カテゴリー: 読書

実務家ケインズ 2/3~投機家としての実績

生来、賭け事を好むケインズは、早くも同年8月頃からきわめてアクティヴな個人投資家-というより投機家、さらにいえば相場師-としての活動を開始する。
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> 半端じゃないリスクの取り方ですね。一回ぶっ飛ばしているものの平均年間リターンは21%。いつの世も成功者はこのくらいですよね。ハァ・・・、俺、セコイなぁ・・・。
1919年秋以降、ケインズの投機活動は本格化する。それも当初は既に旧い固定相場制が崩壊し、フロート化していた外国為替の投機に集中した。彼のスタンスは、基本的にドルには強気で、フランス・フラン、マルク、リラなど欧州通貨に対して弱気というものである。そして、大蔵省時代の仲間であったオズワルド・T・フォークの会社にわずかな証拠金を入れて、外国通貨の先物売買を、大規模に、かつ連日のように行った。
事実1920年1月までに6154ポンドの利益が転がり込む。
> 1918年末の資産は7000ポンドだった。


ネロ 暴君誕生の条件 2/3~偉大なる母

母子の決裂
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ネロは母の権力を弱めるにはまず彼女の腹心の者を除くことが最も効果があると考えた。そのめあてはほかならぬパラスである。彼はクラウディウスによってカエサル家の財産管理を委任され、巨富を積んで王者のようにふるまっていた。それにアグリッピナを妃にのし上げた功労者であり、彼女の陰の愛人でもあった。それでも彼は解放奴隷としてカエサル家に私的に任用されているにすぎないので、公式の手続きなしに簡単に首にすることができた。パラスはすでにこのことを予期していたのか別に抗議もせず、仰山な取り巻きたちを引き連れて悠然とカエサル家から退出していった。
さてパラスの失脚によって足元が崩れ落ちるように感じたのはアグリッピナである。そして実子ネロに向って次のように言い放った。「ブリタニクスはいまや立派な青年です。父の統治権を受け継ぐには、彼の方こそ正統な世子です。お前は他家から侵入して養子におさまり、おまけに母親を虐待する目的で統治権を乱用していますからね。」こういうなり彼女はもう何もかもぶちまける暴露戦術で息子に挑戦した。彼女がネロのために犯した数々の罪悪、とりわけ彼女がクラウディウスと結婚し、また彼を暗殺したいきさつを臆面もなく喋り捲り、さらに、シラヌス兄弟、その他数多くの犠牲者の名を上げてネロを責め罵った。


ネロ 暴君誕生の条件 1/3~母の謀略

ネロに対する私の最初の関心は、シェンキエーヴィチの『クオ・ヴァディス』によって喚起された。『クオ・ヴァディス』は明治末以来、数多くの訳書が刊行され、版を重ねたが私が手にしたのは昭和3年に発行された新潮社の世界文学全集中の一巻(木村毅訳)である。
紀元37年12月15日、生を受け、当時の慣習に従って生後9日目に潔めの式が行われたが、その日には母方の親戚に当たるローマ帝室(ユリウス=クラウディウス朝)のすべての人々が招かれた。その中には時の元首(皇帝)で、赤ん坊の伯父に当たるガイウスもいたし、次代の元首で、のちに母小アグリッピナの3度目の夫、ネロの養父となるクラウディウスもいたが、実父グナイウスの名はどうしたことか明記されていない。
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> アグリッピナが相手なので、きっと「コイツ誰の子?」疑惑があったに違いない。
> ユリウス=カエサルは子供が居なかったので、その妹ユリアの子アイティアと結婚したオクタヴィウスがユリウス=クラウディウス朝の血統的頂点に居るので、オクタヴィウスのクロスが何本入っているか見てみよう。5×4のオクタヴィウスをお持ちのようだ。
ガイウス暗殺の騒然たる空気の中で元老院が緊急に召集され、共和政の復活やユリウス=クラウディウス氏以外から元首を選ぶべきだとの意見も出されたが結論を得ないまま散会になった。クラウディウスは、近衛兵の意向が元首政の存続に傾いていることを知らされると、兵士一人当たり15000セステルティウス(1セステルティウスは25~30円)という多額の贈与を約束した。将兵は「最高軍司令官(インペラトル)」と歓呼して彼を元首に選んだ。こうして「元老院が熟慮している間に近衛軍は決定し」(ギボン)、元老院も承認せざるを得なかった。元老院がクラウディウスを無視していたのも無理からぬ点があった。彼は既に50歳を過ぎていたが、帝室の中では陰の薄い存在だった。それは小児麻痺に基づく肉体的欠陥のためでもあった。足が弱くぴょっこり歩きで、口からはよだれをたらしていた。母小アントニアにも好かれず、父大ドルススや兄ゲルマニクスのような軍歴を踏むことはできず、公職にも不適格と考えられており、元老院にも議席を持たなかった。
クラウディウスの妻メッサリナの死によって妃の地位には空席ができた。やもめ暮らしに耐えられず、妻のしりには敷かれやすいクラウディウスの妃の地位である。新しいお妃選びの激しいコンクールが始まった。まずお妃推薦人の解放奴隷たちがいがみ合い、同時に、女たちも凄まじい野心に燃えた。どの女も負けじ劣らじと、自分の美貌と高貴な生まれと財産を張り合い、私こそこのような晴れがましい結婚にふさわしい女であると誇って見せた。ナルキッススは、クラウディウスのかつての妻アエリア=パエティナを勧め、カリストゥスは先帝ガイウスの3番目の妃ロリア=パウリナを推し、そしてパラスが売り込んだのは小アグリッピナであった。バラスは、小アグリッピナを推薦するにあたって、彼女がゲルマニクスの孫ネロを連れ子とする点を特に強調した。「この子こそ支配者の地位に最もふさわしい。元首はこの高貴な子孫、すなわちユリウスとクラウディウス両氏の血を引く後裔とぜひ縁を結ばれますように。小アグリッピナは石女でないことを証明しています。それに今が33歳の脂ののった女盛りです。このカエサル家の清華を他の家に取られないようになさるべきです」
小アグリッピナは親戚であることを口実にしげしげと叔父を訪ね、クラウディウスの心をしっかり捉えて他のライバルにうち勝った。すると彼女は、まだ正妻にならないうちから妻としての権力を使い出し、わが子ネロと、オクタヴィア(クラウディウスの娘)との結婚をたくらんだ。しかしクラウディウスはオクタヴィアにすでに婚約者を定めていたので、この計画を遂行するにはどうしても波瀾は避けられなかった。こうしていよいよネロが、歴史の中に登場するのである。
アグリッピナによってネロの栄達の道は着々と進められつつあった。まずネロとオクタヴィアの婚約は次期執政官を通じて元老院に提案させ、可決後、元首の許可を受けて決定された。ネロは12歳、オクタヴィアは10歳くらいだった。次にはネロを養子縁組によってクラウディウス氏に入籍させ、クラウディウス帝の義子、つまりアグリッピナの連れ子から、帝自身の養子とすることである。養子縁組自体はローマ社会では珍しくない慣行だったし、現にアウグストゥスも、リヴィアの連れ子ティベリウスを養子にし、他の直系の継嗣が相次いで早死にした後にではあるが、ついには元首の地位をゆだねている。しかしこのような先例は、クラウディウスが愛情を注いでいる一人息子ブリタニクスがいる現在、すぐには役に立たない。
しかし彼女が息子を元首にするためにはなお手強いじゃまものがあった。クラウディウスの寵臣ナルキッススである。彼はメッサリナを没落させた男だが宮廷内ではパラスのライバルである以上、パラスと組んでいるアグリッピナに対立し、メッサリナの子ブリタニクスを支持せざるを得なかった。アグリッピナの行動を目を離さず監視していたナルキッススは激しい通風の発作に襲われ、カンパニア地方に湯治に赴いた。アグリッピナはこの好機をいち早くつかんだ-夫である元首クラウディウス毒殺のチャンスが来たのである。そこでアグリッピナは、好みとの専門家で、コレまでも権力政治の道具として帝室に抱えられていたロクスタという女を抱きこんだ。この女は知恵をしぼって毒物を調製した。それはクラウディウスの大好物のきのこ料理に混入され、試食係もいつものようにその役目をすませた。もちろんアグリッピナとしめし合わせての演出である。クラウディウスは食欲を刺激させて、りっぱなきのこをつまむと、一気に呑みこんでしまった。すると彼はたちまち不快を覚え、意識を失ったが、ベッドに寝かされるとまもなく意識を回復した。ひどく吐しゃしたので命拾いし、アグリッピナは狼狽と恐怖に駆られた。こうなればもう一気にかたをつけないと、彼女自身のほうが危うくなる。そこで彼女は病人の枕頭に呼ばれていた侍医のクセノフォンに元首をすぐさま楽にさせるよう言い含めた。侍医のほうも飲み込みが早く、クラウディウスののどをくすぐって吐かせると見せかけ、彼がいつも使っている鷲鳥の羽に毒物をつけ、のどの奥につっこんだ。今度は効果てきめん、クラウディウスは一言も口がきけないまま、64歳の命を断った。
パラティン宮殿の門が大きく開かれた。ネロは近衛軍司令官ブルスを従えて近衛軍の前に現われた。ブルスは老練な将軍であるが、アグリッピナの推挙でこの要職に任ぜられていたので、全力を尽くして恩人の利益のために働く約束をしていた。元首の後継者を定めるこの重大な時期にその動向が最も注目されるのは元老院にもまして近衛軍であり、その点アグリッピナの読みに狂いはなかった。ブルスは事情を説明し、近衛軍は「最高軍司令官(インペラトル)万歳」と幸先のよい歓呼をネロに向って浴びせた。そのとき何人かの兵は歓呼をためらい、あたりを見回して「ブリタニクスはどこにいる」と尋ねたが、他の兵士達が同調しなかったので、彼らも結局大勢に押し流されてしまった。

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【女のルール・外国編】
2014.05.28 中国全土落下傘計画 湖南省編 1/10~きっかけは中国の女子大生
2014.01.31 初フィリピン・マニラ編 14/14 ~熾烈なキャバ嬢の世界
2013.12.05 第5次タイ攻略 後編 2/14~強気化する女達
2013.07.16 春のタイ 後編 ソンクランのはしご 5/8 ~ハーレムナイトinパタヤ
2013.01.23 タイ全土落下傘計画 5/17 ~シーラチャの隠し玉
2012.11.21 第二次ジャカルタ攻略 6/11 ~Blok Mの遊蔵の探求
2012.09.21|第二次タイ攻略 14/15 ハーレムライフの過ごし方
2012.05.22|ロシアっ娘と話してみました 1/2~比較文化論
2009.10.05: 働く女性は美しい 勤務地のステータス
2009.06.12: 殿方に問う なぜ給湯室を利用しないの?


