天塩川木材工業の破産から1ヶ月もたたない97年12月24日、漁業資材製造の函館製網船具が函館地裁に自己破産を申請し、その日のうちに破産宣告を受けた。負債総額は138億円に上った。函館製網船具の業績不振は、米国と旧ソ連が200カイリ漁業専管水域を設定した77年にさかのぼる。いわゆる「200カイリ体制」によって、北洋漁業の減船が始まり、本業の漁業資材の売り上げが急激に落ち込んだのである。
北海道の中心にある芦別市はかつて三井、三菱、明治、油谷、高根の5つの炭鉱を抱え、資源供給地・北海道を代表する「炭都」の一つだった。1948年に制定された星型の市章は「黒ダイヤ」 石炭を表している。だが「芦別五山」と呼ばれたこれらのヤマは1963年から相次いで姿を消し、92年9月の三井石炭鉱業芦別鉱業所の閉山で80年近い産炭地としての使命を終えていた。それから6年たった芦別市の人口は22500人。最盛期の75000人(1958年)から1/3にまで落ち込んだ。課題だった「ポスト石炭」の取り組みもはかどっていない。芦別市の第3セクター「星の降る里芦別」が90年7月に開園したテーマパーク「カナディアンワールド」は、期待した集客を得られず一度も単年度黒字を達成できないまま97年10月に休園した。
拓銀破綻から3日後の97年11月20日、政府の行政改革会議が、北海道開発庁を2001年に廃止し、国土交通省の一部局とすることを決めたのである。その日の夜、ある北海道庁幹部が思わずこうつぶやいた。「拓殖と開発。明治以来の北海道開拓を象徴する組織名が同時に消えるとは・・・」 拓銀と北海道開発庁に象徴される北海道経済の歴史とは、全国の1/20の人口にもかかわらず、「北海道開発予算」という名の公共投資が全国の1/10にあたる年間1兆円も投じられ、拓銀が地元企業の甘い経営を気前よく支えてきた歴史でもあった。「あたかも天からカネが降ってくるかのような経営環境」に救われてきた企業は多いが、そのことは時代の流れにそぐわないビジネスや経営努力を怠った企業が淘汰され、入れ替わるように斬新なビジネスや強い体質を持った企業を生み出すと言う資本主義経済にあるべき活力を阻んだ。拓銀の経営破綻は、北海道経済を奈落の底に突き落とすと同時に、「銀行依存」「お上依存」という北海道経済の本質的な弱点を露にしたのである。
> 国におんぶに抱っこ。国が引いたら一気に破綻。拓銀や北海道だけじゃないね。資本主義や競争原理は日本の国民性に合わない。民間は国がすべてを管理する、事業さえも。そんな体制がよろしかろう。それを一般に共産体制国家というが、この名前はアメリカに嫌われるので、便宜的”資本主義”という名前にしてあるのだろう。
丸井今井と地崎
「急で申し訳ありませんが、役員の異動についてそちらで緊急記者会見を開きたい」 97年12月16日、非上場企業の丸井今井が役員の異動を記者発表するのは極めて異例のことである。しかもそれが緊急であるなら「巨額負債をもたらした経営責任を取って今井春雄社長が退任した。いやワンマン社長の彼が自ら身を引くとは考えにくい。解任だ。今井社長は解任されたのだ。」
議長の柴田哲治専務が開会を告げるや否や、今井取締役退任を求める緊急動議を提案、この瞬間、利害関係者として今井の発言権は無くなった。残る12人全員が動議を承認、すぐに起立による採決に移った。12人の取締役がすっと腰を上げる。座ったまま沈黙を守る今井。それは82年9月の三越・岡田茂社長の解任劇を思い起こさせる電光石火の「クーデター」だった。岡田は「なぜだ」という有名な台詞を残したが、今井もそのまま引き下がったわけではなかった。
「何で今なの?僕を解任すれば銀行が付くと思っているのか?過去の問題は僕の責任で良いが、歳末商戦中にスキャンダルを起こして銀行が付かなかったらあなたたちの責任になるよ。銀行は付いているのか。」
