この本を読むのは、中国と韓国が小さな島をめぐって、ゴニョゴニョやっていることも多少影響している。我々日本人は、まず領海という意識を持って、この問題を考えてやらないと、中国と韓国の気持ちがわからない(ケチらず領土を譲ってやれという意味ではないぞ!)。日本がいかに広大な海を支配しているか、そして、彼らは日本が閊えていて、一切、東に出ることができないという苦しい事情があることは地図を見れば一目瞭然である。中国から見ると、日本は本州は元より、遥か南に沖縄があり、さらに沖縄から与那国島まで、台湾ぎりぎりくらいまで島が点々と存在し、台湾を越えれば、アメリカが実効支配しているフィリピンがあり、中国の太平洋進出を完全に取り囲む包囲網ができあがっている。
中国がやってることは日本を占領しようとしているのではなく、「日本さん、ちょっと道を空けてくれませんか? たくさんの子供たちがお腹をすかせて私を待っているんです。」という悲痛な母親の主張に近い。
見てくれ、この中国の細い海路を。なっ?
EEZと領海と領土を合わせた国別順位はこちら。
東京の島
基地と人権 2/2 ~国土と基地
自治体財政と基地
基地を抱える地方自治体は米軍の持つ税法上の特権によって税制上の様々な制約を受けている。米軍は日本国内で「保有し、使用し、または移転する財産」について租税その他類似の公課を賦課されない。また米軍人、軍属およびその家族は「米軍や軍の付属施設等から受ける所得」について日本の課税権者に対し租税納付義務を負わず、「一時的に日本国にあることのみに基づいて日本国に所在する有体又は無体の動産の保有、使用、これらの者相互間の移転、死亡による移転」について日本国の租税を免除される。「関税法臨時特例法」、「所得税法臨時特例法」、「地方税法臨時特例法」等が制定され、課税当局に対し、米軍について一定の場合に非課税扱いとする法的根拠を与えている。この免税特権のため米軍基地を抱える地方自治体は、地方税法に基づいて賦課できるはずの固定資産税、都市計画税、市町村民税、事業税、不動産取得税、料理飲食税等いろいろな地方財政の収入源を失う結果となった。
基地と人権 1/2 ~米兵の特権
在日米軍基地の法制上の根拠は、日米安保条約と同条約6条に基づく米軍地位協定である。基地は、いうまでもなく在日米軍の活動を支える人的物的施設であるから基地をめぐる法的諸問題については、米軍の法的地位を含めて全体として考察しなければならない。米軍の日本国内における駐留と軍事基地の存在およびそこでの米軍の行動を保障する法体系は、いわゆる安保体制あるいはサンフランシスコ体制と呼ばれる日米間の条約による「安全保障」にかかわるもので、前述の安保条約および地位協定を頂点とする関連条約および国内特別法等によっていわゆる安保法体系を形成している。安保法体系は条約と名付けられたものだけでなく、「協定」「交換公文」「議定書」「合意議事録」「往復書簡」等さまざまな名称のものがあり、これらはいずれも日米両政府間の合意に基づくものである限り、その名称の如何にかかわらず条約としての効力を有するものであって、その内容はかなり複雑であり、また通常の国内法と交錯していて一般国民にとって極めて分かりにくいものとなっている。
飯島愛 孤独死の真相
飯島さんが借りていらしたのは月極賃料100万円クラスの物件ですが、業界的にこのクラスの家賃を払う人は、水商売か政治家、ヤクザ絡みが多いんです。それ以外だと外資ですね。ですから貸す側もこのクラスになると借り手の素性は一切聞きません。先に挙げたいずれかと相場が決まっているわけですからね。渋谷インフォスタワーの21階はデータだけ見ますと、業界で一般にいわれる所のリート物件です。この物件で目を引くのは、飯島さんの部屋の所有者として当初名前を連ねていた人物です。設計業界で超一流の建築士、ソニービルや東京芸術劇場などの建築で有名な芦原義信氏の名前がありました。正確には芦原氏の建築会社。また芦原義信氏は2003年に他界している。
マンションの部屋で倒れている飯島愛を発見直後の24日午後3時15分頃、「室内で女性が倒れている」とい119番通報がされている。報道では、「遺体はリビングの床でうつぶせに倒れていたところを発見された」とするものが多く見られるが、捜査関係者に後日改めて問い直してみたところ多少の違いがあった。リビングのいすに座り、机に突っ伏したような格好だった。服装は普段着だった。部屋の鍵とチェーンがかかっていた。玄関のドアを開けるとすぐにわかるくらい異臭がひどかった。注射器など覚醒剤に関わる物は無かった。(遺体から一度は陽性反応が出たが)覚せい剤使用、所有の疑いが無くなったため本格的な家宅捜索はしていない。彼女の部屋は暖房がつけっぱなしで、暖かい室内のためか腐敗が進行していた。また腐敗が進んだために、唇の皮膚が圧迫されて、歯が唇を突き破るように飛び出した状態だった。腐敗が進行して、特に腹部からわき腹にかけての崩壊がひどく、内臓の一部が飛び出しているよな状態だった。
薬物検査キットでクロと出た場合、本鑑定でもクロとなることの方が圧倒的に多いんです。飯島さんが風邪薬を服用しており、その中のある成分が薬物反応を示したのでは、という報道もありましたが、これは明らかな間違いです。
彼女が死ぬ間際まで頼っていたと目される大物芸能人がいる。日本を代表する御笑いの大御所、志村けんだ。実は、愛が遺体で発見された2008年12月24日に、まさにスタートさせようとしたコンドームを売るネットショップの設立に、志村の大物タニマチが深くかかわっていたという事実が浮き彫りになってきたのである。
綾瀬コンクリート殺人事件と1枚の写真
愛には、ネット上で飛び交っている都市伝説化した噂がある。有名なものとしては、「綾瀬コンクリート殺人事件で、彼女は直接犯行関わっていないみたいだけど、彼女の彼氏が主犯格らしい」といったものだ。「実は”綾瀬コンクリート殺人事件の犯人ら数名、そして被害者女性と飯島さんの4-5人が一緒に写っている写真”が存在するという噂がありました。誰もそんな写真を見たことは無いと思うのですが、これをネタに飯島さんが長年にわたって、ある集団から脅迫を受けていたという噂まであるんですよ。」
ぇっ?これでおしまい? この程度のネタで本書いちゃう? 2ちゃんでも見ながら書いたのか??
ヤナギサワの死因は覚せい剤による薬物中毒、肺気腫と診断された。彼の薬物使用はニューヨークに行ってから始まったものではなかった。実は愛と付き合う前からすでに覚醒剤に手を出していたようだ。
愛は自分に課した純愛の誓いを次のような叫びで吐き出していた。
今日でもう7年と38日SEXしてね~(2006年2月21日5時8分2秒)
これが本当ならヤナギサワが疾走し、2人の恋が破局してから彼女は「セックス」をしていないことになる。
飯島愛の引退劇については、ここまで紹介してきた流れがベースにある上で、さらにきっかけとなった事件がある。それは彼女の個人事務所の会計士が1億円ものお金を横領したというものだ。愛がAV女優をしていた頃に設立してあった「アトリエココット」という名の個人事務所に、彼女に関する権利関係は全てこの会社が保有し、講演会や出版などの契約料や印税のほとんどがこの個人事務所に入る仕組みになっていた。
彼女が美容クリニック開業に奔走していた当時を知る、美容クリニック関係者の証言がある。「彼女は私に医療法人の名義貸しをして欲しかったようなのです。これはもちろん違法ですから、うんとは言えなかったわけです」
「投資会社幹部」「イケメン社長」「飯島愛のビジネスパートナーのX氏」と、マスコミに噂されていた人物がいる。このイケメン社長は志村けんの有力なタニマチの1人と言われている。その青年社長、キクチ氏は、六本木クラブ「M」の実質的なオーナーであり、この他にも複数の企業を率いる敏腕の経営者である。志村けんのグッズを扱う「志村本舗」のスポンサーでもあり、「志村本舗」の運営を手掛けているのだ。キクチ氏が資金協力する形で、愛は死ぬ直前、コンドームをネット販売するための株式会社を設立している。株式会社SIS。所在地は文京区となっており、愛が51%の株式を保有してこの会社の社長になっている。
しかし、事業のスタートを目前にして、なぜかキクチ氏からの資金が突如ストップしてしまった。事業がとん挫し、愛は落胆した。「キクチ氏には大きなプロジェクトを進める時にアドバイザーを務める公認会計士タナカ氏がいるんです。これまでにも2人は何百億というお金を動かすビジネスを大成功させてきました。ところが昨年10月、そのタナカ氏が代表を務める会社に対して東京国税局が強制捜査に入ったんです。タナカ氏の会社が企業買収の際に不当な利益を得ていたのではないかと疑われたからです。キクチ氏には不運としか言いようのない事件だったが、信頼していたタナカ氏の会社に国税局の強制捜査が入ったことで、キクチ氏が愛のビジネスのために用意していた資金を動かせなくなってしまったのではないだろうか。
飯島愛 孤独死の真相―プラトニック・セックスの果て 田山 絵理 双葉社 2009-03-20 |
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迷走日本の原点 2/2 ~四権分立
GHQは「過度経済力集中排除法」という法律を作り、325社に及ぶ企業を細かく分解しようとした。GHQ内部では、ニューディール派と呼ばれる極めてリベラルな理想主義者が力を得ており、彼らは本国のアメリカでもできなかった独占資本を破壊する革命的な政策を日本で実現させようとしたのだ。しかし米ソ対立が深まるにつれて米国防総省は1947年半ばに日本弱体化の方針を転換し、日本を極東における反共の砦と位置付けた。有力週刊誌「ニューズウィーク」も、集中排除政策は日本の経済をダメにするとの大キャンペーンを行い、米政府は極端な統制経済策を退け、11社のみが分割された。この時対照的だったのが銀行である。GHQは官僚制と金融機関には手をつけませんでした。官僚は彼らが日本間接統治のためのテクノクラートとして必要としていたからです。銀行は、日本の銀行がアメリカの銀行と同じだと誤解していたからでしょう。アメリカの銀行は基本的に商業取引の決済のための銀行であり、地域密着型で本店しかないという類のものが珍しくなく、その延長線上で邦銀を考えていた。別の要因として、ニューディーラーの発想は、証券民主主義の育成だったと思います。お金をもつ人々が自由に投資することによって、お金を一種の投票権として使って企業の評価をおのずと決めていくという発想です。大衆民主主義的な証券市場を彼らは想定し、それで銀行に手をつけなかったのではないか。
GHQの依頼で来日したシャウプ博士らによる勧告は全面的に採用され、50年から新たな税制が施工された。シャウプの提唱した税制は、納税者主権主義を謳っていた。納税者が意識しにくい間接税が退けられ、直接税が税収の柱。地方自治を重視する結果、地方自治体は各々独立した税を持つべきであるとし、都道府県税を負荷価値税を中心に組み立て、住民税を廃止する案だった。シャウプ税制が導入された時の蔵相池田勇人は著書「均衡財政」の中で「私はシャウプに別段日本の税制について理論的な勧告をしてもらう、というつもりはなかった」と書き残している。人々は明日の食事に事欠き、政府はシャウプの目指した理想的な税制実現に向けての努力よりも、とりあえず目前のニーズを満たす応急措置に着手した。この時シャウプ税制を最も鋭く突き崩す道具となったのが租税特別措置と呼ばれる税の控除制度である。現在に至るまでこの租税特別措置は大活用されており、その数は80種類を越える
税の仕組みで最も大切なことは分かり易さである。税制はbん人が理解できる制度でなければならない。約80種の租税特別措置の中には、私たちにもなじみのある生命保険料の掛け金の控除や医療費の控除、扶養者控除、損害保険料控除、社会保険料控除、共済掛け金控除、青色申告控除等もある。
先進国の中で、原則としてサラリーマンは確定申告は必要ないというスタンスを取っているのはおそらく日本だけでしょう。行政はサラリーマンの確定申告制を導入すると日々の業務が増えて対応しきれないといいますが、米国のサラリーマンは日本より数が多いはずです。それでも日本の国税局に当たる内国歳入庁の職員数は日本の税務署員とほぼ同数です。やれないはずないのです。
目的は社会主義革命
日本の教育の大きな分岐点だった70年代、教育界では日教組と自民党政権が激しい対立を繰り返して来た。日教組のキーマンは槙枝元文氏だ。氏は71年に日教組中央執行委員長に就任。以来4期12年間、日教組委員長を務めた他、76年には日本労働組合総評議会議長にも就任した。教育行政は政府とつるんでいたのです。自民党と文部省ががっちり組んで、教育の内容にまで口出ししていました。これは教育基本法の10条に反することです。」 「基本法第10条は”教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接責任を負って行われるべきものである”と定めていて、第2項に”教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標”と書いてあるのです。教育行政は教育の内容に立ち入ってはならない、行政が行うべきは1クラスを何人編成にするか、教員の給与をどの程度にするかなど、理想的な教育可能にする環境作りです。にもかかわらず自民党は政治の意見で教育内容を変えようとしました。」
こう述べる槙枝氏に文部大臣の奥野誠亮氏が反論した。「当時日教組は総評の中心的役割も演じていました。私は文部大臣当時、日教組は社会主義革命に参加するものと自ら認定している団体だと言い、文教委員会では激しい批判が出増しあが、それは事実で下からそのままに終わりました。当時学校の現場では、国旗国歌をめぐって大混乱が続いていました。で、私は、校長先生たちに言ったのです。私たちは国籍不明の人間を育ててもらおうとは思っていない。日本人を育ててもらおうと思っているのですと。日教組は反発してストを連発しました。しかし、文部大臣としては当然の発言です。」
GHQはまさに槙枝氏とほぼ同じことを目指していた。GHQの「民間情報教育局」CIEの教育班長ホールは、45年11月21日に文部省の有光次郎教科書局長に、子供たちに教える感じの数を減らすように命じている。漢字は初等科6年間で1000字、中等科で500字の1500字くらいに制限せよ、印刷は左から右にせよ、という内容だった。「外国人に日本語を読みやすくする。日本の庶民に法律、新聞を読みやすくする」という理由だ。だが、ホールの目論見はもっと別のところにあった。対日占領政策立案の中心人物、極東小委員会議長のドゥーマンに宛てたホールの「日本の公用語のカタカナ統一」と題された覚書を見ると、同署は、連合国の軍事占領中、「日本語の書物は悉く押収し、図書館がこれを管理し、日本人が漢字を使用することを禁止して日本語をカタカナに統一することを勧告」していたのだ。そしてホールは覚書を次のように締めくくった。「漢字は非常に難しく、習得には長い期間を要するので、一定期間追放すれば二度と息を吹き返すことは無い。話し言葉で生きながらえるようなものではない。10年間も漢字教育を禁止すれば、必ずや漢字は『死語』と化するであろう。」つまり漢字教育を気にっして、日本文化から永久に追放してしまおうというものだ。漢字を含めて国字を無くさせ、言葉を失わせようと政策は、民族の心を奪う許し難い行為である。
槙枝氏が語る。
「GHQは文部省を廃止する方針だったから、日教組の前身の全教協と全教連が陳情して残してもらったんです。理由は四権分立の思想です。教育はもはや絶対に政治や行政の介入を許さない。行政は校舎や体育館を建て、教員の給与を上げ、教育の条件整備だけをやり教育の中身には口出ししないというのが四権分立です。三権に加えて教育も独立するという考え方です。この四権分立下で文部省が残ったとしても、教育には影響しない。輪r我のために予算を取るだけの機能ですから、存続させても構わないということです。」
こうしてGHQが日教組の陳情を受け容れ、文部省の存続が許されたわけだ。「あの頃は文部省と日教組はベッタリでした。団体交渉も相互の本部で交互にやっていましたし、蜜月の断交と揶揄されたりしました。」
日本の米農政の壮大なる失敗が、今や国民に不当な財政負担を強いているだけでなく、日本外交の基本方針を大きく狂わせている。2000年10月4日に決定された、北朝鮮への50万トンのコメ支援は一体何を意味するのか。河野洋平外相は、拉致及びミサイル開発問題など、懸案事項の「解決に至る環境整備に役立て」、「自分が全責任を取る」と述べて、50万トンの支援に踏み切った。50万トンという量は、国連世界食糧計画(WFP)が要請した19万5000トンを日本一国が引き受けるだけでなく、要求を遥かに上回る量だ。この異例中の異例の日本の援助はコストにして1200億円もかかる。極めて異例かつ高額の同支援は、外相の言葉とは裏腹に、解決には何の役にも立っていない。理由は明らかだ。同支援が外交政策からではなく、農政の失政を粉飾する国内政治から生まれてきたにすぎないからである。
普通、主権国なら国民が拉致されていてその拉致問題で何の進展も無い時、当の北朝鮮に対して、警告を発し、一切の援助は解決のめどがつくまで控えるのが定石である。だが、そのような可能性を検討もせずに、異例かつ高額の援助を渡すのは日本国民の生命や安全をないがしろにする政策である。そんな政策に河野外相を駆り立て、日本政府を援助に踏み切らせた一つの要因がコメ余りである。現在、余剰米は355万トンに上る。適正備蓄量は150万トンとされているため、2倍以上もの古米、古々米、古々々米が積み上げられているわけだ。保管にはコメ1トンにつき、1年間で12000円、今年だけで保管量は426億円が必要ということになる。355万トンの中には95年のコメが41万トン、96年分が82万トンも残っている。97年時点の余剰米は450万トンに上っていた。保管料だけでも莫大な額に上ることがわかるが、さらに酷いのは、あまりに古くなったコメは、家畜の飼料用に回されることだ。年によっても異なるが、2000年度に言えば、トン当たり252,000円ほどの生産者米価で買い取ったものが、飼料用といて放出される時はトン当たり13,000円程になった。一連の保管・処分などを含めると、国民の財政負担は1兆円規模になる。日本人のコメに関連する負担は、単に保管料に留まりません。米価そのものが世界一高いのです。日本のコメは、1俵(60キログラム)当たり平均で、15,000円で農協に買い取られています。米国は1俵4000円、豪州は3000円です。
【教育一般論】
2012.10.22 北京・ハルビンに行ってきました 8/13 ~北京大学
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2010.10.04: ハーバード大が世界の大学番付首位 vs東大
2010.02.24: 容疑者Xの献身
2011.02.04: 賭博と国家と男と女 ~囚人のジレンマ
2010.01.15: 幼少期からのエリート性教育
2009.11.06: 子育て1人3000万円 その内訳
迷走日本の原点 1/2 ~アメリカの陰謀
行革の歴史は、予算編成権を大蔵省から官邸に移す動きです。これまで2回ありましたが、いずれも失敗に終わっています。一度目は戦前の昭和12年、総合調整官庁として企画院を設立、セクショナリズムのお行政を公益の点から見直そうとしたのです。しかし結局、企画院は予算の大枠を決め、実態としての予算編成権は大蔵に残り、不成功に終わりました。
昭和24年(49年)の秋だったと思うが、新聞の社会面に”泥棒が入って現金を取った”という見出しの記事があり、私がそのことをドッジに話したら、彼は非常に喜んだ。泥棒が物よりもお金に目をつけたということは、インフレが鎮静化し、通貨に対する信用が生まれ始めたことを示しているからである。
アメリカの陰謀
2000年春、米国で衝撃の書が出版された。ロバート・スティネットの『欺瞞の日』(Day of Deceit)で副題は「FDRと真珠湾の真実」である。日米開戦に至るまでの日本側の電報や暗号は全て米国によって傍受、解読され、実は真珠湾攻撃は全てを知りながら黙認したルーズベルト大統領による陰謀だったというのは、これまで繰り返し語られてきたストーリーだ。『欺瞞の日』は、真珠湾攻撃から半世紀以上がすぎ、紹鴎の自由法によって開示された資料に基づいて”陰謀説”が正しかったことを生々しく証明している。
が、同署の意味はそんな言い古された通信傍受や暗号解読を第一次資料で証明したことにとどまらない。衝撃は米国が日本を無謀な戦争へと走らせるための緻密な対日戦略を1940年10月7日に既に作成したことである。これは真珠湾攻撃の1年以上前、日独伊三国同盟が締結された翌月のことであり、米国の「対日開戦促進計画」は、いかにすれば日本を刺激し、憤らせ、退路をふさぎ、打つ手を失わせ、対米英蘭不信感を深めさせ、ついには国際社会の謗りを受けるような回線に追い込むことができるかを8段階にわたる戦略として、構築しているのだ。同計画をまとめた中心人物は海軍情報局少佐のアーサー・マッコーラムである。彼は日本で生まれ、英語よりも前に日本語を話し始め、昭和天皇にダンスを教えた知日家である。日本の文化に通じ、日本人のメンタリティを極めてよく理解していた。その彼なればこそ、日本人を追い詰めるにはどんな手を打てばよいかを知っていた。
「対日開戦促進計画」のまず第一段階は「英国が太平洋地域、特にシンガポールに保有する軍事基地を米国も使用できるよう英国政府と調整する」となっている。この段階で日本側は当然米国の意図を疑うだろう。計画の第二段階は「オランダが保有するインドネシアにおける基地の米軍による使用と米軍への物資の供給についてオランダ政府と調整する」となっている。こんなことをされれば、日本が米国に対してますます猜疑心と敵愾心を高めるのは当然である。第三段階は、「中国大陸の蒋介石政権に全ての可能な援助を与える」とされた。中国大陸で日本と対立している蒋介石に米国が全面的に肩入れすれば、日本が米国を敵視するのは自然なことである。こうして日本を追いつめていったのがマッコーラムの計画であり、ルーズベルトの狙いだった。同計画は最後の第8段階になって、日本との貿易を全て禁止し、日本封鎖に至るがこの事実については周知のとおりだ。
スティネットは開示された原資料のうち、595点を引用しつつ、その他膨大な量の取材を合わせて10数年の歳月をかけて同書を完成させた。日本が米国の望んでいた”卑劣な戦争”へと、坂を転げ落ちるように走らされて行ったかを日本人には耐えきれないほどの迫力で書き出した当時日本国民が狂喜した真珠湾攻撃の”成功”は、計画と作戦行動の全てをものの見事に米国に逐一把握されていたのだ。スティネットの書に描かれる米国の情報量と冷徹な分析は圧倒的であり、一体あの戦争はなんだったのかと考えさせられる。
米国の強さと凄さの本質は情報と論理を徹底的に追及することによって戦略を組み立てる力だ。とはいえ、これが米国の専権事項であるはずがない。情報力と論理力を備えることはおよそどの国家にとっても常識である。例外は当時も今も日本である。第二次世界大戦以来、日本が失い続けているのはこの情報力と論理的戦略的思考である。戦後の日本は情報欠落状態に危機を感ずることも無く、その状況に甘んじ続けた。国家戦略には思いを致しさえせず、国際情勢に目をつぶってきた。池田勇人内閣の所得倍増計画は、明日の食事を賄い、来年の暮らしを豊かにしたが、情報を分析し、国家を作り上げる作業から、さらに遠く日本人を引き離してしまった。
1970年代に旧ソ連が巡航ミサイルSS20を配備し欧州諸国にとって深刻な脅威として対処策が論議されていた時、西ドイツを訪れた日本の首相・福田赳夫はシュミット首相から同件についての意見を聞かれた。だが、欧州そして米国にとって目前の最大の危機と認識されていたこのSS20について、福田首相は、なんと、その存在さえ知らなかったのだ。日本国の世界情勢音痴、なかんずく、安全保障音痴が暴露された事例だ。竹下登元首相も外国特派員協会、通商外人記者クラブの記者会見に臨み、チベットの直面する中国政府の圧力について問われ、勉強不足で分かりませんと答えざるを得なかった。隣国中国の情勢にさえも日本国の首相は目をつぶった状態だったのだ。チベットにもコソボにも、そして国際社会が直面する新たな問題にも、日本は今よりもっと積極的に発言していかなければならない。そのような発言は、問題意識をもってこそ可能である。
迷走日本の原点 (新潮文庫) 櫻井 よしこ 新潮社 2003-03 |
【日本の国家権力】
2013.02.05 巨いなる企て 2/4 ~豊臣衰退の背景
2012.05.28|眞説 光クラブ事件 3/3 ~国家権力との闘争
2012.03.19: 下山事件 最後の証言 1/2 ~国鉄合理化
2012.01.10: 競争と公平感 市場経済の本当のメリット 3/3 ~規制と経済効果
2011.10.12: 日本中枢の崩壊 1/2 東電
2010.10.14: 道路の権力1
2010.07.05: 警視庁ウラ金担当
孫文 5/5 ~革命の情けない実態
共和という言葉は昔からあった。周の昔、厲王が出奔し、戇子の宣王が幼少だったので、周公と召公が協議して政治を行った。その14年間を『史記』は共和の時代という。別の資料によれば、厲王出奔後に共国の公爵で名を和という者が推されて政治をおこなったとする。いずれにしても春秋の109年前の西暦紀元前841年にあたる。1903年はまさにその年から数えて2744年にあたる。国学大師章炳麟の「共和」はけっしてrepublicではなかったのだ。上海の租界には清国の警察力は及ばないが、清国当局が重要犯人を逮捕した時は、工部局(疎開の行政機関)に「照会」しなければならない。いくら照会しても、国事犯ならその照会はたいてい却下される。
保皇会は革命派に比べて、金が集めやすかったはずである。康有為はいまでこそ西太后の勘気を蒙っているが、もとは皇帝の寵臣であった。出自ははっきりしている。学界ではその名を知らぬ者はない。それにくらべると、孫文はどこの馬の骨かわからない。康有為は一説によれば百万の金を集めていた。シンガポールの富豪邱菽園は、康有為に三十万両を拠出したが、自立軍の唐才常の手に渡ったのは二万両だけであった。康有為に住居を提供した邱菽園はまもなく倒産しているが、康有為はその後も優雅な生活を続けている。家産は清朝政府に没収されたのにこれは不思議なことであった。潔白な自分が陶成章っちにあれこれ言われているのに、敵対する保皇派で大金私呑の疑いのある康有為が大して指弾もされていないのが、孫文には不満であった。
1911年は辛亥の年である。同盟会はこの年のはじめに蜂起を予定していた。何度も延期したがそれは武器が集まらないからであり、つまりは軍資金不足の結果にほかならない。孫文はアメリカとカナダでけんめいに募金活動をしていた。華僑の公産を抵当に金を借りるとすぐにその場から香港に送金したのである。金銭問題であれこれ言われるのに彼はもううんざりしていた。なるべく入った金は手元にとどめないように心掛けた。日本から香港に武器を運びそこから広州へ密かに持ち込む。香港は自由港なので旅具検査はほとんどない。武器は小分けにして留学生が携帯荷物として運んだ。
広州放棄は十路攻撃の予定を急遽、四路に縮小することにした。十路攻撃を四路に縮小したが実際に進撃できたのは黄興の一路だけであった。二路は武器受領のため、始平書院へ行っていたが、その間に城門が閉じられてはいることができなくなった。三路は連絡を受けたはずなのにわざわざ人を派遣して本当に今日決行するのかと確かめている。しかも結局出撃しなかった。四路は蜂起の期日が改められたと思い込んでいた。この放棄では防諜を重んじすぎたあまり、相互の連絡に問題があったのだ。
水師提督李準の親兵大隊がやってきたが、蜂起軍から50メートルしか離れていない。林文が「我々は皆な漢人だ。力を合わせて漢土を恢復しようではないか!」と前に出てそう叫んだ。水師の兵が発砲して林文は頭に銃弾を受けて即死した。黄興は指と足に銃弾を受けながら喩培倫と合流するために双門底にむかった。そのとき前方から巡防の一隊がやってきた。じつはこれは革命の同志に率いられた防営の兵士たちである。蜂起軍は腕に白い布を巻いていた。しかし、士官の温たちは総督署に着いてから白い布を配ろうとしていたのである。何も知らない兵士たちが受けるショックの時間をできるだけ短縮しようとしたのだ。「兄弟よ、兄弟よ!」 士官の温は叫んだが腕に白い布を巻いていないで、蜂起軍は敵だと思ってこれを射殺した。防営からも応戦があった。
清朝当局は全国の鉄道を国有化する政策をとった。まだ敷設していない線でも、鉄道が通るというだけで外国からの借款の担保になる。賠償金支払いなどで財源の清朝は、まだ敷かれていない鉄路の線を担保にする以外財源が無いのである。金が無ければ政権の維持は困難である。
何か互いにボロボロ・・・。
【国民意識と愛国心】
2012.09.24 北京・ハルビンに行ってきました 5/13 ~中国の見えない壁
2012.06.21|第二次タイ攻略 4/15 ソンクランと国歌斉唱
2012.04.24: 美しい国へ 1/3 ~国家が民のためにしてくれること
2011.08.26: マハティール アジアの世紀を作る男1/4 ~東南アジアの雄
2010.09.10: ローマ人の物語 すべての道はローマに通ず
2009.08.19: インド旅行 文明という環境汚染
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2008.08.22: Olympicと国家
孫文 4/5 ~辛亥への道
上書の中で康有為は、「職(わたし)は誠に煤山の前事を見るに忍びない。」という表現を使っている。「煤山」とは石炭の山であり、紫禁城の後ろにある景山のことである。元代に籠城に備えて石炭の山を築き、そのうえに土をかぶせ、すでに草木が生えていた。明の最期の皇帝崇禎帝は、景山で自殺して明朝は亡びた。「煤山の前事」とは亡国のことである。これは下手をすると不経済とされるかもしれない。「亡国」を「煤山の前事」と言いかえ、辛うじて弾劾を免れたのである。
景山、紫禁城から見た見た。
中国、もとい日本含むアジア文化圏、やっぱめんどくせー!!
袁世凱の密告によって、変法派の人たちが逮捕処刑され、維新は百日で終わった。だが密告の有無にかかわらず、西太后はいずれ変法派を武力を弾圧するつもりであった。だから光緒帝はあのような緊急の密詔を出して、救いを求めたのである。袁世凱の日記によれば彼が栄禄に変法派の密計を告げたのは、9月21日の朝となっている。光緒帝はその時すでに幽閉されていた。光緒帝は9月20日、伊藤博文を召見した。これは形式的なものに過ぎなかった。玉座の後ろには西太后がひかえていた。そしてその後、光緒帝は幽禁されたのである。西太后は光緒帝を呼び出し、手を振り上げ、足を踏みならして面罵し、「酖酒をもって参れ」とどなった。毒を仰いで死ね、というのである。皇帝は俯伏して戦慄し、泣くばかりであった。軍機大臣王文韶はじめ王公たちが跪いて命乞いした結果、瀛台(えいだい、紫禁城に隣接した北海、中海、南海の3つの池のうち、南にある島)に流されることになった。変法派に対する逮捕はこれから始まったのである。
1900年、義和団事件 孫文とは直接関係ないが光緒帝の復権、義和団の北上によって、外国人と中国人キリスト教徒に対する迫害した。義和団を鎮圧した八カ国連合が北京に突入、西太后は紫禁城を脱出、北京はそれぞれ八区に分割された。そのなかで最も評判が良かったのが日本の占領地域であった。日本占領域が最も治安が良く他地域から人々が流れてくる。アメリカ占領地区は安全の点で第二位の評判を得ていた。八カ国最低の治安はドイツとロシア地区であった。
某大紳とは劉学詢のことであり、広州では公営トトカルチョ「闈姓」(いせい)の胴元を独占して巨利を得た人物である。だが帝王思想の持ち主だった。
史堅如の一族は曾祖父の時代に幕僚として広東に来て、こちらに籍を移してしまった。結婚その他の事情でこのようなことは多い。たとえば周恩来も江蘇省淮安県の出身となっているが祖籍をたどれば紹興である。史堅如20歳の時の写真が残っているが周恩来に酷似していることで一話題になった。
孫文たちは台湾総督児玉源太郎、民政長官後藤新平から支援を受ける約束をとりつけていた。だが後継内閣の首班の伊藤博文は政策を変更したのである。日本の選択肢は二つあった。第一はいま西安に逃げた清の首脳部には当事者能力はないから中国の南方数省が独立し、孫文を首班とする新政権を相手にするべきである。これが児玉の主張する孫文支援策である。第二は守旧派の失脚によってまだ清は実務派、たとえば李鴻章や張之洞たちの努力によってしばらく余命を保つ。交渉にあたっても疲労困憊した相手の方が日本としてはやりやすい。これが伊藤博文の見方である。その伊藤が首相となったのだ。やがて伊藤は、台湾総督が清国の反体制組織と接触すること、軍事顧問団を清国に送り込むことなどを禁じたのである。
鄭士良の死んだ翌月(1901年9月)、義和団事件の始末をつけた辛丑和約が結ばれた。死刑を含む百数十名の処分や、四億五千万両の賠償金などが決められた。清国の歳入が一億両に満たない時代である。この巨額の賠償金を一時に支払えるはずはない。39年の年賦で年利4%と決められた。四億五千万両というが専門家の計算によると利息を合わせて実質的には九億八千万両以上にのぼる。清国が滅びても、中華民国が負債を継承しなければならない。関税を担保に取られているので、支払いは確実であった。1940年(昭和15年)まで、中国は払い続けてやっと完済したのである。
【非ヨーロッパの戦争・内戦・紛争】
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2008.10.20: 東インド会社とアジアの海
孫文 3/5 ~革命
孫文「アメリカには中国人はたくさんいますが、イギリスにはそれほど居ないようですから・・・」
カントリー「いや、そんなことを考えてはいけない。きみは民衆のためにグレート・チャイナのリパブリックをつくりたいと言っていたね。そのことは自国民だけではなく、世界に広く知ってもらわねばならない。きみ、イギリスはそんな宣伝事業の中心だよ。たとえばロンドンの『タイムズ』を味方につけることは100万の援軍を得ることに匹敵する。・・・いや、こんなことは、こんな風光温和なハワイで語るにはふさわしくないようだな。ロンドンの我が家でじっくり話そうではないか」
革命という言葉は、中国で必ずしもなじみのない言葉ではない。しかし、このことばは、-易姓革命 と連用されることが多い。天の意を受けて、「姓が易る」というのである。漢の姓は劉、唐の姓は李、宋の姓は趙、明の姓は朱であった。今の清は「愛新覚羅」であるが、では革命によってつぎは何姓にかわるのかと質問されたりする。 - 万姓である。選挙された者が、何年かの間総統になる。これは皇帝ではない。と説明しなければならず、きわめて歯切れがわるかった。
満州族が中国の中心部に侵攻した17世紀の半ばに、江南各地で暴虐の限りを尽くした話は聞く人に悲憤の涙を誘ったのである。これを聞けば、漢族たるものは必ず涙を流した。満州兵たちの暴行、、殺人、放火などを当時の目撃者が生々しく記録している。『揚州十日記』が孫文の依拠した史料である。著者は揚州の人王秀楚であった。もちろん清朝時代は所持することさえ死罪とされていた。そのため、中国では早くから失われ、記録文字の傑作と言う名のみが密かに伝わっていた。だがこの本は江戸時代に日本に伝わっていた。そして文政11年(1828年)に斉藤南溟の校訂本も出ている。それを明治の留学生たちが筆者し、謄写版に刷って密かに中国に広めた。そのうちの一冊が孫文の講演の資料となた。日本は易姓革命の国ではないので古いものが残りやすい。中国では前代を完全に否定しなければ新政権が成立しないことが多い。秦の焚書以来、歴代似たような思想統制がおこなわれてきた。清では「文字の獄」と称され、苛烈の弾圧があった。
「彼女がそば屋をひらく前、ここはユダヤ人の眼鏡屋だった。私たちは世界の各地からここへやって来ました。私はハンガリーからですし、向こうの化粧品店はポーランド、そして角の食品店はドイツから来ています。同じユダヤ人なのに普段使うのはその土地の言葉です。ドイツ語とハンガリー語では通じません。たあ聖書を読む時に使うヘブライ語なら私たちは少し習っています。」と言った。
-ほう、ではヘブライ語というのは唐人の文字と同じですね。
清国は外交が苦手であった。これまで外国の存在さえ認めていなかった。中原から遠ざかると蛮地になるという認識であり、そんな蛮地の王がときどき朝貢してくる。貢物を持ってくるので、その数倍の下賜品を与える。これをかれらは貿易と称していたのだ。アヘン戦争に敗れて、清国ははじめて外交というものを知り、外務省に相当する総理各国事務衙門をつくり、各国に公使相当の使節を送り始めた。1875年からである。ただし日本への派遣は西南の役のため1年遅れた。
孫文 イギリスの清国公使館に監禁 新聞が報じると一般市民も公使館に抗議したのである。キリスト教徒をただちに解釈せよ。キリスト教徒を監禁したことについて、清国公私の謝罪を求める。オスマン・トルコ領内でキリスト教徒のアルメニア人が虐殺されたのは一昨年の日清戦争がはじまったころである。昨年10月はコンスタンチノープル(イスタンブール)で再び同じ事件が起こっている。何十万、何百万のキリスト教徒が殺されたというニュースが世界のキリスト教社会で悲痛な話題となっている。今回の孫文救出運動でも、「異教徒の清国皇帝がクリスチャンの孫逸仙博士を殺すのを許すな。といったたぐいのプラカードや段幕が多く見られたのである。結局、公使館のメンツも立て、イギリス外務省の人が通りかかったところに孫文が現れることにした。
>ええっ? どういうメンツなんだ? 大使館に長く監禁されていてイギリス外務省の人が通りかかったところに出てくると監禁の事実がなくなる?
