ガンマトレーディングーオプション契約とは4/7

カバードコール、条件付消費貸借

https://www.youtube.com/playlist?list=PLEusCtuo0BHLZ5ZMqLLeGikiUHH5-2nsn&disable_polymer=true


ガンマトレーディングーオプション価格とボラティリティ3/7

1Monthのオプションって短いの?110%Callの10%上の水準というのは遠いの?

https://www.youtube.com/playlist?list=PLEusCtuo0BHLZ5ZMqLLeGikiUHH5-2nsn


ガンマトレーディングークリプト取引所の空売り・向かいのみ2/7

クリプト取引所は証券取引法(表現古い?)やSECの下には居ないので、FX業者と同じレベルの有象無象の世界です。FX業者は原則Aブック、Bブックと言って、Aブックは「うまい顧客」なのでカバー取引、Bブックは「どうせ損する顧客」なのでネイキッドで「向かいのみ」ということを行っています。クリプト取引所もそのような行為が氾濫しています。

全体再生リストは下記。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLEusCtuo0BHLZ5ZMqLLeGikiUHH5-2nsn


ガンマトレーディングークリプトレポ市場1/7

ガンマトレードの前に。まずは借りてこないと売れません。貸株市場の感覚でクリプトレポ市場を説明してみました。

画面埋め込み

再生リスト
https://www.youtube.com/playlist?list=PLEusCtuo0BHLZ5ZMqLLeGikiUHH5-2nsn


サブプライム証券の解説

サブプライム証券の解説、「バランスシート右側を縦に切ったらシンジケートローン、横に切ったらサブプライム証券」とかいきなり言い出すあたりが我ながら神がかっていると思うのですがどうでしょう?

まとめて一気に見たい人はこちらへどうぞ。全部で100分くらいありますが…。最初の1/9が一番お勧めかな。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLEusCtuo0BHK3m-v-YtVh8gpv9T7OaH5g


Youtuberっぽくやってみました

最近、記事を書いてなかったのですが、現代らしくYoutubeに動画をアップしてみました。もしよろしければのぞいてみてください。

https://www.youtube.com/channel/UC89-Oh5zsFIR_2rWkFvaDiQ/playlists?view_as=subscriber



日本人とタイで会い、アジア一国一愛人構想の威力を改めて認識

先週、日本から来た友人、そして現在、母がバンコクに遊びに来ているが、彼等とともに行動をすると、行きたがる場所はガイドブックに載っている典型的な場所で日本人だらけ、食べたがるものは偽物タイ料理(チャーハン、カレー、中華とのフュージョン)のようなものばかりだ

タイではタイ人と遊ぶに限る。このシンプルな行動原理は、中国では中国人、インドネシアではインドネシア人、フィリピンではフィリピン人、九州では九州人と拡張可能だが、改めてその威力をタイのバージョンで書き出してみよう。

1.タイ語が話せる。
2.タイの地理が頭に入っている。
3.タイの文化・歴史に精通している。
4.車を持っている。
5.友人がたくさんいる。

タイ人だったら誰でもできる当然のことだ。全然目新しくもない。だが、日本から遊びに来た観光客はどうだろうか?

1.タイ語が話せない。
2.タイの地理が頭に入っていない。どこへ行くにも行き方もわからない。
3.観光しようにもガイドブックに頼らざるを得ない。
4.モノの値段もわかってないので、ぼったくりにあいやすい。
5.俺の助けが唯一の手段。

現地人と比べ、使えねー。「何も知らないし、何もできないし、何の役にも立たない」。まあ、
日本から来た日本人、これは当然のことだ。残念だが、俺にも完全に当てはまる。いつもタイ人と遊んでいると、どうしても比較してしまい、思わず日本人に対して「なんだ、この人たちは、何にも知らないな」と思ってしまう。

逆にタイでタイ人を見ると、タイ人全員が「何でも知ってて、何でもできる」理想の女、メーテルに見える。全員メーテル。すげーだろw 30代前半くらいまで「頭が良くて、なんでもできる」理想の女性はなかなか居ないものだと嘆いていたが、今では「メーテルが居ないなら、メーテルは作ってしまえばいい」。それを実行してるから周りはみんなメーテルだ。

何にもできない鉄郎と俺も同じだが、俺の場合、5だけ違って、

5.現地人の助けが唯一の手段。

この一文を変えるだけで、現地人の能力を利用でき、全く違う観光(生活)になる。これを実行するためには、特別な才能を持つタイ人は必要ないし、俺自身がタイをよく勉強し、理解しているわけでもない。

アジア一国一愛人構想(通称ACALエイカル)という名称は、マハティールの東アジア経済圏構想(EAEG)をもじったものだが、私が言及し始めたのが2011~2012年あたりだろうか

今やアジア一国一愛人構想が完成してしまった状態と言えよう。どこへ行っても現地人あるいは現地人並みに詳しい人たち、非常に頼りがいのある人たちとコネクションがあり、私自身は非常に快適な時間を過ごすことができている。東京でも同じで、大手町勤務20年の高給取りたちが、私を銀座のバランスの良い値段による質の高い店に案内してくれる。いつも、みんなありがとう。


シラチャで見たロヒンギャ

今読み途中のサピエンス全史より、一部を抜粋。

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たいていの人は、自分の社会的ヒエラルキーは自然で公正だが、他の社会のヒエラルキーは誤った基準や滑稽な基準に基づいていると主張する。現代の西洋人は人種的ヒエラルキーという概念を嘲笑うように教えられている。彼らは、黒人が白人居住区に住んだり、白人の学校で学んだり、白人の病院で治療を受けたりするのを禁じる法律に衝撃を受ける。だが、金持ちに、より豪華な別個の居住区に住み、より高名な別個の学校で学び、より設備の整った別個の施設で医療措置を受けることを命じる、富める者と貧しい者のヒエラルキーは、多くのアメリカ人やヨーロッパ人には、完全に良識あるものに見える。だが、金持ちの多くはたんに金持ちの家に生まれたから金持ちで、貧しい人の多くはたんに貧しい家に生まれたから一生貧しいままでいるというのが、立証済みの事実なのだ。

ユヴァル・ノア・ハラリ.サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 (Kindle Locations 2508-2516). 河出書房新社. Kindle Edition.

もう一度繰り返すが、私もここで触れられている典型的な「たいていの人」で「自分の社会的ヒエラルキーは自然で公正だが、他の社会のヒエラルキーは誤った基準や滑稽な基準に基づいていると主張する。」である。私は日本の被差別部落の本を好奇の視点で多数読み、日本の地方都市のキャバクラでその手の話を質問しまくる。最近思わずポチってしまったのは、
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現代ではもはや消えかけている日本の「ヒエラルキーと差別」をあえて掘り起こそうというほどヒエラルキーに縛られた人間なのに、外国(他の社会)のヒエラルキーを目の前に見ると”凍り付く”

タイのシラチャでほぼ毎日通っているカラオケがあるのだが、そこに毎回花売りの女の子がやってくる。体も小さく貧しそうで毎回来るので、思わず「100THB分花を買うよ」と申し出た。

「おー、お前優しいな。だけど、あいつはロヒンギャだよ。タイ人じゃねぇ。」

その時のタイ人たちの侮蔑的な態度と顔つきが私を震撼させた
。私の顔から笑みが消え、酒を飲む手が止まってしまった。「ロヒンギャ問題」、我々日本人にとっては新聞の文字でしか認識していない「ロヒンギャ」が、今、私の目の前にいて非常に差別的な扱いを受けている。私から見たら「見かけ」だけでロヒンギャかどうかわからない。国境沿いの小さな村の難民キャンプにいるとか、大都会バンコクで乞食をしているならまだしも、シラチャなんて地方都市でロヒンギャがいるとは…。とてもショックだ。

同様のことはタイで2回あった。タイがインドシナ半島で威張り散らし、タイが抱えている闇が窺い知れる。

タイのラオ国境の町で食事をしていたら、
「この辺りのレストランの従業員はラオ人だ。だからタイ語は通じねぇ。」

パタヤのウォーキング・ストリートで飲んでいたら、
「ここはスリが多い。アイスクリームを持ってる子供がべちょってお前につけてくる。『あーっ!』とか騒いでいる間に財布をスルんだ。そういう連中はタイ人じゃねぇ。カンボジア人だ。気を付けて歩いた方が良い。」

いずれもタイ人による不十分な英語の説明なのだが、非言語コミュニケーション、「その時のタイ人たちの侮蔑的な態度と顔つき」を、私は忘れない。私は「そんな差別的な発言をすべきでない」と本気で思っているが、まさにユヴァル・ノア・ハラリの言う「自分の社会的ヒエラルキーは自然で公正だが、他の社会のヒエラルキーは誤った基準や滑稽な基準に基づいていると主張する。」たいていの人である。

インドネシアのジャカルタでも独立記念日には、インドネシア各州ごとの代表がジャカルタをパレードして歩く行事がある。ジャワ島だけでも「スンダ族」と「ジャワ族」(もっと細かく分けられると思うが)が居て、17000以上の島(インドネシア政府もいくつの島があるか認識していないw)がある、東西5000kmの群島列島インドネシアは各島ごとに部族が違うと言ってもいいくらいに多様な民族性を抱えている。そんな中、パプア州のパレードが歩いてきたときに、ジャカルタの都会市民たちが

「パプアの連中が来たぞ」

好奇の視線でスマホで写真を撮っていた。パプア州の人々ではなく、都会市民たちに嫌悪感を抱いてしまった。ジャカ1にそのことを話すと、

「パプア…まぁ、森の人だから。」

と流された。土人とは言わずに森の人と日本語で言ったのだが、オランウータンはインドネシア語で「森の人」。まさか人間扱いしていないのか?と深読みしてしまったり…。

餃子の王将社長射殺事件 2/3~九州地縁 

とか書いてるくせに、「自分の社会的ヒエラルキーは自然で公正だが、他の社会のヒエラルキーは誤った基準や滑稽な基準に基づいていると主張する。」


俺の投資塾(英語版)~お薦めの書籍も含めて

同じ話を今年だけで、日本、フィリピン、インドネシア、そして今タイで、5~6回している。録音の機会もなかったが今回FBのチャットで記録が可能な形で来たので、これをブログに載せておこう。今度同じ質問を受けたら、「これを嫁」で行けるからな。日本以外は質問は英語だったが、英語が通じにくいタイでこの質問をしてきたのは中国人(仮名エリコムちゃん)だ。ちなみに6回中質問者は全員女性だ。男とも会っているのだが、俺と会っている男は市場関係者が非常に多いからだ。「株」とか「投資」と聞いて俺のことを思い浮かべてもらうのはとても嬉しい。だが、俺からとった慰謝料の扱いに困り果て、”思わず俺に”「ペイオフって1000万円とその金利までだよね?」と聞いたバカが居たのが唯一の例外だ。

さて、このエリコムちゃんだが、中国人なのでキャバ嬢ではない。私のシンガポールの意地悪な友人は初対面で開口一番に「あんたなんでシンガポールに居るの?」と問うのだが、エリコムちゃんはその質問にも非常に明快に答えた。その様子はすでに記事にしていて
中国全土落下傘計画廈門編 1/4~エリート公務員 

そんな彼女も今はイギリスでさらなるキャリアアップのためにお勉強をしている。頭の良さではインドネシアのジャカ1が優れているので、今年インドネシアのCikarangでジャカ1とした対談「エクイティファイナンスとは?」を録音したものを公開したいのだが、録音してない。ジャカ1とは普段は日本語で話すがこの手の話は英語になる。ジャカ1が”スーッと”理解していく姿は圧巻だ。日本人相手に株に投資する意味を一生懸命説いている
https://shisankeisei.jp/
の筆者に見せてやりたい対談だったぞ。彼が読むと今回の俺の説明は、偏りといい加減さが目立つだろうがな。ジャカ1は頭は良いのだが大学は出ていない。だからこのエリコムちゃんのように、
「その根拠となる理論は?」とか
「あー、マコーヴィッツか。読んだけど実践的にどう役に立つのか理解できなかった」
というような返事は期待できない
。なのでこの対話は、(大卒?MBA?知らんが)エリコムちゃんが質問者としてなかなか良い相手になっていると思う。一方驚くべきことに、私が知ってる98~99%の女性たちは「私が長い間無職なのになぜ困らないのか?」インカムリソースを問う質問をしてこない。会社勤めをしてないのは知ってるけど、どうやって収入を得てるのか興味ない。ただ酒を飲んでヘラヘラしてるオジサンとしか思ってないだろうが、このエリコムちゃんのように質問した方が俺を賢く利用できるんだぞ。

エリコムちゃんのタイポや、俺の場合、根本的な英文法が間違っていることには片目をつぶっていただきながら対話を見ていこう。(私のセリフは普段”エキゾ”と表記しているが対話部分を極力アルファベット化するために、エリコムちゃんのセリフをlicom、俺のセリフをxoticと表記することにする)

licom : How are u doing? Where are u now?
xotic : I’m in Thailand.
licom : Cool! I have something that wanna ask u for help actually.
Wondering if u can reach me how to invest.Or any books for recommendation
xotic : I see.
licom : Need money to support my passion.Have been in edinburgh for a while for my master.
And I really enjoy it.Wanna do a career switch.But need more training.Transition is not easy.
xotic : [amazonjs asin=”140008198X” locale=”JP” title=”The Future for Investors”]
[amazonjs asin=”4822244571″ locale=”JP” title=”株式投資の未来~永続する会社が本当の利益をもたらす”]
licom : So need more planning
xotic : Above book is for single stock investment(Active).
licom : Cool! I will check them out.Need some crash course on stock 101.
Never bought a stock before in my life
xotic : [amazonjs asin=”0393352242″ locale=”JP” title=”A Random Walk Down Wall Street: The Time-Tested Strategy for Successful Investing”]
[amazonjs asin=”4532356873″ locale=”JP” title=”ウォール街のランダム・ウォーカー〈原著第11版〉 ―株式投資の不滅の真理”]
this book is for index investment (Passive).
These 2 books are very good. Index investment is more easier for beginner.
https://finance.yahoo.com/quote/SPY?p=SPY
licom : I just googled the terms (lol) passive seems to be longer term investment
xotic : Just Buy “SPY” in US market and Hold(Don’t Sell).
licom : Requires less time checking
xotic : Yes, right.
licom : What is spy?
xotic : SPY’s performance is linked to S&P500 index(US big 500 company).
How to buy: You should buy the same amount every month.
licom : Aha.Spy is the index.Got it.
xotic : same amount means not shares. for example 1,000 USD.it is very easy.
licom : Cool.What is the logic of buying same amount and same stock every month?
xotic : I’m professional inverstor. My investment is different. But it is very difficult to win “SPY” for me.
licom : Why?
xotic : Don’t need professional experience.
SPY Long Log-Chart
xotic : Can you see the chart of SPY?
or S&P500 index, we can get more longer chart.

