興味深いのは、孫のツイッターに対して差別的発言が、おびただしく寄せられていることである。これらフォロワーの声に対して、孫は「日本が好きだから貢献したいというのが迷惑ですか?」と答えている。この回答は律儀ともいえるが、在日韓国人を目の仇にする朝鮮人差別者には鉄面皮と映るかもしれない。
> ホリエモンもそうだけど、明らかな誹謗中傷にも、全部ではないものの、ちゃんと返信する律儀さ。これは俺にはできないわ…。
残飯を集めるのは女性たちの仕事でした。リヤカーを引いて近所の食堂を回り、残飯を集める。鳥栖は交通の要衝でしたから、九州全域から集まってくる行商人たちのための食堂や旅館も多かった。だから、残飯も大量に出たんです。集めた残飯は、大きな釜で一度炊くんです。消毒みたいなもんですな。あまり大きな声では言えませんが、密造の焼酎も作りましたよ。まず、ドラム缶にもろみを貯め込んでね。そいつを釜に移して炊くんです。沸騰したらフタをしっかりして、中の蒸気をビニールのパイプで逃がしてやる。その長いパイプを途中で水の中にくぐらせて冷やしてやると、蒸気が再び液体に変わる。最初に出てくるのはアルコール度数70くらいの濃い液体ですが、数十分するとアルコールがほとんど飛んだ液体が落ちてくる。これを混ぜ合わせるとアルコール度数30くらいの焼酎ができるんです。密造酒のマッカリは小麦粉から作るんです。小麦粉をふかし、それを麹で発酵させた後に蒸留する。だから孫さんの家はいつも小麦粉を買いにくるお得意さんでした。買いに来るだけでなく届けにも言っていましたから、あの家の中のことはよく知っています。本当に狭い家の中に何人も住んでいて、豚小屋まである。その豚小屋の奥で焼酎を密造していました。とてもじゃないけど私は飲む気がしなかった。あそこの豚は、焼酎の搾りかすを食わされていました。搾りかすと言っても、アルコール分はたっぷり残っている。だからそれを食わされた豚が真っ赤になってフラフラしてる。狭い豚小屋にぎゅうぎゅうに詰め込まれて、残飯ばかり食わされ、糞も小便も垂れ流しです。だから地面がぬかるんで、鼻が曲がりそうな強烈なにおいがする。病原菌が感染したんでしょう。足が腐った豚もいた。しかも、その場所で豚を絞めるんです。解体して肉やホルモンを取る。食べる部分以外は朝鮮部落前にあるドブ川に流していたからすごい臭いなんです。豚の血も平気で流していました。そこに雨なんかが降ると、もう大変です。ものすごい臭いが周辺に流れてくる。
朝鮮部落が消えたのは、国鉄の分割民営化に伴ってのことだった。国鉄の資産を受け継いだ清算事業団が、部落に住んでいた朝鮮人に立ち退きを求める裁判を起こした。その裁判に住民側が敗訴した結果、全住人が朝鮮部落から姿を消した。
孫一家は正義が小学校に上がる頃、鳥栖の朝鮮部落を離れ、北九州市八幡西区に移り住んだ。JR黒崎駅から車で10分ほどのところである。在日韓国・朝鮮人が比較的多く住む場所として地元では知られている。鳥栖を離れた理由は、三憲(孫正義の父)の生業が養豚や密造酒づくりから、金融業という”正業”に変わったからである。三憲の金融業へのこの転身も、元はと言えば、祖母のの李元照がはじめた水商売女相手の小口融資に発端があった。黒崎に事務所を構えたのは、近くに八幡製鉄所があったからです。「鉄は国家なり、だ。製鉄所は絶対につぶれない。製鉄所がつぶれる時は、国がつぶれる時だ。だから、八幡の工員にいくらカネを貸しても、取りっぱぐれは無い」というのが三憲さんの計算でした。
孫は73年9月久留米大附設高校を正式に退学した。74年2月、16歳でアメリカに渡った孫は、英語学校で数ヶ月間、語学を学び、サンフランシスコ郊外のセラモンテ・ハイスクール2年生として編入入学した。一刻も早い大学進学を志望していた孫は大学入試検定試験を受験し、これに合格して、渡米から1年半後の75年9月、ホーリー・ネームズ・カレッジに入学した。
> 高校中退->大学検定 は俺と同じだな。孫さんもそうだとは、知らなかった。好感のもてる学歴だw
