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統計学が最強の学問である

なぜ統計学は最強の武器になるのだろうか? その答えを一言でいえば、どんな分野の議論においても、データを集めて分析することで最速で最善の答えを出すことができるからだ。
統計学がパワフルなものであるのならば、もっと前から社会のいたるところで使われているべきじゃないか?という疑問ももっともだ。その答えは統計学自体ではなく、統計学を活用するための環境の変化にある。もしみなさんが、大学時代の授業などから統計学に退屈なイメージを持っているのだとすれば、「紙とペンの統計学」ばかりを教育されたために、時代の最前線で最善の答えを生み出し続けるITによる統計学のパワフルさを体感できていなかったことが1つの理由なのかもしれない。
「ふ~ん」としか言えないグラフ
データ分析において重要なのは、「果たしてその解析はかけたコスト以上の利益を自社にもたらすような判断につながるのだろうか?」という視点だ。顧客の性別や年代、居住地域の構成を見ると何%ずつでした、あるいはアンケートの回答結果を見ると「とてもそう思う」と答えた人が何%いました、といったデータの集計を「解析結果」として示されることはしばしばある。コンサルタントだとかマーケターだとか名乗る人々の中にも、適当なアンケートを取ってキレイな集計グラフを作ることのみを生業にしているんじゃないかという人すらいる。だが、果たしてこれらの結果に「なんとなく現状を把握した気になる」という以上の意味はあるだろうか?
統計解析は3つの問い
問1 何かの要因が変化すれば利益は向上するのか?
問2 そうした変化を起こすような行動は実際に可能なのか?
問3 変化を起こす行動が可能だとしてその利益はコストを上回るのか?
「意味のある偏り」なのか、それとも「誤差でもこれぐらいの差は生じるのか」といったことを確かめる解析手法に「カイ二乗検定」というものがある。実際には何の差もないのに誤差や偶然によってたまたまデータのような差(正確にはそれ以上に極端な差を含む)が生じる確率のことを統計学の専門用語でp値という。このp値が小さければ(慣例的には5%以下)、それに基づいて科学者たちは「この結果は偶然得られたとは考えにくい」と判断するというわけである。

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中国の正体 5/5~独裁者の権力への固執

大躍進政策が描いた夢想
1958年の共産党八全大会二次会議は第二次5か年計画を決定し、工業と農業の飛躍的発展を主要目標に掲げた。大躍進政策の開始である。工業成長率は毎年30%前後、農業成長率は15%前後に設定され、工業生産額において15年でイギリスに追いつくことが提起された。そして鉄鋼と石炭の増産、食糧と綿花の増産が発展の主要項目となった。
> 現在の中国におけるGDPである。
その結果1958年度の鉄鋼生産量は既定の620万トンから1070万トンに増量されたが現有の製鉄設備では達成が不可能となった。当時は鉄鋼の生産量が一国の工業力を示すバロメーターであり、工業成長率毎年50%の達成には鉄鋼の増産は不可欠であった。この状況下で考え出された奇策が、土法製鋼(自家製の小溶鉱炉による製鉄。土法は民間技術、土着技術)であり、民衆がそれぞれの生産現場から製鉄運動に動員される。
その結果、全国で100万以上の小溶鉱炉が出現し、9000万人以上が製鉄運動に参加した。製鉄に必要な石炭の増産に対しても、土法の活用と民衆の参加が推進され、10万以上の小炭田が出現した。大躍進では到達目標だけが独り歩きしていた。共産党は1958年の鉄鋼生産量を1108万トンと発表したが、実際に生産されたのは800万トンであった。しかも、この800万トンのうち、土法製鋼による300万トンは不純物が多く使い物にならなかった。製鉄運動に参加した民衆は鍋や釜など日常生活上の鉄製品を原料として使用した。石炭不足を補うために山林は乱伐された。大躍進政策が中国の工業発展にもたらしたのは、壮大な無駄であった。
まもなく大躍進政策の壮大なツケが顕在化する。農民が都市での製鉄運動などに参加した結果、本来は農作業に投入されるべき労働力が減少し、農業生産力は低下し始めていた。一方、工業活動の拡大に伴い増加した都市人口を賄うため、政府は農民からの食糧買いつけ量を急増させ、農村の保存食量は減少していた。人民公社では公共食堂で無料の食事が提供され、再生産用の種子までが消費されていた。以上の状況のもとに、農村では1959年から1961年にかけて大飢饉が発生し、死者は2000万人とも3000万人ともいわれる。しかし農村から収奪した食料を配給されていた都市では、死者が出現することはなかった。農村での大量餓死者の出現を背景に、毛沢東は1958年12月にはみずから提案して国家主席の職務を退く。そして翌59年に劉少奇が新しい国家主席に就任した。このあと劉少奇と鄧小平の指導下に、大躍進政策により不正常に肥大化した経済活動に対する調整政策が推進された。調整政策の眼目は、都市人口の削減(農民を農村に戻す)、基本建設事業の縮小、農業生産の回復と発展(人民公社における共通化の程度を引き下げ、農民の生産意欲を引き出す)、市場の安定、赤字財政の克服などであった。
文化大革命前夜の政治状況
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毛沢東は、劉少奇と鄧小平が指導する経済の調整政策を、資本主義への道を歩む修正主義の出現だと考えた。そしてこれを阻止するため、文化大革命を発動する。文化大革命の正式名称「プロレタリア文化大革命」であり、1966年8月に開始が決定され、1976年9月の毛沢東の死により終息した。81年になり鄧小平は、文化大革命を毛沢東の晩年の誤りとして徹底的に批判した。文化大革命勃発の背景には、国内的要因だけでなく、中国とソ連の反目が存在した。独裁者スターリンの死去(1953年)後に権力を掌握したフルシチョフは、中国との相談なしにスターリン批判(1956年)を行ったが、西側諸国との平和共存路線や、議会を通じた社会主義への平和的意向を提唱し、中国の大躍進政策を批判していた。
劉少奇の抵抗と無残な死
毛沢東は劉少奇を最大の走資派(資本主義の道を歩むグループ=走は中国語で歩くの意)として葬り去る。しかし政治路線上の対立からだけで、あれほど残酷な仕打ちで生命まで奪い去ることができるのか。この間の経緯について中国側の文書は多くを語らないが、文化大革命の背景には政治路線上の対立だけでなく、自分の地位を脅かすナンバー2を倒そうとする毛沢東の凄まじい執念が存在した
1956年のスターリン批判後の第8回中国共産党全国代表大会では、党章から毛沢東思想の文字が削除された。さらに新しい党章には毛沢東の引退を前提にして共産党名誉主席の職位が設けられた。そうして劉少奇と鄧小平を中心とする党組織の改編により、毛沢東の独裁権力は制限され始めた。以上の状況下に、毛沢東は自らの指導力の挽回をかけて大躍進政策を敢行した。しかし千万人単位の餓死者を出す大失敗に終わり、劉少奇と鄧小平の主導した経済調整政策により被害の拡大を免れた。毛沢東の面目は丸つぶれである。
何とかして、従来の絶対的威信と権力を回復しようとする毛沢東は、性急に社会主義教育運動を提唱する。自己の権力を制限し始めた共産党の官僚体制を階級闘争のダイナミズムにより揺さぶり、その動揺と混乱を収斂させる核となることにより、自らの絶対的権力と権威を復活させることが狙いであった。その結果が文化大革命の発動であり、これにより劉少奇にとどまらず鄧小平を含む多くの共産党幹部たちが、資本主義を歩む走資派として打倒された。
しかし同じように打倒された劉少奇と鄧小平の処遇には、大きな差異が存在した。劉少奇は1967年の7月に中南海の自宅を数十万人の大衆に包囲されて残酷な批判集会に引き出され、2時間も前かがみで立たされ残酷な罵声を浴び続けた。そして家族と切り離され、妻の王光美は刑務所に収監された。劉少奇は自宅に監禁されたあと病に倒れたが、治療は施されなかった。67年10月には共産党を除名されたあと、69年10月には病身のまま北京から河南省開封に移送され、倉庫部屋に放置され1か月後に死去した。悲惨としか言いようのない最後である。
これに比べて、鄧小平の境遇は遥かに恵まれていた。1967年の9月から中南海の自宅に監禁されたが、コックと用務員は残されていた。そして69年10月からは江西省に下放されトラクターの修理製造工場で労働を強いられたが、下放には妻も同行し日常生活を保障されていた。また工場での作業自体も過酷なものではなく、現地の共産党幹部による細やかな配慮がなされていた。そして1973年になり、鄧小平は毛沢東の承認により国務院副総理に復活したのである。
一方は横死し一方は復活するという、劉少奇と鄧小平の差は何によりもたらされたのか。従来の研究書ではほとんど議論されないが、以下に示す中国語訳されている2つの外国特派員情報は両社に発生した差異の原因を明快に説明している。特派員情報の1つは、ハンガリーの記者であったバラチ・ダイナッシが、その著作である『鄧小平』(解放軍出版社、1988年)の中で語る内容である。もう一つの情報は、ユーゴスラビア駐北京記者の語る内容である。
劉少奇は文化大革命勃発直前の1966年7月に、北京を離れていた毛沢東不在のままで中央執行委員会全体会議を開催し、投票により毛沢東を名誉主席に選出し引退させようとした。そして数か月にわたる多数派工作を行い、鄧小平も自己の陣営に取り込んでいた。ところが鄧小平が土壇場で、毛沢東の北京帰還を待って中央執行委員会全体会議を開催することを主張したため、劉少奇の試みは失敗した。自己の不在中での中央執行委員会全体会議開催を阻止しようとする毛沢東と、あくまで開催を強行しようとする劉少奇の間には、双方による軍事衝突にまで進みかねない鋭い対立が存在した。間一髪で衝突は避けられたが、毛沢東は林彪の部隊を動員し劉少奇側は新疆軍区司令員である王恩茂の部隊を動員した。劉少奇は、1964年のソ連のフルシチョフ解任劇を模倣しようとしていた。以上の経緯を背景に据えて劉少奇と鄧小平の境遇を考えると、一方が無残な死をとげ、一方が保護されたという差異に納得がいく。
文化大革命において「四旧」として批判された旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣に痛撃を与えたのは、紅衛兵と呼ばれた大学生や高校生の学生たちである。紅衛兵の暴力は、表向きは毛沢東の権威に支えられていたが、その遂行を可能にしたのは人民解放軍武力による後ろ盾であった。1966年7月18日から20日の間に、北京は林彪の部隊により選挙された。これにより、紅衛兵による国家主席・劉少奇のつるし上げも可能になったのである。北京の紅衛兵は1966年の8月から行動を開始した。商店の掲げる伝統的な看板を打ち壊し、旧い通りや建物の名前を革命的な前に改め(たとえば、繁華街の王府井通りを「革命路」、さらに「人民路」に改名)、地主や資本家であった人々の家屋に大挙して侵入し、家宅捜索により古い文物を押収し、あるいは破壊した。
共産党は農村の生態系を破壊した
土地改革で地主制度を廃止し、土地の所有形態は変化した。しかし結局何がもたらされたのか。土地改革で一度は小土地所有者となった農民たちの土地を農業社会主義化の名の下に共有化させ、さらにはやみくもに農民を土地に縛り付けて移動を禁じた。そして一方では、農業生産力の主力であった富農や中農が排斥された。一連の政策は既存の生産様式を踏まえた合理的な方針ではなく、生産関係さえ改変すれば生産力は向上するはずだというイデオロギー先行型の性急な方針であった。そして何よりも新国家建設の原資を農民から効率よく搾取することを主目的としていた。かろうじて生産を持続させていた農村社会という生態系を破壊することになり、1950年代末から60年代初めには政策の誤りにより、農村には大量の餓死者が発生した。
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イスラーム国の衝撃 2/4~アフガニスタンにおけるアメリカ

追いつめられるアル=カイーダ
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ターリバーン政権が瞬く間に崩壊していく中で、アル=カイーダも主要な人員を失った。ビン・ラーディンの側近で主要な宣伝ビデオにもしばしば顔を出していたムハンマド・アーティフなどが、この時に死亡している。2001年11月17日以降には、アル=カイーダはターリバーン勢力の一部を含む1000人程度の軍勢とともに、アフガニスタン東部トラ・ボラ(Tora Bora)の洞窟に立てこもった。トラ・ボラは国境地帯に位置し、ハイバル峠を越えればパキスタンの連邦直轄部族地域(FATA)に至る。そして国境に横たわる「白山脈」には洞窟が連なる。米軍はトラ・ボラに集中的な空爆を行い、アフガニスタンの地元勢力が、地上での掃討作戦を担った。12月16日までにすべての洞窟を制圧し、200人のアル=カイーダあるいはターリバーン兵の死体が見つかったという。
このような大規模な軍事作戦にもかかわらず、ビン・ラーディンは忽然と姿を消した。トラ・ボラの攻撃を逃げ延びたことで、ビン・ラーディンは伝説となった。10年後の2011年5月2日に殺害されるまで、ビン・ラーディン自身が公の場に出たことはない。ビデオや音声のメッセージでその姿や発言が伝えられるのみだった。トラ・ボラの戦闘の後、ビン・ラーディンは直接の司令官というよりは、象徴的な指導者として、アイコンとして機能するようになったのである。取り残されたアル=カイーダのジハード戦士(ムジャーヒディーン)たちは、南部のバクティア県のシャーイコート渓谷(Shah-i-Kot Valley)に結集した。これに対して2002年3月1日から18日かけて行われたアナコンダ作戦は、アフガニスタン戦争での最大規模の戦闘といわれる。この段階になって、米軍の通常部隊が参加した。それまで地上戦は、主に特殊部隊によって担われていた。

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餃子の王将社長射殺事件 2/3~九州地縁

王将は1967年、福岡県出身の故加藤朝雄氏が京都・四条大宮に1号店を開いたことでスタートし、順調に業務を拡大した。が、93年の朝雄氏急死後、3代目社長に就いた長男・潔氏が遺訓に反して不動産投資など多角経営に走って失敗。約470億円もの有利子負債を抱えて倒産寸前にまで追い込まれ退陣した。2000年に後任社長となった創業者の義弟である大東氏は、思い切った資産売却と不採算店閉鎖を進めて就任2年で黒字化に成功した。05年に中国大連に進出し、06年に大証1部に昇格を果たすと、13年3月期の売上高は743億円と過去最高を記録、14年3月期も762億円と更新するなど完全に再生した。
2000年4月、「王将」の4代目社長に就任した大東氏の最初の仕事は金策だった。約470億円という当時の全売上高を優に上回る有利子負債を抱え、ただでさえ途方にくれるしかなかったが、それ以前に約50億円分の社債の償還期限が間近に迫っており、直ちに大口の出資者を見つけなければ倒産するしかない状況だった。「大東氏が公私に渡って交友関係を築いてきた知人らに頼み込んだ結果、そのうちの1人に『王将』の26億円余りの第三者割当増資を引き受けてもらうことに成功した、と聞いている。ほかにも複数の知り合いが合計で50億円余もの投資を約束してくれたということらしい。今後の展開次第では株式は紙くず同然になるし、他の設備だって二束三文になる危険性を秘めていたのに、大東氏の人柄や実績が信頼されたということだろう」(「王将」関係者)
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> 第三者割当を引き受けたのは、アリアケジャパンの岡田甲子男氏で、今でも株主名簿に名を連ねている

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池上彰と考える、仏教って何ですか? 2/2~日本で

日本ではまず国づくりのために仏教が導入されたため、国家の体制の安定や天皇の安寧を祈ると言う役割が求められました。そこですぐ効く、よく効く、密教のパワーが期待を集めたのです。最澄は806年に比叡山延暦寺で天台宗を開き、、空海は816年、高野山金剛峰寺で真言宗を開きました。日本における二つの密教の拠点が誕生しました。民衆の間では、ブッダ入滅から2000年経つと、仏法が正しく行われなくなり、世の終わりが近づくという末法思想が流行しました。日本では1052年が末法元年とされました。
そんな日本中が不安に満ちた世相を反映し、仏教に大きな地殻変動が起こりました。鎌倉仏教と呼ばれるグループの登場です。その源となったのは、社会不安も高まっていたこともあり、民衆の救済に目を向けることになった最澄が比叡山に開いた天台宗でした。
日本の仏教の歴史の中で、鎌倉仏教が革新的だったのは、それまで国家や貴族のものだった仏教を、庶民のものにしたことです。死者を浄土へと送り出す葬儀を進んで引き受けるようになったのも、救いを求める庶民の気持ちに応えようという仏教側からのアプローチの一環でした。今でこそ葬式仏教と揶揄されていますが、そもそも、誰もやりたがらなかった葬式を引き受けてくれたのです。世の中が最も切実に求めた仏教の姿だったのです。葬式仏教は当初、仏教の堕落ではなかったはずです。
死者をきちんと弔ってもらいたいという庶民の欲求に応え、鎌倉仏教の僧侶たちは葬儀に携わるようになりました。しかし、この動きがすぐに現在の葬式仏教と結びついたわけではありません。当時は、寺院が檀家の葬祭供養を執り行う檀家制度がありませんでした。どのお寺を選んでもよかったのです。お寺と信者の関係が変化したのは江戸時代のこと。幕府は日本のすべての家がいずれかのお寺に属するよう義務付けました。必ずしも幕府が信仰熱心だったからというわけではありません。江戸幕府はキリスト教を禁じていました。外国と結んだ大名の力が強くなったり、一神教を信じる信者同士が結束したりすることを警戒したからです。つまり体制の安定を維持するのが目的です。
檀家制度は、キリスト教徒ではないことを証明するための仕組みで、日本特有のものです。どの家庭もお寺に属し、仏教徒であると言う社会にすれば、少なくとも表立ってはキリスト教徒は存在できなくなります。檀家制度によって、家とお寺の関係が固定されました。この関係は代々続き、途中で他のお寺に鞍替えすることは困難です。檀家制度に先立って、仏教界内部でも本寺・末寺制度が確立されました。これは各宗派の本山を頂点とするピラミッド型の組織を作り、すべての寺院を管理できる仕組みです。今の日本が都道府県・市町村を通じて国民全員の戸籍や住民登録を管理しているような仕組みを仏教界にやらせたわけです。お寺にとってはありがたいことでした。常に檀家を確保できるのですから、一定の葬儀や法事のお布施が永久に保証されることになります。
僧侶の妻帯・世襲は日本だけ
リンポチェに対するインタビュー「これまでに僧侶を辞めたいと思ったことはありませんでしたか?」
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「一般には、結婚して家族ができ、子供ができればきっと幸せになれるだろうと希望を抱いて結婚します。最初の何日か、あるいは何ヶ月かは非常に楽しい時期が続きます。それが何年かすると、夫婦の間にはいろいろな問題が生じます。周りの人たちを見ているとよくわかります。夫婦間の問題は次第に大きくなり、嫉妬心やら疑惑やらと言った心配事が絶え間なく生じます。夫婦喧嘩のもとになり、ついには別れてしまったりします。こうしたことが周りでたくさん起きているのを見て、自分が歩んできた道は間違っていなかったと信じられるようになりました。
> ハハハ、なかなか絶望的な結婚観だな。

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中国の正体 4/5~独裁者への批判

勝敗を分けた戦略-隠された社会主義の汚点
戦略上見逃せないのは、内戦の帰趨を決定した満州の軍事状況である。満州は国境両軍の到着以前にソ連軍により占領されていた。そしてソ連軍は国民政府軍の満州進駐の速度を遅らせる挙に出たのである。さらにソ連軍は、共産党軍に満州到来を待ち、占領中の都市をその支配に委ねた。また日本軍から接収した武器を、共産党軍に提供したのである。これが共産党軍が戦略的に優位に立つ大きな要因となる。しかしながらソ連には共産党全面的に支援する意図はなかった。満州におけるソ連軍の動きは、ソ連が利権の回復をもくろむ満州内に、国民政府軍がアメリカ軍の助けを借りて進駐することへの抗議であり、最終的にはソ連は国民政府(共産党を内に含む)の中国支配を受け入れたと考えられる。事実としてソ連は日中戦争中には共産党よりも国民党を優先的に支援していたし、日本の敗戦間際には中ソ友好同盟条約を締結し、国民政府を中国を代表する政府として承認していた。この背景には、外モンゴルの独立を国民政府に承認させ、長年にわたる中国との領土問題をソ連側に有利に解決できるという外交上の利点があった。ところがソ連の思惑を超える新たな展開が発生してしまった。その結果国共内戦の帰趨が決定的になり、国民政府が南京から広州に移動した1949年4月の段階になってもソ連大使は国民政府の移動に同行することになる。
満州において共産党軍が勝利した要因として、以下の事実を考慮しなければならない。装備と数において優勢であった国民党軍の満州における展開は、大都市に集中した。これに対して劣勢の共産党軍は、大都市を結ぶ鉄道網を寸断して大都市を孤立化させた。国民党軍は航空機輸送に望みをつないだが、空輸能力には限界があり、国民党軍は食糧にも事欠く状況に陥る。一方、共産党軍は都市郊外の農村地区を厳しく管理し、物的かつ人的な補給を欠かすことはなかった。このようにして国民党軍は補給戦において敗北したのである。

