国連がユーゴ紛争で最初にとった具体的な行動は91年8月に採択されたユーゴ地域への武器禁輸を決定した安保理決議だった。それ以外は議長声明などでの「憂慮」すら表明せず、事実上ECの仲介が失敗するのをただ傍観していたにすぎない。この背景には国連の「地域主義」の原則もあった。アフリカのことはアフリカ諸国が、アジアのことはアジア諸国がまず協議して解決する、という慣習である。当時ユーゴ問題はヨーロッパの問題と見なされ、ECが共通の外交政策を樹立して政治的実力を発揮できるところを見せようと張り切って解決に当たろうとしていた。
国連はこのECの仲介が失敗することがほぼ確実になってから、91年10月にバンス元米国務長官を特使に任命した。クロアチア戦争は92年1月2日にこの「バンス案」で停戦が実現し、続いて国連保護軍派遣が正式決定される(2月22日)。国連保護軍は初め、クロアチアでの停戦監視などを主要任務として、3月に本格的展開を開始し、中央司令部はサラエボに置くことになった。このとき国連保護軍サラエボ・セクター司令官として赴任したマッケンジー准将(カナダ軍)によれば、司令部をサラエボにおくことは「軍事的には考えられないが政治的意味をもった決定」だった。不穏な空気が強まっていたボスニアに戦火が飛び火することを少しでも避けようと狙いがあったことは明白である。
ガリ総長
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国連保護軍の正式配備開始の直後にボスニアで戦争が開始されセルビア人勢力によるサラエボ包囲が始まる。(94年2月)ここで国連の出遅れを決定的にしたのが、事務総長の後向きの姿勢だった。ブトロス・ガリ事務総長は、国連保護軍の活動領域をボスニアまで拡大することに非常に消極的だった。それどころかボスニア各地で相当が続く中で、国連保護軍司令部をベオグラードに移転(その後ザグレブに再移転)させ、一時はボスニアから国連保護軍を完全に撤退させようとまで考えた。ブトロス・ガリはこの年(92年)6月に『平和への課題(AGENDA FOR PEACE)』を発表し、国連の平和維持活動を強化し、停戦などの条件が整わないもとでも積極的に関与していく「平和執行活動」を提唱したが、ことボスニアに関しては平和維持や人道援助活動にすら消極的で、自説とは反対の言動を繰り返した。
当時の国連保護軍サラエボ・セクター司令官マッケンジー准将は、サラエボへの一個師団規模1万2千人の兵力派遣を要請したが、国連本部(ブトロス・ガリ)がこれを却下した、と後に語っている。サラエボへの師団派遣は和平会議議長キャリントン卿も平和維持部隊の増強を「提案したが国連側が拒否した」と証言している。ブトロス・ガリは「決定する権限は自分にある」と自分との協議無しに増強案を公にしたキャリントンに反発し、自分のメンツを守る格好で、西側の圧力に抵抗した。92年7月のサラエボ空港の安全確保を手始めにボスニア全域での人道援助物資護衛の活動を開始するが、西側諸国の圧力にブトロス・ガリがしぶしぶ従ったものにすぎなかった。結局、ずるずると小規模な追加派兵を繰り返し、ボスニア駐留の国連保護軍は2万人以上まで膨れ上がったが、初動で出遅れた上、任務が限定的で、さらに装備・兵員規模がその任務にさえ見合わないなど、ちぐはぐな印象をぬぐえなかった。
アフリカを初めとする途上国重視の立場を明確にしていたブトロス・ガリ事務総長が、ユーゴ(ボスニア)問題を金持の戦争として軽視し、92年の大晦日にサラエボで、「あなたたちより状況の悪い地域を十箇所以上列挙できる」と発言し、地元の憤慨をかった。初のアフリカ出身の事務総長としての自負からアフリカなど南の途上国を重視しようという意気込みがそうさせたのは間違いないが、その後も安保理が「不当にユーゴ(ボスニア)問題を重視しすぎる」との見解を繰り返した。安保理と事務総長が対立する形で国連の機構運営をぎくしゃくとしたものにした。
ソマリアでの「平和執行活動」の失敗