S&P500 index continue to grow 50 years.
Yearly total return(including dividend) is 7%.
(これ全然計算してないし、期間も明確に言及してない。確か
https://shisankeisei.jp/
にそんなことが書いてあったような気がして適当に言ってる)
same as my performance.
licom : Yeah I see the chart
xotic : I trade single stocks and very complicated derivatives trading.
licom : Generally rising
xotic : You don’t need single stocks and derivatives.
licom : 7% is quite Safe.And stable return
xotic : Just Buy SPY and Hold. Maybe 5~7% return for 30 years.(コンプライアンスw断定的な言い方をしていません)
licom : Aha.
xotic : Of course 2007 to 2009 Index is down. 1600 to 800.But just continue to buy every month.(いい加減だな。実際は1600行ってないし、800どころか700以下の6XX代まで下がってる)
licom : I recall the Singapore maple tree reit gives about 6%
That is a real estate fund. How about Ipo?

xotic : Read first book.
licom : Thanks for the recommendation !
xotic : Jeremy said “IPO is not good for investor. “ I’m same opinion.
licom : Which is his rationale ? Just curious.
If u have a short answer.
If too long don’t bother
I can go read the book
xotic : Modern portfolio theory
Book name is…
Just a moment…(これ思い出すのに5分くらいかかってしまった。フィナンシャルエンジニアリングのリンクを張ろうとして、著者が「ジョン・ハル」?これデリバティブ理論だろと思いだし…)
Ah…this is Japanese book.(証券投資論を思い出す。これ日本の本だったのね。やっぱ、翻訳本はこういう時に使えるよな。「銃・病原菌・鉄」もさ、病原菌の英単語を知らなくても、「ジャレド・ダイアモンドの~、Gun disater and ironとか適当言えば読んだことある人には分かるだろ?)
https://en.wikipedia.org/wiki/Modern_portfolio_theory
You can find “Reference” bottom of Wikipedia.
Theory can not answer “Why IPO is not good”.(ここけっこういいセリフと思うけどダメ?)
We should learn from history.

licom : I realize I learnt this before. On diversification
xotic : hahaha. Yes. Theory is not actual market.
licom : But returned all to the teacher . Good refresher. Totally agree
Even when I learn the technique for counselling.
Actually I think what is effective
Is not really the technique
xotic : [amazonjs asin=”B07D3RRSLZ” locale=”JP” title=”Wall Street: A History (English Edition)”]
[amazonjs asin=”4894514125″ locale=”JP” title=”ウォール街の歴史”]
Wall street history is “fraud and myth” history.
This book explain old fraud.
New one is Flash boys
[amazonjs asin=”0393351599″ locale=”JP” title=”Flash Boys: A Wall Street Revolt”]
[amazonjs asin=”4163901418″ locale=”JP” title=”フラッシュ・ボーイズ 10億分の1秒の男たち”]
licom : U are keeping up with readings? With readings!(ちょっと嬉しい)
xotic : Because I’m writing what does say this book.
That’s why I can remember.
For example, (Sorry in Japanese),
https://ichizoku.net/books/20120619/the-civil-war/
This blog is written by me.
licom : Wow cool! U should write it in your Facebook
xotic : This page is about “Wall street History”. Above book.
licom : Investor + blogger /writer
xotic : blog is just hobby.
licom : Website is called civil war.That is interesting (えっ?中国でも南北戦争って書くの?って思ったら、アドレスにCivil-Warって書いてあったのね…)
xotic : You can read by English book.
licom : Thanks for the recommendation!I will read them up
xotic : No problem.
licom : Before my tons of readings come next semester
Social science requires u read a lot
Lol
But luckily the readings are very interesting
xotic : Good.
I will try next book…Avram Noam Chomsky.
[amazonjs asin=”4003369513″ locale=”JP” title=”統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論 (岩波文庫)”]
I will go Jogging. If you have some question , ask me any time.
licom : Okie
I am going for a jog as well
Have a nice day!
xotic : I forget to mention about real estate investment.
real estate is income gain. income gain means simple interest.
equity is capital gain. capital gain means composed interest.
real estate : 6% 30years Return = 6% * 30 years = 180% you will get.
same 6% equity 30years = exp(0.06 * 30years)-1 = exp(1.8)-1 : you will get roughly 500%.
my recommendation is equity. (not real estate).
licom : Aha true.But some real estate is in trust.
stock as well.Like property fund.But yeah if fixed real estate
Yes . The gain is worse than equity
Plus property estate the down payment is a lo t.Lot
xotic : Good.
licom : How was your jog?
xotic : 2, 3km jog.
licom : Good.

一応、全部の質問に答えたつもりなんだが、やっぱりいい加減さと偏りと説明不足感は否めねーな。日本語が読める諸君は、
https://shisankeisei.jp/
これだな。あー、税金のこととかもまったく言及してなかったな。言い訳としては、エリコムちゃんは、中国人でシンガポールやイギリス、将来的には様々な国に進出していくだろうから、最適な税制上の戦略を述べることはかなり高度かつ多くの国における税制と法律に通じていないと不可能である。だから、その話をあえて無視したと解釈していただきたい。だが税制は無視できない。資産形成ハンドブックは日本の税制・制度や日本人あるあるに対応して書かれているので良いが、俺の対談は日本人にとっては、不利益。


自己決定しない生き方が意外な最適化に。ディズニーをもってしても「過去の価格決定は間違う」

友人が書いているサイトの記事にて、

幸せを決めるのは、所得や学歴よりも「自己決定度」
https://shisankeisei.jp/20181129-happiness-depends-more-on-self-decision-than-on-income-academic-record/

神戸大学社会システムイノベーションセンターの調査において、

「自己決定度」は以下のように定義されていましたが、

「中学から高校への進学」、「高校から大学への進学」、「初めての就職」について、自分の意思で進学する大学や就職する企業を決めたか否か

お金の使い方、時間の使い方なども、自己決定できるかどうか、自由裁量かどうか、というのは満足度、幸福度を決める上で重要なのではないかと思います。

この定義わからないねぇ…。20代ならわかるけど、30過ぎて、高校・大学・会社なんて影響あるかね? 被験者が終身雇用制度が多く、公務員試験の成績によって出世街道が最初から用意されていて、とかそういう話? それこそ自己決定してねーじゃんwと思うんだけど。だから、「お金や時間の使い方の自己決定」と彼が補足している。

進学や就職も受けたら受かっただけで、自分の意思とは言い難いが、自由気ままに見える今の生活であっても相変わらず優柔不断なのは変わってない。

俺は固定費がゼロだから、すべての消費がいちいち自己決定に基づいているから効用が高い。

と発言したのだが、この発言も少し疑問だ。パリでワインを飲み、ウィーンでオーケストラを聞き、ロンドンで美術館に行き、シンガポールでプールを泳ぎ、ジャカルタでタバコを楽しみ、香港で焼酎を飲み、深圳で肉まんを食べる。

確かに自分で選択してるがな、しかしその理由は意思というより異様に安いからだ。異様な安さは、俺が決めてるんじゃない。グローバリズムの中で生まれてしまった規制・税制の歪みをついてるだけだ

この消費スタイルを私はディズニーランド型と呼ぶことにしよう。昔のディズニーランドはビックサンダーマウンテン600円だったが、今は入場料と時間を買う権利のみになった。ディズニーをもってしても「過去の価格決定は間違う」ので、価格決定を放棄、民に決めさせればよい、という非自己決定型の価格設定である。非常にアメリカらしくて私は感心している。

自分の思い通りになった過去や自身の決断は、往々にして間違ってる。だから、ディズニーの如く、決定を放棄すれば、後は市場メカニズムが勝手に決めるんだ。

自分の意思で、進学や就職って、本質的にはこっちが望んで、相手が決めることだ。上場株の小さな売買は意思100%の行為だと思う。敵対的買収もあるけど、買収となれば相手方とも平和に話した方が良いし。しかし、「過去の意思」が今の俺にいかに影響ないか、間違っていたか、書いてみよう。

自分の学力に応じて、試験を受かったところから選ぶしかない。俺の場合、進学も就職も親の言うことを聞いてしまったがな。

大学は理系ブランド当時としてはトップの京都大学理学部を志望していたが、母から「新幹線だホテルだの費用の無駄。東大で良いだろ。まず一つでも大学受かってから言え。」 私立大学の合格発表の前に願書出すから、俺に発言権なし。両方の大学を比較できる立場にないが、どっちでも良いんじゃないの? そんなこと言うと怒られちゃう?

就職はITバブル、大学の先輩が「富士通は凄い」って言うから履歴書出してみた。もう一個銀行のシステム子会社みたいなところも受かって、面白そうだからそこにしようと思ったら、父が「銀行の子会社? 社長は親会社の銀行から来る。絶対社長になれない。社会を知らないお前は騙されてるんだ。お父さんの言うこと聞いて富士通にしなさい。日本の製造業の根幹を担う良い会社、絶対につぶれることはない!」

色々ツッコミどころ満載だが、父がそういうから富士通にしてみましたw 日立が実家の近所にあったので「家から通える良い会社」という父のススメで日立受けたんですけど、落ちました。

京大と銀行の子会社を選んだ理由が、何も知らないバカの決断だもん。その通りになったとして幸せを決定づけるとは思えんのだ。

「相対性理論を学ぶために大学に行く」って言ってたのに、数学科を卒業してるんだぜ。
「せっかく大学出してもらっても貧乏な学者になるかもしれない」って言ってたのに、即就職したし。
俺だけが優柔不断でバカなんじゃないよ。就職人気ランキング見れば、学生の「意思」とやらが、いかに愚かか明らかではないか。だから、「思ってたのと違う」とか「俺のやりたいことと違う」みたいなことで辞めるわけでしょう。俺にとっても、サラリーマンのお仕事も思っていたのと違った。

サラリーマンは面白い、SEのお仕事
https://ichizoku.net/my-ideology/20150203/what-is-se/#more-1813

『サラリーマンになったら上司の言うこと聞くのが仕事ってもんだ』って言ってたけど実際は違う。俺の仕事を会社が、人、もの、カネの全面バックアップしてくれる。

このことは賢い人なら面接の時に気づくべきだ。質問の本質は「あなた、うちの会社で何をしてみたいですか?」だ。「はいはい、言うこと聞く人要らない」、って最初から言われてるよ。


プラトン「国家」~13/13 ハイデガーの存在と時間

家具について、<実相>(イデア)はということになると二つあるだけだろう-寝椅子のそれが一つと、机のそれが一つ。今二つの家具のそれぞれを作る職人が、その<実相>(イデア)に目を向けて、それを見つめながら一方は寝椅子を作り、他方は机を作るのであってそれらの製品を我々が使うのである。

それぞれの種類の手仕事職人が作る限りのものをすべて何でも作るような職人のことだ。すべての家具だけでなく、大地から生じる植物のすべてを、動物のすべてを、自分自身、大地、天空、神々とすべての天体と地下の冥界にある一切のものを作る。むずかしい仕方ではないよ。鏡を手に取ってあらゆる方向にぐるりと回してみる気になりさえすればよい。

そう見える所の(写像)を、しかし本当にあるのではないものを。

では寝椅子づくりの職人の場合はどうだろう。ついさっき君は、こう言っていたのではなかったかね?彼は<実相>を-これをわれわれはまさに寝椅子であるところのものと言うわけだが、その実相を-作るのではなくて、ある特定の寝椅子を作るのである、と。

後のハイデガー存在と時間より、本質存在と事実存在 「デアル」と「ガアル」である

では手綱や馬術がどのようなものでなければならぬかを、画家は知っているだろうか?それとも実は制作者である鍛冶屋や革職人でさえ知らないのであって、そのことの知識を持っているのはそれらを使うすべを心得ている人、すなわち馬に乗る人だけではないだろうか?それぞれのものについて、今挙げたような3つの技術があるのではないかね-すなわち、使うための技術、作るための技術、真似るための技術。

こうしていまやわれわれは正当な理由をもって作家(詩人)をとらえ、彼を画家の片割れと規定することができるだろう。なぜなら真理と比べれば低劣なものを作り出すという点でも画家に似ているし、また魂の同じく低劣な部分と関係を持ち、最善の部分とは関係を持たないという点においても、彼は画家とそっくりだからだ

ホメロスを断罪するなれば、ルネサンスの始祖「ダンテ」も相当に罪深い。それに続いた美術・芸術など、ヨーロッパ中心のキリスト教観という虚構を現代に引き継いで作り出した。
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滅ぼしたり損なったりするものはすべて悪いものであり、保全し益する者は善いものだということだ。

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後の市場原理、メンデルの優勢の法則である。


プラトン「国家」~12/13 独裁の発生源は民主制

民主制のもとでは、他のどの国よりも最も多種多様な人間たちが生まれてくることだろう。様々な国制の中でも一番美しい国制かもしれないね。この国制を最も美しい国制であると判定する人々も、さぞ多いことだろう。この国は、その放任性のゆえに、あらゆる種類の国制を内に持っている。たとえ君に支配する能力が十分にあっても、支配者とならなければならない何らの矯正もなく、さりとてまた君が望まないならば、支配を受けなければならないという強制もない。

とくにずば抜けた素質を持つものでもない限り、早く子供の時から立派で美しいことの中で遊び、すべて立派で美しい仕事で励むのでなければ、けっして優れた人物とは、なれないだろう。すべてこうした配慮をこの国制はなんとまあ高邁(こうまい)なおおらかさで、足下に踏みにじってくれる。国事に乗り出して政治活動をする者が、どのような仕事と行き方をしていた人であろうと、そんなことはいっこうに気にも留められず、ただ大衆に好意を持っていると言いさえすれば、それだけで尊敬されるお国柄なのだ。

若い時から訓練すれば取り除くことのできるような欲望、何一つ為になることがなく、場合によっては害をなすことさえあるような欲望、これらすべての欲望を<不必要な欲望>であるという。われわれが雄蜂と呼んでいた人間とは、そのような快楽と欲望に満たされていて<不必要な欲望>に支配されている人間のことを言っていたわけだね?他方、<必要な欲望>に支配されている人が、けちで寡頭制的な人間に他ならないわけだね?

雄蜂は名もなき民、寡頭制的な人間とは、必要なもの=エネルギーを供給したロックフェラーである。

[amazonjs asin=”4105056514″ locale=”JP” title=”ロックフェラー回顧録”]

寡頭制から民主制が生じてくる過程と民主制から僭主独裁制が生じてくる過程とはある意味で同じ仕方によると言えないだろうか?たぶん、民主制のもとにある国で、こんなふうに言われているのを聞くことだろう-この自由こそは、民主制国家が持っている最も良きものであって、まさにそれゆえに、生まれついての自由な人間が住むに値するのはただのこの国だけである。そのようなことへのあくなき欲求と、他のすべてへの無関心が、ここでもこの国制を変化させ、先制独裁制の必要を準備する。民主制の国家が自由を渇望した挙句、たまたまたちのよくない酌人たちを指導者に得て、そのために必要以上に混じりけのない強い自由の酒に酔わされるとき、国の支配の任にある人々はあまりおとなしくなくて、自由をふんだんに提供してくれないような場合、国民は彼ら支配者をけしからぬ連中だ、寡頭制的な奴だと非難して迫害するだろう。

このような国家においては必然的に自由の風潮は隅々にまでいきわたって、その極限に至らざるを得ない。このような状態の中では、先生は生徒を恐れてご機嫌を取り、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の態度をとる。一般に、若者たちは年長者と対等に振る舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て機知や冗談でいっぱいの人間となる。買われてきた奴隷たちが、男でも女でも、買った方の主人に少しも劣らず自由であるという状態のうちに達成されるだろう。

僭主独裁制が成立するのは民主制以外のほかのどのような国制からでもないということだ。すなわち、思うに、最高度の自由からは、最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくるのだ。民主制の国家を3つの構成集団に分けてみることにしよう。雄蜂族、尊敬されず、支配の役職から遠ざけられているから、鍛えられていないし、勢力も強くはならない。けれども民主制のもとでは、国の先頭に立つ指導者層は、少数の例外を除けばまさにこの種族であると言って良いのだ。

安倍さん?麻生さん?ブッシュJr?