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イスラーム国の衝撃 1/4~グアンタナモの報復として

指導者のアブー・バクル・アル=バグダーディーは、2010年に「イスラーム国」の前身組織「イラク・イスラーム国」のアミール(司令官)に就任した際から、預言者ムハンマドと同族の「クライシュ族」に属す、と主張してきた。イスラーム法上は、クライシュ族に属すということがカリフの要件として重視される。バグダーディーはいつか「カリフ」を名乗ることを、「イスラーム国」の指導層は早くから想定していたとみられる。世界中のモスリムが、バグダーディーあるいは「イスラーム国」の指導者を自らのカリフとして認めたということではない。しかし「カリフ制が復活し自分がカリフである」と主張し、その主張が周囲から認められる人物が出現したこと、イラクとシリアの地方・辺境地帯に限定されるとはいえ、一定の支配領域を確保していることは衝撃的だった
カリフ制はイスラーム法では世界のイスラーム教徒の共同体(ウンマ)の正当な指導者と規定される。しかし長期間、その座は空位となっていた。20世紀初頭まで存在したオスマン帝国のスルターンは、カリフ位についていると主張したが、預言者ムハンマドの血をひかないトルコ人のスルターンが全世界のカリフであるという主張は、イスラーム法上は疑わしい。全世界のイスラーム教徒を指導することを主張するカリフが存在していたのは、アッバース朝(750~1258年)までだろう。そのアッバース朝のカリフにしても、対抗してスペインに後ウマイヤ朝(756~1031年)のカリフを主張する政権が存在し、シーア派系のファーティマ朝(909~1171年)のカリフがエジプトを支配するなど、イスラーム教徒の共同体には複数の政体が並び立っていた。

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餃子の王将社長射殺事件 1/3~殺害現場の状況と警察

事件は2013年12月19日午前5時40分頃、京都市山科区西野山射庭ノ上町の「王将フードサービス」本社前で起きた。大東氏は通常と同じように、本社の約1.5km北東にある山科区西野大鳥井町の自宅から、黒い社有車を自ら運転して出発した。そして7分後、本社とは道路一本隔てた北側にある従業員専用の駐車場に着き、車から降りた直後に、その惨劇は起きた。突然、何者かが大東氏に駆け寄り、至近距離から拳銃を4発発射したのだ。傷の状態などから大東氏は立った状態で、ほぼ正面から撃たれたことが分かっている。発射された銃弾は大東氏の右胸に2発、左脇腹に2発とすべて命中した。駐車場に倒れている大東氏を発見したのは、早番で出勤してきた男性社員で、銃撃から1時間15分も経った午前7時頃のことであった。
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捜査本部が真っ先に調べたのが、犯行現場となった「王将」の駐車場から道路を挟んで南側にある別の梱包会社の倉庫に設置された防犯カメラであった。本社前カメラの映像解析によると、大東氏の車はいつも通り、駐車場内を時計回りに大きく旋回し、自分の”指定席”となっている南東側スペースに北側から乗り入れて停車した。そして、その数秒後には、駐車場のすぐ東側に立っている、「王将」が倉庫として使用している別棟社屋の前を東側から西側に向かって横切るように歩き、事件現場方向に接近する人影が映っていた。これは別棟倉庫の出入り口付近の上部に、人間が近付くと感知して光るセンサー付のライトが設置されていて、本社前カメラにその点灯した光が映っていたため確認できたのだ。周囲がまだ真っ暗なうえ、画像が粗くて不鮮明だったため、横切った人物の顔かたちまではわからなかったものの、あまり背が高くなくて細身とみられる体格の人物のシルエットをはっきりととらえていた。その直後、本社前カメラは発砲の際に出たと思われる複数の閃光をキャッチ。数十秒後には前出の人物と背格好がよく似た人影が、今度は別棟倉庫前を西から東に横切り、通路方面に戻っていった。

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池上彰と考える、仏教って何ですか? 1/2~中国へ

仏教では人間の持つ根本的な煩悩を三毒(貪り、怒り、愚か)としています。貪りというのはもっと欲しい!と欲張る心です。いくら欲しがっても得られないものは多いですし、手に入れたら入れたでもっと欲しくなります。限度のない欲望です。怒りもまた抑えがたい煩悩です。しかし、怒りをぶつけても問題が解決するとは限りません。逆に怒りの応酬となって問題は大きくなるばかりです。愚かとは、「諸行無常」(すべては移り変わる)「諸法無我」(確かな私など存在しない)といった真理を知らないことです。これを無明と呼びます。
> なるほど・・・俺、悟り開いてる状態に近いな。
ブッダは一箇所に長くとどまることなく、一生、旅を続けました。決まった居場所をもうけてしまうと、その場所や人間関係にとらわれて、離れがたくなったりします。持ち物が増えれば、それを守りたくなったり、別のものが欲しくなったりしがちです。そうした欲が頭をもたげるのを防ぐため、信者から寄進されたお寺にも長居せず、布教の旅を続けたのです。すでに煩悩の姿を見極めたブッダでさえ、油断するとまた、からめとられてしまう。
> アジア全域生活圏構想パクられた?
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かつて共産主義を生み出したカール・マルクスは、フランスで自身の思想がどう紹介されているのかを知って、こう皮肉ったそうです。「私にわかるのは『私はマルクス主義者ではない』ということだ。」
ブッダが今の仏教の姿を見たらどう思うでしょうか。思想というのは同時代の人にさえ、意図しない形で伝わってしまうものです。ブッダの時代から今に至る2500年の間には実に大きな変化がありました。時代によって、土地によって、変化したからこそ、仏教は世界宗教になることができたのです。ブッダは教えも文字で残さず、すべて対面で教えを説いていたと言われています。

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中国の正体 3/5~形式的な農地解放

中国の労働運動をめぐる不可避的対立
中国の労働運動は、国民党員や共産党員たちにより、国共合作が成立する以前の1920年代初頭から別々に開始されていた。そして中国の民族産業の未発達という状況下に、当初の矛先は列強諸国の商業活動や工業活動に向けられ、貿易港であった広州や上海において、港湾労働者の荷揚げ拒否などを中心に大規模なストライキが展開される。ストライキにより列強諸国の商業活動や工業活動に打撃を与えることは民族産業の発展に寄与した。
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1年以上も続いた広州と香港のストライキでは、国民党と共産党は全国からの経済支援の下に、イギリス資本に大打撃を与えていた。また上海のストライキでは、著名な民族資本家であり上海総商会会長であった虞洽卿が、イギリス資本や日本資本に対抗するため、共産党と協力していた。虞洽卿は上海総商会を指揮して募金を集め、共産党にストライキ資金を提供した。その結果、外国の汽船会社がストライキで業務を麻痺させる間に、虞洽卿の経営する汽船会社の山北輪埠公司は業務を拡大させ大きな利益を得た。この段階では、共産党と民族資本家は反帝国主義闘争で利害が一致し、両者の間に衝突が起こる可能性は少なかった。しかし結局は、武漢において民族産業まで敵に回す労働運動が共産党の指導により展開された。その結果、国民諸階層の協力により帝国主義の圧迫と封建的要素を払拭するという国民革命の枠組みは崩れ去り、国共合作を支えていた経済基盤も破壊されてしまう。
ゴロツキの軍事力
会党は全国各地に存在し、内部には種々の社会階層が存在したが、主力は遊民階層であった。遊民層はマルクス主義ではルンペンプロレタリアートと呼ばれ、定職を持たない不安定な階層であり、生産活動に従事する階級としての資格を持たない存在であった。そしてその不安定さゆえに、ときとしてプロレタリアートの敵対階級に加担する危険を指摘されていた。それゆえ遊民層を中心とする運動などは、従来の社会主義理論では、全く肯定されえない運動であった。しかし毛沢東は、その「湖南省農民運動視察報告」(1927年3月)に明らかなとおり、共産党中央の批判をものともせずに遊民の発揮する暴力を革命の破壊力として容認し、社会主義への新たな道を切り開こうとした。中華人民共和国成立後に公刊された『毛沢東選集』では、遊民層に対するマルクス主義の否定的観点への配慮からであろう、毛沢東の「湖南省農民運動視察報告」の原文にあった、農民協会員中の遊民を形容する「緑色の長い上着を着ている者」や「賭博や麻雀を打つ者」などの表現は削除されることになる。
> んー。この中国における被差別対象である「遊民」がなんなのか、今一つイメージわかないな・・・。
中国の歴史上では、衰退した王朝末期にしばしば発生する遊民層の反乱が社会のさらなる動揺を促進し、やがては大規模な農民反乱を出現させていた。毛沢東は1928年11月の共産党中央への報告において、自分たちの遊撃戦は伝統的な反乱である打江山(ダーヂアンシャン、山などに立てこもり、武装して反政府活動を行う)であるとし、全国的な革命の高まりと結合する必要を確認している。自分たちの運動と伝統的特質を熟知していたのである。共産党員の反乱より15年前の1912年には、辛亥革命後の混乱の中で兵士や遊民層が結合した白朗(指導者の名前)の乱が発生し、14年には鎮圧されたが一時的に広大な支配圏を作り上げていた。それゆえ共産党員たちの行動は当時としては特別な出来事ではなかった。かくして外来の新思想の実験であった中国の共産主義運動は変貌し、中国社会の実情に即した展開を開始した。

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三陸海岸大津波 3/3~太平洋を越えた津波の伝播

三陸海岸に明治29年の津波につぐ大津波が来襲したのは、昭和8年3月3日であった。この大津波の来襲前には、明治29年の折と同じように各種の前兆ともいうべき異常現象が見られた。その一つに井戸水の減少、渇水又は混濁があった。
宮城県
 本吉郡大島村…それまでは降雨のない時期でも減少したことのなかった多くの井戸が、2月中旬から減水するという奇怪現象があった。そのため同村では採集した海苔を洗う井戸水の不足に困惑した。
 同郡唐桑村欠浜…四季を通じ減水したことのなかった井戸がいちじるしく水位が下がり、渇水状態となった。
岩手県
 気仙郡越喜来村…当村尋常高等小学校校長小原永太郎氏は、津波来襲の20日ほど以前から井戸水の減少に気づき、同村の高所にある6箇所の井戸の推移を詳細に観測していた。その結果は、次のようなものであった。
 (1)竜昌寺内の井戸 この井戸は地上から水面まで約3mの深さで、たたえられた水の深さは1m余であった。この井戸は明治29年の大津波の直前に渇水したが、今回も津波の20日前から水が完全に涸れ、井戸の底が露出してしまっていた。また同寺内の泉水も、同じように湧出が停止していた。
 (2)平田玉男氏宅の井戸 井戸の深さは地上から水面まで5m、水深は2mであった。清澄な水であることで評判だったが、津波の3日前からいちじるしい混濁が認められた。
 (3)新山神社内の井戸 この井戸は、どのような豪雨があっても濁ることのないことで知られていた。ところが津波来襲の5日前から目立って濁り始めて、その上減水も甚だしく遂には涸れてしまった。それが旧に復したのは、津波があってから5,6日たってからであった。
 (4)及川義男氏宅の井戸 井戸の深さは6m。良質の水が出ていたが、3、4日前から濁り始めて水も涸れた。
 (5)熊谷与左衛門氏宅の井戸 井戸の深さ約4m。3日前から混濁した後渇水。
 (6)正源寺内の井戸 井戸の深さ2m。降雨もなかったのに2月中旬から甚だしく混濁。
 上閉伊郡釜石町…地震後、急激に井戸の水が減り、ほとんど涸れた状態となった。
 下閉伊郡船越村…数日前から井戸の水が著しく減少した。
 同郡織笠村…地震後、村内のすべての井戸の水が半減した。
 同郡大沢村…一部の井戸に減水が認められた。
また明治29年と同じように、沿岸各地で、例年にない大豊漁がみられた。ことに鰯の大群が群れをなして海岸近くに殺到、各漁村は大漁に沸いた。三陸沿岸の鰯漁は、11月一杯で終わりそのあとの漁獲量は急に少なくなるはずなのに、年を越してからもさらに漁獲は激増するという異例さだった。また岩手県下閉伊郡田野畑村島ノ越では、津波以前に波打ち際に大量の鮑が打ち寄せられた。それは、海にいることに不安を感じて、磯に這い上がろうとしてるようにもみえた。その他鮑が大量に死んだり無数の海草類が海岸をうずめるほど漂着したり、海中に異変がひそかに起こっていることを示していた。

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第5次ジャカルタ攻略 5/5~市内南部

Lippo Mall Kemang
大戸屋に行ってみました。
炭火焼定食とごはんをオプションでとろろご飯に替えて、160,000IDR(1300~1400円程度)です。うん、値段的に普通w 海外で食べる日本食としては、日本と同じかそれより少し高い程度。シンガポールは2倍くらいなので露骨に高いです。
ってことを書こうとしたのです。タクシーで行くと、ここから書き始めることになります。歩いているのは、ケチなのもありますが、ジャカルタの現状を見ることができないからです。それではジャカルタにシンガポールから来て、1か月も滞在している意味がないのです。
ドブ、穴、バイクなどあるのですが、夜は、これまた、東京やシンガポールのように道路がこうこうと照らし出される照明はないのです。照明ありますが、あれほど明るくありません。治安の問題ではないのですが、雰囲気が悪く、実際に危険なので、カネやSurfaceを持ち出しにくい気持ちになるのです。
じゃ、逆に今度は結論から。ガンダリアシティにも歩いて行ってみました。友人が住んでいて、「ガンダリアシティは日本人が多い。だから日本食も多くある。」とのことだったので、またフリーペーパーを片手に、歩きでトライです。片道1時間くらいかかりました。ブロックMから徒歩圏、地図上の直線距離で約1km、ジャカルタの場合、まっすぐスタスタとは歩けないので、歩いて30分弱程度かかります。メインのストリートを使えば、多少曲がっていても、もう少し効率的に移動できますが、いつも歩いている道路で面白くないので、Fatmawati道路の脇道を攻めてみることにしました
平日の昼間、友人は普通に働いているので、約束していたわけでもなく、一人で散歩がてら、途中で迷うことも想定しています。脇道はどこもかなり入り組んでいていて、曲がっていたり行き止まりがあったりするので、原則的に、脇道を使うことはお勧めできません。歩き始めて5分くらいは、歩いている道と記憶の上での地図上の道が一致していますが、だんだん、複雑になってきますので、脳内コンパスで目的地に向かってひたすら歩きます。途中で大丈夫かな・・・これというレベルに達します。どういう通りかというと…。
道路の幅、バイク2台が徐行すればギリギリすれ違える道幅、車は当然入れません。しかし、不思議なことに道路の両側はずっと民家が続いています。この風景どこかで見覚えが…
カリジョドだ…。2013年は、カリジョドで検索しても一切出なかったのですが、今は何件か出るようになりました。ただ、あまり行かないほうがいい場所です。カリジョドはかなり危険な場所なので、撮影とかできる雰囲気ではありません。
2013.08.28 ジャカルタ・リラクゼーション・アワー 9/16 ~神秘の場所カリジョド
今、私が歩いているのは、カリジョドではなく、平日昼間、ジャカルタ南の脇道です。では写真を。
Jakarta-Back-Street.jpg

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聖書の常識 6/6~キリスト教と暦の関係

ユダヤ教三派の中で、一番進歩的で柔軟性があったのはパリサイ派だった。三派の中でキリスト教と最も多くの共通性を持ち、キリスト教の重要な母体となったのは、パリサイ派と考えてよい。これは使っていた暦を見てもわかる。パリサイ派がつかっていた暦は、ローマの暦に近い。当時、どういう暦を使っていたか、つまり、どの日にどんな祭りをするかということで、その宗教宗派の信条や主張を知ることができる。パリサイ派の暦はローマ暦に非常に似ていて、それとうまく調和するように作られていたという。エッセネ派のクムラン暦というのはそれとたいへん違って、1年を364日としている。サドカイ暦も同じだったろうと言われているが、これはクムランのエッセネ派が当時の上流知識階級の出身者が多かったからであろう。彼らは神殿貴族のサドカイ派と鋭く対立していたとはいえ、やはり一種の知的貴族であり、自分たちを一般民衆から隔絶した位置においていた。ではなぜ、1年を364日にしたか。1年が365日だと、毎年、何月何日の何曜日にこれこれの祭りを行えと定めても、年によってその日の曜日が狂ってくる。これを狂わないようにするために1年を364日にしたのであろう。そうすれば1年52週できちんとおさまる。余分の日は一種のうるう日として処理をする。現代でも一部で議論されている万国暦は、これと同じ発想である。
イエスの生年月日は紀元1年のクリスマスではない
西暦を作ったのは、スクテヤ人の修道僧ディオニシウス・エクシグスである。彼が533年にキリスト紀元のはじまりを確定しようとしたとき、大きな誤りをおかした。紀元前1年と紀元1年の間にゼロ年を挟むことを忘れ、ローマ皇帝アウグストスと次のティベリウス帝との共同統治期間の4年間を見逃してしまった。そして、イエス誕生の年について、福音書がはっきりとこう記述していることも見逃した。すなわち「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき・・・」(マタイによる福音書2章1節)。ヘロデの統治期間は紀元前37年から前4年で、この年に死んでいるのだからイエスが生まれたのは紀元前4年以前でなければならない。現在では紀元前6年というのがほぼ定説である。紀元前7年の土星と木星の相合が3回起こったことは明らかで、これは794年に1回しか起こらない珍しい現象だから、人々の記憶にこの現象とイエスの生誕が結びついても不思議ではない。

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中国の正体 2/5~マルクス->ボルシェヴィズム->毛沢東主義

マルクス主義の宗教的性格
マルクスの予言は、資本主義社会の矛盾を克服する救済の道筋として、人々の感性に強く訴えた。ほとんど宗教的な影響力である。最後の階級闘争と資本家階級と戦うプロレタリアート階級の存在、資本家階級の支配する国家はやがて死滅する、プロレタリアート階級が国境を越えて団結し人類の解放者となる、最後には共産主義社会が到来する・・・というマルクスの予言は、キリスト教の聖典である『ヨハネ黙示録』が預言する千年王国の到来と内容が共通している。『ヨハネ黙示録』は、選ばれた人々が救世主の絶対性を信じて組織化され、悪の跳梁する社会において戦いを繰り広げて悪なる者たちに勝利し、千年の間、救世主とともに地上の王国を支配した後、復活した悪なる者たちとの最後の戦いに勝利し、さらに最後の審判が下されたあと理想の国が実現される、と預言する。これをマルクス主義に置き換えれば、「共産党宣言」が予言の書であり、最後の階級闘争を資本家階級と戦うプロレタリアートが選ばれた民であり、資本主義社会は「搾取」という原罪の上に成り立つ悪なる社会であり、資本主義の危機とその消滅が最後の審判であり、共産主義社会が理想の国の実現なのである。ついでにいえば、プロレタリア独裁は千年王国の期間に相当するであろう。マルクス主義は、たしかに「科学的な」社会主義であった。しかし『ヨハネ黙示録』になぞらえるほどの、強烈な宗教的色彩を帯びた「救済思想」でもあった。