孫の相談というのは、完成したばかりの自動翻訳機の売り込みだった。孫はシャープ中央研究所所長の佐々木にあらまし次のような内容の話をした。自動翻訳機を風呂敷に包んで、まず大阪・門真の松下電器を訪ねた。ところが、松下では門前払いだった。次に訪ねた三洋電機でも、話も聞かずに追い返されてしまった。「そこで最後の頼みの綱として、アメリカで知り合った私に電話してきたというわけです。孫君はお父さんの三憲さんと一緒にシャープの研究所を訪ねてきましたよ。」佐々木は孫が風呂敷の中から取り出した自動翻訳機を一目見るなり、これは脈があるなと感じた。商品としてはまだ荒削りだが、そこにシャープが持っている電卓の技術などを取り入れれば、立派な商品になる。佐々木は結局、孫の技術を2000万円で買った。
元野村証券企業部長をスカウト
孫が慢性肝炎で長期入院中、ソフトバンクの社長、会長を務めた大森康彦は孫より2回り以上年上である。大森は1954年に慶応の経済学部を卒業して野村証券、日本警備保障に引き抜かれて同社の副社長となり1983年ソフトバンクの社長となった。闘病生活終えた孫は社長に復帰し、役員に40歳の定年制を導入しろという佐々木の進言によって、大森を実権の無い会長に追いやった。大森がソフトバンク入りしてわずか3年後の86年2月のことだった。大森の解任劇は数分で決着がついた。
稲森和夫との対決
LCRとは、ダイヤルした電話番号に応じて、最も通話料金の安い電話会社を自動的に選択するシステムのことである。孫がなぜLCRに社運を賭けたのか?1985年4月1日のNTTの発足によって、初めて電話サービスへの民間企業参入の道が開かれた。これよって京セラを中心とした第二電電(現KDDI)、日本テレコム、日本高速通信などの電話会社が相次いで誕生した。NTTの民営化で生まれた新電電の電話サービス事業は、1千億円以上の市場が見込まれる手つかずのフロンティア分野だった。だが、新電電の電話サービスはNTTより電話料金が安いというメリットがある半面、その回線を使うには、相手の電話番号を回す前に4ケタの数字をまわさなければならない煩雑さがあった。また、かける地域によって既存のNTTの電話の方が安かった。孫はLCRの売り込み先として、京セラ社長の稲森和夫が会長を務める第二電電に狙いを定めた。そこにはオーナー起業家の稲森ならば、即断即決が望めるという孫なりの計算も働いていた。
孫は試作品のEA2のアダプターをテーブルの上において、この製品がいかに画期的なものか熱弁をふるった。当時、孫は29歳だった。孫とは親子ほど年の離れた稲盛は、孫の説明が終わるとやおら口を開いた。「ようわかった。うちが50万個買うから、うちだけに売ってくれ。他には売らんようにしてくれ。この条件でどうだ?」 アダプター1個の値段は4000円だったから50万個で20億円という大きな商談が、稲盛のこの一言でまとまるかと思われた。だが、孫には不服だった。孫はEA2アダプターを第二電電だけに売ろうとは思っていなかった。新しく誕生した電話会社全てとロイヤリティー契約をし、利益を総取りするというのが、孫の考えだった。だが、結局は老獪な稲盛に押し切られる形となり、第二電電への販売契約にサインさせられる結果となった。孫は翌日、再び稲盛を訪ね、昨日サインした契約書を返して欲しいと掛け合った。孫の虫のいい要求に稲盛は激怒したが、ひたすら頭を下げる孫を見て、なぜか契約書の返却を約束した。そのわけはすぐわかった。孫が開発したアダプターとほぼ同種のアダプターを間もなく京セラが開発したのである。情熱一本やりの孫と海千山千の稲盛では、最初から勝負にならなかった。この時点の孫の器量は、まだこの程度だったのである。

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佐野 眞一

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