孫文の運動は清国を滅ぼすことと新しい共和国をつくることという、二つの面を持っていた。破壊と建設である。孫文は早くから建国の理念を考えていたが、その理論づけは大英博物館付属図書館における研究の所産である。孫文はそれに「三民主義」と名付けた。民族主義、民権主義、民生主義 これは「国家主義」「民主主義」「社会主義」をそれぞれ言いかえたものだ、とする解釈がおこなわれたものである。もっともこれは後年のネーミングであり、この二度目の訪日の時はまだ混沌とした状態であった。
うーん、孫文先生の3つの理想を、中国は未だに実現してない。民族問題、国内暴動を抑えきれず、民主主義どころか人権もなく、日本よりも遥かに所得格差がある社会主義という状態だ。
孫文〈下〉辛亥への道 (中公文庫) 陳 舜臣 中央公論新社 2006-03 |
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孫文 2/5 ~今も変わらぬ中国の弱点
チャイナタウン、すなわち中華街を土地の日本人はなぜか「南京町」と称した。そしてその地にすむ中国人たちは「唐人街」と呼び習わしていた。横浜の開港は1859年であり、中国諸港の南京条約による開港は1842年であるから、上海や広州は17年先輩である。上海語と広東語は通じないが、筆談で解決することができた。西洋人は日本人と中国人の違いもその程度と考えたようだ。実際その頃の日本人の漢文能力はきわめて高かったので、筆談で何とか用を弁じることができた。後年、孫文が日本の支持者と意思を通じ合ったのも主に筆談に頼っている。それでも思い通りにならない時は英語を使うこともあった。
何言ってんのよ? 現代日本人の漢文能力でも筆談は有効だ!
この時代を生きた学者で優れたジャーナリストでもあった梁啓超が、
「日清戦争は日本と李鴻章の戦争であった」
と述べたがまさにその通りである。李鴻章は清国のトップであるが、それは彼が育てた淮軍と北洋艦隊が彼を守っていたからである。彼は武器弾薬を自分たちの工場で作り工場で作り、軍糧は自給自足し、招商局で運輸業や貿易を経営し、給料も中央に頼らずにすむ。彼には当然ライバルが多い。両江総督の張之洞をはじめとして、その数は決して少なくない。だが、彼にはどうしても歯が立たないのである。彼に戦争させる。- これしかない。もし清国が戦うとなれば、戦える軍隊は李鴻章の淮軍しかない。大軍団を要しながら李鴻章が軟弱外交に終始したのは戦えば自分の軍隊が傷つくからである。10年前のベトナムでも黒旗軍が勇戦してフランス軍を破ったのに、フランスにベトナムの保護権を認めている。
「小国の日本に負けるはずはない。」
と一般清国民は思っている。しかし
あっ、清国民? 臣民だろ?
「海上での交戦に我勝算無し。」
開戦直後、李鴻章は皇帝への上奏文のなかで、そう述べている。1888年以後、清国海軍は一隻も軍艦を購入していないこと、そのため旧式で最高時速が18ノットなのに対して、日本は最近購入のものが多く時速23ノットのものがあることを挙げている。はじめから彼は負けることを覚悟している。彼のライバルたちは、主戦論者である。主戦論者は軍隊をもっていない。大軍をもっている李鴻章はなるべく戦いたくない。どうしても戦いが避けられない時は、なるべく早いうちに停戦に持ち込もうとする。今度の日本との戦争もそうであった。下関の講和条約を李鴻章は急いでいた。北洋閥の力をできるだけ温存して、事態を収拾したいのである。実は日本側も外国の干渉をおそれて、一刻も早く調印にもって行きたかったのだ。現にロシア軍3万が清国の北部に移動中という情報があった。干渉には武力を背景にするのが常識と言われた時代である。
広大な中国、大きな軍事力を持つ中国は、現代においてもこの時代と変わらない弱点をもっている。
清露密約の調印は6月3日にお粉荒れた。密約の有効期間は15年で、期限切れの1910年、清国の調印者李経邁が、ロンドンの『デイリー・テレグラフ』に、全文を暴露している。
1.日本がロシア、清国、朝鮮を侵略した時は、本条約を適用し、一切の兵力をもって相互に指示する。
2.単独不講和。
3.作戦中は清国の港をロシア軍艦に開放すること。
4.ロシア陸軍の応援を確保するため、黒竜江、吉林両省を横断してウラジヴォストークに至る鉄道の建設に同意する。建設、経営を露清銀行に許与する。
5.戦時、平時のロシア軍の鉄道使用を認める。
6.有効期間は15年とする。
となっていてあきらかに軍事同盟の条約である。それなのに有効期間内に起こった日露戦争では清国はこの条約を守らずに中立の立場をとった。海防派の李鴻章にとって海から来る敵、すなわち日本からの侵略に備えての密約であった。だが、敵は海から来るとは限らないことがわかった。数年後、義和団事件で清国が混乱した時、陸から来た侵略者ロシアが東北(満州)を占領した。
孫文〈上〉武装蜂起 (中公文庫) 陳 舜臣 中央公論新社 2006-03 |
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孫文 1/5 ~武装蜂起
条約によって、台湾は日本に割譲されることになった。清国は日本に銀2億両(テール)を賠償金として支払うことになっていた。戦争直前の光緒17年(1891年)、清国の歳入は8968万両で歳出7935万両であった。この戦いでは清国兵は一歩も日本の領土を踏んでいない。それなのに国家歳入の2倍以上の賠償金を支払わされる。 「これから50年以上は貧乏暮らしだな。」 そんな声が台湾でも聞かれた。抵抗派は「清」という国号を使わないことにした。そして「台湾民主国」をつくり、国旗まで制定した。黄虎旗である。清の国旗は黄龍であったのだ。台湾民主国の国民として、日本に抵抗する段には、清国政府に塁を及ぼすことは無いはずである。アジアで最初の共和国であって、その成立は陽暦にして5月25日で巡撫の唐景崧が総統に推された。
すべての結社が禁止されているのだから、天地会だけではなく宗教的な集会も、それを組織する団体は厳密にいえば違法であった。だが普段は宗教関係は大目に見られていたようである。宗教を隠れ蓑にして結社をつくることが多かった。清末には「水夫説教の禁」がしばしば出されている。水夫はいつも他郷に出ているので、大きな組織の成員になておれば、どこへ行っても心強い。だから船乗りはたいてい宗教団体のメンバーになっていた。一説にはこれが秘密結社「青幇」の起源であるという。
華甲とは還暦のことである。「華」という字を分解すれば6個の10と1個の1の時からなっている。還暦はかぞえ年で61なのだ。
ううっ書かないとわからない・・・
++
-
+++
+
か・・
孫文は香港を愛していた。複雑な愛し方である。ここでは満州人に対してどんなに悪口を言ってもかまわない。清国皇帝を罵っても警察は笑っているだけである。権威に反抗する性格の孫文はこんなところが好きであった。だがここは英領の植民地であり、清朝の権威は無視しても良いが、イギリスの権威は絶えず意識しなければならない。植民地のあるじは、さまざまな差別を設けて、おのれの権威を主張する。孫文はそれが大きらいであった。香港には「宵禁令」という法律があった。1842年10月に出され、「午後11時以後は外出することを禁じる」とあり告示の相手は、訳文には「凡そ汝華人居民」とあるからイギリスには適用されない。翌年から10時に繰り上がり、さらに船から上陸する場合は9時となっていた。「宵禁令」が廃止されたのは1897年6月のことで、夜間外出禁止という不自由な状態は、実に55年も続いたのである。
やはり中国は第一に農業だよ。 孫文はいつもそう言っていた。そのころ中国の近代化を主張する人たちは近代化による「富国強兵」、それも「強兵」に重点を置いていた。洋務派(李鵬章らは近代化をはかる人たち)は、「兵」(軍備)が大切だといい、鄭観応は兵よりも「商工」だといい、孫文はそれよりも「農」だという。それで広州の連絡所に「農学会」の看板をかけていたのだ。
清国は密偵を置くことはできても香港では警察権を行使することはできない。韋宝珊は広州の緝捕委員の李家婥に電報した。彼は逮捕権を持つ、清の警察の要人だったのである。主犯は孫文だと名指ししていた。
清国本土での反政府活動が困難であるから当分の間、中国人の多く住む「外地」を活動の舞台とせざるを得ない。もちろん香港が最大の基地だが、孫文たちは5年間の在留禁止の処分を受けている。イギリス当局も清国と正式の国交があるので香港における反清運動を野放しにするわけにはいかない。孫文はそこで反清運動の基地として日本を選んだのである。ただ日本にすむ中国人の数がそれほど多くないのが気がかりであった。日清戦争で、もともと少なかった中国人の人口が激減したがこれはすぐに回復した。それでも横浜、神戸、大坂、長崎をあわせて3000に満たないのである。これに比べると香港は9割以上が中国人である。安南(ベトナム)、シンガポール、マライ、シャム(タイ)、フィリピン、インドネシア、さらにビルマには何千万の中国人が居住している。3000という数はこれに比べるといかにも少なすぎる。
辮髪は清国人のシンボルといってよい。これは満州族の風習を漢族に強制したのである。辮髪にするためには後頭部以外の頭髪を剃らねばならない。1644年、新は北京を落とした翌日には「薙髪令」を出した。男はすべて髪を剃って後頭部のみを残せという命令である。「神を剃らない者は首を切る」というから有無を言わせない強制だった。この簡単な弁別法は清の威令g届く地域だけに有効であった。だから英領となった香港では辮髪する必要はない。だが香港在留の人はまだ本土の往来が頻繁なので辮髪のままの人が大部分である。ただし、本土へ帰ることをあきらめた人は辮髪を切ってしまっても良いわけだ。ハワイの唐人も故郷とは往来が疎遠になってもいつかは帰れると思ってやはり辮髪を残している。
出た-っ!陳舜臣のこだわりっ! 中国人じゃなくて、唐人だって。そうだよね、中国建国以前に中国人って概念は無いわw
【紳士な恫喝術】
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2012.06.27 ウォールストリートの歴史 4/8 ~モルガン
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2011.11.28: 利休にたずねよ1/4 ~秀吉のいちやもん
2011.09.08: 投資詐欺 3/3 本職
2011.02.18: 最強ヘッジファンド LTCMの興亡 ~最高の投資機会
2011.01.04: ※注:アジア系の怖い人は来ません!
2010.09.17: 私、写真写り悪いんです
2010.07.06: 夫婦で読むデリオタブログ ~主婦の存在意義と無言の圧力の源泉
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王城の護衛者
容保は殿中でも無口でどういう時にも発言しなかった。このためほとんど無視され人々から注目されるようなことはなかった。ただ一度だけ容保の口から意見が出たことがある。桜田門外の変の直後、かねて水戸徳川家の京都偏向主義を憎悪していた幕閣が「これを機に尾張・紀伊の御両家の藩兵をもって水戸を討伐しよう」という案を持ったことがある。老中の久世大和守と安藤対馬守とがその急先鋒だった。容保は「水戸様を討伐するなどあってはならぬことです。」と言った。老中久世が気色ばみ、「しかし水戸中納言は御宗家をないがしろにして京都の朝廷から私に攘夷の内勅を受けられた。幕府からそれをお返し申すように命じたが、不逞の藩臣がそれを承知せぬ。承知せぬばかりか、長岡駅に屯集してえ気勢をあげております。これは公然と幕府に弓を引く態度ではありませんぬか」
「小さなことだ。ものには原則と言うものがある。水戸家は御親藩であり、これを他の御親藩をもって討たしめては御親辺相克のもととなり乱れが乱れを呼び、ついに幕府の根底が揺らぎましょう。売ってはなりませぬ。」
「御内勅を私蔵しているのはいかに」
「当然でしょう。水戸中納言家は御先祖光圀公以来、京の王室を尊崇し奉ることが御家風になっている。これも水戸家の原則であって家風である以上これを尊重せねばならぬ。幕府としてはそういう水戸家をどう包容していくかを考えるだけでよろしかろうと存ずる。」
この一言で水戸討伐の議はやんだが容保の運命は大きく変わったといっていい。
正親町三条大納言実愛は声をひそめ、天子の食事をご存じか、と言った。天使の御膳は何汁何菜ときまっている。しかし幕府から支給される賄料は銀740貫目でこれはざっと90年来かわらず、その間物価が数倍に上がっている。このため品目と数量だけはそろえ、内容は極端に粗悪になっていた。毎夕御膳にのぼる鯛は爛れたように異臭を放っている。鯛だけではない。ほとんどの食品が市井の者も食わぬ粗悪なもので食えば中毒死する恐れのあるものもあった。このため御膳方吟味役は「これはお召し上がりにならぬように」との紙の印をつけておく。帝はそれには箸をおつけにならない。
幕府が肝煎で江戸において浪士を徴募した。「攘夷先鋒」という国防的目的がその表向きの徴募理由であった。その徴集された浪士団が京の西郊壬生村に入ったがほどなく分裂し、大半は江戸に去り、十数名だけが自発的に京に残った。その首領が水戸人芹沢鴨という浪士である。芹沢は思案し「京にとどまるには衣食の道を講ぜねばならぬ。それには京都守護職の給与を受けるのが最も良い」と思いついた。
法的にいえば天皇はこの国の潜在元首である。しかし鎌倉以来、武家政権に国政のほとんどを委任しているのが日本の伝統的統治形式であり、さらに徳川家康の江戸幕府開創によって、天皇の国政上の位置は明文化され、単に公卿の統帥者にすぎない。わずかに官位を与える権限はあるが、それも極度に制限されたものである。主権者としての機能は皆無であった。それらのすべてを徳川将軍家に委任しきってしまっている。それが翕然とした法であった。この帝は性格上、無法者になることを好まれなかった。のちに維新政府の創設者の一人になる三条実美は、「お上は攘夷攘夷とおおせられておりますが、おおせられるだけでなく、それを将軍にお命じあそばさねばなりませぬ」とせまり、帝自ら大和の樫原神宮に行幸し、攘夷親征の宣言をされることであった。もはや将軍を無視し、天皇みずから日本の士民を率いて外国と開戦することを祖廟の宝前に誓うというのである。
勅使が河原町の長州藩邸へゆき、その兵を撤退せしめた。政変に敗北した長州人とその浪士団は、三条実美ら七卿を擁しつつ東山妙法院から京を落ち、長州に去った。容保はこの政変に勝った。がその勝利の実利を得ず、利は薩摩藩が得た。この夜から維新成立に至るまで京都朝廷は権謀の才にめぐまれた薩摩人たちの一手ににぎられた。容保は依然として一個の王城護衛官であり続けたにすぎなかった。ただ京都の市中におけるその警備能力はすさまじさを加えた。市中警備は新撰組が担当している。京に残留潜伏中の長州人や長州系浪士をみればこれを斬った。斬ることが彼らの法的正義であり、思想的正義であった。会津藩は朝廷と幕府から京都守護を命ぜられており、かつ、長州人は天皇の敵であったからである。
容保は晩年、無口で物静かな隠居にすぎなかったが、肌身に妙なものを身につけている。長さ20糎ばかりの細い竹筒であった。容保が死んだ時、その竹筒を開けてみた。意外にも手紙が入っていた。読むとただの手紙ではなかった。宸翰であった。一通は孝明帝が容保を信頼し、その忠誠をよろこび、無二の者に思うと意味の御私信であり、他の一通は長州とその係累の公卿を奸賊として罵倒された文章のものであった。長州閥の総帥山県有明は、その宸翰が存在する限り、維新史における長州藩の立場が後世どのように評価されるかわからない。人をやって松平子爵家に行かせ、それを買い取りたいと交渉させた。額は5万円であった。が、宸翰は手に入らなかった。松平家では婉曲に拒絶しその後銀行に預けた。竹筒1個、書類2通という品目でいまでも松平容保の怨念は東京銀行の金庫に眠っている。
日本に二つの政権ができた、といっていい。京都の天皇政権は抽象的な日本統治権とあいまいな外交権だけしかもっていないが、京都の二条城と大坂城に駐営する徳川慶喜の政権は強大な軍事力と400万石の直轄の支配権領と、300諸侯に対する伝統的な支配力をもち、しかも江戸城に次ぐ防禦力をもつ大坂城に軍事拠点を置き、旗本、会津・桑名などの旧式戦力の他に3万以上という日本最大の洋式歩兵軍を集結させていた。しかも慶喜は恭順の姿をとっている。岩倉は戦端をひらきたかった。武力によって徳川軍をつぶさぬ限り彼の構想する革命は成就しないであろう。が、慶喜が朝意に服している限りなんともできない。そこで挑発する必要があった。慶喜政権の財政基盤であるその400万石の直轄領を朝廷に返納させることであった。無理難題と言っていい。それを返納すれば旗本8万騎が飢えに死ぬ、他の大名が徳川体制のままで土地人民を支配しているのに、なぜひとり徳川家のみがそれを差し出さねばならぬのか。こういう情勢下で岩倉と大久保が立案した「小御所会議」が開かれた。御前会議である。親王・公卿の代表者の他に、諸藩主では尾張候、越前候、安芸候、土佐候、薩摩候の5人が出席した。その会議の席上、土佐候山内容堂が徳川慶喜擁護のために激論し始め、ついに「現下の情勢は2、3の公卿の陰謀である」と言い放った。
「村田先生はすでに士分の列にあられるのになぜいつも雑人のような半袴を用いておられるのです。」と聞いた。蔵六はおかしくもないといった顔つきで
「馬に乗れないからです」と答えた。「先生は剣は何流をお使いになさる」、「剣術は無修行です」、蔵六は正確に答えた。「たいへんな武士もあったものだ」と家中で物笑いにした。蔵六はその嘲笑に対して「私の兵学で士と言うのは諸藩で高禄を食む者のことではない。士の武器は刀槍ではなく重兵(兵卒)の隊であり、士の技能は何流の剣術ではなく、重兵を自在に指揮する能力である。武士、武士といって威張っている者に国家の安危は託せられない」といった。
楢崎は「前線では朝9時から午後4時まで小銃を撃ちつづけている現状だ」とまで極端な表現を使った。これが益次郎の性分には気に入らなかった。「君嘘を言っては行かぬ。小銃というものは3,4時間も連発すると手が触れられぬほど焼けてくる。水にでもつけねばそれ以上連発することはできない。それを君は9時から4時まで続け撃ちしたというが、それはうそだ。うそでないというなら、いまここで君が4,5時間連発してみるといい。それに聞けば兵一人あたりまだ弾丸が200発ずつあるというではないか。そんな隊に弾丸の支給は無論、増援もできぬ」 楢崎も、川田もひきさがらざるをえなかったが、議論に負けた怨恨だけは残った。
オランダ人らしく日本の役人の通弊についてはよく知っていて買い付け方の役人に賄賂を贈ってずいぶん高値で売るという評判も聞いていたし、それにもっと始末が悪いことには相手が無知な場合にはとんでもない旧式銃を売りつけることであった。被害は南部藩を除く東北諸藩で、多くは欧米のどの陸軍でもすでに廃銃になってしまっているゲベール銃を売りつけられた。ゲベール銃というのは発火装置が火縄のかわりに燧石になっているだけで、弾は先込めであり、銃腔内の滑腔である。その点種子島とかわりがなかった。「銃の見本を見せtもらいたい」と継之助は微笑もせずにいた。スネルはすぐ店員に命じて各種の銃を並べさせた。さすが、継之助に対してゲベール銃を見せるという愚をしなかった。まず薩長や幕府歩兵が持っているミニエー銃をみせ、「射程が長い」といった。「わかっている」と継之助はいった。スネルは米国製はシャープス銃をしきりとすすめた。銃身が短く、取り扱いが軽快でしかも精度の良い元込銃である、と。「これは安いはずだ」と継之助はいった。スネルは「いや高い、安価なものではない」というと、継之助は即座に矢立と懐紙を出し、アメリカ大陸の地図を書き、この図が何国であるか汝は知っているか、といった。「アメリカ」 スネルは継之助の気概に圧されている。「然り。我が年号で言えば文久2年からこの国で内乱(南北戦争)が起こっている。ほぼ終わりつつあるそうだ。せっかく製造した銃が過剰になっている。それが国外に流れた。世界中でだぶついてる。それでも高い。というのか。」スネルは黙った。「それに私はこのアメリカ銃を好まない。なぜなら短すぎる。かの国ではおそらく騎兵に持たせたものであろう。銃は白兵格闘の場合には槍の役目をなし、しかも槍術は古来我が国が世界一だと思っている。長い銃がいい。ミニエー銃にしよう。」
王城の護衛者 (講談社文庫 (し1-2)) 司馬 遼太郎 講談社 1971-10 |
【愛国者・民族主義者】
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徴税権力 国税庁の研究 2/2 ~大企業
マルサが一度も踏み込んだことが無い「領域」がある。それは大企業である。国税庁の分類では資本金1億円以上の法人を「調査部所轄法人」と呼び、各国税局の調査部が担当している。このうち資本金40億円以上の大企業は東京国税局調査第一部の精鋭、特別国税調査官の担当だ。
国税庁はかつて、大企業に対する査察の可能性を極秘に検討していた。国税内部でも大企業に査察が無いことを気にしていたのである。きっかけは82年12月の衆議院予算委員会。共産党の金子満広議員が大蔵大臣の竹下登を相手に
「国税調査課が担当している大法人、資本金1億円以上ですが、約19000社のうち、1/5の4200社を実地調査した。それだけで税金が新しく取り立てたのが1345億円ふえていますね。つまり1/5のところだけ調べてもこれだけの金額、全部やれば6000億から7000億になる計算に私はなると思うのですね。大企業に甘くしないという点は大蔵大臣、いいですね。大企業に対しては今言ったように青色申告取り消しゼロという中で中小企業、商店はあれだけの件数がどんどんやられます。」
三菱商事副社長加藤竹松は「110億円は米国三菱が売買を依頼された取引先の利益である」と説明した。ところがその「取引先」がタックスヘイブンのバハマにある「パイコール社」という謎の企業であることが判明、国税当局の調べで、同社設立に三菱商事が深く関与しており、米国密微小時の事実上のペーパーカンパニーであることがわかった。税逃れの意図ははっきりしているが、国税当局は重加算税を含めた修正申告で決着させた。
大企業査察摘発第1号は遠くない時期にあるだろうと私は注視していた。しかしそれから20年以上経った今日まで、大企業に査察が入った例は皆無である。ただし、ニアミスがあった。それがまた三菱商事なのである。
ルノワール疑惑
東京国税局調査第一部は90年秋、三菱商事の税務調査に着手した。その年、三菱商事の税務申告には目を引く項目があった。ルノワールの名画「浴後の女」「読書をする女性」の購入である。
三菱商事はこの2点をスイス在住のフランス人二人から36億円で購入したと申告していた。三菱商事のような総合商社が個人相手に取引するのは珍しい。担当部署が開発・建設部門のデベロッパー調査部だったことも不自然ではあった。国税局としては当初、購入の事実と価格を確認できればよしという程度の構えだった。ところが調査は意外な展開を見せる。絵画は実は、創価学会から依頼されて三菱商事が代理購入したものであるが判明し、しかも購入先のフランス人2人は実在せず、実際には東京青山の画商から21億2500万円で購入したことが明らかになったのである。三菱商事は実際に36億円を支払っており、差額の14億7500万円が行方不明となっていた。21億円分は画商の手にわたっていたためにすぐに判明したが、残りの約15億円は受取人が不明の上に、現金化された際の裏書に架空名義が使われていたために追い切れなかった。関係者を追及したものの、十分な協力は得られなかった。強制調査権を持たない調査部の限界だった。
しかし東京国税局は「使途不明金として課税されてもやむをえません」という三菱商事の意向を受け入れ、課税処分だけで決着をつけようとしたのだ。91年11月になってようやく査察部が重い腰を上げたが、その矛先はなぜか三菱商事ではなかった。三菱商事に協力して謝礼を受け取った陶磁器販売会社の女性役員と、絵を売った画商がマルサの対象となったのだ。査察の調べで不明だった15億円のうち12億円の謝礼が女性役員らに支払われたことは判明したが、残りの3億円の行方は最後まで謎として残った。
決定的には事を構えず、適当な所で妥協するという微温的な関係が長年続いてきた国税と大企業だが、2004年半ば頃から異変が起き始めた。特に06年になって、国税当局は大企業の海外取引に目をつけ遠慮のないつ聴講生をかけるようになった。課税処分を受けた企業と追徴税額を例示すると、次のようになる。
ホンダ 117億円(04年6月)、京セラ 127億円(05年3月)、船井電機 165億円(05年6月)、武田薬品 570億円(06年6月)、ソニー 324億円(05年、06年6月)、マツダ 76億円(06年6月)、三菱商事 22億円(06年6月)、三井物産 25億円(06年6月)
追徴課税を受けた企業はこの8社にとどまらない。世界的に名が通ったビッグカンパニーがほとんどを占めており、税額も極めて大きい。国税庁は「所得を海外に逃す国際的な租税回避行為を封じ込め、我が国の税収を確保する」という大義名分の下で、国際取引にまつわる課税に力を入れるようになった。20年前にはわずか9人だった国際課税部門の専従スタッフは現在120人を数える。国税当局が頼る有力な武器が「移転価格税制」である。日本の親会社が海外の子会社に商品を売った際、第三者間の取引価格(独立企業間価格という)より低い価格で取引すると親会社の収入が減るため本国では税収減になる。国税当局から見ると親会社の所得が海外子会社に移り、相手国の税収となると捉える事ができる。「移転価格税制」はこれを防ぐための制度で、いわば国家間の「税金分捕りシステム」といってよい。米国をはじめ多くの国で採用している。
85年、米国内国歳入省からトヨタ、日産、ホンダが「移転価格税制」を適用されて巨額の追徴課税を受けたことがあった。輸出産業のトップランナーへの思わぬ課税は国会でも大きな問題になり、「黙っていると外国に税金をもっていかれっぱなしになる」(国税庁)として翌86年に日本でも導入された経緯がある。導入当初は日本コカ・コーラなど外資系企業を集中的に調査していたが、やがて国税当局の矛先は日本企業に向けられ始めた。国税庁がまとめた移転価格税制によると課税所得額の推移は興味深い。
01年度 381億円、02年度 725億円、03年度 758億円、04年度 2168億円、05年度 2836億円
02年度から課税強化に転じたことがわかる。
http://www.mof.go.jp/international_policy/reference/balance_of_payments/bpnet.htm
これ財務省の国際収支統計だが、経常収支の詳細で、1985年からの25年間で、貿易収支と所得収支が綺麗に入れ替わっている。日本企業が国内生産を止め、海外に生産拠点を移した結果と言えよう。そして04年にさらに遅れること5年、09年から海外子会社からの配当益金不算入が導入され、ますますのこの傾向を助長することになっただろう。足したら変わらないので、国税と企業は困らない。困るのは労働市場を奪われた国内日本人なのである。
官庁には法人税の納税義務が無い。営利事業を営んでいないからだ。しかし官公庁が所轄する公益法人や許可法人などの外郭団体は収益事業について課税対象になる。国税当局がこうした外郭団体の税務調査に力を入れるようになったのは95年ごろからだ。公益法人は民間企業よりも法人税率が低くなっており、税制面で相当に優遇されている。官庁系の外郭団体は、長引く不況で苦しんでいた民間企業に比べて所轄庁からの委託業務で安定した収益をあげられる仕組みになっている。にもかかわらず経理処理や金の使い方が乱脈だと各方面から指摘されていた。95年に建設省の「リバーフロント整備センター」(東京都千代田区)が東京国税局から約7000万円の申告漏れを指摘された。
以降、「ダム水源地環境整備センター」「ダム技術センター」「日本気象協会」「日本情報処理開発協会」「林野弘済会」などで立て続けに申告漏れが見つかっている。「ダム水源地環境整備センター」「ダム技術センター」の場合、建設省の官僚らの接待につかった飲食代やタクシー代金を経費として計上していたが、国税は経費と認めず課税対象の「交際費」と認定している。官僚への公費接待をあぶり出す結果となったわけだ。
国税当局の矛先は警察が所轄する交通安全協会にも向けられた。98年春、千葉県交通安全公会連合会が東京国税局の調査を受け、約1億円の申告漏れを指摘された。運転免許証の更新者用テキストなどお関連団体から購入した際、代金の一部を払い戻してもらっていた。これを課税対象にならない「非収益事業」として会計処理しえいたが国税局は「ノー」を突き付けた。これをきっかけに国税庁は各国税局に指示して集中調査を行い、26府県の交通安全協会で申告漏れが見つかった。そして2002年にはついに本丸の警察庁所管「全日本交通安全協会」が所得隠しを摘発された。協会は専門家に監修料を支払ったように見せかけて7年間で4億7千万の経費を水増しし、裏金としてプールしていた。
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金丸信摘発の舞台裏
割引債のサイズは紙幣より少し大きい程度しかない。仮に1億円の額面の割引債に整理すれば、30億円分の札束も30枚の紙切れに収まる便利さがあった。84年に行われた福島交通グループに対する税務調査で、小針暦二が
2億2400万円の日債銀割引債を購入していたことを把握していた国税庁は、その後の継続調査で小針が金丸にも割引債の購入を勧め、共同購入したという情報を得ていたようだ。
金丸のタヌキ爺が収賄しようが脱税しようがかまわん。金丸の罪は、割引金融債を「メディアに公開されたマネロン手法」に貶めたことにある。おそらく金丸以上に購入していた富裕層は、私以上に怒ったに違いない。完全に昔話になり果ててしまったが、「一族家における投資教育~税金と名義」という話もある。
検察や警察は、公判に向けての世論作りをするために、捜査情報を記者にリークすることがある。新聞や雑誌の記事はそんなリークによるものである。国税がそれをしないのは、税務調査が基本的に相手の協力を前提に進められるものだからである。通常の税務調査は相手先から任意で帳簿や書類を提出してもらい、聞き取りにも協力してもらいながらすすめるのが前提だ。かつて最高幹部を務めた国税OBの一人は「国税は世直し機関ではない」が口癖だった。
竹下登申告漏れ、調査のポイントは世田谷区代沢の自宅新築資金5300万円の出所にあった。竹下は資金の出所について次のように説明した。
(1)協和銀行(現・りそな)からの借り入れ2000万円、(2)所有する青木建設株の売却代金、(3)定期貯金、(4)その他
東京・杉並区にある協和銀行荻窪支店で、裏付け調査にあたっていた東京国税局資料調査課の調査官は二口の不審な口座に目を留めた。名義人は「吉田志郎」と「吉田一枝」で預金額は2つ合わせて1300万円。いずれも架空名義だった。架空名義預金は脱税に直結する。調査官はこの口座の主を銀行側に質したが、支店幹部は緊張した面持ちで、「言えない」と繰り返したという。
この口座は架空名義口座だった。竹下は協和銀行から新築資金として借り入れた2000万円のうち1300万円を密かにプールし、「吉田」名義口座に隠していたのである。建築代金に充てられていたのは700万円だけだった。足りない分はどうしたのか。実は政治資金を利用したのである。建築代金5300万円のうち2000万円が竹下の政治団体から「一時借入金」の形で払われていた。政治資金を自宅新築資金に流用すれば「私的流用」として課税される。そこで「銀行借入」の体裁を整えたわけである。調査対象となった73年から75年までの3年間に竹下の個人資産の純増額は5000万円にものぼった。東京国税局はこの5000万円を政治資金からの流用と認定し課税対象とした。調査の深度は文句のないものだったが課税処分は甘かった。竹下は自宅新築資金を「銀行からの借入金」と偽っており、明らかに税逃れの意図があった。にもかかわらず国税局は、悪質事案に適用される重加算税の追徴を見送っている。
グループ企業間の株式持ち合い状況が一目でわかるように整理したんですが、個人名義に偽装している株式をコクドのものとすると、コクドが保有する西武鉄道株が79.6%に達していたのでびっくりしました。西武建設の約7%を加えてると軽く80%を越えていたと思います。東京証券取引所の上場廃止基準は当時も「少数特定株主が80%を越えた場合」となっていた。国税当局者の誰かが通報すればたちまち上場廃止になるばかりか、証券取引法違反に問われる事態になっていたのだが国税は沈黙を守った。
西武鉄道株の偽装を知ってはいても肝心の徴税はなかなか思うようにまかせなかった。グループ企業の中でとりわけ国税が関心をもったのがコクドだったが、毎年のように赤字申告が続いていたからだ。
86年3月期 ▲4億3800万円、87年3月期 ▲11億7300万円、88年3月期 ▲5億9300万円
不動産や有価証券など多額の資産を保有しながら、なぜこんな申告になるのか。
「何度も調査したが、銀行から多額の借入金があり、その支配利息が営業利益を上回っている。だから赤字になる。儲けが無いのに法人税を課すことはできません。これは税務上は何の問題もない。」
コクドの申告によると88年3月期の土地保有高は208億円。同じ時期の森ビルは1597億円だから意外なほど少ない。これは購入した際の簿価が基準になっているためで、コクドの土地取得時期がいかに早く、その分価格がいかに安かったかを物語っている。この莫大な含み益が信用力となって、銀行はコクドにドンドン融資した。「新規事業にどんどん投資していますから利益が出ないわけです。新規事業は利益を減らすためではなく、将来に備えての先行投資なんです。法人税を払わないと言われるけど、法人税は利益が出た時に納めるということなのであって・・・。日本の税制はよくできてますよね。やる気のあるものをちゃんと助けるシステムになっている。」 こんなナメた発言をされても国税は手をこまねくしかなかった。
徴税権力―国税庁の研究 落合 博実 文藝春秋 2006-12 |
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父の威厳 数学者の意地
国家の品格の藤原正彦の本なのだが、最近読んだ本の中で最もくだらない本であった。途中で読むのをやめようかと思うほどに。国家の品格は読んだことが無いが、今後読むことはないであろう。抜き出した文章もほとんどが著者のセリフではないのが残念だ。
今度6年生の長男が2泊の修学旅行へ行くことになって、出発2週間前に細菌検査ということで検便をさせられる。5日前からは朝夕に体温、脈拍を測ったうえ、食事量や睡眠時間、便通などについて記録させられる。そして出発前日には医師による健康診断まで行われるのである。最近とみに学校活動において、本来は本人または親の責任帰すべき健康に、学校が神経を尖らすようになった。家族旅行の際に検便をする人も、水泳の度に体温を測る人も、白衣に白キャップで料理する主婦もまずいない。まさかの事故が起きた時の訴訟対策と思われる。学校がこれほど訴訟を恐れるのは、不可抗力や本人の過失で起きた事故であるにもかかわらず、管理不行き届きとの理由で訴えられる、ということが重なったからである。
なんでもかんでもお国まかせという日本人の気質の反映だよ。それは一人で文句を言っても、一朝一夕には、変わらない。「東南アジアはなぜ年中暑いんだ!」と気候に文句を言っているのと同じ。
訴訟先進国のアメリカでは、誰かが雪道を滑って転ぶと、管理不十分ということで前の家が訴えられるらしい。法律や契約に違反した場合の訴訟は当然だが、本質的に自己責任あるいは確率論的不運にすぎぬものを他人に責任を転嫁し金銭をせびりとる、という風潮がアメリカを蝕んでいる。アメリカが訴訟社会となった主因は、多民族国家としての組成にあろう。風俗、習慣、言語、宗教、価値観などを異にする人々をまとめ、統一国家を運営するには、全ての民族に共通の何かが必要である。それが論理だった。だから余りかでは教育のあらゆる段階で、論理的思考が最も強調されている。論理は確かに有用だが人間をすべてそれで律しようとすると、人と人との間隙が冷却し、必然的に訴訟が多発する。そのうえたいていの考えや行為は、論理的というだけでよいなら正当化しうるから、なお始末が悪い。
タイ語でなぜ?はタンマイ?と言うらしいがニュアンスとして苦情、「なんでなんだっ!(怒)」があるようである。日本語の「なぜ?」も若干怒りの要素を含み、私は穏やかに「なんで?」と聞くことがあるが、確かにそれは若干の脅しの意味を含むことが多い。一方、英語のWhy?は言い方次第ではあるが、Whyそのものに怒りのニュアンスはないであろう。このようにアジア文化圏は、論理的思考や理由を追求することを拒絶している文化圏なのである。であるから経済合理性の追求や資本の論理も忌み嫌われ、「50%以上の株を握ればこの会社は俺のもの」という発言に反発してしまう”お国柄”なのである。
母が窮地に陥った時の常套句 「38度線を越えて、3人の子供達を無事に連れ帰ったのは誰ですか?」 水戸黄門の印籠よろしく、父はこの切り札を聞くや書斎へ退散したような気がする。一緒に南下する機会があり、母も父に取りすがってそれを請うたが、満州気象台に部下を残したまま家族と脱出することを父は拒否した。公を私に優先したのだ。そのおかげで母子四名は文字通り死線をさまようことになった。満州へ渡ったのももぱら父の止む得ぬ事情だった。
玄関で父が「今日は銀座へ行く」と母に言う。うれしさをひかえようとしてか、仏頂面で言う。これで飲むので帰宅が遅くなるという宣言であり、軍資金の請求でもある。母が「まったくあんな所のどこがいいんでしょ」と皮肉をこめて言いながら、一万円札を何枚か手渡す。父が帰宅するや否や「臭いですね」「不潔ですからすぐに汗を洗い流してください」「今日も大金を貢いできましたか」などと嫌味を連発した。「一晩で五万円も払えば誰でももてます。私は5円安い豆腐を買いに1キロ先まで行ってます。」と言って、父をすごい目でにらんだ。
ブラックジャックに絞るのは、ルーレット等のゲームが、長時間し続ける限り、確率論的に負けるようにできているのに反し、これだけは戦略次第で勝つチャンスがあるからである。黒の礼服を着た目つきの鋭いディーラーとさしで勝負する感じもなかなかスリリングである。
この人数学者として本当に大丈夫かな? サシ勝負で勝つ戦略、何を言うのか聞いてみたいわ。ハハハ。
女房はおかんむりだった小さなテレビをどこかにこっそりおけば良いものを無断で大型を購入し居間に置いたのは私の美的感覚の欠如であり、田舎者ぶりを表していると言った。確かに私の田舎ではテレビは食堂か居間に置くもので、それを中心に団欒することになっていた。女房はどの家庭でも居間の中心にテレビを据えるから知的会話と言うものが日本で育たないのだという。
私の母も同じことを言っていた。「田舎の家はテレビが立派だ。他の娯楽と教養が無いからだ。」と嘲笑していた。ちなみに一族家では私が中学生になるまでテレビが無く、それ以降も食卓から見えるところに置かれることはなかった。
欧州統合による弊害としてあげたのは、雲助タクシーや犯罪の増加だった。特に自動車泥棒が急増したという。東欧からの出稼ぎ泥棒が路上から、あるいはガレージの鍵をこじ開け車を盗み、国境検問所が無いことを良いことに、はるばる自国まで運転し売りさばく。欧州統合およびそれによる国際化をルシアンは是認している。様々な障害はあっても、欧州の平和に役立つし、経済的にアメリカや日本に対抗する唯一の道とも言う。
父の威厳 数学者の意地 (新潮文庫) 藤原 正彦 新潮社 1997-06 |
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国際テロネットワーク 狙われた東南アジア 3/3 ~資金ルート
アルカイダめ・・・このワシの考案であるアジア一国一愛人構想(ACAL エイカルと読んでください)をパクリやがったな。着想と実行が私よりも10年ほど早いようであるが・・・
アルカイダは、アジア一国一愛人構想を軍事利用しテロ活動を行ったが、
投資一族は、アジア一国一愛人構想を民生利用し投資活動を行う。
中国とインドネシアの崩壊と分裂という政変を、投資機会として心待ちにしている立場なので、我々もあえてアジア一国一愛人構想の平和利用とは言わない。
フィリピン人女性との結びつきで見事にフィリピン社会に溶け込んでいったばかりでなく、ハリファは驚くべき手腕でビジネスマンとしても成功している。ハリファは慈善団体を足がかりに、合法的なビジネスを展開していった。旅行代理店、人材派遣会社、貿易商社などを次々にオープンさせたのである。これらの3社はアルカイダにとって特別な意味を持つ企業であった。まず旅行代理店があればフィリピン国内のテロリストを海外派遣する際に、航空券を自由に発券することができる。また人材派遣会社は、パキスタンやアフガニスタンなどの紛争現場へ長期間、テロ工作の研修に派遣する場合、偽造証明書を簡単に交付できる。さらに貿易商社を持てば、小型兵器、爆弾の材料、麻薬なども、都合のよい通関証明書を偽造し、合法的なチャネルで通関させることが可能となる。とりわけフィリピンは賄賂社会として知られ、多額のチップを払えば通関業務は比較的容易と見られていた。
大規模なテロ計画が成功するか否かの鍵は優秀な工作員たちの腕にかかっている。有能な工作員を発掘すると、その工作員に次から次へとチャンスを与え、テロ計画を高度化させて一流のテロリストに育て上げていく。十分な軍資金を用意し、海外出張はビジネスクラス以上の席を予約させ、高度なテロ計画を実施させる場合には工作員を長期滞在者用のホテルに宿泊させた。工作員は現地で妻や愛人を確保して、愛人名義の銀行口座を開設。さらに「スリーパー」として日常生活に溶け込んで、テロ決行の日を迎える。こうしてビンラディンやアルカイダの目に留まったのが、ラムジー・ユーセフと名乗る細面のパキスタン系クウェート人であった。米国ニューヨークの世界貿易センター・ビルを標的にした爆弾テロ事件(1993年)、ブットー・パキスタン人民党党首暗殺未遂事件、ローマ法王暗殺計画、クリントン米国大統領暗殺計画、ラモス比大統領暗殺計画、フィリピン航空機内での小型爆弾爆発事件、米国系航空会社を狙った太平洋上空での同時爆破計画-これらはすべて、ラムジー・ユーセフが首謀者としてかかわった事件である。
アルカイダにとって、東南アジアのテロ組織の2つの点で価値がある。第一に、アルカイダが反米グローバル闘争を立案し、テロ計画を実施するうえで協力者として利用できることである。つまり、アルカイダの手足となってくれるということだ。東南アジアのテロ組織と提携することで、アルカイダの国際テロネットワークを高度化することが可能となった。第二に、東南アジアにイスラム国家を建設するという点において、東南アジアのテロ組織が有力なパートナーとなることである。アルカイダは東南アジアのテロ組織を支援する応援団やサポーターとしての役割も積極的に演じるようになった。とはいえアラブ人やパキスタン人が主役のアルカイダは常に上位にあり、東南アジアのテロ組織は下位に甘んじなければならず、同志と言っても歴然とした上下関係は存在する。では逆に東南アジアのテロ組織にとって、アルカイダはどのような存在なのか。一言で表現すれば、アルカイダはドナー(提供者)である。テロ資金の提供者としても、破壊活動のノウハウの技術移転元としても、アルカイダは東南アジアのテロ組織が成長するうえで不可欠な存在であった。小型兵器の取り扱いや小型爆弾の製造方法はすべてパキスタンやアフガニスタンのアルカイダ・キャンプで学習したものだ。もともと東南アジアの組織は村単位で組織を構成し、破壊活動も小規模なものであった。しかしアルカイダとさまざまなレベルで提携関係を結んで以来、アルカイダを手本に組織を整備し、資金調達力も高め、質的に大きな変化を遂げていった。
日本人にとってセブ島と言えば、観光リゾートというイメージが強いだろう。しかし観光リゾート・ホテルが密集しているのは、マクタン島と呼ばれる小島だ。ここから橋を渡るとセブ島の中心都市セブ・シティにたどり着く。実はこの郊外に小型兵器の密造工場が、家内制手工業として多数営まれており、ピストルから自動小銃まで、小型兵器はほとんど揃うのである。アルゴジがフィリピンで調達した小型兵器の一部は、JIがインドネシアで創設した二つの軍事組織(ラスカル・ムジャヒディンとラスカル・ジュンドラ)に提供された。1999年からインドネシアの地方都市ポソやアンボンで発生した宗教紛争では、イスラム過激派がカトリック教徒を襲撃する際に大量の小型兵器を使用したが、これらはアルゴジがフィリピンで調達し、ミンダナオ島から船で輸送したものである。2001年にはミンダナオ島のサンボアンガ付近から、宗教紛争が激化するアンボンへ海上輸送中の米国製自動小銃M-16が剃髪されるなど、ミンダナオ島からの武器流出は現在でも続いている。
アルカイダ系テロ組織の資金ルート 東南アジア
万全のリスク管理 テロ組織の資金ルートは一般に想像する以上に複雑かつ多様である。一か所の資金源が断たれても平気なように、調達先を複数に分散するなど、万全のリスク管理が行われている。たとえばJIは少なくとも東南アジア5カ国-インドネシア、マレーシア、シンガポール、フィリピン、タイで自立性の高い小集団を多数編成しており、小集団ごとに自力で資金調達をすることが任務の一つになっている。もちろん本部から資金援助なくしてはスタートできないが、本部からの資金を元手に資金調達を工夫していくことが求められた。
相手が女性だからなー、この教育に失敗して、投資一族の拡大が阻まれている事実はあるな。
アルカイダはロンドン、マドリッド、ドバイの銀行を拠点に、マネーロンダリング(資金洗浄)と資金移動を繰り返していた。中東やアフリカのイスラム過激派が武器を購入する際、これらの銀行を経由して支払いも行われてきた。同様のことは東南アジアにも当てはまる。アルカイダの資金はマニラ、クアラルンプール、シンガポール、バンコク、香港の銀行に流入し、テロ組織の活動資金として提供され、その1部は9・11に関与したテロ実行犯の支度金として利用された。JIのハンバリは、潜伏先のアユタヤとバンコクの銀行に資金をプールして、活動資金と生活費に当てていた可能性が高い。もちろん、9・11以後は銀行への監視が厳しくなり、以前ほど自由にテロ資金を銀行にプールし、洗浄することはできなくなったが、テロ組織にとって銀行が、資金洗浄と送金の面で有力な手段であることに変わりはない。
マネーロンダリングを主たる業務にした銀行が、英国ロンドンにあったBCCI(バンク・オブ・クレジット・アンド・コマース・インターナショナル)である。ビンラディンやその右腕であるザワヒリなどは、資金を一時的にプールし、テロ資金として自由に引き出すためにここを使っていた。1972年にロンドン事務所が開設され、1980年にイングランド銀行から口座開設・外国為替取扱の免許を交付された。その直後からBCCIはマネーロンダリングに手を染めている。イングランド銀行は1991年、総額180億ポンドの負債を抱えたBCCIを閉鎖に追い込んだ。その後もBCCIの看板はしばらくの間、ロンドン市内で放置されたままで、汚れた銀行の清算に手間取っていたことがうかがわれる。
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国際テロネットワーク 狙われた東南アジア 2/3 ~東南アジア進出
ビンラディンは通商「アルカイダ・キャンプ」を設営し、AK-47として知られる自動小銃カラシニコフを大量に調達し、手榴弾、小型地対空ミサイル、対戦車ロケットランチャー、プラスチック爆弾も購入して貯蔵していた。まさにペシャワルはアルカイダの軍事基地そのものといってよい。AK-47とは、ロシアの銃設計者ミハイル・カラシニコフが1947年に開発した自動小銃である。AKとは「アフタマート・カラシニコフ」の頭文字である。軽量、廉価、防塵、耐久性に優れているため、大量の模造品が世界中に出回った。同様にロシア製ピストルのトカレフ銃は、銃設計の神様と呼ばれたトカレフの名前に由来する。武器アカデミーでカラシニコフの師匠がトカレフであった。
不毛の大地ロシアの「唯一の製品」なのではないだろうか?