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もう一つの階層が、つねに大衆から区別される。すべての者が金を儲けることにつとめるとしたら、生まれつき最もきちんとした性格の人々が最も金持ちになるだろう。雄蜂どもにとってそこは最も沢山の蜜があって、蜜を取るための最もふんだんな供給源となるわけだ。しかしこの階層の者は、蜜の分け前にあずかるのでなければ、あまりたびたび集まろうとはしないものですよ。だから現にいつも分け前にあずかっているのだ。先頭に立つ指導者たちが、もてる人たちから財産を取り上げて民衆に分配しながらも、なお大部分を自分で着服できるその範囲内でね。

最後に民衆が無知ゆえに中傷家たちにだまされて彼らに危害を加えようとするのを見ると、本当に寡頭制的な人間になってしまうのだ。民衆の習わしとして、いつも誰か一人の人間を特別に自分たちの先頭に押し立てて、その人間を養い育てて大きく成長させるのではないかね。すなわち、僭主が生まれる時はいつもそういう民衆指導者を根として芽生えてくるのであって、他の所からではないのだ。民衆の指導者となったものが何でもよく言うことを聞く群衆をしっかりと掌握したうえで、同胞の血を流すことを差し控えることなく、よくやる手口で不正な罪を着せては法廷に引き出して殺し、こうして一人の人間の生命を消し去り、その穢れた口と舌で同族の血を味わい、さらに人を追放したり死刑にしたりしながら、負債の切り捨てや土地の再分配のことをほのめかすとするならば、このような人間はその次には敵対者たちによって殺されるか、それとも僭主となって人間から狼に変身するか、このどちらの途を選ばなければならない運命にあるのではないだろうか?

僭主となった当初、誰にでも微笑みかけて、負債から自由にしてやり、周囲の者たちに土地を分配してやるなどして、情深く穏やかな人間であるという様子を見せるのではないかね。いったん外なる敵たちとの関係において、あるものとは和解し、あるものは滅ぼしてその方への気遣いから解放されてしまうと、まず第一に彼のすることはたえず何らかの戦争を引き起こすということなのだ。民衆を指導者を必要とする状態に置くためにね。


プラトン「国家」~11/13寡頭制から民主制へ

言論の修練にあずかる期間としては、持続的かつ集中的にそれに専念して他のことは一切行わず、修練するとするならば5年間。その期間が終わった後で、戦争に関する事柄の統率などの若いものに適した役職を義務として課さなければならないことになるからだ。そうした実際の業務の中でさらにもう一度、あらゆる方向への誘惑に対して確固として自己の分を守り続けるか、それとも動揺して脇へそれることがあるだろうかということを、試さなければならない。15年間。そして50歳になったらば、あらゆる点で最も優秀であった者たちを最後の目標へ導いていかなければならない。魂の眼光を上方に向け、すべてのものに光を与えているかのものを、直接しっかり注視させるということだ。そして彼らがそのようにして善そのものを見て取ったならば、その善を模型(模範)として用いながら、各人が順番に国家と個々人と自分自身とを秩序付ける仕事のうちに、残りの生涯を課すように強制しなければならない。彼らは大部分の期間は哲学することに過ごしながら、しかし順番が来たならば各人が交代に国の政治の仕事に苦労をささげ、国家のために支配の人につかなければならないのだ。

自分に代わる国家の守護者を後に残したならば、彼らは<幸福者の島>へと去ってそこに住まうことになる。国家は彼らのために、公の行事として、記念碑を立て犠牲をささげる儀式を行うことになろう。ピュティア(デルポイ)の神託がよしとされるなら神霊(ダイモーン)として祀り、そうでなければ、祝福された(エウダイモーン)神的な人々として讃えながら。

後の国家元首の「任期」である。

彼らのうちで哲学においても戦争に臨んでも最も優れている人々が王となること。支配者たちはその任に着くと、兵士たちを我々が先に述べたような住居へ連れて行って住まわせるのであるが、そこには誰にも何一つ私有されるものは無く、それはみなの者に共同の住居であるということ。彼らは誰も、こんにち一般の人々が所有しているようなものを何一つ所有してはならず、いわば戦争の専門競技者であり国の守り手であるから、他の人々から守護の任務に対する報酬として、仕事に必要なだけの糧を1年分受け取り、自分自身と他の国民の面倒を見ることに専念しなければならない。

4種類の国制、僕が言おうとしている国制は一般に通用している名称を持ったものばかりだからね。すなわち、まず、多くの人々から賞賛されているところの、かのクレタおよびスパルタふうの国制(名誉支配制ティーモクラティアー)がある。それから、二番目の国制で第二番目に賞賛されているもの寡頭制(オリガルキアー、財産の評価を基準とする有産階級による支配制))と呼ばれている国制があり、これは実は多くの悪をはらんでいる国制だ。それから、その敵対者であり、それに続いて生じてくる民主制。そしてこれらすべての国制にたちまさる高貴な僭主独裁制。これが第4番目にあって、国家の病として最たるものだ。世襲王権性だとか金で買われる王制だとか、またこれに類するさまざまの国制だとか言ったものは、いま挙げたものの中間的なところに位置づけられるものだろう。

あなたの言われる寡頭制とはどのような制度のことでしょうか?

財産の評価に基づく国制だ、つまり、金持ちが支配し、貧乏人は支配にあずかることのできない国制のことだ。各人が持っている、。彼ら自身もその妻たちも、法に従わずにね。

デュポン家のGM売却と譲渡益課税非課税。あるいはマイクロソフトの初の配当とブッシュ減税などがこれに当たる。

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寡頭制から民主制への変化は、およそ次のような仕方で起こるのではないだろうか。寡頭制国家の支配者たちがその任にあるのは、多くの富を所有しているおかげなのであるから、彼らは若者たちのうちに放埒な人間が出てきても、これを法によって取り締まって、自分の財産を浪費して失うことができないように禁止することを欲しない。というのは、この支配者たちには、そういう者たちの財産を買い取ったり、それを担保に金を貸したりすることによってもっと富を増やし、もっと尊重されるようになろうという気があるからだ。

金を儲けている者たちは、身をかがめて仕事に熱中し、そうした貧乏人たちのことは目にも入らぬふりをして、その他の人々のうちに言うことを聞くものがあれば、そのつど金銭の毒針を差し込んで傷つけ、そして親金の何倍もの利息を取り立てては、雄蜂と乞食を国のなかにますます生み増やしていくのだ。支配者たちは支配される者たちを、国の中にいま言ったような状態に置いているのだ。

痩せて日焼けした貧乏人が、戦闘に際して、日陰で育ち贅肉をたくさんつけた金持ちの側に配置された時、貧乏人は金持ちがすっかり息切れして、なすすべもなく困り果てているのを目にするだろう。-このような場合、彼は、そんな連中が金持ちで居るのは自分たち貧乏人が臆病だからだ、というように考えるとは思わないかね? そして自分たちだけで集まるときに「あの連中は我々の思いのままになるぞ。何の力もないのだから」ということを、お互いに口から口へと伝え広めていくとは思わないかね?

貧しい人々が戦いに勝って相手側の人々のうちのあるものは殺し、あるものは追放し、そして残りの人々を平等に国制と支配に参与させるようになった時、民主制というものが生まれるのだ。そして大ていの場合、その国における役職はくじで決められることになる。

2200年後のフランス革命である。


プラトン「国家」~10/13排他的な哲学者、学問の最高位

最も重要な学問について、

1位:数と計算
2位:幾何 (数は幾何よりも抽象概念だから上位、指で示した1は、何指で示そうが、1は1という抽象性を持っている)

3番目の学科としては天文学をそれと定めることにしようか? 平面の次に、もうすでに円運動のうちにある立体を取り上げたからだ。立体をそれだけで取りあげる前にね。しかし順序としては2次元の次には3次元を取り上げるのが正しい。そしてこれは、立方体の次元や一般に深さを分け持つものについて考えられるものであるはずだ。

しかしそうした事柄はソクラテス、まだ完全に発見されたと言えないように思えますが。

次には深さを持った次元の研究が来るのが順序なのに、その探求の仕方の現状がおかしなものなので、それを飛び越してしまって、幾何の次に天文学を上げたのだ。これは深さを持ったものの運動にかかわるものなのにね。

当時、天文学に必要な数学以上に天文学が進んでいたようだが、2300年後の理論物理学とゲージ理論の時間差である。

どうも君は、上方の事柄について学ぶということがどういうことかをしごくおおらかな解釈で自分の心の中に受け取っているようだね。きっと君は誰かが上を仰ぎながら天井に多彩の模様を眺めて、何かを学び知るような場合でも、その人は目によってではなく、知性によって観ているのだと考えるのだろうからね。僕としては目に見えない実在にかかわるような学問でない限り、魂の視線を上に向けさせる学科としては他に何も認めることはできない。

天文学は空を見上げているだけのバカだと嫌味を言っている。

天空にあるあの多彩な模様(星)は、それが目に見える領域にちりばめられた飾りであるからには、このような目に見えるもののうちでは確かに最も美しく、最も正確ではあるけれども、しかし真実のそれと比べるならば、はるかに及ばないものと考えなければならないということだ。真実のそれとはすなわち、真に実在する速さと遅さが、真実の数とすべての真実の形のうちに相互の関係において運行し、その運行のうちに内在するものを運ぶところの、その運動のことであって、これらこそはただ理性(ロゴス)と思考によってとらえられるだけであり、視覚によってはとらえられないものなのだ。

ちょうど幾何学を研究する場合と同じようにして、<問題>を用いることによって天文学を追求し、天空に見えるものにかかずらうのは止めることになるだろう-もしわれわれが本当の意味で天文学研究に参与することによって、魂の内に本来備わっている知の機能を無用の状態から救って役に立つものにしようとするのならば」

これが実現するのは1900年後、コペルニクスの天文学まで待たなければならない。従来、実験実証によって証明してきた理論物理学は発展しすぎて、宇宙の始まりまで論じていることから、プラトンの言う、視覚によってとらえられないただのロゴスと思考によってとらえられるだけの領域に到達している

18歳当時の私もプラトンのような考えで、数学と理論物理学こそが学問であり、「目に見えない実在にかかわるような学問でない限り、魂の視線を上に向けさせる学科としては他に何も認めることはできない。」というのに激しく同意していたw まぁ、俺も若かった。許してくれや。

数学の中では数論、これが数学の中の哲学、役立たず君。数論のために代数学をはじめとする数学だけではなく、解析や幾何などあらゆる分野を総動員するが、数論によるほかの数学分野の貢献は難しい。そして数学の中でも、統計や金融工学は、言わずもがな、プラトンのいう所の天文学扱いだw ましてや他の学問は言語道断。経済学や心理学など二流の学問として嘲笑の対象であった。そして私が不思議だったのは医療や法律などという「もはや学問ですらない実学」に優秀な学生たちが向かっていることだった。私の友人で法学部なのに、選択科目で取ってる数学に対する質問が、本質的で鋭かったので、「なんで法学部なんかに行ったの?」と思わず聞いてしまったほどだ。いわゆる数学科のエリートコースである灘・数学オリンピック組が、医学部や法学部に流れるというのは、もはや怪奇現象w 現在では合格者最高点が公表されているので、世間の認識では全学部最高得点者が、最難関の医学部以外の法学部や理学部に流れているように見えている。今は大人になったので、その優秀な学生たちが、医学部や法学部に進むのは大いに結構だが、彼等には早くダブルメジャー・トリプルメジャーを認める方向で変わってほしいとは思う。

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しかし、心理学や法学をバカにしていたことよりも、コンピュータをバカにしていたことが、もはやトラウマ的後悔(数学を専攻したことは後悔してない)となっている。「子どもがYoutubeばかり見ていて困ったもんだ」と嘆く親御さんに対しても、「しかしYoutubeを否定されるのはいかがなものかと。世界最高峰の機械学習のテクノロジーを使ったあなたへのお薦めはあなどれません! アマゾンは世界中のあらゆる本を読んだことがある先生。教科書を読んだり学校で学ぶのは過去の学問、将来の産業は大人たちがバカにしている遊びから生まれる。」とまで言ってしまうほどのトラウマだw

しかし言い訳なんだが25年前の「情報処理」の授業つまんなかったねぇ…。相対論の授業も、お世辞にも面白いものではなかったので、私が個人的に背景を知っていたから面白く解釈できただけか。25年前の情報処理の授業では、機械学習だ、ビットコインで使用される楕円関数とは…みたいのは無理だろうが、俺なら少なくともプログラミングは無しで、フォン・ノイマン型コンピューターとは何か? チューリング・テスト、インターネットの成り立ちくらいで設計したがなぁ…。情報処理の授業でそういうこと言ってた? 俺が聞く耳持たなかっただけ??

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算数や幾何をはじめとして、哲学的問答法を学ぶために必ず前もって履修されなければならないところの、すべての予備教育に属する事柄は、彼らの少年時代にこれを課すようにしなければならない。ただし、それらを教えるにあたっては、けっして学習を強制するようなやり方をしてはいけないけれども。自由な人間たるべき者は、およそいかなる学科を学ぶにあたっても、奴隷状態に置いて学ぶというようなことは、あってはならないからだ。事実、これが身体の苦労ならたとえ無理に強いられた苦労であっても、なんら身体に悪い影響を与えるようなことはないけれども、しかし魂の場合は、無理に強いられた学習というものは、何一つ魂の中に残りはしないからね。

後に各国憲法上で採用された「学問の自由」である。


プラトン「国家」~9/13 マキャベリ以前の君主論

哲学者たちが国々において王となって統治するのでない限り、あるいは現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが真実にかつ十分に哲学するのでない限り、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの2つのどちらかの方向に別々に進むのを強制的に禁止されるのでない限り、国々にとって不幸の止むときは無いし、人類にとっても同様だ。

最も優秀なるものを哲学者と呼ぶか、それを導き出すスキームである憲法であるかが違うだけで、2300年後のヒトラー、最良の憲法と国家形式は、民族共同体の最良の頭脳を持った人物を、最も自然に確実に、指導的重要性と指導的影響力をもった地位につけるものである。 我が闘争より

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<知識>のほうは<あるもの>を対象としてそれにかかわる-すなわち、<あるもの>がどのようにあるかを知るのが、<知識>の本性だろうね。他方、<思わく>のはたらきは、われわれの主張では、思わくすることなのだね? はたしてその対象は<知識>が知るところのものと同じだろうか?つまり、<知られるもの>と<思わくされるもの>とは同じものであろうか? それともそういうことは不可能であろうか?