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三陸海岸大津波 2/3~現在と変わらない被災後の惨状

岩手県南九戸郡野田村駐在巡査 遊佐左仲がいる。午後8時20分頃、野田村駐在所から1キロほどの地点まで来た時、かれは、ドーン、ドーンという音を聞いて足をとめ、海上を凝視した。その時、眼に火の色が映った。それは提灯ほどの大きさで、数十個の怪火が沖合から陸地にかけてゆらゆら揺れるように漂っていた。遊佐巡査は、俗に伝えられる狐火かと背筋の凍るのを意識してたたずんでいたという。音響と怪火は、巨大な波の壁から生じたものであった。波はその頂でほのじろい水しぶきを吹き散らし、海上一帯を濃霧のような水の飛沫でおおった。ジャバ島附近のクラカトウ島火山爆発による大津波につぐ、世界史上第二位、日本最大の津波が三陸海岸を襲ったのだ。
宮城県下の被害は死者3,452名、流失家屋3,121戸、青森県下では死者343名に達したが、この両県に比して岩手県下の被害はさらに甚だしく、死者は実に22,565名、負傷者6,779名、流失家屋6,156戸にも及んだ。村落は荒地と化していた。津波の運んできた大小無数の岩石が累々として横たわり、丘陵のふもとにある家々がわずかに半壊状態で残されているだけで、海岸線に軒を並べていた家々は跡形もなく消えていた。死体が至る所に転がっていた。引きちぎられた死体、泥土の中にさかさまに上半身を没し両足を突き出している死体、破壊された家屋の材木や岩石に押しつぶされた死体、そして、波打ち際には、腹をさらけ出した大魚の群のように裸身となった死体が一列になって横たわっていた

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第5次ジャカルタ攻略 4/5~危険な道路《重要!読め》

私はジャカルタの南部に住んでいるので、南部を中心に遊んでいます。例えば、ホテルムリア、プラザセナヤン、ブロックM、ウィジャヤなど、今まで登場した多くは南部に位置し、この4つに至っては、一本の幹線道路沿い上に、南部の中で南北に広がっています。今日はさらにその南部を東西に広げて、紹介したいと思います。
どこの国でも都会なら日本の飲食店に行くと、フリーペーパーが手に入ります。飲食店探し、特に日本食に関しては、地図付きで綺麗にまとまっているので、なるべく読むようにしています。それを参考に、南東部のKEMANG(クマン)に行ってみました。私のKOST(アパート)から歩いて40分ほどの距離です。ああ、タクシーには乗りません。歩きです。治安的には大丈夫だと思うのですが、夜で、幹線道路ではない脇のかなり細い道路を通っていくつもりだったのでSurfaceは置いて、コガネだけ持ってのお出かけです。
--ここから先、ジャカルタの不衛生な面について、わかりやすくするために写真を入れます。写真には臭いが写らないので、それほどキツイ写真ではないですが、お食事中の方や繊細な方はこれ以上は見ないことをお勧めします

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聖書の常識 5/6~律法体制

律法は現代も生きている
たとえば、食べ物についての規定などでも、外部からみると「掟の上に掟を立てる」でどんどん増えて膨大なものになっていく。だがその本を探れば律法とくに申命記の規定なのである。ときにはそれが笑い話のようになるが、イスラエルでは肉の出るレストランではバターも乳製品も出ないし、アイスクリームも食べられない。またレストランは乳製品用キッチンと肉製品用キッチンを分けねばならない。なぜこういう規定があるかというと、旧約に「子やぎをその母の乳で煮てはならない」(申命記14章21節その他)とあるからだ。これは牧畜民としてごく常識的な規定であるが、これが拡大解釈され徹底化すると、同時に食べると腹の中で煮ることになるからいけないということになる。しかし、そのアイスクリームに使われた牛乳は、ビフテキになった牛の母親のものという証拠はないではないかと質問すると、ビフテキになった牛の母のものではないという証拠もないからだめだという。こうまでいわれると、それならアルゼンチンから輸入した肉と、現地の乳製品ならいいのかと、皮肉も言いたくなる。
だが、皮肉や嘲笑を別として考えれば、どの民族にも相当に厳格な生活規範があり、振り返ってみれば日本人も例外でないということである。われわれは犬、猿、蛇、蟻の卵は食べないが「なぜか。何に基づくのか」と、それを食べるのが当たり前の民族から問われれば返事はできない。しかしユダヤ教徒やイスラム教徒が「なぜ酒を飲まないのか」「なぜ豚、貝、うなぎ、かに、えびの類を食べないのか」と問われれば明確に答えることができる。いわば彼らは規範の典拠が神との契約という形で明確になっていて、われわれのように「何となく・・・」ではないのである。

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中国の正体 1/5~建国当初最高位は毛沢東以外にもう2人いた

幹部と呼ばれている共産党員たちは、1980年代半ばまでは、一級を最高位とし24級を最下位とする等級制度に区分されていた。そして人口の0.01%にすぎない13級以上の幹部が高級幹部と位置付けられ、古代の貴族同様にきわめて大きな社会的特権が与えられていた。建国当初の最高位は、毛沢東、ダライラマ、サイフジン(新疆ウイグル自治区指導者)の3名に与えられた3級であり、さしずめ正二位である。鄧小平は五級で正三位であった。現在の日本でも、等級制に基づく給料体系が存在するが、等級間に極端な格差はない。ところが中国での等級間の格差は極端であり、高級幹部になると国家から古代貴族さながらの大きな物質的特権が与えられる。
サイフジン、サイプーディンなのか色々書き方はある
Saipuding.jpg
伝統的な封建王朝の清朝は、1911年に勃発した辛亥革命により崩壊し、1912年には中華民国が成立する。さらに9年後の1921年には中国共産党が出現した。しかし当時、北京の紫禁城の奥には中華民国政府から歳費を支給された清朝最後の皇帝の溥儀が生活しており、溥儀がクーデターを起こした軍閥の馮玉祥により紫禁城を追い出されるのは、1924年である。これらの事実から、中国近現代史が「伝統」と「封建」、さらには「社会主義」を混在させながら進展しなければならなかった状況が理解される。
清朝の皇帝は二つの顔を持っていたのである。清朝は満州人の樹立した王朝である。満州人の皇帝は、漢民族に対して中国の伝統的皇帝として君臨したが、モンゴル人やチベット人に対しては、ジンギスカン以来の遊牧民族の大ハーンとして臨み(ジンギスカンの子孫から正統の証としての印綬を引き継いでいた)、支配・被支配の関係ではなく藩部の名のもとでの一種の同盟関係にあった。そしてモンゴル人もチベット人も、民族固有の法による自治を許されていた。さらに、満州人もモンゴル人もチベット人もチベット仏教徒であり、ダライラマを崇める人々であった。

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三陸海岸大津波 1/3~津波の不気味な前兆

明治29年(1896年)6月-「前例を見ない大漁だ」
当時の大豊漁については現在87歳の高齢で岩手県下閉伊郡田野畑村に住む早野幸太郎氏がよく記憶している。氏はその年に13歳であったが、早野少年の眼にも、その折の大豊漁は奇異な印象として焼き付けられた。早野氏の生家は網本で、数多くの定置網を海面に張っていた。氏の記憶によると6月10日頃から本マグロの大群が、海岸近くに押し寄せてきたという。網の中に、マグロがひしめき合いながら殺到してくる。網はマグロの魚体で泡立った。マグロは出口を求めて網の壁に沿って一方向に円を描いて泳ぐ。マグロの軍が網の内部をうなりを立てて素早い速度で回っているのを見た。その勢いで網の内部には大きな渦が生じ、中央部の水面は深くくぼんで擂鉢状にさえなっていたという。漁船は、それらの網からマグロを引き上げ、今にも沈みそうになるほど満載して海岸にたどり着く。岸はたちまち魚体でおおわれた。村の者たちは、老人や女をはじめ子供まで加わってマグロを箱に入れていった。が、後から後からマグロが陸揚げされるので、入れる箱もなくなってしまった。
異常な大漁は40年前の安政3年(1856年)以来のもので、その年には青森県鮫村から湊に至る地域をはじめ三陸海岸一体に戦慄すべき災害が発生していたのだ。安政3年7月23日、北海道南東部に強い地震があり家屋の倒壊が相次いだ。その地震の直後、青森県から岩手県にかけた三陸沿岸に津波が襲来し、死者多数を出している。その津波が海岸線を襲う以前に、漁村は鰯の大豊漁ににぎわった。つまりその40年ぶりの大豊漁は、津波襲来の不吉な前兆である可能性も秘めていたのだ。事実、その豊漁と平行して、多くの奇妙な現象が沿岸の各地にみられた。

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第5次ジャカルタ攻略 3/5~夜の遊び方

シンガポールに住んでいる先輩と、昔シンガポールに住んでいて、ジャカルタに転勤になった後輩と3人で、寿司に行きます。
シャングリラ 西村
先輩が裏技を使ってくれているので、海外で食べる鮨としては、少し安いくらいのお値段になります。シャングリラカードを持っていると、一人分無料+会社の接待で使った時の残りのボトル、というなかなかお洒落なワザですが、サラリーマン特権にあやかりましょう。おごってもらっちゃったので、いくらか書けません。領収書がないので忘れちゃうのです。僕が領収書をもらうのは、会社に請求するためではなく、記憶のためです。確か一人500,000IDR相当くらいだったような・・・。かなり怪しいです。もっと高かったらごめんなさい。どちらにしても裏技使わなければもっと高いのは確実です。先輩いつもごちそうになります!
シャングリラ B.A.T.S.
BATS-shangri-la.jpg
ホテルのウェブには、バーと書いてあるのですが、生バンド付きなので、ディスコに近いです。有名な所らしいのでブラッと見学。金曜の夜で混んでいたので即撤退です。
ホテルムリア CJ’s
何度登場してるんですかね? まぁ、毎年1回は必ず来てるので、最低でも5回目です。安心のホテルムリア。ドレスコードがあるので、このために毎回、ジャカルタに靴を持ってきています。今回は、ウォーキング用の運動靴ですが。金曜の夜なので異様な日本人率。本当は日曜~木曜の深夜に差別化をはかりたいところですが、まぁ良いでしょう。
ホントに毎年来てるw どれだけ好きなんだよw
2014.10.30 ジャカルタ潜伏 9~ホテルムリア
2013.09.11 ジャカルタ・リラクゼーション・アワー 11/16 ~民としての生活と物価
2012.10.18 ジャカルタに行ってきました 6/9~ナイトクラブHotel Mulia
真・遊蔵の遊び方
ブロックMの名店・レディースバー風居酒屋の遊蔵ですが、私が真面目なので、類が友で、私の友人もまた真面目な人が多く、普段は「飲み代が無料」の居酒屋として利用しています。お酒は無料ではないのですが、持ち込み料がかからないので、インドネシアでは入手困難なシングルモルトでも、国外で買ってから持ち込めば、飲み方、自由です。さらに遊蔵が素晴らしいのは、居酒屋として使え、気が向いたらカラオケ化できることにあり、1階で居酒屋として使う分には、真面目なお話や議論をする静けさがあります。普通のブロックMのカラオケは、うるさいので議論には不向きです。通常利用は私も
2012.12.26 第二次ジャカルタ攻略 11/11 ~2時間160円のキャバ
このような感じで、激安居酒屋として使っています。しかし、このような遊び方だけでは、せっかくの名店・遊蔵がつぶれてしまうので、たまにはお二階に上がってあげましょう。
シンガポールから仕事で来ている先輩と、遊蔵で飲んでいたら、東南アジアのとがり顎が「エキゾさん、今日、お二階は…」と遠慮しがちに言ってきました。ごめんねー、いつも酒の席なのに、大真面目な顔で真剣に話してるから、話しかけにくいよね。
二階はカラオケなんですけども・・・。
先輩「おぅ、いいよ。じゃ、いこか」
即断即決でお二階に。お付きの女性を選ぶ時間の前に、東南アジアのとがり顎に「お友達を適当に何人か呼んでいいよ」と言ったところ、「今日は、エキゾさん選ぶー。大丈夫ー。」と言われてしまいました。そうじゃねぇんだよ、男なのに選り好みするという選ぶ行為そのものが嫌いなんだ。5人の女の子が登場し、
先輩「何人選んでもいいの?」
ママ「はい」
先輩「じゃ、全員」
女の子たち「ワーーー」
はぁ、良かった。「私はいつもそうなんですが、一人3人くらいつけても良いかもしれないですね。」という前に即決してくれました。この即決は、女の子の印象をよくします。私はお二階は、東南アジアのとがり顎+1~2人なのですが、今日は全部で6人付け、÷2ですがw 先輩さすがだなぁ、全員の名前を聞いて、ちゃんとメモしてる。さすがに6人全員の名前は俺も覚えられない。
ここからは2:6なので、インドネシアナイトになります。多勢に無勢なので、女の子たちは、インドネシア語で、好きなようにしゃべります。私は全くインドネシア語は理解できないのですが、せっかくのインドネシアなので、インドネシア語、インドネシアソングは歓迎です。日本語はリモコンで入れられるのに、インドネシアソングは手動、マイクで曲名をスタッフに言うと、後ろでスタッフが入力します。彼女たちが歌う、日本語の歌のレベルで、だいたいキャリア=年齢がわかりますw 日本語の歌は、みんな歌詞をアルファベットで書いた手帳を持っていて、それを見ながら歌います。インドネシアソングは、下を見る必要がないので、みんなで踊りながら歌います。なぜか、この時、照明を落として、室内を暗くしますw インドネシアのディスコは、異様に暗いディスコが多いので、踊り=暗い所というのがインドネシア・コンセンサスなのでしょうか。タイでも中国でもフィリピンでもインドネシアでも良いのですが、この多勢に無勢のハーレムナイトは、必ず、現地の波に飲まれます。なので現地の風を感じるには、最も資金効率が良い遊び方でもあります。
真・遊蔵ナイトのご予算が気になる人もいるでしょう。ご安心ください。
{(コーリングチャージ 300,000IDR + ドリンク 80,000IDR) × 6人分 + 部屋代 100,000IDR+その他、氷・軽いつまみなど} ×(1+21%(税・サービス))
=・・・3,000,000IDR (約3万円)
6人付けてもだいじょうぶー。私の経験では、名店・遊蔵は、コーリング(ホステス)チャージを異様につけてきたり、レディースドリンクを何杯も勝手に注文したりというトラブルにあったことはありません。普通のカラオケ店では、この辺りは、注意する必要があります。
注:私は遊蔵の回し者ではないので、公平に記述しておきますが、レディースバー風居酒屋という中途半端な業態なので、ウェイトレスとホステスの中間くらいのノリの女の子が多く、接客に関しては、普通のカラオケ店の方ができていると思います。またキレイどころを揃えたようなカラオケ店もありますが、遊蔵は、ちょっとロリっぽい・子供っぽいような素人系が多く、大人でスタイルの良い女性は居ません。セクハラは普通のカラオケでは当たり前でしょうが、遊蔵でも禁止ということはありません。セクハラしても怒られませんが、緊張してしまうような素人っぽい子もいますので、しないほうがリラックスして楽しく遊べると思います。一言でいえば「中途半端」な店だということは、ご認識の上で、遊びに行ったほうが良いです。
【夜の蝶たち】
2015.06.17 日本全土落下傘計画2015年 東北編 1/3~国分町キャバクラ通り
2015.05.26 九州キャバクラナイト1/4~中洲へのアクセス
2015.03.24 タイ全土落下傘計画2015 7/15~スナックのようなキャバ
2015.01.07 第二次フィリピン遠征 9/10~マニラで最も綺麗な所グローバルシティ
2014.12.04 第二次フィリピン遠征 5/10~セブのゴーゴー
2014.10.08 ジャカルタ潜伏 6~最大手カラオケ
2014.04.08 第5次タイ攻略 後編 14/14~シンガポールへ
2013.10.25 初フィリピン・マニラ編 5/14 ~ゴーゴーバー
2013.07.30 春のタイ 後編 ソンクランのはしご 7/8 ~プーケット潜伏隊
2013.05.22 春のタイ 前編 ソンクラン前 6/9 ~ウドンタニ攻略の布石
2012.12.12 第二次ジャカルタ攻略 9/11 ~ちょっと下品なコタ・ライフ
2012.04.05|KTVデビューしました 4/5 ~プロとして
2012.02.29: タイ旅行 7/11~ゴーゴーバー

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聖書の常識 4/6~旧約聖書はいつ完成したか

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南王国を滅ぼしたのは、北を滅ぼしたアッシリアではなく、それに代わって興隆したバビロニアであった。そして、それからバビロン捕囚がはじまる。もっとも全員がバビロンに移されたわけでなく、いわば指導者階級が移され、残りのものはバビロニアが任命した総督に支配されていた。最初の総督ゲダリヤは過激派に暗殺されている。この捕囚が何年続いたかは、捕囚も帰還も二次以上に渡っているので正確に数えにくいが、いずれにせよ彼らはペルシア王キュロスがバビロンを占領したときに釈放された。占領は紀元前539年、翌538年にユダヤ人釈放の布告があり、この年にパレスチナへの第一次帰還が行われ、ついで二次帰還、さらにその後にも帰還があったと推定されている。っこれでバビロン捕囚の終わり、第二神殿期の始まりとなる。第二神殿期というのも非常に漠然とした言い方だが、捕囚から帰った人々によってエルサレムの神殿が再建され、神殿が政治の中心で、祭司侯国といわれる時期、これをユダヤ教の形成期と見ていい。
聖書の「契約」とは?
我々は何の抵抗もなく旧約聖書・新約聖書という。その「約」とはいったい何だろうか。「約」は契約の「約」で、ヘブライ語では「ベリート」といい、ギリシア語では、「ディアテーケー」、ラテン語でゃ「テスタメントム」といい、そこから「テスタメント」という英語になった。旧約という概念は新約という概念があって初めて出てきたもので、大体2世紀にはじまり、それ以前にはなく、現代でもユダヤ教徒は旧約という言葉を使わない。いずれにせよ、「聖書」の基は「契約書」なのである。「契約」という概念が日本人にあるかないかはよく問題になる。だが、この議論にはしばしば概念の混同があるように思われる。というのは契約には4種類あり、通常これを、(1)上下契約(2)相互契約(3)履行契約(4)保護契約、とするが日本人にないのはおそらく「上下契約」で、他の契約概念は定義が明確でなく漠然とはしていても、日本人にもあると思われるからである。たとえば日本にも「忠臣」がおり、「忠臣蔵」もある。しかし当時の家臣は殿様との間に契約を結んでいたわけでなく、またこの契約を完全に履行するのが「忠」だという発想があったわけではない。これは西欧の騎士が主君と契約を結んでいたのと大きな違いである。もちろん戦時中にも、天皇との間の契約を死んでも絶対に守るといった発想はない。この「上下契約」は、実は聖書の中の基本的な考え方であり、絶対者なる神との契約を絶対に守ることが「信仰」(フェイス)すなわち「神への忠誠(フェイス)」なのである。したがってその意味は日本人の言う「信仰」「信心」といった言葉と非常に違う。そして「神との上下契約」という考え方が基となっているので、聖書の宗教は「契約宗教」と呼ばれ、それが明確に出ているのが、俗に「モーセの十戒」といわれる「シナイ契約」である。
空と無 仏教徒聖書の違い
仏教で言うような「空」とか「無」という概念が聖書にあるかないかは大きな問題で、従来の定説に従えば「ない」とするのが普通であろう。新約聖書に「無から」という言葉が出てくるが、この「無」というのは、否定詩とbe動詞だけで表されており、「存在がない」という単純な意味で、そこに「無」の思想を読み込むべきでないと私は思う。「無からの創造」という言い方にしても、これはラテン語時代のもので(ラテン語で「クレアティオ・エクス・ニヒロ」)はたしてそういう発想が創世記にあったかどうかは多くの聖書学者は問題視している。無からの創造という発想は無いと見るべきであろう。
伝道の書の「空」もまた、しばしば仏教的な「空」と混同されるが、そうとはいえず、「空(へベル)」とは元来「息」の意味で、本文を読んでいくと、呼吸のような「空虚な繰り返しの永続」という意味に取れる。伝道の書の1つの大きな特徴として、ヤハウェという言葉が一回も出てこない事がある。神という言葉は出てくるが、ヤハウェは出てこない。伝道の書ができたのは、紀元前250年から200年ごろにかけてであろうと考えられている。ユダヤ人が大きな苦難を迎えた時代があり、そういう時代背景の中に出てきたのが伝道の書の「空」の思想であった。伝道の書をはじめから終わりまで読んでいけばわかるように、いっさいを「空の空」と否定していって、最後に、では一体人間に残るのは何かというと、それは「人間は神よって造られたものだ」ということ、いわば「被造物」ということで、ヨブ記で、最後に神がヨブに語っていることと同じである。人間は神に造られた、このこと以外はすべて無であり空である。そこから結局律法へ戻っていく。造り主である神を恐れ、その律法を守れ、と。それ以外は、何をやっても一切空しい、と。ヨブ記の結末も後代の加筆ではないかといわれている。その詮索はともかくとして、この結末もまた、前述のように「お前は被造物ではないか」という神の言葉と、それへの無知を罪とするヨブの懺悔で終わるのである。

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金融工学、こんなに面白い 2/2~デリバティブとは?