アルカイダは国際テロ組織へと変貌を遂げる際に、東南アジア諸国を様々な角度から利用してきた。国ごとの機能を七項目、拠点、謀議の場所、中継地、人材発掘、妻と愛人、マネーロンダリング、武器・爆薬の調達先に分類してみたが、中継地を除き、6項目でフィリピンが一位の座を占めている。フィリピン人には家族と親せきの利益を守るという発想はあっても、国益という発想がないと、フィリピン人記者が私に嘆いたことがある。汚職体質がはびこり、治安機関も脆弱だからこそ、アルカイダはフィリピンを最大限に悪用できたのであろう。軍や警察など治安機関が影響力を十分に発揮できないミンダナオ島ではアルカイダは軍事訓練施設を建設してテロリストを要請してきた。大量の武器・弾薬は国内の闇市場で驚くほど簡単に入手できる。
フィリピンに次いで総合ランキングが高いのがイスラム教徒に寛容なマレーシアであった。マレーシアは現在、イスラム過激派に対して厳しい取り締まりをしているが、アルカイダに悪用された時期がある。またタイは中継地として第一位を占める。それ以外の項目でも、拠点、謀議の場、マネーロンダリング、武器・爆薬の調達先で上位にランクしており、アルカイダにとってタイの重要性は明らかだ。武器・弾薬の調達先でカンボジアが2位に顔を出しているが、長い内戦を経験したカンボジアでは武器があふれていた事情が影響している。闇市場で簡単に入手できる自動小銃や手榴弾が、タイ経由でインドネシアのスマトラ島に密輸されるルートが確立していた。これがテロ組織に流れたのである。
民が国益という発想がないのはフィリピンに限ったことではない。国益を考えている民など世界中のどこにもいない。単に民の私利私欲によって国益を失わないようにする国家体制を構築できているかが違うだけなのだ。
中東・湾岸諸国ではフィリピン人の出稼ぎ労働者が大勢働いており、アラブ人にとってフィリピン人はとても身近な存在である。サウジアラビアを筆頭に、フィリピン人がメードとして大量に雇用されている。UAEの首都アブダビやドバイのショッピングモールはフィリピン人抜きでは商売が成り立たない。ドバイの国際空港で免税品店を覗いてみると売り子の大半がフィリピン人である。むしろフィリピン人以外の売り子を探すのが難しいほどだ。耳を澄ましてみると、店員同士がタガログ語で会話をしている。
アラブ人が家族を伴って訪問しやすい国がマレーシアである。7月から8月まで、アラブ諸国は40-50度の気温に襲われるため、金持ちのアラブ人は家族で海外へ避暑に出かける。マレーシアはその格好の地になっている。イスラム教徒の掟を守りつつも、ある程度自由のある点が好評な理由だ。日本人から見ればマレーシアが避暑地であるはずがないのだが、アラブの過酷な真夏から見れば遥かに快適であろう。とりわけ9・11以後は、アラブ人旅行者が急増した。ヨーロッパに避暑に出かけると、なにかと疑いの目で見られて不愉快な思いをするため、代替地としてマレーシアに白羽の矢が立てられたからだ。
クアラルンプールは避暑地ではないが、キャメロンハイランドは日本人にとっても避暑地となりうるだろう。標高が高いので、気温が年間通して20度くらいで安定している。朝は寒いくらいだった。
http://www.ichizoku.net/2008/09/post-117.html
なかなか良い所で東南アジア在住諸君の避暑地としてはお勧めです。
東南アジアのイスラム紛争地
ビンラディンやアルカイダにとって都合のよい場所はイスラム紛争地である。アルカイダが資金援助を行い、経験を積んだ工作員を派遣して破壊活動の指南役を演じることができるからだ。
フィリピン南部のミンダナオ島は、イスラム教徒が実効支配している。もちろんカトリック教徒も生活しているが、大半はイスラム教徒である。ミンダナオ島の大都市ダバオはカトリック教徒の姿が目立つものの、郊外へ足を延ばすとイスラム社会が姿をあらわす。イスラム過激派が拠点を置いてきたことで知られるサンボアンガやコタバトはイスラム社会の中核を占めている。長年にわたってイスラム過激派はマニラの中央政府から分離独立を求め、イスラム国家の建設を叫んで爆弾テロ紛争を繰り広げてきた。中央政府や治安部隊はイスラム過激派を封じ込めることができず、ミンダナオ島での爆弾テロ闘争は現在でも、都市部を中心に毎年のように発生している。
フィリピンについで重要なのは13000余りの島を抱えるインドネシアである。スハルト政権下(1968~1998年)ではイスラム過激派への弾圧が全国的に厳しく実施され、多くのイスラム過激派は隣国のマレーシアに逃亡して、海外で拠点作りを行っていた。スハルト政権がアジア経済危機をきっかけに崩壊して社会秩序が破壊された1998年以後のインドネシアはアルカイダにとって格好の獲物になったはずだ。インドネシアのイスラム過激派が大挙して移り住んだ国がマレーシアである。カリマンタン島(ボルネオ島)ではインドネシアからマレーシアへは小船や徒歩で国境を越えられる。幹線道路を覗いて国境検問はないに等しく、イスラム過激派にとっては自由地帯である。
マレーシア北部ではイスラム原理主義運動がさかんで中央政府の世俗主義を批判してきた。2003年ごろからタイ南部で宗教対立が発生し、多数のイスラム教徒と仏教徒が殺害されている。マレーシア国境に近い南部三県(ヤラー、ナラティワート、パッタニー)は住民の大半がイスラム教徒で生活水準も低い。この地域では元々タイ陸軍が、二つの治安期間と特別開発区を設定してイスラム教徒との共存を進めてきた。ところが警察官出身のタクシン首相が登場して以来、陸軍の治安機関は解体されて、新たに警察部隊が中央から投入され、南部三県の治安と開発を担うようになった。これを境にして、警察署や交番への襲撃が起き、さらに公立学校が相次いで放火されるなど、政府と関連のある建物が標的となった。2004年~2005年の2年で約1000名が殺害されており、治安は悪化の一途をたどっている。2005年5月、タイ南部のイスラム過激派の軍事訓練施設でアルカイダの軍事訓練教本がはじめて発見されており、この地が国際テロネットワークに組み込まれる危険性は十分ある。
アルカイダ幹部がフィリピンの国内社会に深く浸透していくプロセスでフィリピン人の妻や愛人が置きな役割を演じていた。たとえば、アパートやマンションを長期で契約する場合、契約書に地元連絡先としてフィリピン女性の名前が登場した。また事務所を借りる際に不動産屋へ同行して交渉を手助けしたのもフィリピン人の妻や愛人であった。マニラ市内で銀行口座を開設する時は、アルカイダ幹部に代わって妻や愛人が続きを行っていた。長期でレンタカーを契約するにもさまざまな書類を作成する際にも英語とタガログ語が堪能なフィリピン人の妻や愛人が大活躍したのである。
ビンラディンの義兄ハリファは若いフィリピン人女性と結婚してミンダナオ島では夫婦そろってイスラム過激派のリクルートを行っていた。ハリファは多額の工作資金を調達し、複数の銀行口座を開設していたが、そのうちのひとつはフィリピン人妻の名義であった。フィリピン人妻は羽振りの良い夫に信頼を寄せ、自分の家族への仕送りも行い、ミンダナオ島での過激派リクルートにも積極的に協力していたと、現地紙で報じられている。
米国ニューヨーク世界貿易センタービルの駐車場を爆破した首謀者ラムジー・ユーセフはフィリピン人の愛人と共同生活をしていた。マニラ市内のマラテ地区の長期滞在者用ホテルにフィリピン人の愛人が頻繁に訪れていた姿を受け付けに居た管理人が目撃している。フィリピン女性を媒介に、アルカイダ幹部はフィリピン社会に急速に、しかも深く溶け込み、誰からも怪しまれることなく、地域コミュニティの一員として暮らした。日常は「スリーパー」として目だないように生活し、テロ計画を実行に移す段階でテロリストに豹変するのは工作員に共通した特色である。
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失業したイスラム戦士
1988年4月、スイスのジュネーブで米国とソ連が合意して和平協定が調印され、ソ連軍は翌月から早々に撤退を開始する。驚いたのはビンラディンである。アフガニスタンを目指して大勢のイスラム戦士が世界中からやって来るにもかかわらず、戦争終結にともない、イスラム戦士への需要は頭打ちになることが予想されたからだ。中東・湾岸諸国をのぞけば、中央アジア、チェチェン、東南アジアがイスラム戦士の大きな供給地となっていた。ビンラディンが出した答えはアフガニスタンへ向かうイスラム戦士を供給国でくぎ付けにすることであった。兵隊となるイスラム戦士は当面現地でトレーニングすることを思いつく。当時、東南アジアで最大の供給国であったフィリピンに海外事務所を開設したのは、このような背景があったからだ。
ビンラディンは1988年、義兄のモハメド・ジャマル・ハリファをフィリピンに派遣して、首都マニラに海外事務所を開設する。マニラ事務所は、フィリピン南部のミンダナオ島で活動するイスラム過激派への支援を開始し、テロリストの教育・研修施設を建設すると同時に、軍事訓練に必要な資金や小型武器も提供していった。またソフト面も重視し、各分野の専門家をアルカイダ組織から送り込み、教育活動(テロリスト養成)にも着手した。しかし、湾岸戦争を境に、マニラ事務所の役割も、反米闘争を目的としたアルカイダ工作員を受け入れるなど、国際テロ組織アルカイダの活動拠点へと変質していく。
アフガン戦争には約35カ国から25000名以上のイスラム戦士が集まった。アラブ諸国ばかりでなくフィリピン、マレーシア、インドネシアなど東南アジア諸国からも戦士は参加している。フィリピン人の指導者として頭角を現したのが、のちにアブ・サヤフ(ASG)を名乗るようになったジャンジャラーニである。またインドネシア人のグループを引き連れて登場したのが、広域テロ組織ジェマ・イスラミア(JI)の精神的指導者スンカルやバアシル、最高幹部のハンバリであった。東南アジアからやってきたイスラム過激派はパキスタンの軍事訓練基地やアフガニスタンの戦場で、アルカイダ幹部と同じ釜の飯を食べ、ビンラディンとその側近グループに転倒していった。
白衣をまとった長身のビンラディンは異彩を放つ存在で、アフガニスタンやパキスタンでは大歓迎を受けていたというのが一般的なイメージであろうが、現実はそうでもないらしい。戦場に出向かないでデスクワークに時間を費やし、しかも土地の若い女性たちと結婚したからである。アラブ人の評価が低下する中で、ビンラディンは愛用の自動小銃カラシニコフAK-47を片手に戦場で生活していたというイメージが浸透し、一目置かれるアラブ人となっていた。ところが実際には大半の時間をペルシャワルで過ごしており、けっしてアフガニスタンの戦場で一年を通して生活していたわけではない。ビンラディンの巧みさは、あたかも戦場で生活しているようなイメージを作り上げたことだ。あえて粗末な食事をして、アフガニスタンの洞窟や防空壕で生活している姿をビデオカメラに撮影させた。メディアを通じてドキュメント映像の配信を行うなど、ビンラディンはイメージ操作とPR戦略に極めて長けている。
エキゾの金の法則
金を持っていない人ほど、金を持っているように見せるために金を使い、
金を持っている人ほど、金を持っていないように見せるために金を使う。
これ鉄の法則やね。
ビンラディンの反米感情は、サウジアラビア政府や社会への反感と共鳴して増幅した。標的は米国とサウジアラビアに向けられ、湾岸戦争、9・11後のアフガニスタン戦争(2001年10月)、イラク戦争(2003年3月)へ参加した米国の同盟国や支援国へと拡大していく。爆弾テロはいずれも米国の都市、もしくは米国の同盟国や提携関係にある国家の都市である。1993年2月26日に発生したニューヨーク世界貿易センタービル爆破事件は9・11テロ事件の前兆と言える事件である。実行犯グループの首謀者であるラムジー・ユーセフは事件前後にフィリピンに滞在しており、反米グローバル・テロの拠点としてマニラを利用していた。そして9・11テロ事件の最終謀議が、マレーシアの首都クアラルンプールで行われ、米海軍のイージス駆逐艦「コール」爆撃(2000年10月)の打合せも同じ場所でおこなれていた。
東南アジアのイスラム過激派を考える上で、パキスタンは無視できない存在だ。ビンラディンやアルカイダ幹部がアフガニスタン内戦に深く介入していく際、パキスタンは中継地や後方支援基地として死活的な役割を果たしていた。とりわけアルカイダにとって二つの町が大きな意味を持つことになる。国際貿易港のカラチと内陸にあってアフガニスタン国境まで目と鼻の先にあった街ペルシャワルである。東南アジア過激派にとってもなじみの街だ。パキスタンという国名は、パンジャブ地方のP、北西辺境州(州都ペルシャワル)で多数派を形成するアフガンのA、カシミール地方のK、スィンド地方(州都カラチ)のS、バローチスタン地方(州都クエッタ)の末尾のTANをつなげた国名がPAKISTANである。パキスタンには「清らかな国」というウルドゥー語の意味も重ねられたという。
ほほぅ・・・うまいな・・・知らなかった。
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藤原氏の正体 4/4 ~藤原とお公家
藤原氏を糾弾する竹取物語
くらもちの皇子は、心たばかりある人にて
とのっけから、くらもちの皇子は謀略家であると辛辣に批判する。竹取物語の作者は貞観8年(866)に起きた応天門の変で藤原氏に仕組まれた紀氏の末裔、紀貫之だったのではないかとする説がある。くらもちの皇子=藤原不比等はもっとも卑劣な人物としてえがかれている。いっぽう石上麻呂と同一とされる中納言の場合、全く逆である。中納言はかぐや姫から「燕が持っている子安貝を取ってきて欲しい」と要求される。子安貝は皇子であり、物部氏が務めてきた皇子の養育係の地位の崩落にほかならない。物部氏が子安貝をつかみ損ね、藤原にその地位を横取りされてしまったのだ、と結論付けるのである。月の王らしきものがかぐや姫に向かって「いざ、かぐや姫、穢き所にいかでか久しくおはせむ」と言い放った。「穢き所」とは平安の世であり、藤原の天下である。
長屋王と藤原四兄弟の衝突、基皇子の夭逝とほぼ同時に聖武天皇と夫人・県犬養広刀自の間に安積親王が誕生したことが、長屋王の寿命を縮めた。このまま時間が推移すれば、安積親王が皇位を奪うはずだからである。藤原氏にすれば「藤原の天皇」は生命線である。そこで、藤原氏は光明子を皇后に押し上げることで、安積即位の芽を摘み取る作戦に出たのである。そうすれば安積よりもあとに光明子の皇子が生まれても、その皇子を即位させることができるし、光明子には阿部内親王(後の孝謙・称徳天皇)がいて、女帝を生みだすことも可能であった。皇族でないものを皇后に押し上げようとすれば、必ず長屋王が邪魔になると呼んだわけである。長屋王と室の吉備内親王、その子等が自尽して果てた。長屋王の変が冤罪であったことは続日本紀自身が認めている。
安積親王の死は深い謎に包まれている。聖武天皇は長屋王の弟・鈴鹿王と藤原仲麻呂に命じ、難波行幸に出発する。そして続日本紀にしたがえば途中の桜井頓宮(河内国)にさしかかったところで、安積親王は脚の病にかかり、急きょ恭仁京に引き返し、その二日後、安積親王は恭仁京で急逝するのである。安積親王の母は県犬養広刀自であり、この一族には、橘諸兄という強力な後押しがある。光明皇后の娘・阿部内親王がすでに太子となっていたが一つ歯車が狂えば、皇位をさらわれる危険が横たわっていた。
大炊王と藤原仲麻呂を暗殺する計画が露見したのである。密告によると黄文王・安宿王・橘奈良麻呂・大伴古麻呂らが兵400をもって宮を囲み、残りの兵で不破の関を塞ぐという大がかりなものであった。ところが皇太后光明子が「連行された者たちは私の親族であるから、私を害するようなことをするわけがない」として解放してしまった。あわてたのは仲麻呂である。改めて兵を繰り出し、首謀者を連行した。孝謙天皇は、「謀反人たちを法に照らし合わせれば、死刑は免れるが、ここは温情をもって対処し、罪一等を減じる」と宣言したが、多くの者たちが非合法的に残酷な拷問で精根尽き果てて亡くなっていったわけである。
天武天皇以来続いてきた天武の血統をここで断ち切り、天智の血統の復活を目論んだのである。藤原にすれば聖武天皇から称徳天皇へと続く、「反藤原の天皇」に辟易したにちがいない。聖武も称徳も藤原の子であるはずだが、藤原四兄弟の死後、聖武天皇は豹変し、藤原との戦闘の道を選んだのである。聖武天皇が天武の子であることに目覚めた時点で、藤原の悲願は観念上の天智朝である持統朝を捨て本当の天智朝を復活させることに移っていったと思われる。幸運にも称徳天皇は独身女帝であり、子がいない。天武天皇の末裔は、奈良朝の数多の政争の中で、優秀な人材を次々に失っている。称徳天皇の崩御を受けて、藤原蔵下麻呂らが、天智天皇の孫・白壁王を皇太子にしたことが記録されている。称徳天皇は白壁王が最年長であるから、とするが、数え62歳という老いぼれをなぜここで担ぎ上げたのだろう。しかも光仁天皇は天武系ではない。天智の孫である。天武と天智は水と油であり、なぜ天武系の称徳天皇が白壁王擁立を援護したのか、釈然としない。白壁王は天智系であることから陰の存在であり、危険から身を避けるために酒浸りの生活を自演していたほどである。
藤原に殺された井上内親王
聖武天皇が反藤原運動に力を注ぐあまり、東大寺建立に没頭し、民百姓を作り出してしまったことは確かなことである。橘奈良麻呂は謀反の疑いで捕縛されたとき、皮肉なことに藤原仲麻呂政権が継承することとなった東大寺建設事業を非難している。だが逆に仲麻呂が事業を最初におしすすめた橘諸兄を非難し、奈良麻呂が反論できなかった、という場面が続日本紀にある。律令制の矛盾がすでに噴出し、国家財政が逼迫、土地を手放し逃亡する百姓は後を絶たないという状況は、天武朝を守らねばという使命感など朝廷の官人たちに残っているはずもなかった。
そこは老獪な藤原氏のことである。天武系の井上内親王を光仁天皇の皇后に押し立て、その子・他戸王を次期皇位継承者とした。これならば天武系の皇族を推していた諸卿たちも了承せざるを得なかったのではなかったか。藤原氏は光仁天皇を生むだけでは安心できないと踏んだのであろう。藤原百川は井上内親王の追い落としに出ている。皇后の井上内親王は巫蠱(まじないをし、人を呪うこと)をしたので、皇后位を剥奪された、という。桓武天皇は784年平安京の前身となる長岡京の造営を命じた。腐敗した奈良仏教界から逃れたかった。律令制度の矛盾と欠陥が露呈し、地方豪族が税を払わない方便として仏教にすがりついた、という。
貴族になった藤原氏
平安時代初期、源氏の出現が藤原氏の貴族化に拍車をかけた。源氏といえば武家の統領として名高いが、もともとは皇族賜姓にほかならない。皇族賜姓は皇室の経済的な困窮と天皇家の藩屏、すなわち守りを固めるためにはじまった。嵯峨天皇(809-823)が源姓を与え臣籍に下したことからはじまる。藤原氏にとって源氏は最大の脅威になった。源氏が天皇の末裔であるために他の氏族にはあり得ないような特別待遇を受け、若いうちから高位高官の役職に就くようになった。しかし、藤原氏もしたたかなもので、源氏に与えられた特例、前例を逆に利用し、それまで以上に優位な特権を引き出すことで対抗し焼け太っていく。
婚姻関係を結ぶだけで、これだけの力を発揮したかというと古代の婚姻形式に招婿婚があったからである。招婿婚とは結婚したら男性が妻の実家に入るというもので、古代における女性の地位の高さが確かめられる。天皇は結婚しても妻(后妃)の実家に入ることはないが、宮中に妻の自室である局を置き、これが妻の実家の役割を果たす。めでたく懐妊すると妻は本家の実家に戻り出産し巫女を育てる。ここで大切なことは皇子を女性の実家で育て、その女性の父母が皇子の成長を見守る、ということで、皇子と母、祖父母の間に非常に緊密な親愛の情が生まれるということである。
【差別被差別構造】
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藤原氏の正体 3/4 ~律令制度と藤原氏
律令制度で日本のすべてを私物化した藤原氏
なぜ中臣鎌足は蘇我入鹿暗殺を急いだのか、壬申の乱で没落したはずの藤原不比等がどのようにのし上がることができたのか、またその後の藤原氏が朝堂を独占し、日本を私物化することはできたのなぜか。これらはすべて「律令」の本質を知ることで明快になってくるのである。律令は刑法の「律」と、行政法・訴訟法の「令」からなる。要するに律令は明文化された法律であり、中国の隋や唐で完成したものをヤマト朝廷が模倣し形の上では江戸時代末期までこの国の行政を支配してきた制度である。律令制度は土地改革制度で、土地の私有は原則的に否定され、農地はいったん国家のものとなり、人々に再配分されるシステムだった。支配する土地の大きさによって発言力を堅持していた豪族層は、律令の完成によって、官位と役職の差に一喜一憂していくことになる。
百済王豊璋と中臣鎌足の接点
中臣鎌足が歴史に登場した時期と、豊璋の来日時期の重なりである。「日本書紀」は舒明3年(631)3月、百済の義慈王の子・豊璋が人質として来日した、と記している。これに対し、中臣鎌足の初出は皇極3年(644)の中臣鎌足の神祇伯任命記事である。この間13年の差があるが、豊璋来日後に中臣鎌足の記事の初出がある点は間違いない。「三国史記」には、豊璋は白村江の戦いの後脱出したが、行方知れずとなってしまったとある。これに対し「日本書紀」は白村江の戦いの後の豊璋の行方について、百済の王豊璋、数人と船に乗りて、高麗に逃げ去りぬ と記録する。白村江の戦いの直前、豊璋は白村江のほとりに籠城し孤立していたが、これを救助するためにヤマトの水軍は白村江にむかった。豊璋はヤマトの水軍と行動を共にし、白村江の大敗を目撃した。その豊璋がなぜ高句麗に逃げることがあろうか。ヤマトの水軍は敗戦後対馬を目指しただろう。
いっぽうの中臣鎌足は、孝徳天皇最晩年の記事の後ぱったりと日本書紀から姿をくらます。再登場するのは、白村江の戦の後、ヤマト朝廷が滅亡の危機に立たされた真っ最中である。天智3年(664)5月百済を占領した唐の鎮将が郭務悰を日本に派遣し筑紫にとどまった。10月には中大兄皇子が郭務悰に勅を伝えさせさらに中臣鎌足がつく死に人を遣わせて郭務悰に贈り物をしたというのである。これが中臣鎌足の白村江前後の動きである。中臣鎌足は中大兄皇子の忠臣であり、常に近侍していたはずである。しかも日本書紀は藤原不比等の強い影響力のもとに記された歴史書だ。白村江の戦いという日本史上最大の危機に中大兄皇子の元で活躍したとすれば、必ずや日本書紀はその様子を克明に記したに違いない。
大織冠伝は白村江の戦いに際し、中臣鎌足は中大兄皇子にぴったりと寄り添い、けっして離れることはなかったといっているのである。ただ不審なのは白村江の戦いに、中臣鎌足がどのように関わったのか、具体的な記述がまったくないことである。大織冠伝の記述は、どこまで信用できるのだろう。
中臣鎌足は乙巳の変ののち、内臣に任命され、生涯この職掌を守り通した。内臣は法律で保証された正式な職務ではない。臨時職なのである。乙巳の変で大活躍し、中大兄皇子の懐刀であった中臣鎌足がなぜ左大臣、右大臣といった、正式な役職につくことができなかったのであろう。(死の著置く全、名誉職的な意味合いを持つ大臣の位を授かってはいるが、ほとんど追贈のようなイメージだろう) 鎌足の場合、「連姓貴族」が大臣の位につくことはできないという慣習が一つの理由だったかもしれない。しかし最晩年、天智の独断でようやくその念願が叶った。このような無理を押しとおせるのなら、もっと早く、本当の大臣の位を中臣鎌足に授けるべきであった。それができなかったのはなぜだろう。鎌足に日本国籍がなかったと仮定すると謎ではなくなる。
なぜ天智の娘が天武朝で即位できたのか
天武天皇の皇后・鵜野、この女人は天武天皇崩御後即位し持統天皇になり不比等を抜擢する。万葉集には持統の天武を思う歌が残されているにもかかわらず、天武が持統を偲ぶ歌は一首も無い。二人は本当に仲の良い夫婦だったのであろうか。天武天皇崩御後有力な皇位継承候補であった大津皇子を持統は罠にかけて殺し、持統は藤原不比等とコンビを組んでしまう。持統天皇は天智天皇の娘であり、このコンビは図式的には天智天皇と中臣鎌足の再来となる。このコンビが天智と中臣鎌足が展開したような恐怖政治を展開した疑いも出てくるのである。
なぜ鵜野は即位できたのか。日本書紀はこのあたりの事情を一切語ろうとはしない。「扶桑略記」には持統天皇が即位し、大和国高市郡飛鳥浄御原の藤原の私邸に持統が「都す」、つまり、宮を置いた、という記述がある。「東大寺献物帳」にしたがえ、この直前藤原不比等は病床にあった草壁から黒作懸偑刀を拝受していたことになる。なぜ藤原不比等は持統を私邸に住まわせ、しかも私的なガレリヤを用意したのであろう。
不可解なのは、持統・不比等政権の悲願だった軽皇子の立太子を「日本書紀」が記録していないことなのである。さらに高市皇子の薨去記事も不自然で、高市の名が記載されず、「後皇子尊」とのみあることも不審きわまりない。これでは誰が死んだのか分からない。なぜ堂々と日本書紀は高市皇子の死を後世に知らせようとしなかったのだろう。草壁の死に際し、持統の次は高市という密約があったからこそ持統の即位が了承された。高市皇子は持統や不比等らの魔の手にかかり抹殺された可能性が出てくる。
藤原の律令を制した意味
何をすれば罰せられるのか、どうすれば法の網から逃れられるのか。現代ではすべては裁判所が判断する。しかし、大宝律令はできたばかりでそれを誰が解釈するかといえば、作った本人や律令に関わる当事者が説明することになる。つまりこのことは藤原不比等そのものが歩く法律と化したことを意味する。藤原氏は法と天皇を支配することで、権力の独占を目論み、日本を私物化していく。したがって藤原氏千年の基礎を築いたのは中臣鎌足ではなく藤原不比等である。藤原不比等は一つの氏から一人の参議官というヤマト朝廷が守り続けてきた因習を無視し、「律令に規定のない」ことをいいことに、藤原氏から複数の参議を排出するようになる。皇后の資格についてもはっきりとした規定はなかった。それまでの常識では皇后位に付けるのは皇族に限られていたが、藤原氏はこの慣習を無視して、自家から皇后を排出することに成功するのである。
藤原氏の正体 (新潮文庫) 関 裕二 新潮社 2008-11-27 |
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藤原氏の正体 2/4 ~中臣鎌足とは? その出自
太平洋戦争の戦前戦中、三度総理大臣の座に就いた近衛文麿は、昭和天皇に政務を上奏する時、椅子に座り、足を組んだままで、涼しい顔をしていたという。もちろん周囲の顰蹙を買ったが、このような不謹慎が許されたのには訳がある。近衛氏が藤原五摂家の筆頭だったからにほかならない。五摂家は7世紀の大物政治家・藤原不比等の4人の男子、武智麻呂、房前、宇合、麻呂のなかの房前の末裔、藤原北家が5つの家に別れ(近衛、九条、二条、一条、鷹司)、平安時代以来、明治にいたるまで、代々摂政と関白を排出する一族として、貴族社会の頂点に君臨してきたのである。
後続を殺めた数という点では藤原氏の右に出る者はいない。長屋王、安積親王、井上内親王など、正史が認めたもの、認めていないものも含めて、藤原氏は邪魔になった皇族をいとも簡単に闇に葬り去っている。幕末の孝明天皇の死にも不審な点がある。第121代孝明天皇(在位1846~66年)は若手公家たちが討幕運動に走る中、公武合体を推し進めようとしていた。京都守護職の松平容保、一橋慶喜(第15代将軍)らと手を組んで長州藩らの尊王攘夷派集団を排斥し、その直後に病死する。この死には暗殺説が根強く、例えば平凡社の『世界大百科事典5』(1984年初版)は、この年疱瘡を病み逝去。病状が回復しつつあったときの急死のため毒殺の可能性が高い。と指摘しているほどである。あえて百科辞典の記述を引用したのは、、それほどまでに暗殺説が定着している証だからである。
官中の密室殺人。しかもその密室は「藤原」の自宅のような場所であった。なぜなら、近世の公家はそのほとんどが藤原系だからだ。すなわち、この暗殺事件には、藤原が大きくかかわっていなければなしえないのである。このように天皇は長い間、藤原の私物であった。天皇をいかに操ろうが、藤原の買ってだったのである。近衛文麿の不遜も、その根源は藤原の歴史の中に隠されているのである。近代にいたっても、藤原による天皇家支配は続いた。明治天皇、大正天皇の皇后は、ことごとく藤原氏の女人であり、昭和天皇の皇后も藤原の血をひいていたから藤原による皇室支配は近代に引き継がれたのである。したがって、今上天皇が藤原とは無縁の美智子妃を選ばれた時、藤原氏の末裔は少なからず衝撃を受けたはずである。美智子妃が官中で散々嫌がらせを受けたという話はワイドショー的であまり詮索はしたくないが、その理由も「藤原と天皇家」の歴史を念頭におかなければ理解できるものではない。その点、今上天皇のご行動はご本人が意図的に選択されたかどうかは別として、歴史的な意味を持っていたのであって、またあ、多くの妨害があったであろう中での英断は、たたえられるべきものなのである。
謎に包まれた藤原氏の出自
藤原市最大の謎は、日本で最も高貴な一族でありながら、いまだに出自がはっきりしていないということである。少し歴史に詳しい方なら「日本書紀」の神話に中臣氏の祖神が登場するのだから出自は明白ではないかと思われるかもしれない。中臣氏の始祖は神話の中に見出すことができる。「日本書紀」神代上(かみのよのかみのまさ)大七段本文には、天照大神の天の岩屋戸神話があり、そこで中臣氏の祖神が大活躍をしている。
天照大神は不審に思った「私が岩窟に籠ったのだから、豊芦原中国は、かならず闇夜のはずなのに、なぜ天鈿女命(あまのうずめのみこと)は楽しそうに踊り狂っているのだろう」 そういってためしにと、磐戸をそっと開けてみた。その時待ち構えていた手力雄神が天照大神の手を取り、天石窟から引きずり出したのである。ここで中臣神・忌部神が端出之縄しりくめなわ(注連縄しめなわ)を引き渡し、「もう二度と中に戻されますな」と告げたのである。
こうしてみてくれば、日本でもっとも権威のある神・天照大神の天の岩屋戸隠れで、中臣氏の祖神・天児屋命が重要な役割を負っていたことがわかる。中臣氏の正統性は正史の中で証明されていたのである。では何が問題になってくるかというと3点挙げることができる。まず第一に、中臣鎌足の登場まで中臣氏の活躍がほとんど見られないこと。第二に、その中臣鎌足も何の前触れもなく、唐突に歴史に登場する。しかも正史「日本書紀」を読んだかぎりでは、中臣鎌足の父母さえはっきりしない。第三に、中臣鎌足の末裔の藤原氏は、どういう理由からか、中臣鎌足は常陸国の鹿島からやってきたと捉えていたふしがある。正史日本書紀の中で証明された正統性をなぜ自ら疑ってかかったのか、説明がつかないのである。
歴史時代の中臣氏のさえない活躍
日本書紀の中で中臣鎌足以前の中臣氏のめぼしい行動を拾い上げていってみよう。神武即位前紀には、菟狭国造の祖・菟狭津媛が中臣氏の遠祖・天種子命の妻となったという話がある。垂仁天皇紀25年春2月の条には、5人の大夫の名が連なり、その中に中臣連の遠祖・大鹿島の名が見える。神功皇后が中臣烏賊津連らに仲哀天皇の崩御を秘匿するように命じる場面。日本書紀の記事は伝説の域を出ていない。6世紀の段階に入ると生々しい権力闘争の中に、中臣氏が登場してくる。欽明天皇紀13年10月には、仏教を導入しようと朝廷に働き掛ける蘇我稲目に対し、物部大連尾輿とともに中臣連鎌子(中臣鎌足とは別人)が、仏教を蕃神と罵りもし仏教を取り入れればおそらくは国つ神の怒りを買うに違いないと抗議している。敏達天皇紀14年3月の条には仏教をあがめようとする天皇に対し、物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫が次のように奏上している。「なぜ陛下は我々の言葉をお信じになられないのでしょう。欽明天皇の御世より陛下の世にいたるまで疫病はちまたにはやり、人々が絶えてしまおうとしております。これはすなわち、蘇我臣が仏教を広めているからにほかなりません。」 こうして崇仏派と廃仏派の衝突が始まり、同年6月、物部弓削守屋大連や中臣磐余連は寺を焼き、仏像を捨てたと記す。舒明天皇即位前紀には、推古天皇の崩御を受けて、次期後継者問題が浮上する中、中臣連弥気なる人物が、蘇我蝦夷を推す田村皇子の即位に同意する発言を行っている。ここに現われる中臣連弥気は『新撰姓氏録』に中臣鎌足の父とある御食子と同一であろう、と考えられている。神代の大活躍が嘘であったかのように、中臣氏の記述は地味で目立たない。6世紀、排仏派としての中臣氏がクローズアップされるにすぎない。また、古事記にいたっては神話をのぞいて中臣氏はいっさい姿を見せないのである。
中臣鎌足の初出は皇極3年(644年)の神祇伯抜擢記事であった。ただ、ここで中臣鎌足はまったく前後の脈絡なく登場している。後世の大織冠伝や中臣氏系図の中で、中臣鎌足の父は御食子と明記されているにもかかわらず、なぜ鎌足の系譜ははっきりと示されなかったのであろう。大織冠伝では中臣鎌足はヤマトの高市郡の人で天児屋命の末裔であること。御食子の長子で、母は大伴夫人といい、推古34年(622年)に藤原で生まれた。大織冠伝は奈良時代後期の政治家・藤原仲麻呂の手で編纂された760年前後の歴史書である。一度没落した藤原氏を復興させ、独裁権力を手中にした藤原仲麻呂が藤原氏の正当性を喧伝し、自家の「輝かしい歴史」を後世に書きとどめようとしたのが大織冠伝だったわけだ。日本書紀は720年に編纂された。藤原不比等が確固たる政治体制を固めた時代だった。とするならば日本書紀は藤原氏の正当性、正統性を主張するために書かれた歴史書とみて見て間違いない。
後世の藤原氏は中臣鎌足が常陸国の鹿嶋からやってきたのではないかと考えていた節がある。平安時代後期に成立した歴史物語『大鏡』には、次のようにある。ちなみにこの物語は藤原道長をはじめとする摂関家を列伝風に記したものである。大鏡は中臣鎌足はもともと常陸国の人だったというのである。さらに中臣鎌足出現以来、中臣の氏神が祀られる鹿島神宮には歴代天皇が即位されるに際し、必ず御幣の使いが出されてきた、と記録している。そして都が平城京に遷ってからは、鹿嶋は遠いので、都の東側の三笠山に勧請し、春日明神として祀るようになった、とする。この記述だけをもって藤原氏自身が中臣鎌足の出身を常陸と考えていたと決めつけることはできない。奈良時代、藤原仲麻呂が関わった大織冠伝には、自家の祖を日本書紀同様神代の天児屋命であったと主張している。ところが奇妙なのだが、藤原氏が祀る奈良の春日大社には、常陸の鹿島神宮と下総の香取神社の神が勧請されている。しかも、東国から招かれた二柱の神が藤原氏の祖である天児屋命よりも厚く丁重に祀られているのである。
中臣氏の出自をめぐる2つの仮説
第一の仮説 大鏡による常陸の国の鹿嶋説
なぜ日本書紀がせっかく構築した天児屋命の末裔とする図式を無視する必要があるのか。
第二の仮説 大阪東大阪市の中臣氏の末裔説
春日大社に鹿嶋と香取の祭神を勧請したという説明がつかない。
第三の仮説として
平安初期大同2年(807)に記された『古語拾遺』である。8世紀から9世紀、他の豪族を圧倒する藤原氏に対し、官人・斎部広成は中臣氏の祭祀独占に噛みつき古語拾遺を記した。平安初期にいたり、いくつかの古伝承やしきたりが失われたことを指摘し、御歳神の古伝承を付け加え、斎部広成自身の恨みとは、本来神道祭祀の同僚であった中臣氏が斎部氏を従者のように従えていることだという。大化の改新以来、中臣氏に権力が集中してしまったのだ。この結果、天平時代、神帳(各地の祭祀の実態を記録した帳簿)を作った時は、中臣氏が権力に任せ、小さな神社でも縁のあるものは取り上げ、大きな神社でも中臣氏と縁の無いものは切り捨てられたという。八世紀後半になると、中臣氏は勝手に奏上する詞を改変し、自家に有利な働きかけをし、斎部氏を従者に仕立て上げてしまった、というのである。
