月: 2015年10月

中国の正体 3/5~形式的な農地解放

中国の労働運動をめぐる不可避的対立
中国の労働運動は、国民党員や共産党員たちにより、国共合作が成立する以前の1920年代初頭から別々に開始されていた。そして中国の民族産業の未発達という状況下に、当初の矛先は列強諸国の商業活動や工業活動に向けられ、貿易港であった広州や上海において、港湾労働者の荷揚げ拒否などを中心に大規模なストライキが展開される。ストライキにより列強諸国の商業活動や工業活動に打撃を与えることは民族産業の発展に寄与した。
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1年以上も続いた広州と香港のストライキでは、国民党と共産党は全国からの経済支援の下に、イギリス資本に大打撃を与えていた。また上海のストライキでは、著名な民族資本家であり上海総商会会長であった虞洽卿が、イギリス資本や日本資本に対抗するため、共産党と協力していた。虞洽卿は上海総商会を指揮して募金を集め、共産党にストライキ資金を提供した。その結果、外国の汽船会社がストライキで業務を麻痺させる間に、虞洽卿の経営する汽船会社の山北輪埠公司は業務を拡大させ大きな利益を得た。この段階では、共産党と民族資本家は反帝国主義闘争で利害が一致し、両者の間に衝突が起こる可能性は少なかった。しかし結局は、武漢において民族産業まで敵に回す労働運動が共産党の指導により展開された。その結果、国民諸階層の協力により帝国主義の圧迫と封建的要素を払拭するという国民革命の枠組みは崩れ去り、国共合作を支えていた経済基盤も破壊されてしまう。
ゴロツキの軍事力
会党は全国各地に存在し、内部には種々の社会階層が存在したが、主力は遊民階層であった。遊民層はマルクス主義ではルンペンプロレタリアートと呼ばれ、定職を持たない不安定な階層であり、生産活動に従事する階級としての資格を持たない存在であった。そしてその不安定さゆえに、ときとしてプロレタリアートの敵対階級に加担する危険を指摘されていた。それゆえ遊民層を中心とする運動などは、従来の社会主義理論では、全く肯定されえない運動であった。しかし毛沢東は、その「湖南省農民運動視察報告」(1927年3月)に明らかなとおり、共産党中央の批判をものともせずに遊民の発揮する暴力を革命の破壊力として容認し、社会主義への新たな道を切り開こうとした。中華人民共和国成立後に公刊された『毛沢東選集』では、遊民層に対するマルクス主義の否定的観点への配慮からであろう、毛沢東の「湖南省農民運動視察報告」の原文にあった、農民協会員中の遊民を形容する「緑色の長い上着を着ている者」や「賭博や麻雀を打つ者」などの表現は削除されることになる。
> んー。この中国における被差別対象である「遊民」がなんなのか、今一つイメージわかないな・・・。
中国の歴史上では、衰退した王朝末期にしばしば発生する遊民層の反乱が社会のさらなる動揺を促進し、やがては大規模な農民反乱を出現させていた。毛沢東は1928年11月の共産党中央への報告において、自分たちの遊撃戦は伝統的な反乱である打江山(ダーヂアンシャン、山などに立てこもり、武装して反政府活動を行う)であるとし、全国的な革命の高まりと結合する必要を確認している。自分たちの運動と伝統的特質を熟知していたのである。共産党員の反乱より15年前の1912年には、辛亥革命後の混乱の中で兵士や遊民層が結合した白朗(指導者の名前)の乱が発生し、14年には鎮圧されたが一時的に広大な支配圏を作り上げていた。それゆえ共産党員たちの行動は当時としては特別な出来事ではなかった。かくして外来の新思想の実験であった中国の共産主義運動は変貌し、中国社会の実情に即した展開を開始した。


三陸海岸大津波 3/3~太平洋を越えた津波の伝播

三陸海岸に明治29年の津波につぐ大津波が来襲したのは、昭和8年3月3日であった。この大津波の来襲前には、明治29年の折と同じように各種の前兆ともいうべき異常現象が見られた。その一つに井戸水の減少、渇水又は混濁があった。
宮城県
 本吉郡大島村…それまでは降雨のない時期でも減少したことのなかった多くの井戸が、2月中旬から減水するという奇怪現象があった。そのため同村では採集した海苔を洗う井戸水の不足に困惑した。
 同郡唐桑村欠浜…四季を通じ減水したことのなかった井戸がいちじるしく水位が下がり、渇水状態となった。
岩手県
 気仙郡越喜来村…当村尋常高等小学校校長小原永太郎氏は、津波来襲の20日ほど以前から井戸水の減少に気づき、同村の高所にある6箇所の井戸の推移を詳細に観測していた。その結果は、次のようなものであった。
 (1)竜昌寺内の井戸 この井戸は地上から水面まで約3mの深さで、たたえられた水の深さは1m余であった。この井戸は明治29年の大津波の直前に渇水したが、今回も津波の20日前から水が完全に涸れ、井戸の底が露出してしまっていた。また同寺内の泉水も、同じように湧出が停止していた。
 (2)平田玉男氏宅の井戸 井戸の深さは地上から水面まで5m、水深は2mであった。清澄な水であることで評判だったが、津波の3日前からいちじるしい混濁が認められた。
 (3)新山神社内の井戸 この井戸は、どのような豪雨があっても濁ることのないことで知られていた。ところが津波来襲の5日前から目立って濁り始めて、その上減水も甚だしく遂には涸れてしまった。それが旧に復したのは、津波があってから5,6日たってからであった。
 (4)及川義男氏宅の井戸 井戸の深さは6m。良質の水が出ていたが、3、4日前から濁り始めて水も涸れた。
 (5)熊谷与左衛門氏宅の井戸 井戸の深さ約4m。3日前から混濁した後渇水。
 (6)正源寺内の井戸 井戸の深さ2m。降雨もなかったのに2月中旬から甚だしく混濁。
 上閉伊郡釜石町…地震後、急激に井戸の水が減り、ほとんど涸れた状態となった。
 下閉伊郡船越村…数日前から井戸の水が著しく減少した。
 同郡織笠村…地震後、村内のすべての井戸の水が半減した。
 同郡大沢村…一部の井戸に減水が認められた。
また明治29年と同じように、沿岸各地で、例年にない大豊漁がみられた。ことに鰯の大群が群れをなして海岸近くに殺到、各漁村は大漁に沸いた。三陸沿岸の鰯漁は、11月一杯で終わりそのあとの漁獲量は急に少なくなるはずなのに、年を越してからもさらに漁獲は激増するという異例さだった。また岩手県下閉伊郡田野畑村島ノ越では、津波以前に波打ち際に大量の鮑が打ち寄せられた。それは、海にいることに不安を感じて、磯に這い上がろうとしてるようにもみえた。その他鮑が大量に死んだり無数の海草類が海岸をうずめるほど漂着したり、海中に異変がひそかに起こっていることを示していた。


