カテゴリー: 読書

わが友マキアヴェッリ 6/6 ~官僚から劇作家へ

喜劇 マンドラーゴラ
フランスにカリーマコという名の男が住んでいた。相当な年齢の金持ニチアの若い妻、ルクレツィアの美しさと身持ちの良さを耳にして、まだ見ぬこの女に恋してしまう。しかもどうしてもモノにしたいと思うようになる。それでまず、男が女に容易に近づける場所である温泉に、この夫婦を連れ出そうとするが、これは失敗する。作戦変更を迫られたリグーリオは、今度は別の手を考えつく。外国在住の長いかリーマコがフィレンツェでは顔を知られていないのを良いことに、彼をフランスでは有名な医者に仕立てあげようと考えたのだ。石女に妊娠させることのできるエキスパート、という振れこみである。まず夫の説得から始まる。「マンドラーゴラ」というこの薬を飲んだ後で妻と床をともにすると妻は必ず妊娠する、と言ってだ。ただこの媚薬は、飲んだ者をまもなく殺すとも言う。そこでリグーリオは、心配することはないと言う。どこかの馬の骨を連れてきて、ただしこの父親になるのだから身体だけは健全無欠な若者を連れてきて、それに代行させれば問題は無い、と言う。しかし問題は身持ちの堅いことでも知られるルクレツィアをどうやってこの作戦に参加させるか、ということである。これまたリグーリオの発案でルクレツィアの告解僧であるティモテオに、説得してもらうことになった。僧ティモテオは、夫のためにやるのだから罪ではない、と言って説得する。天国の席も心配ないと僧侶まで言うのだから、ルクレツィアは安心する。いや、ルクレツィアには他の男と床をともにする大義名分が与えられたわけだ。カリーマコはそれまでの医者の扮装を捨て、どこかの馬の骨に一変する。そして、無事、お床入りを完了する。ところがこの後が愉快なのである。何も知らないとみなが思っていたルクレツィアが何もかも感づいていたのだ。愛し合った後でいまだ夢うつつのカリーマコ扮する馬の骨に向って、彼女もうっとりと接吻しながら言う。


わが友マキアヴェッリ 5/6 ~政変と更迭

ソデリーニの追放、新大統領ジャンバティスタ・リドルフィである。リドルフィは、反メディチではなかったがメディチ派でもない。ソデリーニ政権下で要職についていた人々で、解任されたものが1人もいないという事実である。クーデター当時、ソデリーニが後を託したほどの、ということはソデリーニの信認も扱ったという証拠だが、そのフランチェスコ・ヴェットーリもローマ駐在大使に任命されている。それなのになぜ自分だけが、とマキアヴェッリは免職という処分が信じられなかったのではないだろうか。しかし、これが枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチの深謀遠慮であったのだ。


わが友マキアヴェッリ 4/6 ~傭兵ではない自国の軍隊の必要性

当時の戦争ときたら、天候の都合で春から秋にかけて行われるのが普通なのだが、そのような仕事に絶好な季節に、「市民」たちを戦場に駆り出すわけには行かない。ならば戦争などしなければよいとなるが、20世紀の今日に至るまで、非合理的だからという理由で戦争回避に成功したためしは無い。それで仕事に絶好な季節に、仕事に絶好な年頃の男達を戦争に借り出して経済の疲弊をまねくより、彼らには仕事に専念してもらって、その仕事からあがる利益の一部を徴収し、それでもって傭った戦争専門屋に、そちらのほうは任せるということにしたのだった。この制度の普及のおかげで、イタリアの戦争と言えば、傭兵同士が戦うものになったのである。海軍は自国の人間で固めたヴェネツィア共和国でさえも、陸軍は、イタリアでは支配的だったこの制度を受け入れている。


わが友マキアヴェッリ 3/6 ~マキアヴェッリと女達

マキアヴェッリが、いかに若輩当時とはいえ、女を交渉相手にもったという一事は、マキアヴェッリの研究家でさえ、いたく刺激する出来事のようである。15年の官僚生活中に彼が書いた報告書にすべてには目を通さない学者も、この際の報告書は目を皿のようにして読むらしく、やっぱりヤラレタ、いや、それほどはヤラレテイナイなどと論じた研究論文を読むたびに、女である私はおかしくてたまらない
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だが、これも、しわくちゃのネーさん相手であったらこうも議論に熱が入らないであろうと思い、女は女でも、カテリーナ・スフォルツァであったからだと納得することにしている。マキアヴェッリの会った当時は36歳になっていたが、まさに満開の花の美しさに輝いていた。顔が美人であるだけでなく、姿かたちもしなやかで崩れない。10人以上の子を生んだにしては驚くばかりの魅力の持ち主だ。

> 塩野先生も、グローバルに展開される男の「あの女とやった?やってない?」議論を嘲笑しておられるw


わが友マキアヴェッリ 2/6 ~花の都フィレンツェ

1479年の12月も末ちかくなって、ロレンツォを乗せたガレー船はナポリに入港した。船を待ち構えていたのは、厳しい顔付の武装兵や役人の一団ではなかった。顔いっぱいに笑みをたたえたナポリ王フェランツォの次男フェデリーコだったのである。若年の王子はロレンツォとは旧知の中で、憧れに似た尊敬の念さえ抱いていた。学問や芸術に関心が深く、洗練された趣味の持ち主だった。ナポリ王フェランテは、この王子にナポリ滞在中のロレンツォの接待を命じたのである。だが、老獪なフェランテは簡単にはロレンツォに満足を与えなかった。ロレンツォも、ナポリ滞在の3ヶ月が過ぎようとする頃になると、人々の前では悠然と振舞っていても、1人になると沈んだ顔つきを隠せなかったようである。ロレンツォはもはや待ちきれないと公言して、ナポリ港を発つ。ロレンツォがリヴォオルノの港に下船した頃を見計らって彼に追いつき、ナポリ軍、対フィレンツェの戦線より離脱、という王の決心を伝える。フィレンツェの市民はロレンツォをまるで凱旋将軍のように迎えた。


わが友マキアヴェッリ 1/6 ~メディチ家のロレンツォ

本書は、君主論ではなく、マキアヴェッリそのものの人生を追っている。塩野七生氏によるイタリア・フィレンツェの表現がオタクっぽくて面白い

当時は、国家が都市を作るのではなく、都市が国家をつくる時代であった。都市国家とは、フィジカルな現象を表現するだけの、名称ではない。イタリアがルネサンス運動の発祥の地になりえたのは、国家が都市を作るのではなく、都市が国家を作るというこのことに、古代以来、はじめて目覚めたからである。そして、フィレンツェ人はヴェネツィア人と並んで、この意味での都市を作り出した民族なのであった。海の都といわれたヴェネツィアも、花の都とたたえられたフィレンツェも、いずれも、「はじめに都市ありき」で共通している。都市が先に生まれ、国家はその都市の持つ性格の延長線上に、自然な勢いのままにつくられたのである。マキアヴェッリはこの「都市」で、生まれ育ち死ぬ。生粋の都会人として生をうけ、生をまっとうする。

マキアヴェッリの山荘への道から、アッピア街道、レスピーギ「ローマの松」の傘松、キャンティ・クラシコ(ワイン)、サンタ・マリア・デル・フィオーレ。七生ちゃん、語る語るw 一緒にイタリアを歩いて、彼女より楽しい日本人は居ないだろうね。オタクって男が多いけど、女でもいるという証拠だな。


インドネシア古代史 9/9~離反する各地

第9章 マジャパイト王国の没落とヒンドゥー政権の消滅(15~16世紀初)
アヤム・ウルク王の死去をもってマジャパイト王国の歴史の転換期とするのは、いささか独断にすぎる。1389年以後しばらくの間はそれ以前と全く変わりなく、新王国の登位は外見上何ら変化ももたらしていない。しかし、ヴィクラマヴァルダナ王の治下において強大な王国の没落を示唆する最初の明確な徴候がうかがわれるのは事実であり、1429年のこの国王の死去の当時を40年前と比較すると国力の衰退は明瞭である。こうした極めて急速な仮定の原因の十分な解明は困難である。最も重要な原因の1つはイスラム教の進出であり、これが宗教上の転換期においてジャワ社会を分裂させ、当時の政治上の対立を激化させている。ジャワの北海岸地帯がイスラム化されるとともに、現地の支配者達の間に漸次積極化しつつあった中央政権にたいする自主独立的態度が強化され、これが宗教上の対立によって促進されることになる。経済上の要因もまた影響している。マラッカ海峡の商港としてのシュリーヴィジャヤがジャワによって意識的に放棄されたように思われること、またマラユが一度パレンバンおよびマラッカ海峡を隔てた対岸に進出することによって、ある程度ジャワの失地を埋めた。


