年金の行方不明問題なんてイタリアのような国でしか起らないと思い込んでいたが、それが日本でも起こると知って、正確無比でロボット的と思われてきた日本もにわかに人間的に見えてきたほどである。もちろん、自分の年金が安心できなくなった人々の立場に立てば腹の立つことであるのはわかる。だがこれも、禍転じて福となすことも可能ではないか。
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利点の第一は、お役所に対する日本人の過剰な信頼が崩壊したことだろう。これまでは「公」の能力を信頼しきっていたから、お役人に絶大な権力を与えてきたのである。選挙で選ばれたわけでもないのに国の方向すら決めて疑わない官僚は主権在民のはずの民主主義の趣旨に反する、と私は常々思っている。年金不明事件のようなことはイタリアでは起りえないのだという。なぜかと聞いたら「Codice Fiscale」がある体という答えが返ってきた。「コディチェ・フィスカーレ」とはひところ日本中を騒がせた国民総背番号制のことである。但し日本人は嫌いぬいた挙句に葬り去ったものだ。ちなみに、個人主義的性向では他国しのぐイタリアに何故国民総背番号制が存在するのかとイタリア人に聞いてみたら、イタリア人はかつて一度もお役所のやることを信用したことは無いのだ、というのが答えだった。

なんか俺の言ってることと一緒じゃない?
私の言葉で言い換えれば、日本銀行券・円の信仰、永田町より霞ヶ関、財布を拾ったら交番に届けようという発想。