月: 2015年11月

ネットゲームで遊びながら思うインターネットの時代

私が感じるこの10年の世の中の変化は、LCCとインターネットの普及だ。私自身はインターネットは20年以上前から使っていたが、利用より普及による利便性の向上が非常に大きい。私が実行している、アジア一国一愛人構想・全アジア生活圏構想などが、いとも簡単に低いコストで実現できるのはLCCとインターネットの発達のお陰だ。
ネット証券・ディスカウントブローカーは以前から存在した。現在、パソコンさえ持っていれば、どこの国のホテルでもWifiがあり、Wifiがたとえない・あるいは不十分であったとしても、ローカルのシムカードを買って、スマホでテザリングすれば、Wifi環境すら不要。私自身が持っているもの、やっていることはずっと変わらないのだが、そのために必要な環境が、世界中で整ったのがこの10年の時代の変化と言えよう。
私の身近でインターネット普及の影響を観測したのは、シンガポールのフィリピンパブである。パブで働くピーナたちは、ほとんどがシングルマザーで子供があるが、みんなノキアの携帯を所有しており「国際電話をすると高いから子供とあんまり話せない」と言っており、「Skypeならタダでしかも顔を見ながら話すことができる」と私は言ったのだが、彼女たちの実家にその環境がなかったのだ。これは10年前というか2010年でも、まだそういう状態だった。現在は、みんながスマホを持ち、無料のテレビ電話かつ国際通話ができるようになった。
彼らがシンガポールでの出稼ぎを終え、フィリピンに帰ってしまうと、彼女たちに「国際電話」を強制することになり、かなり本気じゃないと、そこまでしてくれないものだったが、現在は、FacebookでもLINEでも、一度つながってしまえば、電話番号が変わろうが、国を移ろうが一切関係なく、無料で連絡できてしまうので、アジア一国一愛人構想、アジア全土落下傘計画に追い風が吹いている状態なのだ。


「孫子」の読み方 2/3~兵書読みの兵書知らず

いわゆる朝鮮出兵の慶長の役で捕虜となった韓国人姜范が。『看羊録』という本を著している。これは秀吉の晩年から関ケ原直前までの日本について記している実に興味深い本だが、その中に次のような記述がある。
「そのいわゆる将倭なる者は、一人として文字(漢字)を解するものがありません。わが国の吏読(りとう、万葉仮名に似た一種のかな、消滅した)に酷似しております。その字の本義を問うたところ、漠然としていて、知っておりません・・武経七書は、人それぞれ捺印所蔵しておりますが、やはり半行でさえ通読できる者がいません。彼らは分散して勝手に戦い、それで一時の勝利を快しとして満足することはあっても、兵家の機変については聞いてみることはありません。以上のことは、捕虜になった人々に直接見聞したもので、どうにも愚かな農民や敗兵の惑いを十分打ち破るよすがともなりましょう」
これは、大変に面白い記述である。「武経七書」とは『孫子』『呉子』『六韜』『三略』『司馬法』『尉繚子』『李衛公問対』の七書で、宋の時代に兵学の典拠として選定されたものである。韓国の両班には文班と武班があり、それぞれ、中国と同じように科挙という官吏登用試験を受け、これに合格したもので政府は構成されている。これからみれば武将は「武経七書」ぐらいは暗記しているはずなのだが、日本の武将は最初の半行も読めないと彼は言う。これは、おそらく事実であろう。勉強家と言われた家康でさえ、藤原惺窩についてはじめて『貞観政要』を読んだわけで、独力で読んだわけではない。家康でも、科挙の試験を受ければ落第であろう。ということは、日本の武将は机上の兵学では皆落第生、韓国の武将は優等生ということになる。ところが、この優等生が、戦国の生存競争を生き抜いてきた日本の武将の前には手も足も出なかった。なぜであろうか。全体的に見れば姜范の問題意識はむしろこの点にあった。というのは彼は日本の三度目の侵攻を五分五分ぐらいに見ており、そのためにどう準備しておくべきかも提言しているからである。