現実の金融取引の中には、「オプション」と名づけられてはいないが、これと同様の機能を持つものがある。例えば、保険をオプションの一種と解釈できる。自動車の損害保険は「壊れた自動車を一定の価格で引き取らせることができるプット・オプション」と解釈できる。家屋の火災保険は「全焼した家屋を一定の価格で引き取らせることができるプット・オプション」と解釈できる。逆に言えば、オプションはリスクへの対処策として、「保険」の機能を果たしているのである。

そうですね。保険はオプションよりも一般的ですから、「保険って何?」という人は居ない。「オプションって株の保険みたいなものです。」と説明することが多い。「デリバティブとは何か?」と行った時、私や野口さんはその複製性について触れるだろうが、それでは天候デリバティブは、保険ということになる。事実、それは銀行や証券ではなく、保険会社が扱っているのだが、彼らの解釈では、損害に対する保障が保険の定義であり、損害が関係ない条件付の金融取引はデリバティブ、ということであるw

歴史上のオプション
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オプションと解釈できるような取引は、かなり古い歴史を持っている。旧約聖書創世記の第29章にあるヤコブの婚姻の話が、歴史上最初のオプションだと言われる。ヤコブは、ラバンの娘ラケルと結婚する権利を獲得するため、ラバンのために7年間労働することに同意した。これは結婚しなくても良い権利だったので、「7年間の労働というプレミアムを支払うオプション契約」というわけだ。アリストテレスの『政治学』によれば、哲学者ターレスは、翌年のオリーブの収穫を天体観測によって予測する特別の能力を持っていた。そこでオリーブの搾り機を借りる権利を安く手に入れ、豊作となったときに、搾り機をまた貸しして、大きな利益を得たのだそうである。これも一種のオプションと言える。

う~ん、まぁ、なんとでも言える話ですよね。日本では大阪堂島米取引所の米先物が最古のデリバティブ取引って言うし、なんとでも解釈、こじつけることができます。

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ハイデガー=存在神秘の哲学

またも失敗だ。最初に読んだ、木田元氏の「ハイデガーの哲学」はまあまあ良かったのに・・・。2冊続けて失敗です。難しいテーマの本は失敗率が高い、しょうがないか・・・。
存在というくらいだから、当然、存在するものだと思って考察しようとするのだが、まるで無い。なにもかもが無い無いづくしになってしまう。色は無い、形も無い、重さも手ごたえある実体もない。終わりも初めも無い。根拠も理由も起源もむろん無い。「何も無いこと」(Nichtigkeit)だけが、その正体であるかのようだ。モノ(存在者)なら目の前に現れる。だから、物体や画像や意味概念として把握できる。保存も記録も可能。つまり様々な仕方で所有できる。

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第5次ジャカルタ攻略 2/5~インドネシアのビジネス

Plaza Senayanの焼肉 Esina
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ジャカ1と同伴です。Plaza Senayanはジャカルタ南部の高級ショッピングモールで、SOGOなどもあります。去年行った鮨清もここです。というか鮨清の斜め前くらいの位置で、去年、この焼肉も良さそう、とブログで書いていたところです。鮨清の隣は鉄板焼きで、斜め前くらいがEsinaです
私が「金曜は友人と寿司に行く予定」
J1「いいなー、私も行きたい」
何食べるの?
J1「卵といなり」
生魚ダメだったら一緒に行ってもつまらないでしょ?
でも焼肉はOKということで今夜はジャカルタで焼き肉です。何度かジャカルタで焼き肉行っていますが、そこそこイケます。Esinaは二人で行く焼肉、つまりちょっと高級。ウィジャヤのそばの焼肉は大勢で行く焼肉、大衆店ということですが、ウィジャヤのそばの焼肉も値段の割にはおいしいと思います。ここEsinaの客層はインドネシア人が意外に多く、ハイソサエティも利用しているそうです。
私はジャカ1が食べられるもの、「豚肉は宗教上の理由でダメ、生卵やユッケもダメ」という制限があるので、ジャカ1に任せたところ、Esinaで最も割安な「カップルセット」を頼みました。ハイソサエティ諸君らは、高級部位も用意されているので、そちらをオーダーしてもよいだろう。ジャカ1に合わせているので、ここでは酒も飲みません。そうすると・・・、二人で会計800,000IDR(8000円)ほどでした。う~ん、一応、Esinaはジャカルタではそれなりに高級なはずですが、庶民的な価格になりましたw 高級部位+お酒を頼めば、2倍以上は確定ですw

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聖書の常識 3/6~イスラエルとヘブライは同じか

イスラエルといい、ヘブライ(ヘブル)ともいう。またユダヤという言い方もある。これらは同じ意味なのか、違うのか。イスラエル、ヘブライ(ヘブル)、ユダヤのうち、ヘブルが、もしハビルという言葉に関連を持ちうるなら一番古くからある言葉だろう。しかしハビルは古代文書に出てくる場合は民族名を意味していない。セム系の言葉は、母音無しで書かれている場合が多いので、ハビルともアビルとも時代により国より、エジプト、アッシリアその他でみんな発音が違う。またヘブルは英語式発音で、旧約聖書の発音は胆振である。ハビルの定義は非常に難しいが、農耕民の側に立って、これと特別な契約を結んでいるある種の牧畜民、すなわち社会単位となっている集団を意味している。民族名でも部族名でもないことは明らかでこれは中東に広く存在した。
またイスラエルの意味となると少々問題がある。エルは神の意味で、神と争ったヤコブのニックネームとしてこの名は創世記に出てくる(創世記32章24節以下)「お前は神と争ったから、名をイスラエルにしなさい」とヤコブが神から言われるくだりがあるが、これは一種の言葉遊びで、元来は「神は支配する」の意味であろうという。このヤコブの12人の息子たちが、後のイスラエル12部族の先祖になった-というのは伝承にすぎないのだが、この12部族は一種の宗教連合体だったろうと考えられている。つまり中心となる一つの聖所があって、自治体の各部族が底に精神的支柱を求めて連合した政治体制。ギリシアの都市国家がそれぞれ独立していながら、宗教連合を形成していたのと同じである。こういう宗教連合体がイスラエルにもあったというのも一つの仮説だが、このヤコブの12子に基づく宗教連合体制という意味で、イスラエルという言葉を使うと、これが民族名または国家名になる。ところがこのイスラエル12部族が分裂して北10部族と南2部族に分かれてしまった。南の2部族はベニヤミン族とユダ族だが、ユダ族が大きかったのでこれをユダと呼び、北の10部族をイスラエルと呼ぶようになった。現代ではイスラエルというとイスラエル共和国のことだ。イスラエル人はイスラエル共和国と呼ばれるのを嫌い、イスラエル、あるいはイスラエル国だというが、むろん昔のイスラエルとは意味が違う。
では「ユダヤ」とはどういう意味なのだろうか。南のユダ族の住む地はユダイアとなり、さらにその地に住む人を意味するときはユーダイオスとなる。これがユダヤ人という言葉の意味で、直訳すれば「ユダの地に住む人」であろう。しかし、現在ではユダヤ人というと、だいたいヘブライ、イスラエル、ユダヤを一緒にした意味で使っている。ただその場合、ユダヤ民族というものがあるのかということになるが、歴史的には現代の民族主義や民族国家を意味する「民族」というかたちではなかったと見るのが正しい。というのは、この「民族」という概念は決して古いものではないからである。ヘブライというのが民族の概念ではないように、ユダヤというのも民族の概念ではなかった。前に「イスラエル」という言葉を使ったといって、プロ・アラブの日本人から抗議された事があり、「イスラエル」ではなく「パレスチナ」といえというのだが、こういう短絡は困ったものである。「パレスチナ」とは元来「ペリシテ人の地」の意味でペリシテはアラブに関係なく、旧約聖書に登場するギリシア系の一民族を示す言葉だということをその人は知らないらしい。パレスチナという言葉も時代によって意味が違うのである。

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金融工学、こんなに面白い 1/2~新しい経済学として

人々はランダムを信じない
チャートや罫線の有効性が実証分析で否定されるにもかかわらず、これらが一向に廃れないのはなぜであろうか?その理由は多くの人が「ランダム」ということを信じようとしないことにある。人間は誰でも、ランダムなデータを見たとき、そこに何らかのパタンがあるという心理的な錯覚に陥りやすいのである。実際コンピュータが乱数を用いて描いた「でたらめなグラフ」を見せると多くの人はそこに何らかの規則性を発見するのだそうだ。雲や天井のしみを見ていると、そこに人の顔や動物のイメージが浮かんでくるようなものであろう。罫線やチャートが生き残るのもこれと同じ理由による。

じゃ、もう一個、同じ事例を。カジノにおいて、バカラやルーレットは、勝負や出目の履歴を表示したり書きとめたりする紙が置いてあるのも、これと同じ理由による。

予測するのは真のエコノミストで無い証拠
新聞や雑誌には「有力エコノミストの為替レート予測」といった記事がしばしば登場している。しかし、為替市場が効率的であれば効した予測はナンセンスなのだ。「為替レートの予測を行うのは、その人が真のエコノミストではないことの証明だ」といってもよい。私は20年近く前に、こうした内容を雑誌記事に書いたことがある。ところが、それに対して当時の経済学会の重鎮から抗議が寄せられた。その人は、為替レートを予測する計量経済モデルを開発していたのである。私の記事は、そのモデルの批判を目的としたものではなかったのだが、結果的にはそうなってしまった。重鎮は自分の仕事が「無意味」とされたことに怒ったのだろうか、「経済学を学ぶものの心構え」といったお説教が長々と書かれてあった。私は論理的な反論ではなく倫理的な抗議が来たこと、そして、アメリカでは常識となりつつあった効率的市場仮説が日本では知られていないようであることに、ショックを受けた。いまでは計量モデルで為替レートを予測しようなどと試みる学者はさすがにいない。
一般に相関係数が負の値となる場合を、「逆相関」という。例えば、自動車産業のような輸出産業の株価は為替レートが円安になった時上昇する傾向があるのに対して、食品加工産業のような輸入産業の株価は為替レートが円高になったときに上昇する傾向がある。したがってこれらの株価は逆相関になることが多い。

本当に計算しました? 同一セクターは相関が高いなどと安定した結果が出るほどの期間で計算するならば、株価同士で逆相関は観測するのがかなり稀なはずですが・・・。

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ロベスピエールとフランス革命 4/4~議員特権

金融界のスキャンダルによって、ジャコバン派の大義にさらに害が加えられた。このスキャンダルに、ジャコバン派の幹部級が幾人か掛かり合いになっていたからだ。カロンヌ(1787年財務総監)が創立したクラヴィエール(ジュネーブの銀行家、1792年大蔵大臣)が保護していた両インド会社が、封鎖によって破産してしまい、その清算は、ダントンおよびロベスピエールの友人で革命歴の作者であるファーブル・デグランティーヌ(劇作家、国民公会ダントン派)と、それにバジール(弁護士、ダントン派)、ジュリアン(牧師、ジャコバン派)などの保安委員会メンバーとジャコバン派議員のドローネイなどが引き受け、これらの人々は、清算で金を儲けようと陰謀した。
両インド会社事件から始まった捜査は、金融界のスキャンダルであったかもしれないものを政治的陰謀に変形してしまっていた。過激派は死に、腐敗分子は獄中にあって、互いに告発し合い、外人銀行家たちは分別深く国境のかなたに引っ込んでしまっていた。しかしなお不平分子のグループが残っており、彼らはその人気か公職のおかげで、食糧、賃金、1793年の憲法に対する勤労者の要求を代弁することができる人々であった。その指導者は陸軍省のブーショットのもとで任官を担当する書記官であったヴァンサン、革命軍の前司令官のロンサン、コルドリエ・クラブ(この一派の大本営)のモモロ、ナントの溺死の責任者であるテロリストのカリエ、そのほか数人であった。

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第5次ジャカルタ攻略 1/5~入国と生活環境

シンガポールからジャカルタまで、Jetstarで往復97SGD込み込み。うーむ、2時間弱のフライトだが安すぎる。一日何十便とあるので、時間に自由がきく私は好きな便を選べる。あまり早起きしたくないし、渋滞時間の前にしたいので、シンガポール13:20、ジャカルタ14:05着を選んでみる。入国審査だなんだかんだで空港を脱出するのに1時間と踏んでいる。
2015年からジャカルタは(インドネシアとは言ってない所に注意が必要だ)観光ビザ代35USDが無料になった。そしてチャンギ空港で仕込んだウイスキー2本も無事通過。ここの税関はやる気がない。酒類の持ち込みは種類に依らず1リットルまでと決まっているのだが、止められた試しがない。バリ島に9本持ち込んで、「何する気だ」と止められた話は知っているが、2本くらいだとお咎めなしだ。
タクシーは信頼のブルーバード。高速代は私が14,000IDR払い、15時空港発の16時ブロックM着(17時~20時くらいが渋滞のピーク)、乗車時間1時間、メーターは150,000IDRほど。去年とまったく同様、少し色を付けて180,000IDR払うとタクシーの運転手さん思わず笑みが。去年とIDRで額面一緒ということは私にはタクシー代が下がって見えるw 地下鉄の工事をしているのだが、工事領域が、Sudirman道路から、ブロックMの目の前まで南下してきている。完成には程遠そうだが、一応、進んでいる気配を感じる。
KOST(アパートの部屋、冷房・Wifiあり、お湯なし。冷蔵庫と飲料水は部屋の外にある)
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KOSTに到着、去年と同じ部屋。今年は若干値上がりし、1か月の家賃は、2,500,000IDR(約2万円)である。Wifiが付いているので、まず通信の確保。「あっ、変換プラグ忘れた」 大丈夫、オーナーが持ってきてくれて買わずに済みました。このあたりの融通が利くところがこのKOSTに泊まっている理由でもあります。10分で着地完了。うーん完璧。では早速、通信の確保から。
下記、全部、遊蔵のスタッフが助けてくれました。なんか思うようにいつも電話がつながらないです。遊蔵とはジャカルタ ブロックMにあるレディースバーっぽい居酒屋です。遊蔵について、詳細は下記。
2012.12.26 第二次ジャカルタ攻略 11/11 ~2時間160円のキャバ
2012.11.21 第二次ジャカルタ攻略 6/11 ~Blok Mの遊蔵の探求
コンビニでシムカードを買います。
XL 4G Ready 10,000IDR (後にこれはデータカードであることが判明する)
Simpati LOOP 6,500IDR (電話用シムカード、安すぎるな・・・チャージしないとすぐに切れそうだ)
元々データカードも買う予定で、フィリピンで買ったポケファイを持ってきています。KOSTは確かにWifi完備なのですが、安定性が低く、切れた時の保険として、ポケファイと2重構成にしたいのです。
コンビニで hotrod 4GB、105,000IDR これは何やら店内の画面で打ち込むとレシートが出てきて、レジにて支払いを行ってしばらくすると有効になるようです。ポケファイ稼働。完璧。おー、クラクラも動いたw そうすると遊蔵のスタッフが
「あっ、私もそれやってる。タウンホールとか…」
ほぅ、インドネシアでは女性もオンラインゲームやるの。
「みんなやってる。この前まで、xxxが流行ってた。THレベルは?」
6だよ。
「私は2つアカウント持っていて、TH7とTH5。まだ6なの?アップグレード遅い」
まだ始めて1か月なんだ。トロフィーの数とクラン名は?
「1500くらいかなー。クラン名は…」
オンラインゲーム無料だから、スマホさえ持っていれば誰でもできる。そういう時代になったんですね。ちなみに日本ではクラクラですが、ここでは「チーオーチー」(CoCのインドネシア訛り)です。
いつも、初日の立ち上げを助けてくれる遊蔵のスタッフ、「東南アジアのとがり顎」には、浴衣のお土産、300,000IDR(これはKOSTの家賃のデポジットを前払いで納めてもらっているので、それを返しているだけで、現金を上げているわけではありません)を渡します。ジャカルタに来る時は、他の国と違う荷物があります。アパート(KOST)暮らしをしているので、
タオル
トイレットペーパー1ロール (当然、現地でも買えるが1ロール売りは知らない)
石鹸・シャンプー・リンス (空港で取られないように少量パック、世界各国のホテルから盗んできたアメニティw)
浴衣 2着も!
ウイスキー2ボトル (店にも置いてないことがあるくらいだから現地で入手不可能??)
ウイスキー以外は、重さは大したことないのですが、カバンがパンパンでした。
通信が確保できたので…。早速、ジャカ1に連絡。「おぅ、今、遊蔵。今からそっち行く。」 21時近くなれば渋滞も少しは緩和されます。ブロックMからジャカ1の店までは、50,000IDRほど、20~30分の距離です。もちろん、混雑タイムは2倍以上と予想できませんが。
ジャカ1の店にて、店の前のガードマンのあんちゃんは俺が覚えているくらいだから、向うも覚えていそうだが、なぜかいきなり席に通される。通常は指名スペースへの案内となるはずなのだが・・・。4年前から通っているので、誰かが覚えているのかもしれない。ジャカ1(J1)が登場…
いやー、ついに買っちまったよ。タブレットだけど。さっき遊蔵でつないでもらってな。S&P500もちゃんと見れる。安心の飲みだなw
J1「だから前から買えって言ってただろ。絶対便利だし。」
電話なんだが残高分かるか? たぶん、ほとんど入ってない。
J1「おし、見てやる。この会社か、じゃあ、20,000IDR分チャージするか?」
頼むわ。
ジャカ1は、キャバ嬢を務める傍ら副業を欠かさない。副業はカラコンやこのようなテレホンカード(シムカードやチャージカード)だが、要は現金が信用できないので、給与はすぐにモノに替えておくのが、インドネシア庶民の生活の知恵だ。しかし、この店のマネージャーは、やる気がない。ウイスキーのボトルの値段が4年間、インドネシアルピア建で変更なしというありえない価格設定。そろそろ赤字になるのではないか、と心配になるほどだ。こういうところからも、店のシステムが分かる。客にボトル入れさせたらナンボ、という給料体系になっていないのだ。
【居住・賃貸・ホテル】
2015.09.14 シンガポールの引きこもりが勇気を出して部屋を出る(写真付)
2015.09.08 シンガポールの公共住宅HDB
2015.01.21 第2次中国全土落下傘計画 7/8~上海にある日本食・DVD
2014.12.24 第二次フィリピン遠征 8/10~マニラのリトルトーキョー近傍
2014.09.04 ジャカルタ潜伏 1~KOST(アパート)の様子
2014.08.22 ジャカルタ潜伏 0 前哨戦
2014.08.14 バリに行ってきました 3/4~ウブド・大人のリゾートホテル
2014.04.28 シンガポール「多人種主義の社会学」 団地社会のエスニシティ
2013.08.01 ジャカルタ・リラクゼーション・アワー 5/16 ~ジャカルタのマンスリー・アパートの契約
2012.10.23 第二次ジャカルタ攻略 2/11 ~家賃1mil物件の見学
2012.08.06|北京・ハルビンに行ってきました 1/13 ~北京の優良ホテル
2010.12.22: 楽しいお部屋の模様替え
2010.05.31: コンドミニアムと格安物件の家賃以外の相違点
2009.04.03: Singaporeの住宅の種類
2009.04.02: Singaporeの住宅と地理
2009.04.01: 賃貸にみるOptionality
2009.03.31: 新社会人の平均家賃額

