4.ヨハン大公失踪事件
ヨハン・サルバドール大公は、従兄弟のオーストリア皇太子ルドルフと手を結び、フランツ・ヨーゼフ1世を退位させるクーデターを計画した。が、ルドルフが心中死を遂げたことで計画が頓挫するときっぱり大公の地位を捨てて、あてもない航海に飛び出してしまったのである。いかに権威あるロイズ保険が彼の死を確認したといっても、大公自身の遺体が発見されない限り、世間はそう簡単に大公の死を認めようとしなかった。かくてヨハン大公を惜しむ人々の間で無数の生存伝説が生まれた。世界のあちこちにヨハン・オルトが現れる。そして伝説によれば、日露戦争前夜に我が日本にも出没しているというのだ。トスカナ公でありオーストリア大公であるヨハン・サルバドールは、1852年、シチリア公国のマルグリット公女とレオポルト2世の息子として生まれた。父がトスカナ王位を退位した後、オーストリアの宮廷で育てられた彼は、知的で才能豊かな青年に成長していった。

ルドルフ皇太子についていたスパイのおかげで、彼が心中の数日前、母方の従姉妹であるラリッシュ伯爵夫人に会ったことが分かっている。このときのいきさつについては、伯爵夫人の回顧録「我が過ぎし日々」に詳しい。かの最後の邂逅の時、ルドルフの顔は異様に青ざめ、目は荒々しく光っていたという。
「私には危険が迫っている。信頼できるのは君だけだ。どうかこれから君に話すことを私が生きている間は決して他人にもらさないと誓ってくれ。」こういってルドルフは、マントの下から小さな箱を取り出した。
「この小箱を大切に持っておいて欲しい。私が持っていては危険なのだ。私が取りにいけない時は、他の者を差し向ける。その人間が小箱の秘密を知っているのだ。名前は言えないが、、その男が『R・I・U・O』という四文字を告げたらこの小箱を渡して欲しい。」 
「ルドルフ、私には何も分からないけど、何か危険なことがあるなら、思い切ってあなたのお父様に打ち明けてみたら?」
そんなことをすれば・・・、自分で自分の死刑判決に署名するようなものだ」 そしてルドルフは力ない足取りで彼女の前を立ち去ったのだ。
その3日後、マイヤリンク事件が起きたのである。皇帝の隠蔽工作にもかかわらず、事件はあっという間に全ヨーロッパに広まった。そんなある日、夫人のもとに一通の匿名の封書が届いた。なんと中には「今晩10時半に、シュヴァルツェンベルク広場に例の小箱をご持参願いたい。R・I・U・O」と書かれているではないか。ラリッシュ夫人が約束の場所に行ってみると、そこで待っていたのが、ルドルフの従兄弟ヨハン・サルバドール大公だったのである。彼は皇帝の勘気をこうむって、ウィーンからユーゴの港町フイウメに、蟄居中だった。そのヨハンが夜のウィーンに現れたのだから、ラリッシュ夫人が仰天したのは言うまでもない。では、この4文字とはやはり、普通言われているように、Rudolf Imperator Osterreich-Ungarn(オーストリア=ハンガリー皇帝ルドルフ)の頭文字なのか? ルドルフは父皇帝を倒し、自ら皇帝となってオーストリア帝国を立て直すことを決意した。そんな彼にヨハン大公も共感し、ともに手を組んで皇帝に退位をせまることを決意したのだろう。そんな矢先に起こったのがマイヤリンク事件である。ヨハン大公は小箱を大切そうに抱えて夜の街に消えていったという。
「私はこれまでのような人生を続けていくべきではないのだ。私はもはやこれ以上、大公殿下という名の時代遅れのあやつり人形のままではいたくない・・・私はもはや自分しか信じたくない。自分のことだけを、それも完全な自由の中で思うまま高く飛翔し、思うまま行動して表現していきたい。新たな人生の第一歩として、私は自らの領地を捨て、他の大公たちが安住する豪奢で安楽な生活を捨て去ろう。今後は自分自身の手で生み出すわずかな収入だけで生きていこう。帝国の国庫から1銭たりとも、もらうようなことはしたくない。自分がもはやハプスブルク王朝の規律に従うつもりはないこと、そして大公の称号や領地や特権を捨て、単なるヨハン・オルトという名を名乗って、普通の市民として生きるつもりだということを知らせよう・・・」
こうしてヨハン大公は自らの決意をフランツ・ヨーゼフ皇帝に言上したのである。が、皇帝は驚くどころか、むしろ待っていたとばかりに敏速に対応した。ヨハンの要求を呑むばかりか、彼からオーストリア人としての資格を取り上げると宣言したのである。こうしてヨハンは皇帝の国土に滞在する権利を失ってしまったのだ。こうして1890年3月26日、一隻の二本のマストのスクーナー船、サンタ・マルガリータ号が、ゾディヒ船長の指揮下でポーツマスの港を出発したのである。船はその所有者でもあるヨハン・サルバドール大公、変名M・ヨハン・オルトを乗せていた。スクーナー船は大西洋を渡り、ブエノスアイレスに着いた。1890年7月10日、ヨハンはこの街から、ウィーンの友人でジャーナリストの、パウル・ハインリヒに手紙を書いている。ヨハンは同日、ブエノスアイレスを出発しようとしていた。その後誰一人として、二度とサンタ・マルガリータ号を見たものは居ない
オーストリア当局はホーン岬周辺を探索したが、難破船を疑わせるような漂着物は何も発見されなかった。さらに奇妙なことに、サンタ・マルガリータ号の船員らの家族は、いかなる賠償請求も行っていないのだ。
5.マクシミリアン帝処刑事件
