセキュリティが保証され、物流業者に対する信用が不要になって誰でも輸送ができるようになった、というものだ。ただ、タイトルの「中国が素直になった」は、騙すよりまともにやった方が利益率は下がるが規模で言えば儲かる額が多い、ということだ。だから俺が言った「資本主義と法治国家としてまともじゃない方向性が日本の強み」は、間違ってはいないし選択の余地はないが、一流にはなれないことが確実な道でもある。コンテナの事例はブロックチェーン技術というテクノロジーによって信用が担保されれば、金融機関の資本力による信用の必然性が揺らぐということも暗示している。

付加価値が上がったか下がったかを判断するのは、企業ではなく消費者だということです。たとえ「今までよりはるかに良い商品になった!」と供給者が考えても、それだけの価値を消費者が感じなければ、価格を上げることはできません。日本企業は「付加価値を上げる=新たな機能を追加すること」、もしくは、「付加価値を上げる=高機能化すること」と考えているかのようにみえますが、欧米の家電メーカーなどは、「機能を絞る」ことで付加価値を上げる手法も多用しています
伊賀泰代.生産性

伊賀さんのご指摘ごもっともだが、あえて日本をフォローすると、日本にも「機能を絞る=わび・さび」の概念がある。

2011-11-30 利休にたずねよ3/4 ~茶の湯の極意

わび・さび出してる時点で、現在の日本での好事例を探すのに俺も苦労していることの証拠でもあるんだが。戦国時代の経済成長によって、金銀両本位制からの脱却のために用意したのが、一国の徴税権ほどの価値がある茶器が登場したとか、面白い話が満載なので、「利休にたずねよ」は今一度読み返す価値がある本だと思う。

日本では、製造現場における改善運動から生産性という概念が普及したため、「生産性を上げる手段=改善的な手法によるコスト削減」という感覚が定着してしまっています。このため企画部門や開発部門など「自由に発想することが重要な仕事に従事している」(と自負している)人たちは、生産性の向上が自分たちの仕事にも極めて重要であると、長らく認識できないままになってしまっていました。

商品開発、サービス開発から、物流や在庫管理、顧客対応、研究開発や人事、経理、法務などの管理部門も含め、すべての部署で不断に生産性の向上を目指すことが必要なのであり、「うちは製造業じゃないから無関係」「開発や企画だけをやっていて、オペレーション部門を持たないから無関係」という話ではないのです。

非技術的なイノベーション、たとえば「貨幣制度の確立」とか「取引所の確立」といった経済的なイノベーション、「戸籍・住民票制度」や「裁判制度」といった社会制度上のイノベーション、「株式会社=有限責任制度」という法律上、ビジネス上のイノベーションは、すべて非技術的なイノベーションです。
伊賀泰代.生産性

では、私の方からも、「非技術的イノベーション」の事例を。

1987年1月パリ、OECDのある会議でフランスの大蔵大臣が「フランスは、メートル法と共に付加価値税で世界を征服した」と、大見得を切ったのである。

わかるかね? メートル法とVATはイノベーションだ、と言っているのだよ。貨幣制度が生産性の向上ってのは、ほとんどの人に通じないんじゃないかなー?

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環境汚染と戦場を輸出し、貧困と格差を輸入する

10人の社員で10億円の利益を上げる企業のひとり当たりの利益は1億円。同額の利益を5人で達成する会社があれば、ひとり当たりの利益は2億円となり、後者の労働生産性は2倍となります。計算式の分子には売上げにや付加価値額、分母には資金や時間、労働者数など、様々な数字が入りますが、いずれの場合も生産性は「成果」÷「投入資源」という割り算で計算されます。

「アメリカのテクノロジー企業は収益は産んだけど雇用は産まなかった」 まー、よく聞く台詞だが、大体がそもそもアップルやグーグルの従業員数も知らずに言っている下らん批判だ。ただ、確かにGMより従業員数は少ない。ただ、ここではかなりわかりやすく伊賀さんが例示してくれているが、先進国企業=給料が高い、そのためには? 

企業名 従業員数 時価総額
AAPL 116,000人、756B
GM 225,000人、53B

という状態だとしたら、GMの社員に高い給料出せるわけねーじゃん。トランプさんが製造業に圧力かけて「雇用をアメリカに取り戻す」と言ってるじゃないか! という論調もよく聞くが、ラストベルトの票に対する気遣いにすぎず、アメリカ経済にとっての重要性は薄い。製造業が雇用が多い? 雇用という観点だけで言うならば、アメリカで一番従業員数が多いのはウォールマート。何人いると思うね? 230万人。GMの10倍です。新興企業でありながら実質上の物流でもあるアマゾンだって34万人。認めたくないかもしれないけど、アメリカで起きたことは数十年遅れで日本で起きるのよ? 将来の自分、あるいは自分の子供は、イオンかセブンイレブンで働くことを覚悟したほうが良いぞw

「では(生産性を上げるためには)投入資源を減らせばいいのだな」という話になるのが2番目の問題です。そこで採用される方法の大半が、昼休みにオフィスの電気を消すとか、コピーの枚数を制限するといったコスト削減策だからです。

それって生産性の向上? と思わず目が点になってしまうような事例ですね。私が出す事例は生産性の向上ではなく、震災後の4月に日本に行った時に、ほとんどすべてのオフィスで電気を消している自粛ムード。新人歓迎会は不謹慎! なんか意味あんの? と首をかしげてしまいました。

一方、海外に目を転じると、非製造業分野でも多くの事例が見つかります。たとえば、米国のクレジットカード会社や消費者ローンを提供する企業は、賃金の安いインドに特別な語学学校を作り、インド訛りのない英語を話すインド人を大量に育成しました。そして彼らを雇用することで、コールセンターをインドに移管してしまったのです。米国在住の消費者は、催促の電話がまさかインドかからかかってきてるとは思ってもみないし、その英語が、インド訛りの矯正スクールで習得されたものだとも想像していないでしょう。

この事例は知らなかったが伊賀さんらしい無難な事例と言い方だ。俺は関係ないのでもっと過激な発言をするがw、製造業が後進国に工場を作るのは、安い土地と従業員だけではなく、公害の輸出(環境規制が緩い国は対策しなくていいからコストが安い)という面もある。米国企業がやってることはそんなレベルだけではなく、例えば、戦場の輸出と軍事の民営化。あまりにもアコギなのでしょっちゅう名前が変わっているが民間軍事企業ブラックウォーター、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BCUSA

詳細については 「戦争請負会社 P.W. シンガー」に詳しい。

戦争請負会社 戦争請負会社
P.W. シンガー Peter Warren Singer

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その歴史的背景と必然性については、リンカーン暗殺と反ピンカートン法などもググってみれば、また面白い。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E6%8E%A2%E5%81%B5%E7%A4%BE

アイゼンハワーの「軍産複合体の脅威」演説の前からずっと潜在的にアメリカに存在している問題の一つだな。マイケル・ムーアの映画ボウリングフォーコロンバインなども「アメリカの戦争と暴力の歴史」に触れていて、娯楽として見ても面白いと思う。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%B3

このように日本語で本は出てるわ、Wikiでの解説もあるわ、映画まであるほどだ。

インドの語学学校まで作るグローバルアービトラージによるコスト削減の例として俺があげたいのは、「収益は、差が生み出す」。その究極のコスト削減、貧困と格差の輸入ともいえる事例は、ブラッドダイヤモンドについてWikiもあるし

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89

本もあるし、「テロ・マネー アルカイダの資金ネットワークを追って ダグラス・ファラー」

https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4532164818/globalcollabo-22/

ディカプリオ主演の同タイトルの映画まである。(それは見たことがない)

また別に

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武器と資源のバーター取引、武器輸出規制がある日本企業ではここまでできないので、徹底的な生産性の向上wに関してはどうしても米国企業が例に上がってしまうのだが、多くが日本語ソースで、Wiki、本、映画などで簡単にアクセスできてしまう。また別に、生産性の向上ってよりも究極の節税対策なのだが、皆さんもご存知の米国一流企業はまともに法人税も払ってない。これは株主利益最大化の企業努力であり、その言い訳としての代表格が「知財」。端的に言ってしまうと、スターバックスとしては「うちはコーヒー豆を輸入してるのではなく、「知財」を輸入していて原価が高いんでイギリスでは利益が上がっておらず法人税は払えません!」 というものだw ハンバーガーを売っているのではなく、マクドナルドを売っているのだ! というのと同じ発想。

徹底した「生産性の向上」、本来、俺の言葉で言うと合理化なのだが、それを日本企業がまともに米国企業と競争するのは不可能だ。ブーン・ピケンズが指摘した、トヨタと小糸製作所の明確な資本関係もないのに不透明な「系列企業」という関係により、トヨタが不当に小糸製作所の利益を収奪している! という主張を退けた過去の歴史があるが、こういった「資本主義と法治国家としてまともじゃない方向性が日本の強み」として活かしていくしかない。ファイアーウォールソフトのチェックポイントというイスラエル企業が米国では軍事機密として輸出規制をしていた暗号化技術を輸出することでグローバルスタンダードを勝ち得たという事例を見習うことが重要だ。

これを下品な話ととらえないでほしいのだが、中国がポルノ規制をしているのだから、ポルノ規制がほとんどない日本は、ポルノを中国に輸出してしまえばいいんだ。アダルトビデオの不法コピーとインターネット配信は、あえて目をつぶって、AV女優と会えるイベントなどを、AKB48のような握手券方式を拡張させ、金額に上限なしでオークションすればそれなりのビジネス規模になることは間違いない。俺がやってるオンラインゲームで世界ランキング上位に行くためには月額数百万円単位の課金が必要で、ランキング上位者は、中東のオイルマネーと中国だぜ。ゲームに月額数百万円課金するバカが中国に居るんだから、ポルノでそれを取りに行けばいいんだよ。

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食と文化の謎 3/7~おぞましき豚

豚肉嫌悪はどう考えても牛肉嫌悪よりももっと非合理的に思える。すべての家畜の中で、豚は、植物を肉に変える速度と効率でもっとも大きい潜在能力を持っている。一生の間、豚は、餌に含まれるエネルギーの35%を肉に変えることができる。これに比べて、羊は13%、牛に至ってはわずか6.5%にすぎない。

豚に対する恐れと嫌悪の根拠を、いわば自明な豚の不潔さに求めることは、少なくとも12世紀にエジプトのイスラム王朝サラディン王につかえた宮廷医ラビ・モーゼス・マイモニデスの時代にまでさかのぼる。「豚の口はその糞とおなじくらいきたないから」 豚の排せつ物趣味は、豚の悪しき本性の故ではなく、ご主人様の買い方に問題があるのだ。排泄物を食べるのは、他にもっと良いものが無い時だけである。豚を動物の中で最も汚いものと非難しながら、他のくそを食べる家畜に対する寛大な態度については何も説明していない。ニワトリもヤギも、動機と機械がありさえすれば、やはり糞を食べる。犬もまた、人糞に対してたやすく食欲モリモリとなる家畜だ。豚肉忌避に関するマイモニデスの公衆衛生理論が科学的に正当性らしきものを獲得するには、その後700年待たねばならなかった。1859年に寄生虫のセンモウチュウと生の豚肉の関係が医学的に初めて立証され、それ以来、これがユダヤ教とイスラム教の豚肉タブーに対するもっともポピュラーな説明となった。

旧約聖書には、食べてよい肉と禁じられた肉を区別する定則が、かなりくわしく書かれている。その定則は、習性の不浄性や肉の健康に対する有害性については何も言っていない。そのかわり、食べてよい動物の解剖学的、生理学的な、ある特徴に注意を向けている。レビ記11・1は次のように言っている。

動物のうち、すべての蹄のわかれた、偶蹄のもの、そして反芻するもの、それらは食べることができる。

なぜ豚は食べるに良くないとされているかを説明しようと本当に思うなら、一言も言われていない排泄物や有害性ではなく、この定則を出発点にしなければならない。レビ記は続いて、豚はその定めの半分しか満たしていない、とはっきり言っている。つまり、「それは蹄がわかれている」。しかし、定めのもう半分は満たしていない。「すなわち、それは反芻しない」。

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反芻動物の並外れたセルロース消化能力は、中東では人間と家畜の関係にとって極めて重要な意味を持っていた。「反芻」できる動物の飼育によって、イスラエルの民とその周辺の人々は、人間消費用の作物と家畜と分け合わずに肉とミルクを得られたのだ。牛・羊・ヤギは、草、ワラ、干し草、切り株、灌木、木の葉などを食べて大きくなる。それらはセルロースをたくさん含んでいるため、どんなによく煮ても人間が食べるには適さない。反芻動物は、食物をめぐって人間と競合するどころか、肥料としての糞とスキをひく牽引力を提供することによって、農業の生産力をさらに高めた。

豚は雑食動物だが、反芻動物ではない。実際のところ、消化器官、必要な栄養分に関して、豚は、猿と類人猿以外のどの哺乳動物より、人間によく似ている。それが、アテローム性動脈硬化症、カロリー・蛋白質不足症、栄養物吸収作用、新陳代謝などに関する医学研究に豚がよく使われる理由なのだ。

豚は中東の気候と生態環境に合っていないという、もう一つのハンデキャップを追っている。豚の体温調整システムは、暑くて、陽であぶれられるようなところの生活には全く適していない。しかし、そういう所がアブラハムの子供たちのホームグランドであったのだ。汗かきの人間は「豚のように汗をかく」といわれるが、この表現は解剖学的根拠を欠いている。豚は汗をかけない-汗腺をもっていないのだ。豚はよく汗みずくになっているが、それは外部から取った水分で身体を濡らしているためである。ここに、豚が泥の中で転げまわるのを好む理由がある。豚は転げまわることによって皮膚からの蒸発作用と冷たい地面からの伝導作用で熱を発散する。泥の冷却効果は水より勝っている。

こういったマイナスをすべて相殺するには、豚は反芻動物に比べて、あたえてくれるベネフィットがあまりに少ない。豚はスキを引けず、その毛は繊維や布に向かず、そのうえ乳用に適さないからだ。豚は肉以外ほとんど役に立たない唯一の大型家畜である。ニワトリは肉だけでなく卵も産む

レビ記は、反芻しないすべての陸上脊椎動物を徹底して禁じている。禁じられているものは、豚の他に、馬、猫、犬、ネズミ、爬虫類があり、これらはどれも反芻動物ではない。しかしレビ記の記述は、頭が変になりそうなほど複雑である。レビ記が特別に反芻動物と認定した三種類の動物も、食べるのを禁じられている。それは、ラクダと野ウサギ、そして三番目の動物はヘブライ語でシャーファーンである。これら名指しにされた三種の反芻動物が食べるに良くない理由は、「蹄がわかれて」いないから、と書かれている。

レビ記の食物規則はそれまでにあった伝統的な食物偏見と忌避を、ほぼそのまま成文化したものである。レビ記は紀元前450年まで文字に書かれなかった。これはイスラエルの歴史では非常に遅い時期である。おそらくレビ記の著者たちは、食べるに良い陸上脊椎動物が共通に持っているなんらかのわかりやすい特徴を見つけ出そうとしていたのだろう。レビ人が動物学の知識をもう少し持っていれば、反芻と言う基準の身を使い、ただ「ラクダを除く」と但し書きを付け加えるだけで良かったのだ。ラクダ以外のレビ記ではっきりと禁止されているすべての陸上動物-ウマ科、ネコ科、イヌ科、げっし類、ウサギ、爬虫類-は非反芻動物なのだから。しかし、動物学の知識に不安のあった法典編纂者たちは、ラクダだけが望ましくない反芻動物であるのか自信を持てなかった。そこでかれらは蹄が割れているという基準を加えたのだ。この特徴は、ラクダには欠けているが他の身近にいる反芻動物は備えていた。ラクダは蹄のかわりに、各足に二つのよくまがる、大きな指を持っている。

しかし、ラクダはなぜ望ましくない動物なのだろうか。ラクダが砂漠の環境に極めてうまく適応していることの反映であると考える。水を貯え、暑さに耐え、重い荷物を長距離運ぶという素晴らしい能力を持ち、しっかり閉じて砂嵐から守る長いまつげと鼻孔をもつラクダは、中東の砂漠地帯の遊牧民にとって最も重要な財産だった。しかし定住農耕民であるイスラエルの民はラクダをほとんど利用しない。砂漠以外のところでは、羊・ヤギ・牛の方が、ずっと効率よくセルロースを肉とミルクに変える変換器である。それにラクダの繁殖は極めて遅い。雌はなかなか子を埋めるようにならないし、雄も6歳にならないと交尾できない。そのうえ、雄の発情期は年に一度であり、また妊娠期間が12か月かかることが繁殖をさらに遅くしている。ラクダの肉もミルクも、古代イスラエル人の食糧に占める割合はごくわずかだった。アブラハムやヨセフのようにラクダを持っていた少数のイスラエル人も、砂漠を横断する時の運搬手段としてのみラクダを利用していたと思われる。