インドネシア古代史 8/9~最大勢力圏をほこった王国

第8章 マジャパイト王国の興隆(14世紀)
マジャパイト王国のジャヤナガラ王は王位を継承すべき男児を残さずに死去した。この場合、この王の年長の異腹の妹「カフリパンの女王」が王位に最も近いと考えられる。事実彼が死去した翌1329年には、この王女がジャワ王国の主として現れる。しかし、トリブヴァノートゥンガデーヴィー・ジャヤヴィシュヌヴァルダニーの即位名を持つこの女王は、彼女自身の王位継承権による通常の襲位ではなく、何か別の理由に基づいて即位したものと考えられた。この王女自身の資格に基づく即位であったとすれば、1350年に至ってその息アヤム・ウルクに王位を譲るために退位していることが不可解であり、したがって先王の死去した1328年には、まだ存在しなかった男系の後継者に対する一種の摂政の地位が想像された。しかしながら、この女王の治世中、スマトラの副王がジャワを「優れたラージャパトニ陛下(トリブヴァナー女王の母)によって統治されている王国と呼んでいる。ラージャパトニ陛下はクリタラージャサ王の妃であり、クリタナガラ王の娘であるラージャパトニを意味するものとすべきであろう。トリブヴァノートゥンガデーヴィー女王の当地を摂政政治とすべきことは明らかであるが、未成年の息子に変わる政治ではなく、直接政権を行使することを希望しなかった母のための摂政であった。1350年に摂政女王が退位し、その息アヤム・ウルクが登位したのは、この年にラージャパトニが死去した結果であり、このこと以外に理由は求められない。
> 女性は赤で囲ってある。直系はみんな女性の女系一族であるマジャパイト王室。
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> マジャパイト王室、女の時代。ラージャサ(アンロック) - クリタナガラ の次世代、ラージャパトニが娘、ラージャパトニの子もまた2人の娘で構成されている、女系一族の時代であった。


インドネシア古代史 7/9~元軍

第7章 マジャパイト王国の出現(13世紀末~14世紀初)
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旧カディリ王国の復活 ナーガラクリターガマ書などのマジャパイト王朝の公式文書の見解に追随して、カディリのジャヤカドヴァンを、ラージャサ王朝の正統な諸王の当地を中断した反逆者とみなし、王位を簒奪した人物とすることは不当であろう。ジャヤカトヴァンはおそらく、長い世紀の間ジャワを支配していたが1222年ラージャサ(アンロック)によって亡ぼされた王家の後裔であり、その後4分の3世紀を経て非合法の王朝から政権を奪回した人物であったのであり、1292年の事件は正統な王権の復活とすべきであろう。新カディリ政権の前途を阻むものは、前章で述べた如く、首都の北部の戦場でなお優勢を維持していたシンガサーリ軍団であり、その処理が新政権の第一の任務であった。スマトラで作戦中の別のシンガサーリ軍団は当面の問題ではなかった。


インドネシア古代史 6/9~ジャワ語の歴史書パララトン

第6章 シンガサーリ王国時代(13世紀)
1222年のガントゥルの戦いによるカディリ政権の滅亡は新王朝がジャワの支配権を新しい首都において引き継いだこと以上の意味があり、単なる政権の交代とは性格を異にする歴史的転換期の始まりを示唆する事件であった。新王朝によって「ジャンガラおよびカディリ」の両王国が決定的に統一的に統一されたとしても、そうした形式上の事実が新しいジャワの王国の国力の良い大きな展開を可能ならしめえたとはいえない。この「統一」なるものは実質上というより、外見的虚構とすべきである。強力なヒンドゥー文化を基盤とし、古来の中部ジャワの伝統への憧憬を示していた王国と王家は消えさった。これに代わって、新しい、単独、排他的な「ジャワ王国」が、社会の最下層の農民出の「成り上がり者」を始祖とする王家の元に出現した。1222年はジャワの歴史において、政治上よりもむしろ文化上の観点から、極めて重要な里程標とされよう。というのは既に進行中だった文化面におけるジャワ化の過程が特にこの年の事件以後急激に促進され、深化しているからである。


インドネシア古代史 5/9~難しい統一、再起するジャワ文化

第4章アイルランガ王時代(11世紀)
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アイルランガ政権の正式の発足は1019年ということになるが、その時東ジャワ全土を支配していたのでは決してない。この王が国家の統一を回復するためにこの後長年にわたってあらゆる方面における戦いを続けなければならなかった。その際彼の敵対者の背後にシュリーヴィジャヤがいたことは当然想像されよう。当時アイルランガの領地は東ジャワの限られた一地域であり、彼は多数の小王国の1つとしてこれを統治していたのであろう。アイルランガ王のものとしては最初の銅板文書がブランタス河の下流地域から出ている。かくて、アイルランガの最初の領地の広がりは、最大限スラバヤからバスルハンまでの海岸沿いの地域に若干の後背地を加えたものであったようである。彼はこれだけの領域を持って一応満足せざるを得なかったであろう。と言うのは、1028年にいたり、暫く領土拡大の企図を実行し始めているからである。


インドネシア古代史 4/9~10世紀の各地の様子

第3章 マタラーム時代(10世紀)
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統一ジャワ王国の出現
ウァナギリ銅板文書903年、クドゥ銅板907年、においてバリトゥン王が彼に先立って中部ジャワを統治していた一連の諸王に呼びかけを行い、彼らを神たる過去の王として崇め、彼のクラトン守護を祈願しているのが注目される。このことから見て、王称の変更とバリトゥンの中部ジャワの一連の諸王に続く登位には関連があり、これはおそらく入婚によるものと考えられる。とすると、バリトゥンは元来東ジャワの王であり、この地で最初王位につき、その後間もなく中部ジャワとも特殊の関係を持つようになり、結局、サンジャヤの後継者たちに名を連ねることになったが、これには新規の王称をもってした、と言うことになろう。


インドネシア古代史 3/9~石碑から読み解く古代史

第2章 シュリーヴィジャヤおよびシャイレーンドラ時代(7~9世紀)
2世紀間の空白 前章では最古の資料によってヒンドゥー・インドネシア諸王国についてみた。その後の歴史を秩序付けてただることができるようになるのは、ずっと後代である。それどころか、当時既に乏しかった資料は、その後スマトラについては約1世紀、ジャワについては2世紀にわたって全く見出せなくなり7世紀の半ばにいたって再び現れ始める。こうした資料の空隙は、主として中国人のこの地域に対する関心の希薄化に起因するが、7世紀の初め頃、歴史に姿を現した唐王朝(618-907年)が再び関心を示し始め、この地域の歴史にある程度の光明が投ぜられることになる。多少まとまった資料を利用できた3つの地域即ちボルネオ(カリマンタン)のクタイ、西ジャワおよびスマトラを再び取り上げると、ボルネオは極めて消極的な成り行きを示す。ムーファヴァルマンの奉献柱も、カプアス河流域の仏教の金言もまた、以後の消息は見出せない。わずかにクタイの年代記が、独特の非ジャワ的なヒンドゥー・アダット(慣習法)および明らかにヒンドゥー音を示す国王名を掲げる「ムアラ・カマン王国」について物語るのみである。この王国はマジャパイト王朝期にジャワを経由してヒンドゥー化されたクタイによって征服され、17世紀にイスラム化することになる王朝であったのかもしれない。西ボルネオもまた漠然としている。669年、後のブルネイに比定される婆羅(Po-lo)からの使節が中国を訪問し、1406年にいたるまで通交しているが、当時この国がヒンドゥー化されていたかどうかは全く明らかでない。ボルネオかバリかそれともまた別の地域に比定すべきか不明な婆利(Po-li)も西ボルネオのヒンドゥー文化を確認する手がかりとはならない。というのは、ジャワおよびスマトラが中国史料に再び取り上げられるようになる時期からこの婆利についての情報が全く杜絶えてしまうからである。これに対し、中国史料が452年以降沈黙し640年から再び取り上げ始める(門+者)婆、つまり「ジャヴァ」(Djawa)がジャワであることに疑問はない。このジャヴァがジャワかスマトラか、またはこれらの双方を意味するかが確かでなく、そのためジャヴァ(門+者)婆に位置するとされる。


インドネシア古代史 2/9~サンスクリット語とインドネシア現地語・文字

イアバディウはヤヴァディヴ(Yavadivu)の転写、すなわちサンスクリット語のヤヴァドヴィーパ(Yavadvipa)に当るプラークリット語であり、ヤヴァ(Yava)は確かに大麦を意味するからその説明も妥当とされよう。食人を慣習とする人種についての記述は、どのような根拠があったにせよ、往時のバタック族の如き種族の慣習の借用でもあり得、これが当時一般に伝えられていたのであろう。イアバディヴという島の名前の由来となった大麦は、この島をジャワとするにせよスマトラに当てるにせよ、この2つの島のいずれにも産出されない。しかし、ヤヴァという語は大麦と同じ穀物として黍をも意味し、黍はジャワとスマトラの双方において産出する。
石碑の出現 3世紀にいたって一連の石碑が後インド(ビルマからインドシナ半島にかけての地域)の海岸地方ならびに島々において、ヒンドゥー文化の影響を証拠立て始め、この一連のものは場所と時期の開きにもかかわらず明確な共通性を示している。これらの石碑は若干の西紀に及ぶものであるが、ビルマ、マレー半島、ジャワ、ボルネオ、チャンパー(ベトナム中部)において発見される。全般的に見てこれらの石碑はサンスクリット語で南インドの東海岸に位置した本源の地に因みパッラヴァ文字と称される文字をもって銘刻されている
バタヴィア東部のトゥグー(Tugu)平地に見出される楕円形の大石に銘刻されている碑文である。パッラヴァ文字をもってサンスクリット語の韻文が銘刻されており、この文字が東ボルネオのものよりやや後代の字体であることから、これらの文書を5世紀半ばに位置づける手がかりが与えられるが、こうした字体相互の僅かな相違から、チサダネ河のチアルテゥンの岩石碑文をこの地域における最も古いものとすることが可能である。
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インドネシア古代史 1/9~歴史の始まりは、やはり中国書