実務家ケインズ 1/3~官僚としてインド省へ

よく知られているように、ケインズは単なる経済学者ではなかった。彼は官僚であり、政治家であり、また保険会社やいくつかの投資会社等の経営者として、さらにはアクティヴな個人投資家として、多年にわたりロンドンの金融街「シティ」を舞台に活躍をした。ケンブリッジ大学でも、正規の教職ポストにあったのは経済学講師としての通算わずかに数年間に過ぎず、むしろ大半の歳月(四半世紀に及ぶ)を会計官としてカレッジの管理運営に当たったのである。
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ケインズがささやかながら初めて株式投資に手を染めたのは、1905年の7月でマリン・インシュアランス・カンパニーの株式4株を160ポンド16シリングで買っているのである。そして引き続きその6ヵ月後に、マザー・アンド・プラット社の株式4株を49ポンド7シリングで購入した。
1902年にイートン校を経てケンブリッジ大学キングズ・カレッジに入ったメイナード・ケインズは、そこで数学を専攻した。24人中12位という成績で合格した。当面、彼の知的関心の中心は、経済学よりもモラル・サイエンスにあったように思われるのであるが、1905年秋頃から次第に経済学への傾斜を強めてゆく
文官試験への挑戦を決めてからも、及び腰のスタンスのため、その準備に集中した形跡は見られない。「僕はもう勉強し尽くしていて、10位以内には入れる自信を十分持っている。僕は1番だろうが10番であろうが気にかけないのだから、どうしてくよくよする必要があるの
2位合格でインド省へ
文官試験は104人中第2位の合格であった。一番になれなかったのは、皮肉なことに得意科目のはずの数学と経済学の不振のためであった。ケインズは「私は明らかに経済学について試験官よりもよく知っていた」と不満を述べた由であるが、要するに当時はまだ経済学が客観的で公平な試験になじむほど充分「制度化」されていなかったことによるものかと思われる。
> ダブルメジャーといい、文官試験といい、天才が興味の赴くまま、自由にやってる感あるなぁ。うらやましい才だ。


あんぽん孫正義伝

興味深いのは、孫のツイッターに対して差別的発言が、おびただしく寄せられていることである。これらフォロワーの声に対して、孫は「日本が好きだから貢献したいというのが迷惑ですか?」と答えている。この回答は律儀ともいえるが、在日韓国人を目の仇にする朝鮮人差別者には鉄面皮と映るかもしれない。
> ホリエモンもそうだけど、明らかな誹謗中傷にも、全部ではないものの、ちゃんと返信する律儀さ。これは俺にはできないわ…。
残飯を集めるのは女性たちの仕事でした。リヤカーを引いて近所の食堂を回り、残飯を集める。鳥栖は交通の要衝でしたから、九州全域から集まってくる行商人たちのための食堂や旅館も多かった。だから、残飯も大量に出たんです。集めた残飯は、大きな釜で一度炊くんです。消毒みたいなもんですな。あまり大きな声では言えませんが、密造の焼酎も作りましたよ。まず、ドラム缶にもろみを貯め込んでね。そいつを釜に移して炊くんです。沸騰したらフタをしっかりして、中の蒸気をビニールのパイプで逃がしてやる。その長いパイプを途中で水の中にくぐらせて冷やしてやると、蒸気が再び液体に変わる。最初に出てくるのはアルコール度数70くらいの濃い液体ですが、数十分するとアルコールがほとんど飛んだ液体が落ちてくる。これを混ぜ合わせるとアルコール度数30くらいの焼酎ができるんです。密造酒のマッカリは小麦粉から作るんです。小麦粉をふかし、それを麹で発酵させた後に蒸留する。だから孫さんの家はいつも小麦粉を買いにくるお得意さんでした。買いに来るだけでなく届けにも言っていましたから、あの家の中のことはよく知っています。本当に狭い家の中に何人も住んでいて、豚小屋まである。その豚小屋の奥で焼酎を密造していました。とてもじゃないけど私は飲む気がしなかった。あそこの豚は、焼酎の搾りかすを食わされていました。搾りかすと言っても、アルコール分はたっぷり残っている。だからそれを食わされた豚が真っ赤になってフラフラしてる。狭い豚小屋にぎゅうぎゅうに詰め込まれて、残飯ばかり食わされ、糞も小便も垂れ流しです。だから地面がぬかるんで、鼻が曲がりそうな強烈なにおいがする。病原菌が感染したんでしょう。足が腐った豚もいた。しかも、その場所で豚を絞めるんです。解体して肉やホルモンを取る。食べる部分以外は朝鮮部落前にあるドブ川に流していたからすごい臭いなんです。豚の血も平気で流していました。そこに雨なんかが降ると、もう大変です。ものすごい臭いが周辺に流れてくる。
朝鮮部落が消えたのは、国鉄の分割民営化に伴ってのことだった。国鉄の資産を受け継いだ清算事業団が、部落に住んでいた朝鮮人に立ち退きを求める裁判を起こした。その裁判に住民側が敗訴した結果、全住人が朝鮮部落から姿を消した。
孫一家は正義が小学校に上がる頃、鳥栖の朝鮮部落を離れ、北九州市八幡西区に移り住んだ。JR黒崎駅から車で10分ほどのところである。在日韓国・朝鮮人が比較的多く住む場所として地元では知られている。鳥栖を離れた理由は、三憲(孫正義の父)の生業が養豚や密造酒づくりから、金融業という”正業”に変わったからである。三憲の金融業へのこの転身も、元はと言えば、祖母のの李元照がはじめた水商売女相手の小口融資に発端があった。黒崎に事務所を構えたのは、近くに八幡製鉄所があったからです。「鉄は国家なり、だ。製鉄所は絶対につぶれない。製鉄所がつぶれる時は、国がつぶれる時だ。だから、八幡の工員にいくらカネを貸しても、取りっぱぐれは無い」というのが三憲さんの計算でした。
孫は73年9月久留米大附設高校を正式に退学した。74年2月、16歳でアメリカに渡った孫は、英語学校で数ヶ月間、語学を学び、サンフランシスコ郊外のセラモンテ・ハイスクール2年生として編入入学した。一刻も早い大学進学を志望していた孫は大学入試検定試験を受験し、これに合格して、渡米から1年半後の75年9月、ホーリー・ネームズ・カレッジに入学した。
> 高校中退->大学検定 は俺と同じだな。孫さんもそうだとは、知らなかった。好感のもてる学歴だw
孫の相談というのは、完成したばかりの自動翻訳機の売り込みだった。孫はシャープ中央研究所所長の佐々木にあらまし次のような内容の話をした。自動翻訳機を風呂敷に包んで、まず大阪・門真の松下電器を訪ねた。ところが、松下では門前払いだった。次に訪ねた三洋電機でも、話も聞かずに追い返されてしまった。「そこで最後の頼みの綱として、アメリカで知り合った私に電話してきたというわけです。孫君はお父さんの三憲さんと一緒にシャープの研究所を訪ねてきましたよ。」佐々木は孫が風呂敷の中から取り出した自動翻訳機を一目見るなり、これは脈があるなと感じた。商品としてはまだ荒削りだが、そこにシャープが持っている電卓の技術などを取り入れれば、立派な商品になる。佐々木は結局、孫の技術を2000万円で買った。
元野村証券企業部長をスカウト
孫が慢性肝炎で長期入院中、ソフトバンクの社長、会長を務めた大森康彦は孫より2回り以上年上である。大森は1954年に慶応の経済学部を卒業して野村証券、日本警備保障に引き抜かれて同社の副社長となり1983年ソフトバンクの社長となった。闘病生活終えた孫は社長に復帰し、役員に40歳の定年制を導入しろという佐々木の進言によって、大森を実権の無い会長に追いやった。大森がソフトバンク入りしてわずか3年後の86年2月のことだった。大森の解任劇は数分で決着がついた。
稲森和夫との対決
LCRとは、ダイヤルした電話番号に応じて、最も通話料金の安い電話会社を自動的に選択するシステムのことである。孫がなぜLCRに社運を賭けたのか?1985年4月1日のNTTの発足によって、初めて電話サービスへの民間企業参入の道が開かれた。これよって京セラを中心とした第二電電(現KDDI)、日本テレコム、日本高速通信などの電話会社が相次いで誕生した。NTTの民営化で生まれた新電電の電話サービス事業は、1千億円以上の市場が見込まれる手つかずのフロンティア分野だった。だが、新電電の電話サービスはNTTより電話料金が安いというメリットがある半面、その回線を使うには、相手の電話番号を回す前に4ケタの数字をまわさなければならない煩雑さがあった。また、かける地域によって既存のNTTの電話の方が安かった。孫はLCRの売り込み先として、京セラ社長の稲森和夫が会長を務める第二電電に狙いを定めた。そこにはオーナー起業家の稲森ならば、即断即決が望めるという孫なりの計算も働いていた。
孫は試作品のEA2のアダプターをテーブルの上において、この製品がいかに画期的なものか熱弁をふるった。当時、孫は29歳だった。孫とは親子ほど年の離れた稲盛は、孫の説明が終わるとやおら口を開いた。「ようわかった。うちが50万個買うから、うちだけに売ってくれ。他には売らんようにしてくれ。この条件でどうだ?」 アダプター1個の値段は4000円だったから50万個で20億円という大きな商談が、稲盛のこの一言でまとまるかと思われた。だが、孫には不服だった。孫はEA2アダプターを第二電電だけに売ろうとは思っていなかった。新しく誕生した電話会社全てとロイヤリティー契約をし、利益を総取りするというのが、孫の考えだった。だが、結局は老獪な稲盛に押し切られる形となり、第二電電への販売契約にサインさせられる結果となった。孫は翌日、再び稲盛を訪ね、昨日サインした契約書を返して欲しいと掛け合った。孫の虫のいい要求に稲盛は激怒したが、ひたすら頭を下げる孫を見て、なぜか契約書の返却を約束した。そのわけはすぐわかった。孫が開発したアダプターとほぼ同種のアダプターを間もなく京セラが開発したのである。情熱一本やりの孫と海千山千の稲盛では、最初から勝負にならなかった。この時点の孫の器量は、まだこの程度だったのである。

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佐野 眞一

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【国内の差別被差別構造】
2014.05.12 日本全土落下傘計画 九州編 7/8~福岡ドメ
2013.07.19 同和と銀行 2/6 ~同特法と開発利権
2013.06.18 差別と日本人
2013.03.18 藤原氏の正体 4/4 ~藤原とお公家
2012.03.12 同和中毒都市
2012.01.27: 話題の大阪の地域別所得は
2011.07.15: 松本復興相、宮城県の村井知事を叱責
2011.04.22: 美智子さまと皇族たち1/4 ~天皇制と皇室
2010.08.10: 母と差別
2010.04.02: 野中広務 差別と権力 ~被差別の成立


物語 シンガポールの歴史 3/3~嘘だらけ?

ゴー・チョクトン時代 閣僚給与の引き上げ
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ゴー政権を支える有力閣僚のトニー・タン教育相とダナバラン国家開発相の辞任が発表された。タンは経済界(銀行)に復帰し、ダナバランは自分で事業を始めたいというのが辞任の理由だった。1993年には、ヨー国防相も政治家を辞めて市民生活に戻りたいとの意向を表明した。

ちなみにシンガポールの国家予算は、軍事、開発、教育に各3割ずつ使っているので、この3人がいかに重要なポストにいたかというのがわかる。

しかし、立て続く官僚の辞職にゴー首相は、シンガポールは有能な彼らを必要とするのに、極めて由々しい事態であると嘆いた。そしてこれが国家指導者を確保するための次の措置へとつながり、その施策が国民の間で大きな議論を呼ぶことになる。閣僚や高級官僚の給与を大幅に引き上げ、その際に参考にしたのが、民間の銀行家、弁護士、外国企業の専門経営者などの6つの職種の高級所得者上位4人、合計24人の所得で彼らの年間平均所得を算出してその2/3を最も等級の低い閣僚の所得、そして首相はその2倍としたのである。この結果、首相の給与は55万2000シンガポールドルからまず114万8000シンガポールドル(8380万円)に引き上げられ(1994年当時のシンガポールの一人当たり国民所得3万シンガポールドルの約53倍)、その後も段階的に引き上げられて最終的には160万シンガポールドル(1億1680万円)まで引き上げられることになった。この措置に対して、野党や一部の国民から高額過ぎるとの批判が起こったが、政府は必要な措置であるとして、批判をはねつけた。

高額所得者平均所得×2/3×2=115万シンガポールドルということは、平均で86万シンガポールドルか…


物語 シンガポールの歴史 2/3~国の運営

マスメディアの管理
人民行動党政権が誕生した1959年当時、有力新聞は英字紙の「ストレート・タイムス」、華字紙の「南洋商報」と「星州日報」の3紙であった。これら新聞は人民行動党に批判的論調を取っていた。そのため人民行動党は新聞管理に乗り出す。まず、「ストレート・タイムス」紙に、新聞発行認可の見直しを示唆するなどの圧力をかけて、親人民行動党の経営者と入れ替える。1971年には、政府の言語政策を英語教育重視であると批判した新聞の取り締まりや廃刊処分を行った。1977年に「新聞・印刷紙法」を改正し、個人が新聞社株式の3%以上持つことを禁じて、華字新聞を華人企業家一族の手から奪い、さらに新聞管理の総仕上げとして、シンガポールで刊行されるすべての新聞を一つの持ち株会社傘下に統合したのである。テレビも、現在は1999年に設立されたメディアコープ社の独占支配下にあるが、同社を100%保有するのが政府系企業の持ち株会社テマセク・ホールディングス社である。
1986年に政府はシンガポールの内政に干渉したと政府が判断した外国雑誌や新聞の販売部数を制限できる法律を制定し、アメリカのタイム誌が、政府の野党管理を批判的に報道したとの理由で、シンガポール国内での販売部数を18000部から2000部に制限される。これ以外にも、香港発行の「ファー・イースタン・エコノミック・レビュー」誌やイギリスの「エコノミスト」誌などが規制対象となった。
野党の抑圧
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物語 シンガポールの歴史 1/3~国の成り立ち

