インドネシアという語は「インド」にギリシア語の島の複数形「ネシア」を付けたもので「インドの島々」を意味する。「インド諸島」や「マレー諸島」に代わる地理学、民族学上の学術用語として、ネシア語族(南島語族)の地域を指し、東マレーシアやフィリピンなどを含み、ニューギニアは含まず、現在のインドネシアとはかなりのずれがあった。その後、民族解放運動の中で、1920年代になってオランダ領東インドをインドネシア、その原住民である自分たちをインドネシア人、自分たちの共通語であるムラユ語(マレー語)をインドネシア語と表現するようになり、そして独立はインドネシア共和国として達成された。この国の国土はオランダが東南アジアに有した植民地の領域を引き継いだものである。ただし1975~76年に旧ポルトガル領東ティモールを武力併合し、インドネシアの27番目の州と称している。
インドネシア人の大部分は言語面から見て、オーストロネシア語族インドネシア語派の諸民族だが、その祖先は紀元前2500年か前1500年頃に中国南西部から何回もの波に分かれて南下したといわれる。インドネシアでは前数世紀にはほぼ現在のような民族配置になったと考えられる。その頃すでに稲作や航海術など高度な文化をもっていた。国家の出現が明らかになるのは、東南アジアの他の多くの地域と同じく5世紀である。それは国家形成の原理、理念としてヒンドゥー教と仏教に代表されるインドの文化を摂取したインド化した国家であり、約1000年間の古代あるいはインド文化の時代の始まりである。最も古いのは東カリマンタンのクタイに7つのサンスクリット碑文を残したムーラワルマン王の王国でその字体から5世紀初めのころと推定されるが、この王国のその後はまったく不明である。
イスラム王国の時代
15世紀初頭のマラッカ海峡で台頭したのが、パレンバン出身の王族パラメスワラが建てたマラッカであり、その急成長を助けたのがいわゆる鄭和の南海遠征であった。すなわち中国の明朝が南シナからインド洋方面に7次にわたって大艦隊を派遣した時(1405年~33年)、その主要な寄港地となることで、北のアユタヤや東のマジャパヒトの脅威に対抗できたのである。中国の艦隊がこなくなると、西方のイスラム商業勢力と結んだ。こうして第4代のムザッファル・シャー(在位1444-59年)の時に本格的にイスラム化するとともに、海上交易網の要の位置を占めるようになる。「マラッカの世紀」の到来である。
18世紀末にVOC(東インド会社)が崩壊すると、その領土、財産、負債などの一切はオランダ政府に引き継がれる。ヨーロッパは時あたかもフランス革命からナポレオン戦争の動乱の時代であった。その影響を受けて、世界各地のオランダの海外領土は1795年からイギリスの支配下に入り、ジャワ島だけはおくれて1811年にイギリス中間統治期を迎える。1819年にラッフルズのもとでシンガポールを獲得したイギリスとはこの海域の利権をめぐる抗争が絶えなかった。自由港とされたシンガポールが交易センターとして急成長し、バタヴィアが昔日の繁栄を取り戻すことは無かった。
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イギリスとの対立は1824年のロンドン条約で一応の決着を見た。マレー半島をイギリスの、スマトラをオランダの勢力圏と認めあうもので、現在の国境線の端緒となった条約である。西スマトラでは18世紀末からパドリ運動と呼ばれる宗教改革運動がおこり、改革派と反改革派の内戦に発展していた。1821年瀕死の反改革派がオランダの介入を求め、これ以後戦いは宗教革命運動に対する植民地征服戦争の性格を帯びることとなり、結局37年にこのパドリ戦争の終結と共に西スマトラはオランダの直轄領となった。オランダはシアック王国を保護国にした1858年から、スマトラで積極策に転じた。シアック王の多数の属国がオランダ支配下に入り、とくにデリ地方はタバコなどのプランテーション地帯として急成長した。こうした動きは19世紀前半からコショウ輸出によって再び台頭してきたアチェ王国と衝突することになる。1873年オランダはアチェ戦争に突入した。当初オランダは軽く考えていたが、アチェ人の激しい抵抗の前に立往生させっれた。莫大な戦費のため植民地政府は78年から赤字に転落し、80年代には首都クタラジャ(現バンダアチェ)を守るだけとなり、オランダ側の士気阻喪、苦難の時代であった。1912年ついにウラマ(イスラム知識人、指導者)の抵抗が収束した。
日本の支配
日本軍は1941年12月8日の開戦と同時に東南アジア各地に進駐した。蘭印進攻作戦は42年1月のカリマンタンのタラカン島奇襲上陸とスラウェシのマナドヘの落下傘部隊降下をもって始まり、3月1日にジャワ島に上陸した部隊は早くも9日にはオランダ軍を全面降伏させた。これ以後45年8月15日までの間、日本軍がインドネシアを支配した。オランダ人が抑留されたため、インドネシア人は行政、企業や組織の運営の絶好のトレーニングの機会をえた。またオランダ語が禁止され、インドネシア語を使う機会が飛躍的に増え、その公用語としての整備と社会的な普及が促進された。日本が残したもので最も重要なものはおそらく、オランダ時代に機会のなかった団体訓練や軍事訓練であろう。青年団や警防団などの団体訓練だけでなく、日本軍内の補助兵力としてのヘイホ(兵補)が多数採用された。500人単位の大団以上の機構はなく、参謀も要請されなかった。しかしジャワだけで約35,000人の第一線の戦闘部隊が形成された意義は大きく、後に国軍の中核を構成する。軍政末期にはブリタルなどでペタの反乱が生じ、日本軍当局を震撼させた。
日本は当初インドネシアを永久確保する方針でのぞみ、民族主義者たちの要求に対して、諮問機関「中央参議院」設置(43年10月)などの「政治参与」の形で譲歩を小出しにするだけだった。しかし戦況の悪化とともに、民心の離反を防ぐため、44年9月、小磯首相は将来東インドに独立を与えると発表した。45年3月独立準備調査会が設置され、独立国家に必要な法的、制度的な検討が始まった。8月14日に委員12名が任命され、18日に第一回会議を開くことになったが翌15日、日本が降伏した。スカルノ、ハッタらが民族主義指導者たちは日本軍との協議の上で独立を達成しようとし、他方スカルニら急進派青年グループはただちに独立を宣言するように迫った。16日夜、日本軍当局者から協力を拒否されたスカルノ、ハッタらはついに決断し、民族主義指導者や青年グループによって独立宣言文が起草された。17日午前10時、スカルノは独立宣言文を全国、全世界にむけて読み上げ、インドネシアはついに自らの力で苦難の独立達成の道を歩み出したのである。
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