左手人差し指の先が痺れる健康不安説の行く末

8月の末辺りから、指先に痺れを感じ、ずっと無視していたのだが、ジャカルタに行き、9月中旬になっても痺れは切れず、酒を飲んだら痺れが強くなった気がした
一気に気分が悪くなり、酒の味がまずくなり、毎日飲んでいた酒が飲めなくなった(もちろん気分的にだ)。シンガポール以外の国では、お酒を飲むところで遊んでいる都合上、酒を飲まないとなると、お店の女の子たちも「今日は飲まない?大丈夫ですか?」と心配されてしまうし、インドネシアまで来て、ずっとアパートに引きこもっているのも意味が無く、また、急激に体調が悪化した場合、病院も知らないし、知り合いもほとんどいない。予定を変更して明日の飛行機を予約。
私は健康だけが「とりえ」というほど、健康を意識したことが無いので、指の痺れのようなちょっとした問題でも、私にとって大変に珍しく、動揺が大きい。休肝日は半年前、その前の休肝日はさらに半年前、というくらい毎日飲んでいるので・・・自分では、軽いアル中疑惑もあり・・・
インドネシアの最終夜、不安は頂点に達する・・・。たまらず、夜中に友人にスカイプ。
友人「手の痺れねぇ・・・。心臓からの位置から考えると、まず足から来るはずで、手っていうのはかなり末期症状。不安でしょうがない? じゃ~今、 『手の痺れ 原因』とかぐぐらないほうがいいねぇ。ウワッ!俺が読んでてても凹むわぁ~
怖くてぐぐれない・・・。
眠れん・・・。退屈だ・・・。退屈だと体がかゆくなったり落ち着かない。耳をほじると、耳から血が・・・。ぬお~~~!俺、死ぬのか?? 脳の中で血管切れてたりするのか??
が結局、夜中の2時くらいに電気をつけたまま寝ていた。
すぐにシンガポールで知っている医師に
「酒の飲みすぎで肝臓がやられてると思うんです・・・。先生の病院で健康診断とかやってますか?」
とメールし、対応しているということなので、即・病院に予約を入れ、まず診療。
「指先がもう1ヶ月くらい痺れていまして、直らないんです。」
医師 まず手首を叩きながら「痺れ強くなったりしますか?」
「いいえ」
医師 「ゆっくり左上を見上げて痺れは強くなりますか?」
「うーん、特に何も感じないです。あのー、肝臓が・・・」
医師 「この症状から肝臓というのは考えにくいですねぇ。肝臓から来る痺れなら、もっと広範、手全体が痺れるはずなのですよ。ビタミンB12でも飲んどいてください。どうしてもというのなら今日、肝臓の検査できますが、健康診断を受けるなら、その時にチェックしたほうがお安いですし。」
と軽くあしらわれてしまった。あれ? 大げさなのは俺の自己診断? 冷静に考え直してみると・・・
1.耳から血事件。空港で爪切りを没収されるので、旅行中は借り物の切れ味が悪い爪切りを使い、爪の先が鋭くなることがよくある。それで耳をほじって傷つけてしまっただけ。
2. アル中疑惑。「朝から酒を飲みたくないんだよねー。」って言っているアル中は居ない。
3.アル中疑惑その2。酒で健康を害していると思い込んだだけで、酒を飲めなくなるアル中は居ない。
4.酒飲みすぎ疑惑。毎日飲んでいるとはいえ、酒に弱く、酒量でワイン一本程度飲むと、眠くなってそれ以上飲めない。
素人の俺の「酒飲みすぎで肝臓壊している疑惑」は、プロの医師の診断により、完全に否定された。「手の痺れ」と「指先の痺れ」は違うそうです。
シンガポールの医療は、保険が利かない(というより医療保険に入ってない)ので多少高い。海外旅行保険が使えるケースもあるが、病院は歯医者と産婦人科と小児科しか行かないというくらい縁がない生活をしているので、今回、指の痺れに「病気判定」が下り、本格的な治療が必要になってから医療保険はやればよいと考えた。30分程度の診察で150SGDだったのだが、その程度なら高くはないでしょ? 歯医者・健康診断以外の病院って、俺10年以上行ってないの。
シンガポールの医療制度
シンガポールには、日本人医師が居る病院がある。日本での医師免許をトランスファーし、シンガポールにおいて日本人を診察することができる。すごい柔軟性ですよね。そこはさすがシンガポール。私の行った病院は、綺麗なビルに入っているので、自由診療のシンガポールの中で安い病院ではなさそうではあるが、医師が無欲。もし、シンガポールのやり手のビジネス医師だったら、「コイツ、健康なくせに、肝臓が悪いと勘違いして不安に思っているな?」と思ったら、ここぞとばかりに、精密検査だなんだと、高い薬を売る、絶好の機会と捉えられてしまうであろう。
しかし、日本の医師は、日本の感覚。医療は商売という感覚ではないので、非常に良心的でした。ビタミンB12は院内でも買えるそうなのですが、私が「B12とかのサプリは、Guardianとかで売ってますよね?」と言ったら
医師「あー、ご存じなんですね、Guardianで買った方が安いですから、それで大丈夫です。」
と商売っけは無い。雇用主だとしたら、「取れるヤツから徹底的にカモれ」と言うところだが、今回、私は患者患者。優しい先生で良かったなぁw


ブログ8周年

2000弱の記事を書いたのかな。根気あるなぁ・・・。サーバーアタックがあって、一部、特に古い記事の画像が消えてしまったのがとても残念です。Google Analyticsの記事別アクセス数ランキングは、見ているが、トップ10は、あいも変わらず、くだらん記事ばかりなので、今年も無視だ。
かばこスタンプなる、LINEスタンプが開発されたらしいw擬人化の擬人化な感じがするが、まぁ良いだろう。
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サーバーアタックでオリジナルの俺デザインのかば子が消えてるじゃないか! 見つけたからしつこく、再アップロードしてやる!これがオリジナルだっw
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2011.08.12 8/11 かば子決定 天才がデザインしたかば子
かば子のツイッターもある。本当は投資格言とか、投資一族のブログから抜粋で一言、と言われていたのだが、私の言うことが意味不明、長すぎるということで却下。なので私は、かば子ツイッターの発言には関与してませんw
あー、「ダーウィンに消された男」という本を読んだのだが、書評をアップし忘れた。書いた気がするのだが・・・。この本は、今年読んだ中でもお勧めできるほどに結構面白かったのにとても残念だ。
ダーウィンに消された男の概要
アルフレッド・ウォレスという採集家が、インドシナ半島から東方移動し、マレーシア、ボルネオ、スラウェシ、マリクと移動していく島々を移動していく中で、島にいる昆虫が、環境に応じて少しずつ「変化」していることに気付いた。その変化は、変種というより環境適応という「進化」によるものだと、ウォレスが気付いていたのではないか・・・。ウォレスはダーウィンに手紙を送ったはずだが、その手紙は発見されていない。何が書いてあったのだろうか?
今でこそ、インドシナからオーストラリアまでの段階的な生態系というのは有名で、ウォレス線、ウェーバー線などの呼び名で表現されている、ウォレス線のウォレスだ。進化論の前に、ここで昆虫採集していたウォレスが、進化論に気付いたとしても不思議は無い。
読書家の友人MNB氏が3年前にシンガポールを去ってしまって、とても残念です。でも今年は、学者の先生で読書家のお友達ができ、お勧めの本などを教えてもらいながら、読書がまた楽しくなりました。ただ、お勧め本を教えてもらってから、購入するまで、日本で購入するので、日本に行くまで手に入らない。また買ってから読むまで、読んでから記事にするまでと、とても長い時間がかかるので、先生の推薦図書の影響が出始めるのは、2016年くらいからだと思いますが・・・。