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聖書の常識 2/6~歴史書として

20世紀で最も進んでいる学問 聖書学
聖書学という学問があり、これは聖書考古学、聖書史学、聖書文献学、聖書語学、聖書釈義学という5つの分野に分けられる。聖書学はヨーロッパでも新しい学問で、1905年にダイスマンという古典学者が西洋古典学の方法を聖書の研究に持ち込んだのがはじまりといわれる。それ以来、今日では、20世紀で最も進んでいる学問は原子物理学と聖書学であるといわれるほどに発達した。
考古学が裏付ける聖書の記述
聖書に書かれていることは、ほとんどが神話で、たとえ史実によるとしても、粉飾されていると考える人も多いだろう。この問題に考古学者が発掘という実証的方法で取り組んだのは19世紀からで今日までに、着々とその成果が積み重ねられている。遺跡の発見や発掘の結果、これまで史実として疑問視されていた聖書の記述の、歴史的信憑性が証明された例は少なくない。だが、この逆、すなわちその記述が歴史的には事実でなく何らかの原因譚説話であることが明らかになった例もある。また直接ではないが、聖書の伝承がある事実を基にして形成されたことが明らかにされた例もある。その典型的なものは1929年にサー・レナード・ウーリイによって行われた大洪水の発掘である。彼は粘土層によって3500年前の大洪水を確認した。シュメール人やヘブライ人の洪水の話のもとになっている現実の大洪水があったこと、この発見はもちろん、2つの話のうちの、どちらの個々の事柄をも証明しない。もちろんこの大洪水は全世界的ではなく、チグリス・ユーフラテス川の下流の河谷に限られ、およそ長さ600km、幅150kmにわたる局所的な大災害だった。しかし河谷の住民にとっては、それは全世界と同じであった。
天文学と聖書の記述との関係
神話・伝説的な物語は新約聖書にもある。たとえば、イエス誕生を告げた有名なベツレヘムの星。この星についても、天文学者たちは架空のことではなく、事実であるという結論に達した。1603年のクリスマスの少し前、徹夜の観測で、土星と木星の異常接近がまるで1個の大きな星のようになることを発見したのは、ヨハンネス・ケプラーである。その後、天文学者たちの計算の結果、紀元前7年に、この土星と木星の以上接近が3度にわたって起きていることが発見された。大きな「一つの星」の度重なる出現に、バビロニアの学者たちが驚き、はるばるパレスチナへ旅し、エルサレムにヘロデ王を訪ねたとしても不思議ではない。星は彼らにとって占星術的に何か大きな予兆であり、同時にイスラエルでは「ヤコブから1つの星が出、イスラエルから一本の杖が起こり・・・」(民数記24章17節)という記述以来、救済者の出現の予兆と考えられていた。またヘロデ王が紀元前37年から4年までの間、在位したことは、歴史的な事実である。「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東から来た博士たちがエルサレムに着いていった。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東のほうでその星を見たので、その方を拝みに来ました・・・』」(マタイ福音書2章1~2節) マタイによる福音書は、こう書いている。ベツレヘムの星が紀元前7年に土星と木星の異常接近によって生じた大きな「一つの星」であることは、いまではほぼ間違いないとされている

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しんがり 山一證券 最後の12人 5/5~JR売出価格高騰のため大蔵省の陰謀

『飛ばし』は、損害保険会社の頭のいい人が考えたアイデアなんだよ「と言い出したのである。そして、三木は損保業界大手の名前を挙げた。「その損保はね、決算の数字作りに困ることの無いように、決算期の違うファンドを最初から2つ作って、うちうちで操作できるようにした。最初はうちうちでやっていたものが、だんだん他者のフトコロも借りるように変形していったんだね」 飛ばしは投資家や株主の目をごまかす事実上の粉飾決算である。それを損保が考案し、証券会社だけでなく、銀行など金融界全体で重宝した、と三木は言った。
山一と東急百貨店の取引をめぐっては、大蔵省証券局長が飛ばしに関与していた」。問題の取引が始まったのは1990年2月のことだ。山一は東急百貨店に10%の利回りを保証すると約束していたが、直後のバブル崩壊で利回りどころか多額の損失を抱えてしまった。その損失は山一で引き取るのか、それとも東急百貨店が被るのか、はっきりさせないまま、山一は90年7月末、91年1月末、そして7月末と東急百貨店の決算期に合わせて、損失を抱えた有価証券を別の企業に飛ばして凌いでいた。両社が対立するのは、取引開始から1年半後の91年8月。山一が「損失は東急に属しており、引き取るわけにはいかない」と決めたからである。利回り保証を実行しなかったわけだから、その判断は誤りとはいえない。しかし両社の交渉は難航し、92年1月には、東急側から「利息分を含め318億円を返せ」という催促状が届く。「万一、返済されない時は、東京地検特捜部に詐欺の被害にあったものとして、行平社長らを告訴し、報道機関に全容を公表する」と催促状に記されていた。この問題について、
嘉本「三木さん、問題になった東急百貨店の催促状についてはどのように対応されたのですか」
三木「あの頃私は副社長でしたが、大蔵省の松野証券局長に呼ばれて大蔵省にお伺いしました。92年1月だったと思います。席上、局長から『東急百貨店から、飛ばしの依頼が来ているでしょう。どうするのですか』と聞かれました。私は担当で無いのでよくわからない、と答えたんです」
三木は企画室長のころ、忠実なMOF担と言われた。松野局長とはそのころからの旧知の間柄だった松野允彦のことである。お蔵小は当時、監督下にある証券会社に対して絶対的な指導権限を握り、箸の上げ下ろしに至るまで指図していた。局長の一言ひとことが事実上の行政指導である。三木の記憶では、その松野は意外な言葉を口にしたという。
大和(証券)は、海外に飛ばすそうですよ
「『海外は難しいのではないですか』と私が答えると松野局長は『うちの審議官が知っているから、聞いてください』と言ったんだよ」
驚いた三木は大蔵省から本社に戻り、副社長の延命の部屋で行平たちに、松野の言葉を伝えた。その場にいたものは一様に、「東急百貨店の件は、大蔵省から『飛ばしによって処理せよ』と示唆された」と理解したという。行平たちはその報告を受けて既定方針を覆し、東急とは争わずに損失を引き受ける方針に大転換した。「あのあとで松野証券局長にお会いしました。私が『(東急百貨店の件を海外に飛ばすことは)資金繰りなど自信がありませんので国内で処理することにいたしました』と述べたところ、松野局長から言葉をかけられましたね。『ありがとうございました』だったか、『ご苦労様でした』だったか。そんな言葉でした」。

なぜ大蔵省が見逃したのか。国鉄民営化、JRの93年の売り出しの際、少しでも売り出し価格を上げるために、その参考指標である「東急電鉄」の株価を上げる必要があった。東急百貨店は東急電鉄の完全子会社で、東急電鉄の決算に悪い影響を与える要素は東急電鉄の株価を下げ、従ってJRの売り出し価格が下げることになる。後に野村證券と稲川会、石井進による東急電鉄買占め事件も同様の理由で、大蔵省主導に利用された証券業界という噂がある・・・。

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ロベスピエールとフランス革命 3/4~恐怖政治

ロベスピエールは生まれつき平和な人間で、暴力と流血を憎んでいた。彼は国王の処刑ののち、これ以上死刑はあるべきではないと言明した。しかもフランスを戦争に投げ込んだ人々に対する彼の憎悪、裏切者と反革命派に対する彼の恐怖のゆえに、そして-こう附言しうると思うが-※ギヨッタン博士の新しい首切り機による死は、極めて迅速で見たところ無痛であったので、彼は、彼の良心に彼の理性が、彼の理性に国家理性がうちかつことを許し、ついには彼のうちのピュリタンは宗教裁判官となり、「徳なくして威嚇は大いなる災厄を生み、威嚇なくしては徳は力を持ちえない」という語を説くことになった。
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※ギヨッタン(1738~1814) 革命前は医者で三部会の代表となり、彼の主唱した断頭台は、彼の名をとってギヨッティーヌと呼ばれ、恐怖の的となった。恐怖政治の下では獄中にあったが、ロベスピエールの没落後解放され、医者の職に戻った。
ジャコバン体制
両国民議会は、国王の大臣を信頼せず、支配したいと望んで、内閣の政策を監督し、必要ならばこれを覆すとめ、常任委員会を選出した。国民公会がこの伝統と決別するなどありそうもないことだった。公会もまた、平均24人の委員からなり、政府の各省を担当する21にものぼる委員会をもうけた。1793年4月6日の公安委員会は、もともと9人のジャコバン派からなり、このうち2人、バレールとランデはずっと後まで委員であった。5月末、委員は一時14人に増加されたが、ダントンが罷免された7月10日には再び9人に減員された。ロベスピエールは7月27日までは参加しなかった。カルノー含む4人の委員が付け加えられ、9月6日には委員数は総数12人にのぼった。そしてこの12人は、10か月後のジャコバン政府の没落まで、毎月再選された。なぜなら委員会は、名目上は国民公会の代表であり、いつでも公会によって罷免されえたからである。そして委員会は、恐怖させることによって支配したとしても成功することによって支配したのでもある。それは内閣であったが、首相のない内閣であった。
委員会の元来の職務は、「臨時行政会議、すなわち1792年8月10日に議会によって臨時に任命された大臣たちの担当している行政を監督し、スピードアップすること」であった。委員会は、「緊急情勢において、国内国外ともに総防衛の施策をとること」を認められていた。委員会は機密費を国庫から引き出せた。まもなく、「容疑をかけられた、または警告を受けたすべての人々」を逮捕する権限をもった。年末までに委員会は、大臣だけではなく、将軍および諸行政機関をも統御し、全国の地方自治機関、裁判官、軍司令部からのたえざる報告-これが規則正しく提出され、注意深く閲読されておれば、委員会は全能であると同時に全知になったことであろう-とを受け取った。その権限への唯一の制限は、委員が国民公会によって毎月再選されること、財政的に国庫に依存していること、議会の同意なくしては逮捕されないという議員の特権のみであった。

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アメリカ覇権という信仰

ドル崩壊論、日本国債・日本円暴落論者とは基本的な考え方が合わないのかなー。超つまんねー本だったw
FRBが保有する資産に問題が生じなければ2009年度のFRBは大幅な増益を記録するだろう。FRBは市場を支えるために様々な証券を購入したが、それらの多くは底値に近いところで購入されている。また平時よりもFRBの資産は長期化しているため、平均的な利回りは高くなっている。しかし逆にFRBが持つ資産に大きなデフォルトが発生するような事があると、その損失は財務省、つまり米国民の税金で補填されることになる。現在の財務長官は1月までニューヨーク連銀総裁としてFRBのFOMCの副議長を務めていたT・ガイトナーだ。彼は約束どおり税金を使ってFRBを援助しようとするだろう。しかし、問題は米議会である。これまで議会はバーナンキ議長の積極的な信用緩和策を基本的に支持してきた。しかし、ひとたびFRBに損失が生じると、納税者負担が顕在化するだけに、FRB理事会が連邦準備法第13条3項を次々と発動してきたことが議会で問題視される恐れはある
第13条3項は、異常かつ切迫した事態(unusual and exigent circumstances)における例外規定として07年まで一度も実施されたことはなかった。しかし2008年来、FRBはそれを適用して、信用緩和策を推し進めてきた。第13条3項は、5人のFRB理事の賛成があれば適用できる。2009年2月10日の米下院金融サービス委員会では、その是非がテーマとして議論された。議会のチェックを経ずに(国民から選挙で選ばれたわけではない)5人のFRB理事の賛成票だけで納税者負担につながるかもしれない巨額の貸し出しなどを次々と実行してよいのか、という問題意識がフランク委員長(民主党)らにはある。
「為替レート=通貨の信任」ではない
フランスのサルコジ大統領は、11月15日に開催されたG20金融サミット直前に「ドルはもはや唯一の基軸通貨ではない」と述べて米国に揺さぶりをかけた。英国のブラウン首相も「新ブレトン・ウッズ体制」といった言葉をちらつかせて、米国に奪われた金融覇権への思いを募らせる。麻生首相は「ドルの基軸制を守る」と述べたが、中国はドルへの不信感を隠さない。ロシアのメドベージェフ大統領もドルの一極体制への批判を強めている。新興国の間では、ロシア・中国、或いはブラジル・アルゼンチンなど、ドル以外での交易決済への交渉を開始しているのが現状だ。

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聖書の常識 1/6~聖書は一冊の本ではない

現在の日本聖書協会発行の「旧・新約聖書」の目次を見れば、旧約は創世記からはじまって39冊の本、新約はマタイによる福音書からはじまって27冊の本から成り立っていることがわかる。そしてそのおのおのが本(ブック)であって、章(チャプター)ではないことは英訳聖書を見れば明らかだろう。それらはそれぞれ独立した別々の本であり、聖書を一冊の本と考えるのは間違いと言わなければならない。ではそれらは互いに関連のない本かというと、そうではなく、一定の方針で編集された全書と考えたらいいであろう。
預言者は未来を占わない
「預言書」、「預言」という言葉も他の多くの聖書訳語と同じように中国語訳の流用である。最近では「予」という言葉も使うが、「予」はあらかじめ、「預」はあずかるで、意味が違う。預言者のことをナービーというが、これは元来、沸騰するという意味だという学者もいる。いずれにせよ、内心から沸騰するものが口をついて出てくるような状態を示す言葉で、入神状態で神の言葉を人に伝えるものの意味だったのであろう。したがってその歴史はきわめて古い。それは必ずしも未来予知を意味していない。未来を見るものとしては聖書に「見る者」(ローエー)「先見者」(ホーゼー)、という言葉があり、預言者(ナービー)にその能力がある場合があっても、その本質は神の言葉を預託された者という意味であろう。
唯一の神がなぜ複数形なのか
昔の文語約聖書を見ると神について、ただ「神」という場合と「エホバ神」という場合と二通りの言い方をしているのがわかる。では新しい口語訳はなぜ「エホバ」という言葉をやめたのであろうか。実をいうと、エホバとは誤読なのである。なぜ誤読が生じたかというと、ヘブライ語には母音表記がない。だから神の名を欧文表記に直すとYHWHとなるだけで、本当のところはどう発音していいかわからない。これを「神聖四文字」といい、学者によっては「YHWH」としか書かない人もいる。というのは言語学者たちが推理した「ヤハウェ」にしても、果たして正しい発音かどうか不明だからである。「エホバ」という読み方は16世紀になってキリスト教の神学者によってはじめられたにすぎない。
いずれにせよ、創世記その他で神名をYHWHと表記してある部分の資料をヤハウェ資料すなわちJ資料と呼ぶ。これに対して神を「エロヒム」-「エル」(神)という言葉の複数形を使っているのをE資料とする。聖書の唯一神がエルという単数でなく、エロヒムという複数で表されているのが興味深い。そのまま訳せば「神々」になってしまう。神自身、自分を呼ぶのにも「われわれ」といっており、創世記第3章22節には「主たる神は言われた『見よ、人はわれわれのひとりのようになり・・・』という言葉があり、これが複数形に訳されている点では、文語約聖書も口語訳聖書も同じである。古代東方世界では、尊貴の複数という言い方があって、王様などの絶対的権力者は単数を使わなかった。それは、王の意志は国民全体の意志だということを表すためで、現代でも国王などが自分のことを「われわれ」というのがこれである。しかし、聖書の加味の場合、たんに尊貴を意味する語法でなく、絶対を意味したのではないかという見方もある。
「現代の聖書」への道すじ
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旧約聖書がほぼ現代の形で成立したのは、紀元100年のヤブネの会議においてである。この聖典成立史はそれ自体が独立した学問で専門的な大著が出ている。だが簡単に要約すればもっとも古いのがJ資料の成立で、これは紀元前9~8世紀、成立の場所はエルサレムの南のヘブロンと思われる。ついでに約一世紀おくれて北でE資料が成立したと思われる。このあたりはあまりはっきりしない。これがD資料となると、聖書自体にその成立の経過が記されており、割合にはっきりとしている。それが記されているのは列王記下の第22章で、ユダ王国の王ヨシヤがエルサレム神殿を修復していたら「律法の書」が発見されたという記述がある。紀元前622/1年のことだ。ヨシアの宗教改革の支柱になったこの書は、申命記の中心資料をなすもので、これを申命記のギリシア語訳「デウテロノミオン」の頭文字を取ってD資料と呼ぶ。申命記にもいくらか他の資料も入っているが、ほとんどD資料イコール申命記といっていい。もう一つのP資料というのは、祭司(その頭文字がP)資料で、だいたいバビロン捕囚時代に編纂が進められたものと推定されるが、その一部をDと同時代とする学者もいる。その名のように神殿の祭司グループの手になるもので、その祭司たちはこの資料を書いただけでなく、J・E・D・Pの4つの資料を編集して、モーセの五書にまとめあげた人たちでもあった。
ではそのように編纂されていった旧約聖書が明確に聖典化されていなくても、全体として一つのものにまとめられたのはいつだろうか。おもしろいことにこれは、聖書の書かれている皮紙の質によって分かれる。羊皮紙とは元来は原皮1枚を2枚にはいで造るのが普通だが、尊いとされる聖書だけは一枚皮に書いてある。現在、聖典に入っているものは全部聖典化される前からそのような一枚皮の羊皮紙に記され、その区別ははっきりしている。死海写本として発見されたヘブライ語のイザヤ書写本は、現在のところ最古のヘブライ語完本本文で、紀元前1世紀にさかのぼるが、これも一枚皮に書いてある。同時に発見された多くの断片も、聖書に関する限りは一枚皮であり、すでにこのころ、聖典という概念が生まれていたと考えることもできる。

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しんがり 山一證券 最後の12人 4/5~三菱重工CB事件

木下はそのあと何度も嘉本のヒアリングに応じた。それだけでなく、自ら顛末を示した論文を調査委員会に提出した。その木下論文に、証券界と山一のバブルが詳細に描かれていた。彼はまず、日本中がバブル景気に沸いた1980年代前半に、山一にヘドロがあった、と書き始めている。
延命副社長から聞いたところによると、84年9月の人事異動で高木眞行氏が第一事業法人部長を任される際、「ヘドロ(大きな損失が生じており回復の見込みの無い一任ファンドのこと)を抱えたままの事業法人部は引き受けられない」と固辞した。だが、当時、事業法人本部管掌だった行平副社長が説得に乗り出して、渋々、部長職を引き受けたとのことである。とすれば当時、既に法人部門では「握り」に伴う大きな損失を抱えていたことになる。「握り」とは、法人顧客の資金運用に関して取引を事実上、一任させて貰い、その代わりに一定の運用利回りの獲得を強く匂わせる勧誘行為である。旧証券取引法の下でも売買一任勘定取引は禁止的制約を受け、また利回り保証は明確に禁止されていた。そのため現実の勧誘は、証券法に直接的に抵触することを避けるために、特定金銭信託ファンドを設定し、取引注文は顧客法人から発注されたように段取りを整え、利回り保証に代えて目標運用利回りを相互に確認するといった方法が取られるケースが多かったようである。このような「握り」は、証取法に違反する可能性が強いばかりでなく、経営上も大きな危険を内在していた。
「自信を持って投資を勧められるのは1年に1,2回」。嘉本はそんな仲間内の言葉を聞いている。むしろ予想が当たるのは稀で、外れることが多いのだ。しかし、証券業の本質はリピート営業である。顧客に繰り返し投資させることで利益を得ているのである。
> 自信を持って勧められるなら良いけど、「年に数回、相場が分かる時ある」発言、度々聞くけどムッとするね。予想が当たるのは稀なのは90年以降、80年代なら予想が外れるのが稀だったはずだよ。買いしかやってないだろうからね。
「ニギリによって巨額の一任運用ファンドを獲得した法人営業マンは、社内でスター視され、大きな顔ができた。それはずば抜けた手数料収入を稼ぎ出していたからだけではありません。一任ファンドの運用で高利益が生じても、顧客法人には当初約束の利回り相当分だけを渡せばよく、超過利益をどうするかは事実上、営業マンの裁量に任されていました。そこで仲間の運用ファンドで損失が生じているときは、そのファンドを簿価で引き取り、これを自分のファンドに生じている超過利益で相殺することが行われました。これは困ったときの仲間同士の相互扶助であり、しばしば『貸し借り関係』と呼ばれていました」
当然、借りては貸し手に恩義を感ずることになり、そこには特殊な人脈が発生しやすい。このような貸借関係は営業マンの間だけでなく、時には決算期末の損益調整のために商品部対法人営業部の間でも行われた、という。

