月: 2015年12月

遥かなるマレーシア対岸2

Pasir Risからマレーシア対岸に臨むウォーキングコースに失敗したので、リトライです。EW Line(緑のMRT)の東の果て、Pasir Ris駅まで電車で行きます。そこから歩きで北上し、マレーシア対岸を目指します
たった一か所曲がるところを直しただけで、無事にマレーシア対岸に。
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遥かなるマレーシア対岸

タイの山中で倒れて以来、運動不足を解消するために、運動靴を買ってジョギングを始めた。
2015.05.13 タイ全土落下傘計画2015 15/15~山で遭難
Surfaceを買って以来、ジョギングをウォーキングに切り替え、近所の撮影を始めた。
2015.09.14 シンガポールの引きこもりが勇気を出して部屋を出る(写真付)
しかし、私が住んでいるところは、HDB群のど真ん中で景色の変化に乏しい。なんていう話をしていたら、トライアスラーの友人からアドバイス。自転車の練習をする彼は、ほぼシンガポール全土を縦横無尽に走っているのか、シンガポールの地理にかなり詳しい。シンガポールの西の果てまで繰り出しているらしい。彼曰く、東方面は「Pasir Risまで電車で行って、そこからPunggolに向けて ※PCN を歩くと、マレーシアが見えて良い。」
というのでサーフィスを連れて、早速やってみた。ウォーキングにバスや電車を組み合わせるのか。思いもつかなかったわ。
Surface-Hazamada.jpg
※PCN 三文字熟語が大好きなシンガポール、PIE、HDB、MASなどは初級だが、”PCN” 分かるかね?
Park Connector、公園をつなぐ歩道・サイクリング道のことである。ジャカルタやバンコクにも運動靴を持ち込んだが、ジョギングやウォーキングが簡単にできる道路環境ではない。しかし、シンガポールは、PCNのような歩道まで完備されている。ジムなど行かなくても、無料でウォーキングができるのは、シンガポールの良い所だ
電車でPasir Risまで行き、駅を出て、北と西へというのを意識しながら、歩きはじめる。では私の進軍経路は事後的に地図上で振り返ってみよう。
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BARがつぶれる酒のペース

私はバーを経営しているわけではないので、正確なことはわからないが、席の数が決まっている以上、あまりにもゆっくり飲まれると迷惑なんだろうなぁ・・・、と想像したタイトルである。私の友人で、私と同じくらいお酒が飲める友人がいるのだが、時折、飲みすぎて、街中で寝てしまい財布を取られたり、転んでケガをしていたりするので、「お酒は大人になってから」。自分のペースを知りましょうという警告でもある。
酒飲み友達と会うと、一次会では飲みながらお食事し、二次会で濃い酒、主にウイスキーでゆっくり、というパターンが多い。ところが私は、稀に一次会で酔いが回って眠くなって帰ってしまうという事件を引き起こしている。この現象を分析してみると、飲む相手と酒類に依るというのが私の結論だ。「酒に酔うのは醸造酒か蒸留酒の別、それと酒量だけで決まるのであって、焼酎がウイスキーより酔いやすいということは無い。あまりにも非科学的なことを言うな。」と怒られたこともあるのだが、それを踏まえた上でも、なおも、飲む相手と酒類に依ると言おう。


坂の上の雲五 15~石炭が欲しい

真之の対バルチック艦隊の戦法もかれの独創で、どの国の戦術所にも無い。かれがいま練りつつある迎撃戦法はのちに「七段構え」という名称がついた。真之は敵を一艦残らず沈めるとすれば、原則としてこれ以外に無いと考えている。つまり、済州島あたりからウラジオストックの沖までの海面を、七段に区分するのである。その区分ごとに戦法が変わる
まず第一段はバルチック艦隊が日本近海に現れるや、すぐには主力決戦せず、いちはやく駆逐隊や艦隊といった足の速い小艦艇をくりだし、その全力をもって敵主力を襲撃し、混乱せしめる。この点、真之が熟読した武田信玄の戦法に酷似していた。第二段はその翌日、わが艦隊の全力をあげて敵艦隊に正攻撃を仕掛ける。戦いの山場はこのときであろう。第三段と第五段は、主力決戦が終わった日没後、再び駆逐・水雷という小艦艇をくりだし、徹底的な魚雷戦を行う。これは正攻撃というより、奇襲というべきである。次いでその翌日、第四段と第六段の幕を上げる。わが艦隊の全力ではなくその大部分をもって敵艦隊の残存勢力を鬱陵島付近からウラジオストック港の港外まで追い詰め、しかるのちに第七段としてあらかじめウラジオストック港口に敷設しておく機雷沈設地域に追い込み、ことごとく爆沈させるという雄大なもので、第一段から第七段まで相互に関連しつつ、しかも各段が十分に重なり合っていて。隙間が無い。その精密さと周到さという点において、古今東西のどの開戦史を見てもこのようではない。真之以前の歴史上の海戦というのは、多分にゆきあたりばったりの粗大なものが多く、真之はむしろこの緻密さを、陸戦の戦史を読むことで会得したといっていい。この七段構えについては、真之はそればかりを考えていた。
「ロジェストウェンスキー航海」といわれるバルチック艦隊の苦難の航海は、まだアフリカ大陸の端にさしかかったばかりであった。ロシアから極東の島国まで18,000海里、この記録的な目標に向かって、性能のそれぞれ違う大小四十数隻をひっぱって、この宮廷向きの司令長官は挑もうとしているのである。思うだけでも気の遠くなるような事業であった。「東郷とその艦隊を全部海底に沈めてしまうなら、この苦難も、一つ一つが宝石のように輝かしい記憶になるだが」と、人々は思った。しかし12,000の乗組員のうち、確乎とした必勝の見通しを持っているものはいなかった。というより、それが軍隊の自然かもしれなかった。東郷艦隊においても、その士卒の全員が必勝を確信しているわけではない。確信しているとすれば、よほど無智か、常人でない精神体質の持ち主であろう。
ロジェストウェンスキーの苦難は、この大遠征が、その遠征に必要な条件のすべてを供給されているのではないことであった。18,000海里の航海のうち、大半の港が、イギリスによって握られているか、その影響下にある。イギリスは、世界の海上における日本の代理者であった。イギリスは、国際法の許すギリギリにおいてバルチック艦隊の航海を妨げようとし、その艦隊を疲労させようとした。「この海上の悪漢。海上の優越者。ロシア帝国にとっての不倶戴天の仇敵、かれらがわが航海に加えた妨害の事実は数えきれないが、しかしながらみな恨みを呑んでこれを忍耐した」と、造船技師ポリトゥスキーは、11月2日付で、その愛妻に手紙を書き送っている。