このような解釈は、イスラム教徒がラクダの肉を食べることを考えると説得力が増す。コーランでは、豚肉は特別に禁じられているが、逆にラクダの肉は特別に許されている。砂漠に住むイスラム教徒遊牧民ベドウィンの全生活様式は、ラクダを基盤にしていた。ラクダは彼らの主要な運搬手段であり、また、おもにミルクを取ることで主要な動物性食物源となっていた。ラクダの肉は日常食ではなかったが、ベドウィンは砂漠を旅する間、いつもの食糧がなくなってしまうと、非常食としてラクダを殺さなければならないことがよくあった。もしイスラム教がラクダの肉を禁止していたら、巨大な世界宗教になることは決してなかっただろう。アラビアの中心地を征服することも、ビザンチン帝国やペルシャ帝国を攻撃することも、そしてサハラ砂漠を越えてサヘル地域や西アフリカに到達することもできなかったに違いない。

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食と文化の謎 2/7~牛は神様

動物の肉は非常に栄養豊かなのだから、どの社会でも手にいられる限りあらゆる種類の肉が、貯蔵庫に蓄えられていると思うであろう。ところが実際には、全く逆のことが多い。世界中で肉に豊富に含まれている蛋白質、カロリー、ヴィタミンに対してすさまじいまでの欲求を示す同じ人々が、特定の種類の肉に限っては食べるのを拒否する。肉が栄養豊かであるなら、なぜ、それほどの多くの動物が食べるのに悪いものとされるのだろうか。インドを例に上げれば、さまざまな非合理的な食慣行のなかでもっとも有名なもの、牛を殺すこととその肉を食べることの禁忌がそうだ。

ヒンドゥー教の歴史において、牛の保護が常に中心的な問題であったわけではない。ヒンドゥー教の最古の聖典ーリグ・ヴェーダーは、紀元前1800年から800年にかけて北インドを支配していた牛を飼う農耕民ヴェーダ人(当時のアーリア人)の、神々と慣習に対する賛歌である。ヴェーダの時代におけるブラーマン階級の宗教的義務の中心は、牛の保護ではなく、殺牛だったのだ。ヴェーダ人は、動物の供犠と盛大な肉祭を同時に行ったヨーロッパと南西アジアの戦士・牧畜民の一つだった。儀式の時、ヴェーダの戦士と祭司は、ケルト人やイスラエルの民と同じように、忠誠に対する物質的褒賞として、また富と力の象徴として、臣下、従者たちに肉を気前よく分け与えた。村、地域全体がこの肉を食べる饗宴に参加した。

それぞれの儀礼に適切な牛の大きさ、形、色について、ブラーマン祭司が払わなければならない注意は、類似の古代イスラエルの供犠に関してレビ記に詳しく指示されているものと非常によく似ている。ヒンドゥー教の聖典で上げられている動物には次のものがある。額に白い斑点のある、角のたれた、去勢してない雄牛。足の太い成熟した雌牛。不妊の雌牛。流産したばかりの雌牛。三歳の、背こぶのない、小柄な、若い雌牛。黒い成熟した雌牛。二色の成熟した雌牛。そして、赤い、成熟した雌牛。このことからヴェーダ人は牛を他の動物以上によく犠牲にささげたし、紀元前1000年期の北インドでは牛肉が最もよく食べられる肉であった、と推測できる。

そのような、おしみなく牛を殺しその肉を食べる時代は、やがて、ヴェーダ人の首長たちが、もはや大量の牛の群を富の象徴として蓄えておけなくなるとともに、終わった。森林が縮小し、牧草地にスキが入り、それまでの半牧畜生活様式は、集中的な農耕と酪農に変わった。この変化は、単純なエネルギー関係に裏付けられていた。肉食を制限し、そして酪農と小麦、雑穀、レンズ豆、エンドウ豆、その他の作物の栽培を中心にすることによって、それまで以上に多くの人間が食べていけるようになったのだ。穀物を動物に食べさせ、その肉を人間が食べた場合、カロリーの9/10、蛋白質5グラムのうち、4グラムが失われる。酪農はこの損失をかなり減らすことができる。現在の乳牛が資料をカロリーに変える効率は、同じく現在の肉牛が資料を食肉と言うカロリーに変える効率の5倍である。また乳牛は肉牛の6倍の効率で資料を食用蛋白質にかえる。

人口密度が低い間は、未開墾地の草を牛に食べさせることができたし、一人当たりの牛肉生産を高いレベルに保てた。だが、人口密度が高くなるとともに、牛は人間と食物を取り合うようになり、やがて牛の肉はコストがあまりに高くつくものになって、首長たちは牛肉食を伴う公開供犠で、それまでのように気前よく振る舞えなくなった。しだいに人間に対する牛の割合が減り、それとともに牛肉の消費量も、とくに低いカーストでは少なくなった。しかし、そこにジレンマがあった。牛を全くなくすわけにはいかなかったのだ。農民はスキをひかすための牛を必要とした。スキは北インドに多い固い土壌を耕すのに必要だった。事実、ガンジス川流域平原の開墾に牛をひかせたスキを使い始めるとともに、人口の増加と、広く肉食一般、とくに牛肉食の中止も同時に始まったのである。もちろん、社会の全階級が同時に牛肉を食べる慣習を止めたのではない。特権階級のブラーマンとクシャトリアは、一般人を招いて喜びを分かち合うことができなくなったずっと後も、あいかわらず牛を殺し、牛肉を腹いっぱい食べていたのである。

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現在のインドおよび他国の企業家たちは、インドの「過剰」家畜を肉にして、外国、とくに石油で懐の豊かな、肉を欲しがっている中東の国々へ売れない物かと、しきりに狙っている。だから、ヒンドゥーの牛肉忌避は、インド産牛肉の大規模な国内市場あるいは国際市場の発達を阻止するのに役立ち、同時に、典型的な小規模農家を破産や土地を失うことから守っているのだ。もし足かせが説かれて大規模な牛肉市場が発達したら、インドの牛の価格は必ずや国際的な牛肉価格のレベルまで引き上げられるだろう。そうなれば家畜飼料はもっぱら牛肉生産用に使われてしまい、小規模経営の農民たちは農耕用の牛を飼ったり借りたり買うのが次第に難しくなるだろう。そして年々増加する人間にではなく家畜飼育に土地を振り向けるようになると、一握りの商人や富農が利益を独り占めし、残りの農民たちは生産、消費ともに低いレベルに落ち込んでいくに違いない。

牛を殺してはならないという戒律はあるものの、ヒンドゥー教徒の農民は、役に立たない牛を計画的にとりのぞいている。つまり、必要と環境条件によって雌牛にたいする雄牛の割合を巧みに調整しているのだ。現在のインドでは、ヒンドゥー教徒農民は、不要の牛を始末するのに、そのほかもう一つの方法を用いている。イスラム教徒の商人に売るのである。かれらは村からそういう牛を引き取り、地方の市で売る。それらの牛の多くは、最終的には合法的に、そうでないばあいは牛を殺すことを宗教的に禁じられていないほかのイスラム教徒によって、始末され、そのようなイスラム教徒は、結果的に、築牛解体処理業の独占といううまみをえることになる。牛肉と承知の上、またそうとは知らずに「マトン」として、かなりの量の牛肉を買っている。この「マトン」という雑肉表示ラベルは、イスラム教徒とヒンドゥー教徒の間の平和を維持するのに役立っている。ある経済学者によると、インドの7250万頭の牽引用雄牛を維持するには2400万頭いれば十分で、3000万頭の雌牛は過剰であり、それらを殺すか海外に売ることができれば皆の益になる、と断じている。

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食と文化の謎 1/7~肉が欲しい

本は常に読んでいるのだが、放浪生活の際、あまりに多くの本を持っていると重たくてつらい。4月時点で20冊ほどの本を持っていたが、現在10冊以下に減ってきた。軽くするために早く本を読みたかったので、書評も書くのをやめていたのだが、あまりに面白い本だったので、久しぶりに記録に残しておこうと思う。ヒンドゥーとイスラームの隣同士で、牛と豚を食べてはならないというのは、食料の奪い合い止めるための方便として、合理的な社会規範として成立しうるのではないか? と考えている私に対して、かなり合理的な説明を与えてくれた本でもある。

インドのヒンドゥー教徒が肉を食べず、ユダヤ教徒とイスラム教徒が豚肉を忌み嫌い、アメリカ人が犬のシチューなど考えただけで吐き気をもよおすことを考えると、何を食べるに良いものとするかを決めるポイントは、単なる消化生理学を超えたほかの何かである、と思わざるを得なくなる。

好んで選ばれる食物は、忌避される食物より、コスト(代価)に対する実際のベネフィットの差引勘定の割が良い食物なのだ。つまり、選ばれる食物は、忌避される食物に比べて一般的に、一皿当たりのエネルギー、蛋白質、ビタミン、ミネラルが多いのだ。食物によっては、非常に栄養豊かでありながら、それを作るには多大な時間と労力がかかるため、あるいは土壌や動植物の生活に悪い影響を与えるために、またそのほかの環境問題の理由で、はねつけられるものもある。世界各地の料理にみられる違いは、大部分、エコロジカルな制約と条件に理由を求められ、その制約と条件は地域によって異なることを、本書で明らかにしようと思う。

例えば、肉食中心の料理は、比較的低い人口密度、作物栽培に不向きか必要としない土地に関連がある。逆の菜食中心の料理は、高人口密度に結びついており、地勢、地味と食料生産技術の制約から、食用動物を飼育すると、人間が手に入れられる蛋白質とカロリーの総量が結局は減ってしまうことになるようなところである。このあとわかるように、ヒンドゥー教徒の場合、肉生産はエコロジー的に非実用的で、そのマイナスが肉食の栄養上のプラスをはるかに上回っているから、肉は食べないのである。栄養上のエコロジー上のコストとベネフィットは、貨幣経済上のコストとベネフィットと必ずしも同じではない、ということである。アメリカなどの市場経済では「食べるに適している」は「売るのに適している」を意味し、栄養価値とは別問題の可能性がある。母乳代用品としての乳児用の調合乳の販売は、栄養やエコロジーより収益性が優先される典型的な例だ。

狩猟採集民は、しばしば、しとめた獲物の肉の特定部分を、ときには全部を、食べないで捨ててしまうという行動である。たとえばオーストラリアのピャンジャラ族は、しとめたカンガルーに近づくと、肉に脂肪がどれだけついているか尻尾で調べ、その様子が芳しくない場合は、そのまま捨てていく。また考古学者たちの頭を長い間悩ましてきた問題がある。それは、アメリカの大平原地帯の古代の野牛狩りの跡についてである。殺した野牛の数箇所だけが持ち去られており、おそらくその部分は食べられたと思われるが、その他の部分は、食べられもせずに、倒した場所にそのまま置き去りになっているのだ。この一見不合理で気まぐれと思える行為に対する説明は、狩人たちが脂けのない肉ばかり食べていると餓死する危険があるからということだ。長年エスキモーとくらし、生肉だけを食べて健康を保つすべを学んだヴィルジャルムル・ステファンソンは、そういう食事は肉に脂肪が多い場合にのみ成立する、と警告している。かれは、エスキモーやインディアン、また、アメリカ西部海岸地帯の初期探検者たちの多くが脂けのないウサギの肉を食べすぎたためにかかったと考えられていた症状、つまりかれらが「ウサギ飢餓」と呼んだ現象の生々しい描写を残している。

普通の脂肪量の食事から、急にウサギの肉だけの食事に変えると、最初の数日間、食事の量はどんどん増え、約一週間後には、最初の3倍か4倍食べるようになる。その頃には飢餓と蛋白毒の症状が出ている。幾度も食事をする。食べても食べても空腹を感じる。食べすぎのために胃が膨れて、気持ちが悪くてたまらなくなり、漠然とした不安を覚えるようになる。一週間から10日後に下痢が始まり、脂肪を取らない限り止まらない。数週間後、死が訪れる。

ちなみに、真剣にダイエットしている人なら、この処方箋に、アーウィン・マクスウェル・スティルマン医学博士の、金儲けのうまい、効き目抜群の、しかし非常に危険なダイエットを思い起こすのではないだろうか。このダイエットは、食べたいだけの赤身の肉、鶏肉、魚をいくらでも食べさせ、それ以外は何も食べさせない方法である。この脂肪のないウサギ肉市場を買い占めた最初のダイエットクラブは、今後さらに一層の金儲けをするだろう。

食と文化の謎 (岩波現代文庫) 食と文化の謎 (岩波現代文庫)
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勝つ投資負けない投資 2/2~社長業

「投機」と「投資」の違いとは?
正解は、投機とは「確率」にお金を投じること、投資とは「価値」にお金を投じることです。パチンコや競輪、競馬などのギャンブルへお金を投じるのは、確率に対してお金をかけている状態であり、一定の確率で勝ち、一定の確率で負けるようにできています。一方で投資とは価値にお金を投じるものです。価値には絶対的なものはなく、需要と供給にとって大きく変動します。需要が大きくなればなるほど、供給が小さくなればなるほど、価格の均衡点は高くなっていきます。

この説明でも良いですね。僕の説明では、
2013.04.04 投資・投機・ギャンブルの違いを述べよ
「投資・投機・ギャンブルの違いを述べよ。」と著者に問い詰めたくなる。正解はないが、どのように答えるかで、その人の考えやこだわりがわかる。私の考えでは、
投資とは、リスク・プレミアムを受ける行為、ギャンブルとは、リスク・プレミアムを払う行為。
投資とは、資産価格で認識する取引態度、投機とは、損益だけで認識する取引態度。
うーん、あんまり一般向けじゃないかなぁ、リスク・プレミアムって概念を当たり前に使っているあたりが…反省ですね。

残念ながら日本では職業としての社長業というものがなく、単にプロパー社員で一番出世した人や、親会社から天下ってきた人が社長になるシステムであるため、社長の能力が要求される基準に達していないことが多く見られます。このため、私は日本株に関しては社長と直接ミーティングをしない限り、その会社へ投資することは基本的にありません。これとは対照的に、米国の場合には社長業のプロがいます。会社の業績が悪化してくると、株主やその意向を受けた委員会がその状況に適したプロの社長を探し出して、組織の立て直しを図ります。プロ社長の前職は、業種業界が全く異なることもよくあることで、電子デバイスの会社の元社長が、百貨店のトップになったり、商社の社長がアパレル企業のトップになったりということが、日常的に起こっています。社長に求められるものは業界の専門的な知識では無く、イノベーティブな組織作りなどのソフト面にあるためです。

最近どうだろう。新浪さんとかソフトバンクの次期社長とか、あっ、あれインド人かw
tamatsuka.jpg

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勝つ投資負けない投資 1/2~株ドラマ

そんな時期に、偶然に出会ったのが株式投資でした。2005年に、『ビッグマネー!~浮世の沙汰は株しだい~』(フジテレビ)という株をテーマにしてテレビドラマを観たのがきっかけで、僕は相場の世界に入りました。そのドラマを観るうちに、「世の中にはこんなに面白い世界があったのか!」と居ても立ってもいられなくなり、すぐさま証券会社に口座を開きました。その時、僕の手には、バイトで貯めた全財産の65万円が握りしめられていました。

[このyoutubeは削除されました]
このドラマ見た人いる? 酷いドラマでねぇ、見れば、製作スタッフに株を知っている人が一人もいないのがわかる。株価が、40円、60円、35円、16円みたいな瞬間瞬間で飛び飛びの値を取ったり・・・、一番ひどいのが衝撃のラストシーン、「1分前に筆頭株主になりました」って言って株主総会に乗り込んでくるという、あきれ果てて声も出ない。でも、それで「株やってみよう」なんて人もいたんだなぁ…。