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ロベスピエールとフランス革命 2/4~ジャコバン派

1791年夏のロベスピエールの下宿移転は、彼の生き方に変化をもたらした。家主のモーリス・デュプレイは繁昌している大工兼建築家で、政治好きの妻、まだ学校を行っている少年、孤児の甥、3人の結婚適齢期の娘があった。最年長の娘、エレオノールはロベスピエールの心の友となり、全家族は賛美に満ちた聴衆となった。晩にはデュプレイ夫人は、政治上の友人と隣人に家を解放した。のちにパリ市長になるペティヨン、元僧侶でのちにテロリストとなりボナパルトの警視総監となるフーシェ、3年後ダントン派とともに刑死するデムーラン、エリザベトの婚約者ル・バ、ロベスピエール崇拝からジャコバン派となったサン=ジュスト、画家のダヴィット、不具の狂信者クートン、政府御用印刷人の二コラ、そのほか多くの人がやってきた。
> フランス革命、ジャコバン派のメンバーがそろった溜まり場だ。面白そう。
サンジュストでも絵でも載せようかぐぐったら、日本語と英語であまりにも違うのが面白かったので、
英語版 Saint-Just
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日本語版サンジュスト
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コミューヌと国民公会
1792年8月10日の事件は外国の観察者を途方に暮れさすと同時に恐怖におののかせた。これまでパリの地区と述べてきたものは、実は1790年の自治体法でパリ市を分割したところの48の地区であった。もとは60であった選挙区、もしくは市選挙区で、この再分割は、市参事会(ミニュシパリテまたはコミューヌと呼ばれる)に対する独立性を弱める意図で行われた。しかし人口平均12500、「能動市民」(有権者)の数平均1700を持つ各地区は、政治的クラブと同時に国民衛兵の代替の中核となり、これまで以上に1つの政治的単位となり、どんな党派であろうと地区議会の多数を握った党派によって制御され、その要求を武力によって裏付けることができた。これらの地区のあるもの、比較的上流の諸地区はまだ国王の味方であったが、他の地区、ことに市の東隅とセーヌ南岸の人口の密な区域は、猛烈な共和主義であった。多くの地区はこの2つの見解の間を動揺していた。戦争の勃発に続く敗北と国土侵入の4か月によって、1地区を除いてすべて国王の廃位を遂行するのに十分な多数が確保されえたのである。中央よりの指示に従う本能はなおきわめて強かったので、正式に選ばれた地区代表である市参事会の権利をはく奪し、「蜂起コミューヌ」の名で暴動を遂行することが必要であった。
8月10日、大臣たちは依然その官庁に出勤しているが、彼らの地位の基礎である行政権は存在しない。憲法はなお有効だが、憲法の根本をなす王政はなくなっている。軍隊はなお前線を守っているが、その将軍たちは忠誠を共和国へ移すであろうか。フランスは全体として革命にしがみついているが、国王なしにすまし、パリ・コミューヌの独裁を許す用意があるであろうか。これらの問題は、王権の没落(8月10日)から国民公会の招集(9月20日)までの6週間、全国を途方にくれさせた。ブラウンシュヴァイク公が国境を越え、プロシア軍がパリへ進軍中であるという報は、事態をはなはだしく悪化させた。
ロベスピエールは、ジャコバン、ジロンドいずれの王権攻撃にも積極的に参加することなく1792年の夏の事件を見守っていた。しかし彼は、これが人民の勝利に終わり彼の唯一の理想である正義と徳の共和国に新たな道を開くことをひそかに希望していた。彼は8月10日の攻撃を組織した連盟兵委員会、地区委員会のいずれのメンバーでもなかったが何が進行中か知っていた。議会におけるマルセーユの利害の選ばれた代弁者として彼はその連盟兵の進軍を賞賛し、蜂起における彼らの役割を宣伝した。8月10日が近付くにつれ『憲法の擁護者』は、蜂起の味方として公然と姿を現し、蜂起は国王と議会との双方の代わりに、真に人民を代表する国民公会を設立するのを目標とすべきだと述べた。しかしロベスピエールは、剣をよこたえたデムーランのように街に姿を現さず、また蜂起コミューヌに参加したダントンのように、市役所に姿を見せなかった。彼はすべてが終わるまで家に-政敵によれば地下室に-ひそんでいた。そして夕方例のごとくジャコバンクラブに姿を現して演説し、国民公会の選挙を力説し、この日についての公式の解説を地方全体に配布すべきことを示唆し、自由を確保するまで武器をおかぬよう人民に忠告した。
ジャコバン派とジロンド派は明確な政党ではなく、志を同じくする個人のグループであった。議員は大臣になれなかったから、両派の指導者たちは内閣を作らなかった。ジャコバン派とジロンド派とのあいだの争いは、政治の方法についての相対立する考え方、革命生活の相対するやり方の間の真の闘争であった。右翼の数が多いほうの少数派は、その最上の雄弁家がジロンド県選出の議員であったので、ジロンド派と呼ばれた。左翼の数が少ないほうの少数派は、その指導者たちがパリ選出の議員で、ジャコバン・クラブの幹部会員であったので、ジャコバン派と呼ばれた。ジロンド派は「89年の人々」を代表し、革命の諸目的は良い法律、理性への呼びかけ、経済的自由放任によって達成できると考えていたことである。一方ジャコバン派は全体として、1791~2年にもっと経験を積んだもっと現実的な考え方を代表し、中央統制のより偉大な施策の必要を信じていた。ジロンド派は、中産階級の利益と投資とが安全で、人生が快楽に満ちている国家を望んでおり、ジャコバン派のユートピアは、計画主義的な民主政治、福祉主義的な独裁政治であるべきであった。
【民族主義・革命・風雲児】
2015.01.19 偽りの明治維新 会津戊辰戦争の真実
2014.09.19 日本人へ 国家と歴史篇 1/6~賢者は歴史に学ぶ
2014.07.23 岸信介 -権勢の政治家- 1/3~帝大から農商務省
2014.05.26 世界の歴史 ギリシアとローマ 1/2~マケドニア王
2013.05.13 孫文 5/5 ~革命の情けない実態
2013.03.08 藤原氏の正体 1/4 ~鎌足と蘇我氏
2013.06.03 わが闘争 下 国家社会主義運動 3/7~演説と扇動
2013.05.16 わが闘争 下 国家社会主義運動 1/7~民主主義
2013.04.18 王城の護衛者
2011.10.25: インドネシア 多民族国家という宿命 1/3~歴代大統領
2011.08.31: マハティール アジアの世紀を作る男4/4 ~がんばれアジア
2011.08.26: マハティール アジアの世紀を作る男1/4 ~東南アジアの雄
2011.02.17: 田中角栄 その巨善と巨悪 ~議員立法
2010.12.06: 田中角栄 人を動かすスピーチ術 ~カネの使い道
2009.01.07: ユーゴスラヴィア現代史 ~国家崩壊への道

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シンガポールの公共インフラ~ジャカルタより愛をこめて

シンガポールの環境について書くには、ジャカルタはとても良いです。改めてシンガポール政府の努力と開発の成果を感じることができます。写真を撮ってから、ジャカルタに来るまで、時間的制約の都合もありましたが、基本的に私は暇なので、このくらい書ける時間は取れたはずなのです。でも、ジャカルタに来ると筆がよく進みます。道路など基本的な社会インフラ、大事なものは失ってみて初めてその大切さがわかる、ということだと思います。
ジャカルタとシンガポール? 俺には関係ねー、じゃ済まないですよ。私はいまだに回復しない被災地の石巻も、ジャカルタも見ています。仮に東京が地震で壊滅的な状態になったとき、東北地方とは比較にならない東京の人口過密状態が、ジャカルタ化を引き起こすこともありえます。人が多く住むということは、それだけ町は汚れるということです。
バス停。
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HDB群の任意の地点からバス停まで、アーケードの下を通って、雨でも濡れずにバス停まで移動できるように作ってある。はずですw 雨にぬれずに移動できる領域はかなり広く、私も実験的に歩いてみたことがありますが、3ブロック分、30分以上かかるくらいの領域です。(直線に直せば5~10分ですが、雨にぬれずの制約条件下)
バス停の上に屋根(アーケード)があって、それがマンション棟まで続いているのが伝わりますでしょうか? しかし、ジャカルタに居ると、車の数はシンガポールも多いですがバイクはほとんど走っておらず(ってこの写真で思いっきり目の前にいますがw)、片側2車線、時差式信号・右折レーンで整然とキューが進んでいる、大変ありがたい道路インフラですw 私は車に乗らないのですが、写真を撮りながら普通に歩ける広い歩道が確保されているのも大きな違いです。後に載せますが、ジャカルタの歩道、というか道路の脇ですが、マジで酷い。
公営プール。
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プールを撮影すると変態かと思われそう(ちなみに撮影したいような大人の女性は公営プールにはおらず、居るのはガキばかりですが、それを撮って警察呼ばれるのもあまりにも不本意)だったので、プールが見えない遠目の位置からの撮影ですいません。シンガポール自慢の公営プールで、50メートルが2面もあり、入場料は平日1SGD、休日1.3SGD、ロッカー代20セントです。横浜市営プールもありますが、350~450円くらいしていたはずなので、とても安いです。でもそれは横浜市がぼったくっているのではなく、横浜の貴重な土地を有効活用するために、1年のうち、7月~9月というわずか3か月のためだけにプールを作るわけにはいかないのです。なので、室内の温水プールにし、その熱はゴミ処理場の焼却から得るという、涙ぐましい節約と努力をしているのです。穴を掘って水を入れるだけのシンガポールのプールと値段が違うのは当然ですが、25mプール1面で4倍とは、地の利を生かしてシンガポールのプールで泳ぎたいものですね。これもまたアジア全域生活圏構想。わかるかね? 家からプールは歩いて5分強くらいです。
駅前。
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バス、電車が接合し、モールもついています。にしてもこのポリアンのだらしない体と歩き方が気になるわw お陰で、シンガポール来てから、姿勢が良くなった。なんか、嫌なんだモーン。あのガニマタ、ヨタヨタ歩き。シャンとしろシャンと! シンガポールに来たばかりのころ、どんなに綺麗な服を着ていてもあの姿勢と歩き方では、何の意味もない、とラッフルズプレイスの金融街で思っていました。
駅。
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電車が来るシャッターチャンスを5分ほど待ってしまいました。ジャカルタだと30分待った挙句に、「今日は電車来ない」とかありえるので、5分待てば必ず来るシャッターチャンスもありがたや、ありがたや。シンガポールのMRTです。香港はMTRです。マレーシアリンギットはMYRです。って、ん?
電車は、かならず高架線か地下鉄になっています。ここは郊外なので高架線ですが、中心部に行くと電車は地下に潜ります。なのでシンガポールでは踏切という概念がありません。これは日本とも違う、車至上主義。踏切という効率の悪い交通システムはここには存在しません。すべてのレールを地下か高架線上に敷くほどしか、面積がないのが、そうできる理由ですが・・・。
ついでに、この写真で偶然映っている、ゆとりある歩道。ジャカルタに居ると大変ありがたい、歩行者のための道路。これのお陰で、シンガポールの民は、前を見ずに、横を見ながらチンタラ歩いています。「キチンと前向いて歩かんか、このボケッ」と殺意を抱く日常ですが、ジャカルタとは違い、前と足元を見ずに、横の商業スペースを見ながら歩ける幸せを噛みしめているのだ、と思うことにしましょう。
貯水池
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海ではありません、貯水池です。海沿いも貯水池と同様に、歩くための道、走るための道、自転車の道など、運動する人のための道を周囲に作ってあります。私もそのうちの一人ですが、歩いたり走ったりしている人が多いです。この貯水池は、治水・水害対策という役割の遊水地だけではありません。シンガポールには水がないんです。川もない(リバーバレーとかあるので、本当はあるんですけどね)。日本の石油備蓄と同じで、水の備蓄の意味があります。マレーシアの気まぐれで水を止められたら、シンガポールは終わりです。水が無いというのは石油以上に深刻で、全員死亡してしまうという綱渡り状態です。なのでシンガポールは海水を飲料水に変える技術などがありますが、それで400~500万人の飲料を確保できるのかは不明です。マレーシアが長く水を止めれば止めるほど、シンガポールが苦しくなるのは間違いありません。インドネシアの一部の政治家が「シンガポールは都市であり、国としての体をなしていない」と発言するのも、うなずけますね。
立体交差
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ジャカルタにもありますよ。しかも、たくさんあります。でもねぇ、ジャカルタにはもっとたくさん立体交差が必要なんです。だってこれはシンガポールで貯水湖があるような端っこの側にも、立体交差があるということなのです。
筆:ジャカルタにて
【私の愛するシンガポール】
2015.04.22 バタムに学ぶ新都市建設の可能性 4/4~シンガポールの属国
2014.11.26 物語 シンガポールの歴史 3/3~嘘だらけ?
2014.05.30 私のシンガポール日常生活
2013.09.05 シンガポール6年目にしてジョホールバルに初めて行きました
2012.03.09|タイ旅行 11/11~在住国を見直す
2012.01.11: マクリッチーとスンガイブロウ
2011.10.04: Ubin島にサイクリングに行ってきました
2011.08.25: ブキティマ山に登ってきました
2011.04.21: Facebookのむかつく広告
2010.04.15: オラ日本さいくだ from SGP
2010.03.05: 何をやっても中途半端なシンガポール
2010.01.12: シンガポールスタイルの結婚式に行ってきました 
2009.06.10: 所得税不服申し立て成功 油断も隙もありゃしねぇ 
2009.04.29: ファーストフード店に見るシンガポールの社会構造 
2009.03.19: Noと言えない日本人、Yesとも言えないシンガポール人 
2009.01.27: Globalに通ずる現地化度Check試験設問 
2008.09.17: Singapore的美的感覚

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第5次ジャカルタ攻略 Zero~必要な社会インフラを考える(重要)

ふー、もう5回目か…。ジャカルタのKOST(アパート)暮らしも3回目だ。私が何度もジャカルタに足を運んでいるため、よく発生する勘違いなので最初に言っておくが、ジャカルタは面白いところではない。楽しさならマニラやバンコクの方が上である。ではなぜジャカルタなのか?
1.必要な社会インフラがないと、民の生活はどうなるのか? を見ることができる。
2.新興国の将来 を見ることができる。
順序を逆に、2の新興国の将来とは何かをまず説明する。例えば「カンボジア、ミャンマー、バングラ、もっといえばアフリカ諸国が今貧乏なんで、絶対発展する」という極めて楽観的な新興国への投資話をよく聞く。これらのフロンティアは、農業依存を脱し、軽工業・重工業という道を歩むことになるが、インドネシア・ジャワ島は工業化を終えた段階でも、まだまだ先進国には程遠く、豊かとも言えない状態である。ジャカルタのこの状態を見て、やっと軽工業化し始めた国に対して、「今貧乏だから将来絶対伸びる」と言えるだろうか?
ジャカルタの状態とは? ここで1に戻る。国民生活に必要な社会インフラが無い。先進国では空気のように当たり前に存在する基本インフラなので、気が付かないが、ジャカルタが、その必要性を教えてくれる。繰り返し述べていることなのでヘビーユーザーな読者には申し訳ないが、先進国住民はこの意識がない。(まぁ、空気のように存在するのだから当然なのだが)
1-1.通貨の信用
1-2.道路
1-3.地方都市
1-1.
悪性のインフレが発生しており、インドネシアルピアの価値はこの2年、対ドルで40%下落している。1997年通貨危機並みの水準である。年に一度ジャカルタに来ているが、同じコンビニのタバコやビールの値段が本当に毎年10%値上がりしている。毎年取ってきたエキゾ・ジャカルタ物価指数だが、今年はなんとコンビニビールの販売禁止。コラーーーッ、政府の勝手な都合で、統計の邪魔をするな!
ビンタンビール 330ml標準モノ Blok M コンビニ価格
2015年9月 パパヤ 18,500
2014年8月 セブン 18,500 サークルK 18,500 ファミマ 18,200
2013年6月 セブンイレブン 16,500 サークルK 15,800
2012年10月 セブンイレブン 14,000 サークルK 16,000
サンポルナメンソールマイルド
2015年9月 セブン 18,000
2014年8月 セブン 15,500 サークルK 15,500 ファミマ 15,200
マールボロ赤
2015年9月 セブン 19,500 アルファマート 19,100
2014年8月 セブン 17,500 サークルK 16,800
う~ん、ビールは上がってないように思えるが、スーパーで6本セットで買ったからちょっと安くなったのかもしれない。タバコは激しく値上がりしているのが分かる。ちなみに年率10%のインフレが何を引き起こすか、日本人諸君らは想像もできないだろうから、もう一度言及するが、コンビニの値札は信用できない。インフレに値札がついてきてないのだ。だからレジを通すと値札と違うことがある。買わないと実際の価格が分からない。経済だ金融だ株だ全く関係ない国民生活に影響が出てるだろ?
そんなインフレ下に置かれたジャカルタの一般市民たちのセリフだが、
 「銀行に預けても金利は、月に1%しか付かない」 
年間金利で12%だぞ。信じられないだろ? キャリートレードとか毎月分配とかやってる連中には。実際、現在の銀行預金で10%を超えるところはあまりないが、7~8%の金利は普通に期待できる。だが、民は銀行に金を置くことを嫌っているのだ。銀行の信用ではなく、通貨の信用がないからだ。給料はすぐにモノに変えないと、カネそのものの価値が落ちていくということを肌感覚で知っているのだ。
「自動車ローンで車買いたい」
普通預金金利がこの状態なので、ローンの金利はさらに高い。でもなぜそう思うのか。インフレで給与そのものが確実に来年上がるから、借金して車にした方が得だという考えなのである。これを高度経済成長慣性系、インドネシア慣性系と私は呼んでいる。日本だって1960年代はそうだったのだ。インドネシアルピア預金をしている日本人の先輩がいるのだが、彼は、「こんなに高い自動車ローン金利を払ってまで車を買うのは理解できない」と言っていた。
1-2.
ジャカルタ市内には自動車が走れる道路はある。空港から市内への高速道路もある。じゃあ何が問題なんだ!と思うかもしれないが、都市人口に見合う道路がない・都市設計ができていないのだ。人口2億を超えるインドネシアにおいて、ジャワ島・ジャカルタ市内1000万、首都圏内3000万人と、工業化と都市化の成功により、凄まじい人口集中が起きてしまった
3000万人の人口を養うには道路が必要なのだ。ジャカルタの地図を見てみよう。
オレンジ色が高速道路だが、ジャカルタ市内を中心に環状道路にもなっていて、ちゃんとしているじゃないか。と思うだろう?
Jakarta-Road_c.jpg
では、諸君らがよくご存じ、首都圏人口4000万都市の東京の地図を同じ縮尺でご覧に入れよう
Tokyo-Road_c.jpg
地図で見るとわかるね? 網の目のように高速道路が走り、何重にも環状線があり、東京を中心に放射線状に各都市に分散していく様が綺麗に出ている。それでも「東京は渋滞がひどい」とか文句を言ったことがあるだろう? ジャカルタと東京は首都圏人口としてはほぼ同じ。3000~4000万人が車で移動するのに必要な道路は、どんなものか知っている諸君らは、もう一度ジャカルタの地図を見返してみたまえ。「ジャカルタは道路がない」 このセリフもあながちウソだと思えなくなってきただろ?
地図だと観測できないが、高速道路、高架線道路、鉄道、立体交差、地下道、信号、こういったものがあるにはあるが決定的に不足している。信号もひどい。時差式、右折のみ、右折レーンなど、様々な工夫をして、渋滞緩和に努めている東京と比べれば、交差点で4つある道路のうち、一つだけの道路から3方向にしか動いていないような信号もある。これも急速な工業化と経済発展で、都市の人口爆発に都市機能が追い付いていない現象の一つだ。こうしたジャカルタの状況を見ると、東京の道路インフラは、空気ではない。政府や東京都が時間と莫大な金をかけて、作り上げてきた一大インフラだと意識が生まれてくるはずだ。
1-3.
少し細かくて見落としてしまうが、ジャカルタから地方都市へ向かう道路が、各方向1本しか伸びていない。東西を走るのが国道1号線、Cikampek道路である。この長い高速道路のほんの100mを労働者によるデモ隊数千人が塞ぐだけで、ジャカルタ経済は一日ストップしてしまうのだ。そして、この道路しかないようでは、地方都市の開発もうまくいっていないことが推測できる。
「誰も使わないような道路に国費を投じてけしからん。田舎の役所は立派すぎる。」 私もそんなことを思ったこともある。しかし、インドネシアを見ていると、そうでもしないと地方都市は発展しないことがよくわかる。
どうだ? 東京の道路インフラに感謝の気持ちなんて抱いたことないだろ? 日本の行政に文句しか言ったことないだろ? ジャカルタに学べ。さすれば日本の行政に感謝することになる。それが私がジャカルタを訪れる理由なのだ。日本の小学校の修学旅行は、ジャカルタにしたら、納税や行政の意義が理解できるかもしれないな。
ジャカルタに訪れる理由を述べるだけで1日使ってしまった・・・。
【アジア国際関係・国際都市】
2015.07.10 日本全土落下傘計画2015年 横浜編 2/2~みなとみらい開発計画
2015.04.03 タイ全土落下傘計画2015 9/15~タイ南部ハートヤイの街
2015.02.16 タイ全土落下傘計画2015 1/15~日曜休日の店が多い
2015.01.29 海道の社会史 1/4~ジャワ以西の地、スラウェシ
2014.11.28 第二次フィリピン遠征 4/10~一人で遊べるセブ
2014.09.22 中国の地下経済 3/3~国は頼りになる?
2014.06.03 中国全土落下傘計画 湖南省編 2/10~長沙の規模
2013.07.03 インドネシアがシンガポールを挑発(爆笑動画付)~ヘイズ問題が教える一人当たりGDPの虚しさ
2013.10.02 ジャカルタ・リラクゼーション・アワー 14/16 ~ジャカルタの電車
2013.09.12 初フィリピン・マニラ編 1/14 ~空港・周辺ホテル
2012.02.21: タイ旅行 5/11~タニヤのキャバ
2011.02.23: アジア発展の構図 ~アジア地域の特徴 1/4
2010.02.19: マラッカ(マレーシア)旅行 ~KL、マラッカ観光編
2009.11.30: アジア情勢を読む地図
2008.11.14: 国際観光動向考察による人民誘致戦略
2008.08.21: 東南アジア横断 ~総括 アジア覇者への道