坂の上の雲五 14~専門意識

乃木希典はようやく攻撃の力点を203高地に置いた。軍司令官独自の判断であり、かれの参謀長伊地知幸介の発議によるものではなかった。この決定の席上、伊地知は沈黙していた。かれはこの期にいたってもなお、「あんな高地を奪って何になるか」という考え方を変えていない。伊地知に言わせれば、「203高地主攻説をなす者は、ここを奪取してその頂上に観測点を置き、旅順港内の敵艦隊を陸上砲で撃つというが、たとえ奪取できても砲兵の設備をすることを多大の月日を必要とする。机上の空論である」と、いうことであった。むろんその後、実際に行われた後、この伊地知論のほうが空論であることが実証された。
乃木希典
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もしこれが、最初からプログラムに組んでいればどうであろう。この高地がまだ半要塞の状態であったとき、第一師団がここを攻撃しているのである。むろん撃退されたが、このときわずかでも増援軍を送っていれば占領できたことは確かである。そのせっかくの好機を、乃木軍司令部は自ら捨てた。その後、この高地を放置した。その間、ステッセルは、あらゆる砲塁のなかで最強のものをこの高地に築き上げたのである。
203高地は、旅順市街の西北約2キロの地点に、大地がちょうどうねるように隆起している。付近には案子山、椅子山があり、谷を隔てて相つらなり、203高地のそばには赤坂山と海鼠山がある。いずれも要塞化され、峰々が連繋して隙間の無い火網を構成している。ねずみいっぴきが走っても、鉄砲火の大瀑布にたたかれねばならなかった。この高地の殺人機構というのは、日本人の築城術の概念をはるかに越えたものであった。まず、高地の西南部に今日断面の堡塁がある。その堡塁の内壕の深さは2メートル以上であった。横蔣がいくつかあり、また砲塁司令所は強固に掩蔽されている。さらに高地の東北部にも同様の砲塁があり、6インチ砲をそなえ、各鞍部には軽砲砲台があり、それら堡塁や砲塁のあいだに暗路が走って、交通路になっている。山の中腹には、鹿砦がつらねられ、その前に散兵壕があり、その火線には銃眼掩蓋があって機関銃が配置され、ついで山腹一帯には、鉄条網が張り巡らされている。


坂の上の雲四 13~バルチック艦隊

バルチック艦隊の成立は、1904年の4月30日である。「太平洋艦隊」とそれまで呼称されていたのは、旅順・浦塩両港を基地とする東洋艦隊のことであった。この極東における艦隊は、ウラジオストックという都市名が「東を征服せよ」という意味である如く、ロシアの中国・朝鮮侵略のための威圧用艦隊であった。その太平洋艦隊だけでも一流国の全海軍に匹敵するものであったが、それが東郷に圧迫されつつあり、提督マカロフまで戦死したことは、ロシア帝国の威信を大きく傷つけた。が、ロシアにはなお本国艦隊がある。「それを東洋に送ろう」ということで、ヨーロッパの各水域にある軍艦を集め、バルチック海において新編成され、名を第二太平洋艦隊と命名された。
「卿がその司令長官になれ」
皇帝の名ざしでそのお気に入りの侍従武官(海軍軍令部長兼任)ロジェストウェンスキーが就任した。
「しかし成功するであろうか」
という疑問が、海軍部内にも各省大臣の間にもあった。まず、その極東回航ということである。日本まで1万8千海里という気の遠くなるような距離があるうえに、これだけの大艦隊が回航されてゆくのである。途中の補給だけでも大変であった。士卒の士気が持続するかということもある。ともあれ、これだけの大艦隊の回航そのものが史上かつてない事業であった。「はたして可能か」と、海軍玄人筋でさえあやうんだ。
バルチック艦隊が、出港のための大集結をしたのは、バルト海(バルチック海)に面するリバウ港である。「これは呪われた港だ」と、ウィッテは憎々しげに言っているが、日露戦争前ここに港を築くことについて、ロシア政界や海軍の意見は2つに割れていた。普通、考えてみると、これほど良い港はないであろう。ロシアは大陸国で、海港を作るにふさわしい海岸線に乏しい。多くは冬季凍結する。露都ペテルブルグの護りをつとめる大軍港クロンシュタットも、1年のうち3か月から5か月も港内が凍る。
-不凍港を得たい。
という望みは、膨張するロシアの、黒煙が立つほどの渇望であった。むろん黒海にもそれがあり、いますでに極東では旅順港をもっている。しかしヨーロッパ・ロシアの心臓であるペテルブルグにもっとも近い位置に商・軍港兼用の港をもちたかった。その欲求から選ばれたのが、リバウ港であった。ここならば、冬季の使用に堪える。が、海軍の一部やウィッテは反対した。その理由は、湾入しているその頸部がせまく、「このため開戦とともに敵に封鎖されて何の役に立つまい」ということであった。ロシアでは常に物事が受け身で考えられた。このようにリバウよりもエカテリンスク湾に面したムルマンを海軍根拠地にするほうが良い、という意見が多く、ウィッテもその派であった。この両案の論争は先帝アレクサンドル三世の晩年頃に政治の表面に現れたが、同帝はその死の直前、