同一であることは、ありえないことになります。

では<あるもの>が<知られるもの>だとすれば<思わくされるもの>は、<あるもの>とは別の何かだということになるだろうね? かといって<あらぬもの>を思わくするということになるだろうか?それともありもしないようなものは、それを思わくすることすら不可能だろうか? 思わくする人は、その<思わく>を何かに差し向けるのではないかね?それとも、思わくはしているが何も思わくしていないというようなことが可能なのだろうか?すると<思わく>は、この両者の外にあるものだろうか?明確さにおいて<知>を超えるものであったり、あるいは不明さの点で<無知を超えるものであったりするだろうか? 思わくは知と比べれば暗く、無知と比べれば明るいもの、両方の極のうちに位置づけられるのだね。思わくは両者の中間的なものだということになるだろう。もし「同時にありかつあらぬ」と言ってもよいようなものが何かあるとわかれば、そのようなものは、純粋に<あるもの>と完全に<あらぬもの>との中間に位置づけられる。<知識>と<無知>とのやはり中間に現れるようなものだろうと。われわれに残されている仕事は、あるとあらぬの両方を分け持つ者、純粋にどちらとも正しくは呼べないようなものを、発見することだろう。

600年後のナーガールジュナの中観、「空」である。

ある人の欲望が、ものを学ぶことや、すべてそれに類する事柄へ向かってもっぱら流れている場合には、思うに、その人の欲望は、魂が純粋にそれ自身だけで楽しむような快楽にかかわることになり、肉体的な快楽については、その流れが枯れることになるだろう。ひいては、そのような人は節度ある人間であって、けっして金銭を愛し求める人間ではないだろう。なぜなら余人はいざ知らずそのような人だけは、人々が熱心にお金を求め散在することによって獲得しようと願うさまざまのものに対して、まったく関心がないはずだから」

100年前に遠い地にてシッタールタが、悟りを開くものは金銭に触れるな、んー、シッタールタと言ってることは、ここだけではなく沢山ある。まあ、いいか。

哲学を志して、若い時に教養の仕上げのつもりでそれに触れた上で足を洗うということをせずに、必要以上に長い間哲学に時を過ごした人たちは、その大多数が、よしまったくの碌でなしとまでは言わぬとしても、正常な人間からほど遠いものになってしまう。最も優秀だと思われていた人たちでさえも、あなたが賞揚するこの仕事のおかげで、国家社会に役立たない人間となってしまうことだけは確かなのだ。

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ここが「ソクラテスの弁明」で言及されていたソクラテスの罪。若者たちを堕落させたもの。それは「哲学」という不毛の学問であったことが、この部分で分かる。しかし、当時から哲学は役立たずと言われていたのか。高校から大学に行くにつれ、化学が物理に、物理が数学に、数学は哲学へなんていうものだから、不完全性定理のことも頭の片隅におきながら哲学も少しかじってみたが、「不毛な屁理屈」としか思えなかった。そんな私も学問の最高峰である数学と理論物理学が、今となっては、”必要以上に長い間費やしてはいけない学問”になってしまったのではないだろうかと思っている。大統一理論もリーマン予想も、世界中で10人くらいの人しか証明の正しさを理解できないだろうし、最高峰故に陥ってしまった数学の哲学化か。

教育と無教育ということに関連してわれわれ人間の本性を、次のような状態に似ているものと考えてくれた前。地下にある洞窟状の住まいの中にいる人間たちを思い描いてもらおう。光明のある方に向かって長い奥行きを持った入口が洞窟の幅いっぱいに開いている。人間たちはこの住まいの中で子供の時からずっと手足も首もしばられたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前の方ばかり見ていることになって、縛めのために頭を後ろへめぐらすことはできない。人たちは洞窟の一部に火の光で投影される影しか見ることができない。

彼の一人が、あるとき縛めを解かれたとしよう。そして急に立ち上がって首をめぐらすようにと、また歩いて火の光の方を仰ぎ見るようにと、強制されるとしよう。そういったことをするのは、彼にとって、どれもこれも苦痛であろうし、以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても目がくらんでよく見定めることができないだろう。そのとき、ある人が彼に向かって「お前が以前に見ていたのは、愚にもつかぬものだった。しかしいまは、お前は以前よりも実物に近づいて、もっと実在性があるものの方へ向かっているのだから、前よりも正しく、物を見ているのだ」と説明するとしたら、彼は一体何と言うと思うかね?彼は困惑して、以前見ていたもの「影」のほうが、今指し示されているものよりも真実性があると、そう考えるだろうとは思わないかね?

真実を観たがらないのは古今東西変わらない人間の性質か。影ばかり見ていると実体より影が真実性を帯びてくると。日経新聞は補完的に読むしかないな。日経新聞を中心に世の中見てたら影が実体になってしまうよw

その国において支配者となるべき人たちが、支配権力を積極的に求めることの最も少ない人間であるような国家、そういう国家こそが最もよく内部的な構想の最も少ない状態で、治まるのであり、これと反対の人間を支配者として持った国家はその反対であるというのが動かぬ必然なのだ。

真の意味の富者とはすなわち、黄金に富むものの事ではなくて、幸福な人間が持たねばならぬ富-思慮あるすぐれた生-を豊かに所有する者のことだ。これに反して、自分自身の良きものを欠いている飢えて貧しい人々が、よきものを公の場からひったくってこなければならぬという下心のもとに公共の仕事に赴くならば、善い政治の行われる国家は実現不可能となる。そうすると、国を守る役に、どのような人々がいるだろうか?それはただ国がそれによって最もよく治まるような事柄について、最も多くの知恵を持つ人々、しかも政治的生活にまさる善き生活と他の名誉とをもっているような人々だけではあるまいか。

これ、まだ見ぬ将来、しかし近い将来到来するであろう「発行者なき暗号通貨」の時代?


プラトン「国家」~8/13 マルクスと選民思想

これらの女たちのすべては、これらの男たちすべての共有であり、誰か一人の女が一人の男と私的に同棲することは、いかなる者もこれをしてはならないこと。さらに子供たちもまた共有されるべきであり、親が自分の子を知ることも、子が親を知ることも許されない。妻女も子供も共有であることが、もし可能でさえあれば最大の善であることを否定するような異論は起こらないであろう。

支配者たちがその名に値するものであるべきならば、そしてその補助者たちも同様とすれば、後者は命じられた事柄を進んで実行し、前者は、あるいは自ら法に従いながら、あるいは我々が彼らに一任した事柄については法の精神にのっとりながら命令を下すことだろう。それでは立法者としての君は、男たちを選び出したのと同じようにして、できるだけこれと同じ素質の女たちを選び出して、彼等に引き渡すだろう。そしてこれらの男女は家も食事も共同で、私的には誰もその種のものを所有していないのだから、みなが同じところで一緒に暮らすことになり、思うに、あの自然から与えられた必然性に導かれて、やがて互いに結ばれるにいたるだろう。

どうすれば最もためになる結婚となるだろうか? 僕は君の家に猟犬や血統の良い鳥がたくさんいるのを見ているからだが、そうした動物たちの結婚と子供作りのことに、何か注意してみたことがあるかね? その動物たちはみな血統の良いものばかりだと言っても、そのなかでも特に優秀なのがいくらかいて、それとわかってくるのではないかね。では君は全部に同じように子を産ませるかね、それともできるだけ最も優秀なのから子を作るように心がけるかね。

最も優れた男たちは、最も優れた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちはその逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方の子供たちは育ててはならない。

2100年後から始まるダーレーアラビアン・バイアリーターク・ゴドルフィンアラビアンのサラブレッドである。馬だけではなく、動植物には適用されている。小さな範囲で人間に対して試みた例はあるが、現在、成功した事例はない。これ、現在否定されている考えなのかなー? 

というのは多様性の強さ。大学や企業のリクルーティングにおいて、多様性を重視する傾向にある。一次元的な優劣による判断は難しいという結論なのだろうか。

シンガポールの政府主催合コンは
「男たちを選び出したのと同じようにして、できるだけこれと同じ素質の女たちを選び出して、彼等に引き渡すだろう。」
と同じことをやってる?

楽しみと苦しみが共にされて、できる限りすべての国民が損失に関して同じことを等しく喜び、同じことを等しく悲しむような場合、この苦楽の共有は国を結合させるのではないかね? これに反して、そのような苦楽が個人的なものになって、国ないしは国民に起っている同じ状態に対して、ある人々はそれを非常に悲しみ、ある人々はそれを非常に喜ぶような場合、この苦楽の私有化は、国を分裂させるのではないかね? それは国の中で、「私のもの」とか「私のでないもの」とかいった言葉が、同じ時に一緒に口にされないような場合ではなかろうか。

この人たちは家も土地もどんな持ち物も、いっさい自分だけのものとして私有してはならない。国を守る仕事の報酬としてのほかの人々から暮らしの糧を受け取って、みなで共通に消費しなければならない。もし彼らが真の意味での守護者であろうとするならば。

後のマルクスである。より明確に所有を否定している。


プラトン「国家」~7/13 国家の上位概念、ユーロ誕生

われわれが設立したような国家のほかに、国家と呼ぶに値するものが何かあると思っているとはね。

おや、では何と呼ぶべきなのですか?

他の国々のためには、もっと大きな呼び名が必要だ。なぜなら、そのひとつひとつがそれ自身、たくさんの国々なのであって、けっして一つの国家ではないのだから。いかなる場合でも二つの互いに敵対する国が、そこにある。すなわち、貧乏な人々の国と金持ちの人々の国とがそれであり、さらにそのそれぞれのうちに、きわめてたくさんの国が含まれているのだ。もし君がそれらを全体として単一の国家のつもりで相手にするなら、たくさんの国々を相手にするつもりで、一方の側の人々の財貨と権力、あるいは身柄そのものを、他方の人々に与えるというやり方を取れば、君はつねにたくさんの味方と少数の敵をもつことになるだろう。

200年後の秦帝国、始皇帝と朝廷である。400年後のローマ帝国とジュリアス・シーザー。2400年後のEUである

国家の全体も自然に一つの国となって、けっして多くの国に分裂することのないようにしなければならないのだ。あれやこれやと大変なことをたくさん彼らに命じているわけではなく、たった一つの大きなことを、大きさというより十分なことを守りさえすれば。

教育と養育のことだ。事実もし彼らがよく教育されて適正を知る人間となるならば、これらすべてのことや、さらには妻女の所有とか、結婚や子供を作ることといったような、我々がさしあたって省略して語らずにいる問題をも、容易に理解するだろう-これらすべては諺に言われるように、できるだけ「友のものは皆のもの」としなければならないとね。

後のマルクスである。所有と家族は社会的に何の合理性もない、というようなことはこの後も繰り返し出てくるので、都度、抜き出していく。

市場や都市や港に関する諸規定、あるいはその他これに類するいっさいのことなど-こういったことについて、我々はあえて何らかの立法を行うべきだろうか?立派で優れた人たちに、いちいち指図するには及ばないでしょう。そうしたことのうち、規定される必要のあるかぎりの法律の内容は、そのほとんどを彼らはきっと容易に自分で見出すでしょうからね。

後の資本主義、市場原理と自由競争である。

不節制な病人たちの生涯の過ごし方たるや、まことにご愛嬌ものだ。なぜって治療を受けながら何一つ効果を上げるわけでもなく、ただますます病気を複雑に大きくしていくだけで、それでいていつも、誰かある薬をすすめてくれる人があると、その薬で健康になれるだろうと期待し続けているのだからね。

後の米国、国民皆保険制度を認めない世論である。

単純にして適正な欲望、知性と正しい思惑に助けられ、思惟によって導かれる欲望はと言えば、君はそれを少数の、最も優れた素質と最も優れた教育を与えられた人々の中にしか、見出さないだろう。多数のつまらぬ人がいだく欲望が、それよりも数の少ない、より優れた人々の欲望と思慮の制御のもとに支配されているのを、君は目にするのではないかね。

プロレタリアートとブルジョワジー、消費する民と投資する資本家である。

各人は国におけるさまざまの仕事のうちで、その人の生まれつきが本来それに最も適しているような仕事を、一人が一人ずつ行わなければならないということ。そして、自分の事だけをして余計なことに手出しをしないことが正義なのだ。

後のホッブス、個人主義である。

女子も男子も同じ目的のために使おうとするなら、女たちにも同じことを教えなければならないわけだ。女子にも二つの術、音楽・文芸と体育、を課するほか、戦争に関する事柄も習わせ、そして男子と同じように扱わなければならないことになる。

2300年後の婦人参政権である。プラトン自身も他の箇所では「女は劣っている」とか書いていたので、すぐに理解されなかったのは無理もない。

あらゆることにおいて女性は男性に、ずっとひけをとると言って差し支えないでしょう。たしかに、色々の仕事にかけて、女が男よりも優れている例は数多くあります。しかし全体として見れば、あなたの言われる通りでしょう。

ね?


プラトン「国家」~6/13 ムハンマド、後退は死

もし人がハデスの国(冥界)の存在を信じ、しかもそこにはいろいろと恐ろしいことがあると信じているとしたら、死を恐れない人間、戦いにおいては敗北や隷属よりも死を選ぶような人間になると思うかね?

いいえ、けっして。

するとどうやら、われわれはそうした物語についても、それを語ろうと試みる人たちを監督して、ハデスの国でのことをそう一概に悪く言わずにむしろ讃えるように要請しなければならないだろう。彼らが現在語っている事柄は、真実の事でもないし、やがて戦士となるべき人々にとって有益なことでもないのだから。

1000年後の「ムハンマドとジハードの戦士たち」である。

名のある立派な人物たちが悲しんだり嘆いたりするくだりも、我々は削除すべきだろうか。立派な人物というものは、自分の友である立派な人物にとって死ぬことが恐ろしいことだとは、けっして考えないだろうと我々は主張する。そのような立派な人物こそはとりわけ、よく生きるために自分自身だけで事足りる人であって、他の誰よりも格段に、自分以外のものを必要とすることが最も少ないのである

ベルセルク第7巻、グリフィス、「オレの采配で命を落とした仲間たちに何ら責任を感じていないよ。なぜならそれはあいつらが自分自身で選んだ戦いなのだろうから。このオレがそうである様にね。でももしあいつら死者たちのためにオレに何かしてやれることがあるとしたら、それは勝つこと。あいつらが命を懸けてまでしがみついたオレの夢を成し遂げるために勝ち続けることだ。俺の夢は仲間の屍の上に立つことでしか実現できない、しょせん血塗られた夢だ。そのことで後悔や後ろめたさはない。だが…何百何千の命を懸けながら自分だけは汚れずにいられるほど…それほど俺の欲しいものはたやすく手に入るものではないんだ。」

ベルセルク第6巻、グリフィス、「私にとって友とは、決して人の夢にすがったりしない…誰にも強いられることもなく、自分の生きる理由は自らが定め進んでいく者…そしてその夢を踏みにじる者があれば全身全霊をかけて立ち向かう…たとえそれがこの私自身であったとしても…私にとって友とは、そんな…対等の者だと思っています。」

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語り方の2つの種類といったのは、正しい吟唱のための語りはほとんど同じ調べを取り、単一の音調のうちになされることになるのではないかね。ではもう一人のほうの語り方は、まったく反対に、ありとあらゆる音調とリズムを必要とするのではないだろうか?なにしろこの語り方は、ありとあらゆる形の変化抑揚を持っているのだから。我々の国家にはこれらすべてのものを受け入れるべきだろうか。それとも混合されないどちらか一方だけにすべきだろうか?

優れた人物の真似を行う、混合されない様式を受け入れるべきです。

しかしね、アデイマントス、混合された様式だって確かに楽しいものだし、さらにずっと、子どもたちや、その養育係の者たちにとって、そして大多数の大衆にとって一番楽しいのは君が選んだのと反対の方の様式なのだよ

後のスティーブ・ジョブズ 神のプレゼンテーション、田中角栄、ヒトラー「歴史を変えるのは書かれた言葉ではなく、話された言葉による」、わが闘争より
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プラトン「国家」~5/13 戦争の必然と一神教

国家というものがなぜ生じてくるかと言えば、我々が一人一人では自給自足できず、多くのものに不足しているからなのだ。

必要のうち第一で最大の者は、生きて存在するための食糧の備え(供給)だ、第二は住居、第三は衣服類のそれだ。どのようにすれば国家はそれだけのものを供給するに足るだけのものとなるだろうか。農夫が1人、大工が1人、織物工が1人いることになるのではないかね?