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しんがり 山一證券 最後の12人 3/5~飛ばしの管理人

2600億円の簿外債務を、実際には誰が管理しているのか、という根本的な疑問である。「簿外債務」という塊がポンと存在するわけではなく、損失を抱えた有価証券類や売買取引書類がどこかに隠されているはずだ。そして、その有価証券類の日々の値動きをチェックし、管理している人間がどこかにいるはずだ。それは事業法人本部か、経理部か、それとも経営企画室か。その人物は数字に明るく、几帳面で、上司の信頼が厚い人間だろう。もし、簿外債務の管理が6年前の1991年ごろからひとりの手で続いているとすれば、その人物は部長か、それに近い地位に就いているのではないか。そして、その人物は絶対的に口が固い人間のはずだ。そのうちに竹内の脳裏に、社内の誰もがその私生活を知らない、ある幹部の顔が浮かんできた。
もしかしたら、あの「異才」なら何かを知っているかもしれない。それが、企画室関連事業課長だった大槻益生であった。今は関連企業部担当理事である。山一の国内関連会社の管理を統括し、関係会社の方針を立案したり、会計処理に当たったりしていた。なんとなく思い浮かんできただけで、それは直感としか言いようが無かった。経営企画室は、簿外債務の秘密を握っていた。とすれば、その手足のひとりとして大槻が選ばれていても不思議は無いと竹内は考えた。
「ギョウカンで簿外債務のことを調べているんです。大槻さんほどの人ならわかっているはずです。教えてください。わかっていることだけでいいんです」 すると大槻は眼鏡の奥から竹内をじっと見つめた。
「何が知りたいの?」
「簿外債務がどこで管理されているのか。いや、簿外債務について大槻さんがご存知のことを全部お話願えませんか。お願いします」
「うーん」 ためらいを見せたあと、隣の応接室に大槻は竹内を連れて行った。同室の事務の女性に聞かせたくなかったのだろう。ソファで向かい合うと淡々とした調子で切り出した。
僕が毎日、管理して書き入れているんだよ。株価も

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ロベスピエールとフランス革命 1/4~王政と憲法

まもなく革命によって解体されようとしていたフランス社会の古臭い構成において、僧族および貴族の二特権身分と、特権は持たないが、財政的、職業的には重要なブルジョワジー-イギリスの中産階級にあたる-とは、勤労者の表面を覆う薄皮にすぎなかった。概数でいって50万の二特権身分と100万のブルジョワに対して2500万の勤労者がおり、その9/10は農民であった。しかし少数の大都市、パリは人口約60万で、6つばかりの海港や工業中心地は各10万に近かった。多くの地方都市とでもいえるものでは、大寺院のお偉方たち、教区の僧侶たち、地方自治体の役人たち、司法官、弁護士、その他民生機構および宗政機構のすべての小役人たちは、自己の立場を維持する以上のことを望んでいた。
アラスはそんな地方都市の1つであり、ロベスピエール家はそんな家の1つであった。この一家はこの地方に300年来住んでおり、もしマクシミリアンがその性格のうちに何か外国風なところを遺伝していた、彼はしばしばアイルランド系だと告発された、としてもそれはずっと遠い祖先から来たものに違いなかった。

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シンガポールの引きこもりが勇気を出して部屋を出る(写真付)

と言っても、今、ジャカルタに居るんだけどね。俺、住所不定だからなぁ。そう言うとかっこ悪いから「アジア全域生活圏構想」と呼ぶようにしているんだがね。日本を含むアジア各国を移動しながら、その領域の中でも最も割安な商品とサービスに消費するというシンプルな考え方だ。一番簡単なのは、食事。現地のものは現地で買うのが最も安い。日本酒は日本で、タイ料理はタイで。そして、高付加価値商品は日本で買うのが最も安い。
普段はシンガポールの部屋でほとんどの時間を過ごすという「引きこもり」なんです。最近購入したSurface Pro3というタブレットを持って、写真でも撮りに部屋の外に出てみよう。と思って、ジョギングを散歩に切り替えて撮影してきました。100SGDもするジョギングシューズで贅沢ウォーキング。ジャカルタに比べればシンガポールの道路は遥かに安全なのですが、走る時は交通上注意が必要なので、周りを見ながら走ることはできません。歩きながら、立ち止まったり、周りを見渡してみるというのも、ありなのかなと思い、歩いてみることにしました。
※インドネシアの名誉のために言うと、ジャカルタの道路が危険なのは治安ではなく交通上の問題です。キチンと足元を見て歩かないとケガをするようなボコボコな道路状態に加え、明らかに信号が必要な交通量があるのに信号はなく、バイクと人体の当たり判定の小ささを利用して、かわすように横断する必要があります。う~ん、逆にインドネシアの不名誉?
部屋に戻ってから、その写真を見返してみると・・・、出るわ出るわ、引きこもり固有の悪態が…。というわけで普通のブログっぽく、写真を載せて言葉が少ない記事を書くまでに3回も悪態ついてしまいました。いずれの記事もシンガポールに対する愛に溢れています。
2015.08.27 ナショナルデーパレードを見て思う民の国家貢献
2015.09.02 シンガポールの真実、経済成長の傍らにて
2015.09.08 シンガポールの公共住宅HDB
さ~ぁ~で~かけ~よう~♪
では早速、玄関。
Double-Door-HDB.jpg
ドアは外扉と内扉の二重になっているのがHDBの基本です。コンドは普通はドアは一つです。コンドのセキュリティーの代わりでしょうか? 鍵をなくしたときにプロを呼ぶと、5秒くらいで開けてくれるので、二重ドアに何の意味があるのか意味不明ですが、誰でも通してくれるコンドのセキュリティーと同程度の意味はきっとあるのでしょう。ちょっと細かいですが、写真から、内装も少しわかります。床はタイル調、配電盤はむきだし、そして壁の塗装もなんだかこだわりがありません。ここは、たぶん、築20年くらいですが、築10年以内のHDBだと、この内装も「経済成長」していまして、グッと綺麗になります。

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孔子 日本人にとって論語とは何か 2/2~宗教と慣習の違い

孔子が最も具体的に偉いところは「子は怪・力・乱・神を語らず」に要約されると教えていただいた。紀元前500年という孔子の時代に「怪・力・乱・神を語らず」と言えるのは、大変な理性だからです。そういうと各宗派の人に怒られるかもしれませんが、釈迦、キリスト、マホメットなど宗教はみな教祖のオカルト的伝説で人心を収攬していく。キリスト教の中でもカトリックはキリストは神の子として処女懐妊をしたと信ずる。どの宗教も「怪・力・乱・神」を話して布教するわけです。今の新興宗教も同じです。
魑魅魍魎や百鬼夜行の世界は存在するかもしれないが、明瞭な日常生活の中で説明できるものではない。したがって理性の対象にはならない、と学問上の理性の枠組みをきちんと整える。学問とは理性で証明し、かつ理性で反駁できるもの以外はないというわけです。孔子の死後、儒教は何度も仏教の影響を受けるが、宗教にならず、啓蒙の学問、人倫の道として発達し定着するのも、こうした理性が働いていたからです
Andrew-Carnegie.jpg
カーネギーは大金持ちになって、これ以上お金を儲けても仕方がないと思ったのかどうか、慈善事業を始めたら、金儲けに努力していたときより、ずっと品性の卑しい人間と多く会わなければならなくなったと述懐しているんです。商売の場合は、お互いに信用し合い、契約書を取り交わし、守らなければ社会的なペナルティーを受ける。ところが慈善事業を行う人は自分の正義感ばかりが先走りして、他人がそれに従うのが当然だと思うから品性が卑しくなることがある。

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しんがり 山一證券 最後の12人 2/5~黒幕の行平会長

三木「次の会長は君に頼みたいんだよ」
五月女「え、こんなところで突然、言われましても・・・」
三木「わが社の状態は君が一番わかっているはずだ。誠実な君なら社員の信頼もある。ぜひお願いしたいんだ」
五月女「新社長はどうするんですか」
三木「野澤君に頼んであるんだ。この話はまだ、私と行平会長しか知らない。よろしく頼みますよ。」
三木はその直前に野澤にも電話を入れていた。
三木「僕の後任は君がやってくれないか。いろいろあって君しかいないんだ」
野澤「えーっ!私はその器じゃありませんよ」。そういう野澤の答えの中に、僥倖の喜びがにじみでている。行平も野澤に電話を入れていた。じっとり粘るような口調であった。
行平「頼むな。逃げないで仕事に向かってくれ。いろいろあるんだよ」
二人のトップが言う「いろいろ」とは、緊急副社長会で明らかにされた「指三本」の簿外債務のことだったのだろうが、野澤が深く聞くことは無かった。本心をめったに口にしない三木が、側近にポツリと漏らした。
三木「野澤が社長になっちゃったよ
「取引で儲ければ自分の才覚、損をすれば証券会社のせいだ」。苦情客の中にはそう考えるものもいる。
> いつの時代もいるねぇ。でもそうである限り、証券業のブローカレッジビジネスはなくならねぇな。

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アメリカ・フロリダに行ってきました 4/4~毎日ロケット発射が見れる

アメリカ飯の定番、ステーキを食べに行きました。
Charley’s Steak House
8255 International Drive Orlando, FL
サイドを頼むなら、4人で肉2人前で十分です。典型的なアメリカンステーキですが、味は比較的スモーキー。なかなかおいしいです。最近は日本でも霜降りだけでなく、赤味の肉も流行っていると聞いていますが、4人、実質2人分でワイン一本頼んで、120USD程度です。一人5,000~10,000円の価格帯でそれほど高くないのはアメリカの良いところなのではないでしょうか。アメリカンステーキは私にとっては、アメリカに行ったら必ず食べるようにしている一品です。しかし、子供にとっては、「筋があり固い」という予想通りの反応です。
Wall Green
民スーパー。ウォールマートよりは店舗が小型のイメージでしょうか。ホテルがあるInternational Driveにいくつかあり、ホテルから徒歩圏だったので、利用しました。主としてビールやワイン、水などを買いました。25 FL oz(約750ml)の特大缶バドワイザーがお気に入りです。私は味の薄いアジアビールが好きなので、アメリカだとバドは定番になります。アメリカらしいビッグサイズの25oz缶がなかなかお洒落です。ワインも1ボトル1000円台(10ドル台)で買えるので、日本より若干高いですが、シンガポール基準で考えれば安い安い。タバコは一箱6ドル台なので、とても高すぎて買うことはできません。まま、シンガポールは10ドルなので、それよりは安いですが、グローバルアービトラージャーとして高いタバコは買ってはならないのです。フロリダなので、ディズニーグッズ、キーホルダーなどが2ドルくらいで売っています。お土産はディズニーランドで買わず、こちらで買うと割安でしょう。

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シンガポールの公共住宅HDB

タブレットを買ったので、写真が取れるようになりました。ノートPCを持ち歩いて、バッテリー気にしながら、カメラとして重すぎて手元グラグラしながら写真を撮るのも嫌なので。タブレットとはいえ、PC代わりなので、シムも入らなければ12インチもあり、常時持ち歩くには不便な大きさです。
底辺の生活に触れる前に、シンガポール在住の一般的な日本人の居住区に触れておこう。私の経験上、最も日本人と遭遇率が高いところはマリーナベイサンズだが、ほとんどが宿泊者=観光客と思われるので、これは除外する。シンガポールのリトルトーキョーは、ロバートソンキーと呼ばれるところとなる。最寄り駅のクラークキーまでは歩いて15分ほどで、あまり便利ではないが、そこからさらに徒歩で10~20分のリババレ(リバーバレー)・グレワ(グレートワールドシティ)までのコンドミニアムが、標準的な日本人居住区といえよう。
日本人学校が、島の東部・西部にあるので、子育て世帯は、日本人学校近傍のコンドミニアムに住んでいることもある。独身世帯だと逆にオフィスまでの立地だけを重要視したラッフルズプレイスにあるコンド、Sail(セール)もよく聞く。裕福な世帯は、オーチャード近郊やセントーサのコンドミニアムに住んでいるが、数はあまり多くない。一方、中華系・インドネシア系の富裕層が住んでいる一軒家地域は、日本人が住んでいるというのは聞いたことがないほど珍しい。
お待たせいたしました、ここからが底辺の世界になるが、シンガポール人の8割が住んでいるHDB(公共住宅)を底辺と呼んでしまうと、ほぼ全員底辺になってしまい、真の貧困層がほとんど皆無のシンガポールの記述として不適切な気もする。繰り返すが、中国やインドネシアの貧困層に値する層は、シンガポールにはいない、と言ってしまってよいだろう。日本にもいないのだが、「日本の貧困層」と同じ感覚でとらえるならば、底辺と解釈してもよいだろう。
底辺という言葉を使っておきながら言うのもなんだが、実はHDB(公共住宅)とコンドミニアムは、大して変わらないw ここからはシンガポール賛美=HDB賛美だw
家賃:HDBが2500~3500SGDに対し、コンドミニアムは3500~5000SGD程度である。もちろん、上記の富裕層の住むコンドミニアムは10,000SGD以上も普通に存在する。家賃20万円と40万円の違いなので、違うといえば違うが、20万円の物件に住んでいて底辺というのも…厳しいだろ?
セキュリティ:コンドミニアムには、ゲートにガードマンが居る。が…、「フレンド、インサーイド」とか適当言えば誰でも入れるのでほとんど意味のないセキュリティレベルであるw
内装:HDBの分譲はハコのみの状態で売り出されるので、内装はオーナーによる。内装の質は時代によっての流行りや改善が見られ、最近建設されたHDBならば、コンドミニアムと遜色ない内装と言ってよいだろう。ポンゴールというシンガポール北部にある新興HDB群(とはいえ、Punggol21という開発プロジェクトは1996年、Punggol21 Plusが2007年なので超最新ではない)に遊びに行った時は、あまりの綺麗さに驚いた。住んでいた日本人が几帳面で、彼の家はいつも綺麗にお洒落に保たれているというバイアスがちょっとある。

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孔子 日本人にとって論語とは何か 1/2~本場中国と解釈の違い

論語が決定的な影響力を持つようになったのは、言うまでもなく江戸時代です。当事は四書(大学、中庸、論語、孟子)、五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記)と朱子の「近思録」を読んでいないと一人前の知識人として認めてもらえなかった。幕末の武士、たとえば西郷隆盛や大久保利通の青年期の読書を見ても、まず四書五経を読んでいる。また、渋沢栄一の父親は武州血洗島の農民に過ぎなかったけれども、四書五経はよく読んでいて、それを引用しながら息子の渋沢を訓戒したそうです。つまり、武士に限らず当事のちょっとした知識的な農民や商人なら「論語」を暗記しているのが当たり前だったのです。仏教のお経は読んでも意味がわからない。読んで聞かされてもわかりません。しかし「論語」なら字なりに読めるし、読んだとおり理解できます。解釈の上で非常に難しいところはあるけれども、お経のように、音声だけ聞こえてきて意味は全くわからない、というようなことはない。
ただ、日本人の論語の受け取り方は、中国人とは非常に違うそうです。すべて日本的に-日本の実情に都合のいいように解釈している。もっともこれは、ヨーロッパの聖書に対する考え方についても言えます。「新約聖書」のうち「ルカ伝」以外はすべてユダヤ人が書いたと言われ、またルカにしてもユダヤ教に改宗したギリシャ系の人間だから、「新約聖書」はすべてユダヤ教徒によって関われたわけで、そこには当然、伝統的なユダヤ人の考え方がある。ところがヨーロッパに入ってくるとそうしたものとは違った解釈が生まれ、それが一つの文化を作っていくようなところがあるのです。ローマ帝国がキリスト教を公認したのは、紀元325年ですが、そのとき小アジア西北部のニカエアで開かれた「ニカエア公会議」でキリスト教の基本信条が決定された。「ニカエア信条」と呼ばれるものですが、それと同時にその信条案を提出したエウセビオスという人物が、初めての教会史を書いたのです。それを見ると、いわゆる「旧約の歴史」はイエス・キリストが出現するのを準備していた期間だということになっており、それがそのままキリスト教徒の理解になっているのです。ところが、ユダヤ教徒には最初からそういう理解は全くない。「聖書」に対する受け取り方が基本的に違っているわけです。そしてこれと同じことが日本人と「論語」についても言えると思います。
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長い間「論語」に親しみ、その影響を強く受けながらも、中国のものの基本は輸入しなかった。日本人の法意識に最も強い影響を与えているのは、鎌倉時代に制定された「貞永式目」ですが、それを唐律と比較すると日本と中国の違いがわかります。中国は伝統的に「父子制血縁集団」の社会ですから、例えば処罰についても「縁座」ということが非常にはっきりしていた。反乱を起こした場合、本人の父親と16歳以上の男子は死刑、15歳以下の男子と妻妾子女は奴隷に落とされ、伯父と叔父は流3000里-流刑に処せられるのが通例でした。しかし、貞永式目には原則として縁座がない。共同謀議をしないかぎり、血縁者だからという理由だけで処罰されることはありません。ただ正妻は夫に協力したに決まっているということで、領地を没収される。中国の法律とは明確に違うわけです。財産相続法も非常に対照的です。中国は均分相続で、家督は一人が継ぎ、家産は均分に相続する。ところが貞永式目はそうなっていず、父親がこれと思った人間に譲り状を渡して相続させるのです。

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しんがり 山一證券 最後の12人 1/5~小池隆一

「なぜ自主的に廃業しなくてはいけないんですか!どうして会社更生法はだめなんですか。営業権譲渡など、他に生き残り方法もあるでしょう」五月女は野沢に代わって、社員の前でいきなり告白した。「山一には約2600億円の帳簿外の債務があります」それは長年にわたって社員たちに隠されてきた秘密であり、名門企業を瀕死の淵に追いやっているものの正体であった。執行役員たちは息を飲んだ。「ふざけるな!」という罵声の代わりに「ううう」という低い唸りのような声が漏れた。「大蔵省証券局は山一がそれを隠していたのは許せない、というのです。会社更生法で立て直すという方法は無いのか、と私たちも動きましたが、東京地裁は『簿外債務のような法令違反行為があると、更生法の適用は難しい』という判断です。さらに更正法を適用するには会社が大きすぎるし、財務体力も銀行の支援も無い、ということなんです」
> そういえば、会社更生法ではなくて自主廃業でしたね。
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「総会屋との取引関係」とは、総会屋・小池隆一に対する利益供与事件を指している。始まりは、野村證券の内部監査を担当していた若手社員がその不正に気付き、1996年に東京地検特捜部やSESC(Securities and Exchange Surveilance Commission)にひそかに内部告発したことであった。「野村證券が自己売買部門で稼いだ利益を小池のダミー会社である『小甚ビルディング』に付け替えてやっていた」というのである。それが年末ごろから少しずつ利益供与疑惑として新聞で騒がれ始め、翌97年3月25日には東京・日本橋の野村證券本社が特捜部やトクチョウ(SESCの特別調査課)の捜索を受けていた。不正のきっかけを作ったのは、第一勧業銀行である。1989年2月に小池に約32億円の無担保融資を実行し、小池はそれを元手に、野村、大和、日興、そして山一という四大証券の株を30万株ずつ取得していった。これで得た株主提案権を楯に、小池は株主総会めがけて各社に揺さぶりをかけつつ利益供与を求めていたのだ。
> 株主をナメ腐った日本企業の経営陣に、株主兼総会屋として噛み付いたのは悪いことではないと思うが、89年に証券株を買ってるあたりは、相場師として劇的にセンスが無いよなぁ・・・。株を買いつつ、その後ろでForwardを2倍ショートしてたとしたら、神様並みに崇めてやっても良いけど、店頭デリバティブ解禁は残念ながら1998年だ。