第5次ジャカルタ攻略 5/5~市内南部

Lippo Mall Kemang
大戸屋に行ってみました。
炭火焼定食とごはんをオプションでとろろご飯に替えて、160,000IDR(1300~1400円程度)です。うん、値段的に普通w 海外で食べる日本食としては、日本と同じかそれより少し高い程度。シンガポールは2倍くらいなので露骨に高いです。
ってことを書こうとしたのです。タクシーで行くと、ここから書き始めることになります。歩いているのは、ケチなのもありますが、ジャカルタの現状を見ることができないからです。それではジャカルタにシンガポールから来て、1か月も滞在している意味がないのです。
ドブ、穴、バイクなどあるのですが、夜は、これまた、東京やシンガポールのように道路がこうこうと照らし出される照明はないのです。照明ありますが、あれほど明るくありません。治安の問題ではないのですが、雰囲気が悪く、実際に危険なので、カネやSurfaceを持ち出しにくい気持ちになるのです。
じゃ、逆に今度は結論から。ガンダリアシティにも歩いて行ってみました。友人が住んでいて、「ガンダリアシティは日本人が多い。だから日本食も多くある。」とのことだったので、またフリーペーパーを片手に、歩きでトライです。片道1時間くらいかかりました。ブロックMから徒歩圏、地図上の直線距離で約1km、ジャカルタの場合、まっすぐスタスタとは歩けないので、歩いて30分弱程度かかります。メインのストリートを使えば、多少曲がっていても、もう少し効率的に移動できますが、いつも歩いている道路で面白くないので、Fatmawati道路の脇道を攻めてみることにしました
平日の昼間、友人は普通に働いているので、約束していたわけでもなく、一人で散歩がてら、途中で迷うことも想定しています。脇道はどこもかなり入り組んでいていて、曲がっていたり行き止まりがあったりするので、原則的に、脇道を使うことはお勧めできません。歩き始めて5分くらいは、歩いている道と記憶の上での地図上の道が一致していますが、だんだん、複雑になってきますので、脳内コンパスで目的地に向かってひたすら歩きます。途中で大丈夫かな・・・これというレベルに達します。どういう通りかというと…。
道路の幅、バイク2台が徐行すればギリギリすれ違える道幅、車は当然入れません。しかし、不思議なことに道路の両側はずっと民家が続いています。この風景どこかで見覚えが…
カリジョドだ…。2013年は、カリジョドで検索しても一切出なかったのですが、今は何件か出るようになりました。ただ、あまり行かないほうがいい場所です。カリジョドはかなり危険な場所なので、撮影とかできる雰囲気ではありません。
2013.08.28 ジャカルタ・リラクゼーション・アワー 9/16 ~神秘の場所カリジョド
今、私が歩いているのは、カリジョドではなく、平日昼間、ジャカルタ南の脇道です。では写真を。
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聖書の常識 6/6~キリスト教と暦の関係

ユダヤ教三派の中で、一番進歩的で柔軟性があったのはパリサイ派だった。三派の中でキリスト教と最も多くの共通性を持ち、キリスト教の重要な母体となったのは、パリサイ派と考えてよい。これは使っていた暦を見てもわかる。パリサイ派がつかっていた暦は、ローマの暦に近い。当時、どういう暦を使っていたか、つまり、どの日にどんな祭りをするかということで、その宗教宗派の信条や主張を知ることができる。パリサイ派の暦はローマ暦に非常に似ていて、それとうまく調和するように作られていたという。エッセネ派のクムラン暦というのはそれとたいへん違って、1年を364日としている。サドカイ暦も同じだったろうと言われているが、これはクムランのエッセネ派が当時の上流知識階級の出身者が多かったからであろう。彼らは神殿貴族のサドカイ派と鋭く対立していたとはいえ、やはり一種の知的貴族であり、自分たちを一般民衆から隔絶した位置においていた。ではなぜ、1年を364日にしたか。1年が365日だと、毎年、何月何日の何曜日にこれこれの祭りを行えと定めても、年によってその日の曜日が狂ってくる。これを狂わないようにするために1年を364日にしたのであろう。そうすれば1年52週できちんとおさまる。余分の日は一種のうるう日として処理をする。現代でも一部で議論されている万国暦は、これと同じ発想である。
イエスの生年月日は紀元1年のクリスマスではない
西暦を作ったのは、スクテヤ人の修道僧ディオニシウス・エクシグスである。彼が533年にキリスト紀元のはじまりを確定しようとしたとき、大きな誤りをおかした。紀元前1年と紀元1年の間にゼロ年を挟むことを忘れ、ローマ皇帝アウグストスと次のティベリウス帝との共同統治期間の4年間を見逃してしまった。そして、イエス誕生の年について、福音書がはっきりとこう記述していることも見逃した。すなわち「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき・・・」(マタイによる福音書2章1節)。ヘロデの統治期間は紀元前37年から前4年で、この年に死んでいるのだからイエスが生まれたのは紀元前4年以前でなければならない。現在では紀元前6年というのがほぼ定説である。紀元前7年の土星と木星の相合が3回起こったことは明らかで、これは794年に1回しか起こらない珍しい現象だから、人々の記憶にこの現象とイエスの生誕が結びついても不思議ではない。


中国の正体 2/5~マルクス->ボルシェヴィズム->毛沢東主義

マルクス主義の宗教的性格
マルクスの予言は、資本主義社会の矛盾を克服する救済の道筋として、人々の感性に強く訴えた。ほとんど宗教的な影響力である。最後の階級闘争と資本家階級と戦うプロレタリアート階級の存在、資本家階級の支配する国家はやがて死滅する、プロレタリアート階級が国境を越えて団結し人類の解放者となる、最後には共産主義社会が到来する・・・というマルクスの予言は、キリスト教の聖典である『ヨハネ黙示録』が預言する千年王国の到来と内容が共通している。『ヨハネ黙示録』は、選ばれた人々が救世主の絶対性を信じて組織化され、悪の跳梁する社会において戦いを繰り広げて悪なる者たちに勝利し、千年の間、救世主とともに地上の王国を支配した後、復活した悪なる者たちとの最後の戦いに勝利し、さらに最後の審判が下されたあと理想の国が実現される、と預言する。これをマルクス主義に置き換えれば、「共産党宣言」が予言の書であり、最後の階級闘争を資本家階級と戦うプロレタリアートが選ばれた民であり、資本主義社会は「搾取」という原罪の上に成り立つ悪なる社会であり、資本主義の危機とその消滅が最後の審判であり、共産主義社会が理想の国の実現なのである。ついでにいえば、プロレタリア独裁は千年王国の期間に相当するであろう。マルクス主義は、たしかに「科学的な」社会主義であった。しかし『ヨハネ黙示録』になぞらえるほどの、強烈な宗教的色彩を帯びた「救済思想」でもあった。


三陸海岸大津波 2/3~現在と変わらない被災後の惨状

岩手県南九戸郡野田村駐在巡査 遊佐左仲がいる。午後8時20分頃、野田村駐在所から1キロほどの地点まで来た時、かれは、ドーン、ドーンという音を聞いて足をとめ、海上を凝視した。その時、眼に火の色が映った。それは提灯ほどの大きさで、数十個の怪火が沖合から陸地にかけてゆらゆら揺れるように漂っていた。遊佐巡査は、俗に伝えられる狐火かと背筋の凍るのを意識してたたずんでいたという。音響と怪火は、巨大な波の壁から生じたものであった。波はその頂でほのじろい水しぶきを吹き散らし、海上一帯を濃霧のような水の飛沫でおおった。ジャバ島附近のクラカトウ島火山爆発による大津波につぐ、世界史上第二位、日本最大の津波が三陸海岸を襲ったのだ。
宮城県下の被害は死者3,452名、流失家屋3,121戸、青森県下では死者343名に達したが、この両県に比して岩手県下の被害はさらに甚だしく、死者は実に22,565名、負傷者6,779名、流失家屋6,156戸にも及んだ。村落は荒地と化していた。津波の運んできた大小無数の岩石が累々として横たわり、丘陵のふもとにある家々がわずかに半壊状態で残されているだけで、海岸線に軒を並べていた家々は跡形もなく消えていた。死体が至る所に転がっていた。引きちぎられた死体、泥土の中にさかさまに上半身を没し両足を突き出している死体、破壊された家屋の材木や岩石に押しつぶされた死体、そして、波打ち際には、腹をさらけ出した大魚の群のように裸身となった死体が一列になって横たわっていた