農夫は一人で4人分の食糧を供給しー、それとも他の人々のことはかまわずに、食糧の1/4を1/4の時間で自分だけのために作り…

一人が一つの仕事だけする場合がうまく行くだろう。

国家そのものを、輸入品の必要が全くないような地域に建設するということは、ほとんど不可能である。そこで貿易商もまた、必要だということになる。知能的な事柄にかけては共同者としての値打ちがあまりないけれども、力仕事のためには十分なだけの体の強さを持っていうような人々、賃銭取りも国家の成員として補充されるべき人々であるようだ。

我々が最初に語っていたもの-家や衣服や履物-にしても、もはや必要最小限にとどめるべきではなく、絵画や刺繍を始めなければならないし、金や象牙や全てその類のものを手に入れなければならなくなる。国家をもっと大きくしなければならない。先の健康な国家ではもう十分ではなくなって、今やこの国はもはや必要のために国々の中に存在するのではないような様々なものを、数・量ともにいっぱい詰め込まなければならないからだ。領土にしても、先にはその時の住民たちを養うのに充分であったのが、いまではとても充分ではなくなって、小さすぎるものとなるだろう。戦争というものが悪い結果をもたらすか、善い結果をもたらすかについては、まだ言明を差し控えることにして、さしあたって我々としては、これだけのことを言うにとどめることにしよう。我々はさらに戦争の起源となるものを発見した。

戦争の技術よりも靴づくりの技術の方により多くの気を配らねばならぬということがあるだろうか?
いいえ、けっして。
そうすると、国の守護者の果たすべき仕事は何よりも重要である明けに、他の様々の仕事から最も完全に解放されていなければならないだろうし、最大限の技術と配慮を必要とするだろう。

後の「フランスとシャルル・ドゴール」であるw パリ陥落したにも関わらず、何にも早く核開発既得権。

何にもまして国防、守護者は最も優秀でなくてはならず、そのためには教育が必要。

次のことを簡単に見逃してよいものだろうか、行き当たりばったりの者どもがこしらえ上げた物語を子供たちが聞いて、成人したならば必ず持ってもらいたいと我々が思うような考えとは、多くの場合制反対の考えを彼らがその魂の中に取り入れるのを?

ヘシオドスとホメロスが我々に語った物語。クロノスがどのようにしてウゥラノスに復讐したか、クロノスがやったこと、息子から受けた仕打ちの話など、たとえ本当の事であったとしても、思慮の定まらぬ赤い人達に向けて、そう軽々しく語られるべきではないと思う。

キマシタ。「多神教批判の前哨戦」のギリシャ神話批判です。不道徳な神々、ウラヌス、クロノス、ゼウスの親殺し、子殺し、オイディプスと近親相姦など、スキャンダラスで奔放なギリシャ神話上の”神々”は神として適切か? 僕はギリシャ神話批判はしないがね、ダンテ「神曲」に対してはプラトンと同意見だ。ギリシャ神話と聖書とローマ史をごちゃごちゃにして、面白おかしく、「作りごとの物語」で仕立て、ヨーロッパ中心のキリスト教観という虚構を作り出した張本人だ
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いやしくも神であるからには、真に善きものであるはずであり、有害なものではないはずだ。何らかの悪の原因であるということもない。ホメロスであれ他の詩人であれ、

ゼウスの宮の床には2つのツボが置かれてある。その一つには善き運命が、もう一つのには悪い運命が満たされて、ゼウスが両方の運命を混ぜ合わせて与える人は-時には不幸に会い、ときに幸せに会う しかし混ぜ合わせずに一方だけをそのまま与えられる者は-つらく厳しい飢えに駆られて、尊い大地を追われさまよう またゼウスは我々に 善きものをも悪しきものをも施し与える

というようなことも容認してはならない。

神とは魔法使いのようなものであって、あるときにはいろいろと多くの形へと実際に変身して自分自身の姿を変え、またあるときにはわれわれ欺いて、自分についてただそのように見せかけることにより、そのときそのときで、故意にさまざまの違った姿で現れることができるものだと思うかね? それとも神は単一な性格のものであって、自分自身の姿から抜け出すというようなことは到底あり得ないと思うかね?

ちょっとすぐには答えられませんが

では、もし何かが自分自身の姿か抜け出すとすれば、自分が自分で変わるか、他のものによって変えられるか、このどちらかでならないのではないか? まず、他のものによって動かされ変容させられるということの方だが、これは、最も優れた状態にあるものには最も起りえない。また、最も勇気があり最も思慮ある魂ほど、外部からの影響によって乱されたり変容を受けたりすることが、最も少ないのではないかね? 生まれつきにせよ、技術によるものにせよ、あるいはその両方によるものにせよ、すべてすぐれた状態にあるものは、他のものによる変化を受け付けることが最も少ないということになる。神及び神に属するものは、あらゆる点で最も優れた状態にあるはずだ。この観点から考える限り、神がいろいろと多くの姿を取るということは、もっともありえないことになるだろう。

神は自分で自分を変化させたり変様させたりするのだろうか?その場合は神はより優れたもの、より美しい者へと自分を変えるのだろうか、それとも自分より劣ったもの、より醜いものへと変えるのだろうか?

自分より劣ったものへでなければなりません。神が美しさや優れてあることにおいて不完全なところがあるとは我々には決して言えないでしょうから。

そうだとすればアデイマントス、神々であれ、人間たちであれ、みずからすすんで自分をなんらかの点で劣ったものにしようとするものが誰かいると思うかね? 神が自分を変様させようと望むこともありえないことになる。

偽りというものは、神々からだけでなく人間たちからも憎まれるものだ。神にとって偽りは役に立つのだろうか? 創作のための偽りということは、神の内にはありえないわけだ。神的なものは、どのような観点から見ても偽りとは一切無縁であることになる。したがって神とは全き意味において、行為においても言葉においても単一にして真実なものであり、自ら実際に変身することもなければ、現においても夢においても、幻影によっても言葉によっても兆を送ることによっても-他のものを欺くということもないのだ。

われわれはホメロスを多くの点で賞賛するものではあるが、しかしゼウスが「偽りの」夢をアガメムノンに送る件は、賞賛しないであろう。

とこんな感じで、多神教から一神教へのソクラテス的論理が紹介されている。私は神学の専門ではないので、これだけで一神教の論理整合性を主張するにはおそらく不十分であろうが、その原型を認めることができる。また同時に上記文章中の

現においても夢においても、幻影によっても言葉によっても兆を送ることによっても-他のものを欺くということもない

後の宗教の基本、ユダヤ・キリスト・イスラームだけでなく仏教においても言われた「偶像崇拝の禁止」につながっていく。プラトンやソクラテスが、一神教や偶像崇拝の禁止を言ったのではない。だが、歴史的に後に出てきた概念につながる発言があったことが面白いではないか。もちろん、プラトンは「マルクスの資本論」と同じことを言ってるのではない。だが、それを彷彿とさせることを言っているのだ! もうちょっと待ってね、出てくるから。


プラトン「国家」~4/13 キリストの磔、そしてロスチャイルドとモルガン

さて、不正な人間をこのように想定したうえで、その横に今度は正しい人間を-単純で、気高くて、アイキュロスの言い方を借りれば「善き人と思われることではなく、善き人であることを望む」ような人間を議論の中で置いてみましょう。正しい人間からはこの「思われる」を取り去らなければなりません。もしも正しい人間だと思われようものなら、名誉や褒美が彼に与えられることになるでしょう。そうすると、彼が正しい人であるのは「正義」そのもののためなのか、そういった褒美や名誉のためなのか、はっきりしなくなるからです。こうして一切のものをはぎとって裸にし、ただ正義だけを残してやって先に想定した人間と正反対の状態に置かねばなりません。すなわち、何一つ不正を働かないのに、不正であるという最大の評判を受けさせるのです

この直後のソクラテスがまさにそうなるだが、(具体的に知りたい人はの「ソクラテスの弁明」へ)
その400年後の「イエス・キリストの犠牲」が必要悪であったと予言しているのである。

正義だけを残して、不正であるという最大の馮がんを受けたものは、磔にされる、とまで言っているので、まさにキリストの処刑の予言とも思えるのだが、予言というオカルトめいた表現は不適切かもしれない。哲学する=真理の探究、一つの真実に対して無数に存在しうる偽り。真理に言及すれば、一つの真実、それが繰り返される確率が高くなり、将来予想が当たったと拡大解釈ができるわけだ。だが、誰も将来を予測することはできない。市場競争の世界でも、成功した者が正確に将来を見通せていたわけではなく、誠実な対応=真理の追求、それが結果的に将来予想が当たったように見えるだけだ。

そういう意味ではこれは、後の「キリストの犠牲」に留まらず、後の「信仰・学問・言論・表現の自由が憲法上で保障されている」ことに、うすーーーく、つながっている。

不正な人間こそは、真実に即してことを行い、人の評判のために生きるのではない以上、不正と思われることをではなく、不正であることを望んでいる。彼はまず、正しい人間だと思われているがゆえに、その国の支配権力を手に入れるだろう。どこからでも好きなところから妻をもらい、誰であれ好きなものの所へ子どもたちを縁付けるだろう。誰とでも望むがままの相手と組んで仕事をしたり、交際したりするだろう。そして、不正を働くことを何ら気にしないから、そういうことをすべて、自分の儲けのために利用して利益を収めるだろう。さらに私的にせよ公的にせよ争いごとをのぞんでは、敵方に勝って多くを獲得し、より多くを獲得すればこそ金持ちとなって、友には恩恵を施し敵には害を与え、神々には物惜しみせず豪勢に数々の生贄を供え、捧げものを奉納するだろう。

国の支配権力を手に入れる=「我に通貨発行権を与えよ。さすれば法など誰が決めようがどうでもよい」 マイヤー・ロスチャイルド

仮想通貨は少なくとも、さらに10倍は上がる根拠

後の「ジョン・ピアモント・モルガンとベルサイユ条約」である。後の「人類史上最大の富の独占者ジョン・ロックフェラー」であるとも言える。これが資本主義批判、すなわち、私が「これが後のマルクスである」と言うことへの伏線である。だが、もっとマルクスに近い表現にまで、ソクラテス・プラトンが迫っているので、ここでは、資本主義批判に留めておこう。

ただここで、馬鹿と天才は紙一重ではないが、究極の不正と正義も紙一重である。詐欺師と言えるレベルの不正は語るに値せず、不正も極めれば歴史に名を残す。私は、モルガンとロックフェラーを悪者扱いするつもりはないが、プラトンの言うところの正義ではなく、不正な人間だと言っているのだ。


プラトン「国家」~3/13 スターリンと大英帝国

指輪の玉受けを自分の方に、手の内側へまわしてみたのです。するとたちまち彼の姿は目に見えなくなって、彼等はギュゲスがどこかへ行ってしまったかのように涸れについて話しているではありませんか。玉受けをまわして内側に向ければ姿が見えなくなるし、外側に向けると、見えるようになるのです。ギュゲスはこれを知ると、さっそく王のもとへ報告に行く使者の一人に自分が加わるように取り計らい、そこへ行ってまず王の妃と通じたのち、妃と共謀して王を襲い、殺してしまいました。そしてこのようにして王権をわがものとしたのです。

後の「ポール・バーホーベン、インビジブル、姿は見えないが、殺意は見える」である。
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人は言うでしょう、このことこそは何人も自発的に正しい人間である者はなく、強制されてやむを得ずそうなっているのだということの動かぬ証拠ではないか。つまり、正義とは当人にとって個人的には善いものではない、と考えられているのだ。すべての人間は不正の方が個人的には正義よりもずっと得になると考えているからに他ならない。

後の「オリバー・ストーン、ナチュラル・ボーン・キラーズ」である。

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もし極度に不正な人間であるべきならば、色々の不正事を企てるにあたって誤ることなく、人目をくらますようでなければなりません。発見して捕らえられるような者は、へまな奴だと考えるべきです。なぜならば不正の極致とは実際には正しい人間ではないのに、正しい人間だと思われることなのですから。彼は最大の悪事を働きながら、正義にかけては最大の評判を自分のために確保できる人であると考えなければなりません。

後の「スターリン、一人殺せば殺人だが、百万人の死は統計上の数値に過ぎない」である、と書こうとしたが、独裁者とも言われている面もあるので…

後の「日の沈まぬ大英帝国による世界、植民地支配」であるw この方が良いかな。

大英帝国というのならば、地図を塗り替えた男、ジュリアス・シーザーでもチンギスハンでもナポレオンでも同じだろ、ってのがあるかもしれないけど、大英帝国のアジア支配は現代で、その支配冷めやらぬ現在でも未だに反発が少ない(少ないだけでかなりあるけどさ)のが、よりリアリティが感じられるからだ。香港が中国返還を恐れ、未だに選挙制度が非民主的なのだが、それは中国が新たにやったことではなく、イギリスが香港に対して行った愚民化政策の継続なのである。イギリスの最大の罪はイスラエルとパレスチナ問題だと個人的には思うが、アジア的な視点でも、アヘン戦争、日本だったら武器商人グラバーの暗躍、インドネシアから見ればカリマンタン=ボルネオの北半分の領有権をマレーシアが主張しているのは、イギリスとマレーシアの策謀に過ぎない。

我々アジアから見ると反発は薄くなるが、当の大陸ヨーロッパから見ればヒトラーは、著書「わが闘争」の中で

わが闘争 下 国家社会主義運動 6/7~ヨーロッパ外交政策
https://ichizoku.net/my-ideology/20130620/european-foreign-policy/

「今日のヨーロッパの勢力関係を冷静に吟味してみると、次のような帰結に達する。つまり、300年この方わが大陸の歴史は、ヨーロッパ各国の勢力関係を均衡させ、相互に牽制させるといった方法によって、自己の巨大な世界政策的目標にとって必要な後方守備を安全にしようとするイギリスの企てにより決定的に支配されていた。

と憎々しげに書いている。ドイツにとってはドーバー海峡、地中海を持っている国にとってもジブラルタルとスエズ運河とイスラエル、さらにヨーロッパ外でも、アングロ・イラニアンとホルムズ海峡、マレーシアとマラッカ海峡、シンガポール、香港など、すべての要所をイギリスが抑えてる。

ここで大英帝国の強さの根源、日本において希薄な意識は、ロジスティクス(兵站)の重要性だ。やれ核武装だ、ゼロ戦と戦艦ヤマトはすごかっただの、上杉謙信戦闘力100だの表現が多い。イギリスの強さは兵器の強さではなく兵站だ。日本の歴史だって同様の事がたくさんある。強調して触れられてるのは、信長の桶狭間、石山本願寺、ロジェストウェンスキー航海、ハワイ・サイパンをはじめとする太平洋群島列島、まぁ挙げればきりなくあるが。B29と核兵器も大きいよ、それは否定しないよ。でも、もっとくだらない次元で良い。日本のゲームは兵站を意識してない。信長の野望では、どんな大軍でも瞬間移動できたり、ドラクエでは食料も確保せずに無限に歩き回れる。

話がそれすぎた…ごめん。


プラトン「国家」~2/13 年収1ドルCEOジョブズと租税回避

正しさ、正義、ということですが、果たしてそれは、本当のことを言う正直な態度の事であり、誰かから何かを預かった場合にそれを返すことであると全く無条件に言い切ってよいものでしょうか。それとも、ほかならぬそういう態度でも、時と場合によっては、正しかったり正しくなかったりすることもありうる、と言わねばならないでしょうか。

誰かから金をあずかっても、その返還と受領が害になるような場合、しかも返す人と受け取る人が友であるような場合には、それを返すことは「借りたものを返す」ということにはならぬと、そういうわけだね? シモニデスは正義とは何かということを、それぞれの相手にふさわしいものを返し与えるのが正しい、ということらしいが、ただこのふさわしいもののことを借りているものという言葉で表現したのだから。

シモニデス、医術と呼ばれているものは、何に対して、どのような借りているものを、すなわち、本来それにふさわしいものとして何を、与える技術の事なのでしょうか?

友と敵に対して、利益と害悪を与える技術だということになります。

してみるとあるものの有能な守り手は、そのものの有能な盗み手でもあるわけだ。

よく判断を誤り、実際には良い人間でないのにそう思ったり、あるいはその反対だったりすることがしばしばあるのではないか?