イギリス東インド会社はインドを植民地化するとインドを拠点に中国との交易を望んだ。当時はインドと中国間のノンストップ航海ができず、途中で水や食料を補給する寄港地を必要とした。それにはマラッカが最適だったが、マラッカは1511年にポルトガルが占領し、その後、1641年にイギリスのライバルであるオランダの手におちて、その支配・影響下にあった。そのためイギリス東インド会社は、マラッカよりも南の地にイギリス船舶の寄港地を確保することを目指す。この重要任務を負ったのが、イギリス東インド会社職員で、当時のスマトラ島のイギリス植民地ベンクーレン準知事のスタンフォード・ラッフルズである。ラッフルズは14歳の時にイギリス被害インド会社の職員となり、ほとんど教育を受けてないにもかかわらず、マレー語をはじめジャワ語などの地域言語に精通していた。またジャワ史を記すなど熱心な博学の東南アジア地域研究者と言える存在でもあった。
1819年1月28日、ラッフルズは港として優れた格好の島を見つけた。それが島南部が天然の良港で飲料水の補給も可能なシンガポール島である。シンガポール島はジョホール王国の領土に属し、支配者スルタン(国王)は別の島に住み、オランダの影響下にあることがわかる。シンガポールの植民地化にオランダが反対することは確実であった。しかし、さらに事情を調べるとイギリスに都合のいいこともわかってき、現在のスルタンは。1812年に前のスルタンが死去した後、兄弟間の王位継承争いの末に弟が就任したもので、兄は不満を抱いていた。ラッフルズは、この王位継承争いを狡猾に利用し、兄を正当なスルタンであるとして就任させ、交換条件として、スルタンに毎年5000ドルの年金を支払う条件で、シンガポール川河口付近一帯をイギリス東インド会社の領土とすることを認めさせたのである。1819年2月6日、両者の間で条約が結ばれた。イギリス植民地シンガポールの誕生である。しかし、この条約締結はイギリス東インド会社本部の了解を得たものではなく、明らかにラッフルズの越権行為だった。また、ラッフルズが懸念した通り、オランダはイギリスのシンガポール植民地化に反対し、ロンドンのイギリス東インド会社本部も、ラッフルズの勝手な行動を非難する。しかし、紆余曲折があったものの、最後には既成事実が物を言い、オランダは反対を取り下げ、イギリス東インド会社本部も承認したのである。


性欲の科学 3/3~支配しているのは女性

男性作家が書く官能小説は、ほとんどすべてが、ペニスの長さを半インチ単位まできっちり描いているのに、ロマンス小説では、長さが明かされることはめったにない。男の象徴の実際の見た目は重視されていないのだ。それよりも奇妙なことだが、ペニス内部の血液の働きのほうが、はるかに重視されている。クリスティン・フィーハンの「激しく燃えて」に、こんな一節がある。「血が彼のペニスに湧き上がり、どんどん熱くなる。大丈夫かしら、こんなに熱くなって」。そしてヒロインがヒーローにキスをすると、「血は彼の肉棒の中でドクドクと音を立てた」。シロ・ウォーカーの「ジプシーの炎に触れて」にも「彼のペニスが奮い立った。ペニスの中で、血が激しくドクドクいっている」。「アラインの血がペニスの中で、ドクドクと激しく波打つ」。エレン・サーブルの「炎の日々」では「血が彼のペニスの中を勢いよく流れ」始めてから、「ペニスが熱い血で脈打ち、勃起する」までの様子が描かれている。
男性は、どのセクシュアルキューでも興奮する、ひとつのキューだけで性的興奮にいたる能力を「ORのパワー」と呼んでいる。ナイスな胸でもいいし、むっちりなお尻でもいい。ミルフでもいいし、おしゃれなヒール靴でもいい。しかし、女性はもっと要求が多い、心理的な性的興奮を認めるまでに、たくさんの判断基準をクリアする必要がある。夫になる男は、経済的に不安がなく、なおかついい父親になりそうで、なおかつ自信に満ち溢れていなければならない。このように、複数の基準を充たして始めて反応を起こす能力を「ANDのパワー」と呼んでいる。
あなたがストレートの男性なら男同士のセックスを描いたゲイポルノは、生理的嫌悪感を覚えて、とても見る気にならないかもしれない。しかし、もし勉強のつもりでちょっと見てみるなら、女性がポルノを見たときの気持ちを味わういい機会になる。つまり、体のパーツのクローズアップがあまりにも多くて、あまりにもどぎついように思えるのだ。
ウケの男は、服従することに官能的な悦びを覚えるタイプなのだろうか? これは単純に答えられる問題ではないようだ。「実際に主導権を握っているのは、ウケのほうだよ。ウケがペースを決めるし、ウケが入り口の番人を務める。女だってそうでしょ。セックスがどんなものになるかは女次第なんだよ。ウケは進んで支配される立場に身をおくのよ」。ゲイのほとんどが、セックスの先導役を務めるのはウケのほうだと認めている。
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性欲の科学 2/3~見るのも見せるのも好き

「オレはヤツにこう言った。男って、みんなゲイだよね? レイはこう言った『おいおい、なにたわけたこと言ってんだよ』。じゃあ、おまえ、ポルノは好き?『ああ、好きだよ』。へえ、じゃあおまえは、女と女のヤツを見るわけ?『いや、オレが見たいのは男と女がやっているヤツ』。じゃあおまえは、男がふにゃチンでもいいの?『いやオレが好きなのは、おっきくて、固くて、うずいているような…』 ほーらね! お前だっておっきなのを見たいんだよ」
女性よりも男性のほうがペニスに興味があり、はるかに強い関心がある。

そうだね、男ってすごい好きだねw そして乳房の大きさに対しては女性が男よりも強い関心があり、「こんな胸ですいません」と謝ってくる女性もいる。

では、日本のアニメに描かれている女性はどんな感じなのだろうか? 一番多いのは女子高生だ。目は赤ちゃんのようにつぶらで大きく、声は極端に高い。高校の制服を着ていることが多く、プリーツスカート、ベスト、サドルシューズが定番となっている。ところが、こうした「若さ」を示すキューをたくさん備えているにもかかわらず、ありえないくらい胸が大きい。さらに、お知りは完璧なまでに丸く、引き締まり、ウエスト対ヒップの比の値が小さく、足が小さい。そして、特筆すべきことに、日本のアニメにはとてつもなく大きな男がたびたび登場し、ときには少女の腕より長い男が登場する。

足小さいんですか? アニメマニアの人、教えてください。


性欲の科学 1/3~魅力的な女性

人気有料アダルトサイトの多くは、訪問者の75%程度が男性だという。ということは、訪問者の4人に1人は女性ということになり、男より少ないとはいえ、看過できない数字になっている。しかし、ポルノに実際にお金を払った人となると、男女の差がグッと広がる。オンラインアダルト業界が最もよく利用している決済代行会社CCビルによれば、アダルトサイトの会員のうち、女性名のクレジットカードで会員登録している人はたったの2%なのだという。そのうえ、女性名は会員本人の者では無い可能性が高いらしい。CCビルが女性名のカードから料金を引き落とすと、怒った奥さんやお母さんから、まちがって引き落とされたとして、返金を要求されることが多いからだ。男性がポルノにお金を落とすのをいとわないというのは、「見る」ことへの意欲の高さを最もよく示していると思う。
男性の「目」を惹きつけるセクシュアル・キューについて考えてみたい。もちろん男性だって、「心」を惹きつけるセクシュアル・キューにも反応する。しかしインターネットを見れば、たいていの男性が、文章を読んだり人とやりとりしたりするより見るほうがすきなのは、火を見るより明らかだ。しかし、まったく意外なものもある。男性に最も影響力のあるキューは、視覚的なものではなく、年齢的なものだ。「年齢」は、検索ワーズ、ウェブサイトのコンテンツ、ポルノ動画のどれを見ても非常に重視されている。ドッグパイルの性的検索ワーズで一番多く使われている形容詞は、年齢を表す言葉だ。そして高く評価されるのは、「若さ」だけではない。大人の女性の人気は、大人気のティーンにはとても及ばないが、19歳を検索した人より、50歳を検索した人のほうが多いというのが興味深いところだ。35~50歳のポルノをミルフ(マザー、アイド ラ イク トゥ フ ァックの頭文字を取ったもの)。18~20歳のポルノはティーンズもの。21~35歳のポルノは特に呼び名は無い。ただのポルノだね。


中国のエネルギー事情 6/6~原子力発電

09年4月、中国は原発の「積極的開発」から「強力的開発」へと開発方針を転換した。2010年3月、政府は、20年までに原発能力を4000万kWにするという目標を引き揚げて8000万kWにすることにしている。10年12月時点で中国の原発の設備容量は1080万kW、電源構成の中でわずか1.2%を占めているにすぎない。建設中の原子力発電所は25基、発電能力が2773万kW。稼働中の原発設備は13基だが、その原子炉に関する自主開発技術・国産化はまだ低い。これまでに導入された原子炉は、国産設計、フランスから導入したPWR型炉、ロシアのVVER-1000(PWR型)、カナダのCANDU-6と様々である。現在、6箇所の原子力発電所で、ユニット13基が稼動しており、このほか、08年より嶺澳(広東省)、秦山・方家山(浙江省)、紅沿河(遼寧省)、寧徳(福建省)、陽江(広東省)などの原発基地が拡張または建設中で、09年以後には、三門(浙江省)、海陽(山東省)、腰古(広東省)、栄成(山東省)、福清(福建省)、防城港(広西チワン族自治区)がそれに続く状況である。こうした中、中国原発も技術蓄積・成長により、国産化率が80%を声、三門・海陽のように第3世代(AP1000)の技術を導入した原子炉の建設も本格化している。
原発建設・運営において、中国は積極的に外資・技術導入を行っている。例えば、09年12月に広東核電集団がフランス電力公社(EDF)と合弁し、広東省台山原発有限公司を設立した。その合弁は、相手の技術・運営管理ノウハウを吸収するためである。同発電所は、フランス側の欧州加圧水型原子炉(PWR)の第3世代技術を導入する世界で3番目の原子力発電所であり、第一期工事では発電機2基を建設、出力は175万kW、年間260億kWhの電力を供給、CO2排出量を年間約2300万トン削減できると見られている。また、中国の原発設備の大量導入により、ウランの需要が増大している。それにより日本などのウラン調達にとって獲得競争がさらに厳しくなり、国際市場におけるウラン資源争奪の激化や中央アジア、オーストラリア、カナダなどウラン資源保有国のウラン価格が上昇することも予想される。さらに、中国における原発能力の短期間での急拡大については、人材養成、原子力の保安、設備の品質保証などの問題も懸念される。


中国のエネルギー事情 5/6~多様な発電

09年の石炭生産量は21億2300万トン、中国が群を抜いた第1位の石炭生産国である。石炭生産基地は主に内陸部(山西省、陝西省、内モンゴル自治区西部など)に分布し、その生産量が圧倒的に多い。山西省の08年の生産量は6億5600万トンで、中国の生産量のほぼ24%を担う。内モンゴル自治区は4億7000万トン。石炭産業体制・組織は、主に神華集団、山西焦炭集団、大同炭鉱集団、中煤能源集団公司などの国有主要・大型石炭生産企業と地方政府系の炭鉱企業および農村部の郷鎮(田舎町)炭鉱企業(中古型炭鉱)から成り立っている。炭鉱の経営・生産形態は、前述の組織のように、中央政府に組織する国有主要炭鉱、地方政府系炭鉱、農村部の郷鎮炭鉱の3者に区分することができる。
近年、田舎町炭鉱ではかなり生産量が拡大してきたが、この背景には国内石炭需給の逼迫に加え、不動産業界のように成金、超過利潤の儲かる分野ということで、炭鉱ビジネスに従事する人が多くなったという事情がある。山西省など石炭産地には、数多くの「煤老板」(炭鉱のボス)が現れている。中国では、長い間、炭鉱とくに田舎町の中小炭鉱が、安全を軽視、利益ばかりを追求する傾向があり、事故が多発している。中国政府は90年代半ばから郷鎮炭鉱の縮小を決定し、2000年の石炭生産量は約10億トンまで落ち込み、郷鎮炭鉱の生産量は90年以降で最も低下し、2億6400万トンとなった。だが経済の高度成長を伴う旺盛な国内の石炭需要・消費を満たすため、02年からは再び田舎町の中小郷鎮炭鉱数が増すとともに生産量も増加し、09年の石炭生産量は21億2300万トンとなっている。


日本人へ 国家と歴史篇 6/6~欧米的とは?