オランダによる植民地支配の後、15~16世紀以降の歴史書は数多いが、それ以前の歴史というのはほとんど触れられることがない。700ページにも及ぶ、その日本語訳文献という貴重な資料を手に入れたので読んでみた。
第1章 最古のヒンドゥー諸王国(1~6世紀)
インドネシア群島の歴史はヒンドゥー人の渡来をもって開幕する。ヒンドゥー・ジャワ期はほぼ15世紀まで、この間に高度の文化の達成、国家の組織化と商業の発展が見られ、この群島がヨーロッパ人の視野に入り始める当時の姿を形成するに至る。ヒンドゥー文化の影響をよく認識しようとするならば、この文化が浸透したと見られる地域とそうではなかったと想像される地域、すなわち、ジャワ、スマトラおよびバリとこれら以外の諸島を比較してみることである。この群島において既に有史以前に観取しうる現象、即ち文化の流れは一定の方向に向かったのであって、この群島世界の全体に流通したのではなかったことは、ヒンドゥー文化の場合一層明瞭である。


残虐の民族史 3/3 ~インディアン

20万の軍隊を一瞬にして抹殺した項羽
紀元前209年、秦帝国に対して農民が起こした陳勝・呉広の乱は、中国全土を戦乱に巻き込む大反乱に発展していった。項羽は秦の首都・咸陽に向けて進撃し、河北省南部で秦の武将・章かんの率いる20万の軍を破った。劣勢に陥った章かんは、敗北を責められて処罰されることを恐れた。彼は自分が置かれている不利な立場を理解し、項羽に降伏を伝えた。これで項羽は、両軍合わせて数十万の兵を率いることになり、意気は上がるばかりであった。しかし、降伏した秦の兵士の気持ちは揺らいでいた。秦の兵士の間では愚痴をこぼす者も出てきた。「将軍の章かんは、味方の我々を騙して項羽に下ってしまった。函谷関に入って、うまく秦を倒せればいいが、もし失敗した時は、項羽は我々を捕獲して楚に引き上げるだろう。そうなれば秦はきっと我々の父母や妻子を皆殺しにするだろう。」
このような話が項羽の耳に入った。項羽は秦の兵士たちが自分に心服していないと考え、章かんら将軍以外の20万もの兵士を、一晩で根絶やしにすることにした。華北の黄土地帯は水による浸食作用が強く、至るところに深い溝が走っている。小高い崖が数十メートルも続くところも少なくない。項羽はこの地形を利用して、味方をまったく損なうことなく秦の兵士を一瞬の間に処分してしまうことにした。項羽は家臣を呼んで命令を下した。命ぜられた家臣たちは、まず秦の兵士達を行軍で疲れさせておき、崖の近くに野営させた。そして彼らが寝静まったのを確認してから、彼等の天幕の崖のほうに面した入口を空けておき、その他の3方を大群で包囲した。配置が完了すると、大軍は指揮官の号令の下、闇夜の静けさを破る喚声を上げながら包囲の輪を縮めていった。寝込みを襲われた秦の兵士たちは、何が起こったかもわからずパニックに襲われ、武器を取ることも忘れて先を争って逃げ道を捜して走った。彼らは敵兵の居ない方向へ殺到していった。そこには崖が待ち受けていた。一夜明けると崖の下には秦の兵士達の死体が累々と折り重なって、そこは地獄の谷と化していた。こうして項羽は、20万もの軍隊を短時間のうちに労せずして処理してしまったのである。中国人のこのような発想法は、捕虜1000人を処刑したイギリス王ヘンリー5世も真っ青になるような事例が中国にはある。さすが中国と言うべきか・・・。
民族絶滅を狙ったインディオ虐殺
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残虐の民族史 2/3 ~ジンギス汗

ジンギス汗の悪夢に学んだロシア人の凶暴
趣向を凝らした頭蓋骨の塔
織田信長が、妹のお市の方の旦那である浅井長政を滅ぼし、髑髏で酒杯をつくって酒を飲んだと言う話は有名である。チンギス・ハーンの子孫を名乗ったティムール(在位1370年~1405年)に比べたら、かわいいくらいである。14世紀後半から15世紀初頭にかけて、中央アジア、西アジアを戦乱の渦に巻き込んだティムールは、征服地に頭蓋骨で塔をつくることを趣味としていたからだ。モンゴル族の出身で中央アジアのサマルカンドを都として帝国を築いたティムールは、ロシア、インド、トルコへと版図を広げていったが、1387年、現在のイランの中央部にあるイスファハンを陥落させたとき70000人を虐殺した。そして、その首を刈って頭蓋骨のピラミッドを作った<。さらに1394年、タクリトという都市を攻略した時は、戦死者や虐殺した人々の頭蓋骨を組み合わせて、見事なミナレット(イスラム寺院の尖塔)状の高い塔を築いた。
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残虐の民族史 1/3 ~始皇帝

なぜ中国の皇帝は世界一残虐なのか?
> アジア一国一愛人構想、その活動は中国・インドネシアの内戦・革命を震源とし引き起こされるアジアの動乱を収益化することを目的としている。その将来を彷彿とさせる”中国の輝かしい過去”に興味が湧くだろう?
世界で最も残酷な処刑方法を2つ挙げろと言われれば、私は躊躇無く「凌遅の刑」と「腰斬りの刑」を挙げる。私ならずとも世界の刑罰史や拷問史の研究家なら、この2つが飛び抜けて残酷の処刑であると認定するのに異存は無いだろう。両方とも中国の伝統的処刑である。「凌遅の刑」とは3日かけて徐々に死刑囚の体を切り刻んでいく。刑吏も死刑囚も腹がへるから、途中で食事したりする。一部始終を公衆が見物している。この処刑は20世紀の初頭まで存続していた。いかにも4000年の歴史を持つ国の処刑らしい方法だ。もう1つの「腰斬りの刑」だが、読んで字のごとく、上半身と下半身を両断する処刑である。この処刑が世界刑罰史上最も残酷な処刑といわれる所以は、体を真っ二つにされた後も、しばらくは生きているからである。同じ処刑でも、中国では「腰斬りの刑」は打ち首の刑より重い刑罰と位置づけられていたのだ。人間は首を斬られてしまえば、脳と心臓が離れてしまい、たちまちのうちに意識を失って死んでしまう。斬首はされる本人はそれを目撃することも確認することもできない。しかし胴体を斬られたのでは、脳と心臓が離れていないため即死しない。腰斬りは斬り離された下半身を自分で見ることができるのである。死ぬまでに若干の時間があるのだ。それが死ぬ者にとって魔の時間となり、苦しみ抜いたあげくに死ぬということになる。


旧約聖書 創世記 4/4~父との再会

兄弟らエジプトへ (42)
ヤコブはエジプトに穀物があることを知り、その息子たちに言った、「何故お前たちは手をこまねいて互いに顔を見合わせているのか。私の聞く所ではエジプトには穀物があるということだ。エジプトに下って、我々のために穀物を買っておいで。」 ヨセフの兄弟10人は穀物を買うためにエジプトに下っていった。それはカナンの地に飢饉が臨んだからである。ヨセフの兄弟は顔に地をつけてヨセフに礼をした。ヨセフはその兄弟たちを見て、ただちにそれと気付いたが、彼らに対してそしらぬ風を装い、
激しい言葉で彼らに語った。「お前たちは一体何処から来たのだ」 
彼らは「食糧を買うためにカナンの地から参りました。」 
ヨセフは彼の見た夢を思い出し「お前たちはスパイだ、きっとこの国の様子を窺いにやってきたのだろう。」 
「僕どもは12人兄弟でして、一番下の弟(ヨセフの弟ベニヤミン)は今父の所におります。今一人はもうこの世に居りません。」 
お前たちの一番下の弟をここへ連れて来るまでは、お前たちはここから国へ帰さないぞ。お前たち兄弟の中の一人が獄に残って、お前たちは家族の飢餓を救うために穀物を持ち帰るがよい。そして一番下の弟を私の所に連れてくるのだ。」
彼らは互いに言った「我々は弟のことで悪いことをしたものだよ。弟がいためつけられて我々に哀れみを乞うのを見ながら、それを聞こうともしなかったのだからな。だからこんな目にあうのだ。」
ルベンが答えて言った「だから私があの子に悪いことをしてはいけないと言ったではないか。しかし君たちは聞かなかった。今あの子の血の報いを要求されているのだ。」
彼らはヨセフが聞いているとは知らなかった。というのは、彼らの間では通訳を用いていたからである。ヨセフは彼らの所から離れて行って泣いた。ヨセフは彼らの入れ物に穀物を満たすことを部下に命じ、また彼らの出した銀を一人ひとりの袋に返すことと、その旅の食糧を与えることとを命じた。
ヤコブは「お前たちは次々に私の子を取ってしまう。ヨセフはもう居ない。シメオンも居なくなった。そしてベニヤミンまでも取ろうとする。その重荷がみな私に身にかかってくるのだ。」