坂の上の雲四 12~金策

もともと明治人は新聞記者や世論に対する認識が貧困で、日本人記者なども軍夫のような扱いを受けた。げんに日本人記者の服装は軍夫まがいの者が多く、ときにはシマの着物を着、尻っ端しょりしてモモヒキをはき、洋傘を杖がわりについて戦地にやってきている者もあった。参謀たちは、この内外の記者団と接触することをうるさがり、ともすればハエのように追っ払ったりした。このことが外人記者団の憤慨を買い、怒って本国に引き上げる者が続出し、自然、ロシア側の従軍記者の記事が世界中に流されることになった。この点、クロパトキンは巧妙であった。かれは遼陽決戦の終了早々、どさくさのなかで記者会見を行い、「我々は予定の退却を行っているのみである。その証拠に砲はわずか二門を遺棄したに過ぎない」と、詳しく公表した。日本軍の総司令部も同じく記者会見をしたが、数行の文章を読み上げただけであった。自然、世界じゅうをかけまわったニュースは日本軍非勝利説であり、このためロンドンにおける日本公債の応募は激減し、日本の戦時財政に手痛い衝撃を与えることになった
遼陽開戦での時点で、世界に映じた日本像は、決して勝利者の像としては映らなかった。それがロンドンにおける公債応募の激減につながったとき、日本帝国の元老たちははじめて飛び上がるほどに驚いた。日本にはカネがない。日露戦争が始まる直前に日本銀行が持っていた正貨(金貨)はわずか1億1700万円にすぎず、これでは戦争できない。この手持ちの金の7、8倍は公債のかたちで外国から借りなければならなかった。その公債募集について、日銀副総裁の高橋是清がロンドンで苦労していた。そこへ遼陽の「敗報」であった。これによってひとびとは日本の敗戦を見越し、いっせいに公債を売るか、手を引くかした。
金がなかった。戦場へ送るべき砲弾も、それを一手に製造するはずだった大阪の砲兵工廟の製造能力をはるかにしのいで消費が上回り、慌てて外国から買わねばならなかった。たとえば遼陽会戦が終わったとき、もう次の作戦のための砲弾がなく、9月15日、陸軍省では世界中の兵器会社に砲弾を注文した。会社名はアームストロング、カイノックス、キングスノルトン、ノーベルなどである。それらに当然ながら金を払わねばならない。その金の調達に、日銀副総裁の高橋是清が、秘書役の深井英五をつれてヨーロッパをかけまわっていた。ひややかに観察すれば、これほど滑稽な忙しさで戦争をした国は古来なかったに違いない。高橋が最初、この使命のために横浜を出帆したのは、この年の2月24日である。ロシアに宣戦してから半月後であった。このとき、彼の壮行会が横浜正金銀行でひらかれた。このとき維新以来日本の財政を担当してきた元老の井上馨が立ち上がってスピーチを試みたが、その時、「もし外債募集がうまくゆかず、戦費が整わなければ、日本はどうなるか。高橋がそれを仕遂げてくれねば、日本はつぶれる」
高橋は最初、ニューヨークへ行った。ここで2,3の銀行家に接触したが「とても」というのが、かれらの意向であった。アメリカはこの時期、英仏その他からさかんに外資を導入して国内産業を開発中であり、そのため他国に貸すような金がとてもなかった。この当時、フランスは大きな金融能力をもつ国であったが、しかし仏露条約の手前をもあってロシアには金を貸していた。高橋はイギリスに行った。イギリスとの間には日英同盟があるものの、英国が日本に戦費を貸与するというような性質の同盟ではない。高橋は、ロンドンにおけるあらゆる主要銀行や大資本家を歴訪した。が、結果は絶望的だった。
高橋是清がヨーロッパで実見したところ、ロシアの信用は開戦後いささかもゆるがないばかりか、パリやロンドンにおけるロシア公債の市価は、むしろ上がり気味であった。日本のそれはよくない。開戦前、日本の4分利付英価公債は80ポンド以上であったが、開戦後暴落して60ポンドまで下がっていた。「この不人気の中で、あらたに公債を発行しても、英国人大衆は応ずるかどうか」と思うと高橋の気持ちは暗かった。「ロシアなら、金は貸せる」 というのが銀行筋の常識であった。ロシアに広大な土地があり、鉱山がある。それを担保に取れば万一のことがあっても貸主に損はない。が、日本には担保にできるような土地も鉱山もなかった。

(クーポン + 償還差益÷年限) ÷ 単価 = 利回り
であるのだが、司馬遼太郎も年限まで書いておいてくれるとよかったのに…
5年債だと、(4+20÷5)÷0.8=10% -> (4+40÷5)÷0.6=20%
10年債だと、(4+20÷10)÷0.8=7.5% -> (4+40÷10)÷0.6=13.3%
1904年だろ? 戦争下のインフレ懸念や、国債の長年限化前ということで、5年債と推測しようか…と思っていたら…
http://www.nri.com/jp/opinion/chitekishisan/2005/pdf/cs20050402.pdf
によると、
55年債だったらしいw
55年債だと、(4+20÷55)÷0.8=5.45% -> (4+40÷55)÷0.6=7.88%
ぎょー、想定以上にまともな動きじゃん。80円から60円の下落の状況下でというと、なんだが基地外沙汰に聞こえるけど、5.45%から7.88%の下落の状況下だったんですね。いいですよね、キャピタルゲイン狙いの債券投資。懐かしい・・・。


富裕層212万人、日本は世界3位、クレディ・スイス調べ

という見出しが日経新聞にあったのだが、記事自体は、100万ドル以上の富を持つ者が212万人としか書かれていないのだが、クレディ・スイスのオリジナルはそこそこ面白い。
クレディ・スイス、「2015年度グローバル・ウェルス・レポート」
https://www.credit-suisse.com/media/production/ai/docs/jp/aboutus/pdf/2015/pr-global-wealth-report-11162015.pdf
レポートの1ページ目から中流階級という言葉が飛び交い、中流階級ってなんだ?という疑問が浮かぶが、何ページか後に

「2015年度グローバル・ウェルス・レポート」では、所得範囲ではなく、資産範囲の観点から中流階級を定義しています。。今回、米国をベンチマークの国として採用し、中流階級の成人を5万~50万米ドル(2015年 中間期の物価で評価)の資産を持つ人としています。