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国税局資料調査課

「コメ」という部署は、国税局資料調査課の隠語である。マルサと違い、一般人にはまだ知られていない。資料の「料」と調査課の「調」をとって「リョウチョウ」とも呼ばれているが、税理士などを含めた税務の分野ではすでに知られた言葉で、隠語としての価値はなくなった。それで「料」のヘンを指して「コメ」と呼ぶようになったのだ。コメは、マルサとは違いタマリが無くても調査を実行する。蓄積されたデータをもとに調査対象者を選定し、令状なしで(むろん、納税者による承諾の明示が必要とされるが)隅から隅まで調査する部隊である。大型事案では100人を投入することもある。
強制捜査より怖い任意調査
世間ではマルサが税務当局における最強部隊のように認識されているが、徴税に関してはコメのほうが圧倒的に怖い存在である。コメは1週間に一事案を基本に調査を企画・実施しており、増差所得(調査によって把握した所得)、調査件数ともに、職員一人当たりの効果測定はコメが圧倒している。マルサの調査事績は国税庁により公表されているが、2012年度に告発したのは117億円。人員が約300人とすると、一人当たり増差所得は3900万円にすぎない。コメの調査事績は税務署の調査事績の中に混在しており、具体的な数字はベールに包まれているが、一人当たりの増差所得は5億円は下らないだろう。追徴本税に換算すると年間2億円程度になり、マルサの5倍以上だ。マルサとコメとの大きな違いは調査の性格にある。すなわち「強制捜査」と「任意調査」の違いだ。マルサは内偵の結果、「タマリ」と呼ばれる不正計算の裏付け(過少申告した利益に対応する預金、有価証券、不動産など)があった案件しか調査できない。つまり答えがわかっている案件しか調査できないのである。
マルサの「強制」は、国税犯則取締法という法律に基づいて裁判所から令状を取るという後ろ盾があることによるが、コメは令状が無くても調査が可能。しかも「任意調査」は強制調査に対する対義語なだけで、法律上は、納税者には質問に答えたり調査に応じなければならない義務がある。コメは、国税通則法に定められている「質問検査権」という権限に基づいて調査する。質問や検査にあたって、相手方の「明示の承諾」があれば、書類やその他の物件を調査することができる。財政と治安は国の根幹であり、税収は財政にとって非常に重要なものである。調査を受けずにのらりくらりといなされては困るので、調査官が持つ質問検査権はかなり強力になっている。拒否したり、虚偽の回答をした場合には、懲役1年以下などの懲罰規定も定められている。つまり、間接的に強制しているので、「間接強制調査」といわれる場合もある。任意という言葉尻をとって軽く考えている人もいるが、その点は気を付けておくべきだ。質問検査証には、権利が及ぶ範囲が明記されている。例えば京橋税務署と明記されていれば、京橋税務署の管轄しか調査はできない。しかし、コメは、東京国税局長が質問検査証を発行するので、84すべての税務署の管轄エリアを調査できる権限を持っている。税目についても同じだ。例えば税務署の個人課税部門の場合、所得税調査が業務となるので、質問検査権は所得税法に関する調査に限定される。つまり、法人を直接調査することはできない。取引相手を調査する反面調査はできるが、その法人自体を調査対象とすることができない。ところがコメの場合には全税目に対して調査できる権限を与えられているのだ。
世に出ている節税本などに書かれていることを実践しても、大した節税にはならない。極端な利益の低調は、かなり怪しいと感じる。脱税は論外としても、過少申告の動機は限られている。来期以降の不況対策、株主対策、予算・決算を重視する企業においては、事業部の実績捜査のために行われるのが一般的だ。無理な利益調整を行うと、売り上げの伸びと申告所得の伸びに歪が生じる。歪みのある企業に行けば追徴ができ、調査官の成績に加点されるので、優先して選定されるわけである。利益を圧縮する方法は、実はいくつもない。売り上げを減らす。売上原価や経費の水増し、架空経費を作る。それに棚卸資産を減らすという大きく3つほどだ。水増し発注の場合は、協力者が必要になる。本当は1000万円の支払いなのに、3000万円支払ったことにして、2000万円戻してもらうといったように、だ。しかし、調査が入った場合、発注先に迷惑をかけてしまう。ところが棚卸の過少申告は自社だけで完結できる。しかも、棚卸を減らした伝票を入れるだけなので簡単。一度手を付けられたらやめられないわけだ。

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ナイスディール

ま、うん・・・一応読んだけど、折り目わずかに2ページだけだった。

蒔田雄一郎がCEOを務めるスパイスクルーズは、インターネット関連のいくつかのお事業に加えて、企業の独立支援をビジネスの柱にしていた。企業に出資して再生支援を行うという点では再生ファンドのような位置づけと言えるが、特徴的なのは労働組合への接点を通じて企業へアプローチする点にあった。蒔田はこれからの企業に経営者はいらないといった。株主はもはや企業経営上の需要な利害関係者ではない。彼らは結局のところ、従業員の利益を損なうことでしか存在しない。企業は従業員のためにこそ最大の貢献をするべきであり、そのために従業員の代表を取締役にすべきである。

この手の小説は読まない方がいいんだけど、冷やかし半分の気持ちで読むと毎度、違和感を覚える点をいくつか。
1.バイサイドとセルサイドの区別がついていない。
バイサイドは個人投資家と同じ、つまり、リスクを取る=株を持つこと、どんな会社かとか収益性が議論の中心だが、セルサイドの話なら、リスクを消すこと、発生したポジションは消すものであって、持ち続けることは無い。もちろん、一時的にとはいえ、保有するから、どんな会社なのかを、全く無視することは無いだろうが、それよりも、誰が売っているのか、誰に売るのか、誰が持っているのか、ということが中心のはずだ。
2.ビジネスに絡む女性が「不自然に」登場する。
そういうロマンスは無い。男しか登場しない。以上。
3.所詮は「村」の話なのに、世界の中心かのような表現
日本市場でも、株は比較的、世界展開できていると思うが、株でもエクイティのデリバティブ、JGB、そしてこの小説で扱っている社債市場に行くにしたがって強度の村社会。市場参加者が非常に限られている小さな小さな世界の話。どのくらい小さいかというと、JGBは発行総額・残高という意味での市場規模はめちゃくちゃデカいのに、誰も見てない。当座預金金利マイナス導入以前の、量的緩和以降、短期の国債はずっとマイナスだったのに、その時は誰も何も言わず、黒田さんの「マイナス金利導入」という単語にのみ、異様に反応していることからもわかるだろう?

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紛争と難民 緒方貞子の回想 5/5~難民発生の根源

明るみに出た虐殺の実態
1996年10月以降に行われた殺戮及び残虐行為には、ザイール国軍(FAZ)と傭兵、旧ルワンダ政府軍(FAR)と難民キャンプ出身の民兵、そしてカビラが率いるAFDLとルワンダ政府軍(RPA)という、三つの集団がかかわっていた。殺戮や残虐行為の内容や規模は集団によって大きく異なっていた。AFDL部隊および同盟を組むRPAは、民間人や難民に対し大規模な殺戮を行った。AFDLの行った殺戮と残虐行為にRPAも関与していたことが明らかになると、アメリカ政府は立場を変えざるを得なくなった。忘れてはならないのは、アメリカはフツ系難民が多数を占めるザイールの難民キャンプに人道援助を行う一方、RPAと南キヴのツチ系バニャムレンゲの軍事訓練や軍事支援にも手を貸していたという事実である。アメリカ軍による軍事訓練がRPAとAFDLの軍事能力を高めており、もはや暗黙の政治支援や軽度の治安維持支援の域をはるかに超えていると広く思われていた。人道的な地雷除去と訓練プログラムを隠れ蓑に、より積極的な軍事支援が行われていたと考えられていた。
RPAの関与について国際的な監査が進むにつれ、アメリカの政治・経済・軍事面での支援が問題になった。アメリカはルワンダ政府を支持したが、これはカビラ率いるAFDLを支援したことになるだろうか?下院公聴会でのクリストファー・スミス下院議員の質問や、「人権のための医師団」の証言に対して、アメリカ政府はルワンダへの軍事支援の重要性を否定しようとした。人権問題調査チームがカビラによる妨害や活動の制限によって、任務遂行上の困難に直面すると、アメリカは調査に賛成し、これまでに行われた大虐殺の責任を追及する、という立場を取り始めた。
アフガン難民
1970年代末から23年間、アフガニスタンはずっと戦場であった。国際社会がこの国の平和と安定を確かなものとするためにようやく支援に乗り出したのは21世紀になってからで、アメリカを襲った同時多発テロの余波のさなかであった。アフガニスタンから膨大な数の難民が流出する事態を引き起こした様々な紛争は国内問題に起因するが、外国の介入が国内紛争を一段と激化させた。米ソ両超大国の冷戦対立はムジャヒディーン(イスラム聖戦士の意)などのイスラム抵抗勢力による熾烈な武装闘争に火をつけた。ソ連軍はムジャヒディーンの激しい抵抗にあい、撤退するとアメリカはアフガニスタンに対する関心を失っていった。タリバーン勢力の台頭は一部の地域を平定したが、厳格で抑圧的な統制を強めたため、国民生活は悪化の一途をたどった。また、タリバーンの支配はアフガニスタン周辺諸国の関与を強めることになった。なかでもとくにパキスタンはタリバーンを支援することで影響力を著しく強めていったのである。
終わりの見えない戦争の惨禍と、泥沼化したアフガン問題を解決しようとする国際社会の関心は薄れてゆき、アフガン国民は苦難の中に取り残されていった。1978年に共産党が政権を掌握するとアフガン国民は国を離れはじめ、1979年末のソ連軍の軍事侵攻後には大規模な難民流出が起きた。推定では1年間に630万人が周辺諸国へのがれ、そのうちパキスタンには330万人、イランには300万人が避難した。ソ連軍が撤退を開始した1989年2月から91年末までに、およそ30万から40万人の難民が故国に帰還した。その後、92年4月にカブールの共産主義政権が崩壊すると、最多の難民がいち早く本国に帰還、その数はパキスタンから120万人、イランからは20万人に達した。その後も期間は続いたものの人数は減少していった。96年9月にカブールが陥落し、タリバーン勢力が政権の座につくと、新たに5万人の難民が生じた。そのうち80%はカブール出身者であり、さらに30万人の国内避難民がアフガン北部と東部の戦闘から逃れていった。アフガン難民が置かれた状況はパキスタンとイランでは大きく異なっていた。パキスタンに逃れた難民の多くはパシュトゥン族で、この民族が多く住む地域を中心に非難した。難民の3/4は女性と子供で、ソ連と共産主義の信仰の犠牲者を対象にした豊富な資金源のお陰で、国際機関や数多くのNGOが提供する十分な医療・教育支援を受けていた。それとは対照的に、イランに逃れた難民は、タジク人、ウズベク人、ペルシャ語を話すシーア派のハザラ族で、そのうち60%は成人男子であり、イランの労働力を担っていた。イランに滞留した難民に対する国際援助は非常に限られたものであった。1979年のイスラム革命以降、イランの新イスラム政権と西側諸国は緊張関係にあったからである。

紛争と難民 緒方貞子の回想 紛争と難民 緒方貞子の回想
緒方 貞子

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紛争と難民 緒方貞子の回想 4/5~難民の定義

第三章 アフリカ大湖地域における危機
アフリカ中部の極小国ブルンジとルワンダは、2つの大国、ザイール(現コンゴ民主共和国)とタンザニアに挟まれた内陸国である。
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> この地図上の位置だけで、海を奪われた大国の緩衝地帯。悲惨の運命が待っていそうな予感がする。
国土のほとんどは丘陵地で、人口密度は高い。人々は同じ言語を使い、文化を共有しながらも異なる部族、とりわけフツ族とツチ族の二大集団によって構成されている。旧宗主国はツチ族の長を通じて間接統治を行っていた。しかしながら、独立が近付くにつれて、多数派のフツ族は旧来の統治方法に対してますます挑戦的になり、政治的・社会的地位や権力を要求するようになっていった。1961年にフツ族が弾圧的な共和制を樹立すると、おびただしい数のツチ系住民が周辺諸国へ逃避した。1960年代初頭までに、ルワンダから15万人がザイール、ブルンジ、ウガンダ、タンザニアに流出した。1990年の時点でもなお難民だと名乗る人は、概数で60万から70万人にものぼっていた。難民に加え、多数のルワンダ人が、隣接するザイール東部のキヴ地方に移住した。
国内はフツ系とツチ系に分断され、深刻な政治的対立が続いていた。政権の座に就いたのはフツ族であったが、軍を掌握していたのツチ族であった。1993年10月21日にブルンジ政府軍がクーデターを起こし、ンダダイエ大統領が暗殺されると全土に暴動が広がり、5万人を超えるフツ系住民が殺害されたうえ、70万人を超える難民がルワンダ、タンザニア、ザイールへ流出した。
ジェノサイドと難民の避難
ルワンダでジェノサイドが起きると、フツ系住民は大部分が周辺諸国に逃れた。最初の集団は1994年4月末に国境を越えてタンザニアに流入した。その数は25万人にのぼったがUNHCRはこれには何とか対応することができた。難民の多くはキブンゴ州のフツ系農民であったが彼らは殺戮から逃れてきたのではなく、かつてルワンダ東部で起きたツチ系住民の殺害に関与していたため、ルワンダ愛国戦線(RPF)部隊が到着する前に脱出してきたのである。そのなかには、かの悪名高いムランビ市長であるジャン・バプティスト・ガテテが紛れ込んでいた。彼はかつてルワンダで起きた大量殺戮の首謀者であった。UNHCRはこの人物をベナコ難民キャンプからタンザニア警察の拘留所に移送しようとしたが、大きな抵抗にあった。5000人ほどの群衆がキャンプを取り囲み、ガテテの釈放を要求したのである。この暴動事件は難民集団の複雑な性格を示すもので、難民は大部分が、RPFの到着を阻止するために政治行動や犯罪鋼を犯した集団に属していた。この時代は、現場で活動する人道援助要員の安全を確保するにも、難民の活動を抑えるにもタンザニア警察の能力には限界があることを示すものであった。
> 虐殺加担した後で逃げた人は、果たして「難民」なのか?

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紛争と難民 緒方貞子の回想 3/5~領土問題への介入

1993年2月17、私は声明文を発表、「通行妨害を受けている輸送体を基地に戻し、セルビア人勢力支配化のボスニアにおけるすべての救援活動を直ちに停止する。サラエヴォにおけるUNHCRの活動を全面的に一時停止し、包囲下にあるこの38万人都市には最小限の要員だけを残し、ほとんどの職員を引き揚げる。サラエヴォへの物資輸送及び空輸を一時停止する。UNHCRの活動が継続できるボスニアの地域ではUNHCRの救援事業を規模を縮小して維持する」「政治指導者側が援助の再開を要望し、輸送体の通行を妨害しないと保証するなら、即座に再開する」
メディアの論評は、私が決定を下す前に事務総長と協議すべきだったとするニューヨークの外交官や国連職員の批判的な見方を反映したものであった。「事務総長と事前協議せずにボスニアにおける援助活動を『現地での活動上の理由で』一時停止するという、昨日のあなたの声明を懸念している 安全地域を設置することによる将来の領土分割への影響
安全地域政策の矛盾
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私を最も驚かせたのは、オルブライト米国連大使が、安全地域はボスニア共和国領土の基礎となると言及した、次の発言であった。「領土が無い国家は無い。こうした安全地域の設置を通して我々が試みようとしていることは、これらの安全地域をいずれはボスニア国家となる地域として確立することである」。ボスニア紛争の人道問題に没頭していた私は、安全地域をこのような意味で見たことは無かった。領土問題は和平協議にとって重要であることは理解していた。しかし、人の命はどうなるのであろう?
安全地域政策は軍事作成上の位置づけであると同時に、対立する政治的利害の産物でもあった。戦争犠牲者を保護する人道的手段としては、政治的かつ軍事的打算と決定に左右されるものであった。ボスニア政府とその支援者にとって、安全地域は来たるべきボスニア国家の領土分割を軸とした政治解決の担保にするものであった。またボスニア政府にとっては、セルビア軍の陣地へ向けて発砲する場所でもあり、自国の軍隊が休息し、訓練し、装備する場所でもあった。セルビア側は安全地域をボスニア東部を支配下におさめるために制圧すべき軍事攻撃の対象と考えた。