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ローマの食糧サミットでは150カ国もの代表が演説をした。ブラジルのルラ大統領は予定の5分を大幅に超え、20分近くもしゃべり続けた。その直後が福田さんである。300人ほど米国などを刺激しそうな部分をわざわざ省いて、短めに終わった。誰の反発も買わない、大人しい語りはほとんど報じられなかった。会議の片隅に目をやると、官僚が20人もの日本人記者を集めて会議内容を逐一伝えていた。国際会議で必ず目に刷るこの光景を、以前は異様と思っていたが、少しはなれて眺めると、その集団は大声一つあげず、壁の絵のようにある。近付けば、ささっと資料を手渡してくれる。国際会議で日本の代表には自分の言葉で語り、もっと目立って欲しいと思った時期があった。でも最近は、何も無理しなくて良いと思うようになった。場の邪魔にならず、誰とも対立せず、決して目立たない。それはそれで一つの持ち味で、良いのではないかと思う。-

私も全国有化に向う日本経済や、多様性を許容しない日本文化を憂いた時期もあったが、それが日本だ、変わらなくていいし、日本でそのままやっていれば良い、ただ、俺はそれに付き合わないだけだと思うようになった


ODAと環境・人権 4/4~アジア的市民運動

日本において、古来から稲作がおこなわれ、これを中心とする村落共同体が形成されて、それが水管理と共同作業の必要性から、異なった思想や行動を厳しくチェックする伝統的な秩序社会を形成した。その基盤の上に幕藩体制が敷かれて人々を支配し、秩序社会を一層強固なものとしたため、自由で合理的な個人の能力を圧迫し、市民社会の形成が遅れた。そのほか、長期にわたる鎖国政策と、海で外界と隔てられた地理的条件のために、個人の思考・行動パターンは、国・藩・村・家といった枠の中に閉じこもり、世界的な視野に欠けるきらいがあって市民運動もその例外ではない
日本と西欧諸国の市民の物の考え方、行動原理がこのように違っている理由は、学校教育の違いに遡ることもできよう。西欧諸国における教育の基本は、現状、事実の分析と、その原因、およびそれらを前提として何をなすべきかであり、自ら考え行動する人間を作るためになされる。他方日本における教育は、明治以来、欧米に追い付くことを目指したいわばHow TOと実学であって、根本的な理念や哲学は既に存在することを前提としており、近頃過熱気味の受験戦争のためますますテクニックに堕するものとなっている。このような教育の結果、多くの日本人の行動がステレオタイプで均一化していることは、静的な世界に対する効率的な対処の仕方としてのみ有効である。日本人の多くはなぜそうするのかといった基本的な問いをそもそも発せず、また発したとしても、その問いまたは答えが行動を規定する原理とはならず、机上の空論として語られ、成立するのみである。それでは激しく変化する世界に正しく対応する考えも行動も生まれない。
したがって、市民運動と言っても、グローバルな視野に立って、真に援助や支援が必要な所に援助を行おうとする動きを示すものは、まだわずかである。そして、一部の市民運動には「お上」に対峙することを自己目的化したノイジィ・マイノリティの行動と見られても仕方が無い一面がある。彼らの中には、国内の問題を国内のみに限定された視野から、国際的に見ればバランスを失すると言わざる得ない過大評価をしたうえ、国内で適正な手続きを踏んで十分な議論を尽くさず、国際的なフォーラムに持ち出し、自国の政府批判のみをこととして、他には目もくれず、現地観光をした後、帰国して、ひたすら外圧を期待するといった行動を取るものがある。このようなふるまいは、グローバルな視点に立って活動している西欧諸国のNGOにとっては奇異な現象であり、日本人は、国際的視野と取り組みに欠けるとの批判を招きかねない。


中国のエネルギー事情 4/6~広がる海外での探鉱・開発

CNPCが92年にカナダ・アルバータ州のノースとウィング油田に参入したことをその嚆矢とする。CNPCは現在、海外における原油の年生産能力6000万トン以上の生産体制を構築している。一方Sinopecの海外進出は遅れているが、イランとヤダバラン油田開発契約、カナダ・アルバータ州のオイルサンド開発プロジェクトへの参加の動きも見せている。またSinopecはサウジアラムコと80:20の権益率で面積38000平方km、契約期間5年のガスの探鉱・開発契約を締結した。
活発化する海外投資・M&A
09年の中国の対外直接投資残高は約3000億ドルで、非金融類対外直接投資額は約480億ドルで世界6位、中国の対外投資は主に石油・エネルギー・資源などの鉱物に向けられている。うち投資の大半は、海外油ガス田・資源企業など資産・権益への買収である。08年9月~10年4月までの時点で、対外M&A・投資のプロジェクトは、アンゴラの32ブロックの20%権益の取得、イラン北アザデガン油田の開発契約、シリアにおけるカナダの油田資産や石油企業の買収等、十数件に上っている。


中国のエネルギー事情 3/6~輸送経路(パイプライン地図は重要だ、今回は読んどけ)

> 中国の壮大なエネルギー計画が一望にできる。一度見ておいても損は無いであろう。日本の総理大臣にエネルギー政策・国防・外交にもっと時間を割いてもらえるよう、反原発、年金や消費税、国内の線引きのことは、一度忘れよう。
1.原油パイプライン
①東シベリア原油パイプラインの支線ルート
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01年9月、中ロ両国はアンガルスクから満州里を経由する中国東北部への原油パイプラインの建設に関し、合意に達した。しかしながら、日本が押す太平洋ルート案の浮上、石油資源量が未確定であること、環境問題への懸念などで、最終的にロシア政府は、04年末シベリア原油パイプラインとして、イルクーツク州のタイシェットを起点にバイカル湖の北川を回って中国国境に近いスコボロジノまで、約2757kmの区間を東シベリア・パイプラインにおける第1フェーズ、スコボロジノから太平洋沿岸のコジミノ湾のナホトカまでを第2フェーズとして建設することにした。なお09年2月、中国とロシアの間で「融資250億ドルと石油の交換」の合意が成立するとともに、東シベリア・パイプラインの中国向け支線を建設し、20年間に渡り年間1500万トンの原油を中国に供給する契約が調印されている。
②カザフスタン-新疆の原油パイプライン
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CNPCは、90年代後半、カザフスタンのアクチュビンスク油田開発を行うと同時に、カザフスタン西部から中国新疆地区まで約3000kmの原油パイプラインの建設を進めカザフスタン側と合意している。この建設は、97年にCNPCがカザフの国営石油天然ガス会社アクトベムナイガスの株式
チャウッピュー近郊の島60%を買収した際、付帯したプロジェクトでもある。
③チャウッピュー-昆明-重慶パイプライン
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中国に輸入される原油のほとんどは、マラッカ海峡を経由している。ここはアメリカ海軍の支配下に置かれ、また海賊も頻出しているため、なるべくこれを避けて前述のような陸上のパイプラインを通じて輸入したい。そこでSinopecと雲南省地方政府・中央政府は、以下のようなルートを計画、建設し始めた。中国は輸入原油の一部を対象に、インド洋に面するミャンマー西部の深水港チャウッピューを拡大・整備し、そこから原油パイプラインで中国西南地域に輸送することを計画している。07年1月にCNPCとMOGE(ミャンマー石油ガス公社)は、同パイプライン敷設に向けてFS(事業化調査)作業を実施することに合意した。同パイプラインは口径813mmで輸送能力が年間2200万トン、延長距離は1100kmとなる。この原油パイプライン建設にあわせて、昆明・重慶のそれぞれに100万トン精製能力のある製油所を建設する計画を建てている。これにより、中国西南地域の石油供給不足の問題は解消に向うだろう。全長2000km余り、その原油輸送能力はマラッカ海峡を経由する輸入量の約1/15に相当する。同パイプラインは総額約20億ドルを投じ、2013年に完成する予定である。
> 現在、無事に稼動しているようですね。
最近は、石油を輸送する国内タンカー不足が懸念されている。これまで、中国原油と製品の輸送を担当するタンカーの80%は外国のタンカーをリースしてきた。「有事など政治リスクが出たら、ある大国が輸送通路を脅かすよりも、中国の輸入原油の輸送を担っている外国船会社を制裁する可能性が強い。それは中国の輸送通路を封鎖させることに等しい」と警告を発している。
2.天然ガスパイプライン
①中央アジア・パイプライン
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07年7月、トルクメニスタンのベルディムハメドフ新大統領が訪中した際、CNPCは、トルクメニスタンの国家炭化水素管理利用庁および国家天然ガス公社との間で天然ガス取引合意および同国アムダリア川右岸の天然ガスの共同開発に関する契約に正式に調印した。向こう30年にわたって、トルクメニスタンは計画中の中央アジア天然ガスパイプラインを経由して、中国に向けて毎年300億㎥の天然ガスを輸出することになっている。同パイプラインは、トルクメニスタンからウズベキスタンとカザフスタンを経由して中国に向うラインで、「中央アジア天然ガス・パイプライン」と称され総延長は2006kmで、トルクメニスタン・ウズベキスタン国境から、カザフスタン、中国国境(新疆ホルゴス)まで1818kmとなっている。
②ロシアからの天然ガス・パイプラインによる輸入
06年3月、CNPCとロシアのガスプロムは、ロシアのアルタイから新疆まで総延長距離2800kmのパイプラインを建設し、中国に年間300億㎥の天然ガスを供給し、10年から供給スタートというめどで検討が行われている。しかし天然ガスの供給価格をめぐって折り合わず、計画の進行は遅れている。
③ミャンマーからのパイプラインによる供給
チャウッピュー近郊の島からミャンマー中央部を経由、中国雲南省まで総延長2000km、10億4000万ドルを当時、供給源として、ミャンマーの大規模ガス田、A1鉱区の善良を中国に売却することになっている。
【国家創設の野望】
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2014.02.27 人民元・ドル・円 1/5~中国建国まで
2014.01.22 ソ連解体後 5/6~連邦解体を促進した「8月クーデター」
2013.05.02 孫文 3/5 ~革命
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2012.04.09|金融史がわかれば世界がわかる 5/6~FRB設立時代
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2010.08.17: 香港領事
2009.12.22: 金融vs国家 ~金融史の観点から歴史を読む
2008.10.01: オレはオレの国を手に入れる




日本人へ 国家と歴史篇 5/6~ブランド品にはご注意を

イタリアの行政当局はなぜか、製品の30%だけでもイタリア国内で作られていれば「イタリア製」と認めているらしい。それで、日本でも知られているブランドのいくつかは、70%を中国で生産した製品を輸入し、残りの30%にあたる部分だけをイタリア国内で作って「メイド・イン・イタリー」と釘打って売り出している。しかもその30%ですらも、イタリアに居る中国人が作っていると暴き出す。低賃金で働くイタリアに住む中国人となれば不法入国者であるのはもはや説明の要も無い事実だが、この番組も片言ながらもイタリア語で答える一人を除く全員の、偽造のパスポートを次々と映していく。そしてこの人々が製造終了後のバッグに貼り付けているブランドの名札が、プラダでありドルチェ&ガッバーナであるのにもカメラは容赦しない。
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番組はこの後で、イタリアに住むイタリア人の下請け職人達への取材に移っていく。イタリアの職人の技能への評価はすこぶる高いが、高級ブランドもデザインと材料をすべて提供した上で、製造はこの人々に委託するのが一般的だ。おかかえのお針子たちに作らせていたのは昔の話で、オートクチュールよりもプレタポルテ・クラスの品に主力が移った今では、優秀な下請け職人を確保できるか否かが最高級ブランドの死命を制するほどになっている。だがやはり彼らの工賃は不法入国者であろうとなかろうと、イタリアに住む中国人には太刀打ちできない。中国人を使った場合の一個あたりの工賃が30ユーロであったのに対し、イタリアの職人となると、安いものでもその3倍、並の品でも5倍はもらわないと、きちんとした仕事はできないと言っていた。となればプラダやドルチェ&ガッバーナの製品、画面に映っていたのは布地のバッグだったのでそれと同じものの価格は、他のブランドの品の少なくとも1/3でなければならないではないか。私もこの番組のレポーター女史と同じように、中国人が製造しているからダメ、と言っているのではない。


