発展途上国はなぜ貧しさから抜け出せないのか
kareinaru-ep10-5120.jpg
UNDPにによれば、1960~1967年、発展途上国の方が先進国より大きな経済成長を遂げたのに、発展途上国における一人あたりの国内総生産は1950年代に比較して低下(年率一人当たりGDP伸び率は、アフリカ1.5%、アジア2.2%、ラテンアメリカ1.8%)し、反対に先進国のそれは著しく拡大した(西側先進国3.8%)。また、発展途上国に対する資金の流れや貿易についても同様で、緩和された融資条件の貸出資金は減少し、世界的な貿易の拡大基調に乗って発展途上国の貸出資金は減少し、世界的な貿易の拡大基調に乗って発展途上国の輸出所得は、1950年代よりかなり高かったものの、先進国の輸出がさらに大幅に伸びた結果、発展途上国の世界貿易シェアは、1950年の31%から1960年には21%と下落し、1968年にはさらに18%にまで低下した。


1980年代=失われた10年
1980年代は、開発のための[失われた10年]といわれる。一次産品の価格は、1970年代には資源ナショナリズムの台頭と原油価格の高騰によるインフレ期待から年率10%を超える大幅上昇を記録したのに、1980年代に入ると、年々価格は低下し、ついに1986年には1980年の価格の約70%にまで下落するにいたった。そして世界的な不況を受けて発展途上国の成長も鈍化した。1980年代に入ると、発展途上国は、一人当たりGNP成長率も平均すれば発展途上国の方が高い経済成長を遂げた者の先進国より劣る年があった。また発展途上国の地域的な発展の格差は顕著で、東アジア、東南アジアは輸出競争力を高めて製品輸出を急増させ、急速な経済発展を遂げたのに対し、中東諸国の経済は原油価格の急落により緊縮財政の運営を強いられて低迷し、中南米地域の年平均GNP成長率はマイナス0.4%、サブ・サハラ地域(サハラ以南の地域)は食糧問題や重い債務負担を脱することができず、GNP成長率はマイナス1.7%であった。
特にLCD(Least developed country後発開発途上国)は、1971年アフガニスタン等24カ国がLDCに認定されてから毎年のように増え続け、1991年には約2倍の47国に達した。LDC認定国に属する人口は世界人口の8%を占めるのに、世界のGNPに占める割合は、わずか0.5%になってしまった。そのため1%から5%の合理的なGNP成長率を遂げた国に属する人口は76.1%から37.2%に減少し、反対に1%以下のわずかなGNP成長率に甘んじた国に属する人口は、13.3%から29.6%と約2.5倍に増加して多くの人口が経済発展の恩恵を享受できなかった。このようにして豊かな国に属する人々と貧しい国に属する人々の収入の格差は年々増大し、上位20%と下位の人口の収入の開きは、1960年には30対1であったのに1989年には59対1と約2倍になった。この収入の格差は一人当たりの平均収入を比べたものであるが、発展途上国における国内所得格差は著しく、これを考慮に入れれば上位20%と下位20%の収入の開きは150対1を超えると推定される。地域間格差・富めるものと貧しい者の収入の開きは、今後改善するどころか、ますます拡大すると見込まれている。
都市人口の増加
1970年代以降、発展途上国の人口増の中心的要因となったのが、人口の都市への集中と貧困である。発展途上国における都市人口は、1950年代から急速に増加し始めたが、それでも都市人口の実数を比べると1970年ころまでは発展途上国よりも先進国の方が多かった。しかし、1970年ころを境として、発展途上国の都市人口は先進国のそれを超え(発展途上国では国勢調査が完全に行われず、特に都市スラムの人口は把握が難しく、調査に上がって来ない数が多いことを考慮に入れると、発展途上国の都市人口は、現実にはもっと多いものと思われる)、2000年には、発展途上国の都市人口は先進国のそれの2倍を超えると予想される。
都市人口の増加傾向は、発展途上国のみならず先進国でも見られる共通の現象である。先進国の農村人口は、農村に人口扶養力がありながら、1950年以降減少傾向を示し、都市人口は自然増加とともに農村人口を吸引する形で起こっている。これに対し、発展途上国に特徴的なのは、見るべき産業も無く、したがって都市に労働力を必要とする吸引力があるわけではなく、農村が扶養できずにそこから溢れ出した人口が都市に流れ込み、都市経済から締め出された貧民とともに都市スラムを形成し、そこで爆発的な人口増を引き起こしていることである。そして、この人口増の主たる源は、都市への人口流入ではなく、都市スラムの自然増であろうと推定される。なぜなら、農村の生産形態に変化が起き、自作農としてかつかつの生活をしていた者が土地を手放して農場労働者と鳴り、さらに借金のために農村にもいられなくなって都市に流入するような経済難民の場合も、開発による環境破壊で立ち退きを余儀なくされた環境難民の場合も、それ自体が幾何級数的に増える性質のモノではなく、それが自然増をせずに流入した人口を維持する程度にとどまっている限り、発展途上国における都市の人口爆発に結びつくとは考えられないからである。
都市スラムでは、人々は、住むところも職も無く、スラムに住み、彼ら独自の物品の販売、港湾の荷役、ゴミからの有用品の回収などを行い、貧困の中で生活することを余儀なくされており、人口爆発はとりもなおさず貧困の爆発なのである。出生率を決める決定的な要因は、子供を持つことによる経済的利益、例えばモノ売りをさせるなど労働力として利用したり老後の面倒を見てもらう利益と、子供を持つことによる経済的支出、例えば教育費、扶養費のほか、子供を持つことによる精神的喜びあるいは負担の相関による。貧困な場合、教育費がかからないだけでなく、労働力としての期待が大きいため、貧困な人々はたくさん子供を持ちたがる傾向にあり、一般にGNPの増加と出生率の低下とは正の相関関係があることが知られている。