第5次ジャカルタ攻略 4/5~危険な道路《重要!読め》

私はジャカルタの南部に住んでいるので、南部を中心に遊んでいます。例えば、ホテルムリア、プラザセナヤン、ブロックM、ウィジャヤなど、今まで登場した多くは南部に位置し、この4つに至っては、一本の幹線道路沿い上に、南部の中で南北に広がっています。今日はさらにその南部を東西に広げて、紹介したいと思います。
どこの国でも都会なら日本の飲食店に行くと、フリーペーパーが手に入ります。飲食店探し、特に日本食に関しては、地図付きで綺麗にまとまっているので、なるべく読むようにしています。それを参考に、南東部のKEMANG(クマン)に行ってみました。私のKOST(アパート)から歩いて40分ほどの距離です。ああ、タクシーには乗りません。歩きです。治安的には大丈夫だと思うのですが、夜で、幹線道路ではない脇のかなり細い道路を通っていくつもりだったのでSurfaceは置いて、コガネだけ持ってのお出かけです。
--ここから先、ジャカルタの不衛生な面について、わかりやすくするために写真を入れます。写真には臭いが写らないので、それほどキツイ写真ではないですが、お食事中の方や繊細な方はこれ以上は見ないことをお勧めします


聖書の常識 5/6~律法体制

律法は現代も生きている
たとえば、食べ物についての規定などでも、外部からみると「掟の上に掟を立てる」でどんどん増えて膨大なものになっていく。だがその本を探れば律法とくに申命記の規定なのである。ときにはそれが笑い話のようになるが、イスラエルでは肉の出るレストランではバターも乳製品も出ないし、アイスクリームも食べられない。またレストランは乳製品用キッチンと肉製品用キッチンを分けねばならない。なぜこういう規定があるかというと、旧約に「子やぎをその母の乳で煮てはならない」(申命記14章21節その他)とあるからだ。これは牧畜民としてごく常識的な規定であるが、これが拡大解釈され徹底化すると、同時に食べると腹の中で煮ることになるからいけないということになる。しかし、そのアイスクリームに使われた牛乳は、ビフテキになった牛の母親のものという証拠はないではないかと質問すると、ビフテキになった牛の母のものではないという証拠もないからだめだという。こうまでいわれると、それならアルゼンチンから輸入した肉と、現地の乳製品ならいいのかと、皮肉も言いたくなる。
だが、皮肉や嘲笑を別として考えれば、どの民族にも相当に厳格な生活規範があり、振り返ってみれば日本人も例外でないということである。われわれは犬、猿、蛇、蟻の卵は食べないが「なぜか。何に基づくのか」と、それを食べるのが当たり前の民族から問われれば返事はできない。しかしユダヤ教徒やイスラム教徒が「なぜ酒を飲まないのか」「なぜ豚、貝、うなぎ、かに、えびの類を食べないのか」と問われれば明確に答えることができる。いわば彼らは規範の典拠が神との契約という形で明確になっていて、われわれのように「何となく・・・」ではないのである。


中国の正体 1/5~建国当初最高位は毛沢東以外にもう2人いた

幹部と呼ばれている共産党員たちは、1980年代半ばまでは、一級を最高位とし24級を最下位とする等級制度に区分されていた。そして人口の0.01%にすぎない13級以上の幹部が高級幹部と位置付けられ、古代の貴族同様にきわめて大きな社会的特権が与えられていた。建国当初の最高位は、毛沢東、ダライラマ、サイフジン(新疆ウイグル自治区指導者)の3名に与えられた3級であり、さしずめ正二位である。鄧小平は五級で正三位であった。現在の日本でも、等級制に基づく給料体系が存在するが、等級間に極端な格差はない。ところが中国での等級間の格差は極端であり、高級幹部になると国家から古代貴族さながらの大きな物質的特権が与えられる。
サイフジン、サイプーディンなのか色々書き方はある
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伝統的な封建王朝の清朝は、1911年に勃発した辛亥革命により崩壊し、1912年には中華民国が成立する。さらに9年後の1921年には中国共産党が出現した。しかし当時、北京の紫禁城の奥には中華民国政府から歳費を支給された清朝最後の皇帝の溥儀が生活しており、溥儀がクーデターを起こした軍閥の馮玉祥により紫禁城を追い出されるのは、1924年である。これらの事実から、中国近現代史が「伝統」と「封建」、さらには「社会主義」を混在させながら進展しなければならなかった状況が理解される。
清朝の皇帝は二つの顔を持っていたのである。清朝は満州人の樹立した王朝である。満州人の皇帝は、漢民族に対して中国の伝統的皇帝として君臨したが、モンゴル人やチベット人に対しては、ジンギスカン以来の遊牧民族の大ハーンとして臨み(ジンギスカンの子孫から正統の証としての印綬を引き継いでいた)、支配・被支配の関係ではなく藩部の名のもとでの一種の同盟関係にあった。そしてモンゴル人もチベット人も、民族固有の法による自治を許されていた。さらに、満州人もモンゴル人もチベット人もチベット仏教徒であり、ダライラマを崇める人々であった。


三陸海岸大津波 1/3~津波の不気味な前兆

明治29年(1896年)6月-「前例を見ない大漁だ」
当時の大豊漁については現在87歳の高齢で岩手県下閉伊郡田野畑村に住む早野幸太郎氏がよく記憶している。氏はその年に13歳であったが、早野少年の眼にも、その折の大豊漁は奇異な印象として焼き付けられた。早野氏の生家は網本で、数多くの定置網を海面に張っていた。氏の記憶によると6月10日頃から本マグロの大群が、海岸近くに押し寄せてきたという。網の中に、マグロがひしめき合いながら殺到してくる。網はマグロの魚体で泡立った。マグロは出口を求めて網の壁に沿って一方向に円を描いて泳ぐ。マグロの軍が網の内部をうなりを立てて素早い速度で回っているのを見た。その勢いで網の内部には大きな渦が生じ、中央部の水面は深くくぼんで擂鉢状にさえなっていたという。漁船は、それらの網からマグロを引き上げ、今にも沈みそうになるほど満載して海岸にたどり着く。岸はたちまち魚体でおおわれた。村の者たちは、老人や女をはじめ子供まで加わってマグロを箱に入れていった。が、後から後からマグロが陸揚げされるので、入れる箱もなくなってしまった。
異常な大漁は40年前の安政3年(1856年)以来のもので、その年には青森県鮫村から湊に至る地域をはじめ三陸海岸一体に戦慄すべき災害が発生していたのだ。安政3年7月23日、北海道南東部に強い地震があり家屋の倒壊が相次いだ。その地震の直後、青森県から岩手県にかけた三陸沿岸に津波が襲来し、死者多数を出している。その津波が海岸線を襲う以前に、漁村は鰯の大豊漁ににぎわった。つまりその40年ぶりの大豊漁は、津波襲来の不吉な前兆である可能性も秘めていたのだ。事実、その豊漁と平行して、多くの奇妙な現象が沿岸の各地にみられた。