イスラーム国の衝撃 4/4~インターネットメディア利用

電脳空間のグローバル・ジハード
「イスラーム国」の知名度が世界的に高まったのは、巧みなメディア戦略の影響が大きい。世界のメディアがこぞって取り上げたくなるような洗練された映像ビデオや、画像を多く用いたきらびやかな雑誌を次々に公開することで、世界の注目を集め、関心を引き寄せ、持続させてきた。それらは、欧米の主要メディアをはじめとして各国メディアに報じられることで世界に広まるだけでなく、SNSを通じてインターネット上に拡散され、個人に直接届きもする。「イスラーム国」が誇示するおぞましい斬首映像については広く知られるが、こういった映像にしても、単に残酷なだけではない。敵と味方のそれぞれに、心理的に最大限の効果を与える技巧と工夫が凝らされている。
メディア戦略の巧みさは、グローバル・ジハード勢力に共通しており、「イスラーム国」に特有のものではない。9・11事件以降、米国の徹底的な対テロ戦争の追跡を恒常的に受ける立場となったアル=カイーダ系組織は、アフガニスタン・パキスタン国境地帯や、イラク・シリア国境地帯などの各国政府による支配が地域に物理的な聖域を見出して、潜伏の場所や活動の拠点を確保していったが、それと並行して、インターネットや衛星放送などメディアのヴァーチャルな空間に、自由な活動の場を切り開いていった。
シリアから発信された欧米人の人質殺害映像は、「アル=ハヤート・メディア・センター」の制作と明記されているが、その様式と技法は際立ったものである。ハリウッド映画を模倣したかのような劇的な身振りとカメラアングルで、人質の背後に処刑人が立ち、刀を振りかざす映像が公開される。最初は殺害予告で、要求を人質が読み上げさせられ、処刑人が期限を切って警告する。米国や英国の空爆の停止といった要求が容れられないと、ほぼ期限通りに殺害映像が配信されるのだが、これも一連の動作が様式化されている。
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欧米人の人質は、決まってオレンジ色の囚人服を着せられている。キューバのグアンタナモ基地に、あるいはイラクのアブー・グレイブ刑務所にアラブ人やイスラーム教徒が収容され、暴行を受け、屈辱を受けたという記憶は、アラブ世界やイスラーム世界に刻み込まれている。そこで、米国によって収監された者たちが着せられていたオレンジ色の囚人服を、逆に拘束した欧米人に着せ、米国などへの要求を読み上げさせ、殺害する、という手順を踏んで見せる。このようにして、溜飲を下げるイスラーム教徒の一定の支持を得るとともに、あくまでもアメリカ側が先に行った不正に対する「正当」な復讐である、と主張しているのだろう。


「孫子」の読み方 1/3~ビジネスへの応用は疑問

経営の指針もしくは参考に兵書や戦記物を読み、さらに『作戦要務令』まで研究する、また「海軍式経営法」などという雑誌記事も掲載される、といった一時期があった。当時、こういった風潮についてある編集者から意見を求められたので、私は次のように答えた。
「それは少々見当違いだなああ、というのは、軍隊を存在理由または軍事行動の目的は敵の戦力を粉砕することにある。しかし、企業はそうではない。企業は何かを粉砕するために存在するのでなく、あくまで生産をして利潤を上げつつ存続するのが目的だから、存在理由と機能の目的が軍隊とは全く違うはずだ。いわば両者は基本が全く違うのだから、軍事はそのまま経営の指針もしくは参考にはならないはずだ」
この答えに対して、相手は一応納得したものの何か割り切れぬを感じたらしく、「でも企業に激烈な競争、いわば生存競争がありますでしょう」といった。それに対して、私は次のように答えた。
「確かにそれはある。しかし、企業の競争はいわばマラソンのような競争であり、一方軍事行動はボクシングのような闘争で、この2つの競技は同じ競技といっても基本が違うように思う。ボクシングは、相手の戦力を破砕してノック・ダウンさせればよい。だが、企業の競争はエンドレス長距離競争のようなもので、長期の競争に耐えうるように自らを鍛え、最も合理的な走り方をするようにあらゆる合理性を追求する。そして負けた者は脱落していくという競争だから、やはり基本が違うと考えねばならない」


相場を科学する

現在も相場そのものの本質は変わっていない。それにもかかわらず、様々な市場が発展し、企業や個人を問わず相場とのかかわり合いが密接なものとなった。「相場」というものは、特殊な人だけのものではなく、一挙に日常生活に入り込んできたのである。株式や原油、貴金属のような商品だけでなく、外国為替、債券、預金などの市場も、テレビや新聞のごく一般的なニュースとして取り扱われるようになっている。また、日本国内だけではなく、米国、欧州などの市場の報道もよく見かけるようになっている。

私も日本の証券会社で、外国株式市場の指数を見ることがあるのだが、
NYダウ、ナスダック総合指数、そしてS&P500の順番だ。
でもね、
http://finance.yahoo.com/
見てよ。S&P500、ダウ、ナスダックの順番だ。S&P500は最も何も考えずに米国市場全体を見ることができる指数だと思うのだが、日本では、伝統的にダウ、日経225、そして欧州といえばユーロストックス50ではなく、DAXだろう。株式指数も時代とともに進化し、より合理的に、より単純に美しくなっている。良いものを単純に採用すればいいのだろうが、過去の習慣にとらわれ、変化を嫌う気質がよく表れている
日本人が生活していくうえで、市場変動性をほとんど意識しないでも問題がない。ガソリン価格や電気料金は、一般生活において変動しているほうだが、電気料金の変動もオイル価格による影響というより別の要因だしw 日経平均を見ている人間は多いが、10年債金利を見ている人間は圧倒的に少ない。あれだけGPIFが債券保有していると言っているのに、年金受給者だろ? だが、確定給付なので、GPIFがどう運用しようが関係ないと考えている人が多いからだ。そして、みんな大好き住宅ローンの指標でもあるプライムレートの変動も、市場の揺らぎとはほど遠い。もっとすごいのが、これだけドル円為替レートがリアルタイムで簡単にとれる時代にもかかわらず、全銀行が、東京銀行の公示レートに右に習えで、1日固定レート、1%以上ブッコ抜くというのは、もはや滑稽としか言いようがない。