旧約聖書 創世記 3/4~売られたヨセフ

ベテル (35-1~15)
神がヤコブに言われるには「たって、ベテルに上り、そこに住み、またそこに君が兄エサウを避けて逃げた時、現れ給うた神に、祭壇を作りなさい」と。ヤコブはともにいた全ての人々と一緒にカナンの地のルズすなわちベテルにキタ。ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所を「神の家」(ベースエール)と名づけた。何故ならかつて彼が兄の顔を避けて逃れた時、神がその場所で彼に現れ給うたからである。そこでリベカの乳母のデボラが死んだのでベテルの下手の大木の下に葬られた。それゆえそれを歎きの大木と呼んだ。バッダン・アラムから帰ってきたヤコブに再び神が現れ、ヤコブを祝福し、彼に言われた。「君の名はもうヤコブと呼ばないでイスラエルと言いなさい。」
ヨセフ、エジプトへ来る (37)
イスラエルはヨセフが年寄子なので子供たちの誰よりも一番彼を愛し、彼のために飾りのついた上衣を作ってやった。兄弟たちは、その父が子の中で一番ヨセフを愛しているのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに彼に口を利くことすらしなかった。兄弟たちは遠くからヨセフがやってくるのを見て、まだ彼らに近づく前にヨセフを殺してしまおうと相談した。ユダがそれを聞いてヨセフを彼らの手から救い出そうとした。「弟を殺してその血を覆い隠すようなことをしたところで、何の得にもならない。ヨセフをあのイシマエル人たちに売ろう。ヨセフに手を加えてはいけない。我々の肉親の弟ではないか。」 そこで兄弟たちもユダに同意した。ミデヤン人の商人たちが通りかかった。彼らは穴からヨセフを引き上げ、銀20枚でイシマエル人に売ったのでイシマエル人はヨセフをエジプトに連れて行った。兄弟たちはヨセフの上衣をとり、牡山羊を殺してその血にその上衣をひたした。父はそれを認めて言った、「これは我が子の上衣だ。猛獣が食い殺したのだ。」 ヨセフのためにその父は歎いた。


旧約聖書 創世記 2/4~ノアの子孫 アブラム、イサク、ヤコブ

洪水の後残されたノアの子供たち、セムの末裔がアブラム。

アブラムの放浪 (12-1~9)
ヤハウェがアブラムに言われた、「さあ、君の国、君の親族、君の父の家を離れて、私が君に示す国へ行きなさい。私は君を一つの大きな民にしよう。私は君を祝福し、君の名前を高めよう。君自身が祝福の基になれ。私は君を祝福する者を祝福する。君を呪う者を私は呪う。地の全ての種族は君によって祝福されるだろう。」

アダム->ノア->アブラムと旧約聖書の主人公が移行している。神の啓示ですかな。


旧約聖書 創世記 1/4~ノアの洪水まで

1章2章は天地万物の創造の記事であるが、1章2節~2章4節前半 と 2章4節後半~2章25節の両部分に別れ、前の部分が祭司資料、他の部分がヤハウェ資料であることは用語、思想その他から明瞭である。
祭司資料の創造記 (1-1~2-4前半)
1章1節と2章の関係は問題で種々の読み方があるが、我々は一応次のように解する。すなわち1節は表題的意味のもので、2節で創造の仕事が始まり、創造の素材である混沌たる「原始の海」そのものが何処から来たかは触れてない者と見るべきである。(この「原始の海」の原語がバビロニアの創造神話における「混沌の怪物」と関連することは周知のことであるが、ここではかかる宗教史的関連は考察の外におく)。いわゆる無からの創造なとどいう問題をここで持ち出すべきではない。祭司資料は無と有の対立としてではなく、混沌と秩序の対立から創造を考えている。2章2節で「7日目に完了し、7日目に休まれた」というのがおかしいのでギリシア訳、シリア訳、サマリヤ五書等はより合理的に「6日目に完了し」と変える。しかし神の安息こそ創造の完成である!7日目の「神の安息」は直接いわゆる安息日の設定を意味するものではない。しかし捕囚期以後祭司階級の間で特に重んぜられるに至った安息日の制度はすでに創造の昔天に原型があったと見るもので、この1-1~2-4の創造記が祭司資料から由来することの有力な理由の一つである。その他この7日にきちんと分けたこの創造記はその「言による創造」、その他の点から見て思想上4節後半以下の第2の創造記より後代のものたることは明らかであろう。
ヤハウェ資料の創造記 (2-4後半~25)
2章3章にだけ「ヤハウェ神」とあり、4章以下のヤハウェ資料においては「ヤハウェ」とだけである理由は必ずしも分からない。元来ヤハウェとだけあったのに、祭司資料の創造記と一緒にされて、「神」が加えられたか。「ヤハウェ」は歴史的に見れば恐らくモーセ以後知られるに至ったイスラエル人の神の名。7節 「土くれ」「塵」の意味にとるべき場合もあるが明らかに「土」の意のことがある。「地」は「アダーマー」、「人」は「アーダーム」で関連する。8章の「エデン」は同じ語がヘブライ語では「喜び」の意を持つが、アッカド語edinuの荒野の原意のほうが強く、パレスチナから見て東のシリヤ砂漠あたりを元来の楽園のあったところと考えているらしい。「楽園」(パラダイス)は70人訳のこの箇所で「園」の訳に用いられた言葉。元来はペルシア語。

七十人訳聖書 ヘブライ語聖典をギリシア語に翻訳したもの
四資料説 旧約聖書編集以前、ヤハウェ資料、エロヒム資料、申命記資料、司祭資料があったと言われている
ハァハァ、常識が無さ過ぎて読むのが疲れます・・・。


解明・拓銀を潰した戦犯 4/4 ~北海道の衰退

天塩川木材工業の破産から1ヶ月もたたない97年12月24日、漁業資材製造の函館製網船具が函館地裁に自己破産を申請し、その日のうちに破産宣告を受けた。負債総額は138億円に上った。函館製網船具の業績不振は、米国と旧ソ連が200カイリ漁業専管水域を設定した77年にさかのぼる。いわゆる「200カイリ体制」によって、北洋漁業の減船が始まり、本業の漁業資材の売り上げが急激に落ち込んだのである
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解明・拓銀を潰した戦犯 3/4 ~国内初の都銀破綻

94年12月、拓銀に再び激震が走る。大蔵省から「決算承認銀行」の指定を言い渡されたのである。決算承認銀行は経営に問題があり、当局の強い管理が必要と判断される金融機関に対して同省が指定する。過去には住友銀行に吸収された旧平和相銀、地上げ業者への過剰融資が問題となった旧第一相互銀行などが指定を受けた。この事実は顧客や株主はもちろん、行内でも首脳ら10人前後以外は誰も知らない事実として長く伏せられた。95年、拓銀は住友銀行と供に都銀として戦後初の赤字に転落する。その夏、米国の大手格付機関ムーディーズは拓銀を最低のEランクとした。当局から、そして市場から、拓銀に対して次々に下された事実上の脳死判定。破綻へのカウントダウンが始まろうとしていた。
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解明・拓銀を潰した戦犯 2/4 ~拓銀を取り巻く怪人物

保身のための融資
92年早春、大阪の料亭の女将が日本興業銀行から2400億円もの巨額融資を引き出した東洋信金架空預金証書偽造事件、1支店の渉外課長が総額7000億円という資金を独断でバブル企業に流した富士銀行不正融資事件、そして住友銀行と密接だった大阪の中堅商社が暴力団関係者をも巻き込んで不明朗な地上げや絵画取引を行ったイトマン事件・・・。前年から金融機関を舞台とする大型犯罪が、バブルのウミのように相次いで噴出していた。そんなある日、拓銀本店内の一室で海道弘司常務と佐藤安彦副頭取が向き合った。海道が佐藤に打ち明けた。「実はすぐに数百億を融資しないとカブトデコムの経営は持ちません」。佐藤にとっては衝撃の告白だった。
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解明・拓銀を潰した戦犯 1/4 ~破綻への道