ODAと環境・人権 3/4~工業化以降

工業化 ゆきすぎた政府保護と国内市場育成の不足
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発展途上国の近代化には工業化が不可欠である。工業化はインドのように独自の社会主義型社会の建設を目指し、重化学工業部門を公営化して資本財の国内生産を増加し、他の分野に対する投資を拡大する貿易非依存型の循環が測られる場合も、ブラジルやメキシコのように消費財の輸入代替からしだいに重化学部門、資本財などの生産部門の工業化に着手し、輸出振興に映るように発展的になされる場合もある。しかし工業化が帰って累積債務を生み、国内の経済発展を阻害していることも多く、その要因には輸出用農産物の場合と共通のものがある。
輸入代替工業にしろ輸出振興工業にしろ、国を興すための工業化には金融・財政・税制上の優遇・保護措置がとられるのが普通である。そのような政府主導の公営企業は、ややもすれば非効率に陥り、時期を見計らって徐々に民営化し、外国製品と競争させるなどの措置を取らなければ製品の品質向上はおぼつかず、経営と製品の両面で国際競争力を欠くことになる。1982年に外資の導入で大幅に改善されつつあるものの、かつては注文してから手に入れるまで年月を要し、旧態依然たるモデルを生産していたインドの自動車産業などはその典型である。


中国のエネルギー事情 2/6~中国オイルメジャー

国家エネルギー委員会は、国際レベルで、エネルギー供給確保、地球環境問題への対応・調整に取り組もうとしている。さらに外交部、国家安全部、軍の主要責任者を委員とする目的は、海外からの石油・天然ガスなどエネルギー輸送のシーレーンおよび南シナ海、東シナ海あるいは海外において、エネルギー生産・輸入などをめぐって紛争が生じた際、速やかに対応するためであると考えられる。周風起中国エネルギー協会副会長によれば、「エネルギー問題はいつも国際紛争を誘発します。中国の海外でのエネルギーの利益は最高の基準の保証を得なければならず、常に政府の間で簡単に交渉して解決する問題ではありません。必要な時、軍隊は介入し、特に海軍は介入する。もし私たちが砕氷船をもって他の国の軍艦と対抗するならば、明らかに劣勢なのです。」 また、中国石油経済委員会の汪国良主任が、「世界で数多くの国がエネルギー安全保障を強化する中、日本はなぜ政府系の『石油公団』(04年、独立行政法人 石油天然ガス・金属鉱物資源機構に改組)の組織・機能を縮小し、他の組織と合併しようとするのですか?
中国政府と石油企業は過去の人海戦術の開発の政策を転換し、今は積極的にメジャー等の外国企業の投資を受け入れ、探鉱・開発技術および管理方法等を取り入れることで、現在の原油生産水準をできる限り維持し、新規油田を発見することを目指している。
外資導入による開発政策 80年代に入って以来、中国政府は石油生産の水準を維持・発展させるため、既存油田の老朽化に備え、沖合い大陸棚の探鉱・開発政策を実施し、82~92年の間に3回の海洋鉱区国際入札を行って、外資導入による海洋石油開発政策を推進した。その結果、渤海南部および西部の日本の開発協力、どう中部でのElf(米国、のちにトタルに買収された)、北部湾(海南島の北西、トンキン湾)でのトタル、鴬歌海(同島の南西海域)でのARCO(米国)の協力などが限定的ながら実現した。
中国の三大石油メジャー
98年以来、政府主導の大幅な統合・再編は何のために行われたか? 第1に、国営企業の効率化推進によって、中国の支柱産業とも言うべき石油産業の成長と収益安定化、石油・エネルギーの安全保障を図ること、第2に複数企業による競争体制を確立し、市場原理・メカニズムを導入して石油産業の活性化を促進すること、第3に国際メジャーのような総合的石油企業を創設し、国際競争力を高めることである。従来、上流・下流部門をそれぞれ統括していたCNPCとSinopec2社が、上流下流事業を垂直的に統合し、競い合う2代企業体制に編成された。
CNPCをはじめとする3社はIPOを通じて、総計80億ドルを越す大量の資金を調達した。そのほとんどはメジャーによる大規模出資である。
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Petro Chinaは北部と西部などの地域の油田の探鉱・開発を担当し、Sinopec Corpは主に東部、中部地域などの油田の探鉱・開発を担当している。一方Cnoocは海域の石油・ガスの探鉱開発を担当させている。
輸入先と輸入ルートの多様化
90年代後半以後、アフリカのアンゴラ、中東のオマーン、イラン、欧州のノルウェー、アジアのベトナムなどの国・地域からの原油輸入を拡大し、石油供給地域は過去に比べてかなり分散化された。にもかかわらず依然として、かなりの度合いで中東原油に依存している。その背景には急速に増大する原油不足をまかなう輸出余力があるのは主に中東地域であること、そして原油輸入の多いSinopecが競争力強化のための脱硫設備導入・改造などに伴い比較的低いコストの中東原油に転換したこと、などがある。09年、輸入量が1000万トン以上に達した国は6カ国(サウジアラビア4186万トン、アンゴラ3217万トン、イラン2315万トン、ロシア1530万トン、スーダン1219万トン、オマーン1164万トン)でその合計で1億3631万トンと、輸入全体の67%を占めている。
> ちなみに日本は2億トンで中東が87%程度。87%がマラッカ海峡を通っているのだが、ホルムズ海峡もイラン分を除けば通っているので80%は近いであろう。それに対する問題意識は? 原発停止とはエネルギー問題、エネルギー・アメリカ一極支配に対抗する気は無いということだ。
中国が輸入する石油はほとんど船舶で輸送し、ほんの一部、1割ぐらいをカザフスタン-新疆のパイプラインおよび鉄道で輸入している。輸入量の増加と輸入先の多様化に伴い、輸入ルートもマラッカ海峡経由を主とした多ルート化が検討されている。中国の石油輸入ルートは南・北・西の3つ方角が形成され、海運、陸上のパイプラインを含む四大輸送ルートが計画・利用されている。すなわち、①マラッカ海峡ルート、②マラッカ海峡ルートを通らず、ミャンマーを経由(パイプラインを敷設)する中国西南地区へのルート、③ロシア極東のイルクーツクから中国東北部の満州里に接続し、既存の大慶油田の輸送パイプラインと連結し、東北をはじめとする地域へ輸送するルート、④中央アジアのカザフスタンから新疆ウイグル自治区さらに中国内地へのパイプラインの輸送ルート、である。
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中国のエネルギー事情 1/6~エネルギー消費

中国は2009年にアメリカを抜き、世界第1のエネルギー消費国になった。とりわけその石油消費量は10年前の2.3倍にまで増大したのだ。ところが生産量のほうは10年前の1.1倍にとどまっているため、エネルギー需給の逼迫が次第に深刻化している。石油の対外依存度は2010年上半期、55%以上に達しているのだ。中国経済は70年代末から今日にかけて30年間、年成長率約10%の高度成長を遂げてきた。その行動成長は、エネルギー・資源多消費型の重化学産業に依存している。そのため、石油・エネルギーの生産量がその消費増加量に追いつかなくなり、エネルギー供給ギャップが拡大しただけでなく、CO2排出量が増え、環境問題も深刻化しているのだ。
中国はエネルギー資源をほとんど一般の商品と同様にみなしており、お金があれば、国内開発・供給を強化するほかに、海外直接投資・貿易を通じて、独自に海外で石油エネルギーを確保できると考えてきた。しかしながら、2005年8月、アメリカ連邦議会の猛烈な反対により、中国海洋石油総公司(CNOOC)による米石油会社ユノカル買収が失敗し、また、アフリカなど産油国での活発な資源開発・権益確保活動が、独裁政府を支援していると欧米社会からの批判を招くようになり、これを機に中国の国家エネルギー戦略は、大きな転換が迫られた。すなわち、石油・エネルギーが単なるコモディティであるとともに、戦略的政治・軍事商品でもあること、またグローバリゼーションのなか、一国におけるエネルギー安全保障(安定供給)は、常に国際的な視野に置かなければならず、国際社会とりわけ日米欧など主要国との協力を通じて初めて、よりスムースにできることを認識し始めたのである。


日本人へ 国家と歴史篇 4/6~脱・円中立速度

年金の行方不明問題なんてイタリアのような国でしか起らないと思い込んでいたが、それが日本でも起こると知って、正確無比でロボット的と思われてきた日本もにわかに人間的に見えてきたほどである。もちろん、自分の年金が安心できなくなった人々の立場に立てば腹の立つことであるのはわかる。だがこれも、禍転じて福となすことも可能ではないか。
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利点の第一は、お役所に対する日本人の過剰な信頼が崩壊したことだろう。これまでは「公」の能力を信頼しきっていたから、お役人に絶大な権力を与えてきたのである。選挙で選ばれたわけでもないのに国の方向すら決めて疑わない官僚は主権在民のはずの民主主義の趣旨に反する、と私は常々思っている。年金不明事件のようなことはイタリアでは起りえないのだという。なぜかと聞いたら「Codice Fiscale」がある体という答えが返ってきた。「コディチェ・フィスカーレ」とはひところ日本中を騒がせた国民総背番号制のことである。但し日本人は嫌いぬいた挙句に葬り去ったものだ。ちなみに、個人主義的性向では他国しのぐイタリアに何故国民総背番号制が存在するのかとイタリア人に聞いてみたら、イタリア人はかつて一度もお役所のやることを信用したことは無いのだ、というのが答えだった。

なんか俺の言ってることと一緒じゃない?
私の言葉で言い換えれば、日本銀行券・円の信仰、永田町より霞ヶ関、財布を拾ったら交番に届けようという発想。


ODAと環境・人権 2/4~貧困の原因の本質

発展途上国はなぜ貧しさから抜け出せないのか
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UNDPにによれば、1960~1967年、発展途上国の方が先進国より大きな経済成長を遂げたのに、発展途上国における一人あたりの国内総生産は1950年代に比較して低下(年率一人当たりGDP伸び率は、アフリカ1.5%、アジア2.2%、ラテンアメリカ1.8%)し、反対に先進国のそれは著しく拡大した(西側先進国3.8%)。また、発展途上国に対する資金の流れや貿易についても同様で、緩和された融資条件の貸出資金は減少し、世界的な貿易の拡大基調に乗って発展途上国の貸出資金は減少し、世界的な貿易の拡大基調に乗って発展途上国の輸出所得は、1950年代よりかなり高かったものの、先進国の輸出がさらに大幅に伸びた結果、発展途上国の世界貿易シェアは、1950年の31%から1960年には21%と下落し、1968年にはさらに18%にまで低下した。


許永中日本の闇を背負い続けた男 4/4~逃亡劇

雅叙園観光ホテルグループ、日本ドリーム観光の創業者一族の内紛につけこんだ、池田保次
松尾波濤江は、元警視総監の秦野章に相談しました。秦野章は私大卒で初めて警視総監にまでなった警察官僚の立志伝中の人物である。警視庁退職後、参議院議員に転出し、法務大臣まで務めた。そして、創業者松尾の未亡人から相談を受けた秦野は、日本ドリーム観光の社長と副社長に、警察OBの側近を送り込んだ。雅叙園観光株問題は、元山口組系組長対元警視総監の対決だと評判を呼ぶ。このとき日本ドリーム観光の副社長に就任した警視庁OB寺尾文孝は、今も多くの経済事件の裏でその名が取り沙汰される人物である。現在、「リスクコントロール」という企業危機コンサルティング会社を経営する。女性スキャンダルで失脚した元東京高検検事長の則定衛や元東京地検特捜部長の河上和雄を最高顧問に据え、自社の広告塔にしていると斯界では勇名だ。安室奈美恵の所属事務所、ライジングプロダクション(現ヴィジョンファクトリー)の脱税事件(2001年)や福岡で起きたエンジェルファンドの投資詐欺などでも、日本リスクコントロールの名前が見え隠れしていた。
京都新聞グループの創業者の3代目、44歳でグループの後を引き継いだ白石英司は生前不動産開発に熱意を注いだ。そして白石英司の急死から1年後。京都新聞及びKBS京都の簿外債務処理に窮したKBS京都社長の内田は、河原町二条を名鉄から買い戻し、再開発することにより、100億とも言われた簿外債務を帳消しにしよう、と計画する。そうして設立されたのがシティセンター京都である。再開発のためにまずは名鉄から土地を買い戻す工作が必要だった。そこで重要な役回りを演じたのが、金丸信だったのである。金丸信は、問題のシティセンター京都やその所有地の取引をめぐり、ゼネコン最大手の一角である「鹿島建設」まで巻き込んだ。シティセンター京都は、発行済株式2000株、1億円の資本金でスタートした。株は多方面に配られたが、最終的に許のCTCグループが約70%を所有するようになる。