ボスニア紛争が泥沼化していた当時、ブトロス・ガリ事務総長と国連は、別の泥沼に足を突っ込んでいた。ソマリアでの失敗である。内戦による無政府状態が続いていたソマリアには92年4月からUNOSOM(国連ソマリア活動)が配備され、停戦監視、交渉仲介、人道援助などの活動を行っていたが、同年12月には人道援助強化を目的にした「希望回復」作戦の名目でアメリカ軍を中心とする多国籍軍が投入された。この多国籍軍(UNITAF=国連タスクフォース)の活動は国連憲章第7章にもとづき、湾岸戦争型の武力行使を認めるものだったが、人道援助が軌道に乗ったことなどから、93年5月にUNOSOMⅡ(第二次国連ソマリア活動)が活動を開始した。UNITAFからUNOSOMにわたって、ブトロス・ガリ事務総長の提唱する「平和執行活動」(またはその実験的試み)が実地に移されることになったのである。ところがUNOSOMⅡはソマリアのアイディード将軍派を中心とする地元民と全面的に衝突し、双方に多数の死傷者を出すことになる。93年6月のモガディシオでのパキスタン部隊への攻撃をきっかけに、ブトロス・ガリはソマリア問題事務総長特別代表ハウ退役米軍提督に命じて、ソマリア内戦の一方の当事者であるアイディード将軍の逮捕など、新たな形での介入を行わせた。
こうして国連は紛争の当事者になり、死傷者が増加するにつれて、地元民全体を「敵」に回す状態になった。決定的だったのは93年10月にアメリカ兵18人が死亡し、死体が引きずり回される映像がテレビで放映されたことだった。アメリカはアイディード将軍逮捕など強硬方針の撤回を打ち出し、94年3月までにアメリカ軍を撤退させる方針を発表した。ブトロス・ガリは94年1月に、UNOSOMを従来型のPKOに戻すという趣旨の報告書を安保理に提出し、今後は軍事力による武装解除などはおこなわない方針を明らかにした。アメリカ軍は同年3月までに撤退し、UNOSOMはパキスタン、インド、エジプトなど各国軍兵士で構成されるものに縮小されたが、これも95年3月には全面撤退し、当時としては国連史上最大の規模を誇ったUNOSOMは何の目的も果たせないまま終了する。一方、国連ハイチ派遣団(UNMIH93年9月)の活動は、アメリカを主力とする多国籍軍の侵攻が予告されるなか、展開によってはソマリア型の「平和執行活動」になる可能性もあったが、セドラ将軍らの軍部首脳が国外亡命し、結果的には大規模な軍事衝突は起こらなかった。ハイチでの状況は89年のアメリカのパナマ侵攻直前の構図によく似ていたが、アメリカは単独で軍事侵攻するのではなく、国連決議という大義名分を利用した。このケースは純粋な国連の平和維持活動というよりはアメリカが「裏庭」での治安維持に乗り出したものと考えるほうが適切であろう。
国際紛争を解決するための活動が、本来その任務を担っている国連ではなく、いわゆる「多国籍軍」に委ねられることが多くなっている。冷戦終結後、とりわけほかならぬ「多国籍軍」が大活躍した湾岸戦争以降の傾向である。ボスニアを含むユーゴの紛争もこの例にもれず、アメリカが強引な工作で結ばせたデイトン合意にいたる過程でもNATO軍の空爆が大きなテコになった。ではなぜ国連安保理が「武力行使を含むあらゆる必要な手段を取る権限」を「加盟諸国に委任」する形式で、いわゆる「多国籍軍」が「国連軍」に取って代わることが多くなったのだろうか。いくつかの要因の中には国連の財政難もあろう。国連の平和維持活動よりも加盟諸国の持ち出しになる多国籍軍方式の方が、国連本体の負担にならないからである。(実際には多国籍軍に派兵した国の一部は国連から資金を受け取っており、貧困国にとっては重要な収入になった)。しかし多国籍軍方式が主流になった最大の理由はアメリカが多国籍軍方式を望んだからということに尽きるだろう。とくにアメリカ自身が兵力を提供する場合、アメリカ政府は米軍部隊を国連指揮下におくことを極度に嫌っている。このことをもっとも明確にしめしているのは、米国務省文書「集団的平和活動の改革についてのクリントン政権の政策」である。
米軍の指揮権は大統領が有しており、この指揮権は決して放棄しない。場合によっては安保理の決定した国連の特別の活動において、米軍を国連司令官の戦術的管制下におくことを大統領が考慮することはある。米軍の軍事的役割が大きくなるにつれて、米軍部隊を国連司令官の戦術的管制下におくことに米国が同意する可能性は小さくなる。戦闘がかわされることが予想されるような大きな平和狂生活動に大規模な米軍部隊が参加する場合には通常、米軍の指揮および戦術的管制下におくか、またはNATOのような地域的組織や臨時の同盟をつうじて指令がなされるべきである(94年5月発表)
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