藤原氏の正体 1/4 ~鎌足と蘇我氏

7世紀、逆臣蘇我入鹿誅殺で活躍した藤原(中臣)鎌足の登場以来、藤原一族は、日本の頂点に君臨し続けた。極論すれば日本の歴史は、藤原氏の歴史そのものなのである。平安時代、藤原道長は
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば

という傲慢極まりない歌を残した。傲慢だが事実である。朝堂は藤原一党に牛耳られ、他の氏族は藤原氏のご機嫌をうかがい、平伏するほか手はなくなっていたのである。藤原摂関家は日本各地の土地を貪欲にもぎ取り、「他人が錐を突き立てる隙もないほどの領土を一人占めしている」と批難されるほどであった。
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大化の改新は本当に正義の改革だったのか
藤原氏といえば、中臣(藤原)鎌足の名がすぐにあがるだろう。中臣鎌足は西暦645年、乙己の変で逆臣蘇我入鹿を討ち滅ぼしたと『日本書紀』にはあり、学校の授業で誰もが習う人物だ。
蘇我馬子は蘇我系の推古女帝(母が蘇我の出)を担ぎ上げ、同じく母が蘇我出身の聖徳太子を摂政に押し立てて完璧な蘇我氏の全盛期を確立したのである。皇極女帝は蘇我蝦夷を大臣として留任させたが蝦夷の子入鹿は勝手に国政に参与した。蘇我蝦夷は葛城の高宮に祖廟を造り、祖廟も八佾の舞もどちらも中国では皇帝にのみ許された特権であり蘇我氏の増長が誰の目にも明らかになっていた。蝦夷と入鹿は二つの墓を造り、蝦夷の墓を大陵、入鹿の墓を小陵と名付けたという。ここにいう「陵」とは天皇の墓を意味している。
腑に落ちない「日本書紀」の分注
入鹿暗殺直後の古人大兄皇子の叫んだ一言である。古人大兄皇子は蘇我入鹿の後押しを得て、皇位を狙っていた人物であり、こののち中大兄皇子と対立し、滅亡に追い込まれている。入鹿暗殺直後、古人大兄皇子は自宅に駆け込んで次のように叫んでいる。
韓人、鞍作臣を殺しつ。(韓政に因りて誅せらるると謂ふ。)吾が心痛し。
これによると「韓人」が蘇我入鹿を殺した。胸が張り裂けそうだ・・・というのだ。そして「日本書紀」の分注(カッコ内)は、「韓人」について、「韓の人=朝鮮半島からやってきた人」の意味ではなく、「韓政=朝鮮半島をめぐる外交問題」が原因で殺されたのだと記しているのである。この一節には二つの問題がある。
まず第一に、仮に分注を無視し「韓人」を「韓の人」と解釈すると、これに該当する人物が見当たらない、ということである。飛鳥板蓋宮大極殿で入鹿が殺された時、実行犯の中に「韓人=渡来人、あるいは渡来系豪族」は存在しない。このため「韓人」については色々な解釈がある。三韓の調進の場を利用しての暗殺劇だから「韓人のために」と暗示的に記した、とする考え。また三韓の使者はそもそも偽物で中大兄皇子らとともに入鹿に襲いかかったのではないか、などといった考え方がある。分注の「韓政」を重視するならば、蘇我入鹿暗殺は蘇我本宗家の専横が原因だったのではなく、中大兄皇子と蘇我本宗家の外交姿勢の隔たりが事件の根源に隠されていたことになる。乙巳の変の入鹿暗殺にいたる道のりは、明快な勧善懲悪の物語に仕上がっている。それにもかかわらず、なぜ入鹿の死後に、不可解な謎を日本書紀の編者は用意したのだろう
蘇我入鹿暗殺直後、皇極天皇は譲位の意志を固めた。息子の中大兄皇子に即位を促したのである。だが、中臣鎌足はこれを制止する。「あなた様には、中大兄皇子という兄(舒明天皇と蘇我系の女人から生まれた)、そして軽皇子(孝徳天皇)という叔父がおられます。もしこの状態で即位されましたら、年下の者としての道を外すことになりましょう。ですから、しばらく叔父の軽皇子を押し立てて人々(民)の望みを叶えた方が得策にございます。」この進言を受けて中大兄皇子は即位を断念する。こうして孝徳天皇は誕生した。なぜこのとき中大兄皇子は即位を先延ばしにしたのかといえば、一般には次のように考えられている。すなわち、皇太子という地位にいることで、自由な活動ができる道を選んだ、というのだ。名よりも実を取ったことになる。