許永中日本の闇を背負い続けた男 3/4~仕手戦

東邦生命は1999年に破綻し、アメリカの最大手ノンバンク、GEキャピタルに買収される。太田は経営者として会社の清算人から損害賠償請求され、2004年には7億円近い賠償を命じられた。東邦生命そのものは2003年、GEエジソン生命保険となっていたのをアメリカのAIGが買収。また千代田生命も2000年に破綻した後、AIGに吸収されAIGスター生命となった。
京都の観光名所、円山公園、国の土地を京都市が借りて管理しているこの桜の名所の一角に、純和風の数寄屋造りの邸宅がある。小さな4メートル道路を隔てた屋敷のすぐ隣は知恩院。すっかり古都の景勝に溶け込んでいる。円山公園の敷地内にある豪華な邸宅だ。実はなぜかそこだけが民間人の住まいになっているのである。屋敷の主は安田英全。本名を鄭英全という。同志社大学卒業後、ソープランドや焼肉店などを経営し、成功した。
大阪国際フェリーとバブル
大阪国際フェリーは、下関と釜山を結ぶ関釜フェリーにならったものといわれる。関釜フェリーの定期航路を事実上運営していたのは、許にとって在日の大先輩に当たる町井久之だった。町井は戦後東京の闇市を牛耳って「東声会」という暴力団組織を結成した人物としてその名を知られる。町井や東声会は2007年に東京地検特捜部によって逮捕された元公安調査庁長官、緒方重威ともかかわりがある。広島・仙台の両高検検事長を歴任してきたヤメ検の大物弁護士である。そんな法曹界の大物が、前代未聞の北朝鮮系の在日団体「朝鮮総聯」本部ビルの詐取容疑で摘発され、注目された。その傍ら、緒方らが取り組んでいたのが、町井久之死後の資産処理だった。町井が六本木の一等地に残した「TSK・CCCターミナルビル」という物件の再開発プロジェクトだ。結果、再開発事業の資金繰りに行き詰まり朝鮮総聯不動産詐欺を引き起こした、と東京地検が緒方らに狙いを定め、事件化したのである。
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日本人へ 国家と歴史篇 3/6~第一次安倍政権にモノ申す

これを書いているのは2007年7月23日。参院の選挙は29日。この小文が読者の目に触れるのは8月10日になってからである。首相としての安倍氏は私にとって「買っていない」というよりも「好み」ではない。政治という虚実からみ合う世界のリーダーとしては誠実のあまりか単純すぎる。大衆民主主義時代の有権者の心理が分かっていない。女はなぜ男に惚れるのかを考えたことはあるのだろうか。民主主義政体下の有権者とは「何をやったか」で支持するのではなく、「何かやってくれそう」という思いで支持を寄せるのである。

民正しいじゃん。どれくらい儲けたかという過去のトラックレコードだけを見て、将来を見ないのは投資家としての姿勢が根本的に間違っている。

私の不満の第二は「美しい国」に代表された感じの、アッピールの抽象性にある。政治とは究極のインフラストラクチャーであり、そしてインフラとは、個人の努力ではできないことを共同体が変わりにやることに意味がある。

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私も読んだが、タイトルは確かにぼやけているが、本の内容は具体的に国のあり方を書いていたように思うけどなぁ…。


ODAと環境・人権 1/4~公害の輸出

豊かさの見直し
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人類は、その400万年の歴史からみればごくわずかのうちに、狩猟社会から農耕・牧畜社会へ移行し、産業革命を経て工業化社会に向けてひたむきに走り続けてきた。この間、大量生産・大量消費に象徴される物質的豊かさのみを追求する社会のあり方は、1950~60年代の経済の高度成長期に世界各地で公害問題を引き起こし、これが社会問題化してこの時代以降、開発のあり方、豊かさとは何かが真剣に問われるようになった。人は経済成長と自然環境の双方から利益を受けている。人の物欲、特に生存に必要な限度を超えて他人よりも多く、より良いものを所有したいという欲望は、本能的なもので、そのために文明も進化してきたように信じられている。しかし、環境破壊が地球規模で進んでいる現在においては、大量消費文明・物質文明に対する疑問が呈せられる一方、西欧の尺度で見た豊かさの押しつけ(文化的帝国主義)に対する反省も生まれている。西欧文明の優位が疑われなかった時代には、どれだけそれに近づいたかが開発の尺度として機能した。しかし、自然環境の保護と言う人類の存亡をかけた問題が生じた現在では、西欧文明とは異なった尺度で、自然と共に生きるインディアンなどの文明・行き方に対する価値が見直されるようになった。フィジーなど南太平洋の住民は、伝統的な農業と土地の食習慣で栄養も足り、自然のリズムに従って生活していた。ところが、開発の名目でそこに輸出作物を育てる機械化農業、慌ただしい生活リズムを持ちこみ、その結果現地の食文化を破壊してスーパーマーケットに頼る生活を余儀なくし、成人病の少なかった島に糖尿病を増加させたなどは文化的帝国主義と言われても仕方無かろう。自然を人間と対峙する制服・改造の対象としてとらえ、競争してモノを獲得する思想は西欧の物質崇拝主義に見られるにすぎない。


許永中日本の闇を背負い続けた男 2/4~フィクサーたちとの交流

太田は幼名を新太郎という。1925年、清蔵の長男として生まれ、1947年東京大学経済学部を卒業。いったん東京電力の前身である日本発送電に入社する。それからハーバードビジネススクールへ留学した後、1953年に東邦生命入りし、30歳を前にして重役となっている。1977年太田家6代目として東邦生命の社長に就任した新太郎はその後、清蔵を襲名した。福岡出身の太田清蔵は、地元選出の自民党代議士、太田誠一とは従兄弟同士にあたる。太田誠一の叔父が元衆議院議長の桜内義雄である。そんな太田家の影響力は、地元福岡の金融界はむろん、県内の鉄道や流通業界にまで及んだ。福岡だけではない。太田の実姉は関西の鴻池家13代目当主、鴻池善右衛門に嫁ぎ、姻戚関係を結んでいる。300年の歴史を持つ鴻池家は旧三和銀行を設立した名家だ。さらに太田の叔母はヤマサ醤油の濱口家に嫁いでいる。清酒「菊正宗」の造り酒屋である嘉納家や百貨店「松坂屋」の伊藤家とも姻戚関係にある。太田清蔵の率いた東邦生命は、前身を第一徴兵保険といい、富国強兵の国策として軍備増強に邁進した明治政府が、福岡の太田家に依頼して設立した。文字通り、徴兵される兵隊のための生命保険会社だ。


許永中日本の闇を背負い続けた男 1/4~大阪スラムと和歌山

許永中の生まれ育った大阪市北区中津は、戦中から戦後にかけ在日韓国・朝鮮人が住み着いた地域である。いわゆる朝鮮部落ではないが、貧困にあえぐスラム街といえた。許は自らの歩んできた歴史をこう表現した。「レールの無い真っ暗なトンネル」
21歳の頃、許にとって事業に目覚める最初の転機が訪れた。西村嘉一郎という怪人物との出会いである。西村は経営コンサルタントとして、和歌山を中心に活動し、右翼や同和団体など幅広い人脈を築いていた。1938年生まれの70歳だ。西村は産経新聞の記者から独立し、その後、裏社会に足を踏み入れた。表向き「東洋通信社」というミニコミ誌を発行する出版社の経営者である。だがその裏で企業調査や警備会社のオーナーとして、和歌山県内の企業の機密事項をつかみ、にらみをきかせていた。西村の名前は、バブル景気前後の経済事件にもたびたび登場している。バブル期に計画された和歌山県の「フォレストシティ建設計画」というリゾート開発でも、その名前が取り沙汰された。県内最大手の地銀である紀陽銀行が、600億円も投入してぶち上げた開発計画だ。1993年に大阪地検特捜部が紀陽銀行幹部を逮捕し、当時の頭取が辞任に追い込まれた。また副頭取が自宅前で射殺されるという、ショッキングな出来事で知られる阪和銀行の事件でも、一部で西村と銀行との関係が噂された。阪和銀行は1996年に破綻し、翌年に和歌山県警が銀行の不正融資を摘発する。
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日本人へ 国家と歴史篇 2/6~女を語る七生ちゃん

女には冷たいという非難に答えて
歴史を書いて40年になるが、昔から非難されてきたことが1つある。それは私という作家は同姓に対して冷淡で、女の立場に立って書かないというのだ。女の作家ともなれば同姓を書くほうが商業的に有利であるというのは、出版界の常識であるらしい。実際、そう主張する編集者の意見を入れて書いた最初の作品は『ルネサンスの女たち』だから、女が女を書くのが私のデビュー作ではあったわけだ。だが、商業的には有利であろうと、その路線は第一作のみで捨てた。なにしろ、中世のイタリアも古代のローマも、男達の時代なのである。男の世界での女は所詮は脇役で、歴史の脇役を書きつづけているといずれはゴシップに落ちる
> これいいな、歴史とか女とか抜いて、これをパクろう。
> 「脇役に言及し続けると、いずれはゴシップに落ちる」


中国の地下経済 3/3~国は頼りになる?

09年に入り日本のメディアは、中国の2月危機説を一斉に書きたてた。旧正月の休みで帰省していた農村からの出稼ぎ労働者が再び都会に戻ってくる2月に、多くの企業が夜逃げ・相産することで大量の失業者を吐き出すことを、いわゆる二月危機説として書きたてたのだが、実際には大きな混乱が起きることはなかった。その理由は、実は、中国はその1年前にすでに危機を体験済みだったからだ。当時、日本の一部では、「シンセンなどでは毎年起きていることだから問題ではない」と夜逃げを軽視する声も上がった。混乱が何とか収まったのは、労働者の怒りが一過性だったために多少の妥協で折り合えたことや、多くは出稼ぎ労働者で農村には彼等の買える場所もあったこと、そして彼等の問題を吸収してくれる世界が背後に存在していたからにすぎないのです。これこそが本書のメインテーマである地下経済である。
世界金融危機に襲われる1年以上も前にすでに東莞市虎門鎮がこうした問題に直面していたことの背景には、すでに中国が、労働者をやすく使い捨てることができ、なおかつ汚染物質も垂れ流せるという、経営者にとって夢のような国ではなくなったことがある。地方政府と経営者が結託して、労働者の賃金が上がらないよう、数年後とに新しい労働者と入れ替えるシステムを作った。だから現場は常に経験の浅い労働者ばかりになった。そのため、広東省だけで毎年3万人ほどが職場の事故で腕や指を切り落としてしまうというほど、事故が頻発した。企業はそうした人間を使い捨てればよいのだが、国はそうはいかない。それが08年1月から施行された、労働者の権利を強めていくための労働契約法にもつながっていったのです。同時に中国は、持続可能な経済発展というスローガンの下、環境問題にも力を入れ始めた。
出稼ぎ労働者の問題では外資の夜逃げばかり強調されますが、中国国内の企業が海外に逃げ出す動きも激しくなっていました。余裕のある企業はベトナムやミャンマーを目指しましたし、そうでないものは広西チワン族自治区や江西省、湖南省などに工場を移転し始め、それさえできない企業は静かに工場を畳んだのです。工場は移転すれば生き残れるが、労働者はそうはいかない。特に最大の被害を受けたのが四川省、安徽省、河南省などから来ていた出稼ぎ労働者たちだった。その多くは何の前触れもなく自分たちが働いていた工場が消えてしまったり、酷い場合は数か月分の未払い給料を残してオーナーが消えてしまったケースもあるという。安価で手頃な労働力を利用することで潤ってきた地方が、逆にその労働者によって悩まされる時代を迎えたことを世界の工場が実感し始めたのがこの年だった。失業した労働者のエネルギーは、決して政府にだけ向けられたのではなかった。真っ先に悪化したのはこの一帯の治安だった。09年4月末、中国の人気週刊誌『中国新聞週刊』が子供の誘拐事件が増えていることを受け、東莞市で「子供を誘拐された親達による被害者同盟」が結成 街頭でデモンストレーションを敢行 「子供を1千万元(約1億3000万円)で買い戻したい と呼びかけ というショッキングなタイトルで報じている。
推測では、ここ数年だけでも東莞市で少なくとも1000人以上の子供が誘拐の被害に遭い失踪したと考えられる。連れ去られた子供の多くは、2歳から6歳の幼児で90%が男の子であり、被害に遭った子供の90%が出稼ぎ労働者の子供達だ、という犯罪の傾向も記している。誘拐の多くは売買目的で、子供を取り戻すために生まれた民間団体・宝貝回家志願者協会が09年3月に子供の奪還に成功した事例から分かったのは、子供を買っていたのは、山東省や福建省、そして広東省の潮州・汕頭地区などの経済的に恵まれた成功者達だったという。彼らの考え方は保守的で、子沢山こそが幸せと信じ、女の子よりも男の子を尊ぶといった古い考え方に基づいて男の子を集めていたことが分かったという。子供に付けられた値段の相場は、男の子が1人25000元、女の子はわずか1人700元だ。地下で需要と供給が結びつく。これも地下経済がもつ恐ろしい負の側面だ。
山賽携帯電話のブーム再来 「山賽」とは本来、山賊の砦を意味する言葉だが、商品の前に付けて「山賽○○」と使われる時は、海賊版とかコピー商品という意味で使われるのが一般だ。安いモノでは正規品の1/10という製品まであり、正規品に手が出なかった貧困層や学生たちの間で爆発的に普及していった。ちょうど北京オリンピックと重なり動画やテレビ機能のついた山賽携帯に特需の風が吹いたのだったが、その勢いはコピー商品でありながらインドや東南アジア向けに堂々と輸出されているほどである。だが山賽携帯が急速に普及したといっても、その結果として正規品の市場が大きく侵食されたわけではない。もともと正規のメーカーが歯牙にもかけなかった購買層を相手に売上を伸ばしたに他ならない。中国の銀行が中小企業を橋から相手にしていないのと同じように、大きなメーカーは最初からそうした人々をターゲットとして想定しない。こう考えた時、日本人が中国の将来を有望視する時に語る”13億人の市場”という言葉が、いかに虚しいものかが分かるのだが、中国ではその両者はくっきり区別されている。
温家宝の宣戦布告
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日本人へ 国家と歴史篇 1/6~賢者は歴史に学ぶ