イスラーム国の衝撃 3/4~超国家的存在へ

アル=カイーダ関連組織の「フランチャイズ化」
アル=カイーダ中枢は、パキスタンとアフガニスタンの国境地帯に潜伏し、両国の政府と駐留軍に対するターリバーンの武装蜂起に時折関与する以外には活動を制約された。グローバルな活動では、イデオロギー的な宣伝や精神的な支援、いわば「口先介入」に限定せざるを得なくなった。しかし、世界各地でアル=カイーダへの支持や忠誠を誓う集団・組織が自生的に現れてきて分権型で非集権的なネットワークが形成されていった。「イラクのアル=カイーダ」「アラビア半島のアル=カイーダ(AQAP)」「イスラーム・マグリブのアル=カイーダ(AQIM)」といった、地域名を冠した関連組織が次々に出現し、相互に緩やかなネットワークを形成した。また、ソマリアの「アッシャバーブ」やナイジェリア北部の「ボコ・ハラム」といった、直接アル=カイーダの名を冠していなくても、密接に関係を結ぶようになった組織もある。
各組織はそれぞれの国や地域の紛争・対立構図の中で、テロなど人目を惹く作戦行動を自律的に行ったうえで、ビン・ラーディン(その死後はザワーヒリー)に忠誠を誓い、アル=カイーダの一部として事後に認められていく。これらの組織の中には、指導者の一部がかつてアフガニスタンでジハードを戦い、アル=カイーダの指導層と直接的な関係を有する場合がある。このような組織のグローバルな広がりは、「フランチャイズ化」と表現されることもある。明確な組織や指揮命令系統によってつながるのではなく、理念やモデルを共有することによって協調・同調し、シンボルやロゴマークなどを流用することによって広がる緩やかなネットワークを表現するために、卓抜な表現と言えるだろう。アル=カイーダは、名乗りを上げた諸組織を支持し、アル=カイーダの一部として承認することで「お墨付き」を与える立場となった。アル=カイーダの中枢・本体は、いわば「フランチャイズ」の支部を認証する権限を持つ「本部」の機能を持つようになった。アル=カイーダという店名や商標の「暖簾分け」を許可あるいは拒否する権限を持つ「本店」「本舗」のような立場になったともいえよう


餃子の王将社長射殺事件 3/3~色々な問題

ゴルフ場に異常融資した理由
王将と王将が100%出資している子会社の「キングランド」(05年に解散)が極めて不可解な動きを見せていたことが分かった。結論から言えば、王将がキングランドに設備投資金として約103億8000万円を貸し付けたのだが、王将の子会社が短期間にそれほど巨額の資金を有する事業を行うはずがないと思ったら、案の定、「キングランド」は約16億円の設備投資金を差し引いた残り87億8000万円を別の会社に融資していたのだ。これは王将が子会社を経由して第三者に投資した、つまりは他社へのトンネル融資にほかならず、その当時は極秘中の極秘事項であった。
その時、王将が多額の資金を貸し付けた相手が、U氏の経営する不動産関係会社・K社であり、貸付金のほとんどが焦げ付いていたことが、後に大東氏が4代目社長として不良債権に”大ナタ”を振るった時に判明する。90年5月、福岡県甘木市(現・朝倉市)にオープンしたゴルフ場は建設費が300億円は下るまいという超豪華なコースで、バブル経済の余韻があったとはいえ会員権も個人会員が3000万円、法人会員が6000万円、募集正会員1000人というド派手なゴルフ場であった。運営しているのは、福岡市のK社が所有するビルに本社を構える「福岡センチュリーゴルフクラブ」で、代表取締役はもちろん、U氏であった。‘‘
ゴルフ場の不動産登記簿謄本などによれば、キョート・ファイナンスなどのノンバンクや総合住金などの旧住専、信託銀行、信用組合などに混じって、工事を請け負った土木建設会社まで180億円もの根抵当権を設定。抵当権などから推定する融資額あ合計で370億円を優に超過しているとみられ、相当に無理な金策をして完成させたゴルフ場であることがよくわかる。
ところで、そのゴルフ場運営会社が入っているビルはK社が87年に買収したものであるが、3年後には旧住専の総合住金が融資のカタに極度額90億円の担保物件に設定しており、K社は借金を全く返済できず、焦げ付きの不良債権と化していた。その不良債権を96年10月に引き継いだ住宅金融債権管理機構が、翌97年9月に競売にかけたところ半年以上かかってようやく落札者が現れた。それが何と、「王将」の子会社「キングランド」であり、98年4月に所有権が「キングランド」に移転している。王将がキングランドに貸し付けた形になっている87億8000万円は、実は、K社がゴルフ場運営会社のビルを買い戻す資金になっていたわけだ。それにしても、王将は、いや王将創業者である加藤一族はなず、U氏のためにそこまでしてやらなければならないのだろうか。
> ここがこの事件の本質だと個人的には推測しているのだが、この本はそこに対する追及はそれほど深くない。


統計学が最強の学問である

なぜ統計学は最強の武器になるのだろうか? その答えを一言でいえば、どんな分野の議論においても、データを集めて分析することで最速で最善の答えを出すことができるからだ。
統計学がパワフルなものであるのならば、もっと前から社会のいたるところで使われているべきじゃないか?という疑問ももっともだ。その答えは統計学自体ではなく、統計学を活用するための環境の変化にある。もしみなさんが、大学時代の授業などから統計学に退屈なイメージを持っているのだとすれば、「紙とペンの統計学」ばかりを教育されたために、時代の最前線で最善の答えを生み出し続けるITによる統計学のパワフルさを体感できていなかったことが1つの理由なのかもしれない。
「ふ~ん」としか言えないグラフ
データ分析において重要なのは、「果たしてその解析はかけたコスト以上の利益を自社にもたらすような判断につながるのだろうか?」という視点だ。顧客の性別や年代、居住地域の構成を見ると何%ずつでした、あるいはアンケートの回答結果を見ると「とてもそう思う」と答えた人が何%いました、といったデータの集計を「解析結果」として示されることはしばしばある。コンサルタントだとかマーケターだとか名乗る人々の中にも、適当なアンケートを取ってキレイな集計グラフを作ることのみを生業にしているんじゃないかという人すらいる。だが、果たしてこれらの結果に「なんとなく現状を把握した気になる」という以上の意味はあるだろうか?
統計解析は3つの問い
問1 何かの要因が変化すれば利益は向上するのか?
問2 そうした変化を起こすような行動は実際に可能なのか?
問3 変化を起こす行動が可能だとしてその利益はコストを上回るのか?
「意味のある偏り」なのか、それとも「誤差でもこれぐらいの差は生じるのか」といったことを確かめる解析手法に「カイ二乗検定」というものがある。実際には何の差もないのに誤差や偶然によってたまたまデータのような差(正確にはそれ以上に極端な差を含む)が生じる確率のことを統計学の専門用語でp値という。このp値が小さければ(慣例的には5%以下)、それに基づいて科学者たちは「この結果は偶然得られたとは考えにくい」と判断するというわけである。