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紛争と難民 緒方貞子の回想 2/5~対立する利害

クルド難民
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UNHCR内には、難民が逃れ出た敵意に満ちたイラク国内にまで難民保護の範囲を拡大することに、深刻な懸念があった。また、庇護の代替として安全地域を設けることに強く反対する者もいた。さらにイラク国内における我々の活動拠点の存在が、周辺諸国に難民の庇護を拒否する口実に使われることが心配された。こうした前例ができてしまうと、UNHCRの基本的な難民保護のマンデート、すなわち本来の任務に弊害をもたらすかもしれない。しかも多国籍軍諸国が採択した緊急措置に異を唱えることはそもそも難民保護と援助を目的に設立されたUNHCRが、その任務を自ら否定する結果にもなりかねなかった。UNHCRは自国の外にあって、人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であること、または政治的意見を理由に迫害を受けるという十分に理由のある恐怖を有するために、自国へ帰還できない人々を保護し援助する任務と権限を与えられていた。つまり、自国内で住んでいる所から追われた人々は法的に定義された、国際的な難民保護の枠組みの外にあると理解されていた。各国は迫害される恐れがある状況下に難民を送還してはならないとする義務はあるが、庇護を与えることを強制されるものではなかった。クルド難民問題は、UNHCRの難民保護の任務にとって、厳しい試金石となったのである。国境内では任務を行使しないという報的命令を守り、越境を阻止されている人々への援助を控えるべきなのか、それとも、より現実的な人道的立場から、できる限り援助の手を広げるべきなのか? 難民支援をトルコ側から行うとすれば、トルコから国境を越えて難民を平地へ移さなければならない。ところが、地形的に平地はイラク側に広がっていた。イラク北部に安全地域を設けるという構想は、犠牲となった特定の民族集団のために、紛争に介入するという先例となった
> 国連同様「国内問題」では動けず、「国際問題」である必要がある。
第二章 バルカン紛争における難民の保護
> 物資の輸送と護衛。護衛は軍事介入?
空輸機撃墜の衝撃
空輸はサラエヴォ市民に不可欠の救援物資を運んだが、食糧、多目的ビニールシート、毛布といった生活必需品の配布から次第に都市の暮らしを便利にするものやサービスの提供へと拡大していった。例えば、郵便の輸送、新聞用紙の輸入、政府要人の輸送、そして病人や負傷者の避難も請け負った。陸上輸送隊もディーゼル油、薪、石炭などの燃料を運搬した。サラエヴォ市民はUNHCRを頼りにし、特に空輸は、国際社会がサラエヴォを忘れず、見殺しにしないというメッセージであると受け取っていた。
しかしながら一方で、メンデルーチェ特使は我々が直面している本質的な問題を私に警告した。「UNHCRはボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォを統治・管理できないことをはっきりと公言すべきです…。サラエヴォの生命維持の問題は単なる救援問題ではありません。ある勢力は他の勢力の支配地域に救援物資が運び込まれるのを見たくないという理由で、輸送を阻止しているのが現実です(さらに…)

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紛争と難民 緒方貞子の回想 1/5~人道問題に人道的解決なし

1991年2月から2000年12月までの10年間、私は国連難民高等弁務官として世界の難民と救済に専念した。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に求められたのは、難民や国内避難民、さらに被災民まで網羅した人道救援活動を主導し、かつ調整する役割を担うことであった。
世界の辺境にあって難民の救済にあっていた私およびUNHCR職員一同に対する日本の支援に心からの謝意を表したい。財政的には、日本政府は任意拠出によって賄われている事業経費において、アメリカに次ぐ第二の大口拠出国(ドナー国)となっている。外務省は高等弁務官の補佐官として優れた幹部職員を次々と派遣し、密接な協力を続けた。また、環境庁は、難民キャンプの設営に伴う大規模な環境破壊の防止と復旧をはかりたいという私の要請に応え、三代にわたって有能な技官・行政官を派遣し、事務所の環境対策の確立に大きく貢献した。
とはいえ、難民支援活動の中で、今一つ積極的な進展が見られなかったのは、庇護を求めて来日する難民への対応である。インドシナ難民の受け入れに当たっては日本政府は1万人の枠を設け、東南アジアに出向いて日本への受け入れをはかったこともあったが、その後、個々に来日して庇護を求める人々に対する条約の適用に当たっては、人道的配慮に基づく制度の透明な運営がいまだに確立されておらず、まだ満足すべき成果を収めるに至っていない。UNHCRに赴任する際、「日本は『人道大国』としての地位を占めてほしい」と私が語ったことが伝えられている。グローバル化が進み、相互依存が深まる今日、自分の村、町、あるいは国から追われ、悲惨な状況にある人々を放置し続けることはできない。

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日本仏教史 4/4~外来思想は日本に根付くか?

日本人の宗教意識-統計に見る奇妙な結果
1988年の日本の諸宗教の信者数である。
神道系 111,791,562
仏教系  93,109,006
キリスト教系 1,422,858
諸教 11,377,217
計 217,700,643
(文化庁「宗教年鑑」平成元年版による)
だがよく見ると、この数字はどこかおかしい。信者数の統計を見ると、2億を越している。そこでもう一つ別の統計を見ていただきたい。これは世論調査から出された数値である。
                日本 アメリカ
信仰を持っている人    33% 93%
信仰を持っていない人  65% 7%
(NHK「日本人の宗教意識」 日本放送出版協会1984)
信仰を持っている日本人は1/3にすぎず、アメリカと比べてみるとまさに無信仰の国と言ってよいほどである。
どうしてこのような奇妙な結果が出るのであろうか。どうやら最大の問題は信者数における神道系の数字にありそうだということは推測できる。神道系のうち、8639万人は神社本庁の信者ということになっているから、これは戦前の国家神道以来の氏神-氏子関係が持ち越されているのではないだろうか。本人の知らないうちに信者に組み込まれているとすれば、いささか恐ろしい気もする。仏教の場合、信者数の統計では9000万を超え、総人口の8割に迫る信者数を持ちながら自覚的な信者は27%にしか達しないところをみるとやはりその食い違いが気になる。信者数の統計には檀那寺と檀家の関係が持ち込まれていると思われる。
そもそも日本の仏教というのは学問的にはなかなか扱いにくい領域です。まず何よりも非常に多面的であり、かつ現代でも生きた宗教ということがあります。例えば、インドの仏教を考えてみますと、確かに仏教発祥の地であり、数多くの仏典もインド起源ですから、仏教の研究をする場合、つねにインドの仏教をおさえておかなければなりません。私たちの研究室では、日本の仏教の研究を専攻する人でも、まずインドのサンスクリット語の習得が義務付けられています
> インド哲学、俗に言う「印哲学科」か…。人気のない学科ということで名前だけは聞いたことがあったのだが、なかなか面白そうな学科じゃないか。
数理研究を進めていていつも行き当たるのは、日本の仏教は数理面の研究だけではごく一部しか解明できないという実態です。葬式仏教と言われるような仏教の実態、あるいは民衆の中に溶け込んだ様々な行事や風習などは、数理的な説明があったとしても建前にすぎず、むしろ日本人の生活習俗が仏教の形を取って現れたという面も少なくありません。例えば、古代の仏教の実態を知るのには、南都六宗の学問仏教も重要ですが、それはしょせん一部のエリート層の営みであり、大多数の民衆とは無関係です。民衆の間で信じられていた仏教の実態は、例えば「日本霊異記」などを読んだほうがよほど生き生きと描かれています。それゆえ、日本の仏教の実態を明らかにするためには、数理や歴史資料のみならず、文学やさらに仏像などの美術の分野も不可欠になります。

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日本仏教史 3/4~檀家制度ができた歴史的背景

仏教の真理観
仏教思想の大きな特徴は縁起にあると言われる。縁起というのはあらゆる現象世界の事物は種々の原因や条件が寄り集まって成立しているということで、それゆえにこそ一切万物は変転極まりない、これが無常といわれることである。このように万物が変化し、演技によって成立しているということは、裏から言えば、外に依らずして自存し、永遠に存在するようなものは何もないということである。したがって、縁起の原理は実体が存在しない、無実体であるということに他ならない。またインド哲学の用語では、このような実体はアートマン(我)といわれるので、縁起の原理はアートマン否定ということになり、これはアナートマン(無我)の原理ともいわれる。大乗仏教で主張される空(シューニヤター)も基本的には同じ原理を言っているものである。さて、このような縁起・無実体の原理に立つならば、この現象世界を離れて何か真実の世界があるという考え方は否定される。このことは西洋の哲学と比べると明白である。実体主義の最も典型的な例はプラトンのイデア論に見られる。イデア論によれば、我々が見ている現象の世界はイデアの真実の世界の影のようなものであり、イデアの世界は感覚ではとらえられないものとされる。神を完全な存在としてこの世界を不完全な存在とみるキリスト教の哲学や、またブラフマンを絶対と見る。ヴェーダーンタの哲学も同様に実体主義の立場にたつということができる。これに対して、仏教では現象世界以外の世界を認めない。しかし、現象世界の自体の中に実体が存在すると見る唯物主義とも異なっている。
中国の北方に興り、ヨーロッパにまで攻め込んだ蒙古が、最初に国書を送って日本に迫ってきたのは文永5年(1268)。思想史上でもこの事件は大きな転換点を形作る。第一に、歴史始まって以来の国難はいや応なく国家意識を高め、また日本の神々への関心を高める。神道がはじめて本格的に理論化され、思想界に登場するのはこの頃から建武の中興を経て、南北朝にかけての時代である。それに対応して仏教界でもいち早く日蓮の国家思想が見られ、さらに熊野信仰と結びついた一遍の念仏などが見られる。
第二に、元の興隆と南宋の滅亡(1279)により、中国への留学はもちろん、大陸の新しい動向に左右されることもなくなった点が挙げられる。前代には最も土着的と思われる親鸞でさえ、宋の仏教界の動きに大きな関心を寄せていたが、この時代にはそれは不要であり、不可能にもなって、いや応なく独自の道を探ることになる。
第三に、前代には比較的安定した社会を背景に宗教の問題に沈潜し、思索を深めることができたが、社会の激動に伴い、現実への関心や社会的活動が強くなってきている。日蓮の国家諌暁や折伏活動、一遍の遊行、叡尊・忍性の救済活動などいずれもこうした動向と見ることができる。

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日本仏教史 2/4~仏教の発展

どうして膨大な仏典ができたか
仏教がキリスト教などと違う一つの点は、その聖典の分量が膨大だというところにある。キリスト教では、旧約・新約聖書を合わせるとかなりの量になるとはいえ、一冊に収まる程度の量である。ところが仏教では、今日広く普及している「大正新修大蔵経」によると、B5判の分厚い本に三段組みでぎっしり漢文が組まれて全100巻にのぼる。もっともこのなかには中国や日本で書かれた注釈書などまで入っているが、いわゆる経典だけ取り出しても21冊になる。これでは専門家でさえ十分に読みこなしきれない。どうしてこんなにたくさんの経典ができることになったのであろうか。
伝説によると、仏典の編纂作業はブッダの滅後、直ちに開始されたという。十大弟子の一人魔訶迦葉(マハーカーシャパ)は、
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弟子の一人の比丘がブッダが亡くなってこれで自由になれると喜んでいるのを見て、これではブッダの教えは滅んでしまうと危機感を抱き、ブッダの教えを正しく伝えようと決心した。そこで仏弟子たちに呼びかけ、500人の長老たちが集まって、マガダ国の首都王舎城(ラージャグリハ)で集会を開き、ブッダの教えやブッダが定めた戒律を確認したという。ブッダ自身の用いた言語はマガダ地方の方言であるマガダ語であったと考えられるが、初期の仏教では言語を無理に統一しようとせず、各地の方言を自由に用いたようである。そのなかでとくにのちにパーリ語とよばれるようになる言語のものがスリランカに伝えられて、今日に至るまで東南アジアの仏教の聖典とされている。他方、中国に伝えられた原始経典は、聖典を意味するアーガマの音写で阿含経典とよばれたが、小乗経典として低く見られ、近代にいたるまで十分に研究されることが無かった。

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日本仏教史 1/4~日本における仏教

日本仏教というのはいささか問題のある言葉で、かつて皇国史観のもとで、「日本」においてこそ「仏教」は最高の円熟に達するとされ、その独自性が「日本仏教」という言い方で表現されたことがある。いわば「日本」と「仏教」とのおめでたい調和ともいうべきものであるが、そんな経緯があるから、どうもこの言葉には抵抗がある。だが、ともかく僕にとっては、おめでたい調和ではなく、むしろ「日本」と「仏教」との相互の居心地の悪さ、どこかしっくりしないところがおもしろいのだ。大体、仏教というのはおかしな宗教で、発生地のインドでは滅びて消えているし、中国や韓国でも滅びはしないまでも、ある時代以降、積極的な思想史的な意味を失ってしまう。キリスト教だって発生地のユダヤ人社会で滅びたではないかと言われるかもしれないが、もともとユダヤ人社会でもそれほど多数を占めたり、大きな影響を残したわけではなかったであろう。ところが仏教はインドでは古代の一代期、思想・宗教界の主流ともいうべき強大な力を誇り、インド最大の哲学者シャンカラ
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でさえ「仮面の仏教徒」といわれるような大きな影響を残している。それがほとんど完全に消えてしまっているのはなぜだろう。中国だって、中世の仏教の全盛期から近世に下ると、仏教にひいきする目から見れば目を覆いたくなるものがある。日本の場合、仏教はかなり強力に生き残ってはいるが、近世以後、思想界の主流としての力は持ちえなかった。もちろん、チベットや東南アジアのように仏教の定着した地域もあるのだから一概には言えないが、どうも仏教には定着しにくい一面があるような気がする。例えば、「空」という発想にはどうにも落ち着きの悪さがある。「空」は「有」として安定することへの絶えざる否定であるから、定着することをはじめから拒否している。

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シャープ「液晶敗戦の教訓」 3/3~仕組まれた価格破壊

イオンが売り出した「5万円テレビ」の衝撃
「32インチが5万円以下!」 シャープの亀山工場が稼働する前の2009年2月、流通大手のイオンが15000台限定で32インチの薄型液晶テレビを売り出した。イオンの5万円テレビは「ダイナコネクティブ」という東京のベンチャー企業がつくった。同社は大学卒業後に韓国から来日した金鳳浩氏が、2002年に立ち上げた会社で、従業員数25人のファブレス企業だった。「ファブレス」とは、製品の企画設計や開発は行うが、製品製造のための自社工場を持たない企業を言う。電機業界では1990年代に分業化が始まり、自社では生産設備を持たないファブレス企業や、ファブレスとは逆に他社から半導体チップの製造の受託生産を専門に手がける「ファウンドリ」と呼ばれる企業が次々に誕生した。また「EMS」(electronics manufacturing service)と呼ばれる企業では、家電製品を組み立てる受託生産を幅広く展開している。
「モジュール」は「すり合わせ」の対極概念
5万円テレビの事例では、液晶パネル、光学部材、バックライトについても標準的な仕様で大量に生産された汎用部品を用いる。テレビの映りを左右する中核部品にも汎用部品を用いる。信号処理基盤やテレビチューナも、異なる会社の汎用部品を力技で組み合わせる。大企業ではな考えられない設計だ。大企業の場合は、「専用部品」を用いて、一体の基板として、自社で設計・生産するのが普通だ。これは、テレビの画質の良さや組み立てやすさを追求するためである。汎用部品はモジュールである。モジュールを寄せ集めるとシステムができ、微調整は必要ない。「すり合わせ」は相手の状況を読みながら微調整を繰り返す方法だが、モジュールを使ってものづくりをする場合は、すり合わせはまったく必要ない。つまり、モジュールとすり合わせは対極の概念である。

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シャープ「液晶敗戦の教訓」 2/3~亀山工場と堺工場

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新竹サイエンスパーク(新竹市東区)は、台湾のシリコンバレーとも言うべきハイテク企業の集積地である。パーク内には、国立研究所である工業技術研究院(ITRI)や、交通大学や精華大学などをはじめ、半導体の前工程だけを受託する世界最大のファウンドリ事業を展開する台湾積体電路製造(TMSC)、世界有数の液晶メーカーである友達光電(AUO)等がある。もちろん、日本のハイテク企業、アメリカのハイテク企業も、ここに台湾での拠点を持っている。広さは約8平方キロメートルでここに約400社があるので、シリコンバレーよりも面積当たりの企業の密度が高い。またITRIか海外に行ってITRIに戻ったり、ITRIから民間企業に移動するといった人の流動性も、シリコンバレーより高い。そのため、この章でテーマとしてきた技術流出も起きやすい環境にあると言える。ITRI出身で、パーク内を案内してもらった技術者はこう言った。
ここでは情報の秘密保持は不可能です。すぐに漏れます

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シャープ「液晶敗戦の教訓」 1/3~すり合わせ不要のモジュール化

