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南王国を滅ぼしたのは、北を滅ぼしたアッシリアではなく、それに代わって興隆したバビロニアであった。そして、それからバビロン捕囚がはじまる。もっとも全員がバビロンに移されたわけでなく、いわば指導者階級が移され、残りのものはバビロニアが任命した総督に支配されていた。最初の総督ゲダリヤは過激派に暗殺されている。この捕囚が何年続いたかは、捕囚も帰還も二次以上に渡っているので正確に数えにくいが、いずれにせよ彼らはペルシア王キュロスがバビロンを占領したときに釈放された。占領は紀元前539年、翌538年にユダヤ人釈放の布告があり、この年にパレスチナへの第一次帰還が行われ、ついで二次帰還、さらにその後にも帰還があったと推定されている。っこれでバビロン捕囚の終わり、第二神殿期の始まりとなる。第二神殿期というのも非常に漠然とした言い方だが、捕囚から帰った人々によってエルサレムの神殿が再建され、神殿が政治の中心で、祭司侯国といわれる時期、これをユダヤ教の形成期と見ていい。
聖書の「契約」とは?
我々は何の抵抗もなく旧約聖書・新約聖書という。その「約」とはいったい何だろうか。「約」は契約の「約」で、ヘブライ語では「ベリート」といい、ギリシア語では、「ディアテーケー」、ラテン語でゃ「テスタメントム」といい、そこから「テスタメント」という英語になった。旧約という概念は新約という概念があって初めて出てきたもので、大体2世紀にはじまり、それ以前にはなく、現代でもユダヤ教徒は旧約という言葉を使わない。いずれにせよ、「聖書」の基は「契約書」なのである。「契約」という概念が日本人にあるかないかはよく問題になる。だが、この議論にはしばしば概念の混同があるように思われる。というのは契約には4種類あり、通常これを、(1)上下契約(2)相互契約(3)履行契約(4)保護契約、とするが日本人にないのはおそらく「上下契約」で、他の契約概念は定義が明確でなく漠然とはしていても、日本人にもあると思われるからである。たとえば日本にも「忠臣」がおり、「忠臣蔵」もある。しかし当時の家臣は殿様との間に契約を結んでいたわけでなく、またこの契約を完全に履行するのが「忠」だという発想があったわけではない。これは西欧の騎士が主君と契約を結んでいたのと大きな違いである。もちろん戦時中にも、天皇との間の契約を死んでも絶対に守るといった発想はない。この「上下契約」は、実は聖書の中の基本的な考え方であり、絶対者なる神との契約を絶対に守ることが「信仰」(フェイス)すなわち「神への忠誠(フェイス)」なのである。したがってその意味は日本人の言う「信仰」「信心」といった言葉と非常に違う。そして「神との上下契約」という考え方が基となっているので、聖書の宗教は「契約宗教」と呼ばれ、それが明確に出ているのが、俗に「モーセの十戒」といわれる「シナイ契約」である。
空と無 仏教徒聖書の違い
仏教で言うような「空」とか「無」という概念が聖書にあるかないかは大きな問題で、従来の定説に従えば「ない」とするのが普通であろう。新約聖書に「無から」という言葉が出てくるが、この「無」というのは、否定詩とbe動詞だけで表されており、「存在がない」という単純な意味で、そこに「無」の思想を読み込むべきでないと私は思う。「無からの創造」という言い方にしても、これはラテン語時代のもので(ラテン語で「クレアティオ・エクス・ニヒロ」)はたしてそういう発想が創世記にあったかどうかは多くの聖書学者は問題視している。無からの創造という発想は無いと見るべきであろう。
伝道の書の「空」もまた、しばしば仏教的な「空」と混同されるが、そうとはいえず、「空(へベル)」とは元来「息」の意味で、本文を読んでいくと、呼吸のような「空虚な繰り返しの永続」という意味に取れる。伝道の書の1つの大きな特徴として、ヤハウェという言葉が一回も出てこない事がある。神という言葉は出てくるが、ヤハウェは出てこない。伝道の書ができたのは、紀元前250年から200年ごろにかけてであろうと考えられている。ユダヤ人が大きな苦難を迎えた時代があり、そういう時代背景の中に出てきたのが伝道の書の「空」の思想であった。伝道の書をはじめから終わりまで読んでいけばわかるように、いっさいを「空の空」と否定していって、最後に、では一体人間に残るのは何かというと、それは「人間は神よって造られたものだ」ということ、いわば「被造物」ということで、ヨブ記で、最後に神がヨブに語っていることと同じである。人間は神に造られた、このこと以外はすべて無であり空である。そこから結局律法へ戻っていく。造り主である神を恐れ、その律法を守れ、と。それ以外は、何をやっても一切空しい、と。ヨブ記の結末も後代の加筆ではないかといわれている。その詮索はともかくとして、この結末もまた、前述のように「お前は被造物ではないか」という神の言葉と、それへの無知を罪とするヨブの懺悔で終わるのである。


ユダヤ人の国外離散は、バビロン捕囚や王国滅亡時のエジプトへの避難民、また捕囚解放後も現地に残ったものにはじまったと思われるが、その離散(ディアスポラ)の民は、まずます数を増していき、各地にそれぞれユダヤ人共同体ができるようになった。数ではおそらくアレクサンドリアが一番多く、ある時期には全人口の半分がユダヤ人であったという。これはプトレマイオス朝のエジプトが割合にユダヤ人に寛容で、マケドニア人に次ぐ地位を与えたためであろう。政治力は持たなかったが経済はほぼ彼らに握られていた。マカバイ王朝が独立を回復した後、ユダヤ教内の党派として成立したのが、パリサイ、サドカイ、エッセネの三派である。成立次期はいろいろ説があるが紀元前120年から100年ごろとみてよいだろう。このなかでディアスポラのユダヤ人に勢力を持っていたのはパリサイ派で、これはシナゴーグと学校を抑えていたからである。彼らは外国でもシナゴーグを宗教と日常生活の中心とし、外国人の改宗者も受け入れていた。後のこのディアスポラ・ユダヤ教がキリスト教の母体の一つとなった。三派のうちサドカイ派が一番保守的で、トーラーすなわちモーセ五書以外は認めようとはしなかった。彼らは神殿貴族として民衆から遊離しており、民衆への影響力はあまりなかった。わかりにくかったのはエッセネ派だが、1947年に死海の北岸クムランの洞窟でアラブ人の牧童が偶然発見した「死海写本」の中のクムラン文書と、エッセネ派の関係が指摘され、脚光を浴びるようになった。この文書がエッセネ派の文書なら、同時代のヨセフスやユダヤ人哲学者フィロンがエッセネ派について書いたことが大部分裏づけられるわけで同派の全貌をかなり正確に把握できる。それらに従うと、エッセネ派の人々はエルサレムの神殿の権威を否認し、死海の沿岸で一種の僧院体制をとっていた。