大先生と呼ばれる老人
かくしゃくとした物腰と白髪を後ろに流した髪型は80歳とは思えぬ若さであった。自らは勝手口に回り、改めて玄関の鍵を開け、居間に導いてくれた。窓からは野比の町が一望でき、壁には小泉純一郎のポスターや昭和天皇の御真影、それに95年に受賞した勲三等瑞宝章が飾られていた。この老人は竹内清という。1959年から横須賀市議を四期勤めた後、75年に県議会に進出。5選を果たし、88年には県議会議長も歴任した神奈川を代表する政治家である。95年に現役を退いたが、息子の英明が後を引き継ぎ県議を勤めている。
「竹内さんは横須賀政財界の顔役といわれる人物で、土木工事や建築関係者、飲食店関係者に圧倒的に強い。この表に関しては誰も割って入ることができない不可侵な票だ。旧神奈川2区の時代から竹内さんが握る票を、国政を狙う候補者は欲しがっていた。この竹内さんの票を手にしたことによって衆議院議員・小泉純一郎が誕生したといっていい」 竹内が小泉の選挙対策本部長に就任したのは1972年、小泉の二度目の選挙からである。後に詳しく述べるが若き日の小泉はその若さゆえに暴走を繰り返し、初めての選挙では惨敗を喫している。休止した父の弔い合戦にもかかわらず、落選の憂き目にあったのだ。
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小泉が育った三春町周辺は興味惹かれる街だ。横須賀は、京浜急行横須賀中央駅すぐ近くの平坂を境にして上町と下町とに別れる。上町は所得の高い層が暮らし、下町は庶民の街。三春町は下町からさらに離れ、すぐ近くにはかつて赤線であった安浦町もあるほどでおよそ二代にわたる大臣一家が暮らす街としてふさわしくはない。この安浦町は、いにしえから遊郭で知られた街で、大正末期にはすでに80数軒の店が建ち並び、戦後の最盛期には150の店が軒を連ねたと言われている。
父・純也の影響が感じられるものとしては、有事法制もある。


その昔、純也が政治家としての岐路に立たされた事件があった。1965年2月、社会党の岡田晴夫が衆院予算委員会の席上で暴露した防衛庁の「三矢研究」問題だ。このとき小泉純也防衛庁長官は国会の内外で責任追及の標的となった。三矢研究とは、自衛隊制服組が第二次朝鮮戦争勃発の想定のもと行っていた国家統制を与件とする図上演習のことだ。その骨子は北朝鮮軍と中共軍が38度線を越えて韓国に侵入しソウルを攻撃、米軍は韓国支援を発令し、自衛隊に出動命令が下り、国会は戦時立法を発布し、政治、経済、報道など広範囲にわたる国家的な規制や統制で備える、という有事を想定した研究であった。時の首相・佐藤栄作でさえ、あまりの生々しさに「ゆゆしきこと」と驚いたこの一件は、自社対決の時代でもあり、「国会を無視し、国策が練られている」と、シビリアン・コントロールの原理を危うくする事件として猛烈な追及をあび、国会の審議は止まった。矛先を突きつけられた防衛庁のトップであった純也は、「不穏当の点もあるので今後十分注意をしたい」と陳謝せざるを得なかった。
機関誌「泉」は、小泉の資金管理団体「東泉会」が発行元になり、首相になるまで40冊近く発行されていたものだ。さすがに選挙に時期になれば当選報告など多少手の込んだ誌面構成をしていたが、大概の号は、他媒体で小泉が受けたインタビューの転載したものや、新聞記事を切り貼りしているような簡単な誌面構成であった。おそらくその真の目的は広告収入を当てにしたものと推察される。小泉の1990~2000年の収支報告書によると1400~2400万円まで11年間の合計で2億45万円の広告収入が計上されている。ちなみにこの機関誌への広告料は、通常の企業献金と異なり、終始報告書に企業名を書く必要も額の上限もない。そのために広告料の名目にかこつけ、企業から献金を受け取る抜け道なのではないか、と問題になっていた。実際「泉」は、地元の建設会社を中心とした20数社の企業広告で埋まっている。とりわけ目を引くのは、後ろ表紙に毎号入っている西武グループの「横須賀プリンスホテル」の広告で西武グループと小泉の蜜月ぶりがうかがえた
小泉の妻となる宮本佳代子は、エスエス製薬創立者の泰道照山の孫娘で、幼稚舎から青山学院に通うというお嬢様。1977年8月、佳代子がまだ21歳の学生のとき、赤坂のレストランで小泉と見合いをした。このとき小泉は、最初のデートをしたその夜に、いきなり佳代子の母のもとへ結婚の挨拶に行っている。当時の佳代子はまだ21歳。一方の小泉は36歳。常識の範囲で言えば、やはり36歳の大人のとるべき行動ではなかろう。小泉は結婚観も「変人」なのだろうか。しかしその結婚に待ったがかかった。父親的な存在であった泰道照山が反対をしたのだ。財界人として政治家を遠ざけていたわけではない。照山が反対した理由の一つは、結成したばかりの新自由クラブに肩入れしたことだった。新自由クラブに小泉と同じ選挙区を争う田川誠一がいた。
宮本家の血縁者は語る。「結局、泰道家とは絶縁寸前までいった。出て行くならその身体一つでいけ、という具合。それでも小泉さんから『何の心配も要らない。俺たちの結婚には関係ない。白紙のままできて欲しい』といわれ、その言葉を信じて嫁に行った」 しかし幸せは長く続かなかった。財界の家族と政界の家族ではしきたりが異なるからなのか、小泉の姉妹たちは佳代子の箸の上げ下げにまで口を挟み、文句をつけた。4年の結婚生活の間、二度の総選挙があった。小泉家としては「カネや票」、何かしらを期待したのだろうが、反対を押し切った形での結婚だったため、献金や寄付金、名簿などの援助はなかった。事務所に届いたのは、その当時エスエス製薬が作っていたドリンク剤のみ。
佳代子へのいじめはさらにひどくなっていく。小泉に相談しても、「家族会議にかけてみる」「姉さんたちにも考えがあるんだ」といって取りつく島がなかった。小泉がかばうのはいつだって佳代子ではなく姉たちだった。子供たちの進路にしても佳代子の意見は聞き入れられず、結局1982年9月7日、離婚となる。小泉は佳代子に最後こういった「去る者は追わず、来る物は拒まず、だ」 佳代子のお腹に三男・佳長がいるにもかかわらず離婚を断行、身重な妻を慮ることもなく、小泉家から追い出した。追い討ちをかけるように正也が空恐ろしい発言をしている。「あちらのことは何も知らされてなくてね。結婚してから、あちらの親族が亡くなったというので葬式へいって始めて創価学会員だということがわかった。<中略>結婚前に、そういう重要なことを何も知らされてなかったというのが問題だということです。宮本家の遠い筋の親戚に学会員はいるが、佳代子にはまったく身に覚えがない言いがかりだ。
孝太郎、進次郎、ときて、佳長って露骨に命名規則が違う。ゴッドファーザーであり、実の父であることが小泉家では求められているのに佳代子さんの暴走があったに違いない。しかし、家族の写真を見ても女系小泉一族に女一人で乗り込んでいったら何が起こるか婚前に覚悟しておくべきだった。

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