中国の正体 5/5~独裁者の権力への固執

大躍進政策が描いた夢想
1958年の共産党八全大会二次会議は第二次5か年計画を決定し、工業と農業の飛躍的発展を主要目標に掲げた。大躍進政策の開始である。工業成長率は毎年30%前後、農業成長率は15%前後に設定され、工業生産額において15年でイギリスに追いつくことが提起された。そして鉄鋼と石炭の増産、食糧と綿花の増産が発展の主要項目となった。
> 現在の中国におけるGDPである。
その結果1958年度の鉄鋼生産量は既定の620万トンから1070万トンに増量されたが現有の製鉄設備では達成が不可能となった。当時は鉄鋼の生産量が一国の工業力を示すバロメーターであり、工業成長率毎年50%の達成には鉄鋼の増産は不可欠であった。この状況下で考え出された奇策が、土法製鋼(自家製の小溶鉱炉による製鉄。土法は民間技術、土着技術)であり、民衆がそれぞれの生産現場から製鉄運動に動員される。
その結果、全国で100万以上の小溶鉱炉が出現し、9000万人以上が製鉄運動に参加した。製鉄に必要な石炭の増産に対しても、土法の活用と民衆の参加が推進され、10万以上の小炭田が出現した。大躍進では到達目標だけが独り歩きしていた。共産党は1958年の鉄鋼生産量を1108万トンと発表したが、実際に生産されたのは800万トンであった。しかも、この800万トンのうち、土法製鋼による300万トンは不純物が多く使い物にならなかった。製鉄運動に参加した民衆は鍋や釜など日常生活上の鉄製品を原料として使用した。石炭不足を補うために山林は乱伐された。大躍進政策が中国の工業発展にもたらしたのは、壮大な無駄であった。
まもなく大躍進政策の壮大なツケが顕在化する。農民が都市での製鉄運動などに参加した結果、本来は農作業に投入されるべき労働力が減少し、農業生産力は低下し始めていた。一方、工業活動の拡大に伴い増加した都市人口を賄うため、政府は農民からの食糧買いつけ量を急増させ、農村の保存食量は減少していた。人民公社では公共食堂で無料の食事が提供され、再生産用の種子までが消費されていた。以上の状況のもとに、農村では1959年から1961年にかけて大飢饉が発生し、死者は2000万人とも3000万人ともいわれる。しかし農村から収奪した食料を配給されていた都市では、死者が出現することはなかった。農村での大量餓死者の出現を背景に、毛沢東は1958年12月にはみずから提案して国家主席の職務を退く。そして翌59年に劉少奇が新しい国家主席に就任した。このあと劉少奇と鄧小平の指導下に、大躍進政策により不正常に肥大化した経済活動に対する調整政策が推進された。調整政策の眼目は、都市人口の削減(農民を農村に戻す)、基本建設事業の縮小、農業生産の回復と発展(人民公社における共通化の程度を引き下げ、農民の生産意欲を引き出す)、市場の安定、赤字財政の克服などであった。
文化大革命前夜の政治状況
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毛沢東は、劉少奇と鄧小平が指導する経済の調整政策を、資本主義への道を歩む修正主義の出現だと考えた。そしてこれを阻止するため、文化大革命を発動する。文化大革命の正式名称「プロレタリア文化大革命」であり、1966年8月に開始が決定され、1976年9月の毛沢東の死により終息した。81年になり鄧小平は、文化大革命を毛沢東の晩年の誤りとして徹底的に批判した。文化大革命勃発の背景には、国内的要因だけでなく、中国とソ連の反目が存在した。独裁者スターリンの死去(1953年)後に権力を掌握したフルシチョフは、中国との相談なしにスターリン批判(1956年)を行ったが、西側諸国との平和共存路線や、議会を通じた社会主義への平和的意向を提唱し、中国の大躍進政策を批判していた。
劉少奇の抵抗と無残な死
毛沢東は劉少奇を最大の走資派(資本主義の道を歩むグループ=走は中国語で歩くの意)として葬り去る。しかし政治路線上の対立からだけで、あれほど残酷な仕打ちで生命まで奪い去ることができるのか。この間の経緯について中国側の文書は多くを語らないが、文化大革命の背景には政治路線上の対立だけでなく、自分の地位を脅かすナンバー2を倒そうとする毛沢東の凄まじい執念が存在した
1956年のスターリン批判後の第8回中国共産党全国代表大会では、党章から毛沢東思想の文字が削除された。さらに新しい党章には毛沢東の引退を前提にして共産党名誉主席の職位が設けられた。そうして劉少奇と鄧小平を中心とする党組織の改編により、毛沢東の独裁権力は制限され始めた。以上の状況下に、毛沢東は自らの指導力の挽回をかけて大躍進政策を敢行した。しかし千万人単位の餓死者を出す大失敗に終わり、劉少奇と鄧小平の主導した経済調整政策により被害の拡大を免れた。毛沢東の面目は丸つぶれである。
何とかして、従来の絶対的威信と権力を回復しようとする毛沢東は、性急に社会主義教育運動を提唱する。自己の権力を制限し始めた共産党の官僚体制を階級闘争のダイナミズムにより揺さぶり、その動揺と混乱を収斂させる核となることにより、自らの絶対的権力と権威を復活させることが狙いであった。その結果が文化大革命の発動であり、これにより劉少奇にとどまらず鄧小平を含む多くの共産党幹部たちが、資本主義を歩む走資派として打倒された。
しかし同じように打倒された劉少奇と鄧小平の処遇には、大きな差異が存在した。劉少奇は1967年の7月に中南海の自宅を数十万人の大衆に包囲されて残酷な批判集会に引き出され、2時間も前かがみで立たされ残酷な罵声を浴び続けた。そして家族と切り離され、妻の王光美は刑務所に収監された。劉少奇は自宅に監禁されたあと病に倒れたが、治療は施されなかった。67年10月には共産党を除名されたあと、69年10月には病身のまま北京から河南省開封に移送され、倉庫部屋に放置され1か月後に死去した。悲惨としか言いようのない最後である。
これに比べて、鄧小平の境遇は遥かに恵まれていた。1967年の9月から中南海の自宅に監禁されたが、コックと用務員は残されていた。そして69年10月からは江西省に下放されトラクターの修理製造工場で労働を強いられたが、下放には妻も同行し日常生活を保障されていた。また工場での作業自体も過酷なものではなく、現地の共産党幹部による細やかな配慮がなされていた。そして1973年になり、鄧小平は毛沢東の承認により国務院副総理に復活したのである。
一方は横死し一方は復活するという、劉少奇と鄧小平の差は何によりもたらされたのか。従来の研究書ではほとんど議論されないが、以下に示す中国語訳されている2つの外国特派員情報は両社に発生した差異の原因を明快に説明している。特派員情報の1つは、ハンガリーの記者であったバラチ・ダイナッシが、その著作である『鄧小平』(解放軍出版社、1988年)の中で語る内容である。もう一つの情報は、ユーゴスラビア駐北京記者の語る内容である。
劉少奇は文化大革命勃発直前の1966年7月に、北京を離れていた毛沢東不在のままで中央執行委員会全体会議を開催し、投票により毛沢東を名誉主席に選出し引退させようとした。そして数か月にわたる多数派工作を行い、鄧小平も自己の陣営に取り込んでいた。ところが鄧小平が土壇場で、毛沢東の北京帰還を待って中央執行委員会全体会議を開催することを主張したため、劉少奇の試みは失敗した。自己の不在中での中央執行委員会全体会議開催を阻止しようとする毛沢東と、あくまで開催を強行しようとする劉少奇の間には、双方による軍事衝突にまで進みかねない鋭い対立が存在した。間一髪で衝突は避けられたが、毛沢東は林彪の部隊を動員し劉少奇側は新疆軍区司令員である王恩茂の部隊を動員した。劉少奇は、1964年のソ連のフルシチョフ解任劇を模倣しようとしていた。以上の経緯を背景に据えて劉少奇と鄧小平の境遇を考えると、一方が無残な死をとげ、一方が保護されたという差異に納得がいく。
文化大革命において「四旧」として批判された旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣に痛撃を与えたのは、紅衛兵と呼ばれた大学生や高校生の学生たちである。紅衛兵の暴力は、表向きは毛沢東の権威に支えられていたが、その遂行を可能にしたのは人民解放軍武力による後ろ盾であった。1966年7月18日から20日の間に、北京は林彪の部隊により選挙された。これにより、紅衛兵による国家主席・劉少奇のつるし上げも可能になったのである。北京の紅衛兵は1966年の8月から行動を開始した。商店の掲げる伝統的な看板を打ち壊し、旧い通りや建物の名前を革命的な前に改め(たとえば、繁華街の王府井通りを「革命路」、さらに「人民路」に改名)、地主や資本家であった人々の家屋に大挙して侵入し、家宅捜索により古い文物を押収し、あるいは破壊した。
共産党は農村の生態系を破壊した
土地改革で地主制度を廃止し、土地の所有形態は変化した。しかし結局何がもたらされたのか。土地改革で一度は小土地所有者となった農民たちの土地を農業社会主義化の名の下に共有化させ、さらにはやみくもに農民を土地に縛り付けて移動を禁じた。そして一方では、農業生産力の主力であった富農や中農が排斥された。一連の政策は既存の生産様式を踏まえた合理的な方針ではなく、生産関係さえ改変すれば生産力は向上するはずだというイデオロギー先行型の性急な方針であった。そして何よりも新国家建設の原資を農民から効率よく搾取することを主目的としていた。かろうじて生産を持続させていた農村社会という生態系を破壊することになり、1950年代末から60年代初めには政策の誤りにより、農村には大量の餓死者が発生した。
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イスラーム国の衝撃 2/4~アフガニスタンにおけるアメリカ