1809年末、かのナポレオンは後継者を産まぬジョセフィーヌと離婚し、翌春、ハプスブルク王家のマリー・ルイズ(フランツ2世の長女)と再婚した。1年後に男児が生まれ、ローマ王と名づけられる。実はこれがマクシミリアンの実の父ではないかと噂される、のちのライヒシュタット大公なのである。ナポレオンがロシア遠征に敗れた後、オーストリア、プロシア、スウェーデン、イギリスの同盟軍はフランスに攻め入った。1814年1月末、ナポレオンはこれを迎え撃つために雄々しく出撃するが、ついにパリは陥落し、ナポレオンは退位してエルバ島に流された。王妃マリー・ルイズとその子のローマ王は、オーストリア宰相メッテルニヒの陰謀で、ナポレオンのもとに赴くことを妨げられ、ともにウィーンに連行される。マリー・ルイーズはパルマ大公妃に封じられ、幼いローマ王はウィーンのシェーンブルン宮で、表向きはライヒシュタット大公として厚遇されたが常にメッテルニヒに厳しく監視されていた。ライヒシュタット公の祖父であるフランツ2世には、フェルディナントとフランツ・カールの2人の息子があった。次男のフランツ・カールの妻は、バイエルンのヴィテルスバッハ王家のゾフィー姫だった。ゾフィーは夫との間にすでに長男フランツ・ヨーゼフをもうけていたが、義理の甥であるライヒシュタット大公の境遇に同情するうちに、いつしか彼を愛するようになってしまった。1831年秋にゾフィーは妊娠し、翌32年に男子を産む。それからまもなくライヒシュタット大公は重い病気にかかり半年後に21歳の若さで世を去るが、死の間際までゾフィーの名を呼び続け、ゾフィーの産んだ子が無事成長するまでは、自分は死ねないと側近に洩らしたとも言われる。そしてこのとき彼女が産んだ男子がほかならぬマクシミリアンなのである。うわさが本当ならゾフィーは義理の甥と密通したことになり、マクシミリアンはナポレオン1世の孫ということになる。
アステカ族の王モンテスマ2世の支配下で、高度な文明を誇っていたメキシコは、1519年にヴェラ・クルスに上陸した、フェルナンド・コルテスの率いる500の兵にあっけなく征服されてしまった。その後300年の間スペインに支配され、ナポレオン1世がスペインを占領後は独立国家になったが、王党派、共和派、保守派、リベラル派、僧侶階級などが入り乱れて、血みどろの戦いを繰り広げるようになった。マクシミリアン処刑までの50年足らずの間に、40人の大統領がつぎつぎに入れ代わったのだから、そのさまは想像できよう。やがてその中で頭角を現したのが、進歩派と保守派である。進歩派のペニト・ファレスはアメリカの、保守派のミゲエル・ミラモンは欧州列強の援助を受けていた。1860年末、ファレスが勝利を収め、保守派のミラモンに代わって大統領に就任すると、ミラモンはレオナルド・マルケスとトマス・メヒアの両将軍に後を託して、国外に逃亡したのである。
こんな状況下に2人のメキシコ外交官が登場する。まず、グティレス・デストラダはウィーン、ローマの公使を歴任し、1840年の保守政府の外相を務めた後、ローマに移住して所有する莫大な利権のおかげで裕福な亡命生活を送っていた。もう一人のホセ・イダルゴはロンドンやパリの公使館に勤めた後、当時はパリに滞在していた。洗練されたプレイボーイで、妻はウィーンの資産家セイント・ローレンスの娘。彼女の母親は、のちにマクシミリアンの女官長になる。熱心なカトリック信者であるグティレスとイダルゴは、教会の権威をメキシコに再建しようと努力を続けていたが、やがて、ヨーロッパの王家からプリンスを迎え、メキシコに帝政を樹立するのが最良の方法だと確信するようになった。そこで2人はそれぞれ欧州各地を訪問して状況を調査し、機会をとらえては各地の高官たちにメキシコの将来がいかに有望なものかを力説したのである。
メキシコでファレスが政権を握った直後、1861年アメリカでは南北戦争が始まり、アメリカからの援助が中断されて、ファレスは財政難に陥った。給与支払いが滞れば、兵士は保守軍に寝返ってしまいかねない。そこでファレスは1861年7月、外債元利の2年間支払い停止を断行した。イダルゴはナポレオン3世とウージェニイ皇后に、この気に乗じて武力干渉を決行し、同時にヨーロッパの王族の1人を、メキシコ皇帝としてたてることをすすめたのである。候補者探しはまずメキシコの旧宗主国スペインのブルボン家から始まったが、ブルボン家には適当なプリンスが見つからなかった。つぎにブルボンと並ぶとも劣らぬ名家ハプスブルク家に目が向けられ、このときマクシミリアンの名が挙がったのである。
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1862年1月、フランス軍2500がヴェラクルスに上陸を開始したが、首都への進路を握るプエブラ要塞の攻略に失敗して、退去を余儀なくされてしまう。ナポレオン帝は国民議会で「フランスの名誉を回復せねば」と訴えて戦費の追加支出を要求した。ファーブル議員は「外国の王座に外国の王族をつかせるためにフランス人が血を流す必要はない」と反論したが、議会は皇帝を支持し、フランス軍は63年3月、プエブラ攻撃を再開し、激戦2ヶ月の後、攻略する。ファレス大統領は首都メキシコシティを放棄して500キロ北方の小部落に逃げ、代わってフランス軍が首都に進駐した。ここでフランス軍首脳は実力者会議を召集して、マクシミリアン大公を皇帝に推薦する決議を採択したのである。
1866年1月フランスの援助停止とともに徐々に形勢が逆転し、5月皇帝政府崩壊、6月処刑、享年35歳。

【外国の国家権力】
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