ほほぅ、なかなかユニーク。資産家階級の場合は総資産額だが、中産階級以下は所得で表現するのが普通だからなぁ。この資産額ベースでの「中流階級」人口は中国が世界で一番になり、1億900万人。人口の10%程度で、約半数が中産階級に属する日本とは感覚が違う。
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先進国の多くで中流階級の割合が高い傾向にあり、オーストラリアが全成人人口の66%、ベルギーとシンガポールが60%超、イタリア、日本、スペイン、台湾、アラブ首長国連邦、英国が55%超、アイルランド、オランダ、ニュージーランドが50%超となっています。またアジア太平洋地域では、韓国と香港でも、44%を 超える成人が中流階級に属しています。

あれ? 世界のナンバーワンの先進国、アメリカの中流階級比率は? わずかに3割。かなり低い印象だ。オバマケアなんていうのが骨抜き法案であろうことが想像に難くないな。
一方、ミリオネアという言葉は、ビリオネアが登場している以上、時代遅れ、と思っていたのだが、先進国であっても、人口に対するミリオネアは、パーセンテージオーダーに留まり、10%超ということは無い
Millionear.jpg
ミリオネア比率は米英で5%、シンガポールでもわずかに4%、日本は、さらにわずかで2%だ。日本で200万人以上もいるならば、全く希少性はないし、定義を10mil USD以上にすべきと思っていたが、このような国際比較で見れば、日本は経済規模と先進国の割に、かなり低い。私の周囲では、ミリオネアなんか今時珍しくない、10人に1人以上、すなわち10%以上いるだろうと思うが、その原因はおそらく、各国の都心で働いていて、40歳超であれば、ミリオネアに到達している確率は、全体の水準の数倍に跳ね上がるのは自然であろう。
【世界ランキング・比較 経済】
2014.09.12 中国の地下経済 1/3~陰と陽が同居する中国
2013.08.15 アジア一国一愛人構想と外務省
2012.01.19 世界の8割が貧困層
2011.10.21: 中国の長者番付:資産7200億円
2010.10.12: 世界のトップ企業50 その産業構造から日本の将来を考える
2009.09.02: 2009年World’s BillionairesのPeformance 
2008.07.17: 車業界勢力図 
2008.06.30: World Currency Performance 
2008.04.22: 見ていて楽しいWorld Billionaires 
2008.01.25: 年初来の株式指数パフォーマンス比較
2008.01.17: 世界の貿易収支


坂の上の雲四 11~203高地

乃木は近代戦の作戦指導に暗い。しかしその人格はいかにも野戦軍の統率に向いていた。軍司令官はその麾下軍隊にとっての鑚仰の対象であればいいということでは、乃木はそれにふさわしかった。そのかわり、乃木に配する近代戦術の通暁者をもってすればいいということで、薩摩出身の少将伊地知幸介を参謀長にした。伊地知は多年ドイツの参謀本部に留学していた人物で、しかも砲兵科出身であった。砲兵科出身の参謀長でなければ要塞攻撃に適任ではないであろう。ところがこの伊地知が結局は恐るべき無能と頑固の人物であったことが乃木を不幸にした。乃木を不幸にするよりも、この第三軍そのものに必要以上の大流血を強いることになり、旅順要塞そのものが、日本人の血を吸い上げる吸血ポンプのようなものになった。
203.jpg
たとえば、海軍が献策していたのは、
「203高地を攻めてもらいたい」
ということであった。この標高203メートルの禿山は、ロシアが旅順半島の山々をことごとくべトンで固めて砲塁化した後も、ここだけは無防備で残っていた。そのことは東郷艦隊が洋上から見ていると、よくわかるのである。この山が盲点であることを見つけた最初の人物は、艦隊参謀の秋山真之であった。「あれを攻めれば簡単ではないか」ということよりも、この山が旅順港を見下ろすのにちょうど良い位置を持っているということの方が重大であった。203高地を取ってその上に大砲を引き上げて港内のロシア艦隊を撃てば、二階から路上に石を落とすような容易さでそれを狙撃することができる。艦隊を追い出すために陸から攻めるというのが陸軍作戦の目的である以上、203高地を狙うことが必要かつ十分な要件であった。ところが、乃木軍の伊地知幸介は一笑に付し、しかも、
「陸軍には陸軍の方針がある」
として、この大要塞の玄関口から攻め込んでゆくというような、真正直な戦法をとった。ついでながら203高地については攻略が悪戦苦闘したすえ、ギリギリの段階で児玉源太郎が総司令部の仕事を一時捨ててこの旅順の現地へやって来、みずから作戦の主権を握ることによってこの海軍案を採用し、総力を挙げてこの山への攻撃を指向した。そのころにはロシア側もこの山の重要さに気づき、すでに防備を施していたため、攻撃には大量の流血が伴ったが、ともかくもこの高地の奪取によって旅順攻撃は急転換した。旅順ははじめ一日で陥ちるはずであった。しかし要塞の前衛陣地である剣山の攻防から数えると、191日を要し、日本側の死傷6万人という世界戦史にもない未曾有の流血の記録を作った。