ものづくりには、個別企業の経営戦略、経営者の経営判断とともに、その国の経済を形成する各種産業の比重や仕組や関係、つまり「産業構造」の変化が大きく影響する。産業構造からみた、日本のものづくりの強みは、よく言われているように「すり合わせ」にある。すり合わせとは、企業間でお互いに技術を共有して相手の状況を読みながら微調整を繰り返す方法だ。日本企業は、このすり合わせにより、高度・高品質な技術を取り込んだ製品を市場に次々に投入して、事業を拡大してきた。そして、それによって、数多くの成功体験が蓄積された。
ところが、このやり方が時代に合わなくなった。本書中で詳しく述べるが、「すり合わせ」をしなくても完成品がつくれる「モジュール化」の時代が到来したのに、日本の電機産業はその対応に遅れてしまった。国内ですり合わせをやりすぎて国内市場に過剰適応してしまった結果、ものづくりが「ガラパゴス化」してしまった。「良い製品を作れば売れる」という時代は終わった。技術をとことん追求し、それを過度に崇拝するだけでは、グローバル競争に勝てない。結果的に、日本市場だけを相手にして、グローバル市場を目指す韓国、台湾、中国などの企業に勝てなくなってしまった。つまり、一言で言うと、「急速な産業構造の変化に日本企業は対応できなかった」ということが、日本の「ものづくり崩壊」の原因である。
モジュール化により日本勢の優位は崩れた
米国グーグルの基本ソフト(OS)「アンドロイド」と、スマホの基本機能を満たす1個の半導体、液晶パネルを組み合わせれば、スマートフォンはできあがる。アンドロイドはグーグルによって主に携帯情報端末向けに開発されたOSである。ライセンスフリーといって、だれでも自由に使用できる。このためアンドロイド搭載機種は、2014年、世界シェアの85%に達して圧倒的な勝利を収め、いまや世界標準となっている。基幹部品のような一つのまとまりを、経営学では「モジュール」と呼んでいる。こうしたモジュールを組み合わせれば、スマホなどの機器は誰でも生産できる。いま世界のものづくりはモジュール化へと大きく変化した。
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そこで多くの人が疑問を抱くのは、「シャオミのスマホは安かろう悪かろうではないのか?」ということだ。しかし、そうではない。優秀なエンジニアたちが、深い技術知識を基に、自ら必要な最先端部品を調達している。シャオミは、アップル、サムスンより規模が小さいため、部品量も少なくてよく、小回りが利き最先端部品を調達できている。また驚くべきことに、主要部品をすべて公開している。顧客に情報公開することにより、最先端部品を使用していることをわかってもらい、顧客に安心感と他社より価格が安いことをアピールしている。サムスンと同等の仕様でサムスンの半値という、コストパフォーマンスの高さを誇っている。古い体質の企業は、こうした情報を企業秘密として扱うので、シャオミのやり方についていけない。

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予見された経済危機 3/3~アングロ・アメリカンの借金観

現在の米国GDPの70%は消費が占めており、個人消費が成長を牽引する構造になっている。ちなみに新興国では中国のように米国の消費を前提とした設備投資が経済を引っ張っており、経済が成熟するにしたがって徐々に消費のシェアが高まると予想されている。だが消費はそもそも所得が増えなければ増加しない。所得は逆に消費が増えて生産が刺激されなければ増加しないはずである。米国はその堂々巡りをどう打ち破ったのだろうか。その説明のために、「個人への割賦販売が消費の増加に寄与した」という事実をたどっておくことにしよう。個人が、自分の貯蓄を越える価値の商品を買うことは、本来不可能である。それあ借金や贈与などによって初めて可能になる。企業が借金によって生産を拡大できるように、個人もまた借金によってその生活水準を上げることができるのだ。レバレッジの原点でもある。
借金の源流は、メソポタミア期の耕作のための種子などに求めることができるが、それが「生活必需品の購入」というよりも「耐久財の購入」に制度的に設計されたのは、個人向けの割賦販売が制度として「発明」されたからである。その手法を編み出したのは、政府金融と企業金融とを大西洋間で発展させることに成功した英国と米国、すなわちアングロ・アメリカンであった。このDNAは、クレジットカードのローン残高の世界一が米国で、二番目が英国であるという、21世紀の現代社会にまでしっかりと受け継がれている
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個人向けの金融は誰が牽引したのだろうか。米国の消費者金融モデルをイタリア系移民のA・P・ジアニーニが設立した「バンク・オブ・アメリカ」(設立当時はバンク・オブ・イタリア)に置いている。西海岸で銀行を開業したジアニーニは、1906年のサンフランシスコ大地震の際に他行が営業できなくなったのに対して、早めに金貨や営業記録を持ち出して数日後には港近くで営業を再開する。都市復興のための融資である。これで資金のメドがついた船長らはシアトルやポートランドにまで船を出港させて、サンフランシスコ復興のための資材を確保することができたという。また、ハリウッド映画の基礎を作ったのもジアニーニであった。当時、担保力のない映画産業は銀行から借り入れることができなかった。そこでジアニーニは一案をめぐらし、映画産業への融資のための担保を見つけた。映画フィルムそのものである。これで映画への融資が始まり、ハリウッドは世界に冠たる映画のメッカとなった

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予見された経済危機 2/3~万年弱気論者

ルービニ教授は「米国はこれから厳しいリセッションに陥る、皆が期待するようなソフトランディングはあり得ない、ハードランディングを回避することはできない」と、予言者のように米国経済の暗い見通しを語ってみせたのであった。その内容を大きく要約すれば、以下5点である。
(1)米国は2006-2007にかけて景気後退に陥る。
(2)FRBは金融緩和に動くだろうが、それはリセッションを回避する効果を持たない。
(3)新興国などは「デカップリング」によって米国リセッションの影響を受けずに済むというのは、根拠のない楽観論に過ぎない。
(4)米国だけでなく他国でも株式や商品などの価格が下落する。
(5)現在の米国の経常赤字は持続不可能であり、他国による「ドル資産離れ」が起きる可能性がある。
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ルービニ教授は、リセッションは不可避であるという主張を支える3つの要因を挙げている。まずは「住宅市況の変調」だ。教授は2006年の時点で住宅価格は1930年代以降で初めて下落を始めたと指摘、それがかなり激しいものになると予想している。2番目は「原油価格」である。教授は、上昇するエネルギー価格は経済にスタグフレーション効果を与え、FRBは引き締めへと向かわざるを得ない、と見ている。この「FRBによる金融政策」が3番目の要素だ

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予見された経済危機 1/3~1ドル紙幣とは何か?

ルービニ教授がパネリストとして招かれた2006年1月のダボス会議のある討論会において、欧州の通貨問題が議題として取り上げられたことがある。そこでルービニ教授は例によって極めてストレートな表現でイタリアの財政の脆さを指摘し、イタリアはほとんどアルゼンチンと同じだ、と述べてひと騒動が起きる。パネリストの一人がイタリアのトレモンティ財務相であったからだ。財務相はその発言を途中で遮って「お前なんかトルコに帰れ!」と、公式の場で教授を罵倒したと伝えられている。教授はその後、この財務相の発言はイスタンブール生まれの自分に対する軽蔑というよりも、EUに加盟しようと努力しているトルコに対して大変失礼な発言であるとブログで批判しつつ、淡々とイタリア財政の問題点を再強調していた。
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教授が一躍世界の注目を浴びることになったのは、2006年9月に開催されたIMF総会の際に、強烈な米国リセッション予想を放った「事件」であろう。ゴルディロックスに酔いしれていたのは資本市場だけではなかった。著名な経済学者らも、世界的不均衡などの問題は認識しつつも、それが危機的な状況にまで至ると考えていたわけではなかったのだ。そこに、ルービニ教授が公式な場で一石を投じたのである。当時の記録によれば、教授の超悲観論は会場から多くの支持や理解を得たとはとても言い難い。だが、一年後に世界中の人々は、それが恐るべき「正確な予言」であったことを知ることになる。

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モンスター 尼崎連続殺人事件の真実 2/2~支配・追い込み

「一つの家族や集団の中で、一人を集中的に可愛がり、他の一人を徹底的に迫害すると、彼らの中で自然と誰につけばいいかとか、どうすれば自分は助かるかといった感情が働き始め、放っておいても協力者や密告者が出てきて、組織の運営がスムーズになる。ただ、取り込む人間から信頼、心酔されるだけでは駄目で、時々彼らにも恐怖心を与え、隷属することでしか生き延びられないという呪縛を持たせなければならない。連日、家族会議を開かせ、何事も会議で決めさせる形を取ることが有効だ。特に家族間で優劣をつけ序列を作り、最下位のものを集中して虐待する。序列は何か理由をつけては頻繁に入れ替えると、家族全員が常に緊張感に支配される。誰か他の者を最下位に落とさなければ、自分の身が危うくなるので、自分は権力者に絶対服従の姿勢を貫き、下位の者は少しでも序列を上げるために権力者の歓心を買おうとし媚びへつらい、家族を裏切ることも平気になる。そうなると家族は敵対関係に陥り、もはや結束して権力者に対抗する気力も知恵もなくなる。本質的に親は子供を可愛いと思い、守らなければならないという決意を心に秘めているものだ。だから親の面前で子供を虐待・暴行すれば、親は子を庇うために自ら権力者に対して反抗的な態度を取って、標的になろうとする。それを逆手にとって、子供に親を殴らせれば、その家族関係は瞬く間に崩壊するはずだ。」
茉莉子と瑠衣の母親・初代はどうしていたのか。初代は03年8月に夫だった谷本明の機転で高松市の谷本家から逃げ出した後、同市内の友人宅や大阪市の女性保護施設などを経て、和歌山県内のホテルで住み込みの仲居として働いていた。もちろん偽名を使ってである。だが、07年12月に自家用車を購入するため住民票を移動したことなどから、所在が美代子側にバレて、駆けつけた瑠衣や正則らによって尼崎に連れ戻されてしまった。転入届を提出すると、以前の住民票は新住所を記載したうえで除票として保存される。他人はさておき、瑠衣ら家族の立場なら住民票を取得できるため、新住所が発覚したのだ。
美代子は逃亡者の追跡には異常なほどの執念を見せる。先に述べた通り、04年に茉莉子が逃走した際は、運転免許証の更新手続きを見越して、兵庫県内の運転免許センターなどを監視していたという。それで茉莉子の友人たちの車でわざわざ遠くにある明石市の免許更新センターを訪れたにもかかわらず、簡単に連れ戻されてしまった。他に橋本兄弟や皆吉兄弟、仲島ら大勢の人々の行方を独自ルートを駆使して捜し出し、隠れ場所を突き止め、ほとんど連れ戻している。このように、運転免許証の更新手続きや、住民票の移動のチェックなど、理屈の上では誰もが可能なことでも、そう簡単に思いつくものではないし、実際にはなかなかやれるものでもない。つまり、美代子の周辺にはそうした業務を日ごろからこなす警察関係者か、弁護士など司法関係者、戸籍などを扱う行政関係者、はたまた日常的にそうした追跡業務を行っている暴力団関係者など専門家たちがいて、何らかの形で協力しているのではないかとの疑惑さえ湧き上がってくる。
> そうだねぇ。法律詳しいアドバイザーは、いたように思うなぁ・・・

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モンスター 尼崎連続殺人事件の真実 1/2~刑事から民事へ

はじめに の最後
尼崎連続殺人を「もう終わった事件」などと言わず、多くの方々にぜひとも読んでいただきたい。そして、各人が「自分の家庭でも起こり得る危機」として捉え、何らかの教訓として役立てていただければ無上の喜びである。
> うんうん、僕も思うんですよ。男の人で、派手な結婚式に金使いたい人いないでしょ? 低所得者は別として、高所得者なら住宅買いたいとも思っている人少ないはずなんだけど、奥さんに言い寄られて、やむなく・・・。こういう話って、これにつながると。家庭の中で起こることって、刑事から民事へのトランスファーなんだけど、無法地帯化も普通に起きてるよねぇ。俺いつも思うんだわ。バカな奥さんが作った家庭のルールは、やはり矛盾だらけで法として成立してないってね。
美代子が兵庫県警本部の留置場でふと漏らした男の正体は、山口組系暴力団の下部組織の組員であり、後に組幹部にのし上がっていったキレ者の男だった。その名前を、仮に「M」と呼ぶことにする。彼の人柄や立場、美代子との出会いから交流ぶり、事件との関わりや悪党仲間との繋がり、背後関係などについてはおいおい明かしていくとして、ここでまず言っておきたいのは、美代子が行った冷酷非道な犯行手口はほぼすべて、このMからの指示に従い、その考え方や言動、情報に影響を受けたものである-ということだ。
「アメとムチを巧みに使い分け、家族の絆を断絶すれば、家族同士は相互に憎しみあい、自然と瓦解していくものや」
相手を肉体的、精神的にとことん追い込むだけでは、他人を支配することはできない。時には一歩引いて、『不幸な境遇で生きてきた不憫なヤツ』と一緒に泣いてやれば、人間関係の濃密なエキスが心をマヒさせてくれる・・・」
まるでカルト教団の教祖のように美代子の耳元で囁いたMの言葉が、一人の不良少女を冷酷無比な悪女に変身させ、やがて、恐るべき破壊力と突進力を持った「モンスター」を創り出していったのである。

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坂の上の雲八 22~小説なのか?

たいていの国の海軍刑法では、ネボガトフの「降伏しよう」という処置はその主将が死刑に該当することになっている。奮戦してのちの降伏なら「名誉の降伏」ということになるのだが、戦わずして敵に降り、その艦船もしくは兵器を敵に交付した場合その指揮官は死刑-ということになっている。ロシア海軍はとくにこの点で厳格な伝統を持っていた。かつてクリミア戦争のとき、ロシア軍艦1隻がトルコ海軍に奪われ、トルコ軍官として戦域を出没していたことがある。ときの皇帝はこれをロシアの汚辱として、全海軍に対し、「かの軍艦を捜索し、撃沈せよ」と命じ、執拗に督励したことがある。その皇帝の名は皮肉なことにこのネボガトフの旗艦の名前であるニコライ一世であった。
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寺内正毅は陸軍大臣になってから何かの用事で士官学校にやってきたことがあるが、校門に「陸軍士官学校」と陽刻された金文字の看板が青さびて光沢を失っているのを発見した。重大な発見であった。かれはすぐ校長の某中将をよびつけ、大いにしかった。この叱責の論理は規律主義者が好んで用いる形式論理で、「この文字は恐れ多くも有栖川宮一品親王殿下のお手に成るものである」からはじまる。「しかるをなんぞや、この手入れを怠り、このように錆を生ぜしめ、ほとんど文字を識別しかねるまでとは。まことに不敬の至りである。さらにひるがえって思えば、本校は日本帝国の士官教育を代表すべき唯一の学校であるにもかかわらず、その扁額に錆を生ぜしめるとは、ひとり士官学校の不面目ならず、我が帝国陸軍の恥辱であり、帝国陸軍の恥辱であるということは我が大日本帝国の国辱である」と説諭した。
この愚にもつかぬ形式論理はその後の帝国陸軍に遺伝相続され、帝国陸軍にあっては伍長に至るまでこの種の論理を駆使して兵を叱責し、自らの権威を打ち立てる風習ができた。逆に考えれば寺内正毅という器にもっとも適した職は、伍長か軍曹がつとめる内務班長であったかもしれない。なぜならば寺内陸相は日露戦争前後の陸軍のオーナーでありながら、陸軍のために何一つ創造的な仕事をしなかったからである。

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坂の上の雲八 21~天気予報

「天気晴朗ナレド浪高シ」という文章は、朝から真之の机の上に載っかっていた。東京の気象官が、大本営を経て毎朝届けている天気予報の文章だったのである。日本の気象学と気象行政は、明治8年、東京赤坂で気象観測された時から始まる。同15年に東京気象学会が設立され、同17年に全国を7つに分けて地域の天気と予報が発せられた。
しかし、日本の気象学を実際におこすにいたった人物は、岡田武松(1874~1956)である。岡田は明治32年に東京帝大理科大学物理学科を卒業し、中央気象台につとめた。年表風に言えば、岡田の恩師の長岡半太郎が、この前年に原子核の存在を予言している。岡田が中央気象台に入ってほどなく日露戦争がはじまったため、彼は予報課長兼観測課長として、大本営の気象予報を担当することになった。戦争の運命を決定するのは時に気象であるということは、古くから言われている。このため日本は開戦前後から戦場の周辺に測候所を設置し始めた。韓国内では釜山、仁川など数箇所におかれ、華北では天津におかれた。
日本は気象学はその行政の面でも背伸びしていた。岡田は、「日本はロシアを相手に宣戦布告したが、世界中は日本を遅れた国だと思っている。だから英文の報告を世界の気象台や気象学会に送るべきだ」 として、戦時予報のために毎日へとへとになっていながら「中央気象台欧文報告」という海外向けの雑誌を発行した。岡田自身が編集し、論文も書いた。筋の通った記章研究者が何人もいないため、一つの号で岡田が4つも5つも論文を書いた。いよいよバルチック艦隊との衝突が近いというころになると、岡田は毎日の天気予報のために文字通り骨身をすり減らした。