第5次ジャカルタ攻略 3/5~夜の遊び方

シンガポールに住んでいる先輩と、昔シンガポールに住んでいて、ジャカルタに転勤になった後輩と3人で、寿司に行きます。
シャングリラ 西村
先輩が裏技を使ってくれているので、海外で食べる鮨としては、少し安いくらいのお値段になります。シャングリラカードを持っていると、一人分無料+会社の接待で使った時の残りのボトル、というなかなかお洒落なワザですが、サラリーマン特権にあやかりましょう。おごってもらっちゃったので、いくらか書けません。領収書がないので忘れちゃうのです。僕が領収書をもらうのは、会社に請求するためではなく、記憶のためです。確か一人500,000IDR相当くらいだったような・・・。かなり怪しいです。もっと高かったらごめんなさい。どちらにしても裏技使わなければもっと高いのは確実です。先輩いつもごちそうになります!
シャングリラ B.A.T.S.
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ホテルのウェブには、バーと書いてあるのですが、生バンド付きなので、ディスコに近いです。有名な所らしいのでブラッと見学。金曜の夜で混んでいたので即撤退です。
ホテルムリア CJ’s
何度登場してるんですかね? まぁ、毎年1回は必ず来てるので、最低でも5回目です。安心のホテルムリア。ドレスコードがあるので、このために毎回、ジャカルタに靴を持ってきています。今回は、ウォーキング用の運動靴ですが。金曜の夜なので異様な日本人率。本当は日曜~木曜の深夜に差別化をはかりたいところですが、まぁ良いでしょう。
ホントに毎年来てるw どれだけ好きなんだよw
2014.10.30 ジャカルタ潜伏 9~ホテルムリア
2013.09.11 ジャカルタ・リラクゼーション・アワー 11/16 ~民としての生活と物価
2012.10.18 ジャカルタに行ってきました 6/9~ナイトクラブHotel Mulia
真・遊蔵の遊び方
ブロックMの名店・レディースバー風居酒屋の遊蔵ですが、私が真面目なので、類が友で、私の友人もまた真面目な人が多く、普段は「飲み代が無料」の居酒屋として利用しています。お酒は無料ではないのですが、持ち込み料がかからないので、インドネシアでは入手困難なシングルモルトでも、国外で買ってから持ち込めば、飲み方、自由です。さらに遊蔵が素晴らしいのは、居酒屋として使え、気が向いたらカラオケ化できることにあり、1階で居酒屋として使う分には、真面目なお話や議論をする静けさがあります。普通のブロックMのカラオケは、うるさいので議論には不向きです。通常利用は私も
2012.12.26 第二次ジャカルタ攻略 11/11 ~2時間160円のキャバ
このような感じで、激安居酒屋として使っています。しかし、このような遊び方だけでは、せっかくの名店・遊蔵がつぶれてしまうので、たまにはお二階に上がってあげましょう。
シンガポールから仕事で来ている先輩と、遊蔵で飲んでいたら、東南アジアのとがり顎が「エキゾさん、今日、お二階は…」と遠慮しがちに言ってきました。ごめんねー、いつも酒の席なのに、大真面目な顔で真剣に話してるから、話しかけにくいよね。
二階はカラオケなんですけども・・・。
先輩「おぅ、いいよ。じゃ、いこか」
即断即決でお二階に。お付きの女性を選ぶ時間の前に、東南アジアのとがり顎に「お友達を適当に何人か呼んでいいよ」と言ったところ、「今日は、エキゾさん選ぶー。大丈夫ー。」と言われてしまいました。そうじゃねぇんだよ、男なのに選り好みするという選ぶ行為そのものが嫌いなんだ。5人の女の子が登場し、
先輩「何人選んでもいいの?」
ママ「はい」
先輩「じゃ、全員」
女の子たち「ワーーー」
はぁ、良かった。「私はいつもそうなんですが、一人3人くらいつけても良いかもしれないですね。」という前に即決してくれました。この即決は、女の子の印象をよくします。私はお二階は、東南アジアのとがり顎+1~2人なのですが、今日は全部で6人付け、÷2ですがw 先輩さすがだなぁ、全員の名前を聞いて、ちゃんとメモしてる。さすがに6人全員の名前は俺も覚えられない。
ここからは2:6なので、インドネシアナイトになります。多勢に無勢なので、女の子たちは、インドネシア語で、好きなようにしゃべります。私は全くインドネシア語は理解できないのですが、せっかくのインドネシアなので、インドネシア語、インドネシアソングは歓迎です。日本語はリモコンで入れられるのに、インドネシアソングは手動、マイクで曲名をスタッフに言うと、後ろでスタッフが入力します。彼女たちが歌う、日本語の歌のレベルで、だいたいキャリア=年齢がわかりますw 日本語の歌は、みんな歌詞をアルファベットで書いた手帳を持っていて、それを見ながら歌います。インドネシアソングは、下を見る必要がないので、みんなで踊りながら歌います。なぜか、この時、照明を落として、室内を暗くしますw インドネシアのディスコは、異様に暗いディスコが多いので、踊り=暗い所というのがインドネシア・コンセンサスなのでしょうか。タイでも中国でもフィリピンでもインドネシアでも良いのですが、この多勢に無勢のハーレムナイトは、必ず、現地の波に飲まれます。なので現地の風を感じるには、最も資金効率が良い遊び方でもあります。
真・遊蔵ナイトのご予算が気になる人もいるでしょう。ご安心ください。
{(コーリングチャージ 300,000IDR + ドリンク 80,000IDR) × 6人分 + 部屋代 100,000IDR+その他、氷・軽いつまみなど} ×(1+21%(税・サービス))
=・・・3,000,000IDR (約3万円)
6人付けてもだいじょうぶー。私の経験では、名店・遊蔵は、コーリング(ホステス)チャージを異様につけてきたり、レディースドリンクを何杯も勝手に注文したりというトラブルにあったことはありません。普通のカラオケ店では、この辺りは、注意する必要があります。
注:私は遊蔵の回し者ではないので、公平に記述しておきますが、レディースバー風居酒屋という中途半端な業態なので、ウェイトレスとホステスの中間くらいのノリの女の子が多く、接客に関しては、普通のカラオケ店の方ができていると思います。またキレイどころを揃えたようなカラオケ店もありますが、遊蔵は、ちょっとロリっぽい・子供っぽいような素人系が多く、大人でスタイルの良い女性は居ません。セクハラは普通のカラオケでは当たり前でしょうが、遊蔵でも禁止ということはありません。セクハラしても怒られませんが、緊張してしまうような素人っぽい子もいますので、しないほうがリラックスして楽しく遊べると思います。一言でいえば「中途半端」な店だということは、ご認識の上で、遊びに行ったほうが良いです。
【夜の蝶たち】
2015.06.17 日本全土落下傘計画2015年 東北編 1/3~国分町キャバクラ通り
2015.05.26 九州キャバクラナイト1/4~中洲へのアクセス
2015.03.24 タイ全土落下傘計画2015 7/15~スナックのようなキャバ
2015.01.07 第二次フィリピン遠征 9/10~マニラで最も綺麗な所グローバルシティ
2014.12.04 第二次フィリピン遠征 5/10~セブのゴーゴー
2014.10.08 ジャカルタ潜伏 6~最大手カラオケ
2014.04.08 第5次タイ攻略 後編 14/14~シンガポールへ
2013.10.25 初フィリピン・マニラ編 5/14 ~ゴーゴーバー
2013.07.30 春のタイ 後編 ソンクランのはしご 7/8 ~プーケット潜伏隊
2013.05.22 春のタイ 前編 ソンクラン前 6/9 ~ウドンタニ攻略の布石
2012.12.12 第二次ジャカルタ攻略 9/11 ~ちょっと下品なコタ・ライフ
2012.04.05|KTVデビューしました 4/5 ~プロとして
2012.02.29: タイ旅行 7/11~ゴーゴーバー