坂の上の雲三 10~ロシア海軍

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クロパトキン
時間稼ぎが、クロパトキン戦略の基本方針であった。日本軍に数倍する大兵力の集結を待ち、最後の決戦を予定するが、それまでの戦闘はできるだけ兵力の使い減らしを避け、日本軍に対しては適当に消耗を強いつつ、何段階かに分けて後退していく。その「最終決戦」の線はハルビンにおく、とクロパトキンはいう。さすがにロシア陸軍きっての名将といわれた男だけに、きたるべき満州平野での戦いの様相を、的確に想像できる頭脳をもっていた。「一撃撤退」というこの不思議な作戦は、ロシア陸軍の伝統的作戦であり、敵の補給線が伸びるだけ伸びてついに絶えたころに大反撃に出る。かつてはナポレオンもこれに屈し、後年ヒトラーもこれに屈した
ここ10年、かれの念頭をロシア海軍がはなれたことがなく、つねにそれを仮想敵として日本海軍を作り上げてきた。かれはワン・セットの艦隊をそろえたが、その主力艦は英国製の新品ぞろいで、ロシアの主力艦に比べて性能の点ですぐれていた。山本権兵衛は兵器の性能の信奉者であり、その優劣が戦いの勝敗を決するという点で、どの文明国の海軍指導者よりも近代主義者であった。日本軍がワンセットの艦隊しか持たないのに対し、ロシア海軍はツウ・セットの艦隊をもっていた。1つは極東(旅順・浦塩)にあり、一つは本国(バルチック艦隊)にある。この2つが合すれば、日本海軍は到底勝ち目はない。山本権兵衛総裁による日本海軍の戦略は、ロシアの2つの海軍力が合体せぬ間にまず極東艦隊を沈め、ついで本国艦隊を迎えてこれを沈めるというところにあった。各個撃破である。ところで、ロシアの極東艦隊と日本のワン・セットだけの艦隊とはほぼどう兵力である。山本権兵衛としてはこの艦数、合計トン数の対比を、日本がやや優勢、というところまでもってゆかねばならなかった。海上決戦は、性能と数字の戦いである。敵よりも優勢な数量をもって当たれば戦果が大きいだけでなく、味方の損害も少なくてもすむ。山本権兵衛が「第一回戦」として考えている極東艦隊に対する戦略は、味方の損害をできるだけ軽微なところで抑えるというところにある。でなければ第二回線であるバルチック艦隊との対戦がうまくゆかないだろう。このため日本海軍は開戦ぎりぎりの時期にさらに二隻の準戦艦を買い取った。この二隻の軍艦はアルゼンチンがイタリアのゼノアの造船会社に注文してほぼ竣工しようとしていた新鋭艦で、艦種は巡洋艦であるにせよ、たとえばそのうちの一隻が持つ10インチ砲は2万メートルという世界一の射程を誇るもので、ロシアもこの二隻の軍艦買い入れをねらっていたが、日本は機敏に手を売って買い入れてしまった。「日進」と「春日」がそれである。開戦前、ロシアの警戒網を潜り抜けてこの両艦が日本に回航された。


坂の上の雲三 9~ロシア騎兵

好古は馬を借り、ニコリスクから4キロ離れた演習地の廠舎に宿営中の部隊へゆき、騎兵隊と歩兵隊の様子を見学した。実は演習は予定の10分の1ほどの小規模で終わった。シベリア各地の諸軍団がこのニコリスクの荒野に集まってきて空前の大演習をする予定だったところ、9月上旬、シベリアの各地に大雨が降って道路や鉄道があちこちで使用不能になり、このため予定の軍隊移動が全部駄目になり、演習はニコリスク付近に駐屯中の二個旅団の対抗で行われたにすぎなかった。「ロシア人はがっかりしているだろう」 好古は大場少佐にいった。世界第一の陸軍の威容を見せて日本人の戦意をくじくという意図は、どうやら無に帰したらしい。好古にすれば、それでも大いに参考になった。参考になったどころか、ロシア騎兵の強力さは、想像以上のものがあった。騎兵連隊は6個中隊より成り、騎数は各中隊毎大体120騎である。その馬匹はみな強健で、「わが騎兵の馬匹に比し、そのおおいに優れるをみとむ」と、好古は正直に日記を書いている。さらにロシア騎兵のぜいたくさは、中隊毎に馬の毛色を変えてあることであった。日本の場合は、それどころではない。明治20年にアルゼリ種の馬90頭と、その翌年に170頭入れたものをたねにその後増やし続けているが、あまりふえもせず、依然としてロバの従兄程度の日本在来種が中心になっている。第一、馬を繁殖させるための種馬所と種馬牧場すら、やっと明治29年にできあがったという始末で、これによって本格的な馬匹改良にのりだしたのである。その後、7年にしかならない。
内務大臣プレーヴェ
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ロシア政府では侵略主義者が既に宮廷をにぎってしまっており、穏健な人物だとみられていた内務大臣のプレーヴェですら「そもそもロシア帝国がこんにちこのような盛大さを誇りえているのはすべて軍人の力によるもので、外交官のおかげではない。極東問題のごときはよろしく外交官のペン先よりも、軍人の銃剣をもって解決するのが本筋である」といっていた。銃剣で解決するということがロシアの態度の裏にある以上、日本の解決案に対し妥協のにおいが全くしない回答を出してくることは当然であろう。むしろ挑戦を主眼としていた。しかし強大国ロシアは、弱小国日本が気が狂わない限り戦いなど決意するはずが無いと思い込んでいる。皇帝ニコライ二世が「朕が戦いを欲しない以上、日露間に戦いはありえない」といったのは、別に豪語したわけではなく、それがロシア人の常識的観測であった。いま旅順の要塞を強化し、シベリア鉄道で満州に兵力をどんどん送っているのは「銃剣外交」の威力を高めるためであり、かならずしも対日戦を予想してのことではない。予想するのもばかばかしいという意識が、ロシアの政治家にも軍人にもあった。日本はロシアの強硬な回答に対し、折れざるを得なかった。小村外相はローゼン公使に対し、これ以上は譲ることができないという、ぎりぎりの譲歩案を出した。要するに満州朝鮮交換案というか、ロシアは満州を自由にせよ、そのかわり朝鮮に対しては一切手を出さない、というものだった。