多くの人たちにとって、彼らが人間の判断を誤る限り、友に対しては害を与え-その相手は実際には悪い人間-、敵に対しては益をなすーその相手は実際には良い人間なのだからね-のが正義である、ということになるだろう。

トラシュマコス「もし正義とは何かを本当に知りたいのなら、質問する方ばかりに回って、人が答えたことをひっくり返しては得意になるというようなことは、やめるがいい。答えるように問うほうがやさしいことは百も承知のくせに!」

後の「裁判制度」である。法を定めたとしても、それを杓子定規に適用し、正義と不正を判断するのが難しい。当時から裁判制度はあり、それによりソクラテスは処刑されるのだが。

優れた人たちが支配者の地位につくことを承知するのは、金のためでも名誉のためでもないのだ。なぜなら、支配の仕事のための報酬をあからさまに要求することによって、金で雇われた者と呼ばれることも、役職を利用して密かに自らの手を汚すことによって盗人になることもともに彼らの欲するとことではないからね。もし、支配者となることを彼らに招致させようとするならば、強制と罰とが彼らに課せられなければならない。強制されるのを待たずに進んで支配者の地位につこうとするのはみっとももないことだと一般に考えられているのも、おそらくは、こういうところから由来しているのだろうね。罰の最大なるものは何かといえば、もし自分が支配することを拒んだ場合、自分より劣った人間に支配されるということだ。立派な人物たちが支配者になる時には、こういう罰が怖いからこそ、自分が支配者になるのだと僕は思う。

Forbes The World’s Billionaires
https://www.forbes.com/billionaires/list/#version:static

後の「1ドルCEO、スティーブジョブズ」である。ビリオネアは、相続で得たロレアルのリリアンばあちゃん(最近死んでそのまた娘の新しいリリアンばあちゃんになったが)を除き、生涯現役だ。誰もが持ちえぬその富を、もっとも効率よく配分する、それが彼らの責任なのである。

人に不正を加えることは利(善)、自分が不正を受けることは害(悪)であるが、ただどちらかといえば、自分が不正を受けることによって被る害の方が、人に不正を加えることによって得る善(利)よりも大きい。そこで人間たちがお互いに不正を加えたり受けたりし合って、その両方を経験してみると、一方を避け他方を得るだけの力のない連中は、不正を加えること儲けることもないようにお互いに契約を結んでおくのが、得策であると考えるようになる。このことからして、人々は法律を制定し、お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして法の命ずる事柄を『合法的』であり『正しいこと』であると呼ぶようになった。これがすなわち、正義なるものの起源でありその本性である。つまり正義とは、不正を働きながら罰を受けないという最善の事と、不正な仕打ちを受けながら仕返しをする能力がないという最悪の事との中間的な妥協なのである

後の「米国超大手グローバル企業の租税回避」である。合法的な節税であるw


プラトン「国家」~1/13 プラトンとマズローの段階欲求説

ソクラテスの弁明がプライム・リーディングで無料だったから、適当に読んでいたら意外に面白かったので、2400年前と旧約聖書並みに古いが、「プラトンの国家」でも読んでみるかと、さっそくアマゾンでポチってみました。アマゾンの戦略通りの動き? 僕の印象ではアマゾンやYoutubeの「あなたへのお薦め」の精度は本好きの友人が一人増えたと思うほどに、的確なアドバイスで、とても気に入っています。

例えば、適当にYoutubeのあなたへのお薦めに従っていただけなのに、「ダン・アリエリーの行動経済学」の講義であったり、ヨーロッパで美術館が異様に安かったので美術館巡りをしていて、そこで飾ってあった絵は一体なんだったのか?とふと思いを巡らせただけで

ドラクロワ=絵画における3つの革命
https://www.youtube.com/watch?v=FrvWy61XOdE&t=1371s

こんなのに辿り着き、さらにそのお薦めを見ていくとさらに拡大し、それらを参考にしながら今度はアマゾンで「美術史」などのキーワードで本が出てきて…と無限に拡大できる。

ただ、アマゾンは、ほんの出来心で「エッチな漫画」を一度でもクリックしてしまうと、お薦めが、それ一色になってしまうので、言動には注意しなければならない繊細なお友達ですが。

「国家」全篇の構成

正義の定義-国家と個人における-(第2~4巻)
理想国家のあり方と条件、とくに哲学の役割について(第5~7巻)
哲人統治者のための知的教育
不完全国家とそれに対応する人間の諸形態(第8~9巻)
 理想国家(優秀者支配制)から名誉支配制への変動
 寡頭制国家と寡頭制的人間
 民主制国家と …同様…
 僭主独裁制国家と …同様…

概要のさらに抜粋だが、どう? これだけ見ても、ちょっと面白そうでしょ? 2400年前に民主制国家語るかね? ちょっと聞いてみようではないか。

ソクラテスの弁明では、ソクラテスが神々を否定し、ダイモーンなる邪教の推奨や若者の堕落の原因となったから…と処刑の理由が述べられているが、それが何なのかが、どうもわかりにくい。国家の方がより具体的でわかりやすいと思う。

老いについて

我々の大部分の者(ソクラテスと同じくらいの年寄り)は、悲嘆にくれるのが常なのだ。若いころの快楽が今はないことを嘆き、女と交わったり、酒を飲んだり、陽気に騒いだり、その他それに類することをあれこれやったのを思い出しながらね、そして彼らは何か重大なものが奪き去られてしまったかのように、かつては幸福に生きていたが今は生きてさえいないかのように嘆き悲しむ。老年が自分たちにとってどれほど不幸の原因になっていることかと、めんめんと訴えるのだ。

しかし、ソクラテス、どうもこの私には、そういう人たちは、ほんとうの原因でないものを原因だと考えているように思えるのだよ。なぜって老年が本当にそういったことの原因だとすれば、この私とてもその限りでは同じ経験を味わったはずだし、私だけでなくおよそこの年齢に達した人なら、みな同じことだろうからね。こういった事柄にしても、身内の者たちとの関係がどうのこうのということにしても、その原因はただ一つしかない。それは、ソクラテス、老年ではなくて、人間の性格なのだ。端正で自足することを知る人間でありさえすれば、老年もまたそれほど苦になるものではない。が、もしその逆であればそういう人間にとっては、ソクラテス、老年であろうが青春であろうが、いずれにしろ、つらいものとなるのだ。

民はいつの時代も、「老い」や「金欠」の”せい”にしているものだ。ちなみに全部は書かないが、このケバロスの意見に対して、ソクラテスが反論する。

「あなたがそのように言われましても、多くの人々はあなたのおっしゃることをそのままには受け取らないでしょう。あなたが老年を楽に堪えておられるのは、べつに性格のおかげなどではなくて、あなたがたくさんの財産を持っているからこそなのだと、こう考える事でしょう。」

と続いていく…面白いでしょう? 
ここでは「端正と自足することを知る」という非常に短い表現にとどめているが、この後の展開まで読んだ上ならば、この表現は、

後の「マズローの段階欲求説」の第5欲求、自己実現欲求を満たした者と、現在から遡れば拡大解釈できる。

もちろん、「マズローの言ってることは2400年前にプラトンが言っていた」とまでは言わない。だが、似たようなこと、その原型になるようなこと、今でも議論されているようなことと同じことを2400年前に議論していた、とは言えるだろう。今後、

「後のマズローである」

というような表現を多発していく。原始的な議論故に、現代の議論をいくつかかいつまんで読んだ後で、プラトンの「国家」を読むと、意外に広くカバーしていて面白い。マックス・ウェーバーの社会学、宗教観と経済学を同時に捉える見方を2400年前にしているのは「さすがはプラトン」だ。


特徴のないイギリスの特徴

私がヨーロッパに来た理由は、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」について”にわか”に語っていたことだ。私にとって、フランスは初めてのカトリックカントリーだったので、カトリックとプロテスタントという宗教的地盤の違いが、民の生活にどう影響しているのか? を感じることができれば良いなと思っていたのだが、フランス、オーストリア、イギリスだと、特徴のないイギリスに特徴を感じている。

当然、3国はEU、ヨーロッパ文化なので、アジアからの文化的差異は同様なのだが、その中でイギリスが最も違和感が少ないのはなぜだろうか? 英語と左側通行が親しみやすい理由にもあるのだが、もう少し深く考えて行こうと思う。

アメリカやオーストラリアなどのように、文化的支配には人民の輸出を伴っていた。一方、アジアの植民地支配は、文化的支配ではない。香港もシンガポールも、文化的、主に住んでいる民族も完全にアジアである。文字文化の破壊は、インドネシア・マレーシアとフィリピンにおいて部分的に成功し、自国言語をアルファベット表記に置き換えることができたが、アジア全般に広がるものではない。またアジアにおいては宗教的支配にも成功したとは言い難い。

では、ヨーロッパ列強が大航海時代に、植民地支配と共にアジアに持ち込み、今も影響を与え続けているものは何だろうか?

また、全く信仰心を持たない私が、ヨーロッパで好きなように生活していく中で、「カトリックとプロテスタントの違い以上に感じたヨーロッパ国間の違い」の根源には何があるのだろうか?

直接的には、左側通行、あるいは保護貿易と自由貿易の度合いの違いによる補助金や関税によって生まれる価格差だが、いずれにしてもそれらは「法」による影響である。人民の輸出、文化的支配、宗教の布教は、成功していないが、「法」だけは見事に成功している。ただ、法そのものだと詳細にわたりすぎていて視点が狭すぎるので、より一般化すると法体系と言った方が適切かもしれない。

大陸法系と英米法系 (Civil LawとCommon Law) という観点で切り分ければ、イギリスはヨーロッパの中では、かなり特徴的な独自の法体系を持っている。それをアジアに適用すると、元イギリス植民地支配は英米法系の左側通行の傾向が浮き上がってくる。ただし、完全一致はしていない。例えば、日本は通行はイギリスの左側だが、法は大陸法系なので、アジア各国はそれらが混合しているのだが、あくまで「傾向」がある程度だ。”法体系”そのものの違いが、日常生活に直接的に影響はしないだろうが、今後、数年かけて、具体的に違い分かるようになることを期待したい。


パリとウィーンと比較した場合のロンドン

・地下鉄の快適さ
パリ>ウィーン>>ロンドン

パリとロンドンは、電車が来る頻度は同程度だが、ロンドンは赤信号でよく止まる。完全に止まるわけではないのだが、地下鉄なのにバスくらいの時間不安定性がある。これは10年前のロンドン出張の時も地下鉄を使って出勤して遅刻したことがあるので、一時的・偶発的な問題ではないだろう。当時は

「地下鉄で来たの? 経費で出るんだからタクシー使ってよ! テロとかもあるんだし困るよ。」と怒られ、
「バカ野郎、経費とか自費の問題じゃねぇ!俺は無駄が嫌いなんだ!」とは思ったが。

今では業界もほとんど起こらないテロの心配よりも経費削減、「タクシーなんて使ってんじゃねぇ」となったらしいので、10年遅れてようやく俺に追いついたか。ま、だから斜陽産業なんだよ。

ロンドンの地下鉄は、熱がこもっている路線・区画もある。プラットフォームより車内が暑い。車両の問題か?

・のんびり度
ウィーン>パリ>ロンドン>かなりな文化的隔たりを経て>東アジア

パリ、ウィーン、ロンドンの順で回るとロンドンは、民の歩くスピードが速く、ビジネスの街だなぁと感じるのは間違いない。ロンドンは観光地ではないしね。えっ?観光もある?まだ大英博物館は行ってないから。帝国戦争博物館 Imperial War Museumsに行ったけど、観光客はほとんどおらず、ドメってる感じだった。ロンドンの観光地に行ってないからなおさらだが、それを差し引いてもロンドンは忙しい街だ。

同様に、文化的特徴もロンドンはパリ・ウィーン・ロンドンの3都市間では一番無い方だ。良く言えば国際都市化が最も進んだ都市なので、イギリス料理を食べたければ、探す必要があるほどだ。スーパーの品揃え、外食の選択肢もまんべんなく、価格の偏りがない。アジアだと、シンガポールがこの特徴を備えている。農業・産業がなく、言語がなく、独自の料理もなく、周辺東南アジア諸国+中国にも媚びへつらうシンガポールがイギリスに最も似ている。シンガポールを作ったのがイギリス人だからというのならば香港もそうなのだが、香港は言語があり、それに伴い広東料理があり、中国だけに媚びへつらっているので、偏りがある。

酒の価格も、イギリスらしく合理的だ。アルコール度数比例で課税されていて、「おっ?これは割安!」という酒類は無い。ワインが異様に優遇されているフランス・オーストリアに対し、自国製品であるスコッチに対しても、冷たく課税されており、イギリスでスコッチが安いという”税制的特徴”もない。よって割安さが無く、全体に割高なので購買欲がわかないのでロンドンでは部屋飲みは控えよう。パリ・ウィーンで、コーラより安い赤ワインを飲みすぎて、舌が黒くなってしまったので、ちょうど良いだろう。

・ロンドンは、建物に地下が存在する

パリ・ウィーンではほとんど見受けられなかった地下階がロンドンには存在する。地面を中心に考えると、ちょっと掘って、地下階にも窓があるような建物も多くある。英語のGround Floor, 1st Floorが実質2階という語源と言えよう。ウィーンに地下が無いのは、単に経済規模が小さく、地下を掘るほど地価がないからだ。一方、パリに地下が無い方が不思議なのだ。それにはパリの固有の事情があり、パリは、ローマ時代から続く採石場だった。ローマの石の建造物は、パリから持ち出された石によるもので、パリの地下は空洞だらけであった。現在だとカタコンブ、採石場というより墓地と髑髏という変わった観光地だが、採石場跡、空洞だらけのパリの地下の一部を垣間見るつもりで行くと面白いかもしれない。

・川とともには共通

ロンドンはテムズ川、パリはセーヌ川、ウィーンはドナウ川が街の中心をぶち抜いている。文明と歴史は飲料水である川と共に発達してきたので自然なことなのだが…、ふと思い出すのは東京。荒川と隅田川は、中心よりかなり端にある。変だと思って調べてみると…

東京水道の歴史

神田川だ。井の頭公園からだとすれば「真ん中通るは中央線」でバッチリだ。あー、いやいやスマンスマン、日本人なのにすっぽり抜けてた神田川。


なんか安心するロンドン アジアに今も残るイギリス支配

パリ・ウィーンで1か月ずつ過ごし、観光ビザでEU圏に滞在できる3か月間の最後はイギリス・ロンドン。街中に入った瞬間に安堵感。英語が聞こえてくる。表示も英語。フランスやオーストリアはアジア以上に英語が存在しないという近親憎悪状態。Sortie フランス語で出口、Eingang ドイツ語の入り口、思わず覚えてしまったよ。日本だってExitと書いてあるのに、書いてねぇんだぜ? 覚えているのはこの2つしかないが、俺が認識できないフランス語・ドイツ語だらけで、英語表記が非常に少ない。

そして、車が左側通行。私が過ごしているアジア諸国、日本・香港・シンガポール・タイ・インドネシア(マレーシア)は左側通行。中国とフィリピンだけが右側だ。

赤が右側、青が左側。

フランス・オーストリアからイギリスに入ると、私の過ごすアジア諸国が、軍事的とは限らないもののイギリス支配の影響を強く受けていることを感じる。

イギリスを含む私が過ごすアジア諸国のすべての国で、電車は入口と出口の両方で切符を出すものだが、パリは入口のみ、ウィーンは出す必要がない。電車の通行方向も、対面側のプラットフォームの場合、電車は右側から入ってくる。パリ・メトロは逆だ。慣れない駅の場合、逆方向のプラットフォームに向かってしまう。しかし国際鉄道の場合、イギリスともつながっているのでイギリスと同様の左側通行もあるが、普段の生活では圧倒的にメトロを使う。