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坂の上の雲七 20~ベトナムの戦略的軍港

艦隊が祖国を発ったのは、去年の秋であった。10月15日、リバウ港を出て以来、かぞえてみればこのカムラン湾にたどりつくまで6ヶ月であった。カムラン湾はベトナム(フランス領)の東岸にある湾で、水深は十分で、ちょうど旅順港の地形に似て内港と外港にわかれている。もっとも厳密にはそれらを単なる入り江であって港とは言いがたいかもしれない。なぜならばフランス海軍はここを基地にしているとはいえ、実際にはほとんど港湾施設をほどこしていないのである。人間はほとんど住んでいない。電信局のある場所にフランス人が数人住んでいるのと、ベトナム人が50人ばかり小屋を作っているにすぎない。
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-ロシア艦隊が仏領ベトナムのカムラン湾に入り込んでいる。という報は、たしかにパリの外務省を驚かせた。外相デルカッセはこの種のことが起こってももはや同情する必要の無いロシアのためにフランスが国際紛争に巻き込まれることをかねて怖れていた。この情報をデルカッセに伝えたのは、当時外務省秘密諜報部につとめていてのち外交史について多くの著述をしたモーリス・パレオログで、かれがのちに発表した日記にとると4月19日である。デルカッセはほとんど狼狽したといってもいい。「カムラン湾?いったいカムラン湾などというような湾がわが属領に存在したのか。私は地名も聞いたことが無い。しかもその場所にフランスの官憲が駐在していたとは初耳である」
「ロジェストウェンスキーは、カムラン湾でネボガトフ少将の第三艦隊と落ち合うつもりです。それらが到着するまであと二週間はかかりましょう。もしもです、我が国がロジェストウェンスキーに退去を命じ、それによってかれに本国からの増援部隊を待つ場所を失わしめ、また十分な食糧を積み込む機会を失わしめたとすれば、あとあとロシアからの苦情はその理由をもって殺到するでしょう、われわれはフランスの冷酷な仕打ちのために負けたのだ、と。もし負けたとすればです、全責任を我が国にかぶせてきます」
「そのとおりだ」
と、デルカッセはいらいらしていった。妙案は一つしかなかった。幸い、現地のサイゴンにインドシナ(ベトナム)分遣隊司令官であるド・ジョンキエル提督がいる。同提督はむしろ外交官に適した機才と物腰のやわらかさをもった軍人で、この始末を彼に一任したほうがいい、本国から彼に与える訓令は、
ロシア艦隊に対し、できるかぎりの手心を加えつつ24時間以内に退去せしめよ。しかもそのあとロシア艦隊がどこへゆくかは無関心という顔つきでサイゴンへ戻れ
バルチック艦隊は4月22日、カムラン湾を去った。外洋に出た。沖合いで漂泊をはじめた。漂泊は長く続いた。おどろくべきことに25日まで漂いぱなしであった。しかし艦隊は遠くへは去らなかった。26日になってカムラン湾から北方50里のヴァン・フォン湾にもぐりこんでしまったのである。むろん、ヴァン・フォン湾は仏領であった。この報告を閣議の席上で聞いた首相ルウヴィエはテーブルを叩いて憤慨した。「わが海辺を、まるでロシア領であるかのように作戦根拠地にしているあの艦隊のずうずうしさ」とわめき、すぐ露都ペテルブルグに抗議せよ、といったが、しかし外相デルカッセは抗議の一件は握りつぶした。

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坂の上の雲七 19~国際世論の中の日本

ロシア軍の本防御陣地は、清河城の南東にある。「まるで旅順だ」というところから、「小旅順」という呼び方で呼び始めた。むろんロシア軍陣地は野戦陣地にすぎず、旅順のような恒久要塞ではなかった。陣地作りのうまいロシア軍はこの付近の地形を利用しては巧みに陣地を作り、日本軍が近づくと猛烈な火網を構成して彼らに無数の死を生産させた。日本軍が陣地攻撃をするにあたってあいかわらず銃剣突撃をもってする型をくりかえし、そのためにかつて203高地において払ったような犠牲を払ってしまったからである。
型といえば、元来、軍隊というのは型そのものであり、その戦闘についての思考は型そのものであった。ついでながら型をもっとも種類多く暗記している者が参謀官になるという習慣が、日露戦争後に生まれた。日露戦争の終了後、その戦訓を参考にして作戦関係の軍隊教科書が編まれ、陸軍大学校における作戦教育もそれが基調になっていた。その日露戦争の型をもって滑稽なことながら太平洋戦争までやってのけるという、他のどの分野でも考えられないほどの異常さが、軍隊社会においてはむしろそれが正統であった。「日本軍は奇妙な軍隊である。その中でもっとも愚かな者が参謀憲章を吊っている」と、太平洋戦争の末期、日本軍のインパール作戦を専制的に防いでこれを壊滅させた英軍の参謀が語っているように、軍人というのは型の奴隷であり、その型というのは、その軍隊と、それが所属する国家形態がともどもに滅びさるまで滅びない。
日本軍の野砲は、31年式とよばれるもので、この一種類しかない。厳密な呼称は「速射野砲」という。ついでながら、日清戦争で用いられた日本の制式野砲は-ちょっと信じがたいことだが-青銅製であった。当時、世界中の陸軍で青銅という中世期的な材料を使った野砲を制式としていた国は日本だけで、この妙な砲を採用した理由は維新後十数年のあいだの日本陸軍の神経質的な苦悩から来ている。戦争には鉄を必要とする。のちにはこれに石油が加わる。いずれにしてもそれらの資源が国内において皆無に近い日本という国は、原型として近代的軍事国家を志すのは無理であった。維新後、前時代をつきゆるがした尊皇攘夷思想が、国家体制に吸い上げられて国防強化というかたちになったが、それには火砲を必要とした。このためドイツのクルップ砲を購入し、これをもってとりあえず陸軍制式に順ずるあつかいにしたが、しかしこれは臨時の処置で外国製の砲と砲弾をもって軍隊をつくるわけにゆかないという考え方がつねに正当性を持ち、この正当性が陸軍首脳の頭を悩ませ続けた。
「問題は、国産火砲をつくることにある。わが国産の鉱物を材料とし、わが国の工場でこれを製作しなければならない」
という基本的な考え方が確認された。ところが「わが国産」という肝心の鉄鉱石が日本にはないためにこの勧化方は買えて陸軍首脳の神経を痛めるもとになった。意外な人物から日本の陸軍省にあてた手紙が届いた。かつてナポレオン三世政府の命により、旧幕府の陸軍顧問として日本に駐在したことのあるブリューネーという砲兵士官で、かれは、
「日本には銅が多い。青銅砲はどうか」
といってきたのである。さっそくイタリアからこの砲の製造に必要な諸機械をとりよせ、大阪工廟にすえつけ数門製作した。これにクルップ砲弾をこめて試射したところ、その結果は良好であった。
「非常に結構なものだ」
「結構」といわれたこの青銅野砲の初速は420m、最大射程わずか5000mであった。これと同じ口径(75ミリ)をもつドイツのラインメタル式の野砲が初速700m、最大射程14000mであることをおもうと、おもちゃのようなものであった。この青銅野砲でもって日清戦争を戦った。

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坂の上の雲六 18~孤独な航路

薩摩藩が、西洋音楽に興味を持ったのは、文久3年(1863年)7月、この藩が鹿児島湾において英国艦隊と戦った戦闘が契機になっている。この戦いでは、いま三笠に座上している東郷平八郎も父吉左衛門および二人の兄とともに、齢17で参加した。かれは五ツ蔦の定紋を打った陣笠をかぶり、ツツソデのブッサキ羽織にタチアゲ袴をはき、両刀を帯し、火縄銃を持ち、母親の益子の「負クルナ」という声に励まされて家を出、持ち場についた。英国艦隊は艦砲で尖頭弾と火箭を送り、薩摩藩は沿岸砲に円弾をこめて応酬し、戦闘は結局は勝敗無しの引き分けといった結果になったが、この戦闘中、英国軍艦の上では士気を鼓舞するためにしばしば軍楽が吹奏され、それをきいた薩摩藩士たちは敵の身ながら感動し、戦後、「あれはよかもんじゃった」ということになって、いつか機会があれば藩に取り入れたいという相談があった。それが実現した明治4年、兵部省付属になり、翌5年兵部省が廃止され陸海軍両省がおかれたときこの軍楽隊が陸軍と海軍に二分された。このため、海軍軍楽隊のメンバーにはこの日露戦闘の時期でもなお薩摩人が多く、「軍艦行進曲」の作曲で有名な瀬戸口藤吉も薩摩生まれで明治15年海軍軍楽隊生徒になった。
「外国には、国家の次にその国を代表する歌があるが。残念ながら日本にはない。おまえ、作曲してみないか」といって、華族女学校の先生である鳥山啓というひとのつくった「軍艦」という歌詞を示した。国民的な歌唱の主題として「軍艦」が選ばれたというのはいかにも明治国家らしく、ある意味では象徴的なことであった。鳥山啓の歌詞ははじめ「此の城」という題がついていた。瀬戸口はこの作曲に熱中し、つくりあげて「軍艦」という題にして明治30年に発表したがそれが気に入らず、1年ほど推敲を重ねて、「軍艦行進曲」を仕上げ、明治33年4月30日、神戸沖観艦式ではじめて演奏された。このころの「軍艦行進曲」はハ長調で、その後のものと少し違っている。その後、歌うには高すぎるということで、明治43年、ピアノ編曲で出版されるとき瀬戸口がこれをト長調にあらためた
ロジェストウェンスキーの容貌は、神が「非凡さ」ということをテーマに彫り上げるとすればこの顔になってしまうだろうと思われるほどにすぐれた造形性をもっていた。聡明でよく澄みよく輝いた両眼、端正な鼻と品が良くて意志的な唇、といったぐあいに道具だてを個々に取り上げても優れていたが、それが顔として総合されてもなお、一個の力を感じさせる容貌であった。かれはロシアの将官としてはめずらしく貴族の出ではなかったが、その容貌は貴族中の貴族であることにふさわしいものであった。かれは抜群の成績で海軍兵学校を出、尉官時代はその有能さで上官から畏敬された。佐官時代は主に陸上勤務であったが、砲術の研究者として優秀であった。ただし独創的な業績やひらめきは少しも持っていなかった。さらに海軍省にいたときは事務家としても、物事の処理者としても有能であり、部下に対しても厳しく、上官に対しても言うべきことは言った。もし彼の生涯において戦争というものがなかったならば、この不戦の提督はロシア海軍の逸材として国家の内外で大切にされ、幸福な余生をどこかの別荘で送ったことであろう。が、かれはロシアの多くの提督の中から選ばれ、とほうもない冒険と計算力を必要とする戦争に引き出されてしまった。
ロジェストウェンスキー
Zinovi_Petrovich_Rozhestvenski.jpg
> そこまで褒めるほどの容貌か?

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坂の上の雲六 17~左はヨーロッパ、右は日本

もともと戦争というのは、「勝つ」ということを目的にする以上、勝つべき態勢を整えるのが当然のことであり、ナポレオンも常にそれを行い、日本の織田信長も常にそれを行った。ただ敵よりも二倍以上の兵力を集中するということが英雄的事業というものの内容の9割以上を占めるものであり、それを可能にするためには外交をもって敵をだまして時間稼ぎをし、あるいは第三勢力に甘い餌を与えて同盟へ引きずり込むなどの政治的苦心をしなければならない。そのたと行われる戦闘というのは、単にその結果に過ぎない。こういう思想は、日本にあっては戦国期こそ常識であったが、その後江戸期に至って衰弱し、勝つか負けるかという冷たい計算式よりも、むしろ壮烈さの方を愛するという不健康な思想-将帥にとって-が発展した。その屈折した結果として、江戸期の士民を勘当させた軍談は、ことごとく少人数をもって大軍を防いだか、もしくは破ったという記述的な名将譚であり、これによって源義経が愛され、楠木正成に対しては神秘的な畏敬を抱いた。絶望的な籠城戦をあえてやってしかも滅んだ豊臣秀頼の、大坂の陣は、登場人物を仮名にすることによって多くの芝居が作られ、真田幸村や後藤又兵衛たちが国民的英雄になった。その行為の目的が勝敗にあるのではなく壮烈な美にあるために、江戸泰平の庶民の心を打ったのであろう。この精神は昭和期まで続く。
この時代、ヨーロッパだけでなく世界中の情報がロンドンに集まる仕組みになっていた。英国が、ヨーロッパの政治的風景を海峡を隔てて鳥瞰できる地理的位置にあったことと、さらには英国政府が何世紀もかかってその地理的利点にみがきをかけ、ロンドンをもって豊富な情報の合流点にしたこともあるであろう。この時期の英国外交は、その豊富な情報の上に成立していた。さらにこれを厳密に言えば、英国人の冷徹さが、その情報の処理とそこから事態の真相を見抜くという能力に極めて適合していた。「英国の外務省を味方にしていれば世界中のことが分かる」と、この当時、駐英公使を務めていた林董がいったが、そのとおりであろう。たとえばベルリンで得る情報は、ドイツ人の主観が強く入っているか、それとも権謀好きのドイツ人の手で歪曲されているか、そのどちらかであることが多い。またパリはすでに外交の主舞台ではなく、ローマは外交上の田舎に過ぎなかった。

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坂の上の雲六 16~防御戦

好古がとっている戦法は、「拠点式陣地」という特殊なものであった。騎兵本来の特質から言えば急襲と奇襲あるいは挺進という機動戦法こそとらるべきであったが、かれが総司令部から命ぜられている任務は全軍の左翼を警戒し防衛するといういわば非騎兵的任務であった。それが、あるいは兵力僅少な日本騎兵として当然の在り方であったかもしれないが、その警戒と防衛という任務にしても、わずか8,000で40キロの広正面を守るということは半ば不可能に近い。このため、かれは、「拠点式陣地」という方法を取った。4大拠点それぞれに枝が出ていて小拠点が多数ある。いずれも部落の周りに散兵壕をほり、前面に障碍物を設け、土壁には銃眼を穿って堅固に城郭化し、それをもって小兵力で敵の大軍と対決しようというものであった。(敵が3万やってきてもなんとかやれる)という自信が好古にあった。しかしながら現実にやってきた敵は10万以上であった。
日本人には、元来防御の思想と技術が乏しい。日本戦史はほんの数例をのぞいては、進撃作戦の歴史であった。防衛戦における成功の最大の例として、戦国末期、織田信長の軍団を数年にわたってささえつづけた石山本願寺(いまの大阪城付近)のそれが存在する。本願寺は戦闘では最後まで戦闘力を失わずに戦勢をもちこたえたが、結局は外界の外交事情が不利になり、和睦した。このいわゆる石山合戦の場合でも、防御戦のための工学的な配慮や物理力が存在したわけではなく、物理力と言えば「堀一重、堀ひとめぐり」というかぼそいものであった。この合戦の本願寺側の防御力をささえたものは、門徒たちの信仰の力しかない。この点、徳川初期の島原の乱におけるキリシタン一揆も同じ事情である。日本人のものの考え方は、大陸内での国家でなかったせいか、物理的な力で防御力を構築してゆくというところに乏しく、その唯一の例は秀吉の大阪城ぐらいのものかもしれない。秀吉はかつて自分が属した織田軍団が、あれほど石山本願寺の防御力にてこずったことを思い、同じ石山の地に大阪城という一大要塞を構築したが、その規模の大きさは城内に10万以上の兵士を収容できるもので、それ以前の日本史ではとびぬけたものであった。しかし結局は大坂夏の陣において、家康の野戦軍のために陥ちた。物理的な構造物が存在しても、防御戦という極めて心理的な諸条件を必要とする至難な戦いをするには、民族的性格がそれに向いていないからであろう。

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坂の上の雲五 15~石炭が欲しい

真之の対バルチック艦隊の戦法もかれの独創で、どの国の戦術所にも無い。かれがいま練りつつある迎撃戦法はのちに「七段構え」という名称がついた。真之は敵を一艦残らず沈めるとすれば、原則としてこれ以外に無いと考えている。つまり、済州島あたりからウラジオストックの沖までの海面を、七段に区分するのである。その区分ごとに戦法が変わる
まず第一段はバルチック艦隊が日本近海に現れるや、すぐには主力決戦せず、いちはやく駆逐隊や艦隊といった足の速い小艦艇をくりだし、その全力をもって敵主力を襲撃し、混乱せしめる。この点、真之が熟読した武田信玄の戦法に酷似していた。第二段はその翌日、わが艦隊の全力をあげて敵艦隊に正攻撃を仕掛ける。戦いの山場はこのときであろう。第三段と第五段は、主力決戦が終わった日没後、再び駆逐・水雷という小艦艇をくりだし、徹底的な魚雷戦を行う。これは正攻撃というより、奇襲というべきである。次いでその翌日、第四段と第六段の幕を上げる。わが艦隊の全力ではなくその大部分をもって敵艦隊の残存勢力を鬱陵島付近からウラジオストック港の港外まで追い詰め、しかるのちに第七段としてあらかじめウラジオストック港口に敷設しておく機雷沈設地域に追い込み、ことごとく爆沈させるという雄大なもので、第一段から第七段まで相互に関連しつつ、しかも各段が十分に重なり合っていて。隙間が無い。その精密さと周到さという点において、古今東西のどの開戦史を見てもこのようではない。真之以前の歴史上の海戦というのは、多分にゆきあたりばったりの粗大なものが多く、真之はむしろこの緻密さを、陸戦の戦史を読むことで会得したといっていい。この七段構えについては、真之はそればかりを考えていた。
「ロジェストウェンスキー航海」といわれるバルチック艦隊の苦難の航海は、まだアフリカ大陸の端にさしかかったばかりであった。ロシアから極東の島国まで18,000海里、この記録的な目標に向かって、性能のそれぞれ違う大小四十数隻をひっぱって、この宮廷向きの司令長官は挑もうとしているのである。思うだけでも気の遠くなるような事業であった。「東郷とその艦隊を全部海底に沈めてしまうなら、この苦難も、一つ一つが宝石のように輝かしい記憶になるだが」と、人々は思った。しかし12,000の乗組員のうち、確乎とした必勝の見通しを持っているものはいなかった。というより、それが軍隊の自然かもしれなかった。東郷艦隊においても、その士卒の全員が必勝を確信しているわけではない。確信しているとすれば、よほど無智か、常人でない精神体質の持ち主であろう。
ロジェストウェンスキーの苦難は、この大遠征が、その遠征に必要な条件のすべてを供給されているのではないことであった。18,000海里の航海のうち、大半の港が、イギリスによって握られているか、その影響下にある。イギリスは、世界の海上における日本の代理者であった。イギリスは、国際法の許すギリギリにおいてバルチック艦隊の航海を妨げようとし、その艦隊を疲労させようとした。「この海上の悪漢。海上の優越者。ロシア帝国にとっての不倶戴天の仇敵、かれらがわが航海に加えた妨害の事実は数えきれないが、しかしながらみな恨みを呑んでこれを忍耐した」と、造船技師ポリトゥスキーは、11月2日付で、その愛妻に手紙を書き送っている。