坂の上の雲三 8~水軍から海軍

真之は帰朝後ほどなく胃腸を病み、長与病院に入院したことがある。小笠原長生少佐が見舞に行くと「あなたの家に、海賊戦法の本はないか」と、真之はたずねた。小笠原長生は、九州唐津の大名だった小笠原家の当主である。家に帰り、旧家臣などにたずねたりして、珍しい本をさがしだした。「能島流海賊古法」という写本で、5,6冊から成っている。瀬戸内海は日本の海賊の巣窟で、遠くは源平時代から栄え、そのころはかれらは当初平家に味方し、あとで源氏に味方して義経に指揮されて壇ノ浦で平家の船隊を殲滅した。鎌倉をへて南北朝時代になり、世の中が乱れると、彼らの勢いはいよいよ盛んになった。瀬戸内の諸水軍を大統一したのは伊予の村上義弘である。かれは戦法に長じその戦法がやがて村上流と言われるようになった。やがて村上氏は、因島村上氏、来島村上氏、能島村上氏などにわかれた。能島は伊予大島に付帯する島で、全島が城塞化され、能島村上氏の根拠島になる。ここで能島流戦法が生まれた。
とくに真之が感銘したのは「わが全力を挙げて敵の分力を撃つ」というところであった。これが水軍の基本戦法であった。そのための陣形として「つねに長蛇の陣をとる」とその戦法書にある、近代海軍の用語にいう縦陣である。艦隊をながながとタテに並べて敵に向かっていく。この陣形は応変が効きやすく、敵の分力を包囲するにも便利であり、真之が最も感じ入ったのはこの点であった。結局はこれが秋山戦術の基幹になり、日本海海戦の戦法、陣形にもなっていく。
水軍戦法に、虎陣、豹陣というのがあった。ついでながら海賊たちは虎の女房は豹だと思っていたらしい。だから、この場合、亭主陣、女房陣と翻訳してもいい。虎陣が本陣である。それが島蔭かどこかに隠れていて、弱弱しい豹陣が敵の来る水域をうろつき、やがて敵が来ると逃げると見せて虎陣のほうへひきよせてゆく。時機を見て虎陣があらわれ、たちまち噛み殺す。そういう戦法である。のちバルチック艦隊が日本近海に現れた時もそうであった。豹陣として、第三、第四、第五、第六戦隊を出しておき、敵艦隊と接触しつつ、これを沖ノ島の北方に待機している「虎陣」第一、第二戦隊のほうへさそいこみ、見事に成功した。そのほか真之の戦法には古来の戦法から得ている者が多い。
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山本権兵衛、海軍建設者としては、世界の海軍史上最大の男の一人であることはまぎれもない。かれはほとんど無にちかいところから、新海軍を設計し、建設し、いわば海軍オーナーとして日清戦争の「海戦」の設計まで仕遂げた。清国海軍が、定遠と鎮遠というずばぬけて巨大な戦艦をもちながら、その他の持ち船となると軽重まちまちで、速力も一般に鈍く、鈍さも平均的でなく遅速まちまちであるということに権兵衛は目を付けた。それに勝ちうる日本艦隊をワン・セットそろえるにあたって、まずできるだけ高速艦を外国に注文した。予算が貧弱だから清国の艦よりひとまわり小粒の艦ばかりであったが、高速で平均した艦隊速度も清国より速く、要するに艦隊の連動性を極めて高くした。極端に言えば軽捷な狼の群をもって犀の群を襲おうという考え方であり、その方法で、艦隊を作った。大砲もそうである。敵は巨砲を持っているが、こちらは艦載速射砲をうんと積み、敵に致命傷を与えないまでも、小口径の砲弾を短時間内におびただしく敵艦に送り込むことによって、敵の艦上建造物を薙ぎ倒し、敵乗組員の艦上活動を妨げ、やがては火災を発せしめて艦そのものを戦闘不能に陥らせようとした。その権兵衛の構想は見事に成功した。


坂の上の雲二 7~正岡子規の和歌批判

内藤鳴雪「蕪村第一等の傑作は、春の水山なき国を流れけり、じゃな」
そういうと子規はうなずかなかった。この句は蕪村としては劣るという。
「山なき国というのがいけません」
といった。山なき国とは何か。たとえば関東の武蔵野あたりかもしれないが、そういう地図的観念に頼っている。鑑賞する者はあたまに地図でもえがかなければならず、えがいたところでそれは頭で操作されたものであり、絵画的ではない。俳句は読み上げられたときに決定的に情景が出てこねばならず、つまり絵画的でなければならず、さらにいうならば「写生」でなければならない、と子規は言う。
わずかな例外をのぞいて和歌というものはほとんどくだらぬといってのけた子規は、そのくだらぬわけを、さまざまに実証する。たとえば、
「月見れば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど」
という名歌をひく。上三句はすらりとして難が無いが、下二句はリクツである、と子規は言う。歌は感情を述べるものである。リクツを述べるものではない。・・・もしわが身ひとつの秋と思うと読むならそれは感情としてすじがとおっている、が、秋ではないが、と言い出したところがリクツである。俗人はいうにおよばないが、いまのいわゆる歌よみどもは多くリクツをならべて楽しんでいる。厳格に言えばこれらは歌でもなく、歌読みでもない」
思い切ったことをいっている。古歌をこきおろすだけでなく、古歌をありがたがってそれを手本に歌をつくっているいまの歌人は歌人ではない、その作品も歌ではない、という。
子規は漱石へ送った。
「歌については内外ともに敵である。そとの敵はおもしろいが、内の敵には閉口している。内の敵とは新聞社の先輩その他、交際のある先輩の小言のことである。まさかそんな人(羯南をあたまにおいていたであろう)にむかってりくつをのべるわけにもゆかず、さりとていまさら出しかけた議論をひっこめるわけにもゆかず、困っている」


坂の上の雲二 6~小村寿太郎の政党論

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「日本のいわゆる政党なるものは私利私欲のために集まった徒党である。主義もなければ理想も無い。外国の政党には歴史がある。人に政党の主義があり、家に政党の歴史がある。祖先はその主義のために血を流し、家はその政党のために浮沈した。日本にはそんな人間もそんな家もそんな歴史もない。日本の政党は、憲法政治の迷走から出来上がった一種のフィクション(虚構)である)」
藩閥論
「藩閥はすでにシャドウ(影)である。実体が無い」
ついでながら小村は日向飫肥藩の出身で薩長人ではない。
「ところがフィクションである政党とシャドウである藩閥とがつかみあいのけんかをつづけているのが日本の政界の現実であり、虚構と影のあらそいだけに日本の運命をどう転ばせてしまうかわからない。将来、日本はこの空ろな2つのあらそいのためにとんでもない淵におちこむだろう」
小村は、藩閥と党閥が国家を滅ぼすということをつねに言った。それだけではない。
自分は国家だけに属している。いかなる派閥にも属しない」という立場をつねに明言しつづけた。