追いつめられるアル=カイーダ
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ターリバーン政権が瞬く間に崩壊していく中で、アル=カイーダも主要な人員を失った。ビン・ラーディンの側近で主要な宣伝ビデオにもしばしば顔を出していたムハンマド・アーティフなどが、この時に死亡している。2001年11月17日以降には、アル=カイーダはターリバーン勢力の一部を含む1000人程度の軍勢とともに、アフガニスタン東部トラ・ボラ(Tora Bora)の洞窟に立てこもった。トラ・ボラは国境地帯に位置し、ハイバル峠を越えればパキスタンの連邦直轄部族地域(FATA)に至る。そして国境に横たわる「白山脈」には洞窟が連なる。米軍はトラ・ボラに集中的な空爆を行い、アフガニスタンの地元勢力が、地上での掃討作戦を担った。12月16日までにすべての洞窟を制圧し、200人のアル=カイーダあるいはターリバーン兵の死体が見つかったという。
このような大規模な軍事作戦にもかかわらず、ビン・ラーディンは忽然と姿を消した。トラ・ボラの攻撃を逃げ延びたことで、ビン・ラーディンは伝説となった。10年後の2011年5月2日に殺害されるまで、ビン・ラーディン自身が公の場に出たことはない。ビデオや音声のメッセージでその姿や発言が伝えられるのみだった。トラ・ボラの戦闘の後、ビン・ラーディンは直接の司令官というよりは、象徴的な指導者として、アイコンとして機能するようになったのである。取り残されたアル=カイーダのジハード戦士(ムジャーヒディーン)たちは、南部のバクティア県のシャーイコート渓谷(Shah-i-Kot Valley)に結集した。これに対して2002年3月1日から18日かけて行われたアナコンダ作戦は、アフガニスタン戦争での最大規模の戦闘といわれる。この段階になって、米軍の通常部隊が参加した。それまで地上戦は、主に特殊部隊によって担われていた。