21世紀ビジョン
80年代、銀行経営は冬の時代だった。突如として金融自由化の波が押し寄せてきたからだ。戦後疲弊した国土と経済の復興を支えるため、国内には強力な行政指導の金融制度が敷かれた。これが次第に海外から痛烈な批判を浴びるようになる。世界経済の舞台で急激に台頭して来た日本に対し、「行政による強力な金融統制によって国際競争力を蓄えている。アンフェアだ」というのが海外の言い分だった。金融機関が自由に金利を決め、業務の垣根をなくし、欧米と同じルールでビジネスを行うという金融自由化の流れが、こうした外圧により日本国内で決定付けられたのが80年代半ばだった。
規制金利時代、銀行は預金と言う資金量さえ伸ばせば、自動的に儲かると言う仕組みだった。だが、この従来の経営手法は自由金利の下、手詰まりとなっていた。そんな中、プロジェクト融資や不動産融資で派手に稼ぐという方式が各行の間に急速に広まっていく。住友銀行がその先頭を切った。当時の磯田一郎頭取は、「向こう傷は問わない」と、高収益を上げるためなら多少の荒っぽさを容認した。激しい嵐のような時代の中で、拓銀は焦りを募らせていた。都銀の中では業容、収益力ともに最下位。収益競争の激化で、上位行との差は広がり、一方で地銀上位行に激しく追い上げられて一部有力地銀には逆転を許す始末だった。鈴木茂頭取は当時の行内の会合でハッパをかけた。だが景気の波はいつも北海道には遅れてたどり着く。一般消費者を巻き込んで株式ブーム、不動産ブームが道内で始まったのは、首都圏、関西圏よりワンテンポ遅れていた。ようやく拓銀が他行並みに不動産融資のアクセルを踏んだのは、「88年ごろ」とされる。完全な出遅れだった。だが、その分、闇雲に走り始めた。
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政治家の殺し方 3/3 ~改革を阻害する真の敵

次に公務員組織だが、私が市長になってから公務員の定数や各種手当てなどの削減を徹底して行った。交通局や水道局などの公営企業も含めた職員数となると、市長就任当時34,000人いた職員数が、退任時には27,000人と20%も減員した。法律上、公務員をクビにはできないし、推奨退職制度を設けても応じてくる者はほとんどいない。そうなれば毎年の採用を控えるしかない。第2,第4の土曜日には区役所開庁を実施するなど、むしろサービス向上を進めながら人員削減するように努めた。市民も窓口職員の応対が良くなったという実感はあるだろうが、その裏で人員を大幅に削減していることなどはほとんど知らなかった。

> はい、本当に役所のサービス良くなったという実感があります。
この前、役所に住民票入れたり、健康保険申請した時も、住民税を1円も納めてない私に対して、懇切丁寧にご対応いただきました。安易な役所叩き、公務員叩きは止めましょう。多数の職員の努力でサービスが保たれているわけですから。
失礼なことに、国語辞書にまで載っている。
お役所仕事:形式主義に流れ、不親切で非能率的な役所の仕事振りを非難していう語。
横浜では
お役所仕事:住民票が入っているという形式だけで、住民税を1円も払ってない民に対しても、採算を度外視して、極めて親切に手続きしてくれる献身的な仕事振りを賞賛していう語。
と改めなさい!


政治家の殺し方 2/3 ~風俗退治、その手法

建設・公務員はお金からんでますから、財政健全化、わかります。ワシらの業界、市から援助なしで細々とやらせてもらってます。法人じゃないんで、法人税払ってませんけど、袖の下いう形で警察関係の方には、お支払いさせてもらってますし、中田先生、わしらだけは勘弁してください!」
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政治家の殺し方 1/3 ~偉大な市長と作られたスキャンダル

横浜市民の生活に影響を及ぼすほどの市政=黄金町界隈のヘルス・立ちんぼ・ちょんの間などの多業種が複合して存在する日本では珍しい総合・性風俗街を警察24時間体制で廃止した敏腕政治家 元横浜市長・中田氏の本。文字で書くと簡単だが、あの街並みの前後を知っている人は、中田氏の偉業、命懸けの政治とはを理解するに易しい例であろう。中田氏の政治手腕は、横浜市の実績から私は認めているが、その中田氏が大阪市政にまで首を突っ込んでいると聞いているので、私としては、聖地・飛田新地の行く末を憂いている毎日である。


ハプスブルク家の悲劇 8/8 ~神童とハプスブルク家

7.モーツァルト変死事件
あまりにも名高い「レクイエム伝説」は、ある日灰色の服を着た男が彼を訪ねてきて、名前も告げずに「レクイエム」の作曲を依頼し、5ドゥカーテンの予約金を置いて帰ったことから始まる。そしてモーツァルトの人生はこの時から一変してしまう。それまで宮廷音楽家として活躍していたモーツァルトがまるでとりつかれたように、昼も夜もこの「レクイエム」の作曲に没頭するようになってしまったのだ。音楽的にも「レクイエム」は、彼の有数の傑作であるだけでなく、一種独特な存在である。それまで天使のような軽やかな魅力をたたえていたモーツァルトの音楽が、ここではまるで人が変わったようにゾッとするような凄みのある美を描き出しているのだ。そしてその7年、”灰色の服の男”が姿を現してから、モーツァルトの健康状態は悪化する一方だった。手足は異常にむくみ、原因不明の嘔吐に苦しめられ、死の直前の11月下旬にはもう、ベッドから起き上がることもできなくなった。それでもモーツァルトは何かにとりつかれたように、ひたすら「レクイエム」の完成を急いでいた。
シェーンブルン宮の「鏡の間」で、神童と呼ばれた幼いモーツァルトが、マリア・テレジア女帝の前でピアノを演奏したことはあまりにも有名である。1762年、6歳になったモーツァルトは、家族と共にウィーンに赴き、その楽才を認められて、ついにシェーンブルン宮に伺候することを許される。そのとき少年は、なんとマリア・テレジア女帝の膝の上に飛び乗り、首に抱きついてなれなれしくキスをしたというのだ。信じられないような話だが、作り話ではない。父親のレオポルトも手紙の中で、「とても信じてもらえないだろうが、」とことわって、わざわざこの出来事を書いている。まさに無邪気で恐れを知らぬモーツァルトそのものではないか。


ハプスブルク家の悲劇 7/8 ~失われた軍事バランス

6.サラエボ事件
1914年6月28日、ところは“ヨーロッパの火薬庫”といわれたバルカン半島ボスニアの首都サラエボ。オーストリア=ハンガリー帝国皇帝の甥、フランツ・フェルディナント皇太子とその妃ゾフィーがセルビアの一青年の手で殺されたのである。当然ながらオーストリア政府はセルビア政府に対して強い態度をとった。7月22日の最後通牒は反オーストリア宣伝の禁止声明、反ハプスブルク的新聞の発禁、「民族防衛」の解散、事件関与の疑いのある教師・将校・官吏の解職・解任・逮捕などを要求し、25日までに回答するように迫った。結局オーストリア政府はセルビア側の回答を不満として7月28日にセルビアに宣戦布告することになる。このサラエボ事件によって三国協商(英・仏・露)と三国同盟(独・伊・墺)の対立に火がついた。各国は次々に総動員令を発令し、8月1日のドイツの対ロシア宣戦布告でついに第1次世界大戦が開始することになる。


ハプスブルク家の悲劇 6/8 ~フランツ・ヨーゼフの対抗勢力だった帝位継承者

4.ヨハン大公失踪事件
ヨハン・サルバドール大公は、従兄弟のオーストリア皇太子ルドルフと手を結び、フランツ・ヨーゼフ1世を退位させるクーデターを計画した。が、ルドルフが心中死を遂げたことで計画が頓挫するときっぱり大公の地位を捨てて、あてもない航海に飛び出してしまったのである。いかに権威あるロイズ保険が彼の死を確認したといっても、大公自身の遺体が発見されない限り、世間はそう簡単に大公の死を認めようとしなかった。かくてヨハン大公を惜しむ人々の間で無数の生存伝説が生まれた。世界のあちこちにヨハン・オルトが現れる。そして伝説によれば、日露戦争前夜に我が日本にも出没しているというのだ。トスカナ公でありオーストリア大公であるヨハン・サルバドールは、1852年、シチリア公国のマルグリット公女とレオポルト2世の息子として生まれた。父がトスカナ王位を退位した後、オーストリアの宮廷で育てられた彼は、知的で才能豊かな青年に成長していった。