坂の上の雲二 5~軍拡

馬は、日清戦争の段階ではアラブもサラブレッドも使われていない。雑種ですらない。日本馬であった。大隊長である好古も、西洋人が日本騎兵を見て笑ったように「馬のような馬」に乗っていた。ただ一人例外があった。沢田中尉という若い将校がひとり洋雑種の馬に高々と乗っていた。この馬はかつて東京戦でフランス軍が使った馬を陸軍が種馬として買い、日本馬と交配させて生まれたもので、沢田はそれを手に入れ、新馬のあいだから自分で調教してきた。
> JRA発足、競馬の意義、競走馬・サラブレッドの育成である。
日本人というのは明治以前には「国民」であったことはなく、国家という観念をほとんど持つことなくすごしてきた。かれらは、村落か藩かせいぜい分国の住民であったが、維新によってはじめてヨーロッパの概念における「国家」というひどくモダンなものをもったのである。明治政府は、日本人に国家とか国民とかいう概念を持たせることにひどく苦慮したようである。このため、「天子様の臣民」という思想を、植えつけようとした。忠義の観念は、封建時代の大名とその家来において既に濃厚な伝統がある。これをおしえることのほうが、国家と国民の関係を道徳において説くよりわかりやすかった。
好古は、結婚をすれば家庭の雑事にわずらわされて研究もおろそかになり、ものごとを生み出す精神がぼけてくる。というような説を立て、同僚や後輩たちに向かってもそう主張していた。「科学や哲学は、ヨーロッパの中世の僧院のなかからおこった。僧侶たちは独身であるため、自分の課題に対しわきめもふらずに精進することができた。そのようにたとえ凡庸な者でも一心不乱である限り多少の物事を成し遂げるのである」 「情欲が起これば、酒を飲め。諸欲ことごとく散ること妙である」
> 確かにお酒飲んだ後は何にもできないw
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坂の上の雲二 4~軍部

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陸羯南(くがかつなん)は親友の加藤恒忠から正岡子規をあずかり、子規の東京遊学中のことについては責任を持たされている。その子規が落第して退学したとあればフランスにいる加藤に申し訳が立たぬように思えるのである。叔父の加藤恒忠も陸羯南も司法省法学校の3年生のときにストライキを起こし、退学を命ぜられた。子規の場合よりも不穏であり、とても子規を説諭できない。そのときのストライキで退学させられたものは16人にのぼった。原敬、国分青崖、福本日南、陸羯南、加藤恒忠らである。ふしぎなことに退学組のほうが、明治大正史にその存在をとどめた。福本日南をのぞいて日本の在野史学は論ぜられないし、国分青崖をのぞいて明治大正の漢詩は論ぜられず、陸羯南をのぞいて明治の言論界は論ぜられず、のちに平民宰相といわれた原敬をのぞいて近代日本の政治は論ぜられないであろう。
> 時代が古すぎて現在と制度は異なるのだが、正岡子規も秋山真之も東大。大学予備門(旧一高のさらに前身)。へー。ここで出てくる司法省法学校も、東大法学部の前身ということらしい・・・。


坂の上の雲 3~名将

明治19年12月の寒い日、真之は築地の海軍兵学校に入校した。この日、真之ら55人の海軍生徒の目を奪ったのは、築地東海岸に碇を降ろしている軍艦「筑波」であった。「あれが我々の練習艦だ」と案内役の古参生徒に説明されたとき、このわずか2000トン足らずの軍艦に山を仰ぐような威容が感ぜられた。それよりも入校生たちの脅威だったのは、その日の昼食にライスカレーが出たことであった。その名前さえ知らぬものがほとんどだったが、真之は大学予備門の生活でこういうものに馴れていたから、めずらしくもなく食った。さらに一同を当惑させたのは洋服であった。洋服を着用する経験は真之以外はみなはじめてで、なかにはシャツのボタンをどうはめていいかわからず、顔を真っ赤にして苦心している者もいた。真之はさっさと洋服を着た。そういう様子を見て、「秋山、おまえは洋行がえりか」と大真面目に聞く者もいた。それほど、この当時の日本の普通の生活と海軍兵学校の生活には差があった。いわばこの築地の一郭5万坪だけが生活様式として外国であったといえるだろう。
もっとも、海軍兵学校もその沿革をたどると、最初からそうであったわけではない。海軍兵学寮といわれた最初の頃は練習艦の居住室も畳敷であった。冬は火鉢を置いた。そのころ日本海軍のやとい教師であった英国人ホーズ大尉はこの状態を見かね、時の海軍担当の兵部少輔川村純義に対し「見苦しい上に火の用心が悪い。艦内では何にもまして火気取締りを厳重にする必要がある。よろしく釣床にあらためよ。また火鉢を廃すべし。喫煙の場所を定めかつ喫煙の時間も定めよ。すべての制度を英国海軍に習うほうがいい」と献言したため、以後海軍では日本式生活と決別することになった。明治4年のことである。ついでながらこの海軍における日本式生活というものには、妙な珍談がのこっている。幕末、幕府がはじめて長崎において海軍伝習所を作り、オランダ人教師によって海軍士官を養成したとき、昼めしどきになると生徒たちは甲板上にめいめい鍋と七輪をもちだし、ばたばたを火をおこして煮炊きし、オランダ人を閉口させたという。


坂の上の雲 2~騎兵とは

騎兵というのは、どういうものか。幕末、幕府はフランスを規範とした洋式陸軍を作ったが、騎兵科は設置しなかった。一つには騎兵が理解できなかった。「歩兵は分かりやすい」と好古はいった。歩兵は徒歩兵で小銃を持ち、集団で進退し、的に対して小銃弾をあびせ、躍進して肉薄し、あとは銃槍や白刃をもって斬りこむ。砲兵も分かる。大砲を撃つ兵種である。
「すると、源平合戦や戦国の合戦に出てくる騎馬武者というのは騎兵ではありゃせんのかな」
「ちがうな」 好古はいった。
あれは歩兵の将校が馬に乗っているというだけのことだ。騎兵ではない。本当の騎兵を日本史に求めるとすれば、源義経とその軍隊だな
好古にいわせれば、源平の頃から戦国にかけて日本の武士の精神と技術が大いに昂揚発達し、世界戦史の水準を抜くほどの合戦もいくつか見られるが、しかし乗馬部隊を集団として用いた武将は義経だけであった。