中臣氏が天皇家の三種の神器の一つ、草薙の剣を軽視し、ろくに祀りもしなくなってしまったと憤慨していた。なぜこのようなことになってしまったかといえば、おそらく、黒作懸偑刀を藤原不比等が持ち出したことと無縁ではなかろう。黒作懸偑刀の話は『東大寺献物帳』に載っている。それによればはじめ持統天皇の皇子・草壁が常に持ち歩いていたこの刀を、草壁皇子は藤原不比等に賜ったのだという。草壁皇子の死後、持統天皇が即位し、さらに草壁皇子の子・文武天皇の即位に際し、不比等はこの刀を献上した。慶雲4年(707)文武天皇崩御に際し、ふたたび黒作懸偑刀は不比等に下賜され、そして不比等は、首皇子(聖武天皇)に献上した、というのである。まるで黒作懸偑刀こそが草壁から孫の聖武に至る、皇位継承のレガリヤであるかのようだ。
藤原氏と神道祭祀にもっとも近い一族なのであれば、過去の権威を否定するような小道具を用意したのであろうか。藤原氏は本当の「神道」から疎外されていたのではあるまいか。本当の神道とは物部と出雲の作り上げた信仰形態である。中臣鎌足は、忽然と日本書紀に姿を現した。無位無冠の人間がなぜいきなり神祇伯抜擢という僥倖を得たのだろう。超一流の豪族・物部氏と密接な関係にあり、だからこそ朝廷の祭祀と深くかかわっていたこの一族はなぜ物部氏との因果を日本書紀の中で否定しまったのであろう。結論を先に行ってしまえば、中臣鎌足は、当時朝鮮半島の百済から人質として来日していた、百済王・豊璋その人ではないかと筆者は考えている。
【民族意識系】
2013.01.21|民族世界地図 1/2
2012.11.12 もっと知りたいインドネシア 2/3 ~地理と民族
2012.10.05|宋と中央ユーラシア 4/4 ~ウイグル問題
2012.04.25|美しい国へ 2/3 ~平和な国家(国歌)
2011.08.17: 実録アヘン戦争 1/4 ~時代的背景
2011.05.09: 日本改造計画1/5 ~民の振る舞い
2011.03.25: ガンダム1年戦争 ~戦後処理 4/4
2010.09.09: ローマ人の物語 ローマは一日して成らず
2010.08.02: 日本帰国 最終幕 どうでも良い細かい気付き
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.02.04: 新たなる発見@日本
藤原氏の正体 1/4 ~鎌足と蘇我氏
7世紀、逆臣蘇我入鹿誅殺で活躍した藤原(中臣)鎌足の登場以来、藤原一族は、日本の頂点に君臨し続けた。極論すれば日本の歴史は、藤原氏の歴史そのものなのである。平安時代、藤原道長は
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば
という傲慢極まりない歌を残した。傲慢だが事実である。朝堂は藤原一党に牛耳られ、他の氏族は藤原氏のご機嫌をうかがい、平伏するほか手はなくなっていたのである。藤原摂関家は日本各地の土地を貪欲にもぎ取り、「他人が錐を突き立てる隙もないほどの領土を一人占めしている」と批難されるほどであった。
大化の改新は本当に正義の改革だったのか
藤原氏といえば、中臣(藤原)鎌足の名がすぐにあがるだろう。中臣鎌足は西暦645年、乙己の変で逆臣蘇我入鹿を討ち滅ぼしたと『日本書紀』にはあり、学校の授業で誰もが習う人物だ。
蘇我馬子は蘇我系の推古女帝(母が蘇我の出)を担ぎ上げ、同じく母が蘇我出身の聖徳太子を摂政に押し立てて完璧な蘇我氏の全盛期を確立したのである。皇極女帝は蘇我蝦夷を大臣として留任させたが蝦夷の子入鹿は勝手に国政に参与した。蘇我蝦夷は葛城の高宮に祖廟を造り、祖廟も八佾の舞もどちらも中国では皇帝にのみ許された特権であり蘇我氏の増長が誰の目にも明らかになっていた。蝦夷と入鹿は二つの墓を造り、蝦夷の墓を大陵、入鹿の墓を小陵と名付けたという。ここにいう「陵」とは天皇の墓を意味している。
腑に落ちない「日本書紀」の分注
入鹿暗殺直後の古人大兄皇子の叫んだ一言である。古人大兄皇子は蘇我入鹿の後押しを得て、皇位を狙っていた人物であり、こののち中大兄皇子と対立し、滅亡に追い込まれている。入鹿暗殺直後、古人大兄皇子は自宅に駆け込んで次のように叫んでいる。
韓人、鞍作臣を殺しつ。(韓政に因りて誅せらるると謂ふ。)吾が心痛し。
これによると「韓人」が蘇我入鹿を殺した。胸が張り裂けそうだ・・・というのだ。そして「日本書紀」の分注(カッコ内)は、「韓人」について、「韓の人=朝鮮半島からやってきた人」の意味ではなく、「韓政=朝鮮半島をめぐる外交問題」が原因で殺されたのだと記しているのである。この一節には二つの問題がある。
まず第一に、仮に分注を無視し「韓人」を「韓の人」と解釈すると、これに該当する人物が見当たらない、ということである。飛鳥板蓋宮大極殿で入鹿が殺された時、実行犯の中に「韓人=渡来人、あるいは渡来系豪族」は存在しない。このため「韓人」については色々な解釈がある。三韓の調進の場を利用しての暗殺劇だから「韓人のために」と暗示的に記した、とする考え。また三韓の使者はそもそも偽物で中大兄皇子らとともに入鹿に襲いかかったのではないか、などといった考え方がある。分注の「韓政」を重視するならば、蘇我入鹿暗殺は蘇我本宗家の専横が原因だったのではなく、中大兄皇子と蘇我本宗家の外交姿勢の隔たりが事件の根源に隠されていたことになる。乙巳の変の入鹿暗殺にいたる道のりは、明快な勧善懲悪の物語に仕上がっている。それにもかかわらず、なぜ入鹿の死後に、不可解な謎を日本書紀の編者は用意したのだろう。
蘇我入鹿暗殺直後、皇極天皇は譲位の意志を固めた。息子の中大兄皇子に即位を促したのである。だが、中臣鎌足はこれを制止する。「あなた様には、中大兄皇子という兄(舒明天皇と蘇我系の女人から生まれた)、そして軽皇子(孝徳天皇)という叔父がおられます。もしこの状態で即位されましたら、年下の者としての道を外すことになりましょう。ですから、しばらく叔父の軽皇子を押し立てて人々(民)の望みを叶えた方が得策にございます。」この進言を受けて中大兄皇子は即位を断念する。こうして孝徳天皇は誕生した。なぜこのとき中大兄皇子は即位を先延ばしにしたのかといえば、一般には次のように考えられている。すなわち、皇太子という地位にいることで、自由な活動ができる道を選んだ、というのだ。名よりも実を取ったことになる。
孝徳天皇と中大兄皇子はこののちたびたび衝突を繰り返し、結局二人は決定的な破局を迎えるのである。中大兄皇子は孝徳天皇から正妃や官人らを引きはがし、孤立させてしまうのである。しかし中大兄皇子に対する民衆の期待度が、我々の想像しているような代物ではなかったのではないか、という疑いもある。乙己の変の直後から中大兄皇子の住む宮はたびたび不審火に包まれていたからである。そして同時に中大兄皇子に対する人々の不満が爆発しているからなのである。歴代天皇を見渡しても、これだけ「火事」と縁のある人物はいない。665年飛鳥板蓋宮、666年岡本宮、667年大和から近江に都を遷すがいたるところで火災が起きていた。669年天智天皇の政権の中枢に不可解な火の手が上がっている。
中大兄皇子に対する民衆の反発には一つの頂点がある。それは日本史上最大の国家存亡の危機、白村江の戦の前後である。民衆は百済救援を無謀と判断していたからであろう。ヤマト朝廷軍は白村江の会戦で唐と新羅の連合軍の前に完膚なきまで叩きのめされ、百済は滅亡した。そして唐の大軍が日本列島に押し寄せるかもしれないという悪夢のシナリオが予想されたのである。中大兄皇子は必死に西日本各地に城郭を築いた。唐が百済滅亡後、、攻める矛先を日本ではなく「まず高句麗」と判断したことでかろうじて日本は救われた。高句麗滅亡後、新羅が唐に反旗を翻し、唐はヤマト朝廷に対し懐柔策を採ってきたのである。667年、九死に一生を得た中大兄皇子は都を近江に遷す。遷都には反対論が根強く、民衆は各地で暴徒と化した。日本書紀の言うような蘇我氏の専横、これに対する中大兄皇子、中臣鎌足の正義の戦いこそが乙巳の変(大化の改新)であったという常識をまず疑ってかかる必要がある。このことは中臣鎌足の不可解な死ともかかわりを持ってくる。
669年冬10月の10日から16日にかけて、日本書紀は中臣鎌足の死に至る事情を次のように説明している。10日、天智天皇は中臣鎌足(日本書紀には藤原内大臣とある)の家に行幸し、病に伏せった中臣鎌足を見舞っている。15日東宮大皇弟(大海人皇子)が見舞い、この時、中臣鎌足に大織冠と大臣の位が授けられ、姓を藤原と改めたという。そして翌日藤原鎌足は薨去したのである。不思議なのは中臣鎌足の死が唐突にやってきたことである。同年5月、天智天皇は山科野に狩りに出かけ、中臣鎌足はこれに従い元気な姿を見せていた、とある。問題は鎌足の死の直前、「是の秋」の条に奇妙な記事が載せられていることである。
藤原内大臣の家に霹靂せり。
すなわち中臣鎌足の館に落雷があったというのである。落雷は古来祟りの象徴だったのである。したがって中臣鎌足の発病が尋常ならざる原因に因っていたことを落雷記事は暗示していたことになる。ここで強調しておきたいのは、乙巳の変の立役者で他人様に恨まれるような行為をしたことが無いはずの中臣鎌足が、祟りで死んでいったという一点である。
日本書紀は蘇我入鹿こそが、天皇家をないがしろにした、という。しかし、中臣鎌足が天皇家のために身を粉にしたかというと、大きな疑問符が付きまとう。藤原氏は中臣鎌足以来、つねに日本の頂点に君臨し続けた。しかもそれは一貫して「天皇家のため」ではなく、自家の繁栄のためだったように思えてならない。藤原氏にとって天皇とは自家の繁栄を継続するための道具にすぎなかったのではなかったか。実際、現代にいたっても藤原氏は「天皇に最も近い一族」という立場を利用し、目に見えない閨閥を作り上げてしまっているのである。
【愛国者・民族主義者】
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2011.12.27: 民主主義というのも民に自信を持たせるための方便
2011.10.25: インドネシア 多民族国家という宿命 1/3~歴代大統領
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2011.07.12: 父親の条件2/4 ~フランス人の高慢ちきな態度はここから
2011.05.10: 日本改造計画2/5 ~権力の分散と集中
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2010.07.13: 日本帰国 第一幕 靖国参拝
2010.05.25: 靖国で泣け
2009.08.21: インド独立史 ~ナショナリズムの確立
マルタの鷹
やばい、しょうもない本を読んでしまった…
破目をはずすしか、女との付き合い方を知らないんだ。
注ぐ酒の量に注文をつける男は信じないことにしています。飲み過ぎぬように用心せねばならないというのは、飲みすぎると信用ならない男だということの証ですからな
エルサレムの聖ヨハネ・ホスピタル騎士団のことをどの程度ご存知でしょうか。のちにロードス騎士団などとも呼ばれた結社のことが。1523年に連中をロードス島から追放したオスマン・トルコ帝国の偉大な王、スレイマン一世のことも覚えてらっしゃらないでしょうな。騎士団はクレタ島に移りました。そこに7年間、1530年までとどまったあと、騎士団はスペイン王、カルロス五世皇帝に請願して、マルタ島、ゴツォ島、トリポリの3つの下賜地を与えられました。下賜にあたって、次のような条件がつけられました。マルタ島が依然としてスペインの領地であり、島を去る時はスペインに返還されることを了承する認しとして、毎年一羽の鷹を皇帝に献上すること。皇帝は騎士団に島を与えるが、そこに住むだけで他人に与えたり売却したりしてはならないという条件をつけたのです。
ブライアンという男はよくいる地方検事の一人だ。自分の業績が新聞にどう扱われるかをなによりも気にかけている。裁判に持ち込んで不利になるくらいなら、確信の持てない事件を放棄するような男なのだ。無実だと信じている容疑者をでっちあげで有罪にしたことがあるとは思わない。が、もし有罪の証拠をかき集め、さまになる形にできそうだとなれば、その容疑者をけっして無罪だとは信じない男でもある。ある男を有罪にする自信があればその男と同じほど怪しい共犯者を何人でも釈放してしまうだろう。
マルタの鷹 (ハヤカワ・ミステリ文庫) ダシール ハメット 小鷹 信光 早川書房 1988-06 |
【ガラでもねぇこと特集】
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聖戦ヴァンデ 3/3 ~ショレの敗走
「撤退、ロワールへ」 ショレ市民や近隣の農民も合流、女性子供や負傷者も含めた約80000人がロワール河辺まで10リューの道程を無我夢中で駆け抜ける。後に残れば虐殺が待っているからだ。「ヴァンデ軍はショレから10リューを駆け抜け、加えて渡河という大作業を48時間以内に終えたということになります。総勢8万から9万人もの集団ですよ。しかも半数は民間人。とてもできることではありません。ジュリアンは微笑して答える。「彼らは我々共和国が及びもつかないほどの力を出したのでしょう。なぜなら恐怖に駆り立てられていたからです。」
農民の集団であるヴァンデ軍がこれまで我が共和国軍と互角に戦ってこられた理由は僕の分析によれば3つです。一つには優秀な司令官を持っていること。2つ目は知り尽くした土地を基盤に戦いを展開してきたこと。3つ目は農民特有の肉体的粘り強さと不撓不屈の精神で戦いに挑んでいること。この3つを切り崩さない限り彼らを絶滅させることはできません。僕が先ほどヴァンデがロワール河を渡ったことに対して好ましいと言ったのはこの第二の部分にあたります。ロワールを越えたことで彼らは自分たちにとってなじみのない、ちりもわからず気候も知らない土地に入ってしまったのです。
『あなたにきっとご満足いただけると思いながら、この手紙を書いています。僕はヴァンデ軍の最終決戦地を決定しました。それはグランヴィル、ル・マン、そしてアンジェか、もしくはアンスニか、とにかくロワール河に沿ったどこかの都市になる予定です。グランヴィルを選択したのは最もヴァンデから離れた軍港であり、一見攻略しやすそうに見えて実は難攻不落の天然の要塞であるからです。それらの条件はヴァンデ軍を誘き寄せ、披露させ、壊滅させるのに格好のものです。ただ彼らは非戦闘員も含めて80000という大軍ですから、一度に片づけることはできません。グランヴィルで致命的な打撃を与え退路に主力軍を配して、ル・マンやロワール河沿いの都市で次々に攻め最後に一兵も残しません。完璧を期し、二度とヴァンデが立ち上がることのないようにしたいとお考えになるなら、ヴァンデ軍殲滅後、部隊をこの地方に送りどんな人間も生きることができないようにするため、森と畑、村を焼き尽くし、土地に塩を撒き、全ての住民を無差別に葬り去るのです。最後に土地名を別の名に変えてしまえば、ヴァンデは息絶え祖国フランスから消滅することでしょう。 あなたの忠実な代理人マルク・アントワーヌ・ジュリアンより』
「長く我が国の背骨であったローマ・カトリック教が否定され、人民は拠り所を失っているのです。これを放置しておけば必ず、暴動が起こるでしょう。我々は人民に神に代わるものを与え、満足させねばならないのです。それは何だとお思いになりますか」 ロベスピエールはサン・ジュストの明断に満足しながら答えた。「徳だ」 サン・ジュストはうなずく。
「そうです。権力の更なる集中をはかるならばそれと並行して人民の内に美徳を植え付け育て上げねばなりません。美徳の支配によってこそ人民の心は安定するのです。公安委員会は美徳の先導者とならざるをえないでしょう。その時、ヴァンデ破壊命令が公安委員会から出されていたという証拠が残っているとなると極めてまずいことになります。それは美徳の先導者としてふさわしくない言動だからです。エベール派とダントン派の始末がついたら、次にはジュリアンもチュローも召喚し罷免しなければなりません。地獄部隊は解散させ、代わりに懸命で穏健なニコラ・ラザール・オッシュを送り込んでヴァンデを統制させるのです。」
サン・ジュストは細い人差し指と中指で挟んだ手紙を屑籠の上に差し出す。
「今、公安委員会の名を汚すことはできません。放っておいても彼らは仕事を放棄することは無いでしょう。いささか変わった形ですが、これも革命への貢献です。せいぜい力を尽くしてもらうことにしましょう。」 指を離れた手紙が屑籠の中に落ちる。微かな紙の音が響き、ロベスピエールにジュリアンの幼い笑顔を思い出させた。
ナントに戻っていたジュリアンは、待ちに待ったロベスピエールからの手紙を受け取る。それこそは自分をパリに召喚する内示に違いなかった。長い間の夢が今こそ実現するのである。
『親愛なるジュリアン
まずちゅろーの件から回答させてくれ。チュローは公安委員会から正式な命令がないとこぼしているようだが、公安委員会は彼にすでに正式な命令を下している。ヴァンデ地方の内乱の収拾だ。それを具体化するのは彼の仕事であり責任だと、公安委員会は考えている。これは君についても言えることだが、君は私に代わりヴァンデ各地において情報を収集し反革命を監視し、公安委員会と連絡を取るという命令を受けている。これをどう実行するかは君の裁量であり、行われたことに関しては君の責任である』
ジュリアンは目を疑う。信じられない思いで何度も読み返さずにいられない。ヴァンデにおける流血事件の責任のすべてを実行者の負わせようとしているのだった。ジュリアンは背筋が冷たくなるような気がした。オッシュの言葉が鮮やかに胸に広がる。『あなたはただの大量殺人者です』ジュリアンは首を横に振った。そんなことがあるはずはない。ロベスピエールに従い、革命の遂行という高潔な使命のために人生と生命もなげうつ覚悟をした自分が大量殺人の汚名を着るなどということは考えられないことだった。
『また君はパリに帰りたいと思っているようだが一つ忠告させてくれ。君はその地方での君の任務を君の責任において完璧に仕上げねばならない。そしてそれが終わったら私は次の仕事を依頼するつもりだ。すなわちそのままに死に向かい、バンヌやロリアン、ブレストなどの各都市の革命委員会について調査、報告してほしい。その後は南に連絡をとり、ラ・ロシェルやボルドー、モントーバンを経て南仏まで足を延ばしてもらいたい。君の仕事は他の誰にもできないものだからだ。一方、パリには人材があふれており、君にふさわしい仕事は見つけられそうもない。私の命令に君が満足してくれることを願っている。 1794年1月28日 ロベスピエール』
可哀そうな若きジュリアン。童貞ロベスにふられちゃった♡
ジュリアンは息を止める。ロベスピエールは帰ってくるなと言っているのだった。地方を回らせ自分の側に寄せ付けないつもりでいる。ヴァンデの大量殺人者とのかかわりを断とうとする意図に違いなかった。もう呼び寄せることはもちろん、会うこともしないだろう。思い出すことすら厭うかもしれない。手紙を握りしめてジュリアンは大声を上げる。絶望中を永遠に落ち続ける苦しさに絶叫せずにはいられない。
ヴァンデが静まるのは1801年7月15日、ナポレオン・ボナパルトがローマ教皇ビオ7世と和議を結び、ヴァンデに対し信仰の自由、徴兵の免除、損害の賠償、復興の援助等の政策を講じてからのことである。
聖戦ヴァンデ〈下〉 (角川文庫) 藤本 ひとみ 角川書店 2000-04 |
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聖戦ヴァンデ 2/3 ~募兵と蜂起
1793年2月22日、国民公会は、30万人の募兵案を可決する。全国から兵を徴募しようとするもので、応募が30万に満たない場合は、その不足を抽選による徴兵で補うことが定められた。また同日、職業軍人と義勇兵を統合し半旅団を編成する法案「アマルガム法」も採択される。招聘されたニコラ・ラザール・オッシュは即日、準司令官に任ぜられ、英国のヨーク公爵軍に脅かされているダンケルクの司令部に派遣された。弱冠24歳。アマルガム法により生まれた新フランス軍の中で最も若い副官だった。
サン・テチエンヌ大聖堂は2000人の市民であふれ返る。ジュリアンが中央祭壇に脚を掛けると、壇上で演説を終えかけていた国民公会議員はあっけにとられた。ジュリアンは祭壇中央部まで進み、敢然と口を切る。
「祖国は一つであらねばならない」 大胆な結論と若さに合わない堂に入った話しぶりが、人々の意表をついた。「なぜならば今は、国内外の敵に一丸となって立ち向かう時だからだ。でなければ未曾有のこの危機を乗り切ることはできない。祖国を失いたいのか。どれほどの危険が我らを取り巻いているか、目を開いてみてほしい。現にこのトゥールーズは、先月7日に共和国が宣戦を布告したイスパニアから1時間と離れていないではないか。イスパニア軍が進攻すれば、真っ先に血祭りにあげられる場所だ。」 具象化された危機が、市民たちに息を呑ませた。「祖国はヨーロッパ中を相手に戦っている。国内には無数のトゥールーズがあるのだ。その安全と安定こそ、何ものにも先んじてはかられるべきではないか。いかに財産を確保しようとも、それに埋もれて死んでしまって何にもならない。我々は総力を上げ、この危機を克服せねばならないのだ。我らの結集を妨害し、国力を分散させようとはかる陰謀家」 言いながらジュリアンは上げた拳から親指を突き出し、自分の後方に居るジロンド派議員を指した。
サン・トーバン・ドゥ・ボビニエ村 3500名の農民を率いて蜂起
レ・ゾービエ村 共和国軍ケティノー隊 2500を破る。
ティフォージュ市 ジャック・
カトリノーと合流 4万の農民兵を得て、西フランス最大の都市ナントへ向かう。
ナント 最高司令官であったジャック・カトリノーを失い、初めての敗北。
一市民の銃弾によってカトリック王党軍最高司令官ジャック・カトリノーが息絶えた同じ日、パリでも革命政府の領袖一人が、一女性の小刀により殺害される。犯行に及んだ女性は、ノルマンディ地方カーン市から上京したシャルロット・コルデー、25歳。殺されたのは人民の友の異名を取るジャコバン・クラブの雄ジャン・ポール・マラーだった。
1793年7月27日、ロベスピエールはついに公安委員会に乗り込み、クートンやサン・ジュストと共にその決定権を握る。8月1日ろべス・ピエールの提案受け入れたベルトラン・バレール・ドゥ・ヴィユザックは国民公会で咆哮した。「ヴァンデを破壊せよ。ヴァンデは内外の敵の希望になっている。ヴァンデを殲滅せよ。そうすればヴァランシエンヌはオーストリアから解放される。ヴァンデを破壊させよ。そうすればラインはプロイセンから自由になれる。ヴァンデを破滅に追い込め。そうすればダンケルクは英国の再占領を逃れられる。ヴァンデは共和国を蝕む最大の病巣だ。愛国心をもってこれを挫く者には国家の感謝が待っている。ヴァンデの反乱者どもの温床である森林を切り倒し、畑に火を放ち家畜を殺せ。ヴァンデを焦土とし、逆徒を根こそぎにせよ。
ジュリアンは指示棒を取り上げ、会議机の上に広げられたヴァンデ地方の地図のほぼ中央部を指す。「現在ヴァンデ軍を支えているものは3つです。一つはこのシャティヨン・シュル・セーブル。ここにはヴァンデ軍の最高評議会が置かれ、アジビラや新聞、紙幣を発行する印刷所があります。2つ目はショレ。東のソミュール、トゥアールにもまた西のナント、北のアンジェ、南のリュッソン等への地の利が良く、経済的にも豊かで周辺の農村部から容易に食料を調達できるところに本拠を構えていることが彼らを強くしています。3つ目はこの農村地帯。ヴァンデ軍に兵を提供し、彼らを憩わせ、休ませ、食べさせるこの土地、彼らの地形を熟知し、戦いを有利に展開できるこの地方全体が彼らを擁護しているのです。よって彼らを殲滅しこの戦いを終わらせるためには現在展開中の局地戦をすべて放棄し兵を集結させてまずシャティヨンの奪取、次にショレの攻略、おしてこれらを進行させながら森林と農村部の徹底的な破壊、さらにヴァンデの兵となりうるすべての男性とそれらを生み育てる全ての女性の殺害、以上が必要です。」
総勢35000を率いて、エルベはボープレオーを発向、南下する。32000を率いてショレ市から北上してきていた共和国軍と出会ったのは広々としたラ・パピニエールの荒野付近だった。共和国軍は圧倒的に押され、荒野からショレの街付近まで追い返された。ヴァンデ軍の最左翼が弱いことを発見すると、マイオシェールの窪地を守っていた将軍アクソに伝令を飛ばし側面攻撃を指示した。アクソはすぐさま行動に移り、ヴァンデ軍を急襲、その横隊をくずして内部に突入する。ヴァンデ軍の両翼は分断され戦線は乱れる。お互いに至近距離での打ち合いが始まりあたりには火薬の煙が立ち込めて1トワーズ先も見えなくなった。ジュリアンの指示が届く「ヴァンデ軍は間もなく混乱を起こします。その時にすかさず攻撃ができるように陣容を整え、力を保留しておいてください。そして彼らが敗走したらすかさず追い立ててロワール河を越えさせてください。」クレベールは首を傾げる。ロワールを越えさせてしまえばいくらでも北に逃げることができる。その手前で全滅させなければならないのではないか。いかに偉才といえどもまだまだ子供でありつめは甘いと結論せざるを得なかった。
聖戦ヴァンデ〈上〉 (角川文庫) 藤本 ひとみ 角川書店 2000-04 |
【戦争・内戦・紛争】
2012.11.27 ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 2/3 ~NATO、国連
2012.10.04 宋と中央ユーラシア 3/4 ~宋周辺諸国
2012.07.31|マキアヴェッリと君主論1/4 ~1500年当時のイタリア
2012.05.17|攻撃計画 ブッシュのイラク戦争2/2~戦争責任
2012.04.06: 金融史がわかれば世界がわかる 4/6~ポンドからドルへ
2011.12.26: 宋姉妹 中国を支配した華麗なる一族2/2 ~三姉妹の勃興
2011.10.26: インドネシア 多民族国家という宿命 2/3~紛争の火種
2011.08.22: 実録アヘン戦争 4/4 ~そして戦争へ
2011.03.24: ガンダム1年戦争 ~新兵器 3/4
2010.07.16: ドイツの傑作兵器・駄作兵器
2010.03.16: イランの核問題
2009.06.05: 現代ドイツ史入門
2009.05.05: 民族浄化を裁く ~ボスニア
2008.10.21: 東インド会社とアジアの海2
2008.10.20: 東インド会社とアジアの海
聖戦ヴァンデ 1/3 ~王制=ルイ16世の最期
ロベスピエールとジュリアンの男色恋物語❤
ロベスピエールはゆっくりと唇を開く。
「人間は、多くを得、多くを失う。最後に残るのは、君自身だけだ。それだけが真の君のものだからだ。君のものでないものは、君をすり抜けていくだろう。仕方のないことだ。本当に君自身のものだけが失われることなく、奪い取られることもない。君が失ったという二人が君に残したもの、君の心の中で生き、実っているものこそが、君のものだ。それを大切にしようと考えれば、自分がこれからどうすればよいのかは、自ずとわかってくるだろう」
ジュリアンは呆然としてロベスピエールを見つめ、ぎこちなく言った。「あなたも、ですか。今、最も注目を集めているあなたでさえも、あなた自身しか持っていないというのですか」
ロベスピエールは薄い唇の両端を下げる。「私はおそらく私自身さえも持っていないだろう。君はジャン・ジャック・ルソーを見たことがあるか。著作ではなく、本人をだ。ルイ王学院時代、私は、街でルソーを見かけた。あの人がなくなる数か月前のことだ。人類の幸福のために一生を捧げたあの人の身なりは貧しく、その顔には深憂の深い刻印がなされていた。あの人の高貴な生に対して、今の時代が報いたものがそれなのだ。だが肉体と精神は苦悩のうちに朽ち果てても、その名は永遠に輝きを失わないだろう。あの人のなした偉業に対して時の流れが名誉を贈るのだ。私も、あの人にならって生きるつもりだ。どれほどの苦難を折っても人民と真理のために尽くしたい。そのために妥協のない道を進み、生命さえも犠牲にして厭わない。アラスの選挙で選ばれ、このヴェルサイユに旅立つ時にそう言った。その時私は、私自信をも持たない人間となったのだと思っている。」
フランス革命期の人物関係をまとめてみた(まだ勉強中っす)
ルイ16世=マリーアントワネット
王党派
アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン
革命軍
モンターニュ派
ロベスピエール
サン・ジュスト
マラー
ダントン
ジロンド派
ジャック・ピエール・ブリッソ
タレイラン
ミラボー
「人間は、罪なくして君臨することはできない。なぜなら主権は、人民のものだからである。これを独占した国王に、罪のないはずがあろうか。またこれを、単なる市民として裁判にかけることができようか」 かつて一度も言われたことのなかった言葉が、緊張した沈黙をあたりに広げる。議員たちは固唾を呑み、顔をこわばらせてサン・ジュストの不吉な演説に聞き入った。「国王とは、絶対王政の下に統治するか、あるいはそれ以外の政体の下に滅するか、どちらかしか術をもたない存在である。しかるに祖国フランスは、すでに王権を廃止し、共和制を宣言している。さらば結論は出ているも同然ではないか。にもかかわらずルイはまだ生きている。」 ジロンド派を含むあらゆる議員はこの論理に反論することができなかった。一週間後、チュイルリー宮殿を捜索していたヴァラゼ委員会が、国王の秘密の戸棚を発見し、報告する。中からはミラボー、タレイランの国王にあてた領収書と共に、王家が敵国に通謀していた証拠の文書が多数見つかった。ダントンの予言通り、ミラボーの遺体はパンテオンから引きずり出され、側溝に投げ込まれる。ジロンド派の必死の工作も虚しく、1793年1月16日朝八時、国王裁判は議員投票に持ち込まれた。36時間かけて行われた評決の結果は、死刑賛成361票、反対360票となり、条件付き死刑が26票だった。これを賛成票に入れ国王ルイ16世の死刑が決定する。宣告は1月20日、執行は翌21日だった。
処刑された国王ルイ16世の罪状と判決についての告示が、扉に張り出されていたのだった。
第1条 国民公会は、フランス最後の国王ルイ・カペーに、国民の自由を脅かし国家の安全を侵犯した罪により有罪を宣告する。
第2条 国民公会は、ルイ・カペーに死刑を宣告する。
第3条 国民公会は、ルイ・カペーの弁護団の法廷提出文書を無効とする。今後同様の行動は共和国の安全を侵犯するものとして処罰される。
第4条 臨時執行委員会は、本日中に本法令をルイ・カペーに通達し、24時間以内に刑を執行しその後直ちに国民公会に報告するものとする。
1793年1月20日 司法大臣ドミニク・ジョセフ・ドゥ・ガラ
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巨いなる企て 4/4 ~伏見の政治と軍事
秀頼様大坂移住(正月7日に大老・奉行会議で決定)
前田利家を野心のない「只の老将」と甘く見ていたことが後悔されてくる。秀頼を大坂に連れ去られると、諸侯も大坂に行く。秀頼とともに大坂城に居住できる前田利家に比べて伏見に留まらねばならぬ自分の政治的不利は明らかである。だが57歳の今日まで幾多の苦難を乗り越えて来たこの肥大漢は、この程度のことではうろたえもへこたれもしなかった。家康は敵の仕組んだ芝居に自分が乗るという巧妙な手を使った。「10日の移住には準備ができぬという者も多いやに聞く。秀頼様と大老・奉行衆のご移動だけでも大変なのに、二百諸侯一度に動くと混雑を増すばかりだ。容易に手間取る向きは一旦秀頼さまのお伴を済ませた後、暫時伏見に戻って用意を整えてから改めて大坂に移るようになさるがよい・・・」
徳川家康も今日は秀頼を送って大坂に行くが、直ぐまた伏見に戻ることになっている。伏見において政務を代行するよう太閤の遺命によって定められているからである。先の見解はこれと同じ行動を諸侯にも認めるようというものだ。つまり、「豊臣秀頼にではなく、この家康の供をしても良いぞ」というのである。さらに家康はこの意味をよりはっきりさせる噂をも用意した。「道中、内府殿を襲う計画がある」というものだ。これは「わしの警護に駆けつける者はないか」という呼びかけである。これによって新に頼りになる与党を確かめると共に、自らの威勢を天下を誇示して、反徳川勢を牽制しようというのである。
大坂城に集まった部隊は諸侯の上方詰の兵員だけで構成されていたので、きらびやかな指物や馬印の洪水の割には実戦兵力が少ないことである。最大の集団でも毛利一族の2000人、ついで前田、宇喜多、佐竹の軍が1000人といった程度である。この点は伏見勢も同じだった。関東255万石の徳川家も今伏見に集めている軍勢は4000人にも満たないはずである。このままの形で軍事衝突が起これば大名・家老が自ら槍働きする奇妙な合戦になるだろう。当然彼らの支配層の死勝率が著しく高いものとなるに違いない。それは諸侯にとって最も望ましくない形である。双方にとって必要なことは何よりもまず国許からより多くの実戦部隊を呼ぶことだ。「それなら我が方が絶対有利や・・・」 彼は自信を持ってそう断言した。
今伏見に集結している諸侯は遠国のものが多い。徳川にしてからが関東江戸、陸路150里も離れている。伊達、最上、堀、蒲生らはより遠方だし、黒田、加藤は九州だから、毛利、宇喜多の勢力圏である瀬戸内海を突破しなければならない。それに対して大坂方は畿内、中国などが多く、距離と水運に恵まれている。「二十日の後には味方が数倍になるだろう」彼はそう読んでいた。そしてそうなれば、戦わずして伏見方を屈服させることも不可能ではないと考えた。彼の主君であり師でもあった太閤が得意とした「位勝ち」である。大坂方は大坂・堺という武器(特に鉄砲)生産と物資流通の中心地をすっぽり抑えている。瀬戸内海の海路は毛利・宇喜多の手で安全に保持されているし、紀伊・大和の大名もほとんど味方になっている。あとえ百万の軍が集まったとしても物資に窮することはない体制である。それに比べて伏見は、大阪で淀川の水運を止め、佐和山城で東山道を封鎖すれば、鈴鹿越えの東海道以外に道はない。長期持久となれば大軍を養えことは明らかだ。彼は大坂城に来た諸侯に説明して胸を張った。「短期決戦でも兵数で優位、長期時給になればなお有利」という計算が、はっきりと数値でもって示せると言うのである。
細川忠興は奉行の前田玄以、浅野幸長は奉行で父の浅野長政のもとに忍び込んでいた。五奉行が過言をわびる件について、内々の同意を取り付けておくためである。細川、浅野両人は伏見と大坂との和解の問題と奉行衆が詫びを入れる問題とを、別々の事として取り扱ったわけだ。これこそ、徳川の謀臣・本多正信が示した秘策だったのである。彼・石田三成が徳川方より示された和解の意向を知ったのは前田利長が利家を口説き始めた頃であった。話は宇喜多、上杉両家より回報されてきたのである。
「何、内府が縁組を解消して御掟には叛かぬという誓詞を交わそうと申して来た、というか・・・」彼は思わず声高に叫んだ。起きぬけに聞かされたこの報せはあまりにも意外だった。慶長4年2月3日、「その通りで・・・」 この報せを伝えに来た家老の舞兵庫が、片膝をついて視線を畳に這わしたまま答えた。喜んでいいのか、憤るべきなのか、分かりかねている様子である。今聞かされた報せが文字通りなら、徳川家康は大坂方の大老・奉行の意見を全面的に受け入れたことになる。まずはめでたい解決と言えるだろう。亡き太閤の遺命を尊び、豊臣政権の組織と法令を堅持しようとする彼・石田三成としては大いに喜ぶべきことだ。しかし、そう簡単に割り切れない気持ちが湧いてくる。
「何と、これはまた思いもよらぬ申し条やな・・・」
伏見より届けられた訴状を一読するや、彼は満面に朱を注いで怒鳴りつけた。それもそのはず加藤清正、黒田長政、浅野幸長、福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明の七名が連署したその訴状とは朝鮮再出兵(慶長の役)において戦目付を勤めた福島直高、熊谷直盛、垣見一直、太田政信の4人を虚言をもてあそんで遠征諸将に多大の損失を与えた故をもって処罰せよ、というものだったのである。朝鮮戦役に関する訴訟と言えば、昨年末から争われている加藤清正、黒田長政、鍋島直茂、毛利勝信の4名と小西行長、寺沢広高との間のものがある。だがこの件は既に訴訟却下の方向で事態を収拾することで五大老の合意を見ている。双方それぞれに支援勢力持つ大名だからその一方を処罰することなど、太閤死後の不安定な政情下でできるわけがない。つまり事の虚実に関わりなく、これ以外の結論は出しようがなかったのである。だが、今彼の手元に届けられた七将の訴えは問題を一層混乱させるものだ。しかも今度の訴えは明らかに彼・石田三成を攻撃目標としている。訴えられている4人の元目付は、いずれも彼が目をかけて取り立てて来た大名たちである。