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坂の上の雲五 14~専門意識

乃木希典はようやく攻撃の力点を203高地に置いた。軍司令官独自の判断であり、かれの参謀長伊地知幸介の発議によるものではなかった。この決定の席上、伊地知は沈黙していた。かれはこの期にいたってもなお、「あんな高地を奪って何になるか」という考え方を変えていない。伊地知に言わせれば、「203高地主攻説をなす者は、ここを奪取してその頂上に観測点を置き、旅順港内の敵艦隊を陸上砲で撃つというが、たとえ奪取できても砲兵の設備をすることを多大の月日を必要とする。机上の空論である」と、いうことであった。むろんその後、実際に行われた後、この伊地知論のほうが空論であることが実証された。
乃木希典
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もしこれが、最初からプログラムに組んでいればどうであろう。この高地がまだ半要塞の状態であったとき、第一師団がここを攻撃しているのである。むろん撃退されたが、このときわずかでも増援軍を送っていれば占領できたことは確かである。そのせっかくの好機を、乃木軍司令部は自ら捨てた。その後、この高地を放置した。その間、ステッセルは、あらゆる砲塁のなかで最強のものをこの高地に築き上げたのである。
203高地は、旅順市街の西北約2キロの地点に、大地がちょうどうねるように隆起している。付近には案子山、椅子山があり、谷を隔てて相つらなり、203高地のそばには赤坂山と海鼠山がある。いずれも要塞化され、峰々が連繋して隙間の無い火網を構成している。ねずみいっぴきが走っても、鉄砲火の大瀑布にたたかれねばならなかった。この高地の殺人機構というのは、日本人の築城術の概念をはるかに越えたものであった。まず、高地の西南部に今日断面の堡塁がある。その堡塁の内壕の深さは2メートル以上であった。横蔣がいくつかあり、また砲塁司令所は強固に掩蔽されている。さらに高地の東北部にも同様の砲塁があり、6インチ砲をそなえ、各鞍部には軽砲砲台があり、それら堡塁や砲塁のあいだに暗路が走って、交通路になっている。山の中腹には、鹿砦がつらねられ、その前に散兵壕があり、その火線には銃眼掩蓋があって機関銃が配置され、ついで山腹一帯には、鉄条網が張り巡らされている。

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坂の上の雲四 13~バルチック艦隊

バルチック艦隊の成立は、1904年の4月30日である。「太平洋艦隊」とそれまで呼称されていたのは、旅順・浦塩両港を基地とする東洋艦隊のことであった。この極東における艦隊は、ウラジオストックという都市名が「東を征服せよ」という意味である如く、ロシアの中国・朝鮮侵略のための威圧用艦隊であった。その太平洋艦隊だけでも一流国の全海軍に匹敵するものであったが、それが東郷に圧迫されつつあり、提督マカロフまで戦死したことは、ロシア帝国の威信を大きく傷つけた。が、ロシアにはなお本国艦隊がある。「それを東洋に送ろう」ということで、ヨーロッパの各水域にある軍艦を集め、バルチック海において新編成され、名を第二太平洋艦隊と命名された。
「卿がその司令長官になれ」
皇帝の名ざしでそのお気に入りの侍従武官(海軍軍令部長兼任)ロジェストウェンスキーが就任した。
「しかし成功するであろうか」
という疑問が、海軍部内にも各省大臣の間にもあった。まず、その極東回航ということである。日本まで1万8千海里という気の遠くなるような距離があるうえに、これだけの大艦隊が回航されてゆくのである。途中の補給だけでも大変であった。士卒の士気が持続するかということもある。ともあれ、これだけの大艦隊の回航そのものが史上かつてない事業であった。「はたして可能か」と、海軍玄人筋でさえあやうんだ。
バルチック艦隊が、出港のための大集結をしたのは、バルト海(バルチック海)に面するリバウ港である。「これは呪われた港だ」と、ウィッテは憎々しげに言っているが、日露戦争前ここに港を築くことについて、ロシア政界や海軍の意見は2つに割れていた。普通、考えてみると、これほど良い港はないであろう。ロシアは大陸国で、海港を作るにふさわしい海岸線に乏しい。多くは冬季凍結する。露都ペテルブルグの護りをつとめる大軍港クロンシュタットも、1年のうち3か月から5か月も港内が凍る。
-不凍港を得たい。
という望みは、膨張するロシアの、黒煙が立つほどの渇望であった。むろん黒海にもそれがあり、いますでに極東では旅順港をもっている。しかしヨーロッパ・ロシアの心臓であるペテルブルグにもっとも近い位置に商・軍港兼用の港をもちたかった。その欲求から選ばれたのが、リバウ港であった。ここならば、冬季の使用に堪える。が、海軍の一部やウィッテは反対した。その理由は、湾入しているその頸部がせまく、「このため開戦とともに敵に封鎖されて何の役に立つまい」ということであった。ロシアでは常に物事が受け身で考えられた。このようにリバウよりもエカテリンスク湾に面したムルマンを海軍根拠地にするほうが良い、という意見が多く、ウィッテもその派であった。この両案の論争は先帝アレクサンドル三世の晩年頃に政治の表面に現れたが、同帝はその死の直前、

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坂の上の雲四 11~203高地

乃木は近代戦の作戦指導に暗い。しかしその人格はいかにも野戦軍の統率に向いていた。軍司令官はその麾下軍隊にとっての鑚仰の対象であればいいということでは、乃木はそれにふさわしかった。そのかわり、乃木に配する近代戦術の通暁者をもってすればいいということで、薩摩出身の少将伊地知幸介を参謀長にした。伊地知は多年ドイツの参謀本部に留学していた人物で、しかも砲兵科出身であった。砲兵科出身の参謀長でなければ要塞攻撃に適任ではないであろう。ところがこの伊地知が結局は恐るべき無能と頑固の人物であったことが乃木を不幸にした。乃木を不幸にするよりも、この第三軍そのものに必要以上の大流血を強いることになり、旅順要塞そのものが、日本人の血を吸い上げる吸血ポンプのようなものになった。
203.jpg
たとえば、海軍が献策していたのは、
「203高地を攻めてもらいたい」
ということであった。この標高203メートルの禿山は、ロシアが旅順半島の山々をことごとくべトンで固めて砲塁化した後も、ここだけは無防備で残っていた。そのことは東郷艦隊が洋上から見ていると、よくわかるのである。この山が盲点であることを見つけた最初の人物は、艦隊参謀の秋山真之であった。「あれを攻めれば簡単ではないか」ということよりも、この山が旅順港を見下ろすのにちょうど良い位置を持っているということの方が重大であった。203高地を取ってその上に大砲を引き上げて港内のロシア艦隊を撃てば、二階から路上に石を落とすような容易さでそれを狙撃することができる。艦隊を追い出すために陸から攻めるというのが陸軍作戦の目的である以上、203高地を狙うことが必要かつ十分な要件であった。ところが、乃木軍の伊地知幸介は一笑に付し、しかも、
「陸軍には陸軍の方針がある」
として、この大要塞の玄関口から攻め込んでゆくというような、真正直な戦法をとった。ついでながら203高地については攻略が悪戦苦闘したすえ、ギリギリの段階で児玉源太郎が総司令部の仕事を一時捨ててこの旅順の現地へやって来、みずから作戦の主権を握ることによってこの海軍案を採用し、総力を挙げてこの山への攻撃を指向した。そのころにはロシア側もこの山の重要さに気づき、すでに防備を施していたため、攻撃には大量の流血が伴ったが、ともかくもこの高地の奪取によって旅順攻撃は急転換した。旅順ははじめ一日で陥ちるはずであった。しかし要塞の前衛陣地である剣山の攻防から数えると、191日を要し、日本側の死傷6万人という世界戦史にもない未曾有の流血の記録を作った。

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坂の上の雲三 10~ロシア海軍

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クロパトキン
時間稼ぎが、クロパトキン戦略の基本方針であった。日本軍に数倍する大兵力の集結を待ち、最後の決戦を予定するが、それまでの戦闘はできるだけ兵力の使い減らしを避け、日本軍に対しては適当に消耗を強いつつ、何段階かに分けて後退していく。その「最終決戦」の線はハルビンにおく、とクロパトキンはいう。さすがにロシア陸軍きっての名将といわれた男だけに、きたるべき満州平野での戦いの様相を、的確に想像できる頭脳をもっていた。「一撃撤退」というこの不思議な作戦は、ロシア陸軍の伝統的作戦であり、敵の補給線が伸びるだけ伸びてついに絶えたころに大反撃に出る。かつてはナポレオンもこれに屈し、後年ヒトラーもこれに屈した
ここ10年、かれの念頭をロシア海軍がはなれたことがなく、つねにそれを仮想敵として日本海軍を作り上げてきた。かれはワン・セットの艦隊をそろえたが、その主力艦は英国製の新品ぞろいで、ロシアの主力艦に比べて性能の点ですぐれていた。山本権兵衛は兵器の性能の信奉者であり、その優劣が戦いの勝敗を決するという点で、どの文明国の海軍指導者よりも近代主義者であった。日本軍がワンセットの艦隊しか持たないのに対し、ロシア海軍はツウ・セットの艦隊をもっていた。1つは極東(旅順・浦塩)にあり、一つは本国(バルチック艦隊)にある。この2つが合すれば、日本海軍は到底勝ち目はない。山本権兵衛総裁による日本海軍の戦略は、ロシアの2つの海軍力が合体せぬ間にまず極東艦隊を沈め、ついで本国艦隊を迎えてこれを沈めるというところにあった。各個撃破である。ところで、ロシアの極東艦隊と日本のワン・セットだけの艦隊とはほぼどう兵力である。山本権兵衛としてはこの艦数、合計トン数の対比を、日本がやや優勢、というところまでもってゆかねばならなかった。海上決戦は、性能と数字の戦いである。敵よりも優勢な数量をもって当たれば戦果が大きいだけでなく、味方の損害も少なくてもすむ。山本権兵衛が「第一回戦」として考えている極東艦隊に対する戦略は、味方の損害をできるだけ軽微なところで抑えるというところにある。でなければ第二回線であるバルチック艦隊との対戦がうまくゆかないだろう。このため日本海軍は開戦ぎりぎりの時期にさらに二隻の準戦艦を買い取った。この二隻の軍艦はアルゼンチンがイタリアのゼノアの造船会社に注文してほぼ竣工しようとしていた新鋭艦で、艦種は巡洋艦であるにせよ、たとえばそのうちの一隻が持つ10インチ砲は2万メートルという世界一の射程を誇るもので、ロシアもこの二隻の軍艦買い入れをねらっていたが、日本は機敏に手を売って買い入れてしまった。「日進」と「春日」がそれである。開戦前、ロシアの警戒網を潜り抜けてこの両艦が日本に回航された。

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坂の上の雲三 9~ロシア騎兵

好古は馬を借り、ニコリスクから4キロ離れた演習地の廠舎に宿営中の部隊へゆき、騎兵隊と歩兵隊の様子を見学した。実は演習は予定の10分の1ほどの小規模で終わった。シベリア各地の諸軍団がこのニコリスクの荒野に集まってきて空前の大演習をする予定だったところ、9月上旬、シベリアの各地に大雨が降って道路や鉄道があちこちで使用不能になり、このため予定の軍隊移動が全部駄目になり、演習はニコリスク付近に駐屯中の二個旅団の対抗で行われたにすぎなかった。「ロシア人はがっかりしているだろう」 好古は大場少佐にいった。世界第一の陸軍の威容を見せて日本人の戦意をくじくという意図は、どうやら無に帰したらしい。好古にすれば、それでも大いに参考になった。参考になったどころか、ロシア騎兵の強力さは、想像以上のものがあった。騎兵連隊は6個中隊より成り、騎数は各中隊毎大体120騎である。その馬匹はみな強健で、「わが騎兵の馬匹に比し、そのおおいに優れるをみとむ」と、好古は正直に日記を書いている。さらにロシア騎兵のぜいたくさは、中隊毎に馬の毛色を変えてあることであった。日本の場合は、それどころではない。明治20年にアルゼリ種の馬90頭と、その翌年に170頭入れたものをたねにその後増やし続けているが、あまりふえもせず、依然としてロバの従兄程度の日本在来種が中心になっている。第一、馬を繁殖させるための種馬所と種馬牧場すら、やっと明治29年にできあがったという始末で、これによって本格的な馬匹改良にのりだしたのである。その後、7年にしかならない。
内務大臣プレーヴェ
Konstantinovich-Plehve.jpg
ロシア政府では侵略主義者が既に宮廷をにぎってしまっており、穏健な人物だとみられていた内務大臣のプレーヴェですら「そもそもロシア帝国がこんにちこのような盛大さを誇りえているのはすべて軍人の力によるもので、外交官のおかげではない。極東問題のごときはよろしく外交官のペン先よりも、軍人の銃剣をもって解決するのが本筋である」といっていた。銃剣で解決するということがロシアの態度の裏にある以上、日本の解決案に対し妥協のにおいが全くしない回答を出してくることは当然であろう。むしろ挑戦を主眼としていた。しかし強大国ロシアは、弱小国日本が気が狂わない限り戦いなど決意するはずが無いと思い込んでいる。皇帝ニコライ二世が「朕が戦いを欲しない以上、日露間に戦いはありえない」といったのは、別に豪語したわけではなく、それがロシア人の常識的観測であった。いま旅順の要塞を強化し、シベリア鉄道で満州に兵力をどんどん送っているのは「銃剣外交」の威力を高めるためであり、かならずしも対日戦を予想してのことではない。予想するのもばかばかしいという意識が、ロシアの政治家にも軍人にもあった。日本はロシアの強硬な回答に対し、折れざるを得なかった。小村外相はローゼン公使に対し、これ以上は譲ることができないという、ぎりぎりの譲歩案を出した。要するに満州朝鮮交換案というか、ロシアは満州を自由にせよ、そのかわり朝鮮に対しては一切手を出さない、というものだった。