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アメリカ・フロリダに行ってきました 3/4~ユニバーサルスタジオ

ディズニーランドと似たようなものだ。アメリカの物質文明の極み。良く言えば、アメリカの豊かさとエンターテイメントの象徴だ。子供向けの施設ではあるのものの、大人の場合は、映画オタク(アメリカ映画だがw)、アメコミ・オタクが喜びそうな環境で、スパイダーマンとかベティちゃんなど(後はあまり知らないので認知できない)の専門ショップがあるようだ。ディズニーランドと比較すると、若干、雰囲気がマシで、それを定量的に表すのが、やはり、「喫煙所」の数だ。実質上使えるのが一箇所しかないディズニーランドに対して、ユニバーサルスタジオでは、吸おうと思った任意の地点から、徒歩圏内に喫煙所が存在する。
Universal_studios_florida.jpg
それにしても高い! 2Park Ticketで一人147USD+で156USD。×4で600USDを越える。1USD=125円とすると、75000円! 俺、生活地味だから、一日で75000円も使ったこと、この何年でないんじゃないかな。しかもだよ、「絶叫系のジェットコースターは怖い」とか言いやがる。行けばわかることだが、1回2500円はしそうな巨大なジェットコースターがいくつかあるのに、それに乗らず。俺なら高そうな豪華ジェットコースターから機械的に制覇していく(しかしそれは本当に楽しんでいるのか?と自分でも疑問だ)。ジュラシックパーク・エリアによる、円形ボートでの川下りも雨天で、いつ再開するかわからず、並んでいる間にあきらめる。お目当ては、ハリーポッターの城とDiagon Alleyでのショッピング。城はけっこうすごいです。映画を真面目に見たことはないのですが、様々なところに映画さながらの演出がしてあるようです。それはさておき、城の中をゴンドラに乗って回るのですが、ゴンドラの動きと周辺の風景と映像の組み合わせで、本当にほうきに乗って?空を飛んでいるような高次元なバーチャルリアリティでした。これは納得の2500円級アトラクション。さて、これと同等のアトラクションを7個乗らないと元が取れないぞっ! 目の前にあるグリフォンライダー?、ジェットコースター、これもすごいぞ! どうだ! 拒否だ。怖いそうだ・・・むぅ・・・。
本日の主目的であるDiagon Alleyでハリポタグッズの買い物だ。ユニバーサルスタジオは2つのパークが並列しており、ハリポタの「城とDiagon Alley」は別々のパークに設置されているというなんとも嫌らしい構成になっている。ハリポタ両方に行きたければ、2パーク料金を払えということなのだ。すさまじい商魂だ。2パーク間はハリポタ電車で移動可能。本物の電車に乗りながら、窓はハリポタスクリーンになっている。ゴンドラで上下しながら移動する城といい、電車といい、実際の体感と映像を組み合わせた演出は同じだ。
Diagon Alleyの買い物の予算、お友だちのお土産にいくらお小遣いが出るのかでモメている。しかも金額は2000円、16ドル程度で、買える物はここにはほとんどないぞ。少ない予算、すなわち強い制限がある中での買い物は面白くないだろう、よしお前に選択肢を与えよう。「ユニバーサルスタジオがお前にとっての第一希望であり、ディズニーランドは違うな・・・。ならばディズニーランド行きを1日諦めて、俺とホテルでゴロゴロしているだけなら、1日分諦める毎に80ドルをプレゼントしよう。」 4回行く予定だったディズニーランドだが、私は初日で嫌気が指してしまい、残りは彼等3人で行ってもらい、私はひとりでホテルで待つように変更した。待つ人数が一人増えるたびに、100ドル以上が浮くので、その一部を還元してやろう、という提案だ。

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シンガポールの真実、経済成長の傍らにて

日本で(特にテレビ)見るシンガポールといえば、マリーナベイサンズ、オーチャードばかりだが、「NYだけ見ても、ブッシュJrがなぜ当選したのか?が理解できない」ように、シンガポールも同様の事情がある。
オーチャードなどのCBD(Central Business District) Areaと呼ばれる中心地は、労働生産世代ばかり、シンガポールの高度経済成長後の世界で育ってきた若者が多い。平均所得も当然上がっていることと思うが、マナーや話方など立ち振る舞いは改善し、英語のアクセントも、年寄り世代とは異なる。若年層が話すシングリッシュは、若干改善されているものの、シングリッシュはシングリッシュなので、心配しなくても、中央エリアで観測可能であるw 私は普段、シングリッシュに接することがほとんどないが、一番、耳にするのは意外なことに、部屋に引きこもっているときである。私の趣味のYoutubeだが、Youtubeの広告は、ローカル(接続国)によって提供される。私が日本語のYoutubeを見ていても広告は、シンガポールのものになる。突然、不快なアクセントでシンガポールの政府広告、CPFの説明を、リー・シェンロン首相の動画と供に流されたりする。(動画検索してみたが、見つからなかった)
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しかし、ポリアンと話していて、一番イライラするのは、不快なアクセントではない。よく聞くのは、「カネの話ばかりしている」というが、私もカネの話は好きなのだが、彼らとは話は合わない。なぜならば、どうでもよい給与の話や、シンガポールの不動産価格、そして株=シングテルだw S&P500のImplied Volatilityとか言っても全く通じないのは間違いない。ましてやもっと難しい概念であるアジア一国一愛人構想、「中国・インドネシアを震源地とするアジアの動乱が起きた時に、アジアの地図が変わる。そしてその時、シンガポールなどという国は存在しない。」という考え方はまったく理解できないと思ってよいだろう。
また、これも会話の内容になるのだが、独特の「3文字熟語」を知らないと全く何を言っているのかわからない。先ほどから出している、CBD、CPF(年金)に代表されるが、HDB(公共住宅)、MAS(金融監督庁)、PIE・CTE(道路の名前)、ERP(Electronic Road Pricing、自動課金ゲート)など、うーん、他にもいっぱいあるはずだが、これらの3文字熟語を全部知らないと会話についていけないことは間違いない。3文字熟語と言っても、これらは英語ではなく、シンガポールでしか通じないシングリッシュなので、覚えても、ポリアン以外にはまったく通じない意味の無い熟語である。

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ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 5/5~日本郵政社長の苦闘

郵便貯金の預入限度額は金融自由化への対応を理由に、なし崩し的に拡大され、1988年には300万円だったのが3年後の91年には1000万円になった。90年代に入るとバブル経済時代の行動やバブル崩壊後に相次いで発覚したスキャンダルなどから金融業界への不信が強まり、国民の資金は政府保証のある郵便や簡易保険に集中するようになる。2004年度末の郵貯残高は214兆円の巨額に達し、当事、最大の民間銀行であったみずほフィナンシャルグループの預金量80兆円の2.5倍を誇っていた。また簡保の総資産は121兆円で、日本生命・第一生命・住友生命・明治安田生命の大手生保4社の総資産の合計額に匹敵するものであった。
郵貯に預け入れられた国民の資金は2000年までは大蔵省の資金運用部に全額を預託する義務があった。預託期間は7年間で金利は10年物国債の利回りに0.2%程度が上乗せされた
> これが西川頭取が「民間では絶対真似できない金融商品」と吠えたアメリカンスワップション付き10年固定利回り定期預金を、郵便局が提供できた理由である。
2008.04.30 定期預金は金利デリバティブ
2008.03.17 一族家における投資教育 ~貯金と金利
民営化された日本郵政では、運用ノウハウの確立と運用担当者の育成に苦労させられることになるのだが、いきさつを振り返れば、それも至極当然ことなのだった。郵貯は、市中よりも有利な金利で自動的に”運用”でき、資金を集めることだけに専念していればよかったのである。言うまでもなく、預託された資金は財政投融資などの資金となり、これがまた特殊法人のずさんな経営を生む一因にもなっていた。郵政事業は独立採算だったが、預託金には上乗せ金利が適用されたり、法人税や事業税、預金保険料が免除されたりするなどの「隠れた補助金」「見えない補助金」がたくさんあった。こうした「官業ゆえの特典」ともいうべき民間よりも有利な競争条件が市場を歪め、公的金融の肥大化を招いていた。簡保を合算すると郵貯は家計の金融資産1400兆円の1/4を占めるまでになっていた。財政投融資制度の改革により2001年度からは資金運用部への預託義務は廃止された。つまり全額を自主運用しなければならないのだが、郵貯は政府保証付であるのだからリスクの高い運用はできず、国債や地方債に偏重した運用がなされ、巨額の資金が官に流れる構図は全く変わらなかった。財政当局にすれば、巨大な買い手がいるのだから国債発行の規律も乱れがちになるのは当然だ。
ある商社の会長さんから聞いた話、1000万円を渋谷郵便局から引き出し、神田の某銀行の支店に送金しなければならない用事ができたという。郵便局と銀行間の決済ネットワークがつながっておらず、「近くの銀行に現金をお持ちになって、そこから送っていただくといいと思います」。渋谷の街中で1000万円を持ち歩くのは危険なことであり、そもそも郵便局から送金できないこと自体が理解できなかった。銀行に持ち込んだものの今度は不正なマネーロンダリングをチェックする入金ルールがあり、所定額以上の送金には厳しいチェックがある。
全銀システムと郵政のシステムがつながっていない根本的な問題は、大いに技術面にあった。銀行と郵貯では口座データのうちの「店番号」と「口座番号」の桁数が違い、それがネットワークとの接続を難しくしていたのだ。銀行がそれぞれ3桁と7桁であるのに対して、郵貯は5桁と8桁。全銀システムとつながるようにするために桁数を共通化する必要があった。民営化後に全銀システムとの接続が実現したが、これは全銀システム側が、郵貯の5桁と8桁を全銀側の3桁と7桁に”翻訳”して処理してくれたことで実現した。
ファミリー企業との関係を見直す
調達コストの削減と調達戦略一元化、顧客接点の一元化を徹底し、さらにグループの一体化により総合力を発揮していく上で、避けて通れない問題が、いわゆる「ファミリー企業」と呼ばれる関連会社との関係の見直しだった。その実態を知れば知るほど、実に手回しよく作ってあるものだと驚いた。たとえば「かんぽの宿」。かんぽの宿自身はいわば管理会社で、その周りに営繕や清掃の会社を作ってかんぽの宿から仕事を得ている。ユニフォームの調達でも郵政公社と民間事業者の間に挟まる形でファミリー企業があり、コストを膨らませる一因になっていた。とにかく年賀状の印刷にしてもハガキの作成にしても、切手にしても、郵貯や簡保の帳票類にしても、ゆうパックの箱にしても、調達規模が大きいだけにファミリー企業が介在するうまみがあるのだ。情報システムの構築でも緊密な関係にある会社が4社あった。このそれぞれに大手電機メーカーやシステム会社が出資していた。これらは事実上のトンネル会社で、開発の主導権を持っているわけではなかった。そこに何人かのOBが天下り、入札をするとその会社が応札するし、ベンダーが応札してもその会社を通して納入するので、どっちにしてもお金が落ちるような仕組みになっている。ATMを全郵便局に1台ずつ納入したとしても24,000台だり、こんな大規模な調達案件は無い。しかも特殊使用なのでコストが増えるのも当然と考えられていた。こうした関連会社との関係の見直しとコスト削減の連動は民営化したからできることだった。ただ、なかには財団法人など公益法人となっているものも多くあった。公益法人は主務大臣の認可を得て設立されている団体だから、私たちの手で解散したり廃止したりできるものではない。
第一次報告が公表されたのが8月7日のことだったが、この段階ですでに「郵政福祉」という財団法人との関係見直しについての検討結果が明らかにされていた。郵政福祉は郵政弘済会・郵政互助会・郵政福祉協会の3つが統合してできた公益法人で、職員の退職給付の3階建て部分の拠出金を、毎月の給与からの天引きで集めて運用していた。しかし、加入は任意で、加入率は84.6%であった。外部の任意団体に職員の旧都に関する情報を提供するのは個人情報保護の観点からも許されるべきことではない。報告を受けて日本郵政は、直ちに給与天引きを廃止した。そもそもこの団体は特定郵便局の局舎を約1500ほど所有し、公社が家賃を支払う形になっていた。賃料は結構高く、利回りにすると10%で回っていた。しかも財団法人は公益法人なので税金がかからない。その団体が局舎を郵政に貸し出して賃料を得、それを運用して職員の退職金に上乗せするという構造はどう考えてもおかしい。
もう1つ、大きな組織で財団法人「郵貯振興会」があった。ここはメルパルク(郵便貯金会館)の運営をやっている法人でメルパルクは全国に11箇所あり、コンサート会場や結婚式会場として利用されている。ここの経営形態も妙なものであった。メルパルクは「郵便貯金の周知徹底のための宣伝施設」と位置づけられていて、土地や建物は公社が所有しているものの、売上収入はすべて郵貯振興会に入る。賃料なし、税金なしなので利益率は高い。初めて説明を受けた時は、賃料も取らずによくやっているものだと驚き、呆れたが、周知徹底のための宣伝施設なので施設を所有していること自体が宣伝広告費として扱われている理屈にはあんぐりとしてしまった。郵政民営化法では2012年9月までに譲渡または廃止すべきとされている。

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皇族に嫁いだ女性たち 4/4~皇室スキャンダル

醜聞 宮家の古着
敗戦後、天皇家は温存されたがその権限は縮小された。直宮ではない宮家皇族や家族なども多くの特権を剥奪され、経済的苦境に陥ったりした。そして、太宰治が戦後の華族没落を描いた小説「斜陽」から、斜陽族という言葉が流行し、斜陽にともなう旧特権勢力の数々の庶民的言動は時に醜聞として広まることもあった。
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こうした世相にあって、雑誌「真相」の1948年6月号は「カメラ探訪 宮様商売告知板」を掲載し、皇籍離脱した東久邇宮稔彦の「東久邇商店」、閑院春仁の「無料結婚媒介所」、久邇朝融のダンスホールなどを揶揄まじりに紹介した。元妃たちの商魂ぶりも伝えられ、旧朝鮮公族妃であった桃山佳子などはふくよかな顔立ちの写真入りで「渋谷なる喫茶店『桃屋』の営業不振に鑑み、まずは銀座への進出の桃山家、銀六百貨店に御開業(ただし売品は全部ヤミだよ」、「銀六百貨店菓子部主任、李鍵公改め桃山虔一夫人佳子の君」と皮肉たっぷりに描かれた。「閑院夫人がチョクチョク古着を売りにくるナツメ衣裳部、大福帳に具出を取るは松平親子」の記事もあり、「ナツメ」は久邇朝融がはじめた久邇香水の直売所であった。「ナツメ」は美術部、食料品部、高級喫茶部の3部門に分けられた間口三間、奥行十間の小店で久邇の血縁の元妃殿下たちが数人の男女店員に交じって働いたりしていたのであった。「松平の奥様」や皇族たちが衣類を売りに持ち込み、「徳川のアオイの紋のとなりに菊の紋章がならんでいる」といわれたのであった。
貞明皇后記念館建設をめぐる詐欺事件
皇太后節子は貞明皇后と諡号され、その古風な気品と格調高さが後世に伝えられることとなった。しかし良妻賢母教育は戦後の風潮には必ずしもなじまず、その名声は衰えた。そして崩御7年後の昭和33年1958年に受難が訪れた。貞明皇后記念館建設募金をめぐる詐欺事件の発覚である。事件の発端は昭和29年7月頃御用邸のある静岡県沼津市の日蓮宗の住職と国際文化協会沼津支局長とが、貞明皇后を偲ぶ記念館建設を計画したが、両者の意見が対立したため支局長は国際文化協会理事長に話を持ちかけ、昭和30年9月に理事長が記念館建設の意思を持たないまま東京都知事に募金を申請したことにある。申請が許可されたことにより、理事長は無断で元公爵の一条実孝、元貞明皇后侍医の山川一郎、静岡県知事斎藤寿夫ら有名人約40名の名を賛同人として連ねたパンフレットを作成して、八幡製鉄、日本鋼管、味の素など都内一流企業に配布したのであった。その結果、およそ100社から八百万円を集めたのである。当時大卒の事務系の初任給が15000円ほどであったから、1社当たり新人社員の5カ月分の給料に相応する寄付を出したことになる。
募金活動は一年と限定されていたため、理事長はその後も延期申請をして3度目は貞明会と名を改め、日比谷公会堂で募金の芸能会を開き、その収入を得ながらも税金を滞納して脱税容疑で追及されたりした。また蔵前国技館で花相撲を開き、相撲茶屋の寄付金40万円をふくむ450万円の収益を上げたりしていた。さらに福島県など各地の小学校の生徒から10円、20円の額を集めていた。この総額は2000万円以上と推定されるが、昭和33年になっても記念館建設予定地とされる沼津市には何の動きもなかった。そもそも沼津市では昭和31年夏になされた国際文化協会支局長の土地借入申請に不審の点があるため却下していたのである。こうした事情を受けて、警視庁捜査2課は貞明会理事長宅などを詐欺の疑いで家宅捜査して取締りをはじめたのであった。貞明会の中心人物であった国際文化協会理事長は過去に詐欺や賭博の前科があり、暴力や恐喝の前科者を集めて資金を調達させていたというのが実態であったようだ。
官中魔女事件
昭和41年から46年にかけて皇后良子をめぐる新たな問題が発生する。入江日記によえば、当時、官中祭祀にうるさく、誰かが大晦日に剣璽の間に入ったとか、皇后良子をしてどうして旬祭は年に2回になったのかと言わせるなど、官中行事の運営に口をさしはさんでいた「魔女」と称された女官がおり、昭和天皇の高齢を考慮して祭祀の簡略化をすすめていた入江ら官中官僚の妨げとなっていた。しかし、「魔女」は皇后良子の信認篤く、皇后から保科武子女官長の後任を推されていたほどであった。「魔女」の女官長就任はなかったが、天皇と皇后が欧州旅行に出かける際の準備段階で、皇后は「魔女」の同行を主張し「魔女」が同行しないのなら自分も行かないとまで言いだし、一時は天皇単独の旅行案も考えられたのであった。
河原敏明によれば「魔女」は公家の羽林家である旧今城子爵家から皇后宮女官となった今城誼子のことであり、今城は旧来の官中祭祀の伝統を守ろうとしたが、入江ら改革派の官僚たちに阻止されたというのが真相であったという。今城家は花山院家の支流中山家の分家であり、維新後の当主である今城定徳が子爵となり、その正妻の竹子は橋本実梁三女であった。橋本実梁といえば明治天皇の夭折した長女である稚高依姫尊を産んで同日に死去した権典侍橋本夏子の兄(夏子の出生には不明な点があり、実梁の妹麗子と東坊城夏長の長女説がある)として知られる。また定徳子爵を嗣いだのは定徳長女の友子と結婚した中山孝麿侯爵の長男定政であった。中山高麿は皇太子嘉仁親王の東宮大夫をつとめ、孝麿の叔母は明治天皇生母の中山慶子である。そうした家系の今城定政の長女が誼子であり、代々の伝統的な宮中儀式を尊重する性癖もうなずけなくはなかった。
一方、皇后良子のほうは昭和35年1960年の長女照宮成子の容体悪化のころから精神状態が乱れ始めた。治療のかいなく成子は早世した。その後、皇后良子は新興宗教に凝った「魔女」の意見に従うことが増え、熱があっても「魔女」の一言で侍医に身体をみせることをしなくなった。「魔女」の皇后への影響力は、天皇裕仁の心の負担ともなり、天皇は口をパクパクする症状を見せるようになった。戦後の新時代に対応しようとする天皇裕仁と入江ら改革派の官中官僚たちと、旧来の伝統を維持しようとする皇后良子や今城ら守旧派の女官たちとの間の確執が「官中魔女事件」の背景にあった。皇后良子はめまぐるしく変わる皇室環境に息切れし、孤立感を深めていた。その心の隙間を埋めていたのが「魔女」であった。

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