餃子の王将社長射殺事件 2/3~九州地縁

王将は1967年、福岡県出身の故加藤朝雄氏が京都・四条大宮に1号店を開いたことでスタートし、順調に業務を拡大した。が、93年の朝雄氏急死後、3代目社長に就いた長男・潔氏が遺訓に反して不動産投資など多角経営に走って失敗。約470億円もの有利子負債を抱えて倒産寸前にまで追い込まれ退陣した。2000年に後任社長となった創業者の義弟である大東氏は、思い切った資産売却と不採算店閉鎖を進めて就任2年で黒字化に成功した。05年に中国大連に進出し、06年に大証1部に昇格を果たすと、13年3月期の売上高は743億円と過去最高を記録、14年3月期も762億円と更新するなど完全に再生した。
2000年4月、「王将」の4代目社長に就任した大東氏の最初の仕事は金策だった。約470億円という当時の全売上高を優に上回る有利子負債を抱え、ただでさえ途方にくれるしかなかったが、それ以前に約50億円分の社債の償還期限が間近に迫っており、直ちに大口の出資者を見つけなければ倒産するしかない状況だった。「大東氏が公私に渡って交友関係を築いてきた知人らに頼み込んだ結果、そのうちの1人に『王将』の26億円余りの第三者割当増資を引き受けてもらうことに成功した、と聞いている。ほかにも複数の知り合いが合計で50億円余もの投資を約束してくれたということらしい。今後の展開次第では株式は紙くず同然になるし、他の設備だって二束三文になる危険性を秘めていたのに、大東氏の人柄や実績が信頼されたということだろう」(「王将」関係者)
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> 第三者割当を引き受けたのは、アリアケジャパンの岡田甲子男氏で、今でも株主名簿に名を連ねている


池上彰と考える、仏教って何ですか? 2/2~日本で

日本ではまず国づくりのために仏教が導入されたため、国家の体制の安定や天皇の安寧を祈ると言う役割が求められました。そこですぐ効く、よく効く、密教のパワーが期待を集めたのです。最澄は806年に比叡山延暦寺で天台宗を開き、、空海は816年、高野山金剛峰寺で真言宗を開きました。日本における二つの密教の拠点が誕生しました。民衆の間では、ブッダ入滅から2000年経つと、仏法が正しく行われなくなり、世の終わりが近づくという末法思想が流行しました。日本では1052年が末法元年とされました。
そんな日本中が不安に満ちた世相を反映し、仏教に大きな地殻変動が起こりました。鎌倉仏教と呼ばれるグループの登場です。その源となったのは、社会不安も高まっていたこともあり、民衆の救済に目を向けることになった最澄が比叡山に開いた天台宗でした。
日本の仏教の歴史の中で、鎌倉仏教が革新的だったのは、それまで国家や貴族のものだった仏教を、庶民のものにしたことです。死者を浄土へと送り出す葬儀を進んで引き受けるようになったのも、救いを求める庶民の気持ちに応えようという仏教側からのアプローチの一環でした。今でこそ葬式仏教と揶揄されていますが、そもそも、誰もやりたがらなかった葬式を引き受けてくれたのです。世の中が最も切実に求めた仏教の姿だったのです。葬式仏教は当初、仏教の堕落ではなかったはずです。
死者をきちんと弔ってもらいたいという庶民の欲求に応え、鎌倉仏教の僧侶たちは葬儀に携わるようになりました。しかし、この動きがすぐに現在の葬式仏教と結びついたわけではありません。当時は、寺院が檀家の葬祭供養を執り行う檀家制度がありませんでした。どのお寺を選んでもよかったのです。お寺と信者の関係が変化したのは江戸時代のこと。幕府は日本のすべての家がいずれかのお寺に属するよう義務付けました。必ずしも幕府が信仰熱心だったからというわけではありません。江戸幕府はキリスト教を禁じていました。外国と結んだ大名の力が強くなったり、一神教を信じる信者同士が結束したりすることを警戒したからです。つまり体制の安定を維持するのが目的です。
檀家制度は、キリスト教徒ではないことを証明するための仕組みで、日本特有のものです。どの家庭もお寺に属し、仏教徒であると言う社会にすれば、少なくとも表立ってはキリスト教徒は存在できなくなります。檀家制度によって、家とお寺の関係が固定されました。この関係は代々続き、途中で他のお寺に鞍替えすることは困難です。檀家制度に先立って、仏教界内部でも本寺・末寺制度が確立されました。これは各宗派の本山を頂点とするピラミッド型の組織を作り、すべての寺院を管理できる仕組みです。今の日本が都道府県・市町村を通じて国民全員の戸籍や住民登録を管理しているような仕組みを仏教界にやらせたわけです。お寺にとってはありがたいことでした。常に檀家を確保できるのですから、一定の葬儀や法事のお布施が永久に保証されることになります。
僧侶の妻帯・世襲は日本だけ
リンポチェに対するインタビュー「これまでに僧侶を辞めたいと思ったことはありませんでしたか?」
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「一般には、結婚して家族ができ、子供ができればきっと幸せになれるだろうと希望を抱いて結婚します。最初の何日か、あるいは何ヶ月かは非常に楽しい時期が続きます。それが何年かすると、夫婦の間にはいろいろな問題が生じます。周りの人たちを見ているとよくわかります。夫婦間の問題は次第に大きくなり、嫉妬心やら疑惑やらと言った心配事が絶え間なく生じます。夫婦喧嘩のもとになり、ついには別れてしまったりします。こうしたことが周りでたくさん起きているのを見て、自分が歩んできた道は間違っていなかったと信じられるようになりました。
> ハハハ、なかなか絶望的な結婚観だな。


中国の正体 4/5~独裁者への批判

勝敗を分けた戦略-隠された社会主義の汚点
戦略上見逃せないのは、内戦の帰趨を決定した満州の軍事状況である。満州は国境両軍の到着以前にソ連軍により占領されていた。そしてソ連軍は国民政府軍の満州進駐の速度を遅らせる挙に出たのである。さらにソ連軍は、共産党軍に満州到来を待ち、占領中の都市をその支配に委ねた。また日本軍から接収した武器を、共産党軍に提供したのである。これが共産党軍が戦略的に優位に立つ大きな要因となる。しかしながらソ連には共産党全面的に支援する意図はなかった。満州におけるソ連軍の動きは、ソ連が利権の回復をもくろむ満州内に、国民政府軍がアメリカ軍の助けを借りて進駐することへの抗議であり、最終的にはソ連は国民政府(共産党を内に含む)の中国支配を受け入れたと考えられる。事実としてソ連は日中戦争中には共産党よりも国民党を優先的に支援していたし、日本の敗戦間際には中ソ友好同盟条約を締結し、国民政府を中国を代表する政府として承認していた。この背景には、外モンゴルの独立を国民政府に承認させ、長年にわたる中国との領土問題をソ連側に有利に解決できるという外交上の利点があった。ところがソ連の思惑を超える新たな展開が発生してしまった。その結果国共内戦の帰趨が決定的になり、国民政府が南京から広州に移動した1949年4月の段階になってもソ連大使は国民政府の移動に同行することになる。
満州において共産党軍が勝利した要因として、以下の事実を考慮しなければならない。装備と数において優勢であった国民党軍の満州における展開は、大都市に集中した。これに対して劣勢の共産党軍は、大都市を結ぶ鉄道網を寸断して大都市を孤立化させた。国民党軍は航空機輸送に望みをつないだが、空輸能力には限界があり、国民党軍は食糧にも事欠く状況に陥る。一方、共産党軍は都市郊外の農村地区を厳しく管理し、物的かつ人的な補給を欠かすことはなかった。このようにして国民党軍は補給戦において敗北したのである。