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自分で自分を守ろうとしない者を誰が助ける気になるか。 -ニコロ・マキアヴェッリ
亡国の悲劇とは、人材が欠乏するから起るのではなく、人材はいてもそれを使いこなすメカニズムが機能しなくなるから起るのだ。 「『ローマ人の物語』を書き終えて」より
> いきなり、重いなぁ。七生先生。だが、確かに重要だ。そして何十年も外住みしているので、やはり外から日本を見ている私と驚くほど一致する意見が多い
歴史上、最高の後継人事と私が思っているのが2つある。第1は、イエス・キリストからキリスト教会の初代教皇となるペテロへのバトンタッチ。第2は、歴史上の順序は逆だが、ユリウス・カエサルから、ローマ帝国の初代皇帝になるアウグストゥスへのバトンタッチ。


中国人民解放軍の内幕 3/3~軍系企業の系譜

リストラ人員の受け皿としての役割や兵器を裏で支える技術力、そして武器輸出と言った角度から対象にきりこんでみたいと思う。1つは、その歴史がもっとも古く、兵器など人民解放軍の装備を技術面から支えてきた機械工業部の系列である。兵器製造と販売にかかわる企業は、たいていがこの系列からの派生企業である。2つ目が、これを源流として生まれた新潮流で、中国が武器の輸出に乗り出すのと同時に生まれた、兵器輸出を手掛ける軍系商社である。そしてこの新潮流のさらに支流として誕生したのが3つ目の、保利グループなどの四総部系国有企業である。
この四総部系企業グループは鄧小平が世界に向け公約した人民解放軍兵員の大幅削減である”百万大栽軍”(1985年6月4日発表)が実施されるのに合わせてリストラの受け皿として設立された企業である。その代表が保利グループであり、その他にも中国新興集団、中国新時代集団といった軍系国有企業が有名だ。鄧小平による軍のリストラによって、解放軍は四百万人を越えていた当初の兵力を二百万人まで縮小した。リストラの初期には公安部や鉄道部などがその大きな受け皿として機能していたのだが、それでもキャパシティを越えて大量のリストラ兵士が吐き出されえてくる。その処遇に困った党中央が、国務院、軍委との共同批准によって誕生させたのが上記の三大軍系企業グループなのだ。


中国の地下経済 2/3~中国は貧乏な国なの?

「北京や上海は”建築の国際見本市”と呼ばれるほど奇抜な形の高層ビルが多い。これらは決裁権を持つ官僚や施主である経営者の多くが、デザイン重視で個性的なビルを建てたがる傾向を持っていたからだが、問題は『その後のメンテナンスをどうするのか』だった。デザイン性が高く形状が複雑なビルは清掃用ゴンドラも吊るせない構造の者が多いから、作業員の安全を守る正規の業者は敬遠するんだ。そうなればビル側は、危険を承知で仕事を請け負ってくれる闇の業者に仕事を依頼するしかない。闇のビル清掃業者とは、いま中国で”黒スパイダーマン”と呼ばれる人間達さ。いまでは作業中に落下して死亡する黒スパイダーマンが続出し、社会問題になっているよ」
問題発覚後、政府は違法な清掃業者の規制に乗り出したものの、黒スパイダーマンの数は逆に増える一方だった。記事によれば、スパイダーマンの日当はこの10年間で、30元から50元、80元、100元、120元、150元と上がり続け、今年09年はとうとう300元を超える者まで現れた。その裏で、北京市内の死亡事故だけでも07年が48件・死者49人。08年29件・死者31人であると報じている。つまり黒スパイダーマンは、北京のどこかのビルから10日に1人の割合で転落死しているのだ。


中国の地下経済 1/3~陰と陽が同居する中国

高級デパートには2万円の値札のついたTシャツが当たり前のように並び、4万円もするスニーカーが無造作に陳列されている一方で、そのデパートを一歩外に出れば北京のタクシーは初乗りわずか10元(約130円)で乗ることができ、屋台で売られている茹でトウモロコシは、安ければたった1元(約13円)で食べられるのである。こうした相反する事象やニュースは、「中国」の中で共存し、外から中国を見るものを惑わせる。本来なら2つの異なる国の事象であるべき両極の現実を一つの国につなぎとめているのも、実は「地下経済」の存在を抜きには説明できない。地下経済は毛細血管のように中国人の暮らしの中に入り込み、日々の生活と切っても切れない関係を築いてしまっているからだ。「およそ中国で暮らしているものであれば、地下経済とまったくか変わりなく生きている者などいない」。地下経済の取材を始めてからであった専門家や識者、そして実際に地下に生きる者たち、旧来の友人・知人まで、彼らが共通して語ったのがこの言葉だった。
地下経済のドン、中国の高級車「紅旗」
「車のナンバーを見てみるんだ。最初の文字が『京O』から始まっているだろう。あのナンバーの意味は、車が公安の持ち物だっていうことだ。軍や公安の幹部は、表向き国産の高級車に乗るように指導されている。でも、本当は乗りたくないから公安には『紅旗』が余っている。そういう車を公安と関係の深い人間に回しているんだ。だから、あれにうっかり追突でもしようものなら、ちょっと厄介なことになるんだ」


中国人民解放軍の内幕 2/3~後回しにされ続けた中国海軍

1950年朝鮮戦争、中国軍の死者数は米軍のおよそ10倍。アメリカ軍の空軍力のすさまじさ。まずは空軍力の強化。
中国は経済や軍事技術の分野で、兄貴分・ソ連に大きく依存してきたが、その関係が急速に悪化し、1959年にソ連は、中ソ新技術協定の破棄を中国側に通告。
1989年天安門事件、西側からの制裁対象、軍事交流が厳しく制限。当時の中国が空母建造に際し、最も期待を寄せていたのがフランスでした。
空母建造計画を、最終的に政治決断でゴーサインを得たのは北京オリンピックを成功させた2008年。
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中国の第一声は2009年梁国防部長「大国で空母を持っていないのは中国だけだ。永遠に中国が空母を持たないわけにはいかない


グーグル秘録 完全なる破壊 7/7~対マイクロソフト

マイクロソフトのヤフー買収失敗
マイクロソフトがヤフーを求めたのには理由がある。理論的には、当時わずか9%だった検索市場におけるマイクロソフトのシェアを高め、200億ドル以上というグーグルの足元にも及ばない。わずか32億ドルのネット広告売上高を拡大手段となるはずだった。ディスプレイ広告でグーグルをリードするヤフーの勢いに便乗する狙いもあった。マイクロソフトのポータルサイトMSNのEメールサービスをヤフーのそれと統合し、圧倒的な市場シェアを握る手段にもなる。グーグルのクラウド・コンピューティングという攻撃に対して守りを固めるための策でもあった。ヤフーは不器用に抵抗した。ヤフーCEOのジェリー・ヤンと取締役会は当初、マイクロソフトの申し出を断ったが、やがて関心を示した。しばらくすると再び興味は無いと表明し、買収者に重い負担を課すようなポイズン・ピルを自らに埋め込もうとした。1万4000人の従業員に対して、マイクロソフトとが買った場合に退社すれば、2年間に限って高額の離職手当を受け取れる権利を与えようとしたのだ。だが最終的に、ポイズン・ピルの導入は、断念に追い込まれた。その後ヤンと取締役会はマイクロソフトに対し、1株当たり37ドルであれば買収を受け容れると通告し、しばらくして条件を33ドルに下げた。またしばらくすると、今度ヤフー全体ではなく、検索エンジン事業のみを売却を検討すると発表した。
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中国人民解放軍の内幕 1/3~解放軍の体制

過去20年、中国人民解放軍(以下=解放軍または軍)が常にその存在を強く意識し、警戒を続けた国があるとすれば、それはアメリカ合衆国をおいて他にない。なかでもアメリカが中東地域で発動した2つの戦争(1991年湾岸戦争と2003年のイラク戦争)の果たした役割は大きい。その精緻な作戦遂行能力と圧倒的な破壊力は、解放軍上層部に鮮烈な驚きと恐怖をもたらすと同時に共産党政権にとっても潜在的な脅威を呼び覚ますのに十分な役割を果たしたと言えるだろう。
> 解放軍だけでなくて、世界が震撼しただろ。あれは…。戦闘機で爆撃からミサイルへと、時代が変わったことを象徴するような戦争だった気がする。


グーグル秘録 完全なる破壊 6/7~多角化

携帯電話にも進出
携帯電話はもはや単なる電話やPDAではなくなっていた。インターネットへの接続手段が持ち運びできるようになることは、グーグルにとっても有利だった。ネットに接続する人が増えるほど、グーグルの収益にプラスになるのだ。だが自社のプログラムの多くが、携帯電話ではまともに作動しないことに、グーグルは不満を感じていた。消費者ではなく、電話会社が携帯電話で使えるアプリケーションを決めていることも不満だった。「パソコン用には機能的にユーザーに役立つソフトウェアを問題なく作れるのに、携帯電話ではそれが難しい」とペイジはこぼした。マイクロソフトやアップルで働いてきたアンディ・ルービンは、独立してアンドロイドを創業し2005年にグーグルに売却した。アンドロイドをオープンソースOSに変え始めた。


グーグル秘録 完全なる破壊 5/7~新たなる敵

SNSに不安を抱くグーグル
グーグルが2007年からフェースブックの存在を警戒し始めたのは、その本質を理解していたからだ。フェースブックのユーザーが、個人的なネットワークを通じて情報を集めるようになれば、インターネットにおける彼等の検索エンジンやナビゲーターは、グーグルではなくフェースブックになってしまう。メディア企業がグーグルやユーチューブのほうがより多くの視聴者を獲得していると気を揉むのと同じように、グーグルもフェースブックに不安を感じ始めた。フェースブックのウェブページが、ユーザーにとって時たま訪れる場所ではなく、ずっと腰を落ち着ける場所になってしまったらどうするか?グーグルにとって望ましいのは、より多くの人がネット上をウロウロすることだ。両社の緊張関係は2007年10月、マイクロソフトがグーグルに競り勝ち、フェースブック株の1.6%を手に入れただけではなく、サイト上の広告販売を引き受けたことから一段と高まった。


グーグル秘録 完全なる破壊 4/7~インターネットメディアとして

勃興するメディア、衰退するメディア
「我々の収入として、いくら保証してくれるんだ?」とカーマジンは尋ねた。提示額はカーマジンにはあまりにも低すぎた。グーグルの数学的アプローチは完全に間違っていると感じた。「我々は視聴率1%あたりのコストを売っているわけではない。もっと別のもの、熱い何かを売っているんだ。そこのところをグーグルは理解していない。グーグルは視聴率1%は、一定の視聴者数に対応し、それは一定の広告料に対応していると考える。しかし、『デスパレートな妻たち』(ABCで放映されている人気ドラマシリーズ)のスポット広告を売るのはまったく違うことなんだ。」一方、グーグルから見れば、カーマジンは効率の悪い時代遅れのやり方にしがみついているように映った。