ハプスブルク家の悲劇 5/8 ~ルドルフの血統、インブリード

マイヤリンク事件はたちまち、世界中の注目を集める大スキャンダルとなった。自殺説も千差万別で、前途に希望を失った二人が自殺で禁じられた恋の清算を図ったのだというものから、マリーの妊娠を知ったルドルフが別れ話を持ち出したが、それがこじれてやむなく無理心中を選んだというものや、モルヒネを常用していた皇太子が幻覚症状に襲われ、つい拳銃の引き金を引いてしまったとする事故説まである。情死説を採用する中で最も有名な著書はクロード・アネの「うたかたの恋」だが、史実と異なる点も多く、著しくロマンチックな脚色がほどこされている。
ルドルフは当時の最強国であるドイツと宰相ビスマルクに根強い不信を抱いていた。オーストリア=ハンガリー帝国はドイツと同盟を結んでいたが、それはあくまで政治的な必要に迫られていたからである。しかし、父皇帝と違ってルドルフは、いずれはドイツから離れて、フランスやロシアとの同盟に切り換えたいという考えを持っていた。彼はビスマルクがいずれはオーストリアを併合しようとたくらんでいることを見抜いていたのだ。1878年、ルドルフがベルリンを訪れた時、ビスマルクは彼に、万一オーストリアがロシアと戦った場合、必ずドイツはオーストリアに味方するだろうと言明した。そして翌年、ドイツとオーストリアの間に秘密同盟条約が交わされた。だが1887年、ロシアがフランスに近づくのを恐れたビスマルクは、ロシアと二重保障条約を結んだ。締結当事者が他の国と戦いになったとき、もう一方の国は中立を守ることを約束するものだったが実はその他に秘密条項があった。それはロシアがトルコの属国であるブルガリアに進出したり、トルコの領海であるポスホラス海峡やダーダヌルス海峡に進出する政策にドイツが支援を与えるというもの、そしてオーストリアがロシアを攻撃した場合、ドイツは中立を守るという条項だった。これは明らかにオーストリアに対する裏切りである。
自殺説の一つとして、ルドルフが当時、遺伝と育った環境から来る、重い躁鬱病とモルヒネ中毒にかかっていたとする説がある。遺伝説としては、ルドルフがハプスブルク家とヴィテルスバッハ家の従兄妹同士の近親結婚から生まれていることである。ハプスブルク家とヴィテルスバッハ家の間は、何世紀にもわたって近親結婚が行われ、ルドルフの両親の結婚は両家間の22回目の結婚だった。さらにヴィテルスバッハ家は代々、その家系から変人や狂人が何人も生まれているのである。環境説としては、ルドルフの両親の夫婦関係が円満でなかったことである。ルドルフの母エリザベート皇后は姑であるゾフィー大公妃との嫁姑争いに疲れて家庭をかえりみず、生活の大半を国から国への長期旅行に費やしていた。父皇帝はそんな母の欠如を補うどころか、政務に忙殺され息子と共に過ごす時間はなかった。父とは公的行事やパレードや狩猟の時に会うだけだった。狩猟の結果が報告された時だけ、皇帝はルドルフに関心を示した。まだ9歳足らずのとき、ルドルフが初めて鹿を射止めると皇帝からイシュルに電報が送られてきた。「シュク!シュリョウ。シカヲイトメテオメデトウ。タイヘンウレシイ。」 狩猟で何を射止めたかが、これ以来父子の主な話題となった。

父としての愛を感じるけどな・・・この電報。それでも家庭不和と言われちゃうんですね。ハープスブルク家の長として、ヨーロッパ一国一妻構想(ECAW?イーカウと発音するのか?)に翻弄していた皇帝フランツ・ヨーゼフが、皇太子である愛する我が息子に限られた時間の中で送った、短いが父の愛にあふれた電報に思えてならない。
さて人間インブリード、ハプスブルグ家とヴィテルスバッハ家の交配を血統表にしてみました
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おぅ!なんと父系表示で表現するならば、マクシミリアン1世の3×3とカール・ルートヴィヒ・フォン・バーデンの4×4のクロスです。さらに言うなら母母母母のアマーリエ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットの父である 母母母母父 ルートヴィヒ9世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)の5×5も入ってます。しかし、こんなまどろこしい書き方をしなくても、父母両系表示なら、3×3が2本も入っている12.5%同一血量×2本なので、25%がクロスしているので、うーむ・・・ちょっとこれは危険な配合ですね・・・。5代目まで調べたので、これ以外には、4×4以上に濃いインブリードは入ってなさそうですが、それ未満のインブリードももっと調べれば入っていることでしょう。


ハプスブルク家の悲劇 4/8 ~正妻ステファニーvs愛人マリー

3.マイヤリンク事件
フランツ・ヨーゼフとエリザベートとの間に1858年8月21日のルドルフ皇太子の誕生はオーストリアじゅうから盛大な歓迎を受けた。ルドルフは、教師が自分につける点数に一喜一憂したが、年に似合わぬ早熟な少年であった。ある日養育係のラトゥール伯爵が、成績が悪かった罰に狩りに行くのを禁じるとルドルフは言った。「褒美が欲しいから一生懸命勉強しているのではない。私の義務だからやっているのだ。」 これが9歳の子供の答えである。虚弱な体質ではあったが、ルドルフはぎっしり詰まった時間割を懸命にこなした。古文書学者ギンドレー、歴史家キリエク、地理学者グルーエン、美術の専門家アムブロス博士らはみな、彼の記憶力のよさとと学習意欲に驚いた。教師に対して、「何もかも教えてください。全部知りたいのです。」というのがルドルフの口癖だった。

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ハプスブルク家の悲劇 3/8 ~ルートヴィヒとワーグナーの同性愛

2.ルートヴィヒ2世変死事件
いまやドイツの観光ルートの定番になってしまった感のある、南バイエルン地方のノイシュバンシュタイン城。森の中の白亜の美しい城は楽聖ワーグナーを愛したバイエルン王、ルートヴィヒ2世の名と固く結びついている。ここを訪れる観光客は年間200万人を越えるといわれるが、そのなかでも日本人がダントツに多いことは言うまでもない。このルートヴィヒ2世が城の建築に夢中になったために、国庫の赤字を招き、あげくは退位にまで追い込まれ、スタルンベルク湖で悲劇的な死を遂げたことはあまりにも有名である。
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無数の王侯たちがひしめく19世紀ヨーロッパで、特にきわだった美貌で知られていたのはなんといってもこのルートヴィヒ2世だろう。彼が19歳でバイエルン王に即位した時、その輝くような美貌はまさに地上に降り立った神のように讃えられた。すんだ瞳は哀しいまでに青く、目鼻立ちは女のように整っていて、彼の乗った馬車が通ると女たちはおもわずうっとりと見とれたという。“童貞王”と呼ばれたルートヴィヒ2世はあだ名の通り、40年余りの生涯を独り身で通した。その間、俳優、貴族、馬丁などの若く美しい同性たちが、もっぱら彼の禁じられた恋の対象となったのである。
> 女性読者、なんだ・・・いくら美男と言えどもホモか!と怒らないように。
奔放な恋愛生活とは別に、ルートヴィヒ2世には生涯忘れることができない崇高なプラトニック・ラブの対象があった。その一人が従姉のオーストリア皇后エリザベート、そしてもう一人がかの天才オペラ作曲家、リヒャルト・ワーグナーである。若くして王につくやいなや、秘書官に八方手を尽くしてワーグナーの行方を捜させた。ワーグナーは当時、51歳。30代でザクセン王室の宮廷指揮者に任ぜられ、自作「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」上演も成功したが、1849年にドレスデンの5月革命蜂起に関与し、追われる身となって国外に逃亡した。その後はザクセン官憲の逮捕状と借金取りに追われ、ヨーロッパ各地を転々とした挙句、当地の安宿にひっそりと身を隠していたワーグナーにとって、ルートヴィヒ2世の申し出はまさに奇跡の訪れであった。ルートヴィヒ2世はワーグナーに居城近くの邸を与え、それまでの借金を完済させると共に多額の年金を支給した。かくて君主と楽聖の、奇妙な友情が始まったのである。ルートヴィヒが「わが師、わが友、わが光」と呼べば、ワーグナーも「あまりに美しくて、夢のように消えてしまわぬかと心配だ。彼こそ私の幸運の全て。彼がもし死ねば、私も次の瞬間に死ぬ」と書き記している。

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贅沢よのぅ。ルートヴィヒに召還されたのが1864年、62年からとりかかっていたマイスタージンガーの完成が1867年、初演が1868年。ワーグナーの最高傑作とも言えよう、名曲マイスタージンガーが、ルートヴィヒの目の前で作曲されていたとは! 民の下賎な無駄遣いとは異なる高貴なる贅沢。ルートヴィヒが、オーケストラとスコアとワーグナーを目の前に、「そこの演奏・・・、もう少し速度を落としたらどうなるかね?」 などと注文をつけていたに違いない。インターネット時代にクリック一つで安易な音楽鑑賞に浸っている下賎の民である私は、「ルートヴィヒとワーグナーは本当にプラトニックな関係なのだろうか? ワーグナーあの顔でまさか?」などと卑猥な勘ぐりをしてしまうのであった・・・。


ハプスブルク家の悲劇 2/8 ~エリザベートvsゾフィーの嫁姑問題

1.エリザベート暗殺事件
1848年の3月革命で義兄である前皇帝フェルディナント1世が、子の無いまま退位を迫られた後、王位を継いだのはゾフィーの頼りない夫フランツ・カールではなく、理知と生気にあふれた18歳になるゾフィーの長男、フランツ・ヨーゼフだった。我が子の即位と共に、ゾフィーは皇帝の母后として宮廷の絶対権力者にのし上がった。実家のヴィテルスバッハ家の姪ヘレーネを妃に迎えるつもりでヘレーネの母である実妹ルドヴィカと話をつけていたのである。ところが当日になってフランツが当のヘレーネではなくて、彼女と一緒に来ていた16歳の妹、エリザベートのほうに引きつられていることに気付いた。二人ともそろって美人だが、その個性は正反対なまでに違っていた。しとやかでお行儀の良いヘレーネに比べて、お転婆で自由奔放でいつもいたずらっぽく笑いさざめいているエリザベート・・・。
そもそもヴィテルスバッハ家には変人が多かった。エリザベートの兄ルートヴィヒ(ルートヴィヒ2世とは別人)は、王家の一員としての権利を放棄して身分違いの恋に走った。次兄カール・テオドーアは兄の代わりに王位を継いだが、政治には関与せず、医学に専念して眼科医になった。エリザベート自身もそうした自由奔放な家風を受けついでいた。常識化のゾフィーには、それが理解できなかったのだろう。意外な成り行きにゾフィーは驚き、姪でありながらエリザベートに対して激しい憎悪を抱いた。すでに50歳に手が届こうとしていた彼女は、とっくに失った若さと美貌ではとてもかなわない姪に、年甲斐も無く嫉妬すら感じたのかも知れない。お転婆なエリザベートが、厳格なハプスブルク家の家風に合うはずは無いとゾフィーは反対したが、あくまで母に逆らって頑張り続ける息子に、とうとう根負けしてしまったのである。