「丸井さん」と呼ばれるに相応しい身の律し方に変化が生じ始めたのは、道雄が会長に退き、長男の春雄が43歳の若さで4代目社長に就任した88年以降のことである。春雄は67年に慶応大を卒業後、大丸での2年間の修行を経て69年に丸井今井に入社。30歳(76年)で取締役札幌本店長、37歳(82年)で副社長と後継者としての既定路線を順調に歩んできた。副社長時代の85年に取り組んだ大胆な店舗リニューアルは、米国の店舗インテリアデザインコンテストに日本の百貨店として初入賞するなど高い評価を得た。また社長就任後は、メーカーによる「委託販売」が主流となっている百貨店業界の中で、積極的に自社の「買い取り・自主販売」に取り組み、全国の百貨店関係者からも注目される若手経営者だった。しかし、バブル景気の絶頂期に社長就任した野心家の四代目は、海外不動産投資というわなに陥る。それは「人のため世のため」という店祖の教えからはおよそかけ離れたものだった。
春雄は89年秋、米NY市に不動産投資のための個人会社「CPW・リミテッド・パートナーシップ」を設立した。CPWは90年5月に東海銀行NY支店から4000万ドル(当時の為替レートで60億円)を借り入れ、ニューヨークのセントラルパークに面した23階建ての高級分譲式マンション(38戸)を丸ごと買い取った。ところがこの投資はマンションの所有権をめぐって購入先の米国企業から訴訟を起こされるなどのトラブルが続き、38戸のうち25戸が売れ残る失敗に終わる。春雄は、この個人としての投資に企業としての丸井今井を巻き込んだ。4000万ドルの融資を受ける際に丸井今井に債務保証させたのである。春雄は90年5月25日の丸井今井取締役会が債務保証を承認可決したとする議事録を東海銀行に提出した。ところが実際にはそんな取締役会などは開催されておらず、議事録は偽造したものだった。春雄は93年になって役員らに債務保証の存在を明かし、それを追認させた。CPWが借りた4千万ドルは96年5月に東海銀行NY支店に返済された。しかし、それは丸井今井の関連会社・丸井店舗開発が東海銀行札幌支店から42億円を借り入れ、これをCPWに融資することによって実行された。個人の借り入れがいつの間にか丸井今井グループの借り入れになったのである。海外事業の失敗は丸井今井の事業多角化をさらに加速させた。
古くから「土木の地崎」といわれ、土木工事の技術では、道内随一の定評がある。ダムやトンネルなどの大型土木工事を得意とし、北海道開発の歴史も地崎を抜きにしては語れない。戦後まもなく東京に進出して以来、経営の軸足を本州に移したが、道内の売上は400億円前後に上り、伊藤組土建とともに道内建設業界25000社の頂点に立っている。地崎工業が過大な借入金を背負うことになった背景には、丸井今井と同様、バブル期の積極拡大があった。バブルの全盛期、建設業界には、ただ受注を待つだけではなく、自ら土地を仕入れて開発し、自ら受注を作り出す「造注」という言葉が流行した。地崎工場もその例外ではなく採算を度外視した受注競争や、無理な宅地開発、ゴルフ場開発などの投資を重ねていたのだ。
「政治銘柄」、経済的な影響力以上に政治的な影響力を持つ企業をそう表現することがある。その源泉は先代社長3代目宇三郎が培った中央政界や道内政界の人脈である。宇三郎は1963年、衆院議員に初当選。以来連続7回当選し、79年には第二次大平内閣で運輸相を務めた。さらに拓銀債権の引継ぎをめぐっては、北洋銀行と道銀の思惑のずれも浮彫りになった。「拓銀の受け皿銀行である北洋銀行が引き継ぐのが筋」と引き継ぎに消極的な姿勢を見せる道銀に対し、北洋銀行は「道銀を含めた協調体制の確立が引継ぎの絶対条件」と主張して譲らなかった。こうした銀行同士のにらみ合いは、地崎工業をぎりぎりの局面にまでに追い込んだ。98年8月19日、30億の決済を翌日に控えて資金繰りのめどが立たなくなったのである。しかし地崎工業は土俵際から息を吹き返す。融資を実行したのはなんと拓銀だった。経営破綻した拓銀の融資は、預金保険機構の公的資金投入でまかなわれる。地崎工業への融資は通常では考えられないケースだが、道内選出の自民党国会議員らが預金保険機構の首脳に資金供給を迫って「超法規的措置」による融資を引き出したと言われる。地崎工業はその「政治力」をまざまざと見せつけた。
【日本の国家権力】
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