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坂の上の雲三 8~水軍から海軍

真之は帰朝後ほどなく胃腸を病み、長与病院に入院したことがある。小笠原長生少佐が見舞に行くと「あなたの家に、海賊戦法の本はないか」と、真之はたずねた。小笠原長生は、九州唐津の大名だった小笠原家の当主である。家に帰り、旧家臣などにたずねたりして、珍しい本をさがしだした。「能島流海賊古法」という写本で、5,6冊から成っている。瀬戸内海は日本の海賊の巣窟で、遠くは源平時代から栄え、そのころはかれらは当初平家に味方し、あとで源氏に味方して義経に指揮されて壇ノ浦で平家の船隊を殲滅した。鎌倉をへて南北朝時代になり、世の中が乱れると、彼らの勢いはいよいよ盛んになった。瀬戸内の諸水軍を大統一したのは伊予の村上義弘である。かれは戦法に長じその戦法がやがて村上流と言われるようになった。やがて村上氏は、因島村上氏、来島村上氏、能島村上氏などにわかれた。能島は伊予大島に付帯する島で、全島が城塞化され、能島村上氏の根拠島になる。ここで能島流戦法が生まれた。
とくに真之が感銘したのは「わが全力を挙げて敵の分力を撃つ」というところであった。これが水軍の基本戦法であった。そのための陣形として「つねに長蛇の陣をとる」とその戦法書にある、近代海軍の用語にいう縦陣である。艦隊をながながとタテに並べて敵に向かっていく。この陣形は応変が効きやすく、敵の分力を包囲するにも便利であり、真之が最も感じ入ったのはこの点であった。結局はこれが秋山戦術の基幹になり、日本海海戦の戦法、陣形にもなっていく。
水軍戦法に、虎陣、豹陣というのがあった。ついでながら海賊たちは虎の女房は豹だと思っていたらしい。だから、この場合、亭主陣、女房陣と翻訳してもいい。虎陣が本陣である。それが島蔭かどこかに隠れていて、弱弱しい豹陣が敵の来る水域をうろつき、やがて敵が来ると逃げると見せて虎陣のほうへひきよせてゆく。時機を見て虎陣があらわれ、たちまち噛み殺す。そういう戦法である。のちバルチック艦隊が日本近海に現れた時もそうであった。豹陣として、第三、第四、第五、第六戦隊を出しておき、敵艦隊と接触しつつ、これを沖ノ島の北方に待機している「虎陣」第一、第二戦隊のほうへさそいこみ、見事に成功した。そのほか真之の戦法には古来の戦法から得ている者が多い。
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山本権兵衛、海軍建設者としては、世界の海軍史上最大の男の一人であることはまぎれもない。かれはほとんど無にちかいところから、新海軍を設計し、建設し、いわば海軍オーナーとして日清戦争の「海戦」の設計まで仕遂げた。清国海軍が、定遠と鎮遠というずばぬけて巨大な戦艦をもちながら、その他の持ち船となると軽重まちまちで、速力も一般に鈍く、鈍さも平均的でなく遅速まちまちであるということに権兵衛は目を付けた。それに勝ちうる日本艦隊をワン・セットそろえるにあたって、まずできるだけ高速艦を外国に注文した。予算が貧弱だから清国の艦よりひとまわり小粒の艦ばかりであったが、高速で平均した艦隊速度も清国より速く、要するに艦隊の連動性を極めて高くした。極端に言えば軽捷な狼の群をもって犀の群を襲おうという考え方であり、その方法で、艦隊を作った。大砲もそうである。敵は巨砲を持っているが、こちらは艦載速射砲をうんと積み、敵に致命傷を与えないまでも、小口径の砲弾を短時間内におびただしく敵艦に送り込むことによって、敵の艦上建造物を薙ぎ倒し、敵乗組員の艦上活動を妨げ、やがては火災を発せしめて艦そのものを戦闘不能に陥らせようとした。その権兵衛の構想は見事に成功した。

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坂の上の雲二 7~正岡子規の和歌批判

内藤鳴雪「蕪村第一等の傑作は、春の水山なき国を流れけり、じゃな」
そういうと子規はうなずかなかった。この句は蕪村としては劣るという。
「山なき国というのがいけません」
といった。山なき国とは何か。たとえば関東の武蔵野あたりかもしれないが、そういう地図的観念に頼っている。鑑賞する者はあたまに地図でもえがかなければならず、えがいたところでそれは頭で操作されたものであり、絵画的ではない。俳句は読み上げられたときに決定的に情景が出てこねばならず、つまり絵画的でなければならず、さらにいうならば「写生」でなければならない、と子規は言う。
わずかな例外をのぞいて和歌というものはほとんどくだらぬといってのけた子規は、そのくだらぬわけを、さまざまに実証する。たとえば、
「月見れば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど」
という名歌をひく。上三句はすらりとして難が無いが、下二句はリクツである、と子規は言う。歌は感情を述べるものである。リクツを述べるものではない。・・・もしわが身ひとつの秋と思うと読むならそれは感情としてすじがとおっている、が、秋ではないが、と言い出したところがリクツである。俗人はいうにおよばないが、いまのいわゆる歌よみどもは多くリクツをならべて楽しんでいる。厳格に言えばこれらは歌でもなく、歌読みでもない」
思い切ったことをいっている。古歌をこきおろすだけでなく、古歌をありがたがってそれを手本に歌をつくっているいまの歌人は歌人ではない、その作品も歌ではない、という。
子規は漱石へ送った。
「歌については内外ともに敵である。そとの敵はおもしろいが、内の敵には閉口している。内の敵とは新聞社の先輩その他、交際のある先輩の小言のことである。まさかそんな人(羯南をあたまにおいていたであろう)にむかってりくつをのべるわけにもゆかず、さりとていまさら出しかけた議論をひっこめるわけにもゆかず、困っている」

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坂の上の雲二 6~小村寿太郎の政党論

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「日本のいわゆる政党なるものは私利私欲のために集まった徒党である。主義もなければ理想も無い。外国の政党には歴史がある。人に政党の主義があり、家に政党の歴史がある。祖先はその主義のために血を流し、家はその政党のために浮沈した。日本にはそんな人間もそんな家もそんな歴史もない。日本の政党は、憲法政治の迷走から出来上がった一種のフィクション(虚構)である)」
藩閥論
「藩閥はすでにシャドウ(影)である。実体が無い」
ついでながら小村は日向飫肥藩の出身で薩長人ではない。
「ところがフィクションである政党とシャドウである藩閥とがつかみあいのけんかをつづけているのが日本の政界の現実であり、虚構と影のあらそいだけに日本の運命をどう転ばせてしまうかわからない。将来、日本はこの空ろな2つのあらそいのためにとんでもない淵におちこむだろう」
小村は、藩閥と党閥が国家を滅ぼすということをつねに言った。それだけではない。
自分は国家だけに属している。いかなる派閥にも属しない」という立場をつねに明言しつづけた。

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坂の上の雲二 5~軍拡

馬は、日清戦争の段階ではアラブもサラブレッドも使われていない。雑種ですらない。日本馬であった。大隊長である好古も、西洋人が日本騎兵を見て笑ったように「馬のような馬」に乗っていた。ただ一人例外があった。沢田中尉という若い将校がひとり洋雑種の馬に高々と乗っていた。この馬はかつて東京戦でフランス軍が使った馬を陸軍が種馬として買い、日本馬と交配させて生まれたもので、沢田はそれを手に入れ、新馬のあいだから自分で調教してきた。
> JRA発足、競馬の意義、競走馬・サラブレッドの育成である。
日本人というのは明治以前には「国民」であったことはなく、国家という観念をほとんど持つことなくすごしてきた。かれらは、村落か藩かせいぜい分国の住民であったが、維新によってはじめてヨーロッパの概念における「国家」というひどくモダンなものをもったのである。明治政府は、日本人に国家とか国民とかいう概念を持たせることにひどく苦慮したようである。このため、「天子様の臣民」という思想を、植えつけようとした。忠義の観念は、封建時代の大名とその家来において既に濃厚な伝統がある。これをおしえることのほうが、国家と国民の関係を道徳において説くよりわかりやすかった。
好古は、結婚をすれば家庭の雑事にわずらわされて研究もおろそかになり、ものごとを生み出す精神がぼけてくる。というような説を立て、同僚や後輩たちに向かってもそう主張していた。「科学や哲学は、ヨーロッパの中世の僧院のなかからおこった。僧侶たちは独身であるため、自分の課題に対しわきめもふらずに精進することができた。そのようにたとえ凡庸な者でも一心不乱である限り多少の物事を成し遂げるのである」 「情欲が起これば、酒を飲め。諸欲ことごとく散ること妙である」
> 確かにお酒飲んだ後は何にもできないw
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坂の上の雲二 4~軍部

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陸羯南(くがかつなん)は親友の加藤恒忠から正岡子規をあずかり、子規の東京遊学中のことについては責任を持たされている。その子規が落第して退学したとあればフランスにいる加藤に申し訳が立たぬように思えるのである。叔父の加藤恒忠も陸羯南も司法省法学校の3年生のときにストライキを起こし、退学を命ぜられた。子規の場合よりも不穏であり、とても子規を説諭できない。そのときのストライキで退学させられたものは16人にのぼった。原敬、国分青崖、福本日南、陸羯南、加藤恒忠らである。ふしぎなことに退学組のほうが、明治大正史にその存在をとどめた。福本日南をのぞいて日本の在野史学は論ぜられないし、国分青崖をのぞいて明治大正の漢詩は論ぜられず、陸羯南をのぞいて明治の言論界は論ぜられず、のちに平民宰相といわれた原敬をのぞいて近代日本の政治は論ぜられないであろう。
> 時代が古すぎて現在と制度は異なるのだが、正岡子規も秋山真之も東大。大学予備門(旧一高のさらに前身)。へー。ここで出てくる司法省法学校も、東大法学部の前身ということらしい・・・。

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坂の上の雲 3~名将

明治19年12月の寒い日、真之は築地の海軍兵学校に入校した。この日、真之ら55人の海軍生徒の目を奪ったのは、築地東海岸に碇を降ろしている軍艦「筑波」であった。「あれが我々の練習艦だ」と案内役の古参生徒に説明されたとき、このわずか2000トン足らずの軍艦に山を仰ぐような威容が感ぜられた。それよりも入校生たちの脅威だったのは、その日の昼食にライスカレーが出たことであった。その名前さえ知らぬものがほとんどだったが、真之は大学予備門の生活でこういうものに馴れていたから、めずらしくもなく食った。さらに一同を当惑させたのは洋服であった。洋服を着用する経験は真之以外はみなはじめてで、なかにはシャツのボタンをどうはめていいかわからず、顔を真っ赤にして苦心している者もいた。真之はさっさと洋服を着た。そういう様子を見て、「秋山、おまえは洋行がえりか」と大真面目に聞く者もいた。それほど、この当時の日本の普通の生活と海軍兵学校の生活には差があった。いわばこの築地の一郭5万坪だけが生活様式として外国であったといえるだろう。
もっとも、海軍兵学校もその沿革をたどると、最初からそうであったわけではない。海軍兵学寮といわれた最初の頃は練習艦の居住室も畳敷であった。冬は火鉢を置いた。そのころ日本海軍のやとい教師であった英国人ホーズ大尉はこの状態を見かね、時の海軍担当の兵部少輔川村純義に対し「見苦しい上に火の用心が悪い。艦内では何にもまして火気取締りを厳重にする必要がある。よろしく釣床にあらためよ。また火鉢を廃すべし。喫煙の場所を定めかつ喫煙の時間も定めよ。すべての制度を英国海軍に習うほうがいい」と献言したため、以後海軍では日本式生活と決別することになった。明治4年のことである。ついでながらこの海軍における日本式生活というものには、妙な珍談がのこっている。幕末、幕府がはじめて長崎において海軍伝習所を作り、オランダ人教師によって海軍士官を養成したとき、昼めしどきになると生徒たちは甲板上にめいめい鍋と七輪をもちだし、ばたばたを火をおこして煮炊きし、オランダ人を閉口させたという。

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坂の上の雲 2~騎兵とは

騎兵というのは、どういうものか。幕末、幕府はフランスを規範とした洋式陸軍を作ったが、騎兵科は設置しなかった。一つには騎兵が理解できなかった。「歩兵は分かりやすい」と好古はいった。歩兵は徒歩兵で小銃を持ち、集団で進退し、的に対して小銃弾をあびせ、躍進して肉薄し、あとは銃槍や白刃をもって斬りこむ。砲兵も分かる。大砲を撃つ兵種である。
「すると、源平合戦や戦国の合戦に出てくる騎馬武者というのは騎兵ではありゃせんのかな」
「ちがうな」 好古はいった。
あれは歩兵の将校が馬に乗っているというだけのことだ。騎兵ではない。本当の騎兵を日本史に求めるとすれば、源義経とその軍隊だな
好古にいわせれば、源平の頃から戦国にかけて日本の武士の精神と技術が大いに昂揚発達し、世界戦史の水準を抜くほどの合戦もいくつか見られるが、しかし乗馬部隊を集団として用いた武将は義経だけであった。

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坂の上の雲 1~秋山好古という男

久しぶりに小説を。長いのでまだ読み終わってないのですが、少しずつ書き始めてみようか・・・。しかし、司馬遼太郎というのは小説家なんですかねぇ? 読書家の皆さんの意見を聞きたいところ。小説という創作というより、司馬遼太郎の歴史観の反映、という気がするのですが。ああ、でも私は本はすきなのですが、小説はほとんど読まず、司馬遼太郎は、項羽と劉邦、燃えよ剣につぎ、これで3作目なんですけどね。
恥ずかしながら、「坂の上の雲」を読むまで、タイトルに坂ってついているので、坂本竜馬の話だと思っていましたw あれー、なんだかなかなか出てこないなぁ・・・、と思って、読書家の友人MNB氏に「坂本竜馬が出てこないんですけど?」「えっ、秋山兄弟の話でしょ? 日露戦争だよ」と優しく教えていただきました。
NHKのドラマにもなっているみたいです。ネットで見れるのかなぁ。読み終わったら、ドラマも見てみようかな。MNB氏はドラマ嫌い、原作との差がどうしても気になってしまうようなのですが、僕はあまり細かいことは気にならないので、ドラマも興味ありです。NHKのドラマは採算度外視、キャスト見ても映画並みに豪華なので、製作には苦悩があるでしょうが、視聴者として見る分にはお得な気がします。真野響子も出てるんだ・・・、それは見たいなぁ。
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「孫子」の読み方 3/3~速く歩く、それが最強の軍

敵に対して、有利な位置に立つ。これは原則で「先手必勝」「先んずれば人を制す」はまさにその通りだが、残念ながら戦闘は囲碁や将棋と同じではない。というのは、碁石も将棋の駒も飯を食わないし馬糧もいらない。いわば補給なしで動く。また盤上には、山林・難所・湿地帯があるわけでなく、すべてが見渡せるから道案内はいらない。現実の戦闘では、先手、先手と追いかけると補給が続かなくなる。補給線が伸びきったところを叩かれる、企業では手を広げすぎて資金難に陥ったところを叩かれる、これが最も危険であって、有利な位置に立とうとすると、きわめて危険な状態になる。「兵は拙速を貴ぶ」は、前に記したような意味で、「拙速で有利な位置に立て」ではない。
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日本史の中で最も敏速な機動力を発揮したのは、秀吉だろう。その速度を測ると驚くなかれ、旧帝国陸軍より速いのである。なぜそれが可能だったか。その謎は、賤ヶ岳の戦いの記録を読むとわかる。まず、先手必勝で柴田勝家側の佐久間盛政が、琵琶湖北岸の秀吉方の砦を払暁に強襲して奪取する。守将の中川清秀は戦死。これが4月20日。彼は確かに有利な位置に立ち戦闘の主導権を取ったのだが、この結果、勝家側は軍が二分される。この危険を感じた老練な勝家は、すぐ引き返せという。だが、盛政は夜行軍と明け方の強襲で兵が疲れ切っているから、今夜は休養を取って明日帰るという。彼がこういうのも当然で、急使が大垣の秀吉の下に到着し、急いで彼が出発しても、到着は早くて明21日の午後か夕方になる。彼は老人は気が早いとか気が弱いとか言って、勝家からの再三再四の指示に従わない。

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「孫子」の読み方 2/3~兵書読みの兵書知らず

いわゆる朝鮮出兵の慶長の役で捕虜となった韓国人姜范が。『看羊録』という本を著している。これは秀吉の晩年から関ケ原直前までの日本について記している実に興味深い本だが、その中に次のような記述がある。
「そのいわゆる将倭なる者は、一人として文字(漢字)を解するものがありません。わが国の吏読(りとう、万葉仮名に似た一種のかな、消滅した)に酷似しております。その字の本義を問うたところ、漠然としていて、知っておりません・・武経七書は、人それぞれ捺印所蔵しておりますが、やはり半行でさえ通読できる者がいません。彼らは分散して勝手に戦い、それで一時の勝利を快しとして満足することはあっても、兵家の機変については聞いてみることはありません。以上のことは、捕虜になった人々に直接見聞したもので、どうにも愚かな農民や敗兵の惑いを十分打ち破るよすがともなりましょう」
これは、大変に面白い記述である。「武経七書」とは『孫子』『呉子』『六韜』『三略』『司馬法』『尉繚子』『李衛公問対』の七書で、宋の時代に兵学の典拠として選定されたものである。韓国の両班には文班と武班があり、それぞれ、中国と同じように科挙という官吏登用試験を受け、これに合格したもので政府は構成されている。これからみれば武将は「武経七書」ぐらいは暗記しているはずなのだが、日本の武将は最初の半行も読めないと彼は言う。これは、おそらく事実であろう。勉強家と言われた家康でさえ、藤原惺窩についてはじめて『貞観政要』を読んだわけで、独力で読んだわけではない。家康でも、科挙の試験を受ければ落第であろう。ということは、日本の武将は机上の兵学では皆落第生、韓国の武将は優等生ということになる。ところが、この優等生が、戦国の生存競争を生き抜いてきた日本の武将の前には手も足も出なかった。なぜであろうか。全体的に見れば姜范の問題意識はむしろこの点にあった。というのは彼は日本の三度目の侵攻を五分五分ぐらいに見ており、そのためにどう準備しておくべきかも提言しているからである。

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