坂の上の雲 1~秋山好古という男

久しぶりに小説を。長いのでまだ読み終わってないのですが、少しずつ書き始めてみようか・・・。しかし、司馬遼太郎というのは小説家なんですかねぇ? 読書家の皆さんの意見を聞きたいところ。小説という創作というより、司馬遼太郎の歴史観の反映、という気がするのですが。ああ、でも私は本はすきなのですが、小説はほとんど読まず、司馬遼太郎は、項羽と劉邦、燃えよ剣につぎ、これで3作目なんですけどね。
恥ずかしながら、「坂の上の雲」を読むまで、タイトルに坂ってついているので、坂本竜馬の話だと思っていましたw あれー、なんだかなかなか出てこないなぁ・・・、と思って、読書家の友人MNB氏に「坂本竜馬が出てこないんですけど?」「えっ、秋山兄弟の話でしょ? 日露戦争だよ」と優しく教えていただきました。
NHKのドラマにもなっているみたいです。ネットで見れるのかなぁ。読み終わったら、ドラマも見てみようかな。MNB氏はドラマ嫌い、原作との差がどうしても気になってしまうようなのですが、僕はあまり細かいことは気にならないので、ドラマも興味ありです。NHKのドラマは採算度外視、キャスト見ても映画並みに豪華なので、製作には苦悩があるでしょうが、視聴者として見る分にはお得な気がします。真野響子も出てるんだ・・・、それは見たいなぁ。
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「孫子」の読み方 3/3~速く歩く、それが最強の軍

敵に対して、有利な位置に立つ。これは原則で「先手必勝」「先んずれば人を制す」はまさにその通りだが、残念ながら戦闘は囲碁や将棋と同じではない。というのは、碁石も将棋の駒も飯を食わないし馬糧もいらない。いわば補給なしで動く。また盤上には、山林・難所・湿地帯があるわけでなく、すべてが見渡せるから道案内はいらない。現実の戦闘では、先手、先手と追いかけると補給が続かなくなる。補給線が伸びきったところを叩かれる、企業では手を広げすぎて資金難に陥ったところを叩かれる、これが最も危険であって、有利な位置に立とうとすると、きわめて危険な状態になる。「兵は拙速を貴ぶ」は、前に記したような意味で、「拙速で有利な位置に立て」ではない。
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日本史の中で最も敏速な機動力を発揮したのは、秀吉だろう。その速度を測ると驚くなかれ、旧帝国陸軍より速いのである。なぜそれが可能だったか。その謎は、賤ヶ岳の戦いの記録を読むとわかる。まず、先手必勝で柴田勝家側の佐久間盛政が、琵琶湖北岸の秀吉方の砦を払暁に強襲して奪取する。守将の中川清秀は戦死。これが4月20日。彼は確かに有利な位置に立ち戦闘の主導権を取ったのだが、この結果、勝家側は軍が二分される。この危険を感じた老練な勝家は、すぐ引き返せという。だが、盛政は夜行軍と明け方の強襲で兵が疲れ切っているから、今夜は休養を取って明日帰るという。彼がこういうのも当然で、急使が大垣の秀吉の下に到着し、急いで彼が出発しても、到着は早くて明21日の午後か夕方になる。彼は老人は気が早いとか気が弱いとか言って、勝家からの再三再四の指示に従わない。


ネットゲームで遊びながら思うインターネットの時代2

ネットゲームそのものも、随分前から存在しているし、私自身もプレイしたこともある。ただ、15年間タクティクスオウガをやってる私のように、家庭用ゲーム機によるゲームの概念に凝り固まっている人間は、ネットゲームらしさを十分に引き出せていたとはいえないと今思う。
1.プログラムされたゲームをプレイする
2.一人でプレイする
私がオンラインゲームをしても、この2つの概念から抜け出ることができない。だからネットにつながっているだけであり、家庭用と変わらないゲームを選び、遊び方もほとんど一人用と変わらない。ところが、今私がプレイしている「Clash of Clans」は、この2つから大きく抜け出ている。
1.プログラムされたゲームをプレイする
プログラムされたゲームの場合、バグやバランスの悪さが必ず存在する。ドラクエで例えるならば、2回攻撃できる「はかいのつるぎ」や、一切とりえの無い「しょうにん」のような職業。それはリメイクなり、次回作などでバランス調整されていくものだが、オンラインゲームは、プログラムアップデートを走らせることで、バグ取りやバランス調整ができてしまう。ゆえにプレイしていて洗練されたゲームだな、という印象を受ける
Clash of Clansの現在の最大レベルは10、私は現在8と7、二つアカウント持ってるんでw。レベルの上がり方は、非課金でほとんど無駄なく成長させて6まで上げるのに1ヶ月、6から7へで1ヶ月、7から8へで2ヶ月、というくらいのゆっくりしたものである。8までだと、今まで世界中のユーザーによってやり尽くされ、「強すぎたユニットや設備、使えない=存在意義が無いユニットや設備、凶悪な技」が存在しない。インターネット上で調べた凶悪な技(例えば、ライトニング×3でダークエリクサータンクを略奪する)は、ほとんど現在封じられている。また資源の生産と消費のバランスも、非常に良く、他のプレーヤーから略奪しなくても、自己の生産で大部分を賄える。
提供される設定は、ユニットや設備の数と性能のみであり、それをどのように「配置」するのかは、各ユーザーが決める。マルチプレイ(他人と対戦)において、1面、2面というステージは無い。ほぼ無限に組み合わせがあり、世界中の人たちの「作り面」をプレイすることができるようなイメージだ。(古いなぁ、作り面って、若い人わかるかね?) シングルプレイ(一人用)ステージが用意されていて、そちらは全ユーザー共通、つまり、提供されたステージもある。
2.一人でプレイする
オンラインゲームで、他のプレーヤーと対決したり協力することはあるが、それは知人でない。というのが私のやり方だ。一方、同じ学校の友人と一緒にやる、というのが現代の子供の遊び方だ。驚くことではないのだが、会わなくても友人と遊べてしまうということだ。ということは、会わなくても親子でも遊べる、素晴らしいツールなのだ。