彼の領内・長浜の地は若き日の秀吉が本拠とした所であり、その故をもって太閤から「永代年貢免除」の特権を与えられていた。このため天正末年、この地に入った彼が佐和山築城に際してこの長浜にも人夫の提供を命じた時、長浜の町人たちは太閤の朱印状を持ち出してその不当を訴え、ついには太閤に直訴すると、いう騒ぎにもなった。だが彼は退かなかった。「築城は一度限りの普請手伝い、永代の年貢免除とは話が別だ」と突っぱねたのだ。太閤も恐れぬ強引さもさることながら、規則と論理に厳格な統治者の面目が示されている。その反面で彼は商工業の発展に努め、天下不作の対策には大いに意を砕いた。のちに、関ヶ原の戦いで敗れた彼を、領内小橋村の百姓・与次郎大夫がかくまうが、この百姓が敢えて危険を冒してそれをしたのは飢饉の際に領主より百石の米が小橋村に貸し与えられたことに感謝していたからだと言う。しかし、彼がかくまわれてることを密告するものが出た。それが他の村から来ていた与次郎大夫の養子であったため、この村では事後、20世紀の今日まで他村の者を養子としない慣習が続いている。彼が全村民にしたわれていた証拠と言えるだろう。
【戦争論・兵法】
2012.08.01|マキアヴェッリと君主論2/4 ~性悪説的君主論
2012.05.16|攻撃計画 ブッシュのイラク戦争1/2~準備
2011.07.28: 後藤田正晴と12人の総理たち1/2 ~天安門事件
2011.02.03: 賭博と国家と男と女 ~人は利己的に協調する
2010.12.16: 自作 近未来小説 我が競争 ~第三次世界大戦の勝者と人類の進化
2009.12.16: 孫子・戦略・クラウゼヴィッツ―その活用の方程式
2009.10.23: 核拡散―軍縮の風は起こせるか
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.02.24: 孫子の兵法
2009.01.06: ユーゴスラヴィア現代史 ~Titoという男
巨いなる企て 3/4 ~財政と朝鮮出兵
秀吉は反抗した大名からはその所領の一部または全部を取り上げた。この多くは豊臣の家臣に与えられ、彼らを大名に仕立て上げたが、それもまた豊臣家の財政を豊かにするのに大いに役立った。豊臣家の支出で養わねばならない人数がその都度減ったからだ。しかしこれ以上に豊臣家を豊かにしていたのは、土地=農業から以外の収入である。秀吉は商工業を熱心に確保する傍ら、京、大阪、堺、博多などの商工業都市にかなりの矢銭(軍資金)や冥加金(強制寄附)を課している。都市の商工業者にしても統一政権の確立がもたらした商圏の拡大と治安の安定による利益に比べればこの程度のことは安いものだったに違いない。その上、金鉱・銀山を直轄事業にしたことによる事業収入も大きかった。16世紀後半になると日本にも貨幣経済が生まれつつあったが、その鋳造権は豊臣家が一手に握っていたのだ。だが今、この奉行溜りで長束正家が語る豊臣政権の財政事情はさほど楽なものではなくなっている。秀吉の誇った御金蔵には、なお数十満両の相当の金銀が積まれてはいるが、最近の財政収支は著しい赤字である。太閤一生の愚行、朝鮮出兵のためである。
もう一つ困ったことは通貨体系の混乱だ。銀価の急落と金価の相対上昇である。元来日本は国際価格に比べて銀が安く、金が高かった。このため織田信長の時代までは日本から銀が輸出され金が輸入されていた。ところが1590年頃、メキシコで大銀山が発見され世界の銀価格が暴落する。その結果安価なメキシコ銀が日本にも流入し金が流出し始めた。この時期にヨーロッパ世界を震駭させていた「価格革命」の嵐が日本をも巻き込もうとしていたのだがそこまでは秀吉も奉行たちも知らない。だが銀価の値下がりは銀を基準とした物価の上昇となって現れてくる。これが朝鮮戦役でのモノ不足と相まってインフレを著しくしているのである。秀吉はキリシタンを禁制にしたり金輸出を取り締まったりしたが、金銀比価の安定にはほとんど効果が無かった。ヨーロッパの冒険商人も大阪、堺の豪商たちも金銀交換と言う利益の大きい商売から手を引こうとはしないのである。
朝鮮出兵の失敗が、出兵それ自体に無理があったためか、やり方がまずいせいかなどと言った反省をする余裕もなかった。多少は国際的な知識と感覚を持つようになっていた堺、博多の商人の間でさえ朝鮮のは後に控える明帝国の国土の兵数の莫大さに圧倒され、「日の本の第一の俊鷹・太閤はんも明帝という大鷲に遭うてはどうにもなりまへなんだなあ」と評していたのである。それは恰も太平洋戦争に敗れた直後の日本人が自分たちの相手にした国土の広さと生産力の大きさに気付いて仰天したあまり、戦争遂行上の過失や民族的性格を反省しようとしなかったのに似ている。この時から半世紀ほど後で日本よりはるかに経済力と人的資源の乏しい満州族が秀吉が朝鮮に送ったのとほぼ同数の兵力で全明国を征服するなどとは誰も予想していなかったのだ。
朝鮮に滞陣する5万余りの日本軍を安全かつ早急に撤退させることは太閤の死後の最も重大かつ緊急の課題である。そもそも太閤が、自らの死を深く秘すようにと遺言したのも在鮮将兵の引き上げを容易にする目的でのことである。朝鮮駐留軍の引き上げはいわば太閤の残した残債務整理である。太閤の死が知れ渡れば在鮮将兵が動揺し混乱する恐れもあるし、朝鮮・明国側から襲撃される危険もある。さりとて、5万の大群の撤兵は内密裡にできることでもない。全部隊を安全に帰国させるためには一挙に大軍を運ばねばならないから、大量の船舶を動員する必要がある。帰国将兵をそれぞれの領国に戻すまでの兵糧と輸送手段も確保せねばならない。その間武将たちが反目抗争することのないよう秩序を保つことも重要である。そしてこれらのことを行うためには、撤兵命令を権威づける正当な手続きが大事である。
徳川家康とその某臣たちが画策する「天下盗り」の計画では今の段階で最も重要なことは、豊臣家臣団を分裂させ、その一方を自陣営に取り込むことである。そして加藤清正こそその「鍵を握る人物」だと家康はみているのである。加藤清正が石田三成ら奉行衆に対して強い反感を持っていることは天下周知の事実だ。五大老・五奉行による合議制と言う太閤なきあとの豊臣政権の体勢を崩し、徳川専制を樹立しようとする家康にとって、これは見逃しえない好材料である。しかも清正の豊臣家に対する忠実さも良く知られている。この大男は太閤子飼いであるばかりでなく、太閤のまたいとこという縁者でさえある。その加藤清正が徳川に加担すれば徳川への協力と豊臣への忠誠とが両立すると考える者が激増するだろう。
二つの訴訟が用意されつつある。一つは、加藤清正ら七将の、石田三成、小西行長らに対する告訴であり、もう一つは小西、寺沢から出る加藤、黒田ら4人を被告とした訴えである。このことは太閤恩顧の大名群が二つに大分裂したことを意味している。そしてそれは徳川家康の大きな外交的勝利でもあった。この時期まで日本最大最強の政治・軍事勢力であった豊臣家臣団は、その基礎構造において地割れしたのである。しかもその一方は、第二勢力の徳川の集中に収まった。これに乗って、他の一つ「豊臣残党」ともいうべき石田、小西らの奉行派を打破すれば天下は徳川の集中に転がりこむ。
巨いなる企て (下) (文春文庫 (193‐6)) 堺屋 太一 文藝春秋 1984-05 |
【資源獲得競争】
2012.10.29|ジャカルタに行ってきました 7/9~ネシアの自動車産業
2012.08.17|タリバン 2/2 ~麻薬と密輸
2012.03.29|金融史がわかれば世界がわかる 2/6~大航海時代と貿易
2011.11.16|コカインの次は金-コロンビアのゲリラ
2011.09.26: ダイヤモンドの話2/5 ~持つべき者
2011.06.17: 巨大穀物商社 ~穀物近代史 2/4
2011.04.06: 石油戦略と暗殺の政治学
2010.12.02: 田中角栄 人を動かすスピーチ術
2010.07.30: 闇権力の執行人 ~外交の重要性
2010.06.01: インド対パキスタン ~インドの核開発
2010.03.02: テロ・マネー ~血に染まったダイヤモンド
2009.12.04: アジア情勢を読む地図2
2009.06.26: プーチンのロシア2
2009.01.29: 意外に重要、イランという国
2008.11.11: ユダヤが解ると世界が見えてくる
2008.04.29: 世界の食糧自給率
巨いなる企て 2/4 ~豊臣衰退の背景
徳川家康が豊臣家の天下を奪う場合、どんな筋書きが考えられるか
衆主の手段を用いて天下を乱し、豊臣家の実権を失わせ徐々に政権の実を手に入れていく道だ。自分の息のかかった大名を使って紛争を生じさせたり、一揆を煽動したりする。戦国の余燼さめやらぬ今は、それもいと容易だ。諸侯間の領土争いは多いし、現状不満の大小名も少なくない。主家の滅亡や減封で浪人になった武士、自主権を奪われた地侍の類は諸所にあふれている。紛争、混乱の種はいくらでもあるのである。そして、一旦、それが起これば、250万石の大勢力と天下の大老としての立場を利用して家康が介入する。もちろん、結果的には徳川に心を寄せる者だけを有利に扱うのだ。「そんな場合、太閤なきあとの豊臣家に徳川に対抗する手段があるか・・・」彼は何年か前に考えた問題を今また復習した。その答えは、昔も今も「否」なのである。
諸侯間の紛争は中央政権である豊臣家に訴える建前になっているし、訴えがあれば五奉行がその是非善悪を判決することも可能だ。だが奉行の出した判決を実施する手段が無い。奉行には豊臣家直参の軍隊を動かす権限は無いし、五歳の幼児・秀頼にも後10年ほどはその能力と資格が無い。そしてなによりも豊臣家直参の軍そのものがさして豊富でも強力でもない。秀吉の軍事態勢は参加の諸侯を動員して戦うのであって自分の旗本を使うのではなかったからである。だが太閤なきあとは、奉行の決定に従って兵を出す大名は何人いるだろうか。ましてそれが豊臣家自身の問題ではなく、他家の紛争、混乱とあっては動く者はほとんどいないだろう。「結局、総ては家康のなすがままになって行く」と考えざるを得ない。もしこうしたことが二度、三度続けば、大部分の大名たちは徳川の指導下に入るだろう。家康に睨まれれば、どんな不利益を受けぬとも限らない、という恐怖に取りつかれるからだ。「そしてやがては豊臣家自身もその例外ではなくなる」と彼は思う。徳川の機嫌を取り結ぼうとする連中が、大阪城の中にも続出することは明らかだからである。
この筋書きを防ぐ方策は何か。これについては秀吉とその側近たちは一つの結論を出している。五大老の制度がそれである。つまり、徳川家康の勢力を豊臣政権の組織の中に組み込み、その動きを封じようとしたわけだ。この制度の中で徳川家康は五大老の筆頭になった。家康の持つ実力と勢力から見て当然のことだ。だが、いかに筆頭といえども、5人の中の1人となれば勝手なことはできない。原則として5人は同等者であり、決定はすべて合議によらねばならないからである。しかも大老たちの議を執行するのは五奉行である。そこには彼、石田三成をはじめ、増田長盛、長束正家ら熟達の官僚がいるから豊臣家のためにならぬ決定は執行を猶予することもできる。「この組織が健在である限り、家康の狼心を抑えることも困難ではあるまい」 彼は長い間そう信じていた。しかし、現実に秀吉が病に倒れ、その死期が近付くにつれて、不安がつのって来た。諸大名の動揺が想像以上に大きかったからだ。早くも「次の実力者」徳川家康に取り入り、自家の安全と繁栄を図ろうとする動きが雪崩のように広まっているのである。
豊臣家の財政は豊かだった。太閤秀吉は限りなく豪奢を好んだが、それを満たしてもなおかつ、大阪城には金穀があふれていたものだ。16世紀の日本は、群雄割拠の戦国時代だが、それだけにまた諸国の大名は勢力拡大を願い、領内の土地開発と産業振興に力を尽くしもした。愚昧、怠惰な大名は所領を失い、有能勤勉なものがこれに代わったことも開発成長を促した。つまり戦国という苛烈な競争社会では成長を刺激する自由競争の原理が有効に作用していたわけだ。そしてその成果が織田、豊臣の制覇によって確立された体制のもとに集結していたのである。
太閤秀吉は占領地や帰属した大名の所領を全国統一の尺度で検知させたが、その結果耕地面積と千三力が従来言われていたものの2倍以上に達していたところも少なくない。例えば、彼・石田三成が検知奉行を務めた九州・島津藩では、それまで21万5千石とされていたが精査の結果57万9千石であることが判明した。それまで地侍(豪族)や寺社が勝手に徴収していた年貢が一切廃止され、年貢は総て領主の島津家が統一的組織的に取り立てるようになったからだ。同時に年貢徴収権を失った地侍の多くは、領主から知領や扶持米をもらう家臣団に組み込まれた。つまり土地開発の成果が領主のもとに統括される新体制が確立したわけである。全国各地の検地に派遣された検地奉行たちは単に土地測量を行っただけではなく、新体制下での組織的な領地経営の技術指導をも行った。多くの検地奉行を務めた増田長盛、浅野長政、大谷吉継、細川幽斉、長束正家らは優れた領地経営のコンサルタントでもあったわけだ。中でも彼・石田三成は最も優秀かつ熱心な指導員であったらしい。この点で彼は島津、上杉、佐竹ら多くの諸侯から感謝されている。太閤は検地の度に各地に幾分かの蔵入地(豊臣家の直轄地)を設けたが、所領からの収入が二倍以上に増加した諸侯はさして文句も言わなかったのである。
巨いなる企て (上) (文春文庫 (193‐5)) 堺屋 太一 文藝春秋 1984-05 |
【国家権力による搾取】
2012.11.09|もっと知りたいインドネシア 1/3 ~歴史となり立ち
2012.08.23|ジャカルタに行ってきました 1/9~空港から中心部へ
2012.05.28|眞説 光クラブ事件 3/3 ~国家権力との闘争
2012.03.19: 下山事件 最後の証言 1/2 ~国鉄合理化
2012.01.10: 競争と公平感 市場経済の本当のメリット 3/3 ~規制と経済効果
2011.10.12: 日本中枢の崩壊 1/2 東電
2011.08.05: 金賢姫全告白 いま、女として2/6 ~今、君が嘘をついた
2010.10.14: 道路の権力1
2010.08.24: 中国の家計に約117兆円の隠れ収入、GDPの3割
2010.07.05: 警視庁ウラ金担当
2010.05.20: 秘録 華人財閥 ~独占権、その大いなる可能性
2008.09.24: 俺の欲しいもの
2008.09.23: 被支配階級の特権
2008.07.18: Olympic記念通貨に見る投資可能性
巨いなる企て 1/4 ~豊臣家の弱点
徳川家康は律儀者でもなければ徳人でもない。自分の安全と栄達のために妻と息子を斬殺した冷血漢であり、織田信長の横死の隙に甲、信、駿の三カ国をかすめ取った抜け目のない男であり、北条父子の降伏を取り次ぎもせずに自滅させた陰謀家である。「必要以上に律儀振るのは、腹中を隠すためだ」 彼はそう考えている。
古来、中央集権的な政治体制において、少数実力者による寡頭政治が長続きした例はほとんどない。古代ローマの民主制末期に試みられた二度の三頭政治から、現代の共産主義国家でのトロイカ体制に至るまで、寡頭制は総て短命に終わっている。少数のトップグループの中で権力闘争が生じ、優勝者と脱落者が出るからである。つまり3人とか5人とかの少数合議制は、次の独裁者を選抜するためのトーナメントの中間段階に過ぎないのである。世界の歴史と現代の多様な世界を知る我々二十世紀人なら、こうした少数実力者による合議制も幾らか理解できる。だが、この物語の時点、16世紀末の日本人には、凡そ想像を絶する奇妙なものだったに違いない。この頃までに日本人が知り得た政治体制といえば強力な独裁体制か、中央政府がお飾りと化した地方分権体制のいずれかだった。それにも拘わらず、豊臣秀吉はこのなじみ薄い不安定な政治体制を残そうとした。それも無知や酔狂のせいではなく、何年もの間、考えに考えた末にそうしたのである。なぜか・・・答えは明らかだ。幼すぎる我が一子・秀頼が時期独裁者選抜トーナメントに出場しうるまでに育つ時間を稼ぎたかったからである。
太閤秀吉は秀頼が意思と権威を持つ政権担当者に育つまでの時間を己が生命によって埋めたかった。だが、それが困難なことを、この大天才は早くから悟っていた。秀頼の誕生と同時に、秀吉は我が生存に変わる時間稼ぎの方法を必死に模索し始めているのである。だが秀吉の築いた政権の弱点は偉大な創業者の世継ぎがあまりにも遅く出現したことだけではなかった。秀吉は極貧の出であった上に、不思議なほどに血族縁者にも恵まれない孤独な男であった。父祖伝来の家臣など一人もいなかったし、名声を聞いて集まった縁者も、弟の小一郎秀長ただ一人を例外として、みな知能愚鈍、意志薄弱な劣等人ばかりだった。つまり豊臣政権の母体たるべき豊臣家自体が全く弱体希薄だったのである。
頭は良いけどブ男&下賤の者・秀吉。種無しか、よほど女に嫌われていて子宮が拒絶して不受胎かどっちかだよなぁ・・・。
投資一族の継承、できるかな。俺も頑張らないとっ! 子供は居ても戸籍の上では秀吉と同じ孤独の身。健在である両親も戸籍上に存在しないという・・・
秀長なきあとも秀吉がとった主な徳川対策は、所領城地の配置と対徳川の中心人物の育成であった。つまい局地的軍事バランスによって徳川軍団の行動を牽制することと、家康に幾分かでも対抗できる人物御作り出すことだ。秀吉は、徳川を東海地方から関東に移封させると同時に、蒲生氏郷に91万7千石の大領を与えて会津に駐せしめた。徳川領の北隣りにこの才人に大禄を与えて配置した目的は明らかに徳川牽制である。蒲生氏郷もまた、このことをよく心得ており「わしが会津に居る限り家康が兵を挙げてもその尻に喰らいついて箱根を越させるものではない」と揚言していたという。この氏郷が40歳の若さで病死したことは、秀吉の地域的軍事バランス構想に大きな穴をあけた。これには光成も少なからぬショックを受けたに違いない。氏郷を会津におくことを進言したのは彼自身だったからだ。
もう一つの対策、家康に対抗しうる人物の創造の方はもっと惨憺たる結果になった。秀吉が秀長に次いで豊家の後継者と定めたのは、養子になっていた甥の秀次である。秀吉はこの青年に尾張・北伊勢で100万石の所領を与え、権大納言に引上げ、さらに後には関白の位まで譲った。豊臣家二世の主であることを天下に示したのである。だが、これは大失敗だった。素材が悪過ぎたのだ。秀吉の与えた実収ときらびやかな装飾にもかかわらず、この青年の悪行と愚昧さは一向に直らなかった。秀次は苦労知らずで感謝の気持ちが無く、慈悲心を欠き、やたらと女好きなくせに狂気じみたサディストだった、と『天正記』の中で大田牛一は書いている。それどころかこの身の程知らずの狂躁人は徳川家康や伊達正宗、最上義光等を誘って偉大な養父に叛乱しようとさえ計画したらしい。ここに至って秀吉は、この甥を誅殺せざるを得なくなった。それは蒲生氏郷の死が伝えられてから5カ月あと、朝鮮出兵が中休みになっていた文禄4年(1595年)夏のことである。
【男性の肉体美・健康】
2012.12.05|第二次ジャカルタ攻略 8/11 ~アフター・長い夜の過ごし方
2012.06.06 第二次タイ攻略 2/15 初ソイカウボーイ
2011.08.23: 適正体重とその測定方法
2011.06.07: ポストAKB48候補のRAB(リアルアキバボーイス)
2010.12.15: 自作 近未来小説 我が競争 ~国営種子バンクの設立
2010.07.02: 妊娠伝説を持つ男 ~少年よ、強くなったな
2010.04.28: あなたの知らない精子競争 ~生殖能力の比較
2009.11.20: ベリーダンスとヒクソングレイシー
2009.04.30: ケチの実態 ~その時ケチは言った
2008.03.15: モンコックで格闘DVD
金融政策の話 2/2 ~預金と規制
預金市場と規制金利
預金市場は様々な金融市場の中で最も自由化の遅れた市場の一つであり、第二次大戦後長い間にわたってほとんどの預金金利が規制下に置かれてきました。その内容を具体的に見ると、1947年に臨時金利調整法が制定され、預金金利についての最高限度が定められました。臨禁法による預金金利の最高限度は、常に市場実勢を下回る水準に設定されていたので、預金市場では金融機関による預金取り入れ意欲が慢性的に家庭の預金保有を超過し、金融機関同士で激しい預金獲得競争が繰り広げられてきたのです。預金金利の最高限度は、公定歩合と密接な関係をもって変更されてきました。預金金利の変更は、まず大蔵大臣が発議し、それに基づいて日本銀行政策委員会が金利調整審議会に諮問します。日本銀行は、この最高限度の範囲内で3カ月、6か月、1年といった機関別の預金細目金利をガイド・ラインとして公表し、これが各金融機関が実際に顧客の預金に適用する預金金利となっています。なお、郵便局の貯金金利は、別途に郵便貯金法に基づいて郵政大臣が郵政審議会に諮問し、その答申を受けて閣議で決定される仕組みになっています。民間金融機関の預金金利と郵便局の郵貯金利とのこうした二元的な決定方式は、しばしば両社の対立を招き、公定歩合の機動的な変更を阻む要因となっています。
預金金利の自由化
外貨預金は1974年9月臨金法による金利規制の対象外とされ、外国政府・外国中央銀行および国際機関から受け入れる非居住者円預金も1980年3月以降、金利が自由化されました。次いで、短期金融市場のCD発足当初は発行枠を自己資本の10%、最低発行単位は5億円、期間は3カ月以上6カ月以内といったかあり厳しい制約が課されていたのですが、これらの制約条件は、その後段階的に緩和され、1988年4月以降、発行枠は撤廃、最低発行単位は5000万円、期間制限は2週間以上2年以内となっています。さらに1985年10月には一口10億円以上、期間3カ月から2年の大口定期預金について金利が自由化されました。その後大口定期預金についての規制も段階的に緩和され、1989年4月以降、最低預入金額は2000万円、また1987年3月には市場金利連動型預金MMC(Money Market Certifiates)が導入されました。MMCは一応臨金法に基づいて上限金利の決定される預金ですが、その上限金利がCDレートに連動することとされているので、実際に自由金利に近い預金です。
信用創造理論と乗数アプローチ
標準的な金融論の教科書ではマネーサプライの決まり方を「信用創造理論」によって説明します。中央銀行が民間の金融機関に対して信用供与を行いハイパワード・マネーを増加させると、金融機関の貸出行動を通じて金融システム全体としてハイパワード・マネー供給量の何倍かの預金通貨が生み出されるというものです。マネーサプライはハイパワード・マネーに一定の倍率(信用創造乗数・通貨乗数と呼びます)を掛けたものとなります。ここで通貨乗数は必要準備率や民間の企業・家庭の保有する現金比率によって決まるのですが、そうした通貨乗数が安定しているならば、中央銀行はハイパワード・マネーをコントロールすることによって、その乗数倍として決まるマネーサプライをコントロールしうることになります。しかし、こうした乗数アプローチによってマネーサプライをコントロールすることは決して容易ではありません。なかでも最大の難点は、通貨乗数がそれほど安定してはおらず、その予測も難しいということです。ハイパワード・マネーについて設定された目標値を厳格に守ろうとすると、短期金融市場の金利が大幅に変動しがちであるという点も、ほとんどの中央銀行が乗数アプローチを採用することに消極的な理由です。日本銀行の場合にも、乗数アプローチ的な考え方が採用されたことは一度もありません。実際に日本のハイパワード・マネーにはマネーサプライの変動をもたらす要因というよりは、むしろマネーサプライの変動の結果として決まっていると言えるでしょう。
マネーサプライの望ましい伸び率
欧米主要国で採用されている考え方を大別すると次の2つがあります。第一は西ドイツのブンデスバンクをはじめとしたEC諸国の中央銀行が採用している方式です。これはマネーサプライの望ましい伸び率を①実質GNPの潜在成長率、②やむをえざるインフレ率、③流通速度のトレンド的変化率、の3つの合計として計算するものです。①は実際の成長率ではなく、資本や労働をフルに使えば能力的に可能な成長率のことです。②は、もちろんゼロ%であることが一番望ましいのですが、様々な産業や地域間での資源の再配分を円滑に行うことなどのために、最低限度の程度の物価上昇を甘受せざるをえないかという観点から決められます。③は先ほど日本のM2+CDについて説明したのと同様な流通速度のトレンドの存在を考慮したものです。
第二はアメリカの連邦準備制度が採用している方式で、当面の実質GNP成長率やインフレの予測値と見あったマネーサプライの伸び率を求める方法です。具体的にはマクロ計量モデル(経済の主要な変数の間での数量的な関係を多数の方程式体系によってとらえたモデル)や通貨需要関数などによって予測します。これらの2つの方式にはそれぞれ問題点が存在します。EC諸国の方式については、潜在成長率、やむを得ざるインフレ率、流通速度のトレンド的変化率のいずれについても恣意的な性格が付きまといます。望ましいマネーサプライの伸び率については、あくまでも大まかな目途として位置づけ、そこから実際のマネーサプライの伸び率が大きく離れた場合に中央銀行として初めて警告を発する程度のとして考えておくべきでしょう。次にアメリカ方式については、経済全体の見通しの整合性を図りながらマネーサプライの伸び率を考えるという点でいかにもアメリカらしいプラグマチックな対応なのですが、こうした方式ではややもすると現状追認に流れてしまい、インフレーションの進行を是認してしまう危険性のあることに十分に注意しておかなくてはなりません。中央銀行にとってマネーサプライのコントロールは、あまり観念的になり過ぎても行けませんし、また逆に現状追認に流れてもいけない、極めて難しいバランス感覚を必要とする判断だと言えると思います。
【G7 金利・国債系】
2012.07.04|ウォールストリートの歴史 5/8 ~第一次世界大戦
2012.02.27|告白 元大和銀行NY支店2/2 ~トレーディング
2011.10.31: 日本国債CDSが急落
2011.10.03: 日本国債5年CDS 1.3% vs 日本国債5年モノ0.35%
2011.09.09: スイスフランの介入劇
2011.07.07: モルガンS、米インフレ期待めぐるトレーディングで損失
2011.04.18: 米国債券投資戦略のすべて3/3 ~パススルー証券
2010.02.04: 日本最大の投信「グロソブ」4兆円割れ
2009.12.01: 金利系投資からの撤退
2009.08.05: 金利をSalesに教える
2009.06.17: 暗算でやる金利計算@街頭インタビュー
2009.01.15: 株投資家から見たインフレ連動債TIPS
2008.12.25: さようならUS Strips
2007.12.17: 債券市場参加者の世界観 ~ 儲け=売値ー買値では無い
2007.12.12: 債券税制 ~これを知った上で買えるか?毎月分配
金融政策の話 1/2 ~日銀の役割
日本銀行は「日本銀行条例」に基づいて当初30年間の営業年限が与えられ、それが1910年にさらに30年延長されたのでしたが、営業年限が満了する1942年に「日本銀行法」が制定され、日本銀行は新しい組織に生まれ変わりました。その前年には太平洋戦争が勃発していましたから、「日本銀行法」の制定にあたっても、国家統制的な色彩が強く出されることになりました。「国家経済総力の適切なる発揮を図る為、国家の政策に即し通貨の調節、金融の調整及信用制度の保持育成に任ずる」(日本銀行法第一条)、「専ら国家の目的の達成を使命として運営せらる」(第二条)。
日本銀行は創立当初においては、1880年に設立された横浜正金銀行と同様に、株式会社としての組織でしたが、「日本銀行法」ではそうした株式会社組織を廃止して国家的色彩の強い特殊法人とされました。日本銀行の出資者には議決権はありませんし、株式会社の株主総会に相当する制度もありません。大蔵大臣は「日本銀行の目的達成上特に必要ありと認むるときは日本銀行に対し必要なる業務の施行を命じうる」とされるなど、政府の日本銀行に対する監督権はそれ以前と比べて著しく強化されたのです。1949年、日本銀行の政策決定を民主的なものにしようとの意図から、民間各界の代表等から構成される「政策委員会」が日本銀行の最高意思決定機関として設立されました。こうした「政策委員会」の設立など一部の改正を除くと、戦時中の立法である「日本銀行法」は今日に至るまで大筋としてそのまま残されている。戦後40年以上が経過し、日本経済は自由な市場経済に立脚しためざましい発展を遂げました。今日における日本銀行の使命は「国家目的の達成」ではなく、通貨価値の安定を維持することによって日本経済の健全な発展を図ることにあります。
日本銀行の当座預金として積み立てられている準備預金の変動要因
市中金融機関と企業・家庭等との間で現金通貨の流入・流出がありますと各金融機関の準備預金残高の増加・減少をもたらします。
政府と企業・家庭等との間での財政資金の支払い・受け取りは、日本銀行にある政府預金と市中金融機関の準備預金との間での振替により、それぞれ準備預金の増加・減少をもたらします。外国為替市場での介入も市中金融機関の準備預金を変動させます。
日本銀行が市中金融機関に対して貸し出しの実行・回収や有価証券の買い入れ・売却などの形で信用の給与・吸収を行いますと、市中金融機関の準備預金は増加・減少します。
資金需給
準備預金の増加(減少)=①日本銀行券の環収(増発)+②財政資金の支払い(受取)+③日本銀行の信用供与(吸収)
ハイパワード・マネーと短期金利
短期金融市場金利、日本ではコール・手形レート、アメリカではフェデラル・ファンド市場の金利です。ハイパワード・マネーは、市中金融機関の保有している準備預金ないしは手持ち現金通貨と企業・家庭などが保有している現金通貨の合計を指します。
ハイパワード・マネーの需要と供給
①市中金融機関の準備預金(および現金通貨)+②企業・家庭が保有する現金通貨=
③中央銀行の信用供与-④中央銀行にある政府預金
公開市場操作
中央銀行がオープン市場で買い入れ・売却を行うことによって、市中金融機関の保有する準備預金の増減をもたらす操作のこと。公開市場操作を金融政策の第三の手段として取り上げることには多少の違和感があります。日本銀行の信用調節手段の中でオープン市場を対象とするものは、①政府短期証券の売りオペ、②CDの買いオペ、③長期国債の現先買いオペとなりますが、それらは必ずしも日本銀行にとって主たる信用調節手段とはいえないからです。日本銀行が実際に行っている金融市場の調節を見ると、これらのオープン市場での調節手段よりも、インターバンク市場であるコール・手形市場を対象とした手形オペの方が主流と言うべきでしょう。したがって、日本銀行にとっての金融政策の第三の手段は、公開市場操作ではなく、インターバンク市場操作であるというのが適切なのです。金融論の標準的な教科書が、金融政策の三つの手段の一つとして常に公開市場操作を掲げているのは、多分にアメリカやイギリスの金融調節方式を鵜呑みにしたことによるものと言えそうです。アメリカやイギリスでは、オープン市場として発達したTB市場が存在し、連邦準備制度やイングランド銀行の信用調節手段として、TB市場でのオペレーションが重要な役割を果たしているからです。
日本銀行が直接的にコントロールしているコール・手形レートの変動はその他の短期金融市場の金利に素早く伝わっていきます。国内のインターバンク市場とオープン市場との間での金利裁定は、①CD(譲渡性預金)市場の創設、②1978年秋頃から段階的に実施された都市銀行による債券現先取引の自由化、③1980年以降における証券会社のコール市場への参入、などによって次第に活発化しています。海外市場との間での金利裁定は①1979年における非居住者による現先市場への参入、②1980年の新しい外国為替法への移行や円転規制の撤廃などにより急速に活発化しています。
コール手形市場はかつては短期金融市場の中で圧倒的な存在でしたが、昭和50年代以降、様々なオープン市場が発達し短期金融市場の規模が拡大する中で、コール・手形市場のウエートが低下しています。ウェートは1976年の79%から1988年の33%へと低下しています。コール手形レートが次第に周辺のオープン市場金利の影響を受けやすくなっているのです。
今や日銀の操作目標でも無くなったな・・・
金融政策の話 東洋経済新報社 東洋経済新報社 1981-04 |
【金融・通貨制度】
2012.09.19|金融崩壊 昭和経済恐慌からのメッセージ 4/4~高橋是清
2012.07.05|ウォールストリートの歴史 6/8 ~独占体制の崩壊
2012.03.30|金融史がわかれば世界がわかる 3/6~基軸通貨ポンドの誕生
2011.06.16: 巨大穀物商社 アメリカ食糧戦略のかげに 1/4
2010.07.12: 資本主義はお嫌いですか ~貧しい国々が豊かな国々に貸している
2010.06.02: 数学を使わないデリバティブ講座 ~測度変換
2010.03.01: 噂のストップ狩り
2010.01.07: 金融vs国家 ~国の金融への関与
2009.03.12: ゆっくり見ると為替(FX)が通貨(Currency)に見えてくる
2007.12.19: 円保有のリスクって? イギリスで学者街道を進む後輩より
民族世界地図 2/2
カナダ
エリザベス女王を元首とする英連邦内の主権国家カナダが、自主憲法を持ったのはなんと1982年、カナダから英国から自治を獲得した1867年から115年後のことだ。それはカナダの意外に不安な内情を示唆する。その憲法にケベック州が参加を拒んできた。いわゆるケベック紛争だが、その最新の調停が、またも失敗に帰したのである。紛争の核心は、英語系住民の主導体制下で、フランス語系住民が民族的アイデンティティを保持しようとする闘いだ。具体的には、フランス語系が86%も占めるケベック州(1986年の州人口616万のうちフランス語系532万)がどこまで権限を持ちうるかである。わずか15分の小戦闘がすべての発端であった。18世紀、北米大陸で新しい富と好機を探索していた英国とフランスの冒険家たちは、今日のカナダ領土を舞台にしばしば戦火を交えた。1759年、ケベック地方の寒風吹きすさぶエブラハム平原の決戦で英軍は仏軍を破る。戦闘は15分で終わったが、これが英系とフランス系の長い長い反目の始まりとなった。北進をうかがう米国の攻撃に備えて、両社は戦術的に握手しながらも、胸の底では警戒を緩めなかった。
今日も総人口2960万のうち英系が40%、フランス系が27%を占め、他の諸民族を圧倒している。英仏系の平等な協力を前提とするにもかかわらず、英系がカナダの政治・経済を牛耳っていると、フランス系は不満を抱いてきた。米国を含む北米大陸の圧倒的な英語文化圏にあって、フランス系が埋没しそうな不安もあるのだろう。1960年代、不満と不安の結晶として生まれたケベック解放戦線は「自由ケベック独立」を叫んで州内の連邦施設を爆破し1970年には英国外交官を誘拐した。ケベック州が分離を動けば、ケベック州の東側四州(ニューファンドランド、プリンスエドワード・アイランド、ノバスコシア、ニューブランズウィック)は米国への併合申請に動きかねない。多民族国家で一民族にのみ「特殊な地位」を認めるのは危険なバルカン化を招くと言うトルドー氏の指摘は世界各地の民族紛争への教訓でもある。
アラブとは誰か
シリアには肌の白い、エジプト南部やスーダンには肌の黒いアラブ人がおり、外見は様々。中東世界の範囲を東はアフガニスタン、西はモロッコまでとした場合、アラブ国家の合計人口は1億6700万人。非アラブ国家は1億800万人で、6:4の比率となる(1982年国連推計)。非アラブ国家とは、アフガニスタン、イラン、イスラエル、キプロスである。アラブ国家ではアラビア語が主流であり、非アラブ5カ国ではそうではない。1945年に創設されたアラブ連盟という組織がある。現在はパレスチナ解放機構(PLO)を含めて22カ国あり、その加盟国の人々をアラブと呼ぶこともある。