聖書の常識 4/6~旧約聖書はいつ完成したか

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南王国を滅ぼしたのは、北を滅ぼしたアッシリアではなく、それに代わって興隆したバビロニアであった。そして、それからバビロン捕囚がはじまる。もっとも全員がバビロンに移されたわけでなく、いわば指導者階級が移され、残りのものはバビロニアが任命した総督に支配されていた。最初の総督ゲダリヤは過激派に暗殺されている。この捕囚が何年続いたかは、捕囚も帰還も二次以上に渡っているので正確に数えにくいが、いずれにせよ彼らはペルシア王キュロスがバビロンを占領したときに釈放された。占領は紀元前539年、翌538年にユダヤ人釈放の布告があり、この年にパレスチナへの第一次帰還が行われ、ついで二次帰還、さらにその後にも帰還があったと推定されている。っこれでバビロン捕囚の終わり、第二神殿期の始まりとなる。第二神殿期というのも非常に漠然とした言い方だが、捕囚から帰った人々によってエルサレムの神殿が再建され、神殿が政治の中心で、祭司侯国といわれる時期、これをユダヤ教の形成期と見ていい。
聖書の「契約」とは?
我々は何の抵抗もなく旧約聖書・新約聖書という。その「約」とはいったい何だろうか。「約」は契約の「約」で、ヘブライ語では「ベリート」といい、ギリシア語では、「ディアテーケー」、ラテン語でゃ「テスタメントム」といい、そこから「テスタメント」という英語になった。旧約という概念は新約という概念があって初めて出てきたもので、大体2世紀にはじまり、それ以前にはなく、現代でもユダヤ教徒は旧約という言葉を使わない。いずれにせよ、「聖書」の基は「契約書」なのである。「契約」という概念が日本人にあるかないかはよく問題になる。だが、この議論にはしばしば概念の混同があるように思われる。というのは契約には4種類あり、通常これを、(1)上下契約(2)相互契約(3)履行契約(4)保護契約、とするが日本人にないのはおそらく「上下契約」で、他の契約概念は定義が明確でなく漠然とはしていても、日本人にもあると思われるからである。たとえば日本にも「忠臣」がおり、「忠臣蔵」もある。しかし当時の家臣は殿様との間に契約を結んでいたわけでなく、またこの契約を完全に履行するのが「忠」だという発想があったわけではない。これは西欧の騎士が主君と契約を結んでいたのと大きな違いである。もちろん戦時中にも、天皇との間の契約を死んでも絶対に守るといった発想はない。この「上下契約」は、実は聖書の中の基本的な考え方であり、絶対者なる神との契約を絶対に守ることが「信仰」(フェイス)すなわち「神への忠誠(フェイス)」なのである。したがってその意味は日本人の言う「信仰」「信心」といった言葉と非常に違う。そして「神との上下契約」という考え方が基となっているので、聖書の宗教は「契約宗教」と呼ばれ、それが明確に出ているのが、俗に「モーセの十戒」といわれる「シナイ契約」である。
空と無 仏教徒聖書の違い
仏教で言うような「空」とか「無」という概念が聖書にあるかないかは大きな問題で、従来の定説に従えば「ない」とするのが普通であろう。新約聖書に「無から」という言葉が出てくるが、この「無」というのは、否定詩とbe動詞だけで表されており、「存在がない」という単純な意味で、そこに「無」の思想を読み込むべきでないと私は思う。「無からの創造」という言い方にしても、これはラテン語時代のもので(ラテン語で「クレアティオ・エクス・ニヒロ」)はたしてそういう発想が創世記にあったかどうかは多くの聖書学者は問題視している。無からの創造という発想は無いと見るべきであろう。
伝道の書の「空」もまた、しばしば仏教的な「空」と混同されるが、そうとはいえず、「空(へベル)」とは元来「息」の意味で、本文を読んでいくと、呼吸のような「空虚な繰り返しの永続」という意味に取れる。伝道の書の1つの大きな特徴として、ヤハウェという言葉が一回も出てこない事がある。神という言葉は出てくるが、ヤハウェは出てこない。伝道の書ができたのは、紀元前250年から200年ごろにかけてであろうと考えられている。ユダヤ人が大きな苦難を迎えた時代があり、そういう時代背景の中に出てきたのが伝道の書の「空」の思想であった。伝道の書をはじめから終わりまで読んでいけばわかるように、いっさいを「空の空」と否定していって、最後に、では一体人間に残るのは何かというと、それは「人間は神よって造られたものだ」ということ、いわば「被造物」ということで、ヨブ記で、最後に神がヨブに語っていることと同じである。人間は神に造られた、このこと以外はすべて無であり空である。そこから結局律法へ戻っていく。造り主である神を恐れ、その律法を守れ、と。それ以外は、何をやっても一切空しい、と。ヨブ記の結末も後代の加筆ではないかといわれている。その詮索はともかくとして、この結末もまた、前述のように「お前は被造物ではないか」という神の言葉と、それへの無知を罪とするヨブの懺悔で終わるのである。


金融工学、こんなに面白い 2/2~デリバティブとは?

現実の金融取引の中には、「オプション」と名づけられてはいないが、これと同様の機能を持つものがある。例えば、保険をオプションの一種と解釈できる。自動車の損害保険は「壊れた自動車を一定の価格で引き取らせることができるプット・オプション」と解釈できる。家屋の火災保険は「全焼した家屋を一定の価格で引き取らせることができるプット・オプション」と解釈できる。逆に言えば、オプションはリスクへの対処策として、「保険」の機能を果たしているのである。

そうですね。保険はオプションよりも一般的ですから、「保険って何?」という人は居ない。「オプションって株の保険みたいなものです。」と説明することが多い。「デリバティブとは何か?」と行った時、私や野口さんはその複製性について触れるだろうが、それでは天候デリバティブは、保険ということになる。事実、それは銀行や証券ではなく、保険会社が扱っているのだが、彼らの解釈では、損害に対する保障が保険の定義であり、損害が関係ない条件付の金融取引はデリバティブ、ということであるw

歴史上のオプション
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オプションと解釈できるような取引は、かなり古い歴史を持っている。旧約聖書創世記の第29章にあるヤコブの婚姻の話が、歴史上最初のオプションだと言われる。ヤコブは、ラバンの娘ラケルと結婚する権利を獲得するため、ラバンのために7年間労働することに同意した。これは結婚しなくても良い権利だったので、「7年間の労働というプレミアムを支払うオプション契約」というわけだ。アリストテレスの『政治学』によれば、哲学者ターレスは、翌年のオリーブの収穫を天体観測によって予測する特別の能力を持っていた。そこでオリーブの搾り機を借りる権利を安く手に入れ、豊作となったときに、搾り機をまた貸しして、大きな利益を得たのだそうである。これも一種のオプションと言える。

う~ん、まぁ、なんとでも言える話ですよね。日本では大阪堂島米取引所の米先物が最古のデリバティブ取引って言うし、なんとでも解釈、こじつけることができます。


ハイデガー=存在神秘の哲学

またも失敗だ。最初に読んだ、木田元氏の「ハイデガーの哲学」はまあまあ良かったのに・・・。2冊続けて失敗です。難しいテーマの本は失敗率が高い、しょうがないか・・・。
存在というくらいだから、当然、存在するものだと思って考察しようとするのだが、まるで無い。なにもかもが無い無いづくしになってしまう。色は無い、形も無い、重さも手ごたえある実体もない。終わりも初めも無い。根拠も理由も起源もむろん無い。「何も無いこと」(Nichtigkeit)だけが、その正体であるかのようだ。モノ(存在者)なら目の前に現れる。だから、物体や画像や意味概念として把握できる。保存も記録も可能。つまり様々な仕方で所有できる。