5£と10£札はプラスチック紙幣、シンガポールと同じ。1£コインはシンガポールと同じ多角形型と、なんとなく、なじみやすい。

ロンドンでコンビニは見かけないという意味では、アジアとヨーロッパの文化の相違だが、24時間オープンのスーパーマーケットがホテルの側にあるのも安心感。ウィーンでは日曜休業に備えて、土曜日に必要な物資を買い集めたり、平日でもスーパーの空いている時間を意識しなければならなかった。アジア住みでコンビニ・24時間スーパー社会に慣れている私は、少し不便を感じたが、ロンドンではそれも一発解決。

スーパーの品揃えもロンドンは特徴がない。というよりアジア比で違和感がない(ただし、米がないなどの違いはある)。パリやオーストリアだと、ハム・ソーセージ・ベーコン・サラミなどの加工肉、乳製品、ワインのラインナップが異様にあるように感じる。フランス・オーストリアのワインのような異様な割安商品もない。香港のWelcome→デイリーファーム→ジャーディン・マセソンとイギリス系ということもあり、スーパーに陳列されている商品や価格分布まで、イギリス支配を今も色濃く残している。

ロンドンは2007年以来、約10年ぶりだが、出張や遊びで数回1週間ずつくらい滞在したことがある。当時は1£=200~250円くらいで、出張中でスーパーにも行かなかったため、日本人にありがちな感想、「ロンドン高い」程度であった。

2007/12/05 ロンドン 狂気の物価、以外のことを書こう 
2008/05/29 ドイツの気になること

自分で読み返すのも恥ずかしい。浅く稚拙な感想で視野が狭い。あれから10年、アジア一国一愛人構想を実践してきた私のロンドン初日の感想だけでも当時とは「経験と感覚」が違いすぎることがお分かりいただけよう。


何度聞いても面白い映画解説 町山智浩

映画じゃなくて漫画なんだが。

町山智浩が漫画『ザ・ワールド・イズ・マイン』を語る

この解説はなかなか神がかっていて面白い。ワールドイズマインとスカーフェイスは少なくとも見た上で聞くとなお良いだろう。

ワールド・イズ・マイン 新井英樹

という一つの漫画を語る際に、

スカーフェイス 監督:ブライアン・デ・パルマ、主演:アルパチーノ

映画中のWorld is yoursが漫画タイトルになっているほどの重要作だが、他にも

ナチュラルボーンキラーズ オリバー・ストーン
時計仕掛けのオレンジ スタンリー・キューブリック
インビジブル ポール・バーホーベン
国家 正義について プラトン
2001年宇宙の旅 スタンリー・キューブリック モノリスに触れることで、人は、人を殺すサルに。
タクシー・ドライバー 監督:マーティン・スコセッシ 主演:ロバート・デニーロ
19歳の地図 中上健次
檸檬 梶井基次郎
復讐するは我にあり 監督:今村昌平 小説:佐木隆三
世界の中心で愛を叫んだ獣 ハーラン・エリスン
脇役の名前、三隅俊也みすみとしや、映画監督の三隅研次と伊藤俊也の合体なのでは?
ペットセメタリー
シャイニング 小説として紹介しているが、スタンリー・キューブリックによる映画化も。

とまあ、すごい数の映画を絡めて、ワールドイズマインを語る。ここであげられている映画については邦画以外は私は全部見ているが、主人公の論理が、ラスコーリニコフの主張と似ている場合もある。

町山氏はドストエフスキー「罪と罰」については直接的に触れていないものの、

人はなぜ人を殺してはいけないか?

この一大テーマを題材にした映画はたくさんある。ワールドイズマインの漫画の中でも「人はなぜ人を殺してはいけないか?」という質問を総理大臣に尋ねるシーンがある

例えばニュートンの発見が、なんらかの事情の組合せによって、この発見を妨げる十人百人の生命を犠牲にしなければ、一般人類の所得となりえないとすれば、 ニュートンは自己の発見を生かすために、当然これら十人百人の生命を屠る権利をもっているわけである。ぜんたいとしてこれらの非凡人は、マホメットにしても、ナポレオンにしても、新しき律法を与えんがために旧き律法を破壊し、流血の惨をも厭わなかった意味において、すべて犯罪人といわなければならぬ——これがラスコーリコフの犯罪に対する理想的根拠なのである。

ニーチェ ツァラストラはかく語りきの超人思想とも類似している。時計仕掛けのオレンジのアレックス、タクシードライバーのトラビスが屈折した過程でたどりつく様子を映画的に表現している。

罪と罰をダイレクトに漫画化した作品もあり、日本で読んでみたが、舞台を現代日本に置き換えているので、原作原理主義者は卒倒してしまうだろう。現代日本なので、革命前夜のサンクトペテルブルグの不穏な空気や貧しさが全く無く、全体的に軽い感じの話になっているが、かなりの努力をもって原作を現代日本的表現に直したのがわかる。

落合尚之氏の才能が最もよくわかるのが、原作通りのシーンが一つあり、群衆が老いた馬を叩き殺すシーンを漫画で表現している。だが、漫画「罪と罰」では、そのシーンだけが異様なまでに暗く、浮いている。だから落合氏の表現力をもって、原作の「罪と罰」をそのまま漫画化してしまえば、革命前の不穏な空気の漫画化ができるかもしれない。

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すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 4/4~女に生まれた時点で殻の外

会社の評価軸は、「仕事」ではない

会社とは、人が仕事をするために存在する組織のはずだ。そして社員は、そこで何を生み出し、何を世に送り出せるかで評価されるべきだと思っている。しかし、軍隊式の組織では「仕事で評価する」という考え方自体がない。もはや会社の目的が「仕事」ではなく「秩序」の維持になってしまっている。多くの人たちが「月曜日が憂鬱だ」「宝くじがあたったら会社をやめたい」などというのは、その人たちが会社で行っているのが、筒所のための労働であり、軍隊の行進練習のようなものだからだろう。面白くもなんともなくて当然だ。

私の友人の名言、「日本の会社は結果じゃなくて犠牲を求める」が思い出される。

私の個人的な経験では、会社で我慢を強いられたことはほとんどなく、「会社の資本と人材を使っていいですよ。」という印象だ。おそらく、「月曜日が憂鬱」とか言ってる人は会社に求められている人材ではない。互いにとって不幸だからとっとと辞めればいいだけのことだ。

「辞められるわけがない」は嘘だ

「辞めたら次の職が見つからないかもしれない」「人手不足だから自分が止めたら周りが迷惑する」などと言って首を横に振る。危ない兆候だ。こうした「辞められない理由探し」に走っている状態の人はだいたい心の健康を既に害している。彼らは口を揃えて「会社を(学校を)辞めたら大変なことになる」と人を脅す。僕は東大を中退しているが、大変な目に何て一切逢わなかった。会社をやめて転職したり、独立したりといった経験を持っている人だって大勢いる。「大変なことになる」というのは、ただのデマなのである。

ヤクザじゃねぇんだからさw

俺も大学の付属高校を中退しているから、「高校中退して結果的に良かったじゃん」とよく言われる。
会社辞めて、給料がない状態が10年以上続いているが、全然、困ってないね。このライフスタイルは女性を真似たものだ。どういうことかわかりやすく説明したのがチキリンで、チキリンと勝間和代との対談の中で、チキリンは「女というだけで、社会のレールから外れていた。」と述べていたように記憶しているが正確を期すために、もう一度見てみよう。

勝間和代 & ちきりん 『変化の時代の乗り切り方』

41分のところ。レールじゃなくて「殻の外」と言っている。書き下そう。

勝間「一般の人がなぜ殻をやぶれないか考察したことは?」
ちきりん「私も勝間さんも女じゃないですか、最初から殻がやぶれていたじゃないですか。自分がちゃんとした殻を持って生まれていたら、卵の中に住んでるみたいな世界の人生だったら、それをやぶって外に出るのは私も怖い。だから女で良かった。しょうがないから外に出た。殻の外の方が楽しいじゃんみたいな世界だった。リスクなんて取ったって大して怖くないんだけど、見えないと怖い。女に生まれた段階で、『仕事ないですよ』と言われた段階で、殻の外にいるので、怖いものは何もない。そこはラッキーだった。」

「女というだけで殻の外だった。だからリスクは怖くなかった。」というのを、殻の中の俺が見よう見真似でやっただけだ。チキリンがよく主張している「ゆるく考えよう」「目標を下げよう」「成長を全然考えてない」「ダラダラ生きよう」を採用すればいいだけだ。低い目標でダラダラ生きるのに才能も財力も必要ないのは明らかだ。

チキリンは頭の良い特別な女性だから…、という意見に反論するために、

2014/06/11 意外に最適行動するバカお嬢様
マジでバカだから。低収入だから。それでもバカお嬢様連中は自由でカネがあるんだ。

でも、お嬢様? カネがある? という意見に反論するための例もさらにあるぞ。

バカお嬢様は横浜という土地に寄生する、ホリエモンの言葉で言うL人材で成功しているパターンだ。一方、私の知っているタイのキャバ嬢たちは、バンコク、実家のあるタイの田舎、シンガポール、東京、台北、クアラルンプールと飛び回り、遊びまくってるぞw これはホリエモンの言うG人材だ。特別な才能と豊富な財力? あるわけねぇ。

ホリエモンも繰り返し述べていたことではあるが、グローバルGとローカルLというのは、資本論よろしくのブルジョワジーとプロレタリアートの優劣ではない。Gが優れているということはない。日本人だとG人材はなかなか発見が難しく、いたとしても「豊富な財力」を背景にしている人になってしまっている傾向はあるが、タイのような新興国の若年層なら、グローバル人材に能力や資本力が必要ないことがよくわかる。SNSを駆使しながら「私は今東京。あなたが東京にいるなら会いましょう」みたいな感じだよ。


すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 3/4~「自称凡人」の誕生の過程

没頭は「天才の特権」ではない。

没頭する力は誰にでも備わった普遍的な力である。あなたも、かつては「没頭の達人」だったはずだ。そう、子ども時代である。子ども時代は、誰もがあらゆることに没頭しながら生きている。彼らは大人にとってはちっとも面白くないようなことを何十分でもやり続ける。

ただし、「子どもはみんな天才だ」などという甘ったるい言葉には僕は共感できない。子どもが天才なのではなく、これが人の「通常モード」なのだ。ただ、ほとんどの人は成長の過程で没頭を押し殺し、いつしか没頭そのものを忘れてしまうのである。どうして人はこの存在を忘れてしまうのだろう?

そのきっかけを作るのは、親である。

部屋や服を汚したり、遊びに夢中になったりといった幼児の行動を、親は一日中制止し続ける。もちろん、子ども自身に危険が及ぶような行為は止めなければならない。しかしほとんどの親は、幼児の行動を管理する延長で、ある程度大きくなった子供にまで「これをしちゃいけません」「あれをしちゃいけません」という禁止のシャワーを浴びせかける。大半の子供はこの時点で、「そうか、やりたいことをし続けるのは悪いことなんだ」と思い込むようになってしまう。あとは学校の禁止シャワーで仕上げれば、「自称凡人」の誕生だ。

子育ての基本、禁止。嫌だねぇ…。

僕には「好きなことに打ち込むことは悪いことである」という価値観はさっぱり理解できない。「子どもがサッカーに夢中で、サッカーの強い高校に行きたいというんです。でもJリーガーになれる人はごく一部だし、できれば普通の進学校に進んで勉強してほしくて…」この手の意見は耳にタコができるほど聞いてきたが、素直に言うと僕には意味がわからないのだ。

「サッカー選手になれる確率は低いのだから、サッカーにハマるのは無駄だ」。これは裏を返せば、「サッカーをやるからには、サッカー選手にならなければならない」という謎の強迫観念にとらわれているということだ。サッカーという入り口は、サッカー選手という出口にしかつながっていない…とても窮屈な考え方だ。まさに「用意されたレール」式の発想である。いちいち解説するのもおかしな話だが、「サッカーに没頭する」という体験がもたらす可能性は、「プロのサッカー選手になる」ことだけじゃない。もしかしたら彼は途中でサッカーグッズの開発に興味を持つかもしれない。サッカー漫画にハマって漫画家を目指し始めるかもしれない。サッカー部でできた友達と何か関係ない仕事を始めるかもしれない。10年後にはサッカーにまつわるまったく新しいビッグビジネスが生まれており、彼のスキルがたまたまそれに生きるかもしれない。

「土地を持っています。巨大施設は作れなさそうな狭さなので、ラグジュアリーなホテルをここに建てようと思うのですが、周りには競合となりそうな宿泊施設も多いです。堀江さんならどのような方法で差別化を図りますか?」
土地がある。狭さから見てこう言ったことにしか使えない。どうすればそこで勝ち上がれるだろうか。この質問は「ホリエモンチャンネル」でも取り上げ、「順序が逆だ」と指摘した。土地があるからホテルを作るのではなく、「ホテルを作りたいから土地を探す」のが本来の順番だ。

ホリエモンはこの本とは別に、同じことを言っている。

「ニーズなんか、今はそんなにないですよ。」

――一般への普及を度外視した場合、投機以外のビジネスの参入機会もあると思います。FinTechのような融資や保険、送金といった分野では、ビットコインが活かせるビジネスがあるのではないでしょうか。例えば、今までもP2Pレンディングはあったと思いますが、これをブロックチェーンで出来る可能性もあるのではないかなと。
なんで?
――後進国では銀行口座を持っていない人がいて、そういう人たちに支援するのにビットコインは最適ではないかと考えていまして。
それはビットコインじゃなきゃ駄目なんですか?お金を集めるにせよ、ビットコインを持ってる人が全然いないじゃないですか。普通にドル建てでクラウドファンディングした方がいいんじゃないですか?
――銀行口座を持っていない人とか、あとは少額でいいから欲しいって人はいると思います。極論、1,000円でもいいって人はいると思うんです。
そういう人たちはそもそも、ビットコインを受け取るPCも持ってないでしょ。
そうやってビットコインを無理やり使おうとする考えはやめた方がいいですよ。先に問題があって、それを解決するのにビットコインが必要だから使うって考えなきゃ

ビットコイン信者は邪魔でしかない

あなたちょっと、ビットコインにはまりすぎてて、発想がビットコイン原理主義者みたいになっちゃってますよ。ビットコインじゃなくちゃ駄目だ、ビットコインを使わないと、みたいな。無理やりビットコインに結びつけようとしてる。
そういう発想になったら、おかしな方向にしかいかないし、「何あいつ。あのビットコイン野郎、なんなの?」みたいに思われますよ、はっきり言って。そういう現実離れしたよくわからない話は、普及の邪魔にしかなってない。インターネットの黎明期の時にもいたんですよ。あなたみたいな人が。実際に普及させようとしてる人を馬鹿にしてるようにしか見えませんよ。

この対談の相手がどんな人だか覚えていないが、このような「順序逆転現象」、目的と手段の取り違えは、もっと広い範囲で起こっている。同じことを伊賀泰代氏が「イノベーション・エイエイオー」と揶揄している。

2017/04/07 技術が重要なんだけど、技術だけではない現状


すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 2/4~学校と産業革命

「使いやすい労働者」を大量生産する工場

学校はそこに通う人間を、とにかく「規格」どおりに仕上げようとする。建前上は「個性を大切にしよう」「のびのびと育ってほしい」などと言うものの、その裏にはいつも「ただし常識の範囲内で」という本音が潜んでいるのだ。