イスラーム国の衝撃 1/4~グアンタナモの報復として

指導者のアブー・バクル・アル=バグダーディーは、2010年に「イスラーム国」の前身組織「イラク・イスラーム国」のアミール(司令官)に就任した際から、預言者ムハンマドと同族の「クライシュ族」に属す、と主張してきた。イスラーム法上は、クライシュ族に属すということがカリフの要件として重視される。バグダーディーはいつか「カリフ」を名乗ることを、「イスラーム国」の指導層は早くから想定していたとみられる。世界中のモスリムが、バグダーディーあるいは「イスラーム国」の指導者を自らのカリフとして認めたということではない。しかし「カリフ制が復活し自分がカリフである」と主張し、その主張が周囲から認められる人物が出現したこと、イラクとシリアの地方・辺境地帯に限定されるとはいえ、一定の支配領域を確保していることは衝撃的だった
カリフ制はイスラーム法では世界のイスラーム教徒の共同体(ウンマ)の正当な指導者と規定される。しかし長期間、その座は空位となっていた。20世紀初頭まで存在したオスマン帝国のスルターンは、カリフ位についていると主張したが、預言者ムハンマドの血をひかないトルコ人のスルターンが全世界のカリフであるという主張は、イスラーム法上は疑わしい。全世界のイスラーム教徒を指導することを主張するカリフが存在していたのは、アッバース朝(750~1258年)までだろう。そのアッバース朝のカリフにしても、対抗してスペインに後ウマイヤ朝(756~1031年)のカリフを主張する政権が存在し、シーア派系のファーティマ朝(909~1171年)のカリフがエジプトを支配するなど、イスラーム教徒の共同体には複数の政体が並び立っていた。


餃子の王将社長射殺事件 1/3~殺害現場の状況と警察

事件は2013年12月19日午前5時40分頃、京都市山科区西野山射庭ノ上町の「王将フードサービス」本社前で起きた。大東氏は通常と同じように、本社の約1.5km北東にある山科区西野大鳥井町の自宅から、黒い社有車を自ら運転して出発した。そして7分後、本社とは道路一本隔てた北側にある従業員専用の駐車場に着き、車から降りた直後に、その惨劇は起きた。突然、何者かが大東氏に駆け寄り、至近距離から拳銃を4発発射したのだ。傷の状態などから大東氏は立った状態で、ほぼ正面から撃たれたことが分かっている。発射された銃弾は大東氏の右胸に2発、左脇腹に2発とすべて命中した。駐車場に倒れている大東氏を発見したのは、早番で出勤してきた男性社員で、銃撃から1時間15分も経った午前7時頃のことであった。
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捜査本部が真っ先に調べたのが、犯行現場となった「王将」の駐車場から道路を挟んで南側にある別の梱包会社の倉庫に設置された防犯カメラであった。本社前カメラの映像解析によると、大東氏の車はいつも通り、駐車場内を時計回りに大きく旋回し、自分の”指定席”となっている南東側スペースに北側から乗り入れて停車した。そして、その数秒後には、駐車場のすぐ東側に立っている、「王将」が倉庫として使用している別棟社屋の前を東側から西側に向かって横切るように歩き、事件現場方向に接近する人影が映っていた。これは別棟倉庫の出入り口付近の上部に、人間が近付くと感知して光るセンサー付のライトが設置されていて、本社前カメラにその点灯した光が映っていたため確認できたのだ。周囲がまだ真っ暗なうえ、画像が粗くて不鮮明だったため、横切った人物の顔かたちまではわからなかったものの、あまり背が高くなくて細身とみられる体格の人物のシルエットをはっきりととらえていた。その直後、本社前カメラは発砲の際に出たと思われる複数の閃光をキャッチ。数十秒後には前出の人物と背格好がよく似た人影が、今度は別棟倉庫前を西から東に横切り、通路方面に戻っていった。


池上彰と考える、仏教って何ですか? 1/2~中国へ

仏教では人間の持つ根本的な煩悩を三毒(貪り、怒り、愚か)としています。貪りというのはもっと欲しい!と欲張る心です。いくら欲しがっても得られないものは多いですし、手に入れたら入れたでもっと欲しくなります。限度のない欲望です。怒りもまた抑えがたい煩悩です。しかし、怒りをぶつけても問題が解決するとは限りません。逆に怒りの応酬となって問題は大きくなるばかりです。愚かとは、「諸行無常」(すべては移り変わる)「諸法無我」(確かな私など存在しない)といった真理を知らないことです。これを無明と呼びます。
> なるほど・・・俺、悟り開いてる状態に近いな。
ブッダは一箇所に長くとどまることなく、一生、旅を続けました。決まった居場所をもうけてしまうと、その場所や人間関係にとらわれて、離れがたくなったりします。持ち物が増えれば、それを守りたくなったり、別のものが欲しくなったりしがちです。そうした欲が頭をもたげるのを防ぐため、信者から寄進されたお寺にも長居せず、布教の旅を続けたのです。すでに煩悩の姿を見極めたブッダでさえ、油断するとまた、からめとられてしまう。
> アジア全域生活圏構想パクられた?
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かつて共産主義を生み出したカール・マルクスは、フランスで自身の思想がどう紹介されているのかを知って、こう皮肉ったそうです。「私にわかるのは『私はマルクス主義者ではない』ということだ。」
ブッダが今の仏教の姿を見たらどう思うでしょうか。思想というのは同時代の人にさえ、意図しない形で伝わってしまうものです。ブッダの時代から今に至る2500年の間には実に大きな変化がありました。時代によって、土地によって、変化したからこそ、仏教は世界宗教になることができたのです。ブッダは教えも文字で残さず、すべて対面で教えを説いていたと言われています。