第5次ジャカルタ攻略 2/5~インドネシアのビジネス

Plaza Senayanの焼肉 Esina
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ジャカ1と同伴です。Plaza Senayanはジャカルタ南部の高級ショッピングモールで、SOGOなどもあります。去年行った鮨清もここです。というか鮨清の斜め前くらいの位置で、去年、この焼肉も良さそう、とブログで書いていたところです。鮨清の隣は鉄板焼きで、斜め前くらいがEsinaです
私が「金曜は友人と寿司に行く予定」
J1「いいなー、私も行きたい」
何食べるの?
J1「卵といなり」
生魚ダメだったら一緒に行ってもつまらないでしょ?
でも焼肉はOKということで今夜はジャカルタで焼き肉です。何度かジャカルタで焼き肉行っていますが、そこそこイケます。Esinaは二人で行く焼肉、つまりちょっと高級。ウィジャヤのそばの焼肉は大勢で行く焼肉、大衆店ということですが、ウィジャヤのそばの焼肉も値段の割にはおいしいと思います。ここEsinaの客層はインドネシア人が意外に多く、ハイソサエティも利用しているそうです。
私はジャカ1が食べられるもの、「豚肉は宗教上の理由でダメ、生卵やユッケもダメ」という制限があるので、ジャカ1に任せたところ、Esinaで最も割安な「カップルセット」を頼みました。ハイソサエティ諸君らは、高級部位も用意されているので、そちらをオーダーしてもよいだろう。ジャカ1に合わせているので、ここでは酒も飲みません。そうすると・・・、二人で会計800,000IDR(8000円)ほどでした。う~ん、一応、Esinaはジャカルタではそれなりに高級なはずですが、庶民的な価格になりましたw 高級部位+お酒を頼めば、2倍以上は確定ですw


聖書の常識 3/6~イスラエルとヘブライは同じか

イスラエルといい、ヘブライ(ヘブル)ともいう。またユダヤという言い方もある。これらは同じ意味なのか、違うのか。イスラエル、ヘブライ(ヘブル)、ユダヤのうち、ヘブルが、もしハビルという言葉に関連を持ちうるなら一番古くからある言葉だろう。しかしハビルは古代文書に出てくる場合は民族名を意味していない。セム系の言葉は、母音無しで書かれている場合が多いので、ハビルともアビルとも時代により国より、エジプト、アッシリアその他でみんな発音が違う。またヘブルは英語式発音で、旧約聖書の発音は胆振である。ハビルの定義は非常に難しいが、農耕民の側に立って、これと特別な契約を結んでいるある種の牧畜民、すなわち社会単位となっている集団を意味している。民族名でも部族名でもないことは明らかでこれは中東に広く存在した。
またイスラエルの意味となると少々問題がある。エルは神の意味で、神と争ったヤコブのニックネームとしてこの名は創世記に出てくる(創世記32章24節以下)「お前は神と争ったから、名をイスラエルにしなさい」とヤコブが神から言われるくだりがあるが、これは一種の言葉遊びで、元来は「神は支配する」の意味であろうという。このヤコブの12人の息子たちが、後のイスラエル12部族の先祖になった-というのは伝承にすぎないのだが、この12部族は一種の宗教連合体だったろうと考えられている。つまり中心となる一つの聖所があって、自治体の各部族が底に精神的支柱を求めて連合した政治体制。ギリシアの都市国家がそれぞれ独立していながら、宗教連合を形成していたのと同じである。こういう宗教連合体がイスラエルにもあったというのも一つの仮説だが、このヤコブの12子に基づく宗教連合体制という意味で、イスラエルという言葉を使うと、これが民族名または国家名になる。ところがこのイスラエル12部族が分裂して北10部族と南2部族に分かれてしまった。南の2部族はベニヤミン族とユダ族だが、ユダ族が大きかったのでこれをユダと呼び、北の10部族をイスラエルと呼ぶようになった。現代ではイスラエルというとイスラエル共和国のことだ。イスラエル人はイスラエル共和国と呼ばれるのを嫌い、イスラエル、あるいはイスラエル国だというが、むろん昔のイスラエルとは意味が違う。
では「ユダヤ」とはどういう意味なのだろうか。南のユダ族の住む地はユダイアとなり、さらにその地に住む人を意味するときはユーダイオスとなる。これがユダヤ人という言葉の意味で、直訳すれば「ユダの地に住む人」であろう。しかし、現在ではユダヤ人というと、だいたいヘブライ、イスラエル、ユダヤを一緒にした意味で使っている。ただその場合、ユダヤ民族というものがあるのかということになるが、歴史的には現代の民族主義や民族国家を意味する「民族」というかたちではなかったと見るのが正しい。というのは、この「民族」という概念は決して古いものではないからである。ヘブライというのが民族の概念ではないように、ユダヤというのも民族の概念ではなかった。前に「イスラエル」という言葉を使ったといって、プロ・アラブの日本人から抗議された事があり、「イスラエル」ではなく「パレスチナ」といえというのだが、こういう短絡は困ったものである。「パレスチナ」とは元来「ペリシテ人の地」の意味でペリシテはアラブに関係なく、旧約聖書に登場するギリシア系の一民族を示す言葉だということをその人は知らないらしい。パレスチナという言葉も時代によって意味が違うのである。


金融工学、こんなに面白い 1/2~新しい経済学として

人々はランダムを信じない
チャートや罫線の有効性が実証分析で否定されるにもかかわらず、これらが一向に廃れないのはなぜであろうか?その理由は多くの人が「ランダム」ということを信じようとしないことにある。人間は誰でも、ランダムなデータを見たとき、そこに何らかのパタンがあるという心理的な錯覚に陥りやすいのである。実際コンピュータが乱数を用いて描いた「でたらめなグラフ」を見せると多くの人はそこに何らかの規則性を発見するのだそうだ。雲や天井のしみを見ていると、そこに人の顔や動物のイメージが浮かんでくるようなものであろう。罫線やチャートが生き残るのもこれと同じ理由による。

じゃ、もう一個、同じ事例を。カジノにおいて、バカラやルーレットは、勝負や出目の履歴を表示したり書きとめたりする紙が置いてあるのも、これと同じ理由による。

予測するのは真のエコノミストで無い証拠
新聞や雑誌には「有力エコノミストの為替レート予測」といった記事がしばしば登場している。しかし、為替市場が効率的であれば効した予測はナンセンスなのだ。「為替レートの予測を行うのは、その人が真のエコノミストではないことの証明だ」といってもよい。私は20年近く前に、こうした内容を雑誌記事に書いたことがある。ところが、それに対して当時の経済学会の重鎮から抗議が寄せられた。その人は、為替レートを予測する計量経済モデルを開発していたのである。私の記事は、そのモデルの批判を目的としたものではなかったのだが、結果的にはそうなってしまった。重鎮は自分の仕事が「無意味」とされたことに怒ったのだろうか、「経済学を学ぶものの心構え」といったお説教が長々と書かれてあった。私は論理的な反論ではなく倫理的な抗議が来たこと、そして、アメリカでは常識となりつつあった効率的市場仮説が日本では知られていないようであることに、ショックを受けた。いまでは計量モデルで為替レートを予測しようなどと試みる学者はさすがにいない。
一般に相関係数が負の値となる場合を、「逆相関」という。例えば、自動車産業のような輸出産業の株価は為替レートが円安になった時上昇する傾向があるのに対して、食品加工産業のような輸入産業の株価は為替レートが円高になったときに上昇する傾向がある。したがってこれらの株価は逆相関になることが多い。

本当に計算しました? 同一セクターは相関が高いなどと安定した結果が出るほどの期間で計算するならば、株価同士で逆相関は観測するのがかなり稀なはずですが・・・。


ロベスピエールとフランス革命 4/4~議員特権

金融界のスキャンダルによって、ジャコバン派の大義にさらに害が加えられた。このスキャンダルに、ジャコバン派の幹部級が幾人か掛かり合いになっていたからだ。カロンヌ(1787年財務総監)が創立したクラヴィエール(ジュネーブの銀行家、1792年大蔵大臣)が保護していた両インド会社が、封鎖によって破産してしまい、その清算は、ダントンおよびロベスピエールの友人で革命歴の作者であるファーブル・デグランティーヌ(劇作家、国民公会ダントン派)と、それにバジール(弁護士、ダントン派)、ジュリアン(牧師、ジャコバン派)などの保安委員会メンバーとジャコバン派議員のドローネイなどが引き受け、これらの人々は、清算で金を儲けようと陰謀した。
両インド会社事件から始まった捜査は、金融界のスキャンダルであったかもしれないものを政治的陰謀に変形してしまっていた。過激派は死に、腐敗分子は獄中にあって、互いに告発し合い、外人銀行家たちは分別深く国境のかなたに引っ込んでしまっていた。しかしなお不平分子のグループが残っており、彼らはその人気か公職のおかげで、食糧、賃金、1793年の憲法に対する勤労者の要求を代弁することができる人々であった。その指導者は陸軍省のブーショットのもとで任官を担当する書記官であったヴァンサン、革命軍の前司令官のロンサン、コルドリエ・クラブ(この一派の大本営)のモモロ、ナントの溺死の責任者であるテロリストのカリエ、そのほか数人であった。


