日本において、古来から稲作がおこなわれ、これを中心とする村落共同体が形成されて、それが水管理と共同作業の必要性から、異なった思想や行動を厳しくチェックする伝統的な秩序社会を形成した。その基盤の上に幕藩体制が敷かれて人々を支配し、秩序社会を一層強固なものとしたため、自由で合理的な個人の能力を圧迫し、市民社会の形成が遅れた。そのほか、長期にわたる鎖国政策と、海で外界と隔てられた地理的条件のために、個人の思考・行動パターンは、国・藩・村・家といった枠の中に閉じこもり、世界的な視野に欠けるきらいがあって市民運動もその例外ではない
日本と西欧諸国の市民の物の考え方、行動原理がこのように違っている理由は、学校教育の違いに遡ることもできよう。西欧諸国における教育の基本は、現状、事実の分析と、その原因、およびそれらを前提として何をなすべきかであり、自ら考え行動する人間を作るためになされる。他方日本における教育は、明治以来、欧米に追い付くことを目指したいわばHow TOと実学であって、根本的な理念や哲学は既に存在することを前提としており、近頃過熱気味の受験戦争のためますますテクニックに堕するものとなっている。このような教育の結果、多くの日本人の行動がステレオタイプで均一化していることは、静的な世界に対する効率的な対処の仕方としてのみ有効である。日本人の多くはなぜそうするのかといった基本的な問いをそもそも発せず、また発したとしても、その問いまたは答えが行動を規定する原理とはならず、机上の空論として語られ、成立するのみである。それでは激しく変化する世界に正しく対応する考えも行動も生まれない。
したがって、市民運動と言っても、グローバルな視野に立って、真に援助や支援が必要な所に援助を行おうとする動きを示すものは、まだわずかである。そして、一部の市民運動には「お上」に対峙することを自己目的化したノイジィ・マイノリティの行動と見られても仕方が無い一面がある。彼らの中には、国内の問題を国内のみに限定された視野から、国際的に見ればバランスを失すると言わざる得ない過大評価をしたうえ、国内で適正な手続きを踏んで十分な議論を尽くさず、国際的なフォーラムに持ち出し、自国の政府批判のみをこととして、他には目もくれず、現地観光をした後、帰国して、ひたすら外圧を期待するといった行動を取るものがある。このようなふるまいは、グローバルな視点に立って活動している西欧諸国のNGOにとっては奇異な現象であり、日本人は、国際的視野と取り組みに欠けるとの批判を招きかねない。