アメリカ WASP
KKK運動を貫くものはワスプの三要素とっその特権の保持に他ならない。南北戦争後、黒人解放への対抗運動として結成されたKKKは、ワスプの地位が脅かされるたびに頭をもたげたが、その活動の本拠は常に南部であった。だが多様な移民の増加や彼らの権利拡大、エスニック文化の高揚などによって、ワスプの力は相対的に低下している。ワスプと多民族の結婚の結果、ワスプの純粋度も曖昧になり、「白人・プロテスタント」であれば出身が西欧や北欧のどこであろうともワスプとみなされるようになってきた。1990年の国勢調査での自己申告によれば英国系はわずか19%に減っている。
トルコ
騎馬遊牧民の血を受けるせいか、トルコ族は尚武の気性に富む。広範囲の拡散を可能にしたのもその軍事力に負うところが小さくない。イスラム世界における軍事力重視や軍人支配の伝統もトルコ族の特性によるとされる。トルコ族は広く散ったがゆえに、欧州とアジアの接点に位置するトルコ共和国の住民と、中国西部や旧ソ連南部の住民では、同じトルコ族とは言え異民族に近い。トルコ共和国はNATOに加盟し、湾岸戦争では国内の基地から米軍機がイラク空爆へ飛び立った。トルコ軍はNATO内では米軍に次ぐ規模御誇っている。
フィンランド
フィンランド人は言語、人種上のエスニシティではウラル系だが、社会的にはゲルマン文化色が濃い。この構図は東方のロシアと西南方のドイツという二大勢力の狭間で生存を探ってきたフィンランドの歴史と重なるものだ。フィンランド語は、ウラル語族フィン・ウゴール語派のバルト・フィン諸語に属すが、この派はボルガ川流域に発したとされる。紀元前6世紀ころ、その中から原フィン族となる集団が西進を始め、途中でスオミ族、エストニア族などに分裂、エストニア族は今日のエストニアに定着、スオミ族は海路フィンランドに渡り、ラップ人を北に追い払って住みついた。12世紀半ば強大なスウェーデンが北方十字軍を侵攻させ、16世紀にフィンランド大公国を樹立、ロシアと覇権を争った。1917年の帝政ロシア崩壊でフィンランドはようやく独立に至る。
スペイン
ベレー帽の発祥地バスクはスペインとフランスを分けるピレネー山脈に連なる地域である。「バスク地方は二度の被征服の危機を逃れ、一度の征服を受けた」と言われる。紀元前3世紀のローマ軍と西暦8世紀のイスラム軍を排除したが、20世紀のフランコ軍には屈服したという意味だ。バスク人自身はバスク語をエウスカラ、バスク人をエウスカルドゥナク、バスク人の居住地をエウスカディと呼ぶ。スペイン語もフランス語もインド・ヨーロッパ語派に属すがバスク語は全く違う独立語だ。
チェコとスロバキア
民主チェコスロバキアのハベル大統領は92年4月「国家統合の最大の敵は共産主義でも民族主義でもなく、個人の中の野心と欲望だ。視野の広い柔軟な知識人こそ政治的役割を要請される」 6月総選挙を経てチェコ民族とスロバキア民族の大分裂の方向が明確に決まり、7月、ハベル大統領はあっさり連邦の政権を放り出すに至る。同じ西スラブ系のチェコ民族とスロバキア民族の人口比は63%と32%、荷台民族同士ながら、「優勢意識のチェコ人」対「劣性意識のスロバキア人」という構図が国のあらゆる面に現われた。
両民族の融和が共産体制下でも国家統合の最大課題で、チェコ人が党書記長になればスロバキア人が首相を務めるなど、人口比率に基づく権力配分性が取られた。チェコ地方はドイツ、オーストリアなど西欧との関係を深め、工業や文化の面で一定の発展を遂げたのに対して、スロバキア地方はハンガリーとともに農業経済に基盤を置く保守的社会のぬるま湯に埋もれてきた。チェコ人の間からは音楽家のドボルザークやスメタナ、映画でも「カッコーの巣の上で」や「アマデウス」でアカデミー賞を受賞したフォアマンらが輩出した。他方、スロバキア人の作品は民話や民謡といったローカルな評価しか得ていない。第一次世界大戦の混乱と国境の変動を経た1918年、チェコとスロバキアは約1000年ぶりに統合・独立を果たしたものの両民族間にはさまざまなミゾが残った。93年ついに独立したチェコ共和国とスロバキア共和国が誕生したが、失業率はチェコ2.8%、スロバキア13.3%でチェコ国籍を希望するスロバキア人は約10万人に達するという激しい格差である。
民族世界地図 (新潮文庫) 浅井 信雄 新潮社 1997-05 |
【差別被差別構造】
2012.03.12 同和中毒都市
2012.01.27: 話題の大阪の地域別所得は
2011.07.15: 松本復興相、宮城県の村井知事を叱責
2011.04.22: 美智子さまと皇族たち1/4 ~天皇制と皇室
2011.02.28: アジア発展の構図 ~ASEANの発展 3/4
2010.09.27: 世界四大宗教の経済学 ~ユダヤ批判
2010.08.10: 母と差別
2010.04.02: 野中広務 差別と権力 ~被差別の成立
2009.07.15: 無差別な世界に思える国際都市
2008.01.09: どうでも良い芸能ネタも外人相手だと
民族世界地図 1/2
民族の不定義、みな勝手な定義な定義にしたがって、勝手な基準に基づいて計算するからそうなる。「民族の定義」などというものはないに等しく、存在するのは「民族の不定義」だけというべきだろう。
どうして民族を定義しなければ国家が成り立たないという事態に追い込まれたケースがある。イスラエルである。「ユダヤ国家」を前提に建国されたからで、世界からユダヤ人を招き寄せ、それを選別する必要上、「ユダヤ人とは何か」の基準を設けなければならないわけだ。国家の基本要素の一つは国民であるが、不安定なイスラエルへの移住に二の足を踏むユダヤ人、いったんはイスラエルに来たものの安住できずにまた他へ移住するユダヤ人もある。国民を確保するために、ユダヤ人として素姓の定かでないものを受け入れたりした。それではユダヤ国家としての純粋性を、やがて維持しにくくなる。
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イスラエル政府はまず、ある人物について、本人がユダヤ人と申告するか、またはその両親が申告すれば、その人をユダヤ人と認めることにした申告制度である。ではユダヤ人の両親から生まれたユダヤ人が他の宗教に改宗したら、ユダヤ人でなくなるのか。もし片方の親がユダヤ人であることを条件にして、その子供をユダヤ人と認めるとしたら、その親は母親であるべきか父親であるべきか、どちらでもよいとするか。両親が非ユダヤ人であっても子供がユダヤ教に改宗すればユダヤ人とみてよいか。本人も両親もユダヤ教徒だと申告しているのに、日常的にユダヤ教の戒律を守っていない場合、ユダヤ人と認定できるか。そんな疑問やら問題点が実例によって続出してきたのである。そこで「ユダヤ帰還法」が制定され、その中にユダヤ人の定義がなされた。ユダヤ人とは「ユダヤ人の母から生まれた者、ユダヤ教に改宗した者、そして他の宗教の信者でない者」というのである。
ユダヤ教には宗派があり、どの宗派で改宗するのかが問題になった。ユダヤ純粋性保持で最も原則にこだわるマフダル(国家宗教党)は、改宗の儀式はユダヤ教正統派によるべきで、ユダヤ教改革派やユダヤ教保守派によるものは、認められないと主張した。1986年、イスラエル内務省もついにこの立場に同調し、ユダヤ教に改宗した移民に対して「正統派ユダヤ教に改宗した」とのスタンプを押した身分証明書の提出を支持している。
>嘘に始まった国家は、嘘に嘘を塗り固めていかないと存続できないのだろう。
香港の民族構成は中国系98%、その他2%であるが、中国系では広東省系の漢族が圧倒的に多く、したがって広東語が日常的に使用される。香港住民が英国国籍を持つのは当然であるが、英国は経済困難に加え、旧植民地から多数の移民を抱えて社会的に微妙な問題を引き起こしているため、香港からの移住を規制する措置をとった。その最たるものが1981年、英国が行った国籍法改訂だった。英国国籍者を三種類に分類し、英国移住を認めない「属領市民」という項目に香港住民を押しこんでしまったのだ。
マカオの民族構成も香港と似かよっている。中国系95%、ポルトガル系3%、マカオ系2%。返還とともにだれもが中国国籍となるが、二重国籍を容認するポルトガルは総人口の30%にポルトガル旅券を発行済みである。二重国籍を認めない中国は、ポルトガル旅券を保持するマカオ市民が海外でポルトガル国籍を使うのは自由、ただし中国国内ではポルトガル公館で便宜を受けてはならぬ、との巧妙な方法で妥協にこぎつけている。
アルメニア問題
クレムリンがアゼルバイジャンに武力介入した時、武力行使の名目が「アルメニア人迫害阻止」であったため、かねてキリスト教徒のアルメニア人に同情的な欧米は正面から非難したくなかったのだ。アルメニア人の総数は推定650万人以上、旧ソ連に460万(アルメニア共和国に350万)、他にトルコ、イラン、欧米などに200万以上といわれる。アルメニア人に関する最古の記録は紀元前14世紀に見え、居住地は現在のトルコ東部とカスピ海の間で変化してきた。紀元前7世紀頃流れてきたアーリア人と混血、インド・ヨーロッパ語族のアルメニア語を話し、4世紀に世界で初めてキリスト教を民族宗教に採用した。第二はオスマン・トルコのアルメニア人虐殺だ。第1次大戦が始まるや、支配下のアルメニア人の反乱を恐れたオスマン・トルコは1915年彼らにメソポタミア砂漠への強制移住例を出す。混乱の末、アルメニア側は「150万人以上のアルメニア人が虐殺された」と主張、オスマン・トルコ崩壊後に誕生した現在のトルコ共和国政府は「多くは移住の途中で病死かが死したのだ」と弁明してきた。
87年、欧州議会が採択したアルメニア決議、トルコはECに加盟を申請中だが、トルコがアルメニア人大虐殺を認めなければEC加盟を認めないという内容だ。88年アゼルバイジャン共和国内のナゴルノ・カラバフ自治州(人口の80%がアルメニア人)はアルメニア共和国への所属変更を決議した。「大虐殺」のトルコ民族に近いイスラム系アゼルバイジャン共和国所属(実質的な従属)には耐えられぬということだ。89年、アルメニア共和国は「4月24日をアルメニア人大虐殺を追憶する国民祝日とする」と宣言した。
モルダビア
ルーマニア・ソ連国境をなしたプルト川の東はかねてべッサラビア、西はモルドバと呼ばれた。モルドバの人、つまりモルダビア人が14世紀に興したモルダビア候国がベッサラビアを領有し、川の東側にもモルダビアの呼称があてられるようになった。第二次世界大戦後、ソ連邦を構成する共和国が川の東に樹立された時も「モルダビア」と名付けられたのだ。1812年、ロシアが川以東のモルダビアを領有してからモルダビア人の間に反ロシア感情が芽生える。19世紀半ば、モルダビア候国は南のワラキア公国と統一し、1881年ルーマニア王国となる。第一次大戦とソビエト革命で混乱した1918年にはルーマニアが武力で領有した。第二次大戦ではナチス・ドイツも登場する。ソ連が独ソ不可侵条約により占領(1940年)、モルダビア共和国を樹立させた。独ソ戦になり、ルーマニア・ドイツ両軍がこれを3年間支配したところでソ連軍が奪還、1947年ルーマニアはついに川以東のソ連帰属を承認したのだ。モルダビア共和国は91年5月、「モルドヴァ共和国」と改名した上、8月にソ連からの独立を宣言、ソ連崩壊後は独立国家共同体(CIS)に加盟した。ところがモルダビア共和国内で少数民族となる約75万人のロシア系やウクライナ系の住民が不満を抱いて「国の中の国」というべき「ドニエストル共和国」を宣言。92年にはこれを支持するロシア軍とモルダビア共和国軍の大規模な軍事衝突にまで発展した。またトルコ系住民も「ガガウス共和国」を宣言している。
中国内朝鮮民族
朝鮮人の中国移入が始まったのは、17世紀から国境付近の貧民がより良い生活を求めて移動しながら中国側に入り込んでいるが小規模であった。むしろ日韓併合(1910年)後に、農地接収、日本人の朝鮮半島移入、半島産米の日本輸出などで貧窮した農民が、中国へ流れ込み、そこに水田耕作を定着させたと言われる。日本は彼らを「日本臣民」扱いして満州進出に利用した面もある。満州国建国(1932年)後、流れは加速し、終戦直前の在満朝鮮人は215万を数えた。
【民族意識系】
2012.11.12 もっと知りたいインドネシア 2/3 ~地理と民族
2012.10.05|宋と中央ユーラシア 4/4 ~ウイグル問題
2012.04.25|美しい国へ 2/3 ~平和な国家(国歌)
2011.08.17: 実録アヘン戦争 1/4 ~時代的背景
2011.05.09: 日本改造計画1/5 ~民の振る舞い
2011.03.25: ガンダム1年戦争 ~戦後処理 4/4
2010.09.09: ローマ人の物語 ローマは一日して成らず
2010.08.02: 日本帰国 最終幕 どうでも良い細かい気付き
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.02.04: 新たなる発見@日本
黒い経済人
有森隆、また買っちゃった。書いている人も同じ、ネタも同じなんだから前進ないだろと思っているのにまた買ってしまった。
第一章 ヤミ金の帝王 梶原進
主要ストーリーは、知ってるね? 常識として省略しますが、サブストーリーを・・・
名簿屋は東京・目黒区の広告代理業を表看板にしているアルフデータ。広島県警は、2003年アルフデータ会長や役員ら3人を出資法違反(高金利)幇助の疑いで逮捕した。約320のヤミ金業者に、約6万人の多重債務名簿を一人当たり約70円で販売、年間5億円の売り上げを上げていたという。多重債務者の名簿はパソコンで管理されており、勧誘に乗りやすい多重債務者ばかりをリストアップするなど、工夫を凝らして名簿の利用価値を高めていた。顧客情報を管理するコンピューターソフトを開発した「アキバ先生」が2003年に逮捕されたのだ。逮捕されたのは水城憲二容疑者で、ヤミ金融の店舗を統括する「センター」ごとに5,6台ずつ、総数で150台になんなんとするパソコンで水城が作成したソフトがフル回転していたという。警察に通報する恐れのある客には「K」、弁護士がついていて無理を重ねれば苦情が寄せらせそうな客には「B」という符号までつけられた、すぐれものだ。水城はソフト開発だけでなく各センター、各店舗のパソコンの修理を一手に引き受け、約2年半の間に8200万円の報酬を得ていたという。
黒いIT Engineerですな。
闇の献金 亀井静香代議士へ
『サンデー毎日』はこう書く。
亀井氏の資金管理団体「亀井静香後援会」の政治資金収支報告書には1999年から01年までの3年間、95年から96年の2年間に10万ずつ献金の記載がある。献金者の「梶山進」とは、指定暴力団山口組五菱会(静岡市)傘下のヤミ金融グループを統括していたとして8月11日、出資法違反容疑で逮捕された「ヤミ金の帝王」梶山進容疑者(53)のことだ。公表された報告書によれば亀井氏は5年間で計50万円、梶山容疑者から政治献金を受けていたのだ。そのころ亀井氏は何をしていたか。99年と00年の時点では亀井氏は政調会長として自民党の政策決定の責任者だった。今のところ亀井氏と「帝王」を結ぶ直接の利害は浮かんではいない。だが通常、政治献金する側にとって、何らかの見返りを期待するのは当然だろう。梶山容疑者はいったい、亀井氏に何を期待したのだろうか。
かめちゃん、可愛い名前だけど警察関係だからねぇ。くわばらくわばら・・・
1973年に貸金業規制法が施行され、金利の上限が73%に引き下げられた。さらに1986年に54.75%、1991年に40.004%になった。第二次は1990年代の商工ローンによる借金地獄だ。「肝臓1個300万円で売れ、目ん玉1個売れ」の恫喝取り立てで、全国に名を轟かせた日栄(現ロプロ)問題で商工ローンが社会問題化した。これがきっかけけで出資法が改正され、上限金利は現行の29.2%に引き下げられた。
いやー、なつかしいね。私もお金の話になるとちょっと怖くなるもんだから、「日栄エキゾ」と呼ばれていたことがあったなぁ…
「すいませんじゃなくてよ、俺が聞いてるのは、いつ返すんだ? ってこと。それだけ」。ニコッ
五菱会会長の高木康男容疑者は、梶山容疑者からヤミ金融の収益で購入した合計5000万円の割引金融債を分割して受け取った疑いがもたれている。割引金融債は典型的なマネーロンダリングの手段だ。
無記名式割引金融債、一族家でも私が子供の頃に大変にお世話になった金融商品ワリコー。この他に私が子供のころに心打たれた革命的金融商品を上げておこう。
6M into 10yearsのAmerican Swaption付 郵便定期貯金
マル優廃止と供に出現した節税商品、預金型保険 一時払い養老
証券会社口座内で保有できる貯蓄型ファンド 中国ファンドこと 中期国債ファンド(チュウコクファンドと読みます)
税金対策の相談役は警察OB
コンサルタント会社、日本リスクコントロール社長、寺尾文孝、警視庁OB、1963-67年まで警察に籍を置いている。警視庁の第一機動隊員だった。名前が突如、スキャンダルがらみで登場するのはイトマン事件の導火線となった雅叙園観光、日本ドリーム観光の兄弟会社のお家騒動でだ。リスクコントロール者は「最高顧問」に元東京高検検事長の則定衛を担ぎ出したのをはじめ、元検察・警察の高級官僚のそうそうたるメンバーを揃えた。寺尾はここ数年、大型経済事件の裏でたびたびその名前が取りざたされてきた。クレイフィッシュの「株券搾取事件」や投資ジャーナルの残党による投資詐欺「エンジェルファンド事件」、安室奈美恵が所属する「ライジングプロ脱税事件」にも関わっている。東京地検がケイ・ワンの脱税事件に本腰を入れたのは、検察の大物OBが脱税の指南とはいわないまでも相談に乗っていたことを問題視したからだと言われる。
金融無法地帯 和歌山 射殺された副頭取
紀州の阪和銀行、ヤクザに預金を食いちぎられ、オーナー一族の30年間にわたる対立抗争で内部崩壊していった銀行である。戦後初の業務停止命令が下されたのは1996年11月21日、この日だけで15700の口座から250億円の預金が引き出された。阪和銀行の不良債権が公表額の4倍の1900億円に達し、貸し出していた資金の43%が回収不能に陥っていた。しかも280円の債務超過という惨憺たる内容だった。だが、倒産の本当に理由は別にあった。副頭取の小山友三郎が白昼堂々射殺され、内部関与説が出た。しかもその犯人が未だに捕まらない。捜査関係者は今でも銀行内部のある人物が捜査の本線だと言っている。こんな銀行を存続させたら次に何が起こるか分かったものではない。
あおぞら銀行 本間忠世はなぜ死んだか
米国経済雑誌フォーブス2001年1月8日号に本間の自殺に関して「闇から闇へ」と題する興味深い記事が掲載されている。
間接的な状況証拠を積み上げると、ヤクザが本間の部屋を訪れ、ピストルで脅して遺書を書かせ、鎮静剤を打ち、絞め殺して首つり自殺のように見せかけたのだというのである。ホテルの部屋は首つりができない構造になっており、死体は壁に寄り掛かるように倒れていた。女性週刊誌の女性セブンによるとタレントの森久美子が本間の隣の部屋に宿泊していて、インターネットで当時の模様を語っていたという。森は「叫び声やうめき声がうるさくて、ホテルに苦情を言った」のだという。しかし、女性セブンのその号が発行された時には森のホームページは閉鎖されていた。森のマネージャーはこの件に関するインタビューは断っているという。
結構、面白くない? Bookoffでなら、買う価値あるなーと思って、いつも買っちゃうんだ。
黒い経済人―「政・官・財・暴」のマネーゲーム (講談社プラスアルファ文庫) 有森 隆 グループK 講談社 2003-12 |
【フィクサー・陰の存在】
2012.03.21 下山事件 最後の証言 2/2 ~国鉄利権とフィクサー
2011.12.08: 京都の影の権力者たち
2011.06.28: 青雲の大和 ~鎌足の謀略 2/3
2011.01.06: イトマン・住銀事件 ~主役のお二人
2010.10.15: 道路の権力2
2010.07.27: 闇権力の執行人 ~逮捕と疑惑闇権力の執行人 ~逮捕と疑惑
2010.04.08: 野中広務 差別と権力 ~伝説の男
2010.03.03: テロ・マネー ~暗躍する死の商人
2010.01.26: 黒幕―昭和闇の支配者
2009.03.23: 闇将軍
2008.07.08: Richest Hedge Fund Managers
写楽殺人事件
「春峰庵秘蔵の肉筆浮世絵売立て」の紹介記事が載せられ、2点の写楽の肉筆を、当時の浮世絵研究家で国文学者でもあった笹川臨風博士が激賞し、売り立ての前景気を煽ったのである。「珍しゃ写楽の肉筆現る-日本にたった1枚しかなかった写楽の肉筆が大震災で灰になって以来、絶望視されていたところ、このほど大作2点が旧大名の秘庫から発見され鑑定した笹川臨風博士をして”世界の大発見”と推賞せしめた。笹川博士語る-秘蔵されているのは某大名華族で、春峰庵と号されている。19点の肉筆を拝見したが、写楽を初めいずれも得難い珍品揃いで、19点の評価はまず15万円から29万円のものではないかと思う」
この金額は現在に直すと5億円を超す。当時としては空前の売立てであった。ところが売立ての当日になって、これらはすべてあるグループが画策して作った偽物だということが判明したのである。春峰庵という号も架空のものであった。これらの作品を鑑定し、図録に解説まで寄せて、その価値を賞賛して憚らなかった笹川博士を初め、関係した浮世絵研究家たちは図らずも自らの不明を世間に宣伝したこととなった。贋作そのもには幸い無関係で刑事的責任こそ追及されなかったものの、以降、博士らは一切の研究生命を断たれてしまった。浮世絵研究家たちはこの事件をきっかけに肉筆の真贋問題から足を遠ざけてしまった。
版画の他に、写楽の作品として通っている扇面絵が2点ある。1点はお多福が豆をまいている図柄。もう一つは右の方にとよく似の版画を踏みつけている裸の子供が描かれていて、左の方にそれを眺めて悲しそうな表情をしている坊主頭の老人が立っているものだ。
この老人を蔦屋だとか、豊国だとかいう人もあるけど、蔦屋でももっと若いはずだし、豊国なんか寛政年間は30前後だからね-写楽が書いたものなら親密な関係を持っていた人間に違いないよ。そこで谷素外の話に戻る。この説を言いだした人はたまたま素外の肖像画を持っていた。疎外は江戸談林派という俳諧の宗匠で、その世界では大変な権力を持っていた。役者や浮世絵師も名を連ねているけど、大名までも彼の門下に入っていた。写楽の扇面絵が話題になった頃、その人は、この扇面の中の老人の顔をどこかで見た記憶があった。比較してみたら瓜二つというほど似ていた。ところが肖像画には絵師の名が入っていない。この絵師=写楽ということにもなりかねない。じっと肖像画を見つめていると、今まで何気なく読みすごしてきた素外自筆の讃が急に気になり始めたってわけだ-「みづからおのれがかたちに題して」と最初の1行は書かれてある。これは素外の自画像だ。こんな具合に素外=写楽説が誕生した。
蔦屋が本格的な出版に乗り出したのは安永5年に喜三二と知り合ってから。以来天明6年までの10年間に、着実に成長を遂げて寛政の初年には江戸一番の大手になった-そして、これが重要なんだけど、天明6年までに蔦屋が出発した百冊前後のうち、実に7割が喜三二のものだったり、喜三二が関係していた狂歌の本なんだ。狂歌の本の中には直接喜三二がからんだと書いてないけど、彼の仲立ちで蔦屋がこの狂歌の世界に入り込んだのは確実だからね-つまり、蔦屋は喜三二と親しくなって急激に成長したってことだな。もしかすると、蔦屋隆盛の裏には喜三二を通じて秋田藩からなにがしかの金が渡されたということもあるかも知れない。蔦屋にいくら商才があったとしても、出版には莫大な費用がかかる。かといって、堅実にやってばかりでは店を大きくできない。蔦屋には必ずパトロンが居たと思うんだ。まだ資料は出てこないけど、何となく喜三二と出会ってからの蔦屋の異常な発展を考えると秋田藩が蔦屋の商才を見込んで後援者になったという仮説もあながち見当外れじゃないような気がする。藩が出版社を経営してもおかしくない時代だからね-蔦屋は吉原大門口で小さな書店を開いていたから連日にように吉原に顔を出す晩得や喜三二を見て、出世の糸口だと喰らいついたんじゃないかな。蔦屋は吉原入り口の側で細見を売っていた。吉原の店の格式とか遊女の名前、出身地、揚げ代とか、とにかく吉原のことならなんでも分かるという今でいうガイドブック。
田沼意次が権勢を誇っていたら、秋田藩も安泰、蔦屋も万々歳ってとこだったろうが、天明6年に田沼が失脚したことによって蔦屋の経営も苦しくなり始めた。そこに第一回目の発禁処分を言い渡された。寛政3年の京伝本は4回目で、第1回目は喜三二のものがひっかかっている。天明8年「文武二道万石通」。これは寛政の改革を進めた松平定信の政治を皮肉ったもので喜三二はこれが原因で黄表紙、洒落本類から一切筆を断たれてしまった。松平定信は蔦屋が田沼意次に関係あると見ていた。だから難癖をつけて蔦屋を潰してしまおうと狙っていた。面と向かったら、すぐ潰されてしまう。あくまでも法に触れない形で、蔦屋の勢力を巨大にしていかなければならないだろう-彼らは資金面や人員を集めることは手助けしても、アイデアは蔦屋に任せたんだろう。そして生まれたのが写楽だ。全く無名の絵師に巨大な資本を投入して、江戸一番の人気絵師にする。これが成功すれば蔦屋の名は押しも押されもせぬものになる。蔦屋はこれだけ強大な影響力を世間に対して持っているんだと定信に見せつけてやることができる。
平賀源内は牢で死なずに田沼の領地である静岡で何年か暮らしたと言われている。田沼が最も力があった時代だよ。そのくらいのことがあっても不思議ではない-別の死体を運び込んで源内の身代わりにした。写楽が直武門下の昌栄ってことになると、源内生存説も否定はできなくなった。蔦屋があれほど写楽の正体をひた隠しにしたのは写楽の線をたぐると源内に行きつく可能性があった。田沼グループは源内の生存を知っていた。だが田沼の失脚寛政年間では、絶対にそれを口外できない。知れると全員の首が飛ぶ。無名の絵師に莫大な資本を投下して短期間で人気者にする。いくら蔦屋の商才が卓抜だったとしてもそこまで考えるつくことができただろうか-国威を捨ててもロシアと通商を開始せよと、田沼に進言したと言う源内ならではの発想だ。
写楽殺人事件 (講談社文庫) 高橋 克彦 講談社 1986-07-08 |
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新華僑 2/2 ~東欧をさまよう華僑
政府軍の尖兵部隊 東方貿易
東方貿易は中国国営貿易会社によって設立された会社で、東方貿易系列の中間卸会社や小売会社は東方貿易から商品を仕入れて市場相場よりかなり安い値段で売っている。江南省対外貿易輸入輸出公司を主要出資先とする会社で旧ソ連邦・東欧向けの貿易を担当していた。しかし1990年にハンガリーの社会体制が変わって以降、バーター貿易ができなくなり、外貨決済に変更を余儀なくされた。しかし、外貨決済となると工業製品など従来の中国製品に対して、ハンガリーは見向きもしなくなってしまった。危機感を抱いた江南省対外貿易輸入輸出公司では、東欧に進出した新華僑にヒントを得、ハンガリーに会社を設立することに決めたのである。国営企業の有利さを最大限に利用して衣料品を大量輸入し、安い価格でどんどん卸していく。東方貿易はハンガリー進出当初、ハンガリー消費財輸入輸出会社といった国営企業あるいは国営貿易会社を相手に商売しようと考えていた。しかし彼らには積極的に商売を推し進めようという意欲がまったくなく、また、品物を輸入するための外貨さえないという困窮ぶり。当時、新華僑系企業はすでに系列化の傾向を見せ始めていた。しかし、在ハンガリー中国人社会に完全に浸透しているわけではなかった。紅七市場に頻繁に足を運び、携帯電話を持っている人や露店で景気良く商売している人たちにかまわず声をかけ、格安で売れ筋の商品を卸しましょう、と商談を持ちかけ、ハンガリー市場に根を下ろすようになった。
ハンガリーからルーマニアへ
チャウシシェスク政権当時のルーマニアは、ソ連邦とは一線を画していた。そして、政治教育の影響から大多数の中国人はルーマニアに対して親近感を持っている。東欧ではハンガリーが一番豊かな国ということぐらいは東欧を目指す中国人は一応知っている。1991年7月7日、ハンガリー政府はこれまで中国政府との間に結ばれていた相互査証免除協定に基づいた中国人のハンガリー入国を突然制限し、ハンガリー滞在中の中国人を強制送還する政策を打ち出した。わずか数カ月で中国人が経営する会社の95%が倒産に追い込まれて逝った。こうした状況下、ハンガリーに留まることができず、しかも中国に戻ることも望まない中国人の大逃亡がはじまった。その逃亡先が、ルーマニアであった。そのうち、ブカレストなどルーマニアの大都市に投資し会社などを設立した中国人は約10分の1、大多数の中国人はルーマニアを経由して西側諸国に行こうとしている、という。
ルーマニアの平均賃金は、年収で約1万レイ、生活水準は非常に低い。中国製品を輸入しても販売価格がコストを下回ってしまうため、まったく利益が上がらない。ルーマニア人は品質が高い商品よりも値段の安いものを求めている。したがって商売がなかなか軌道に乗っていかない。東欧をビジネスチャンスの地と思いルーマニアにやってきた中国人は、ほとんど後悔している。ブカレストには中華レストランが10件近くあるが、いずれも最近開店したものである。中華レストランをオープンしようと計画している人は200人は下らない。いっぽう、ルーマニア人は一般的に他人に店舗を貸そうとしない。貸したとしても1か月から3ヶ月くらいの短期賃貸契約しか結ばないのだ。契約期間内に中華レストランがうまく軌道に乗るようだと、大家は家賃の大幅な値上げを要求する。中国人が内装に金を費やすなどの投資をしていることなどまったく考慮せず、ただ貪欲に金を取ろうとするだけだ。貿易を行いたいと考えている新華僑も多いが、ルーマニアには投資保護といった条例が無く、投資した資金が回収できない恐れもある。また輸入品の代金を外貨で海外に送金しようとしても、外貨管理規制があるので自由に外国へ送金できない。輸入税などの相次ぐ大幅値上げ、最近まで外国製のテレビに課せられていた8-15%の輸入税が、いまでは70%に引き上げられた。
ベルリンのアルバイト事情
ドイツで事業を興すのは非常に困難であり、いままで会社を設立したという新華僑の話を耳にしたことがないという。まず、滞在ビザの許可がおりにくい、かなりの額の資本金が必要、年間のアルバイト時間が厳しく制限されているドイツでは、なかなか思うように稼げず、資金が容易に溜まらない。さらに労働時間はヨーロッパで一番短く、賃金は一番高く、そして、休暇を長く楽しむと言うドイツ流の生活に中国人もすっかり馴れてしまっていたから、コツコツと長い時間労働することに対し、本能的に抵抗を覚えてしまうのだ。
中国最高のシンクタンクである中国科学院におかれた国政分析研究グループが1989年に中国政府に提出したレポート『生存と発展』の予測によると、2020年代、中国では3つの人口のピークを迎える。総人口は少なくとも15億人になり、労働人口は10億人、老齢者人口は3億人以上になる。この3つの人口のピークが到来するまでに経済を大いに発展させることができず、かつ人口抑制政策を効果的に徹底させられずに1980年代後半当時の現状で推移した場合、「大動乱が発生し、近代化の実現どころか、中華民族の基本的生存条件さえも維持できず、中国は永遠に日の目を見られなくなってしまう恐れがある。中国は大規模な農産物輸入を迫られるか、あるいは世界各国に対し、大規模な人口輸出を行う以外、選択の余地は無いだろう。
1986年天安門広場で民主化運動が弾圧された直後、鄧小平は東南アジアを震撼させるような発言を行った。「もし中国共産党が中国をコントロールできなくなったならば、1億人の中国人がインドネシアに流れ、1000万人がタイへ、50万人が香港に流れるだろう」 脅迫に聞こえなくもない鄧小平の発言は、誰もが無視できないリアリティを持っている。中国経済が順調に発展することは目前に迫った人口危機問題を回避ないし解決するための最良の方法であろう。その意味で中国の高度経済成長は両手を上げて歓迎すべきだ。一部の日本人はすでに中国を経済ライバルに見立て、経済大国中国の出現に強い警戒心を示すという過剰反応を引き起こしている。普遍的に中国市場を日本経済の下請け、孫請け状態におきたがるそうした人間の時代遅れの思考に、いかほどの現実性があるのか。私は強く疑問を抱くと同時に、中国の人口問題の重大性と深刻さに目を向けようとしない近視眼的思考に対し、批判の矢を放ちたい。
新華僑―世界経済を席捲するチャイナ・ドラゴン (中公文庫) 莫 邦富 中央公論新社 2000-01 |
【少し騒がしい脅し】
2012.08.03 第二次タイ攻略 9/15 ゴーゴー&ペイバー&ディスコ
2011.08.19|実録アヘン戦争 3/4 ~禁止令
2011.07.13: 父親の条件3/4 ~恐怖の親父から恐怖の独裁者が
2009.07.10: 得意の交渉術
2009.07.03: 暴君の家庭
2009.05.19: 俺の欲しい車
2009.04.09: 金(カネ)の重み
2009.03.16: Singaporeの日本飯
2008.01.23: モノの価値 流動性プレミアムは相手に払わせる スーツ編
新華僑 1/2 ~ロシアの華僑
1979年に中国本土で経済改革・開放政策が実施されてから以降海外に出国した、いわば外国での永住権を持つか持たないかに関わらず、永住傾向の強い中国人を私は新華僑と呼ぶ。
著者の造語みたいです。
海外でどれほど財産と地位を手にしたとしても、母国中国にあって華僑は、つい最近まで地位が非常に低かった。まず「華僑」という言葉そのものが、わずか90年ほどの短い歴史しか持っていない。そもそもこの言葉は、清朝の末期頃、それまで海外在住の中国人を「棄民」すなわち捨てられた民と看做していた清朝の官僚が、海外在住中国人の地位を準国民に引き上げるため、苦し紛れに作った言葉なのである。中華人民共和国建国以降、中国本土から海外へ移住する中国人移民はぱったりと途絶えた。そこには大きな要因が二つ挙げられる。一つは共産主義の浸透を恐れた当時の西側諸国がこぞって中国人移民の受け入れを中止したことである。もう一つの要因は、移民を国辱と考えた中国政府が、民衆の出国を厳しく制限したことである。この現象は1980年代の初期ごろまで続いた。
現在の日本も同じだね。エリートは海外の低税率環境下で金を稼ごうという下賤な行為はせず、霞が関で公務員をやる。そして中国も同じで、海外留学などせず、北京大学を出て公務員をする習わしだそうだ。
北京発モスクワ行き国際列車は週に二便ある。うち一便は、モンゴルの首都ウランバートル経由する中国管轄の三次国際列車である。もう一便は、満州里を通るロシア管轄の国際列車である。ロシア管轄の列車は1000キロ以上長く走るため、乗車時間もまる一日余計にかかる。加えて、ロシア人の列車乗務員とは言葉がうまく通じない。こうした理由でロシアや東欧に向かう中国人のほとんどが、中国管轄の三次国際列車を利用することとなる。三次国際列車の北京からモスクワまでの乗車券は「兌換券」と呼ばれる外貨と両替できる中国の特殊貨幣でしか買えないが、定価は873元とそう高い値段ではない。モスクワや東欧に向かう中国人があまりにも多くなったため、乗客のほとんどが定価の3-4倍もの金を出し闇市で入手したダフ券で乗車していた。
モスクワ時間での朝の5時頃、三次国際列車がウラン・ウデ駅、ロシア領に入って最初の停車駅、中国人にとって初めて商売のできる駅となった。駅のホームには大勢のロシア人が集まって、列車の到着を首を長くして待っていたのである。11月のウラン・ウデは気温は氷点下20度近くであろう。国際列車の到着を厳寒の雪の中で辛抱強く待っているロシア人の姿を目のあたりにした時、ロシアの物不足がどれほど深刻化しているのか、それは私の想像をはるかに超えていた。
