第9章 マジャパイト王国の没落とヒンドゥー政権の消滅(15~16世紀初)
アヤム・ウルク王の死去をもってマジャパイト王国の歴史の転換期とするのは、いささか独断にすぎる。1389年以後しばらくの間はそれ以前と全く変わりなく、新王国の登位は外見上何ら変化ももたらしていない。しかし、ヴィクラマヴァルダナ王の治下において強大な王国の没落を示唆する最初の明確な徴候がうかがわれるのは事実であり、1429年のこの国王の死去の当時を40年前と比較すると国力の衰退は明瞭である。こうした極めて急速な仮定の原因の十分な解明は困難である。最も重要な原因の1つはイスラム教の進出であり、これが宗教上の転換期においてジャワ社会を分裂させ、当時の政治上の対立を激化させている。ジャワの北海岸地帯がイスラム化されるとともに、現地の支配者達の間に漸次積極化しつつあった中央政権にたいする自主独立的態度が強化され、これが宗教上の対立によって促進されることになる。経済上の要因もまた影響している。マラッカ海峡の商港としてのシュリーヴィジャヤがジャワによって意識的に放棄されたように思われること、またマラユが一度パレンバンおよびマラッカ海峡を隔てた対岸に進出することによって、ある程度ジャワの失地を埋めた。


スヒター女王の登位
女性は赤で囲った。
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ヴィクラマヴァルダナ王がバガヴァーンの称号を受けたとする記事に続いてパララトンが、統治権を行使する女王を意味するバターレーストリ・プラブが登位したとしていることが注目される。この史書は、これより以前の記事に、国王の娘(正妃を母としない)で、プラブ・ストリという称号をもつデーヴィー・スヒターという名の王女を取り上げている。パララトンの記事について、前期の説では1400年から1429年までスヒターが、父の補佐のもとに統治し、1429年から1437年まで空位、この後女王のブレ・ダハが王位に就き1447年に死去したものとしている。
内戦の勃発と王族の動向
スヒターが仮に1400年に登位していたとすれば、これが間もなく発生した内戦の重要な要因の1つになったであろう。ヴィクラマヴァルダナ王の王妃を母としない王女が王位に就いたとすれば、身分が低いとは言え、アヤム・ウルク王の妃であった女性を母とするヴィーラブーミが、それを不満とするのは当然とされよう。これに加えてヴィクラマヴァルダナ王の正妃を母とする、疑問の余地の無い正統の王位継承者とみなされる王子が前記の如く、1399年に死去したことがヴィーラブーミの態度を変化させたとする推測は妥当であろう。1401年に最初の戦闘が発生しているが、この後1時的な休戦があったようである。3年後の1404年にいたって大規模な戦いが始まり、1406年に終結している。
ブルネイの中国遣使
ヴィーラブーミ政権が東部から消え去り、ジャワ王国の統一は回復された。しかしこの事件は群島におけるマジャパイト勢力の弱体化という代償があった。ボルネオ西海岸の惇泥は、中国に接近し、ジャワの宗主権から離脱しようとする動きを示していたが今や好機到来と見て、積極的に行動し始めた。皇帝は使節の派遣を3年の1度とし、ジャワに対しては貢納を要求しないように勧告する勅書を送っている。パレンバン(三仏斉)に対しても中国は動揺の政策を試みている。
マラッカ王国の建国
マラッカ王国の経緯については、リスボンの王立植民地文書館に保存されている資料に依拠するバラスの所に記されている伝説が最も詳細な知識をもたらすことになる。ジャワの王位争いによる内紛の結果パラミソラという人物がシンガポールに避難し、この地で彼を保護したサンゲシンガ王を殺し、その宗主国シャムの王によって追放され、ムアル河畔のパゴに定着し、セラテス(海賊)の支援によって、ポルトガル人がインドに来航する約250年前にマラッカを建設したとバロスは言う。そうするとマラッカの建国はサジャラ・マラユなどのマレー伝説をもとにファレンテインが主張している1250年頃とされよう。
スンダのイスラム化
1522年にエンリケ・レメ指揮下のポルトガル船隊がマラッカから派遣されているが、それ以前にアルブケルケがこの地の異教徒王サミアンつまりサンヒャンと接触しており、この王の支配する港でポルトガル人たちは好遇され、友好協定を結び、スンダ・カラパを貫流する河川の右岸に城塞を構築する許可状を得た。種々の事情のためポルトガル人が実際に城塞を築くためスンダ・カラパに来航したのは1526年であった。しかしこの時、スンダの事態は一変していた。この地は既にイスラム化しており、パセ出身のファラテハンという名の人物が、ジャパラ王の支援の下にスンダ王国を征服し、その首都を支配下に置き、この当時バントゥンを拠点としていた。ポルトガル人は目的を達せずして引き揚げざるを得なかった。スンダが1522年と1526年の間にイスラム化していることは確実とされよう。内陸部に退去した異教徒政権は、この時期から60年後にいたってバントゥンを拠点とするイスラム勢力によって滅ぼされる。
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