第5次ジャカルタ攻略 1/5~入国と生活環境

シンガポールからジャカルタまで、Jetstarで往復97SGD込み込み。うーむ、2時間弱のフライトだが安すぎる。一日何十便とあるので、時間に自由がきく私は好きな便を選べる。あまり早起きしたくないし、渋滞時間の前にしたいので、シンガポール13:20、ジャカルタ14:05着を選んでみる。入国審査だなんだかんだで空港を脱出するのに1時間と踏んでいる。
2015年からジャカルタは(インドネシアとは言ってない所に注意が必要だ)観光ビザ代35USDが無料になった。そしてチャンギ空港で仕込んだウイスキー2本も無事通過。ここの税関はやる気がない。酒類の持ち込みは種類に依らず1リットルまでと決まっているのだが、止められた試しがない。バリ島に9本持ち込んで、「何する気だ」と止められた話は知っているが、2本くらいだとお咎めなしだ。
タクシーは信頼のブルーバード。高速代は私が14,000IDR払い、15時空港発の16時ブロックM着(17時~20時くらいが渋滞のピーク)、乗車時間1時間、メーターは150,000IDRほど。去年とまったく同様、少し色を付けて180,000IDR払うとタクシーの運転手さん思わず笑みが。去年とIDRで額面一緒ということは私にはタクシー代が下がって見えるw 地下鉄の工事をしているのだが、工事領域が、Sudirman道路から、ブロックMの目の前まで南下してきている。完成には程遠そうだが、一応、進んでいる気配を感じる。
KOST(アパートの部屋、冷房・Wifiあり、お湯なし。冷蔵庫と飲料水は部屋の外にある)
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KOSTに到着、去年と同じ部屋。今年は若干値上がりし、1か月の家賃は、2,500,000IDR(約2万円)である。Wifiが付いているので、まず通信の確保。「あっ、変換プラグ忘れた」 大丈夫、オーナーが持ってきてくれて買わずに済みました。このあたりの融通が利くところがこのKOSTに泊まっている理由でもあります。10分で着地完了。うーん完璧。では早速、通信の確保から。
下記、全部、遊蔵のスタッフが助けてくれました。なんか思うようにいつも電話がつながらないです。遊蔵とはジャカルタ ブロックMにあるレディースバーっぽい居酒屋です。遊蔵について、詳細は下記。
2012.12.26 第二次ジャカルタ攻略 11/11 ~2時間160円のキャバ
2012.11.21 第二次ジャカルタ攻略 6/11 ~Blok Mの遊蔵の探求
コンビニでシムカードを買います。
XL 4G Ready 10,000IDR (後にこれはデータカードであることが判明する)
Simpati LOOP 6,500IDR (電話用シムカード、安すぎるな・・・チャージしないとすぐに切れそうだ)
元々データカードも買う予定で、フィリピンで買ったポケファイを持ってきています。KOSTは確かにWifi完備なのですが、安定性が低く、切れた時の保険として、ポケファイと2重構成にしたいのです。
コンビニで hotrod 4GB、105,000IDR これは何やら店内の画面で打ち込むとレシートが出てきて、レジにて支払いを行ってしばらくすると有効になるようです。ポケファイ稼働。完璧。おー、クラクラも動いたw そうすると遊蔵のスタッフが
「あっ、私もそれやってる。タウンホールとか…」
ほぅ、インドネシアでは女性もオンラインゲームやるの。
「みんなやってる。この前まで、xxxが流行ってた。THレベルは?」
6だよ。
「私は2つアカウント持っていて、TH7とTH5。まだ6なの?アップグレード遅い」
まだ始めて1か月なんだ。トロフィーの数とクラン名は?
「1500くらいかなー。クラン名は…」
オンラインゲーム無料だから、スマホさえ持っていれば誰でもできる。そういう時代になったんですね。ちなみに日本ではクラクラですが、ここでは「チーオーチー」(CoCのインドネシア訛り)です。
いつも、初日の立ち上げを助けてくれる遊蔵のスタッフ、「東南アジアのとがり顎」には、浴衣のお土産、300,000IDR(これはKOSTの家賃のデポジットを前払いで納めてもらっているので、それを返しているだけで、現金を上げているわけではありません)を渡します。ジャカルタに来る時は、他の国と違う荷物があります。アパート(KOST)暮らしをしているので、
タオル
トイレットペーパー1ロール (当然、現地でも買えるが1ロール売りは知らない)
石鹸・シャンプー・リンス (空港で取られないように少量パック、世界各国のホテルから盗んできたアメニティw)
浴衣 2着も!
ウイスキー2ボトル (店にも置いてないことがあるくらいだから現地で入手不可能??)
ウイスキー以外は、重さは大したことないのですが、カバンがパンパンでした。
通信が確保できたので…。早速、ジャカ1に連絡。「おぅ、今、遊蔵。今からそっち行く。」 21時近くなれば渋滞も少しは緩和されます。ブロックMからジャカ1の店までは、50,000IDRほど、20~30分の距離です。もちろん、混雑タイムは2倍以上と予想できませんが。
ジャカ1の店にて、店の前のガードマンのあんちゃんは俺が覚えているくらいだから、向うも覚えていそうだが、なぜかいきなり席に通される。通常は指名スペースへの案内となるはずなのだが・・・。4年前から通っているので、誰かが覚えているのかもしれない。ジャカ1(J1)が登場…
いやー、ついに買っちまったよ。タブレットだけど。さっき遊蔵でつないでもらってな。S&P500もちゃんと見れる。安心の飲みだなw
J1「だから前から買えって言ってただろ。絶対便利だし。」
電話なんだが残高分かるか? たぶん、ほとんど入ってない。
J1「おし、見てやる。この会社か、じゃあ、20,000IDR分チャージするか?」
頼むわ。
ジャカ1は、キャバ嬢を務める傍ら副業を欠かさない。副業はカラコンやこのようなテレホンカード(シムカードやチャージカード)だが、要は現金が信用できないので、給与はすぐにモノに替えておくのが、インドネシア庶民の生活の知恵だ。しかし、この店のマネージャーは、やる気がない。ウイスキーのボトルの値段が4年間、インドネシアルピア建で変更なしというありえない価格設定。そろそろ赤字になるのではないか、と心配になるほどだ。こういうところからも、店のシステムが分かる。客にボトル入れさせたらナンボ、という給料体系になっていないのだ。
【居住・賃貸・ホテル】
2015.09.14 シンガポールの引きこもりが勇気を出して部屋を出る(写真付)
2015.09.08 シンガポールの公共住宅HDB
2015.01.21 第2次中国全土落下傘計画 7/8~上海にある日本食・DVD
2014.12.24 第二次フィリピン遠征 8/10~マニラのリトルトーキョー近傍
2014.09.04 ジャカルタ潜伏 1~KOST(アパート)の様子
2014.08.22 ジャカルタ潜伏 0 前哨戦
2014.08.14 バリに行ってきました 3/4~ウブド・大人のリゾートホテル
2014.04.28 シンガポール「多人種主義の社会学」 団地社会のエスニシティ
2013.08.01 ジャカルタ・リラクゼーション・アワー 5/16 ~ジャカルタのマンスリー・アパートの契約
2012.10.23 第二次ジャカルタ攻略 2/11 ~家賃1mil物件の見学
2012.08.06|北京・ハルビンに行ってきました 1/13 ~北京の優良ホテル
2010.12.22: 楽しいお部屋の模様替え
2010.05.31: コンドミニアムと格安物件の家賃以外の相違点
2009.04.03: Singaporeの住宅の種類
2009.04.02: Singaporeの住宅と地理
2009.04.01: 賃貸にみるOptionality
2009.03.31: 新社会人の平均家賃額