「モスクワまでの各駅がこういった調子です。もってきた商品は絶対に売り尽くすことができますが、問題は売値です。ルーブルの交換為替レートが下がる一方で、良い値段で売らないと赤字になる恐れがあります。だから皆ウラン・ウデ駅では本気で商売することを避けていました。市場の動きと値段を把握するため、情報を仕入れるための売りを行っただけです。盛んに商売していた人は間違い無くこの列車では新人だと断言できます。イルクーツク駅は、極東一の大都市であり、住民の購買力も高い。イルクーツクでは皆が一発勝負に出るでしょう。」
治安の悪いマリンスクでは警官による商品強奪や、ノヴォシビルスクでは偽ルーブル札が横行しているらしい・・・
中国の経済改革・開放政策を進める上で、ある国経済政策を理想として求めた。社会主義国家でありながら資本主義経済政策を大胆に推進していたハンガリーとユーゴスラビアであった。東欧に新天地を求めた中国人は目的地に到着するや否や、そこが彼らが想像していた国家と違うことに気付いた。中国人を迎えた東欧の国々は、改革の先輩格と呼ぶにはほど遠い状態であった。物資の欠乏、貨幣価値の低下、人々の生活の貧しさ・・・、そしてなによりも彼らが驚いたのは、東欧の人々が彼らを金持ちとして迎えたことであった。
かつて東欧に中国人はほとんどいなかった。もちろん、老華僑もである。ではなぜいま、大量の中国人が東欧に殺到するのか。東西冷戦が終焉し、中国とロシアの歴史的和解が実現した結果、出国ブームに沸く中国人にとって東欧は、行きやすい国となったのだ。中国人の大量出国に警戒心を強めた西側諸国が、中国人に対するビザの発給を年を追って厳しくしているため、彼らの念願である西側諸国には行けなくなってしまった。そこで彼らは査証(ビザ)免除協定が結ばれていて、つい最近まで同じ社会主義国家であったという理由で入国ビザを比較的簡単に発給してくれる東欧に、出国の流れを変えたのだ。東欧諸国まではかつての社会主義経済圏ということもあって、北京から黒海に臨むルーマニアのコンスタンツァまで、日本年に換算してわずか数万円程度の乗車賃でじゅうぶん事足りる。アメリカや日本に出国する場合の数十から100分の一という格安の費用で出国できる東欧は、多くの中国人にとって手軽に行ける国として脚光を浴びた。
中国人の入国に寛容だったハンガリー
1988年、中国とハンガリーは互いに入国ビザを免除するという内容の協定を結んだ。これは、中国が他国と結んだ唯一の査証免除協定である。しかし、1989年までハンガリーで中国大使館員以外の中国人を見つけることは難しかった。その後、わずか3年後を経た1992年、ブダペストで中国人を見つけることはそう困難なことではない。ハンガリーに滞在する中国人は既に30000人を超えた。中国人が開設した銀行の外貨預金口座の総額がブダペスト市民の預金総額を超えてしまったため、銀行では中国語の話せる人間を採用し、中国人専用の窓口が設けられたこともあった。
ハンガリーではほとんどの会社がL/Cによる貿易方法を知らない。中国から輸入し、そして現物をハンガリーのユーザーに見せなければならない。彼らは気に入った商品を少しずつ仕入れて、売り切れてからまた買い足すという方法をとるのです。だから我が社は輸入会社なのか小売会社なのかわかりません。小売と卸を兼ねた輸入会社と言った方がよいかもしれません。こうした形で商売を行うのは本意に反することですが、ハンガリー市場が国際市場に追いつくまではこのようなやり方を続ける他ないでしょう。
ハンガリーの銀行は一般の企業に商業ローンを提供するほどの余裕がない。ではどんな方法でAEAは資金面の問題を解決しているのか。中国国際信託公司に勤務経験があり、中国国内に強力な人脈をもっている。彼らは信用関係だけで中国から無料で商品を輸入することができ、二ヶ月後あるいは三ヶ月後に代金を支払えばよい。これは貿易専門用語でいうところのDA60日またはDA90日という支払い方法である。
【タカリの花道】
2012.12.12 第二次ジャカルタ攻略 9/11 ~ちょっと下品なコタ・ライフ
2012.09.18 金融崩壊 昭和経済恐慌からのメッセージ 3/4~1927年金融恐慌
2012.04.05|KTVデビューしました 4/5 ~プロとして
2012.02.29: タイ旅行 7/11~ゴーゴーバー
2011.07.26: ローストビーフの作り方 1/2 前編 下準備と企画
2010.12.30: 銀行が俺の金を抜きやがる瞬間
2010.11.12: 英国で離婚成金もはや望み薄
2010.07.07: 夫婦で読むデリオタブログ ~嫁の経済感覚と無駄遣いの改善のために
2010.05.19: 秘録 華人財閥 ~一族、二世たちの武勇伝
2010.03.26: タカリの王道を極めし者
2009.11.19: 「年収は?」聞きにくいことの聞き出し方
2009.09.28: 財産分与好事例 改善しつつある世論に拍手
2009.09.03: 教育者としての主婦
オサマ・ビンラディン
青年オサマ・ビンラディン
高校を卒業したオサマは、サウジアラビアで最高の高等教育機関の一つとされるキング・アブダル・アジス大学に進んだ。そこでは経済学と経営学を学んでいる。同時に一族の会社の舞台裏の力関係についても学んだ。会社の報告書に目を通し、経営会議にも参加していた。オサマはイスラム教の伝統ある中東の大学に進んだが、兄弟のほとんどは外国の大学で学ぶことを選び、西欧文化の自由と快楽を味わった。特にオサマの異母兄でムハマド・ビンラディンのお気に入りの長男サリムにはその傾向が強かった。サリムはロンドンで教育を受け、ハンサムで魅力的なことで知られていた。自家用機を乗り回し、プレイボーイという評判だった。70年代前半のオサマにも同じような傾向がみられた。サウジアラビアの大富豪の青年たちの多くと同じようにオサマもいくらか快楽主義のところがあった。レバノンの首都ベイルートを定期的に訪れ、活気にあふれた都会でナイトライフの興奮を楽しんだ。
人生の転換点
飛行機事故によるムハマド・ビンラディンの死に伴い、子供たちはみな莫大な遺産を相続した。オサマの取り分は3億3千万ドル以上と考えられている。長男のサリムが企業の実権を握ったが89年にハンググライダーの事故で彼が突然世を去ると異母兄のバキが一族の長となった。知性も直感力もすぐれていたが、オサマはビンラディン家の大勢の息子たちの一人にすぎず、他の兄弟の中に埋もれがちだった。アフガニスタンの援助に向かうことでオサマ・ビンラディンは宗教的熱情を注ぎ込む道を見出した。自分が即兄その状況に反応したことをこう説明している。「私は怒りを覚え、すぐ、そこに向かった」
ビンラディンが最初に向かったのは、アフガニスタンと国境を接するイスラム教徒の国パキスタンである。ここにきて、オサマ・ビンラディンの事業のセンスが非常に役立つことがすぐわかった。戦略的軍事行動の技術を教える軍事教練キャンプも何か所かに開設した。豊かな財産は事業の資金提供にも役立ち、彼の努力によって、世界中から何千人ものイスラム戦士がアフガニスタンの兄弟たちの支援にやってきた。運動を絶やさないために、医者、爆弾専門家、軍事戦略家、技術者などをアラブ世界全体から募集して戦士たちを支援させた。ビンラディンが建設業界に居たことは、ソ連に勝利するために必要な社会基盤を作る上で大きな利点になった。ブルドーザーや諸処の建設機械が到着し、塹壕を掘り、道路を舗装して、補給品を運び込み、部隊を戦略地域に送り込むことができるようになった。
アメリカからの支援
アメリカは、ソ連の領土拡大や共産主義の拡張を阻止しようとしていた。アメリカはアフガニスタンの反乱勢力に資金を提供することで、真の自由のための闘争を支援していると信じていたのだ。ある情報筋によれば、アメリカにスティンガーを提供させたのは、オサマ・ビンラディンのアイデアだったという。スティンガーは熱追尾型の地対空ミサイルで、ソ連の戦闘機を撃ち落とす性能を持っている。紛争の期間中にロナルド・レーガン大統領は、この種の武器を最も効果的な使用法を示した訓練教本を添えてなん10基もアフガニスタンに送った。スティンガーのおかげで、アフガニスタンの戦士たちは270を超えるソ連の戦闘機を撃ち落とした。ビンランディンはこの武器を特に好んだ。数年後にはアメリカに対して宣戦布告することになるイスラム過激派に武器を提供していたなど今となっては想像もできないことだ。
湾岸戦争
90年8月、イラクの指導者サダムフセインが隣国のクウェートに侵攻し、次の標的としてサウジアラビアを狙う姿勢を見せた。ビンラディンはサウジアラビアの指導者にアフガニスタンでの成功を例に引いて、祖国を救うためにイスラムの武装勢力を用いるように強く主張し、西側、特にアメリカに援助を求めることには強硬に反対した。ビンラディンは10ページからなる戦闘計画案を持ってサウジアラビア国防相スルタン殿下の執務室に押しかけたという。皇太子は「サダム・フセインが上空あるいは海上から攻撃して来たら、サウジアラビアはどう防衛したらいいのか?」「イラクの生物・化学兵器にどう対処するつもりなのか?」とも尋ね、ビンラディンはこう答えるしかなかった。「信仰の力で打ち負かす」 アメリカ軍がやってきたのはその後間もなくだった。
出サウジアラビア
オサマ・ビンラディンの思うようにはならないことをサウジアラビアの指導者はよくわかっていた。それどころか以前は自分たちに都合が良かったビンラディンへの大衆の英雄視と人気が、今回は自分たちに不利益をもたらす可能性があることに気付いていた。サウド王家はビンラディンに国民感情を否定的に操作するだけの影響力があるとみなし、王室の行為を露骨に非難しないように警告した。彼の一族が長年甘い汁を吸ってきた実入りのいい政府施設の契約を打ち切ることまで臭わせてきたのだ。ほどなく、サウド王家との関係は国を出た方が賢明だとビンラディンが思うまでに悪化した
91年、サウジアラビアは反政府計画に加担したとしてビンラディンを国外追放した。ビンラディンはイスラム原理主義が政権を握るスーダンに家族とともに移り住むことになった。日中の気温が40度近くになるにもかかわらず、ビンラディンはどちらの家にもエアコンをつけないことにした。簡単に手に入れられる贅沢品を敬遠するのはビンラディンにはよくあることだった。あるジャーナリストは彼の言葉を引用してこういっている。
「贅沢な暮しに慣れたくない」
オサマ・ビンラディン エレーン ランドー Elaine Landau 竹書房 2001-10 |
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ドイモイの国ベトナム 2/2 ~貿易と経済
ベトナムを旅行していて気のつくことは、ベトナム人の人柄の良さと節度の正しいことである。特に目につくのは、年長者を大切にしていることだ。ベトナム語では日本語のあなた(英語のyou)に当たる言葉は普通アイン(Anh)という。相手が女性の場合にはチー(Chi)というのだが、これは同年輩の人に対する呼び方であり、目上(年長者)に対する呼び方は別にある。相手が男性の場合はオン(ong)といい、女性の場合はバー(ba)という。ベトナム人は常に目上を意識し、目上に敬意を表し人道的な善と親への孝行を大切にしながら生きてきた。このようなベトナム人の生活信条は、中国の儒教思想によるものだ。
ベトナムは言語の絶する激しいインフレに悩まされてきた。
1983年 2.4
1984年 12
1985年 12
1986年 18
1987年 225
1988年 900
1989年 4,300
1990年 6,466
1991年 12,960
1992年 11,000
1993年 10,100
金利10%以上のVNDは今も下落が続いているな・・・
ベトナムの貿易構造の特徴
ベトナムの貿易統計は90年までルーブル/ドルという単位が使われてきた。これは1ドル1ルーブルとして単にドル建ての数字を足し合わせたにすぎない。それゆえ一つの基準としては使えるが正確さには乏しい。ドイモイ政策がスタートしてからも旧ソ連からの経済援助は続けられていた。そして対ソ貿易で毎年発生する貿易赤字はこれまで通り有償援助として処理されてきた。ちなみにソ越貿易の赤字をみてみると、86年11億ルーブル、87年14億ルーブル、88年14億ルーブル、89年10億ルーブル、90年3億ルーブルであった。ベトナムの国家建設にソ連の支援は重要な役割を果たしてきたのである。旧ソ連ばかりでなく東欧諸国との貿易取引も多かった。このようにして貿易量のうちルーブル経済圏の比重が大きかったのもベトナムの大きな特色といえるのである。
92年の貿易黒字は8000万ドルと微小ではあるが、この黒字は建国以来初めてのことであり、このことに大きな意義を有しているのである。あらためてドイモイ政策の正当性が再認識されているのである。だがこの黒字を喜んでばかりはいられない。石油依存が大きすぎるのが頭痛の種である。ベトナムの輸出拡大は品目別にみると石油が大きなウエイトを占めており、石油に対する依存度が大きい。この石油の最大の輸出相手国は日本である。92年の実績によると日本は金額ベースで5.2億ドルの原油を輸入している。ベトナムの輸出総額は24.6憶ドルであったからベトナムの総輸出の21%が日本向けの原油であったことになる。
ベトナムは産油国であり、原油の輸出国であるにもかかわらず、なぜ、石油を290万トンも輸入しているのか、まず、この点に疑問を持たれることであろう。実は現在ベトナムには石油の精製設備がない。そのために国内で使用する石油の精製をシンガポールに依存しているというのが実情である。530万トンの原油を輸出し、290万トンの石油を輸入しているのである。ベトナムが石油精製設備のプラント建設に意欲的なのはそのためである。
ベトナムは1976年の統一以来、一貫して旧ソ連に政治・経済の支援を仰いできた。この現象はドイモイ政策のスタートした86年まで続いていた。ドイモイのスタートした87年以降からは、一部華僑資本の流入が始まり、香港、台湾、シンガポールなどが貿易取引の相手国として登場するようになってきた。だがベトナム経済の基本は旧ソ連に対する依存だった。このような背景の中旧ソ連が崩壊し、その後、ベトナムは政策の大転換をせざるを得なくなった。決定的な転換現象は91年に起こった。
ベトナムを旅行して肌で感じる実感としては、ホーチミン市のモーターバイク利用がハノイ市に比べてみると断然多いように思えることである。ホーチミン市では市内を走っている車のうち約半分近くはモーターバイクであり、後は自転車そしてシクロ、自動車の順である。50cc以下のモーターバイクは免許証がいらないこともあり、アオザイを来た女子高校生なども通学に使用している。
これ見るとホンダの株を買いたくなる動画をどうぞ。
凄まじ過ぎるバイク天国。そしてそのほとんどが日本製である。当ブログ読者には少ないと思うが、自動車・バイク製造、部品も含む会社にお勤めの読者諸君は、ぜひホーチミンを訪れて欲しい。日本の技術者たちの汗と涙の結晶が、海を越えたベトナムの地で、こんなに愛されているというのを知って欲しい。エンジニア諸君が作るバイク製品は、ベトナムの民にとって、「腹が満たされたら次何欲しい?」と問われて「バイク」と答えるくらいに愛されている。
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ドイモイの国ベトナム 1/2 ~建国の歴史
アメリカの経済制裁
78年12月にベトナム軍がカンボジアへ侵攻し、79年1月にプノンペンを攻略したのをきっかけにしてエンバーゴ(対ベトナム禁輸措置)という形で経済制裁を開始したのである。このアメリカのエンバーゴに対して西側諸国が同調した。もちろん、日本も同調し、このとき(1980年3月に140億円の経済援助が予定されていた)からベトナムへの援助資金(主といて政府開発援助)は凍結することになったのである。(だが日本は92年から政府開発援助を正式に再開しており、日越関係は急速に好転してきた。
ベトナムの石油推定埋蔵量は230億バーレルという驚異的な数値まで発表されている。現在ベトナムの採掘されている石油は、旧ソ連との合弁会社であるベトソフペトロ社に依存しており、はなはだしく非能率的であり非経済的である。ベトナムの今後の国づくりのために石油資源の有効活用は何よりも大事なことである。
ベトナムは仏領インドシナといわれた時代が長く続いた。そのきっかけとなったのは、明命帝(みんまんてい)がカトリックの布教を廃絶したことに対する報復的攻撃だった。1858年のことであった。この報復攻撃のあと、1862年には明命帝はフランスと協定を結ばされ、このときから実質的にはフランスの植民地支配が始まることになった。フランスの植民地政策はベトナム人からの搾取とベトナム人に対する迫害であった。そのためベトナム全土では排仏運動が展開され、この排仏運動は民族共通の運動として代々引き継がれてきた。
一度はフランス支配から抜け出すことができた(日本支配時代)ベトナムだが、第二次大戦後の1946年2月には再びフランスの支配下におかれ、このときから長い南北分裂と南部解放連動が始まることになるのである。1946年12月19日、長年のフランス支配に甘んじてベトナム人(ベトナム軍)はとうとう武器を持って立ち上がり、フランス軍に一斉攻撃をかけた。これがいわゆるインドシナ戦争の始まりである。このインドシナ戦争は結局8年間という長い戦いになった。そして戦士に残る壮絶なディエンビエンフーの戦いでフランス軍が大敗してやっと終結した。このときの終戦処理方法を定めたのがジュネーブ協定であった。1954年7月21日にジュネーブ協定は調印され、北緯17度線で南北ベトナムは分断国家として再出発することになった。ジュネーブ協定が調印された翌年、バオ・ダイ帝はゴ・ジン・ジェムに組閣(南ベトナム)を命じ、10月26日にゴ・ジン・ジェム政権が誕生した。
ベトナムの文化は中国から伝えられたものが多く、ベトナムが初めて中国(当時は漢の時代)の支配を受けたのはBC111年であった。ベトナム史によると、李朝時代(1010~1225年)にベトナムは中国から最も多く制度を取り入れたと記されている。この李朝時代に導入された中国の制度としては、官僚制度、税制度、徴兵制度などを上げることができる。なかでも科挙制度を正式に制度化したことである。
ベトナム人は教育に大変熱心な国民である。どんな貧しい山村でも農村でも義務教育だけは必ず受けさせている。文盲率は8%と低い。小学校が5年、中学校は4年、高校は3年。ホーチミン市だけは全国に先駆けて中学校までを義務教育にしている。小学校ではもちろん授業料はいらないが、教科書代金は各自の負担である。ハノイ市のある小学校5年生の場合、1年間の教科書代は約2万ドン(1万ドンは米ドル1ドル)。他に文具代として4万ドン必要とのことだった。ベトナムのごく普通の家庭の収入は1日1万ドンというから6日分の給料に当たる費用である。
個人所得税率表
1.ベトナム人の場合
平均月額給料(単位:千ドン) 税率 650未満 0 650以上 1300未満 10 1300以上 1900未満 20 1900以上 2900未満 30 2900以上 4400未満 40 4400以上 50 2.外国人の場合 3000未満 0 3000以上 9000未満 10 9000以上 21000未満 20 21000以上 42000未満 30 42000以上 60000未満 40 60000以上 50
外国人だと当時10000VND=1USDとすると6,000USD×12=72,000USDで最高税率に達してしまう鬼の累進。ベトナムっ子がいくら可愛いとはいえ、この所得税率だと住む気が失せるわ。もっとも税率が低くても買えるけど売れないドンもらってもしょうがないんだが。
ドイモイの国ベトナム 矢島 鈞次 窪田 光純 同文舘出版 1993-11 |
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殺戮と絶望の大地
うーん、ユーゴの本は読んでるんでねぇ・・・、この著者はユーゴの専門家じゃないね。
夜まで待てば、国連防護軍(UNPROFOR)がハンガリー官憲に代わって国境の検問に当たる。ところが、そいつらはモラルなんかかけらも無い。ワイロは取り放題。ウイスキー1本なら1ドル、パラボラだって交渉次第でフリーパス。バングデシュやインドネシア、ネパールから来てるヤツらがほとんどで、勝手にボロ儲けしてるんだ。ヤツらはセルビア人の運び屋からカネを巻き上げて、ハンガリー人の売春婦を買いまくっているんだ。
国連が決めた制裁を国連軍の兵士を率先してやぶっている。まさに今日の国連が抱える問題を示す格好の例だ。発展途上国では、国連軍兵士になることはエリートになると同時に一攫千金のまたとないチャンスなのだという。こんなことでは国連はいつまでたっても支持されない。
現場に足を運んでいるのはわかるんだけど、こんな感じ。
チトー政権は多民族国家を維持するために各民族の文化やアイデンティティーの保持に常に気を配りつつ、一方で手綱を引き締めるという、アメと鞭の政策をとっていた。その基本方針は各民族に平等だが、困ったことに一つだけ民族とは定義できない、独自の言語もアイデンティティーも持っていない人々が居た。ボスニアのイスラム教徒である。彼らは中東から来たわけではない。もともとボスニアに居たスラブ民族(大多数がセルビア人、少数がクロアチア人)が15-19世紀に及んだオスマン・トルコの支配下で改宗したのである。チトーは宗教以外、アイデンティティーのない彼らにモスレム人という民族名称を与え、ボスニア・ヘルツェゴビナの主要な民族的な待遇を与えた。
ゼリコ・ラズニャトビッチ、通称アルカン(大天使)である。ある官の略歴は刑務所より動物園のオリに入れた方が良いほど狂気に満ちている。イタリアでレストラン店主殺害、ストックホルムで銀行強盗を働き、逮捕。10年の刑を宣告され服役するが、1年余りで刑務所から脱獄。帰国後は秘密警察と暗黒街の連絡係となる。その他犯罪歴多数。現在でもインターポールの指名手配リストに彼の名は載っている。しかしこの大天使というニックネームで呼ばれる謎の男は民族の英雄として今ではコソボ自治州選出の国会議員にまでなっている。
ジェリコ・ラジュナトヴィッチの写真
大アルバニアを夢見る老民族主義者 チョシャ博士
アルバニア人は国際社会からあまり多くを期待できないということを知っている。アルバニア人が今、セルビアの主権下に置かれているのも、第一次大戦の時、ロシアだけでなく英仏が、アルバニア人の土地をセルビア人が併合することを了解したからだ。1912年セルビアがコソボを占領、併合した時、セルビア人の人口は5-6%だけで残りはみなアルバニア人だった。その後アルバニア共和国が誕生するが、その中に組み込まれたアルバニア人はわずか74万人。それをはるかに上回る119万人のアルバニア人はアルバニア共和国の外に取り残されてしまった。成立したアルバニア共和国の面積は2万8千平方キロ。一方、国外のアルバニア人居住地域の面積の合計は2万9千平方キロ。ひどい不正が行われたのだ。セルビアは国際社会、列強の後ろ盾があったからこんな不正ができた。こうした事実を踏まえればあなたは言うように国際社会にあまり期待しすぎるものじゃない。
やっぱり地図は参考になるので、載せておこう。
殺戮(バルカン)と絶望(ロシア)の大地 落合 信彦 小学館 1993-07 |
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ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 3/3 ~国連の失態
国連がユーゴ紛争で最初にとった具体的な行動は91年8月に採択されたユーゴ地域への武器禁輸を決定した安保理決議だった。それ以外は議長声明などでの「憂慮」すら表明せず、事実上ECの仲介が失敗するのをただ傍観していたにすぎない。この背景には国連の「地域主義」の原則もあった。アフリカのことはアフリカ諸国が、アジアのことはアジア諸国がまず協議して解決する、という慣習である。当時ユーゴ問題はヨーロッパの問題と見なされ、ECが共通の外交政策を樹立して政治的実力を発揮できるところを見せようと張り切って解決に当たろうとしていた。
国連はこのECの仲介が失敗することがほぼ確実になってから、91年10月にバンス元米国務長官を特使に任命した。クロアチア戦争は92年1月2日にこの「バンス案」で停戦が実現し、続いて国連保護軍派遣が正式決定される(2月22日)。国連保護軍は初め、クロアチアでの停戦監視などを主要任務として、3月に本格的展開を開始し、中央司令部はサラエボに置くことになった。このとき国連保護軍サラエボ・セクター司令官として赴任したマッケンジー准将(カナダ軍)によれば、司令部をサラエボにおくことは「軍事的には考えられないが政治的意味をもった決定」だった。不穏な空気が強まっていたボスニアに戦火が飛び火することを少しでも避けようと狙いがあったことは明白である。
ガリ総長
国連保護軍の正式配備開始の直後にボスニアで戦争が開始されセルビア人勢力によるサラエボ包囲が始まる。(94年2月)ここで国連の出遅れを決定的にしたのが、事務総長の後向きの姿勢だった。ブトロス・ガリ事務総長は、国連保護軍の活動領域をボスニアまで拡大することに非常に消極的だった。それどころかボスニア各地で相当が続く中で、国連保護軍司令部をベオグラードに移転(その後ザグレブに再移転)させ、一時はボスニアから国連保護軍を完全に撤退させようとまで考えた。ブトロス・ガリはこの年(92年)6月に『平和への課題(AGENDA FOR PEACE)』を発表し、国連の平和維持活動を強化し、停戦などの条件が整わないもとでも積極的に関与していく「平和執行活動」を提唱したが、ことボスニアに関しては平和維持や人道援助活動にすら消極的で、自説とは反対の言動を繰り返した。
当時の国連保護軍サラエボ・セクター司令官マッケンジー准将は、サラエボへの一個師団規模1万2千人の兵力派遣を要請したが、国連本部(ブトロス・ガリ)がこれを却下した、と後に語っている。サラエボへの師団派遣は和平会議議長キャリントン卿も平和維持部隊の増強を「提案したが国連側が拒否した」と証言している。ブトロス・ガリは「決定する権限は自分にある」と自分との協議無しに増強案を公にしたキャリントンに反発し、自分のメンツを守る格好で、西側の圧力に抵抗した。92年7月のサラエボ空港の安全確保を手始めにボスニア全域での人道援助物資護衛の活動を開始するが、西側諸国の圧力にブトロス・ガリがしぶしぶ従ったものにすぎなかった。結局、ずるずると小規模な追加派兵を繰り返し、ボスニア駐留の国連保護軍は2万人以上まで膨れ上がったが、初動で出遅れた上、任務が限定的で、さらに装備・兵員規模がその任務にさえ見合わないなど、ちぐはぐな印象をぬぐえなかった。
アフリカを初めとする途上国重視の立場を明確にしていたブトロス・ガリ事務総長が、ユーゴ(ボスニア)問題を金持の戦争として軽視し、92年の大晦日にサラエボで、「あなたたちより状況の悪い地域を十箇所以上列挙できる」と発言し、地元の憤慨をかった。初のアフリカ出身の事務総長としての自負からアフリカなど南の途上国を重視しようという意気込みがそうさせたのは間違いないが、その後も安保理が「不当にユーゴ(ボスニア)問題を重視しすぎる」との見解を繰り返した。安保理と事務総長が対立する形で国連の機構運営をぎくしゃくとしたものにした。
ソマリアでの「平和執行活動」の失敗
ボスニア紛争が泥沼化していた当時、ブトロス・ガリ事務総長と国連は、別の泥沼に足を突っ込んでいた。ソマリアでの失敗である。内戦による無政府状態が続いていたソマリアには92年4月からUNOSOM(国連ソマリア活動)が配備され、停戦監視、交渉仲介、人道援助などの活動を行っていたが、同年12月には人道援助強化を目的にした「希望回復」作戦の名目でアメリカ軍を中心とする多国籍軍が投入された。この多国籍軍(UNITAF=国連タスクフォース)の活動は国連憲章第7章にもとづき、湾岸戦争型の武力行使を認めるものだったが、人道援助が軌道に乗ったことなどから、93年5月にUNOSOMⅡ(第二次国連ソマリア活動)が活動を開始した。UNITAFからUNOSOMにわたって、ブトロス・ガリ事務総長の提唱する「平和執行活動」(またはその実験的試み)が実地に移されることになったのである。ところがUNOSOMⅡはソマリアのアイディード将軍派を中心とする地元民と全面的に衝突し、双方に多数の死傷者を出すことになる。93年6月のモガディシオでのパキスタン部隊への攻撃をきっかけに、ブトロス・ガリはソマリア問題事務総長特別代表ハウ退役米軍提督に命じて、ソマリア内戦の一方の当事者であるアイディード将軍の逮捕など、新たな形での介入を行わせた。
こうして国連は紛争の当事者になり、死傷者が増加するにつれて、地元民全体を「敵」に回す状態になった。決定的だったのは93年10月にアメリカ兵18人が死亡し、死体が引きずり回される映像がテレビで放映されたことだった。アメリカはアイディード将軍逮捕など強硬方針の撤回を打ち出し、94年3月までにアメリカ軍を撤退させる方針を発表した。ブトロス・ガリは94年1月に、UNOSOMを従来型のPKOに戻すという趣旨の報告書を安保理に提出し、今後は軍事力による武装解除などはおこなわない方針を明らかにした。アメリカ軍は同年3月までに撤退し、UNOSOMはパキスタン、インド、エジプトなど各国軍兵士で構成されるものに縮小されたが、これも95年3月には全面撤退し、当時としては国連史上最大の規模を誇ったUNOSOMは何の目的も果たせないまま終了する。一方、国連ハイチ派遣団(UNMIH93年9月)の活動は、アメリカを主力とする多国籍軍の侵攻が予告されるなか、展開によってはソマリア型の「平和執行活動」になる可能性もあったが、セドラ将軍らの軍部首脳が国外亡命し、結果的には大規模な軍事衝突は起こらなかった。ハイチでの状況は89年のアメリカのパナマ侵攻直前の構図によく似ていたが、アメリカは単独で軍事侵攻するのではなく、国連決議という大義名分を利用した。このケースは純粋な国連の平和維持活動というよりはアメリカが「裏庭」での治安維持に乗り出したものと考えるほうが適切であろう。
国際紛争を解決するための活動が、本来その任務を担っている国連ではなく、いわゆる「多国籍軍」に委ねられることが多くなっている。冷戦終結後、とりわけほかならぬ「多国籍軍」が大活躍した湾岸戦争以降の傾向である。ボスニアを含むユーゴの紛争もこの例にもれず、アメリカが強引な工作で結ばせたデイトン合意にいたる過程でもNATO軍の空爆が大きなテコになった。ではなぜ国連安保理が「武力行使を含むあらゆる必要な手段を取る権限」を「加盟諸国に委任」する形式で、いわゆる「多国籍軍」が「国連軍」に取って代わることが多くなったのだろうか。いくつかの要因の中には国連の財政難もあろう。国連の平和維持活動よりも加盟諸国の持ち出しになる多国籍軍方式の方が、国連本体の負担にならないからである。(実際には多国籍軍に派兵した国の一部は国連から資金を受け取っており、貧困国にとっては重要な収入になった)。しかし多国籍軍方式が主流になった最大の理由はアメリカが多国籍軍方式を望んだからということに尽きるだろう。とくにアメリカ自身が兵力を提供する場合、アメリカ政府は米軍部隊を国連指揮下におくことを極度に嫌っている。このことをもっとも明確にしめしているのは、米国務省文書「集団的平和活動の改革についてのクリントン政権の政策」である。
「米軍の指揮権は大統領が有しており、この指揮権は決して放棄しない。場合によっては安保理の決定した国連の特別の活動において、米軍を国連司令官の戦術的管制下におくことを大統領が考慮することはある。米軍の軍事的役割が大きくなるにつれて、米軍部隊を国連司令官の戦術的管制下におくことに米国が同意する可能性は小さくなる。戦闘がかわされることが予想されるような大きな平和狂生活動に大規模な米軍部隊が参加する場合には通常、米軍の指揮および戦術的管制下におくか、またはNATOのような地域的組織や臨時の同盟をつうじて指令がなされるべきである(94年5月発表)
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ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 2/3 ~NATO、国連
密輸による直接的な武器支援
クロアチアやボスニア(ムスリム側)が国連決議に反して、軍用ヘリや戦車、戦闘機などを密輸入してきたことは明らかになっている。名前がはっきり挙がっているウクライナ、ドイツ、イスラム諸国などのほか、クリントン政権が武器をトルコなどの同盟国を通じて供給していた可能性も非常に高い。クリントン大統領は94年6月9日、米海軍、税関、郵便機関に「ボスニア、クロアチア向けの武器密輸の監視をしなくて良い」と中止命令を出した。事実上の武器禁輸の解除である。さらに11月12日には、アドリア海の第六艦隊に、武器密輸監視行動を中止するように指令し、あわせてAWACSなどで入手した電子情報を監視を継続するとしていたNATO諸国に提供することも中止した。ただし、武器禁輸解除によって国連軍が撤退し、人道援助活動が中止されることを心配したボスニア政府自身が、即時禁輸解除を行わないよう、解禁もボスニア政府の同意のもとに実施することなどを申し入れた。一方、現場ではボスニアの国連保護軍は95年2月以降、米軍C130に酷似した所属不明の大型輸送機がトゥーズラ(2月)やビハチ(7月)などのムスリム人地域に武器らしい貨物を投下したとの報告を公表している。アメリカは関与を否定しているが、この直後にボスニア政府軍の戦闘能力は飛躍的に強化された。ムスリム人兵士がアメリカ製の軍服を着ている例も数多く目撃され始めた。
アメさん、もうちょっと隠せよw
NATOの軍事力発動のための「明石はずし」
クリントン政権は95年夏、ボスニア問題への本格的介入を決断した。これに前後してNATOの空爆が自由にできるよう、空爆の決定権を明石康・国連事務総長特別代表から奪い、現場の国連保護軍ルパート・スミス司令官とNATO南欧軍ライトン・スミス司令官の「二人のスミス」だけで実行できるように工作した。明石代表は95年春当時、アメリカに対して空爆に積極的だが地上部隊を派遣しようとしないなど批判的意見をもっており、これを隠すこともしなかった。これに対し、オルブライト米国大使は「誰から給料をもらっているのか」と批判したことがある。アメリカはこのときは明石の辞任要求などを持ち出すことはせず、いったん明石批判の鉾をおさめたが、しばらくして、明石代表が空爆に消極的で「セルビア寄り」であるかのようなキャンペーンを張った。
国連とNATOの双方の合意によって空爆が実行される「デュアルキー」システムが機能していたら、なし崩し的な大規模空爆は不可能であったに違いない。「明石はずし」のきっかけになったのは7月にボスニアのスレブレニツァとジェパの二つの国連「安全地域」が陥落し、セルビア側の手に落ちた事件である。セルビア側が「安全地域」を陥落させた大きな理由は、5月に「西スラボニア」を奪われたことへの報復の意味合いをこめたものだった。「安全地域」には国連部隊が配備されていたが、シンボリック(名目的)な規模・装備に過ぎず、「安全地域」への全名攻撃は想定されていないに等しかった。セルビア側の「安全地域」攻撃は、いわば国際社会の想定を超えた「禁じ手」の行使だった。安全地域についての陥落の責任を問題にするならば、安全地域そのものの性格と、それを防衛すべき国連部隊の規模・装備を定めた安保理の責任、さらに、NATOの近接航空支援の性格が問われなければならないはずである。ところが、国連もNATOも安全地域陥落を阻止する手立てが取れなかったことから、その原因は国連とNATOのコーディネートが十分でなかったことにあると説明され、その責任は空爆に消極的と表されていた明石代表ひとりにかぶさられることになった。
ユーゴ紛争と国連 平和維持活動の効果と限界
これ、ギャグ、マジうけ。笑えるから読んでみて。21世紀、アジア(ちゅーか中国とネシア)で起こるであろう地域紛争における国連の関与も相当なお笑い種が期待できそうだぞ。ハハハ。
