インドネシアの芸術と文学
民話はインドネシア語ではチュリタ・ラヤットと呼ばれる。文字通り、民(ラヤット)の物語(チュリタ)の意味である。
ワヤンの語はバヤン(影)に由来し、影絵芝居のことをさす。ワヤンの語り手はダーランと呼ばれる。ダーランの語りには、ガムラン楽器の演奏と女性歌手の歌声(プシンデン)が和す。ダーランが展開していく物語、その演目のことをラコンという。ラコンは次のように大別される。
(1)ワヤン・プルオ(古典劇)。ラコンの中心を構成し、次の4つの物語群よりなる。第一は、ジャワ古来の神話や説話の上演、第二はインド起源の二大叙事詩ラーマ・ヤナおよびマハ・バーラタの登場人物の出生や修行についてジャワ化された物語、第三は、ラーマ・ヤナ物語(ラーマ王子とシンタ王女をめぐる物語群)、第四はマハ・バーラタ物語(プンドオ王国とクーロオ王国の対立の物語群)
(2)ワヤン・ゲドック。東ジャワからバリ島にかけて盛んに行われるもので、東ジャワに栄えたジェンゴロ王国のパンジ王子をめぐる物語群である。15世紀頃に設立した。
(3)ワヤン・マディオ。19世紀後半、ソロ王家で活躍した宮廷詩人(プジャンガ)ロンゴワルシトの作品を上演するもので、クディリ王国ジョヨボヨ王国の神秘な予言にまつわる物語群である。
近代 - 評論・小説・詩
20世紀に入るとインドネシア人自身によるインドネシア語の新聞や雑誌が各地で刊行されるようになった。各地で各種の刊行物がインドネシア語で出されていったが、その多くは、インドネシア民族の形成と独立をめざす民族主義運動と結びついていた。しかし、今日、専門の文芸誌としては1966年以来モフタル・ルビスが主宰している「ホリゾン」のみである。これに対して、総合週刊誌「テンポ」は発行部数も多く、旺盛な活動を続け、内外への影響力も大きく、この国を代表する雑誌メディアである。これ以外の週刊誌として「ジャカルタ・ジャカルタ」や「ヒュモール」が刊行されている。
私的な場面で、同じ地域・民族の者なら、インドネシア語でなく地域の言葉が用いられる。これは階層や職業にかかわらぬ一般的な傾向である。公の場面で地域語を用いない政府、軍の高官も、大統領自身も、家族や友人との私的な会話には自分の地域の言葉を使う。地域の言葉自体が社会的劣位の印なのではなく、必要な場面でまともにインドネシア語を話せないことが劣位をもたらす
都市下層の民衆は、インドネシア語を常用し強いインドネシア人意識を持ち、しかもより上層のインドネシア人と持たざる者の階級意識で対立するような人々なのだろうか。過去を振り返る限り、そうした階級は今日まで形成されてこなかった。都市下層民衆の多くは、故郷の農村に根を持ち地域の伝統と強く結ばれ、実際に都市に長く住んでいる場合でも、出稼ぎ人の心情に生きる人々だった。ジャカルタのような全国から人が集まる最大規模の都市では、共通語としてのインドネシア語が日常生活に必須だったが、そこでも人々はしばしば先にやって来た同郷の者をたよりに集まり、それそれの村と地域を都市の中に再現するかのように暮らしていた。西欧のような都市プロレタリアートが育たなかった理由は、過去の政治史に求めることもできる。20世紀のオランダ領東インドには社会民主主義・共産主義の伝統があり、短期で少数ではあったが戦闘的な労働運動が大都市に組織されたこともある。だが独立後のインドネシアで、社会党は大衆の急進化にむしろ敵意をいだく知的エリートの党だった。共産党は系列下に労働運動も組織したが、主要な支持基盤は農村と知識層にあった。1965年~66年の動乱と流血の過程で、共産党と傘下大衆組織が解体・禁止された後、今日に至るまで、都市の下層民衆は農村部と同じく政治的結集の場をほとんどもっていない。
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スハルト新秩序体制は、「安定」と「開発」を国策の課題とし、この課題達成の実績によって自らを正当化する体制である。「軍・官僚権威主義体制」「開発独裁」である。「開発」の論理はインドネシアに特有なものではなく1930年代、ニュー・ディールにはじまった生産力の政治、あるいはその第三世界的適用である「開発主義の政治」の系譜を引いている。ところがインドネシアでは財務省入国管理局、陸軍戦略予備軍司令部といった国家機関が、財務省の関知せぬところで、財団の事業活動、「手数料」徴収、「寄付」などによって公然と資金を調達し、これを給与の補填、災害援助、奨学金供与、医療費補助、公務員住宅の整備などに使っている。誰もこれを問題にしないし、ときにはこれが相互扶助の家族的美徳とされる。
新秩序体制派1965年9月30日事件を契機とするスハルト指導下の陸軍中央とスカルノの権力闘争の末、1966年3月11日、スカルノからスハルトへの大統領権限委譲によって成立した。スハルトは9月30日事件の二日後、新たに設置された治安秩序回復司令部の司令官に就任し、共産党を事件の元凶として、国軍部隊ばかりか反共イスラム勢力、国民党右派勢力も動員して共産党の徹底的弾圧を行った。この結果半年余りのあいだに約60万の共産党員が殺害され、30-40万人が1970年代末まで裁判無しで収容所に拘留され、スカルノ時代、国軍の唯一の政治的ライバルであった共産党勢力は物理的に解体してしまった。

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