聖書の常識 2/6~歴史書として

20世紀で最も進んでいる学問 聖書学
聖書学という学問があり、これは聖書考古学、聖書史学、聖書文献学、聖書語学、聖書釈義学という5つの分野に分けられる。聖書学はヨーロッパでも新しい学問で、1905年にダイスマンという古典学者が西洋古典学の方法を聖書の研究に持ち込んだのがはじまりといわれる。それ以来、今日では、20世紀で最も進んでいる学問は原子物理学と聖書学であるといわれるほどに発達した。
考古学が裏付ける聖書の記述
聖書に書かれていることは、ほとんどが神話で、たとえ史実によるとしても、粉飾されていると考える人も多いだろう。この問題に考古学者が発掘という実証的方法で取り組んだのは19世紀からで今日までに、着々とその成果が積み重ねられている。遺跡の発見や発掘の結果、これまで史実として疑問視されていた聖書の記述の、歴史的信憑性が証明された例は少なくない。だが、この逆、すなわちその記述が歴史的には事実でなく何らかの原因譚説話であることが明らかになった例もある。また直接ではないが、聖書の伝承がある事実を基にして形成されたことが明らかにされた例もある。その典型的なものは1929年にサー・レナード・ウーリイによって行われた大洪水の発掘である。彼は粘土層によって3500年前の大洪水を確認した。シュメール人やヘブライ人の洪水の話のもとになっている現実の大洪水があったこと、この発見はもちろん、2つの話のうちの、どちらの個々の事柄をも証明しない。もちろんこの大洪水は全世界的ではなく、チグリス・ユーフラテス川の下流の河谷に限られ、およそ長さ600km、幅150kmにわたる局所的な大災害だった。しかし河谷の住民にとっては、それは全世界と同じであった。
天文学と聖書の記述との関係
神話・伝説的な物語は新約聖書にもある。たとえば、イエス誕生を告げた有名なベツレヘムの星。この星についても、天文学者たちは架空のことではなく、事実であるという結論に達した。1603年のクリスマスの少し前、徹夜の観測で、土星と木星の異常接近がまるで1個の大きな星のようになることを発見したのは、ヨハンネス・ケプラーである。その後、天文学者たちの計算の結果、紀元前7年に、この土星と木星の以上接近が3度にわたって起きていることが発見された。大きな「一つの星」の度重なる出現に、バビロニアの学者たちが驚き、はるばるパレスチナへ旅し、エルサレムにヘロデ王を訪ねたとしても不思議ではない。星は彼らにとって占星術的に何か大きな予兆であり、同時にイスラエルでは「ヤコブから1つの星が出、イスラエルから一本の杖が起こり・・・」(民数記24章17節)という記述以来、救済者の出現の予兆と考えられていた。またヘロデ王が紀元前37年から4年までの間、在位したことは、歴史的な事実である。「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東から来た博士たちがエルサレムに着いていった。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東のほうでその星を見たので、その方を拝みに来ました・・・』」(マタイ福音書2章1~2節) マタイによる福音書は、こう書いている。ベツレヘムの星が紀元前7年に土星と木星の異常接近によって生じた大きな「一つの星」であることは、いまではほぼ間違いないとされている


しんがり 山一證券 最後の12人 5/5~JR売出価格高騰のため大蔵省の陰謀

『飛ばし』は、損害保険会社の頭のいい人が考えたアイデアなんだよ「と言い出したのである。そして、三木は損保業界大手の名前を挙げた。「その損保はね、決算の数字作りに困ることの無いように、決算期の違うファンドを最初から2つ作って、うちうちで操作できるようにした。最初はうちうちでやっていたものが、だんだん他者のフトコロも借りるように変形していったんだね」 飛ばしは投資家や株主の目をごまかす事実上の粉飾決算である。それを損保が考案し、証券会社だけでなく、銀行など金融界全体で重宝した、と三木は言った。
山一と東急百貨店の取引をめぐっては、大蔵省証券局長が飛ばしに関与していた」。問題の取引が始まったのは1990年2月のことだ。山一は東急百貨店に10%の利回りを保証すると約束していたが、直後のバブル崩壊で利回りどころか多額の損失を抱えてしまった。その損失は山一で引き取るのか、それとも東急百貨店が被るのか、はっきりさせないまま、山一は90年7月末、91年1月末、そして7月末と東急百貨店の決算期に合わせて、損失を抱えた有価証券を別の企業に飛ばして凌いでいた。両社が対立するのは、取引開始から1年半後の91年8月。山一が「損失は東急に属しており、引き取るわけにはいかない」と決めたからである。利回り保証を実行しなかったわけだから、その判断は誤りとはいえない。しかし両社の交渉は難航し、92年1月には、東急側から「利息分を含め318億円を返せ」という催促状が届く。「万一、返済されない時は、東京地検特捜部に詐欺の被害にあったものとして、行平社長らを告訴し、報道機関に全容を公表する」と催促状に記されていた。この問題について、
嘉本「三木さん、問題になった東急百貨店の催促状についてはどのように対応されたのですか」
三木「あの頃私は副社長でしたが、大蔵省の松野証券局長に呼ばれて大蔵省にお伺いしました。92年1月だったと思います。席上、局長から『東急百貨店から、飛ばしの依頼が来ているでしょう。どうするのですか』と聞かれました。私は担当で無いのでよくわからない、と答えたんです」
三木は企画室長のころ、忠実なMOF担と言われた。松野局長とはそのころからの旧知の間柄だった松野允彦のことである。お蔵小は当時、監督下にある証券会社に対して絶対的な指導権限を握り、箸の上げ下ろしに至るまで指図していた。局長の一言ひとことが事実上の行政指導である。三木の記憶では、その松野は意外な言葉を口にしたという。
大和(証券)は、海外に飛ばすそうですよ
「『海外は難しいのではないですか』と私が答えると松野局長は『うちの審議官が知っているから、聞いてください』と言ったんだよ」
驚いた三木は大蔵省から本社に戻り、副社長の延命の部屋で行平たちに、松野の言葉を伝えた。その場にいたものは一様に、「東急百貨店の件は、大蔵省から『飛ばしによって処理せよ』と示唆された」と理解したという。行平たちはその報告を受けて既定方針を覆し、東急とは争わずに損失を引き受ける方針に大転換した。「あのあとで松野証券局長にお会いしました。私が『(東急百貨店の件を海外に飛ばすことは)資金繰りなど自信がありませんので国内で処理することにいたしました』と述べたところ、松野局長から言葉をかけられましたね。『ありがとうございました』だったか、『ご苦労様でした』だったか。そんな言葉でした」。

なぜ大蔵省が見逃したのか。国鉄民営化、JRの93年の売り出しの際、少しでも売り出し価格を上げるために、その参考指標である「東急電鉄」の株価を上げる必要があった。東急百貨店は東急電鉄の完全子会社で、東急電鉄の決算に悪い影響を与える要素は東急電鉄の株価を下げ、従ってJRの売り出し価格が下げることになる。後に野村證券と稲川会、石井進による東急電鉄買占め事件も同様の理由で、大蔵省主導に利用された証券業界という噂がある・・・。