勝敗を分けた戦略-隠された社会主義の汚点
戦略上見逃せないのは、内戦の帰趨を決定した満州の軍事状況である。満州は国境両軍の到着以前にソ連軍により占領されていた。そしてソ連軍は国民政府軍の満州進駐の速度を遅らせる挙に出たのである。さらにソ連軍は、共産党軍に満州到来を待ち、占領中の都市をその支配に委ねた。また日本軍から接収した武器を、共産党軍に提供したのである。これが共産党軍が戦略的に優位に立つ大きな要因となる。しかしながらソ連には共産党全面的に支援する意図はなかった。満州におけるソ連軍の動きは、ソ連が利権の回復をもくろむ満州内に、国民政府軍がアメリカ軍の助けを借りて進駐することへの抗議であり、最終的にはソ連は国民政府(共産党を内に含む)の中国支配を受け入れたと考えられる。事実としてソ連は日中戦争中には共産党よりも国民党を優先的に支援していたし、日本の敗戦間際には中ソ友好同盟条約を締結し、国民政府を中国を代表する政府として承認していた。この背景には、外モンゴルの独立を国民政府に承認させ、長年にわたる中国との領土問題をソ連側に有利に解決できるという外交上の利点があった。ところがソ連の思惑を超える新たな展開が発生してしまった。その結果国共内戦の帰趨が決定的になり、国民政府が南京から広州に移動した1949年4月の段階になってもソ連大使は国民政府の移動に同行することになる。
満州において共産党軍が勝利した要因として、以下の事実を考慮しなければならない。装備と数において優勢であった国民党軍の満州における展開は、大都市に集中した。これに対して劣勢の共産党軍は、大都市を結ぶ鉄道網を寸断して大都市を孤立化させた。国民党軍は航空機輸送に望みをつないだが、空輸能力には限界があり、国民党軍は食糧にも事欠く状況に陥る。一方、共産党軍は都市郊外の農村地区を厳しく管理し、物的かつ人的な補給を欠かすことはなかった。このようにして国民党軍は補給戦において敗北したのである。