グーグル秘録 完全なる破壊 3/7~著作権との戦い

世界中のすべての本をスキャンするんだ
2005年5月には、グーグルは創業以来最も大胆かつ危険な賭けに打って出た。新アドワーズが完成した今、グーグルは広告の配信に乗り出そうと考えていた。そのためにも、すでに1日1億5千万件に達していた検索の処理件数をさらに増やす必要がある。そこで目をつけたのがAOLだ。AOLはその後一気に凋落していったため、かつてどれほど隆盛を極めていたかを忘れてしまいがちだ。ネットの業界では、AOLのサービスを補助輪付とバカにする者も多い。しかし初心者にも使いやすいAOLのサービスこそ、ネットの大衆化を促した原動力であり、2002年の段階でAOLが3400万人もの有料会員を擁していた理由でもあった。その膨大な会員を抱えたポータルサイトは、まさにグーグルにとってうってつけのターゲットであった。とはいえ、すでにAOLの検索と広告販売は、ライバルの検索エンジン、オーバーチュアが獲得していた。そのうえ当時AOLの上級副社長であったリンダ・クラリツィオの言葉を借りれば「グーグルなど誰も知らない会社だった」。オーバーチュアの契約が2002年の5月で終了することをしった創業者らは、なんとしてもそれをモノにしようと決意した。


グーグル秘録 完全なる破壊 2/7~検索エンジンのマネタイズ

検索市場の優位性をカネに変えるには?
グーグルは検索技術を他のウェブサイトに提供し、収入の一部を受け取ることにした。技術の利用者を広げるとともに、利用の対価を手にするためだ。最も大きな契約が成立したのは、2000年6月、ヤフーの公式の検索エンジンに採用されたのだ。この地位を獲得するため、グーグルはヤフーに370万株分のワラントという莫大な対価を支払った。それにもかかわらずヤフーはホームページ上にグーグルのロゴが入った検索窓を置くことすら認めなかったため、ユーザーにはグーグルを使っていることがわからなかった。グーグルにとってこの契約は新たな節目となった。検索トラフィックは提携初日に1日1400万件に倍増したのだ。2000年末には、専門家の多くはグーグルを最高の検索エンジンと考えるようになったが、その実態をつかんではいなかった。1日の検索処理件数が1億件に達し、世界で40%近い市場シェアを占めるようになったグーグルがネット上で最も利用件数の多い検索エンジンであることは間違いなかった。急成長はグーグルに、ユーザー情報という資産をもたらした。その重要性は、当時完全に理解されていたとは言い難い。検索件数の増加によって、より多くのユーザー情報が集まり、検索の質のさらなる向上に結びついた。それだけではなく、やがて膨大な広告収入をもたらすことになった。


グーグル秘録 完全なる破壊 1/7~君達は魔法をぶち壊しているんだ

世界はグーグル化された。我々は情報を検索するのではない。そう、ググルのだ。世界中で何かを検索しようとする人の70%がそうするように、グーグルの検索窓に質問を入力してみよう。約0.5秒で答えが表示されるはずだ。毎回話題のゲストで人気のインタビュー番組『チャーリー・ローズ』を見逃してしまった時はどうすればいい? グーグル傘下のユーチューブで見つかるはずだ。2009年3月には、9000万人がこのユーチューブを利用し、そのトラフィックはウェブ上の動画トラフィックの2/3に達した。ネット広告を出したい時はどうすれば良いだろう。グーグル傘下のダブルクリックは、業界トップクラスのネット広告サービス会社だ。年間200億ドルを超えるグーグルの広告収入は、ネット広告費全体の40%を占める。その一方で、グーグルは何万というウェブサイトに、広告費とトラフィックとビジネスチャンスをもたらす。
君達は魔法をぶち壊しているんだ! 59歳のメディア王と30歳のグーグル創業者
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いびつな絆 関東連合の真実 3/3~目立ったら最期

朝青龍暴行事件 2010年1月
「Kが朝青龍にやられたらしい」 この情報が私たちの耳に届くまで、それほど時間はかからなかった。
「ABC(ホーム.会長)の塩田大介さんとか、いつものメンバーでうちの店に遊びに来てたんだよ。で、もうかなり横綱も酔っ払い始めていて、大声は出すし、塩田さんとも一瞬険悪な感じになってたんだよね。で、まあ、お店の中で暴れられちゃうとウチも困っちゃうから、なだめてたら店を移ることになったんだよ。俺も外まで見送ったんだけど、また外で大声出すから、俺も『横綱、マズいっすよ』ってなだめたら、今度は『ウルセエ!この野郎!』ってなって、えり首つかまれて頭突きされたんだ。」
「え?いきなり手を出してきたんですか?それ、横綱なのにマズくないですか?」
「いや、マズいけどストレス溜まってたんでしょ。俺も自分の店に来たお客さんに殴られて大事にする訳にいかないけど、引き下がる訳にもいかないから、『横綱、手を出すのマズイですよ』って言ったんだよ。そしたら『お前、車に乗れ』って言うから、それで乗らないのもみっともないから『わかったよ』って乗ったんだ。それでマネージャーが車を出した瞬間にドーン!って手の甲で裏拳だからね。俺も『危ねえっ!』って一瞬意識が飛びそうになったけど、『おお、じゃあ好きにしろよ!』って開き直ったんだ」


いびつな絆 関東連合の真実 2/3~変わりゆく時代

チーマー狩り全盛期
当時、世の中の同世代の若者達は今風のファッションを身にまとい、暴力とは無縁の世界で遊んでいた。そんな姿を遠目で眺めながら、私たちはニグロヘアーに特攻服を羽織り、手には凶器を持って毎日のよう襲撃に出かけていた。同世代の社会からも孤立することで、少数だがより先鋭化していったのだ。確かに中学生の頃は漫画「ビー・バップ・ハイスクール」のようなヤンキーファッションも流行ったが、中学を卒業するころには、流石にそうした服装は恥ずかしくなっていた。ちょうど時代は1980年代の後半から台頭してきた「チーマー」の全盛期だった。彼らは服装や髪型は今どきな感じでお洒落にしていたが、時々派手な喧嘩もするなど、まさにイマドキな不良少年の集団だった。当時の渋谷、新宿、池袋方面で言えば、「TOP-J」「PBB」「変態倶楽部」「ジャックス」「ブットバス」などが代表的なチームだろう。彼らが暴走族と大きく違ったのは、地元に対する縄張り意識をほとんど持っていなかった点だろう。ちーまー勃興期の中心メンバーのほとんどが中高一貫の有名私立高校に通う生徒で、面白いこと、刺激的なこと、格好が良いことを求めて街に出ていた。さらに言えば、暴走族のように服装や髪型に厳しい制約も無い。パーティー券などのチケットのノルマを一定量さばく会費のようなものがある程度で、それ以外の活動に関してはほぼ自由だ。関東連合と違って雑誌やテレビに出演することに制限が無かった彼らは、一時期、不良少年の世界でのネームバリューでは暴走族を圧倒していた。そして私たちにとって、このチーマーというジャンルは非常に気にいらない存在だった。杉並区の不良少年にとって、不良少年の世界で食物連鎖の頂点にいるのは暴走族、すなわち関東連合という意識が強かったのだ。ナンパな服装をして、ファッション誌に出たり、たむろしている場所に女の子を連れているような彼らのことは、不良少年として認めることができなかったのだ。彼らに比べて、関東連合の服装は特攻服かスラックスに暴力団風のブルゾンやセーター。髪型はニグロパンチかスキンヘッド。


いびつな絆 関東連合の真実 1/3~見立君

六本木クラブ襲撃事件のターゲットは被害者とは別
キム兄弟とは、関東連合が対立していた”敵”の中でも、最も激しく敵対していたグループの頭だ。本名をKというが、私たちはその頭文字をなぞって、符牒のように”キム兄弟”と呼んでいた。キム兄弟は、山口組極心連合会系の暴力団組織に所属していた弟(その後、破門)の方がワルとして有名だ。喧嘩、しかも武器を使うような派手な喧嘩なら私たちも人のことは言えなかったが、もっと別の意味合いで悪いというのがキム弟に対する印象だ。強盗や知人への恐喝は数知れず、それでいて規則に縛られる暴走族のような組織に属するわけでもなく、好き放題やって都合が悪くなれば雲隠れする。呼び出しにも応じないし、関東連合と対立しながらも正面から向ってくるようなこともなかった。だからキム弟が暴力団に所属したという話を聞いたときは意外に感じたものだ。
関東連合のことを「暴力団にならずにマフィア化した組織」などと大袈裟に言うジャーナリストがいる。だが、どこの世界に抗争相手を人が集まるクラブの中で、しかも金属バットで撲殺するマフィアがいるだろうか。そもそも関東連合はマフィアなどという大それたものではない。「フラワー(六本木クラブ)」の事件を知った海外のマフィアが、日本のマフィアだかギャングだかの抗争で使われた道具がピストルやナイフではなく金属バットだったと聞いて呆れたという。ある意味では、平和な日本ならではの事件とも言える。今世間で言われる関東連合は、すでに暴走族では無く、かといってまっとうな社会人にもならず、そのまま歓楽街に溶け込んだ不良少年達が成人し、愚連隊と化したものである


岸信介 -権勢の政治家- 3/3~軍需省から戦後

東条内閣の末期、戦局は絶望的になっていた。軍需省が誕生した18年11月、米軍はギルバート諸島のマキン、タラワ両島に上陸し、5400人の日本守備隊を玉砕させるが、ミッドウェー海戦(昭和17年6月)、ガダルカナルの敗退から打ち続く戦局の悪化はもはや決定的となっていた。以後クエゼリン、ルオット両島(マーシャル諸島)の守備隊玉砕(19年2月)、トラック島壊滅(19年2月)、さらにはマリアナ沖海戦の敗北(19年6月)と日本軍はことごとく惨敗するが、このマリアナ沖海戦とほぼ時を同じくして起こったのが、米軍のサイパン上陸とそれに続く日本守備隊30000人の玉砕であった。岸と東条の対立が公然化した引き金は、まさにこのサイパン陥落であった。「サイパン陥落は日本の戦争継続を不可能にした」というのが岸の主張であったのにたいし「作戦的判断は軍人のやることであり、岸ら素人の関知するところではない」というのが東条の立場であった。しかし、サイパン陥落によって日本本土が米軍用機B29の攻撃射程に入ったことは事実である。軍需次官として管轄する国内各地の軍需工場が米軍の爆撃にさらされることは自明であり、対米戦争はもはやこれまでというのが岸の判断であった。岸の「早期終戦」論である。


岸信介 -権勢の政治家- 2/3~満州へ

満州国政府最高首脳に
政党人はときに軍部の懐柔に乗せられ、軍部の脅迫に怯え、みずからの腐敗と日和見に自壊し、結局は軍部の勢力を増殖させていったのである。憲政史上最大のクーデター事件、すなわり2.26事件は、こうした時代文脈に咲いた徒花であった。岸は2.26事件後わずか8ヶ月にして満州に渡るが、その岸を待ち構えていたのはもちろん関東軍である。岸は参謀長板垣征四郎に向って次の2点を主張した。「第一に日満一体論、満州の産業経済発展が満州国統治のみならず日本国民にとっても重要であること、第二に関東軍の任務は統治の基本を握ることであって、産業経済については自分に全てを任せて欲しいこと」 岸がまず最初に手掛けた仕事は、満州国産業開発5ヵ年計画の実行であった。対ソ戦略基地たる満州の産業開発は、仮想敵ソ連の計画経済をモデルにした


岸信介 -権勢の政治家- 1/3~帝大から農商務省

岸信介は1896年山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)に生まれる。父佐藤秀助と母茂世の間には3男7女がもうけられた。信介はその次男である。他の兄弟姉妹がすべて田布施生まれであるのに、信介だけは山口町で生をうけている。父秀助が当時たまたま同地で県庁の役人をしていたからである。秀助はもともと岸家の出だが、同じ田布施にある佐藤家の家つき娘茂世と結婚し、佐藤姓を名乗る。秀助18歳、茂世14歳の時である。茂世の両親は継ぐべき息子たちに恵まれながら、長女茂世の婿養子として秀助を迎え、佐藤家から分家させる。「佐藤信介」がのちに「岸信介」へと改姓するのは、実は父秀助の実家に信介が養子として入ったからである。
> わかりやすく日本で最も有名な非民化した家系図を載せておこうw
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