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世界中に、時代超えて存在する、嫁姑問題フラグが立ちましたよ・・・


ハプスブルク家の悲劇 1/8 ~革命はいつの世も魅力的

オーストリアの観光名所と言えば、ハプスブルク家の記念碑とも呼ばれるシェーンブルン宮殿であろう。ウィーンの森のはずれにある緑豊かな広人とした敷地に、伸びやかに広ある宮殿である。シェーンブルンとはそもそも「美しい森」という意味。初めてここに狩りのために館を建てさせたのは、マリア・テレジアの祖父レオポルト一世だが、テレジアがここに瀟洒な宮殿を建設して初めて、シェーンブルン宮殿はのちの名声にふさわしい王宮に生まれ変わったのである。バロックの巨匠ファン・エアラッはの設計になる宮殿は外観は“マリア・テレジア・イエロー”と呼ばれるクリーム色、内装はロココ調で、金箔をふんだんに使った漆喰装飾とボヘミアン・グラスのシャンデリア、陶器製の暖炉などは豪華そのものだ。
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ハプスブルグ家の歴史が今日、人々の注目を集めているのは、決して単なるノスタルジーではあるまい。なんといっても天才作曲家モーツァルトをはじめ、ベートーベンやシューベルトやヨハン・シュトラウスなどがここで活躍した。世紀末になるとマーラーやブルックナー、画家ではクリムトやエゴン・シーレ、作家ではマゾッホやカフカなど・・・。オーストリア=ハンガリー帝国の栄光が、今も人々の血を騒がせるのは、これら天才たちの希有の才能を開花させた、ウィーンという都の持つ、妖しいまでの魅力ではないだろうか?

ブルックナーか・・・僕のお好みは Bruckner No.7 ですが、いかがですか?
それから・・・楽曲としては・・・、あまり好きではないのだがタイトルだけ 「ウィーンはいつもウィーン」 これ良い日本語訳。とても素敵なタイトルだと思います。


同和と銀行 6/6 ~行政と銀行に踊らされただけ

西梅田地域にそびえたつゲートタワービルはいまや大阪名物になっている。ゲートタワービルの建設計画は、道路や鉄道など公共交通機関の敷設計画では行政の思惑が絡んでくる。というより、国土交通省や地方自治体がそれなりの役割を果たさなければ実現できない。それゆえ、行政と一体となってきた小西のような存在が重宝されてきたともいえる。ゲートタワービルにおける高速道路のルートと同様、もちろん阪急の延伸プロジェクトには大阪市も噛んでいました。土地再開発に行政が関係しなければ、計画に信用力がなくなり、うまくいかないからです。当時、このあたりの地価相場は1坪当たり300万円程度でした。それを大阪市がいったん800万円で買い取る、という形で土地を取りまとめていこうとしたのです。その実際の地上げを五社興産が担う。そういう仕組みです。形の上で行政が噛んでいると、再開発事業という大義名分も立つ。なおかつ小西さんのようなとりまとめ役が後ろ控えていれば、妙なところからクレームも付かない。そして私たち三和銀行はと言えば、阪急とゼネコン、五社興産との間の調整役です。そうしてプロジェクトが進められていきました。


同和と銀行 5/6 ~北浜の女相場師、バブルの女帝

興銀を手玉に取った尾上縫
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「北浜の大物相場師」「謎の料亭女将」「バブルの女帝」。あぶくのような好景気の中で暗躍した怪人物は数多いが、女性はそうはいない。なかでも尾上は、稀有な存在だった。大阪みなみの千日前で料亭「恵川」を経営する傍ら、一日に数百億円の株式投資を繰り返してきた女相場師である。逮捕後、彼女は一躍時の人になった。尾上の奇怪な行動は、今も語り草になっている。彼女は「恵川」の隣にもう1つ「大黒や」という料理屋を経営していた。「大黒や」の中庭には、不動明王や弘法大師の石像、灯籠などがところ狭しと並んでいた。特に珍しいのは、その中央で睨みを利かせていた大きなガマガエルの石像である。彼女は毎日、このガマガエルを拝み、株の相場を張った。やがて尾上は、優良銘柄を事前に的中させる女祈祷師と、北浜の証券マンの間で評判になる。しかも1度に20億円、30億円と投資をする。大物相場師の相場に乗り遅れまいと、証券マンたちが「大黒や」へ日参し、彼女とともにガマガエルを拝んだ。


同和と銀行 4/6 ~バブルと地上げ

三和銀行 プロジェクト開発室
行内でプロ開と呼ばれ、不動産開発から政界工作にいたるまでこなす。渡辺頭取の直轄部隊でした。プロ開発長の清水美博はバブル期、夕刊紙にミスター三和と紹介された銀行界の有名人でした。バブル当時、プロジェクト開発室の取引先として有名になった企業が、ナショナルリースである。ナショナルリースは松下電器産業が設立した100%子会社のノンバンクだった。松下グループとの取引については当時、住友銀行の牙城であり、なかなか三和が食い込めなかったという。「ただし松下グループには金融ノウハウがない。設立されたばかりのナショナルリースは、住友を切り崩す狙い目でした。リース会社は、ノンバンクなので、預金者がなく資金集めが難しい。そこで三和がナショナルリースの資金元となった。そうしておいて、プロ開で融資先を紹介していったのです。おかげで、設立されたばかりのナショナルリースに短期間で融資を延ばせた。あっという間に融資残高が800億円に達し、評判になりました。」
清水が率いたプロジェクト開発室は、三和銀行にとってリスクの伴いがちな新規事業に切り込む部隊となる。銀行の別働隊だ。この清水が、小西邦彦の経営するキタ新地のサウナをテナントビルにしようと目をつけたのである。「プロ開にはプロ開の目論見がありました。こうした不可解な不動産開発の際、一枚噛ませていたのが、ライトプランニングという地上げ業者です。サウナあすかの時も同じ。ライト社が仲介業者として登場し、そこに利益を落とす仕組みです。そうしてライトプランニングは、三和銀行の中でも得体の知れない取引先として知られていきました。まさにブラックボックスの会社です。」


同和と銀行 3/6 ~大阪国税局との密約

態度を急変させたマルサ
私が支店で小西さんの担当になったとき、最初に驚いたのは、小西さんの預金利息でした。普通、預金利息には税金が課せられ、それを差し引いた分が預金者の実入りになりますが、小西さんの利息には税金がかかっていないのです。こんなことが、あり得るのか、と驚きました。当時流行していたマル優などの話ではありません。定期預金が年利5%の時代でした。利息には本来15%の分離課税をかけなければならない。ですが、小西さんの口座は、課税されないような特別な事務処理がなされていたのです。利子コードを付け替えることによって非課税と同じ扱いにする。前任の課長によると、これは税務署も黙認しているというのです。しかし、こんな処理を続けていたらお縄になる。それで怖くなった覚えがあります。」


同和と銀行 2/6 ~同特法と開発利権

2006年10月に開かれた初公判、捜査当局は駐車場経営に対し、市民運動家という肩書きを利用した利権漁りだとみた。もっとも小西本人の意識はそうでなかったようだ。「昭和47年ごろ、その駐車場ができるとこは空き地で、テキ屋の屋台が終結してた。ゴミ捨て場にもなっとった。周辺の住民が地元の市会議員に陳情したわけ。議員から聞いた市役所の担当者が『小西さんはテキ屋をよく知っていると聞いてます。なんとかいうてほしい』と頼みに来た。それがきっかけや。」 本人よれば、もともと駐車場にかかわったのは、大阪市の担当者に頼まれたからだという。小西はテキ屋の元締めに1000万円を渡して立ち退かせた。空き地をどう使うかについて市から相談を持ち込まれた小西が、駐車場の計画を提案したらしい。インタビューでは、この先再びテキ屋が店を出さないようにするためにどうすればいいか、小西が市の担当者から相談を持ちかけられたとして、こう話している。「よしわかったと。そっから駐車場の話になった。ワシの案や。ワシの名前で土地を貸せと言うた。掃除(屋台の撤去)したのはワシや。ゼニもかかっているし、テキ屋に義理も噛んでる。そしたら市は、小西個人に土地は貸せないんやと。そしたら公益法人がある。それでいきまひょとなった。結局、それが命取りになった。駐車場経営は、いわばテキ屋を排除し、行政と同和団体幹部が歩調を合わせてやってきた事業というのである。


同和と銀行 1/6 ~元暴力団の解放同盟支部長

飛鳥会 元理事長側、1億円弁済 2010年6月1日付 産経新聞。全国版ではない関西版のベタ記事だ。
財団法人「飛島会」(大阪市東淀川区)をめぐる横領事件に絡み、三菱東京UFJ銀行と関連会社「三菱UFJファクター」が小西元理事長が運営していた社会福祉法人「ともしび福祉会」に、未回収の融資金約80億円の返済を求めていた訴訟は5月31日、小西元理事長の預金約1億円を弁済することなどを条件に大阪地裁で和解した。