緑の革命 社会構造を考慮に入れない食料増産
貧困を食料の面から解決しようとしたのが「緑の革命」である。発展途上国には絶対的貧困にあえぐ人々がいて、彼らの食糧が不足しているのであれば、豊富な労働力が物を言う労働集約的な農業によって多収穫品種を栽培すれば、飢えから自由になれるのではないだろうか。「緑の革命」はこのような単純明快な考えから発展途上国における食糧危機を克服するため、ロックフェラー財団がはじめたもので、メキシコは小麦・トウモロコシなどの食糧増産に成功して食糧輸入国から輸出国にまで成長した。またアジアにおいてはロックフェラー財団とフォード財団がフィリピンに設立した国際稲作研究所が米の多収穫品種を開発した。このようにして、小麦やコメの新種は北アフリカ諸国から、トルコ、インド、パキスタン、フィリピン、台湾などに至る広範な地域で栽培されるようになり、穀物収穫量を一気に引き上げた。では、「緑の革命」は発展途上国の食糧問題、特に貧しい人々の食糧付属を解決したものだろうか。答えは残念ながら「YES」とはいえず、しかも、もっと悪いことには「緑の革命」は貧富の差を拡大する結果さえもたらしたのである。
コメの多収穫品種は主にインドで栽培されたが、東パンジャブ地方では農民の収入を引き上げるなど驚くほどの成果を上げた。この地方は、インドには珍しく土地の分配が公平であり、水利権なども比較的平等に利用されていた。ところが、インドの他の地方、例えばビハール州では、小農が「緑の革命」から取り残されて土地を手放し、大農はそれを買い占める一方、労働集約的となって一見その必要性が増加したと思われる小作人をおいたてる事件が相次いだ。多収穫品種は、在来種に比べて、収穫は多いけれども病害虫に弱く、肥料など栄養分を大量に必要とし、頻繁に適度な水を与えなければ生育が難しい。発展途上国の気候条件は気ままで雨季と乾季があり、水利の便を整えるのは容易ではなく、多くの場合、水利権=感慨を利用できるのは大農に限られているばかりか、除草剤、殺虫剤、肥料など在来種には必要無かったものを購入しなければならない。そのようにカネがかかるものを買えるのはいきおい大農に限られ、小農はただでさえ借金を抱えているために到底無理である。それにこのように資本集約的でもある多収穫品種の栽培は、小農が仮に無理をしてこれらの生産資材を手に入れたとしても、規模の論理がモノを言うため、大農ほどには費用効率が上がらない。そこで、小農は借金せずに従来どおり在来種を耕作しても収穫が上がらず発展から取り残され、また、無理をして借金しても、結局その返済ができずに追いたてを食うほかないのである。大農は小農が手放した土地を安く買い占め、ますます生産を増やして豊かになった収入でトラクターを買うなどして農業を機械化して親子代々雇用してた小作人をクビにし、余った作物は輸出に回せばよいわけである。
このように「緑の革命」は、発展途上国の貧困・飢餓の元凶たる土地問題(土地の分配の公平性)をそのままにして行われたため、貧困・飢餓を解決するどころか、かえって問題を深刻化した。例えば南米では17%の土地所有者が90%の農地を所有しており、農村人口の1/3以上がわずか1%の農地に押し込められている。アフリカでは農村人口の3/4がわずか4%の土地に押し込められている。インドでは東パンジャブ地方のような例外的な場合を除けば、農民の20%は土地を有していない小作または農場労働者で、わずか10%の農民が農地の半分から3/4を所有しており、残りの70%の農民の大部分は貧しい小農で、彼らの所有農地は合計しても農地全体の3~4%にしかならない。インド、フィリピンをはじめとする国々は名目的には農地改革を行ってきたものの実効はまるで上がっていないのが実情である。その上、多国籍企業は、多収穫品種の栽培に欠かせない肥料工場のプラント建設に食指を伸ばし、その建設融資に世銀などが乗り出して、現地でまかなえる材料があるのに海外(多国籍企業)からの原料が使われるなどの例は少なくない。これでは世銀などの融資が多国籍行の後押しのためなのか、世銀に拠出している国の国民はそのために税金を負担しているのかなどという疑問がわいてくる。このようなやり方は多国籍企業を富ませるだけで、世銀からの借款のつけは肥料を買うことなく、その恩恵を受けることも無い貧農の肩にもかかるわけである。このような不合理は、何も肥料工場に限られず、農作物輸出振興の名目で行われる灌漑用設備についてもほぼ同様のことが言えるのである。
【海外の差別被差別構造】
2014.08.01 バリに行ってきました 1/4~日本人優遇
2014.07.02 実録ラスプーチン 5/8~女帝アレクサンドラ
2014.03.20 人名の世界地図 2/2~民族を示す名前
2013.12.13 バンファイパヤナーク観測計画 6/11 ~シラチャの夜、起死回生
2013.05.10 わが闘争 上 民族主義的世界観 7/7 ~賛同しかねる民族規定
2013.01.22|民族世界地図 2/2
2011.02.28: アジア発展の構図 ~ASEANの発展 3/4
2010.09.27: 世界四大宗教の経済学 ~ユダヤ批判
2009.07.15: 無差別な世界に思える国際都市
2008.01.09: どうでも良い芸能ネタも外人相手だと