孝徳天皇と中大兄皇子はこののちたびたび衝突を繰り返し、結局二人は決定的な破局を迎えるのである。中大兄皇子は孝徳天皇から正妃や官人らを引きはがし、孤立させてしまうのである。しかし中大兄皇子に対する民衆の期待度が、我々の想像しているような代物ではなかったのではないか、という疑いもある。乙己の変の直後から中大兄皇子の住む宮はたびたび不審火に包まれていたからである。そして同時に中大兄皇子に対する人々の不満が爆発しているからなのである。歴代天皇を見渡しても、これだけ「火事」と縁のある人物はいない。665年飛鳥板蓋宮、666年岡本宮、667年大和から近江に都を遷すがいたるところで火災が起きていた。669年天智天皇の政権の中枢に不可解な火の手が上がっている。
中大兄皇子に対する民衆の反発には一つの頂点がある。それは日本史上最大の国家存亡の危機、白村江の戦の前後である。民衆は百済救援を無謀と判断していたからであろう。ヤマト朝廷軍は白村江の会戦で唐と新羅の連合軍の前に完膚なきまで叩きのめされ、百済は滅亡した。そして唐の大軍が日本列島に押し寄せるかもしれないという悪夢のシナリオが予想されたのである。中大兄皇子は必死に西日本各地に城郭を築いた。唐が百済滅亡後、、攻める矛先を日本ではなく「まず高句麗」と判断したことでかろうじて日本は救われた。高句麗滅亡後、新羅が唐に反旗を翻し、唐はヤマト朝廷に対し懐柔策を採ってきたのである。667年、九死に一生を得た中大兄皇子は都を近江に遷す。遷都には反対論が根強く、民衆は各地で暴徒と化した。日本書紀の言うような蘇我氏の専横、これに対する中大兄皇子、中臣鎌足の正義の戦いこそが乙巳の変(大化の改新)であったという常識をまず疑ってかかる必要がある。このことは中臣鎌足の不可解な死ともかかわりを持ってくる。
669年冬10月の10日から16日にかけて、日本書紀は中臣鎌足の死に至る事情を次のように説明している。10日、天智天皇は中臣鎌足(日本書紀には藤原内大臣とある)の家に行幸し、病に伏せった中臣鎌足を見舞っている。15日東宮大皇弟(大海人皇子)が見舞い、この時、中臣鎌足に大織冠と大臣の位が授けられ、姓を藤原と改めたという。そして翌日藤原鎌足は薨去したのである。不思議なのは中臣鎌足の死が唐突にやってきたことである。同年5月、天智天皇は山科野に狩りに出かけ、中臣鎌足はこれに従い元気な姿を見せていた、とある。問題は鎌足の死の直前、「是の秋」の条に奇妙な記事が載せられていることである。
藤原内大臣の家に霹靂せり。
すなわち中臣鎌足の館に落雷があったというのである。落雷は古来祟りの象徴だったのである。したがって中臣鎌足の発病が尋常ならざる原因に因っていたことを落雷記事は暗示していたことになる。ここで強調しておきたいのは、乙巳の変の立役者で他人様に恨まれるような行為をしたことが無いはずの中臣鎌足が、祟りで死んでいったという一点である。
日本書紀は蘇我入鹿こそが、天皇家をないがしろにした、という。しかし、中臣鎌足が天皇家のために身を粉にしたかというと、大きな疑問符が付きまとう。藤原氏は中臣鎌足以来、つねに日本の頂点に君臨し続けた。しかもそれは一貫して「天皇家のため」ではなく、自家の繁栄のためだったように思えてならない。藤原氏にとって天皇とは自家の繁栄を継続するための道具にすぎなかったのではなかったか。実際、現代にいたっても藤原氏は「天皇に最も近い一族」という立場を利用し、目に見えない閨閥を作り上げてしまっているのである。
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