エアバスの真実 ボーイングを越えたハイテク操縦 2/2 ~航空機開発

大手のエアラインで、エアバスを使っていないのはJAL(日航)とBA(ブリティッシュ・エアウェイズ)だけである」(その後、1998年、BAはエアバス機を大量発注した。日本とヨーロッパの間の深い断絶を意識した。我々は、ことに飛行機に関してはアメリカのほうばかり見ている。日航はなぜエアバスを買わないのであろうか。軍事に関しては日米安保条約がある。しかし民間機についてまで、日本はなぜアメリカのほうばかり見ているのであろうか。
グラマンのF14の父から「日本はなぜアメリカの戦闘機を買うのだ?戦闘機は仮想敵国を考えて最適に設計するもので、A国の戦闘機がB国の戦闘機になることはあり得ない、というわけである。「我々は地理的条件を考え、さらにソ連のクォーターバックがどういうボールを投げるか良く考えた上で戦闘機を作っている。その戦闘機が日本の戦闘機に適するわけが無い。日本と条件が近いのはイスラエルである。日本は外国から買うならイスラエルの戦闘機を買うべきだ。少なくともそれをよく研究すべきだ


エアバスの真実 ボーイングを越えたハイテク操縦 1/2 ~オートパイロット

ボタンとノブで操縦
まず旅客機がどう操縦されているか、説明したい。結論を先に書けば、それは「自動操縦の設定点を動かして飛ぶ」のである。例えば飛行すべき速度や経路を自動操縦装置に入力して飛ぶのである。設定点の動かし方の一つは、CWS(コントロール・ホイール・ステアリング)である。これは手動操縦に近い感覚で設定点を動かすものである。現代の飛行では、多くの場合パイロットは、もっと単純な方法を使う。それは設定点を「ボタンとノブの操作」で動かすものである


日本一の田舎はどこだ

アンケートを読みすすむうちに、田舎というのは山や川やタヌキやキツネが醸し出すものではなく、そこに住んでいる人間が作り出しているものだということがわかってきました。派手な結婚式、不気味な葬式、集まる親戚、乗り込んでくる近所のネーさん、他人の噂話。その他、札束が乱れ飛ぶ選挙とか、妙な食べ物、本屋が無いとか色々ありましたので章ごとにまとめてあります。
この本で最も同意できる部分でかつ、いきなり結論なんだが、私の考えでは、田舎というのは日本の民族性と同義である。田舎という概念に地域性はあまり関係が無い。この本のタイトルは「田舎はどこだ?」ということで、地域を特定したいのであるが、本に出てくる様々な事例を見ても、それは地域性の問題じゃなくて、日本人の民族性だろ? と思うことが多い。例えば、東京であっても、両親含めて代々東京に住んでいるなんて人が、そもそも稀である。田舎的な思考・言動の根源は「合理性のない慣習」と「画一的な価値観」の2つである。田舎特有の連帯意識や相互扶助も、地域・人口密度に依存する強弱はあるものの、この2つから導き出される。
(男女の)プレゼント交換、旅行後のお土産、お中元・お歳暮、こういった慣習を田舎臭いという人はほとんど居ないだろう。しかし、こういった、「やってやられて」の相互扶助的慣習が田舎特有の大げさな冠婚葬祭につながる。私のような変人から見ると、これらの物々交換は不合理そのもの、プレゼントでもお土産でも、もし仮に必要なものがあるのなら、私は既に手に入れている。手に入れていないもの=買いたくないもの=価値を認めていないものをもらって嬉しいか? 旅行の土産にしても、昔ならわかるが今の時代、日本で手に入らないような食べ物は、売り物にならないような変わった味であることは確定的だ。あるいは、どこでも手に入る土産として意味が感じられないものであるかのどちらかであろう。タダならもらうけど、お返し要求されるコミュニティには所属したくない。


国際金融

1.国際通貨とはなにか
財・サービスの国際貿易や資産の国際取引に際して、価格の表示・決済に用いられる通貨、あるいは民間の経済主体と各国通貨当局によって国際流動準備として保有される通貨が国際通貨です。国内通貨の場合には、現金通貨は法律によって受領性を与えられていますから、法貨に関する限り通貨とはなにかは明白に決まっています。しかし国際通貨の定義は、具体的に金(きん)、米ドル、英ポンド、国際通貨基金(IMF)引出権などのうち、どれが国際通貨であるかを定めるのは必ずしも容易ではありません。IMFといえども一国の通貨当局のように強制力を持つわけではなく、また国際通貨の管理に権力と責任を持つ機関も存在しないからです。


ダークサイド・オブ小泉純一郎 異形の宰相の蹉跌

大先生と呼ばれる老人
かくしゃくとした物腰と白髪を後ろに流した髪型は80歳とは思えぬ若さであった。自らは勝手口に回り、改めて玄関の鍵を開け、居間に導いてくれた。窓からは野比の町が一望でき、壁には小泉純一郎のポスターや昭和天皇の御真影、それに95年に受賞した勲三等瑞宝章が飾られていた。この老人は竹内清という。1959年から横須賀市議を四期勤めた後、75年に県議会に進出。5選を果たし、88年には県議会議長も歴任した神奈川を代表する政治家である。95年に現役を退いたが、息子の英明が後を引き継ぎ県議を勤めている。
「竹内さんは横須賀政財界の顔役といわれる人物で、土木工事や建築関係者、飲食店関係者に圧倒的に強い。この表に関しては誰も割って入ることができない不可侵な票だ。旧神奈川2区の時代から竹内さんが握る票を、国政を狙う候補者は欲しがっていた。この竹内さんの票を手にしたことによって衆議院議員・小泉純一郎が誕生したといっていい」 竹内が小泉の選挙対策本部長に就任したのは1972年、小泉の二度目の選挙からである。後に詳しく述べるが若き日の小泉はその若さゆえに暴走を繰り返し、初めての選挙では惨敗を喫している。休止した父の弔い合戦にもかかわらず、落選の憂き目にあったのだ。
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小泉が育った三春町周辺は興味惹かれる街だ。横須賀は、京浜急行横須賀中央駅すぐ近くの平坂を境にして上町と下町とに別れる。上町は所得の高い層が暮らし、下町は庶民の街。三春町は下町からさらに離れ、すぐ近くにはかつて赤線であった安浦町もあるほどでおよそ二代にわたる大臣一家が暮らす街としてふさわしくはない。この安浦町は、いにしえから遊郭で知られた街で、大正末期にはすでに80数軒の店が建ち並び、戦後の最盛期には150の店が軒を連ねたと言われている。
父・純也の影響が感じられるものとしては、有事法制もある。


差別と日本人

アメラジアンとは、米軍基地に居る米兵と沖縄の女性の間に生まれた子たちのことだが、この子供たちは教育を受ける権利を保障されていない。何とかしてほしいと、浜四津敏子議員からお願いされ、予算が付くように動いたこともある。
部落差別とは、「部落」というレッテルを貼り、差別することである。差別とは、富を一人占めしたい者が他者を排除するために使う手段である。そして、この差別はする側になんとも言えない優越感を与える享楽でもある。
文章が不明確だと思わないか?
差別とは、被差別者が富を一人占めし、差別者を排除するために使う手段である。
野中さんが生まれたころ、部落差別は日常の生活に深くしみついていた。例えば、教科書の副読本(文部省検定済)の中に、「人を害して面白しと思ふは禽獣(鳥やけだもの)のしわざにて、人間にてはなく、日本にて罪人を切りし候は穢多こそ致し候へ・・・」と書かれ、四本指(人間以下の四足の獣の意)をかかげる身体表現を使って貶めたりした。地図には平然と穢多山、穢多ガ峠と差別的地名が記された。また死んでも一般人と同じ墓地には埋葬されず、戒名も与えられず、与えられても「ト(下のまた下の意)」「畜男」「畜女」などと記されることがあった。


日本国憲法

憲法の分類 成典憲法と不成典憲法
成文憲法とは、とくに憲法典として一定の形式をもった憲法規範をいい、通常は一個の法典であるが、増補などを加えて数個の法典からなることもある。今日ではイギリスの場合を例外として、ほとんどの国が成典憲法をもっている。時として「イギリスに憲法無し」といわれるのは、このような成典憲法をもたないという意味である。不成典憲法とは憲法典として特別の形式を持たず、成典憲法がその性質上、実質的意味の憲法の全てを包含せず、その一部についてのみ存しうるのに反して、不成典憲法は、実質的意味の憲法の全部に及び、不文法のほか、特別の憲法典とされない憲法規範のすべてを包括する
硬性憲法と軟性憲法 硬性憲法とは、成典憲法の改正の場合に、普通の法律に比べて、とくに慎重な改正手続きを必要とするものをいい、軟性憲法とは、普通の法律と同じような手続きで改正することができる憲法を言う。
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天皇が「日本国の象徴」であるとは、対外的に国家としての日本の存在と性格を天皇という存在を媒介して表示することを意味する。憲法上の特別な扱いとしては、天皇の地位が世襲であること(憲法二条)、