91年6月スロベニア、クロアチアの独立宣言をきっかけに、紛争が武力を伴う形で激化した。当時はペレス・デクエヤル国連事務総長の時代だが、デクエヤルは10月にバンス元米国務長官を特使に任命するまで動きを起こさず、直後に任期切れに伴い、92年1月にブトロス・ガリ新事務総長に交代した。当時のユーゴ紛争に対する国連の対応をひとことでいって、初動で遅れたといわざるを得ない。理由としていくつかの根本的制約があった。国連(United Nations)が国家単位で加盟し、構成されていることから、国家間の国際紛争には対応できるが、国内の揉め事には対応する仕組みが無いということである。紛争が始まった当初は旧ユーゴの共和国の独立は承認されていなかったし、国連から見れば加盟国の内部の問題にすぎなかった。国連憲章では加盟国の崩壊・分裂は想定されていない。国内問題を扱うのは「内政干渉」となる。近年では国内問題でも「人権問題」は国際問題として取り扱う傾向が強まっているが、そのやり方は当該国(国連加盟国)政府の人権侵害を非難し、その是正を求める(アパルトヘイト時代の南アなどのように著しい場合は経済制裁)のが通常だった。
ユーゴ紛争はなぜ長期化したか―悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任 千田 善 勁草書房 1999-04 |
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ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 1/3 ~ユーゴとアメリカ
冷戦後の地域紛争としてのユーゴ紛争
ユーゴ紛争は、時間と地域で分類すると
ⅰ)民族主義激化と連邦機能麻痺・解体までの小競り合い(91年6月まで)
ⅱ)スロベニア戦争(91年6月から7月)
ⅲ)クロアチア戦争(第一次=91年春から92年1月。第二次=95年5月から8月)
ⅳ)ボスニア・ヘルツェゴビナ戦争(92年春から95年秋まで)
ⅴ)コソボ・マケドニア紛争(87年から現在まで)
この本は99年4月発行だが、コソボは99年6月、マケドニアは02年に終焉する。
91年11月27日のコール首相の演説に端的に表れている。クロアチアとスロベニアの独立承認の決定をクリスマスまでに下すと言明した。同時にこの決定がドイツのなんらかの野心(勢力圏拡大など)からではないと弁明しながら、次のように説明した。
1.ドイツ国民は戦争(第二次大戦)の惨状を記憶しており、クロアチアの被害に無関心ではいられない
2.ドイツに居る70万人のユーゴ人の2/3はクロアチア人でドイツ経済発展に貢献してくれた
3.ドイツ人は隣国の同意があって初めて、民族自決権を行使し、国家統一が可能になった。そのためクロアチア・スロベニアの独立承認ついても、これを道徳的な義務であると感じている。
スロベニア戦争が勃発する91年6月以前は、ドイツの連邦政府は、公式にはクロアチア支援に慎重な姿勢を表明していた。ところがスロベニア戦争がはじまると事情は一変した。ドイツはECの停戦工作を支持しながらも、開戦から1週間~10日後の91年7月初めには、クロアチア・スロベニアの早期承認方針を固める。7月18日にはトゥジマン・クロアチア大統領がボンを訪問し、ドイツ側はトゥジマンが提起した「クロアチアとスロベニアのパッケージ承認」方針を受け入れる。ドイツの暴走を止めるため、ミッテラン(仏)はクロアチア内のセルビア系住民の保護という点で、クロアチアの法体系と実態がその基準に合致していないとの認識を示しながら民族的に単一に近いスロベニアと異なり、さらにボスニアやマケドニアでは問題はさらに複雑であるため承認はできないというものだった。フランスはもちろん、アメリカ、イギリスもクロアチア承認に反対した。「大ドイツ」登場を警戒するオランダ、「マケドニア」の国名に反対するギリシャなども強硬に反対した。
ユーゴはアメリカの国益と関係ない。
アメリカはなぜECにまかせっきりにして、ユーゴ問題にかかわろうとしなかったのだろうか、ベーカーは、アメリカにとって重要だったのは、第一にソ連情勢、第二に中東和平などであり、ユーゴ問題は「死活的利益がない」「たんなる地域紛争だった」。アメリカが最重要視し、ミロシェビッチにも改善を特に働きかけたのは、コソボ自治州のアルバニア人の問題だった。コソボで武力紛争が起これば、マケドニアやその周辺にも飛び火し、NATO加盟国であるギリシャやトルコにも波及する。ギリシャとトルコは「同盟国」だが、歴史的に犬猿の仲にある。
アメリカのボスニアのムスリム人勢力の関係は湾岸戦争以降のアメリカの中東政策と無縁ではないだろう。アメリカは、戦火がクロアチアに限定され、調停活動の中心をECが担っている間はボスニアを含む旧ユーゴの紛争そのものには「アメリカの国益は無い」との立場を取っていた。しかし、クロアチア戦争が収束する時期になると、アメリカは「ボスニアへの飛び火阻止」を重点に本格的介入に乗り出す構えをみせる。いったんボスニアに戦火が拡大すれば、イスラム諸国がムスリム人支援の立場で動くことは確実と考えたアメリカは、湾岸産油国をふくむイスラム諸国がボスニアのムスリム人勢力を支援する立場を明確にするよりも前にボスニアのムスリム人勢力に接近する。
クリントンは93年春、やっとボスニア対策に動き出した。しかし、米軍地上部隊のボスニア投入を一貫して拒否しながら、対セルビア側空爆やもスリム側への武器禁輸解除などの強硬策を主張したため、現場に地上軍を送っている欧州諸国が「戦争をいっそう激化あせるものだ。武器禁輸を解除するなら撤退する」と反対し不調に終わった。
アメリカはあらゆる手立てでボスニアのセルビア人勢力(カラジッチ)の孤立化、方位をすすめようと考えた。そのためにブッシュ前政権が「戦犯容疑者」と名指ししたミロシェビッチを、手のひらを返すように、「平和への可能性を握るキーパーソン」と位置づけ、重視することにあった。新ユーゴ、とくにその軍隊は、その後明らかになるようにボスニアのセルビア人勢力への軍事的支援を打ち切ったわけではなかった。またミロシェビッチは都合の悪い時には「自分はボスニアのセルビア人には影響力をもっていない」と言い張り、別の機会には彼らの「後見人」「代理人」として振る舞うなど恣意的に態度を変転させたが、西側にはもはや手っ取り早い「手掛かり」としてはミロシェビッチしか残されていなかったのである。
クリントン政権は、94年秋、クロアチア本国とボスニア政府(モスリム人主導)への軍事援助を開始した。米国防総省は9月27日、クロアチアのトゥジマン大統領とシュシャク国防相が訪米した際、クロアチアと軍事協力協定を締結し、アメリカでのクロアチア軍将校の訓練、クロアチア軍の命令指揮系統改善するための顧問団の派遣などを約束した。国連の武器禁輸決議は旧ユーゴ全部が対象となっているためにクロアチアに対しても公然とした武器輸出はできない。きわどい分野の軍事援助には民間の軍事コンサルタント企業のルートが使われた。そのひとつ、ミリタリー・プロフェッショナル・リソーシズ社(MPR=バージニア州)は94年12月から少なくとも大規模空爆が実施された95年秋まで、元米国某情報局(DIA)局長ソイスター中将ら15人の米軍退役将校をクロアチア国防省に派遣していた。目的は「共産主義から民主国家の軍隊への移行の支援」で武器輸出や実戦の作戦指導はしていないと同社は言うが疑いは晴れていない。米国防総省はサラエボにもシーウォール退役少将らの顧問団を派遣している。CIAやDIA要因がボスニア政府軍や国連保護軍内部にいたとの未確認情報もある。
http://www.mpri.com/web/
良かったー、上場はしてないっぽいよ流石にw
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もっと知りたいインドネシア 3/3 ~文化
インドネシアの芸術と文学
民話はインドネシア語ではチュリタ・ラヤットと呼ばれる。文字通り、民(ラヤット)の物語(チュリタ)の意味である。
ワヤンの語はバヤン(影)に由来し、影絵芝居のことをさす。ワヤンの語り手はダーランと呼ばれる。ダーランの語りには、ガムラン楽器の演奏と女性歌手の歌声(プシンデン)が和す。ダーランが展開していく物語、その演目のことをラコンという。ラコンは次のように大別される。
(1)ワヤン・プルオ(古典劇)。ラコンの中心を構成し、次の4つの物語群よりなる。第一は、ジャワ古来の神話や説話の上演、第二はインド起源の二大叙事詩ラーマ・ヤナおよびマハ・バーラタの登場人物の出生や修行についてジャワ化された物語、第三は、ラーマ・ヤナ物語(ラーマ王子とシンタ王女をめぐる物語群)、第四はマハ・バーラタ物語(プンドオ王国とクーロオ王国の対立の物語群)
(2)ワヤン・ゲドック。東ジャワからバリ島にかけて盛んに行われるもので、東ジャワに栄えたジェンゴロ王国のパンジ王子をめぐる物語群である。15世紀頃に設立した。
(3)ワヤン・マディオ。19世紀後半、ソロ王家で活躍した宮廷詩人(プジャンガ)ロンゴワルシトの作品を上演するもので、クディリ王国ジョヨボヨ王国の神秘な予言にまつわる物語群である。
近代 - 評論・小説・詩
20世紀に入るとインドネシア人自身によるインドネシア語の新聞や雑誌が各地で刊行されるようになった。各地で各種の刊行物がインドネシア語で出されていったが、その多くは、インドネシア民族の形成と独立をめざす民族主義運動と結びついていた。しかし、今日、専門の文芸誌としては1966年以来モフタル・ルビスが主宰している「ホリゾン」のみである。これに対して、総合週刊誌「テンポ」は発行部数も多く、旺盛な活動を続け、内外への影響力も大きく、この国を代表する雑誌メディアである。これ以外の週刊誌として「ジャカルタ・ジャカルタ」や「ヒュモール」が刊行されている。
私的な場面で、同じ地域・民族の者なら、インドネシア語でなく地域の言葉が用いられる。これは階層や職業にかかわらぬ一般的な傾向である。公の場面で地域語を用いない政府、軍の高官も、大統領自身も、家族や友人との私的な会話には自分の地域の言葉を使う。地域の言葉自体が社会的劣位の印なのではなく、必要な場面でまともにインドネシア語を話せないことが劣位をもたらす。
都市下層の民衆は、インドネシア語を常用し強いインドネシア人意識を持ち、しかもより上層のインドネシア人と持たざる者の階級意識で対立するような人々なのだろうか。過去を振り返る限り、そうした階級は今日まで形成されてこなかった。都市下層民衆の多くは、故郷の農村に根を持ち地域の伝統と強く結ばれ、実際に都市に長く住んでいる場合でも、出稼ぎ人の心情に生きる人々だった。ジャカルタのような全国から人が集まる最大規模の都市では、共通語としてのインドネシア語が日常生活に必須だったが、そこでも人々はしばしば先にやって来た同郷の者をたよりに集まり、それそれの村と地域を都市の中に再現するかのように暮らしていた。西欧のような都市プロレタリアートが育たなかった理由は、過去の政治史に求めることもできる。20世紀のオランダ領東インドには社会民主主義・共産主義の伝統があり、短期で少数ではあったが戦闘的な労働運動が大都市に組織されたこともある。だが独立後のインドネシアで、社会党は大衆の急進化にむしろ敵意をいだく知的エリートの党だった。共産党は系列下に労働運動も組織したが、主要な支持基盤は農村と知識層にあった。1965年~66年の動乱と流血の過程で、共産党と傘下大衆組織が解体・禁止された後、今日に至るまで、都市の下層民衆は農村部と同じく政治的結集の場をほとんどもっていない。
スハルト新秩序体制は、「安定」と「開発」を国策の課題とし、この課題達成の実績によって自らを正当化する体制である。「軍・官僚権威主義体制」「開発独裁」である。「開発」の論理はインドネシアに特有なものではなく1930年代、ニュー・ディールにはじまった生産力の政治、あるいはその第三世界的適用である「開発主義の政治」の系譜を引いている。ところがインドネシアでは財務省入国管理局、陸軍戦略予備軍司令部といった国家機関が、財務省の関知せぬところで、財団の事業活動、「手数料」徴収、「寄付」などによって公然と資金を調達し、これを給与の補填、災害援助、奨学金供与、医療費補助、公務員住宅の整備などに使っている。誰もこれを問題にしないし、ときにはこれが相互扶助の家族的美徳とされる。
新秩序体制派1965年9月30日事件を契機とするスハルト指導下の陸軍中央とスカルノの権力闘争の末、1966年3月11日、スカルノからスハルトへの大統領権限委譲によって成立した。スハルトは9月30日事件の二日後、新たに設置された治安秩序回復司令部の司令官に就任し、共産党を事件の元凶として、国軍部隊ばかりか反共イスラム勢力、国民党右派勢力も動員して共産党の徹底的弾圧を行った。この結果半年余りのあいだに約60万の共産党員が殺害され、30-40万人が1970年代末まで裁判無しで収容所に拘留され、スカルノ時代、国軍の唯一の政治的ライバルであった共産党勢力は物理的に解体してしまった。
もっと知りたいインドネシア 綾部 恒雄 弘文堂 1995-03 |
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もっと知りたいインドネシア 2/3 ~地理と民族
地理と風土
インドネシアの海域は、2つの大陸棚によって構成されている。まずはユーラシア大陸から南東に伸びるスンダ棚で、これは南シナの南部、マラッカ半島周辺、スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島へ広がる。もう一つは、オーストラリア大陸から、アル諸島、ニューギニア島へと伸びるサフル棚である。両者とも平均水深は40-80mと浅いが、この大陸棚からはずれると深海と島が入り組む複雑な地形となっている。
かつてユーラシア大陸とオーストラリア大陸は、スンダ大陸とサフル大陸を介してつながっていたといわれる。ところが第4氷河期の末期に北極や南極の氷河が解けて海水位が上がり、二つの大陸が水面下に沈降して大陸棚となり、海抜の高かった山岳地帯が現在の島々として残ったのである。生物の分布をもとに東洋区とオーストラリア区の境界が画定される。バリとロンボクの間からボルネオとスラウェシの間へと延びるウォーレス線より西には東洋亜区の生物が、ティモールの東方からセラムや丸くの西に伸びるウェーバー線の東にはオーストラリア区の生物が分布する。そして、これら二線間の地域(スラウェシなど)はウォラセアと呼ばれ、大型哺乳動物を除き両大陸からの動植物種が共存している。人間の生業にも差異が見られ、ウォーレス線より西は稲と水牛の世界が、ウェーバー線より東はイモと豚の世界が広がっている。
赤:ウォーレス線、オレンジ:ウェーバー線
出展:ぷてろんワールド>世界の蝶>ウォレス線とウェーバー線
http://www.pteron-world.com/topics/world/wallecea.html
人口分布の偏り
ブギスというのは、シンガポールの駅名に採用されているが、インドネシア、スラウェシの南西の民族の名前。
現在、インドネシアでいわゆる未開民を探すことはきわめて困難であり、イリアン(西ニューギニア)の奥地やジャワのバドイ社会など僻遠の地など、少数の地域に限られている。インドネシアは有史後、インドからヒンドゥー文化、仏教文化、イスラム文化、中国文化、さらに過去4世紀にわたる西欧文明の影響を受け、また中国(華南人)との接触を続けてきている。オランダの植民地時代はすでに歴史時代に入り、とくに独立後は「インドネシア民族」として一体化が志向された。世界の人種は全てが混血の結果であることは昨今の人類学の常識である。歴史時代以後移住した外来人を除くと、インドネシア国民は次のような人種層に分類されていた。
(1)ネグリート マレー半島のマラッカのセマング族やフィリピンのアエタ族などとこれらの混血種がこの分類に入る。ネグリートとはスペイン語で背丈の低い黒人の意味であって、暗色か暗褐色の皮膚を持つ小人(ピグモイド)である。毛髪は縮毛か羊状毛を頭型は短頭か中頭であり、広鼻である。この種族は東方小スンダ諸島に見られる。
(2)ヴェドイド ネグリートよりは長身であるが背丈は低く、成人男子の平均は155センチである。皮膚の色はネグリートより明るい暗褐色、毛髪は波状毛であり、長頭で中鼻か広鼻である。スリランカのヴェダ族に類似することからこの名がある。このタイプはマラッカの奥地のセノイ族、スマトラのシアク川上流のサカイ族、パレンバン省やジャムビイ省には最近定住化したクブ族がこれであり、この分類に近いものや混血の跡はスラウェシの東南半島部ラムル地域のトアラ族、東南半島西部奥地のトケア族とか、ムナ島のトムナ族がこれであり、これら諸民族集団はインドネシアでは未開民族といえるが、文化的にはすでに周囲の諸民族の影響を受けている。
(3)マレー系民族 先の二者は数もわずかで少数民族であるが、マレー系民族は数も多く、現在のインドネシア国民の主要部分を構成している。これら所民族集団の移動・分布はすでに歴史時代以前に始まり、それぞれの生態的環境から異なった言語など文化的特徴を示すに至った。身長は160センチで中背で皮膚の色は黄褐色か褐色である。毛髪は直毛、頭型は長頭に近いが中頭のものもある。この系統の民族を同一に分類するには偏差が目立つことから、クレイウェヘ・ド・ズワン博士らは、古マレー人(Oer-Maleiers)と親マレー人(Deutero-Maleiers)と二つに分けた。
(4)華人たち。数の上では250万人といわれる華南人は、中国本土の福建、広東両省の人々で福建、潮州、客家、広東の4つの言語と文化をインドネシアに持ち込んだ。この移住は16世紀にはじまっている。ところでインドネシア華人のうち100万人は中国籍でトトックといわれインドネシア国籍を持たない。
インドネシア人の時の観念
ジャワ社会やバリ島には5日週と7日週の組み合わせの35日以上時間単位はなかった。乾季、雨季が言及されるが、気圧に基づく風次第で毎年一定せず、場所で異なっている。モノシーズンの自然環境で繁茂した樹木には年輪がないとされる。星座で時の推移は知りえてもインドネシアでは季節感は乏しく俳句の季語は役に立たないし、また人々の年齢意識は生じがたい。自然歴は多少あっても現代人の常識とする正確な時刻感覚はもちにくいのだ。
インドネシアのイスラム教
イスラムがインドネシア地域に初めて伝えられたのは13世紀のことである、以来700年間西アジア起源のこの世界宗教は着実にその影響力を増してきた。伝統的なインドネシア・モスリムのあり方は、イスラム世界の周辺に位置するインドネシアの地理的特殊性のゆえに、外部と間接的な接触しか持たないままに独自の発展を遂げてきたことに由来する。しかし事情は19世紀末から大きな変貌を見せ始める。汽船航路の発達、スエズ運河の開通によってインドネシアとアラビアとのあいだの海上交通量は飛躍的に増大し、インドネシアのイスラム教がより直接的にかの地の風潮によって影響を受けるという結果をもたらした。その端的な現われが、イスラム改革主義のインドネシアへの導入である。マラヤ・インドネシアにおいてこの改革運動はカウム・ムダ(若い世代)と呼ばれることになった。
神秘主義、教説、実践ともにクバティナンと呼ばれる。グル(師)を中心として行われるクバティナンの集会は5人から50人程度の比較的小規模な会合である。ジャワ人の間で、こうした集会は人間の内面性を高め、心の平静を獲得するための一種の成人学校の役目を果たしている。ある調査によるとジャワ人の3%から10%に達する人々が何らかのかたちでクバティナンの集会に参加しているという。集会は多くの場合、グルの自宅で開かれる。年齢の区別、男女の違いを問わず、彼の信奉者が一堂に会するものであり、そこにおいてはイスラム教、キリスト教、仏教といった形式的な宗教帰属すら問題にされないことが多い。集会は参加者による共同の行の実修と、それにつづくグルと信奉者の対話から成り立っている。ジャワ人の生活にとって大きな意味を持つクバティナンであるが、インドネシアの公式定義ではこれは「宗教」ではない。独立後の一時期、これを宗教として認めよという運動があったが、正統派のイスラム勢力の反対により、成功するには至らなかった。
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もっと知りたいインドネシア 1/3 ~歴史となり立ち
インドネシアという語は「インド」にギリシア語の島の複数形「ネシア」を付けたもので「インドの島々」を意味する。「インド諸島」や「マレー諸島」に代わる地理学、民族学上の学術用語として、ネシア語族(南島語族)の地域を指し、東マレーシアやフィリピンなどを含み、ニューギニアは含まず、現在のインドネシアとはかなりのずれがあった。その後、民族解放運動の中で、1920年代になってオランダ領東インドをインドネシア、その原住民である自分たちをインドネシア人、自分たちの共通語であるムラユ語(マレー語)をインドネシア語と表現するようになり、そして独立はインドネシア共和国として達成された。この国の国土はオランダが東南アジアに有した植民地の領域を引き継いだものである。ただし1975~76年に旧ポルトガル領東ティモールを武力併合し、インドネシアの27番目の州と称している。
インドネシア人の大部分は言語面から見て、オーストロネシア語族インドネシア語派の諸民族だが、その祖先は紀元前2500年か前1500年頃に中国南西部から何回もの波に分かれて南下したといわれる。インドネシアでは前数世紀にはほぼ現在のような民族配置になったと考えられる。その頃すでに稲作や航海術など高度な文化をもっていた。国家の出現が明らかになるのは、東南アジアの他の多くの地域と同じく5世紀である。それは国家形成の原理、理念としてヒンドゥー教と仏教に代表されるインドの文化を摂取したインド化した国家であり、約1000年間の古代あるいはインド文化の時代の始まりである。最も古いのは東カリマンタンのクタイに7つのサンスクリット碑文を残したムーラワルマン王の王国でその字体から5世紀初めのころと推定されるが、この王国のその後はまったく不明である。
イスラム王国の時代
15世紀初頭のマラッカ海峡で台頭したのが、パレンバン出身の王族パラメスワラが建てたマラッカであり、その急成長を助けたのがいわゆる鄭和の南海遠征であった。すなわち中国の明朝が南シナからインド洋方面に7次にわたって大艦隊を派遣した時(1405年~33年)、その主要な寄港地となることで、北のアユタヤや東のマジャパヒトの脅威に対抗できたのである。中国の艦隊がこなくなると、西方のイスラム商業勢力と結んだ。こうして第4代のムザッファル・シャー(在位1444-59年)の時に本格的にイスラム化するとともに、海上交易網の要の位置を占めるようになる。「マラッカの世紀」の到来である。
18世紀末にVOC(東インド会社)が崩壊すると、その領土、財産、負債などの一切はオランダ政府に引き継がれる。ヨーロッパは時あたかもフランス革命からナポレオン戦争の動乱の時代であった。その影響を受けて、世界各地のオランダの海外領土は1795年からイギリスの支配下に入り、ジャワ島だけはおくれて1811年にイギリス中間統治期を迎える。1819年にラッフルズのもとでシンガポールを獲得したイギリスとはこの海域の利権をめぐる抗争が絶えなかった。自由港とされたシンガポールが交易センターとして急成長し、バタヴィアが昔日の繁栄を取り戻すことは無かった。
イギリスとの対立は1824年のロンドン条約で一応の決着を見た。マレー半島をイギリスの、スマトラをオランダの勢力圏と認めあうもので、現在の国境線の端緒となった条約である。西スマトラでは18世紀末からパドリ運動と呼ばれる宗教改革運動がおこり、改革派と反改革派の内戦に発展していた。1821年瀕死の反改革派がオランダの介入を求め、これ以後戦いは宗教革命運動に対する植民地征服戦争の性格を帯びることとなり、結局37年にこのパドリ戦争の終結と共に西スマトラはオランダの直轄領となった。オランダはシアック王国を保護国にした1858年から、スマトラで積極策に転じた。シアック王の多数の属国がオランダ支配下に入り、とくにデリ地方はタバコなどのプランテーション地帯として急成長した。こうした動きは19世紀前半からコショウ輸出によって再び台頭してきたアチェ王国と衝突することになる。1873年オランダはアチェ戦争に突入した。当初オランダは軽く考えていたが、アチェ人の激しい抵抗の前に立往生させっれた。莫大な戦費のため植民地政府は78年から赤字に転落し、80年代には首都クタラジャ(現バンダアチェ)を守るだけとなり、オランダ側の士気阻喪、苦難の時代であった。1912年ついにウラマ(イスラム知識人、指導者)の抵抗が収束した。
日本の支配
日本軍は1941年12月8日の開戦と同時に東南アジア各地に進駐した。蘭印進攻作戦は42年1月のカリマンタンのタラカン島奇襲上陸とスラウェシのマナドヘの落下傘部隊降下をもって始まり、3月1日にジャワ島に上陸した部隊は早くも9日にはオランダ軍を全面降伏させた。これ以後45年8月15日までの間、日本軍がインドネシアを支配した。オランダ人が抑留されたため、インドネシア人は行政、企業や組織の運営の絶好のトレーニングの機会をえた。またオランダ語が禁止され、インドネシア語を使う機会が飛躍的に増え、その公用語としての整備と社会的な普及が促進された。日本が残したもので最も重要なものはおそらく、オランダ時代に機会のなかった団体訓練や軍事訓練であろう。青年団や警防団などの団体訓練だけでなく、日本軍内の補助兵力としてのヘイホ(兵補)が多数採用された。500人単位の大団以上の機構はなく、参謀も要請されなかった。しかしジャワだけで約35,000人の第一線の戦闘部隊が形成された意義は大きく、後に国軍の中核を構成する。軍政末期にはブリタルなどでペタの反乱が生じ、日本軍当局を震撼させた。
日本は当初インドネシアを永久確保する方針でのぞみ、民族主義者たちの要求に対して、諮問機関「中央参議院」設置(43年10月)などの「政治参与」の形で譲歩を小出しにするだけだった。しかし戦況の悪化とともに、民心の離反を防ぐため、44年9月、小磯首相は将来東インドに独立を与えると発表した。45年3月独立準備調査会が設置され、独立国家に必要な法的、制度的な検討が始まった。8月14日に委員12名が任命され、18日に第一回会議を開くことになったが翌15日、日本が降伏した。スカルノ、ハッタらが民族主義指導者たちは日本軍との協議の上で独立を達成しようとし、他方スカルニら急進派青年グループはただちに独立を宣言するように迫った。16日夜、日本軍当局者から協力を拒否されたスカルノ、ハッタらはついに決断し、民族主義指導者や青年グループによって独立宣言文が起草された。17日午前10時、スカルノは独立宣言文を全国、全世界にむけて読み上げ、インドネシアはついに自らの力で苦難の独立達成の道を歩み出したのである。
【国家権力による搾取】
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貨幣と銀行の理論
うーん・・・、ちょっとつまらない本でした・・・
貨幣とその諸機能
直接的な生産物交換では、生産物は交換者の双方にとって等価物であるが、同時に双方にとって使用価値でなければならず、まだ交換物は個人の欲望から独立した価値の形態を受け取ってはいない。この形態の必然性は交換過程に入ってくる商品の数と多様性とが増大するにつれて発展する。だから課題は、その解決の手段と同時に生まれる。多様な物品が交換され比較される交易は、諸商品が一つの同じ第三の商品種類と交換され価値として比較されることなしには行われない。このような第三の商品は、他の色々な商品と等価物となることによって狭い領域の中においてではあるが、一般的な等価形態を受け取る。貨幣形態は、商品交換がその局地的な限界を超えて発展するにつれて、貴金属に移っていく。金銀の均質性や可分性などの自然的諸属性が一般的等価物として貨幣の諸機能に適しているからである。貨幣商品はこうして本来の商品としての特殊な使用価値のほかに独自な社会的機能から生じる貨幣という一つの形態的使用価値を持つことになる。
諸商品の価値はいろいろな金量と相互に比較され計られることになるので、技術的にこれらの金量を計る度量単位が必要となる。金の一定分量が度量単位として定められ、これはさらに分割されて度量標準に発展する。、金や銀は貨幣になる以前にこのような重量を計る度量標準を持っている。たとえば貴金属の重量を計るイギリスのトロイ衝では、1ポンド373.3グラムを度量単位として、その1/12がオンス、1オンスの1/20がペニーウエイト、さらにその1/24がグレインというように分割されている。金属の重量標準の名称がまた貨幣の度量標準あるいは価格の度量標準の元来の名称ともなっているのである。
金属重量の貨幣名は、次第に元来の金属の重量名から離れてくる。外国の貨幣が発展程度の低い諸民族へ輸入され用いられるようになる場合である。外国貨幣の名称は国内の重量名とは違っている。第二に価値尺度機能を果たす貴金属が銀から金への転換する場合である。元来ポンドは現実の1ポンドの重量の銀を表す貨幣名だった。金が銀に変わって価値尺度機能を果たすようになり、例えば金が銀の15倍の価値があるとすると同じポンドという名称が1/15ポンドの重量の金に付与されることになる。こうして貨幣名としてのポンドと金の重量名としてのポンドは別なものになってくる。第三に王侯による貨幣の悪鋳である。これは以前よりも少ない金や銀でそれまでと同じ名称の金銀鋳貨を鋳造するものであり、名称だけを残した。
中央銀行
イングランドの歴史は対政府金融機関として1694年にイギリスの首都ロンドンにおいて創設された。イングランド銀行は設立当初から政府への貸し上げを引き換えに120万ポンドの銀行券発行の権利を認められ、次第にこの権利を拡大していった。すでに18世紀の末には、ロンドンの銀行業者たちはイングランド銀行とは競合できず自ら発見を停止してしまい、ロンドンではイングランド銀行券のみが流通していた。そして、ロンドンの銀行業者たちの多くは当時すでにイングランド銀行宛ての手形で差額の決済をするという慣行を広めつつあったのである。しかしこのイングランド銀行も1826年の法律によって地方への支店設立が認められるまではロンドンにおいて営業しており、イングランド銀行券もまたロンドン以外の地方では流通することはできなかったのである。
ロンドン以外の地方では1750年まで銀行業者といえるものの数は12もなかったといわれているが、産業革命の進展とともにその数を増し、1793年には400の地方銀行を数えるに板った。これらの地方銀行はすでに19世紀の最初の4分の1世紀には平時でほぼ2000万ポンドの銀行券を発行していた。これだけの額の銀行券が地方的に流通していたわけである。この額は当時のイングランド銀行の発券高に匹敵するものであった。
ところが1826年以降、イングランド銀行は主として工業的に発展しつつある地方への支店設立を進めた。この支店設立を通じて、これらの地方では地方銀行けなしだいにイングランド銀行券によって駆逐されることになった。時にはイングランド銀行は、地方銀行に対して他よりも低利での貸出を行うという約束と引き換えに発券の停止を求めたのである。こうしてイングランド銀行券は地方的にも流通することとなり、そうした地方での地方銀行券の流通額は収縮しつつあったのである。
1844年のビール銀行条例は、地方銀行券の発行を斬新的に排除し、発行権をイングランド銀行に集中することを法的に明確に定めたものであった。この法律はこの年以前に発行権を有していた銀行を除いて新たに発券を認めず、また発行権を有する銀行に対しても発行額を過去の実績に応じて制限し、さらに銀行券の支払いを停止したり合併によって6人以上の社員によって構成荒れるようになった銀行は発行権を意思なうというものであった。これに対してイングランド銀行は1400万ポンドの保証準備発行を認められ、それ以外の銀行券の発行は全額金属準備を持たねばならないが、地方銀行が発券を止めた場合にはその発行額の3分の2だけ保証準備発行枠を拡大することができる、というものであった。
イングランド銀行券はナポレオン戦争を契機とする銀行制度条令期(1797~1821年)には兌換停止措置が取られ不換化したのであるが、この時に事実上の強制通用力を認められ、1833年には兌換性を維持する限りという条件付きであったが法貨として認められることとなった。イングランド銀行券はこのようにして次第に中央銀行券としての地位を確立していった。イングランド銀行は事実上その背後に国家信用を有しているのである。
貨幣と銀行の理論 伊藤 武 八千代出版 1997-02 |
【金と金融の意義】
2012.07.13|ウォールストリートの歴史 8/8 ~ニクソンショック
2012.05.08|銀行の戦略転換 1/2 ~メインバンクは劣後ローン
2012.03.28: 金融史がわかれば世界がわかる 1/6~銀本位制から金本位制
2011.09.30: 幻の米金貨ダブルイーグルめぐる裁判
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2010.11.26: 初等ヤクザの犯罪学教室 ~銀行強盗成功のための傾向と対策
2010.09.28: 世界四大宗教の経済学 ~キリスト教とお金
2010.08.16: 株メール Q2.企業業績とは何か?
2010.07.09: 資本主義はお嫌いですか ~大ペテン師 ジョン・ロウ
2010.02.09: デリバティブ理論講座のお題
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2009.08.28: インド独立史 ~ガンディー登場
2008.10.10: あなたが信じているのはお金だけなの?
風の歌を聴け 村上春樹初挑戦
友人に借りて読んでみました。村上春樹、小説は初挑戦です。
しかし、困りましたね。何て言っていいのか分かりません。感想無し。
ある意味、芸術的文章なのでしょうか。感性の乏しい人間には理解できない難しい本のようです。
しかし、読書の話になると、必ず上がる有名な小説家で、読んでいる人も非常に多いのは事実です。
え? 何? だから? と繰り返し思い続けて、最後まで行っちゃいました。
ハートフィールドは、一本取られた。ぐぐっちまったよ。(笑
多分、もう二度と村上春樹は読まないと思います・・・私の理解を越えた芸術すぎるので。
確かに小説を金を出して買ったことは、ほとんど無いのですが、小説が嫌いなわけではありません。単に優先順位が低いだけです。
小説だと、山崎とよっちんがいいな。写実的で分かりやすく、かつまた、文学的表現も粘着質で読んでいて楽しい。
人生に何の疑問も持たない人間の軽薄さが、喋れば喋るほど露わになる。(華麗なる一族より)
日本文学史上に残る山崎豊子の名台詞と言えるだろう。
MNB氏が私の性格をよく理解した上で貸してくれた司馬遼太郎の「項羽と劉邦」もとても面白かった。思わず引き込まれて、一気に読んでしまうような魅力がありました。司馬遼太郎の本をほぼ全て読んでいるMNB氏曰く「司馬遼太郎の最高傑作」ということでした。
すいません、風の歌を聴けについては・・・、ホントに何書いていいのか、抜き出すべき文章がまったく見当たらず、今日はおしまいです・・・。いかに文学賞が政治的要素が強いとはいえ…日本人として、なぜ村上春樹が日本を代表する作家なのか全く理解できなません。
風の歌を聴け (講談社文庫) 村上 春樹 講談社 2004-09-15 |
【フィクション系読み物】
2011.12.15|報復相場
2011.11.07: ノーベル文学賞:村上春樹氏は3番手
2011.09.13: シグルイ 山口貴由2/2 ~伊良子清玄
2011.07.05: 民宿雪国
2011.03.18: ガンダム1年戦争 ~国家体制 1/4
2010.08.23: 燃えよ剣
2010.03.12: 探偵ガリレオ 東野圭吾
2009.11.23: 沈まぬ太陽
2008.08.20: 久しぶりに小説を
2008.05.05: 懐かしの民明書房刊
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