学校と工場が似ているのは、実は当然のことなのだ。そもそも学校は工場の誕生と連動して作り出された機関なのである。一定の年齢に達した子供を1か所に集め、読み書きや計算を教えるーこうした学校制度の基礎は19世紀、つまり産業革命期のイギリスで生まれた。

読み書きソロバンができ、指定された場所に毎日規則正しく通い、リーダーの指示に耳を傾け、言われた通りの作業に励む。そんなサイクルをこなせる「きちんとした大人」を大量に用意するには、子供のころから仕込むのが一番手っ取り早い。学校はもともと、子供という「原材料」を使って「産業社会に適応した大人」を大量生産する「工場」の一つだったのである。今の学校もこの原則は全く変わっていない。

使用する教科書を国家がチェックするという制度自体、先進国の中では極めて稀である。日本以外で検定制(国定教科書)を採択している国を見ると、韓国や中国、ロシア、そしてトルコやキューバなどの開発途上国が続く。

インターネットがもたらしたものについて、「国境がなくなった」と考えている人は多い。遠い外国の情報を瞬時に、リアルタイムで入手できるようになったと。しかし、インターネットがもたらした本当の衝撃は、国家がなくなることなのだ。僕たちの「〇〇国に住む〇〇人」という意識は着実に薄まっている。一部の年寄りが言うように、日本人が軟弱になったからなんかじゃない。「国はいのちよりも大事なものである」というストーリーに説得力がなくなっただけだ。「日本に住む日本人である」ことよりも、「インターネットがつながっていること」「アマゾンの配達が届く場所であること」「スマホの充電ができること」の方が日々の生存戦略に関わってくる。もちろん、まだ「国」という枠組みは残っている。国家(税金による富の再分配)という機能は今後も残るだろう。だが、それを支える「国民」そして「国民国家」という概念はもはやファンタジーに過ぎない。というより、そもそも想像上の産物なのだから化けの皮がはがれたというべきか。今や「国民」を作るための洗脳装置は不要になった。これから人類は「国」から解き放たれた、真に自由な「民」となるのだ。

うん…そうね。今既に、ほとんど国から解放された民になってる。

グローバルとローカル

ローカル人材の特徴、一つはとにかく保守的な人が多いという点。マイルドヤンキーは、仲間との絆を重んじ、その中に上下関係を作りたがる。どんどん変化していく仲間よりも「はい、兄貴の言う通りです」と付き従ってくれる”子分”を欲する傾向が強い。L人材が好むコンテンツを見れば、その嗜好性は明らかだ。『ONE PIECE』のメインキャラクターたちは、常に仲間のために死に物狂いで戦い、涙する。ジャニーズやAKB48、EXILEといったアイドル歌手が売りにしているのも、歌というよりはむしろグループメンバー間の絆や、ファンとの連帯感の方だ。

もう一つ重要なのは地方の”居心地の良さ”は、非常にもろい条件の上に成り立っている、という事実である。確かに地方は家賃が安く、駐車場代もかからない。少し車を飛ばせば、大型商業施設にたどり着ける。そこに行けば何でも揃うし、遊ぶ手段にも事欠かない。ただ、こうした”楽園”の維持費となっているのは、その地方自体の税収ではなく、地方交付税交付金だ。つまり、大都市圏で働く高所得層の納めた税金が地方に回っているからこそ。地方の居心地の良さは守られているのである。

仮想敵が居ないと生きられないN人材

GにもLにも行けなかった人はN人材になる。N人材は「国家」を生きる人材だ。グローバルな価値観を受け入れられず、さりとてローカルでおだやかに過ごす踏ん切りもつかなかった人たち。つまり、時代の変化についていくことができなかった人たちである。時代の変化に取り残されている人たちの存在は、数年前からはっきり可視化されてきたと思う。例を上げると、2010年頃から、やたらと「日本の素晴らしさ」をネタにするテレビ番組が増えた。ひたすら日本を礼賛する書籍や、逆に中韓への批判を書き連ねた書籍が店に並ぶようになったのも同じころだった

こうしたブームの始まりは、僕がグローバリゼーションの加速を感じたタイミングと完全に一致している。2010年以降、世界規模でスマホの普及率が上がり、インターネット上で世界の人々の連携が進んだ。その中で、変化を恐れる人たちは内にこもり始めた。そして閉じこもる己を正当化するために「どこよりも素晴らしい国、ニッポン」というNのフィクションを作り出したのだ。

「国家」というのは時代遅れの「古い常識」にすぎない。だからそこにしがみつき、居場所を求めている人たちは、メインストリームに取り残され、じわじわと苦境に追いやられる。だがその苦しみの原因がわからず、いつしか「仮想敵」を作り上げてしまう。

日本だけの現象ではない。トランプ支持者とEU離脱はこの現象がグローバルに起きていることの好事例だ。


すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 1/4~支配されるという特権

「何かしたい」けど、「今はできない」人たち

「やればいいじゃん!」 これは僕が口癖のように言っているアドバイスだ。「やりたい」と言いながら、さまざまな言い訳を並べ立て「今はできない」と逃げ回っている人たち。彼らは、大きく2つのパターンに分けられる。一つは「本当に何もやりたくない人」だ。口先では理想を語り、大きな夢を語るものの、本気でそれを実現したいとは思っていない。夢を語っている自分が気持ちいい、というタイプの人たちだ。申し訳ないが、そういう人が本書を読んでも得るものは無いだろう。悪いことは言わないから、今すぐ本を閉じて、もっと心地の良い「夢」を語ってくれる自己啓発書を買った方がいい。

2008/09/23 被支配階級の特権

タルタロス「縛り付けた覚えなどないな。彼らは力で支配されることを望んだのだ
ハミルトン「望んだだと?
タルタロス「そうだ・・・世の中を見渡してみろ。どれだけの人間が自分だけの判断で物事を成し遂げるというのだ?
      自らの手を汚し、リスクを背負い、そして自分の足だけで歩いていく・・・
      そんなヤツがどれだけこの世の中にいるというのだ?
ハミルトン「・・・・・・
タルタロス「貴公らの革命を思い出してみよ。貴公らが血を流し、命を賭けて守った民はどうだ?
      自分の身を安全な場所に置きながら勝手な事ばかり言っていたのではないのか?
ハミルトン「彼らは自分の生活を維持するだけで精一杯だったのだ・・・
タルタロス「いや、違う。被害者でいる方が楽なのだ。弱者だからこそ不平を言うのではない
      不満をこぼしたいからこそ、弱者の立場に身を置くのだ。彼らは望んで『弱者』になるのだよ
ハミルトン「馬鹿な・・・人には自分の人生を決定する権利がある。自由があるのだ!
タルタロス「わからぬか! 本当の自由とは誰かに与えてもらうものではない。自分で勝ち取るものだ
      しかし、民は自分以外の誰かにそれを求める。自分では何もしないくせに権利だけは主張する
      救世主の登場を今か、今かと待っているくせに、自分がその救世主になろうとはしない。それが民だッ!

ハミルトン「人はそこまで怠惰な動物じゃない。ただ、我々ほど強くないだけだ
タルタロス「・・・聖騎士よ、貴公は純粋過ぎる。民に自分の夢を求めてはならない。支配者は与えるだけでよい
ハミルトン「何を与えるというのだ?
タルタロス「支配されるという特権をだッ!

俺はこれを何度引用したことかw

教育は、よく「投資」にたとえられる。子供たちへの教育は未来への投資だとか、社員教育は会社にとって投資であるとか、スキルアップのための自己投資と言ったフレーズは、あなたもしばしば見聞きするだろう。僕ももちろん、「学び」はそれぞれにとっての投資であるべきだと思う。投資とは、投資した側へのリターンが発生すること、すなわい投入した資本がそれ以上に大きな価値を社会に生み出すことを言う。だが、今の学校教育は「投資」になっていない。いざという時に引き出すための「貯金」にとどまっているのだ。

貯金の本質は我慢である。そして99%の我慢は、ただの思考停止にすぎない。一方、投資の本質は先読みだ。自分が何を求め、どんな社会でどう生きたいのか考え抜くことが求められる。

メディアはこぞって「あれだけの高学歴で、なぜ新興宗教に?」と大騒ぎしていた。世界的エリートになるはずの者たちが、あんな宗教にダマされるなんてわけがわからない、というわけだ。僕の目に映る彼ら学校教育のエリートは、「洗脳されることに慣れた人たち」だった。もともと洗脳に慣れた人たちが、信仰先を変えただけ。彼らは結局、出家と称して世俗から離れた後も、「親のようなもの」を求め、「学校や会社のようなシステム」を欲し続けていたのだ。これらの欲求の根っこにあるのは「目上の人に認められるのは良いことだ」「与えられた環境で我慢(修行)し、上の位を目指すべきだ」といった、誰もが抱えるごくありふれた思い込みーそう、「学校で教えられた常識」である。

僕は宗教には何の興味もない。肯定も否定もしない。それによって幸せになれると思うのであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。はっきり言って、幸せになれる確率が低すぎる。その理由もおいおい述べよう。残念ながら普通に暮らしている限り、「常識」という教義の危険性に気づく機会は少ない。それは「常識」の洗脳が、国家ぐるみで行われているからだ。国家は全国に46,000箇所もの”出先機関”を設け、この国で暮らす人たち全てをその魔の手にかけている。その出先機関とは「学校」だ。

学校にとっては知識など、添え物程度の意味しかない。学校はただ、ゆがみきった「常識」を植え付けるために存在する機関なのである。ここで簡単に「知識」と「常識」の違いについて触れておこう。知識としては、原則として「ファクト」を取り扱うものだ。主観の一切入り込まない事実に基づく知。それが知識である。一方、常識とは「解釈」である。主観の入りまくった、その時代、その国、その組織の中でしか通用しない決まりごと。それが常識である。

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オーケストラだけじゃないオーストリアが持つ富の源泉は何か?

街中に馬車がいる牧歌的な都市ウィーン。動物に寛容なのか、犬を連れている人が多く、ペットOKの場所がとても多い。
チップ制度がパリは無いが、オーストリアあり(要求されたのはリンク内だけだが)。
スーパーで売っているビールの種類はオーストリアが多い。パリは3種類しか置いてないようなスーパーもあった。

私のホテルの近隣は観光地ではないはずだが…、なぜかホテル近隣のレストランで食事をすると日本人が居ることが多い。とても不思議で原因は今のところ不明。観光地でないから観光客ではなく居住者? さあ、オーストリアに日本人は何人住んでいると思うね?

https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000368753.pdf 28ページ

在留日本人 3000人。フランス40,000人と比べると皆無に等しい。経済規模や人口は全てフランスの1/10と考えると符合する結果だ。このホテルの周辺に3つも日本食があるが、すべて偽物系日本食なのでリトルトーキョーとは言い難い。

パリもウィーンもホテルは旧式。鍵がぐるっと回すマニュアル鍵。アジアでは見たことがない。ホテルの廊下の電気は自動節電。パリでもそうだった。エコ、ケチ、エネルギー問題にセンシティブ。

オーストリア3重苦

資源がない。
植民地がない。
産業がない。

その結果、株式市場は惨憺たる状況であることはすでに述べたが、あまりの状態なのでもう一度しつこく書くと、

EuroStoxx50に採用されているオーストリア企業は一社もない。

ヨーロッパの時価総額の大きな企業で見れば、産業があるドイツを除けば、植民地利権、旧東インド会社が今も色濃く残っている。イギリスとフランスはその傾向が強いが、BP、ロイヤルダッチシェル、トタル、極めつけは、香港の通貨発行権を持つHSBC。インフラ支配という意味では日本では存在感がほとんどないスペイン系のバンコ・サンタンデール、BBVA、テレフォニカなど、南米・旧植民地圏ではご活躍だ。

それなのになぜオーストリアは国家として存在しているのか? 一人当たりGDPが日本より高いのはなぜか? 実際、街を歩いて民を眺めても、それほど貧しそうには見えない。

オーケストラと観光誘致だけでは到底説明不可能だ。オーストリアという不毛地帯を表現するのは下記の絵1枚で十分であろう。

パイプラインの通り道。ロシアより愛をこめて、ヨーロッパにオイルを贈る。エネルギーロードの端点である日本にはない地政学的要因だ。アジアだとパイプラインではなくシーレーンになるが、シンガポールもオーストリア3重苦を持っている。資源がない、植民地がないどころか植民地だったw、産業がない。でも精製と通り道ってだけで国が成り立っている。オーストリアにいるとこんなニュースが急に見えるようになってくる。

OPEC、減産緩和で合意 供給不足に対応

オーストリアはOPEC加盟国ではないものの、石油輸出国機構の本部は首都ウィーンに設置されている。産油国でもなければ、消費する程の人口もなく(800万人)、産業もない。ただの通り道にもかかわらず、なぜかウィーンにOPEC本部がある。

OPECやIAEA(国際原子力機関)の本部がウィーンにある理由は、東西冷戦の狭間。「西欧でも東欧でもありません。中欧です! 永世中立国です。もめごと解決の会議はオーストリアを使ってください。」と言うことで成り立っている。

秋山信将×池内恵「核不拡散論」 #国際政治ch 22
https://www.youtube.com/watch?v=uOgdNyb8jJY&t=2272s
でオーストリア政府が本部ビルをIAEAに、年間1シリングで貸し出したという話をしている。動画の中に本部ビルも出てくるから興味があれば見てみると良いだろう。


なんでお店が儲からないのかを僕が解決する

行き詰っている店主が必ず口にすること

悩みとして必ず出てくるトップ3は決まっている。「食べログ」「ドタキャン」「人材確保」だ。

なぜ食べログが「悩みの種」になってしまうのだろうかというと、「あることないこと」とは言わないまでも、重箱の隅をつつくような小さな問題を論い、低い点をつける人がいるからだ。

ホテルのレビューも同じだ…。俺が泊まるような安いホテルに対して、古い、汚い、朝食がまずい、などと書いている奴が多いので、レビューは見ないことにしている。

若者に辞められないために、一つ考えられるのは給料を上げることだ。そんな財源はない?ないなら作るしかない。彼らは十分な給料、ボーナス、福利厚生を与えるために、価格を上げるのだ。「安い値段で料理を出して、お客さんに喜んでもらいたい」と言うけれど、誰かが犠牲になってまで安い料理を出すのは不健全じゃないか?

「お客さんが来ない」と頭を悩ませているお店に多いのが、「いいものを誰もが食べられる値段で」という価格帯だ。値付けの問題というよりも、料理と価格への思い入れが強すぎて失敗している。出したいものは上を見ていて、価格は下を見ている。これは必ずしわ寄せが出るパターンだ。

しわ寄せはデフレの原因として日本を全体を覆っている。飲食店だけの問題ではない。金融政策以上に、このデフレマインドが強烈に効いているというのが私の意見だ。見かけ上の値上げに過剰反応する国民性なんだ。お値段据え置きで量を減らす。わざわざパッケージを作り直すコストを考えれば値上げが効率が良いのだが、消費者が過剰反応しすぎるので、できない。

きちんとした経営のお店にとってはクレジットカードの控えによって入金管理できるのは、手数料以上にいいところがある。入金が間違えようがなく管理され、自動的にリスト化される。忙しい営業が終わった後にこまごまと計算機を叩く必要なく、だ。またドタキャンの問題解決にもつながるけれど、顧客管理ができる。カード番号から得られる情報は多く、キャンセルが多くお客さんのチェックも可能なはずだ。オンライン予約と連動させていけばキャンセルフィーを請求することもできる。

「現金のみ」で怪しい小遣いを手に入れるのもいいけれど、まったくスマートじゃない。クレジットカード払いを積極的にすることは、お客さんの利便性だけではなく、お店の利便性にも必ずつながる。原始的なところだと、アルバイトがお釣りをちょろまかすなんて言うことも一切心配しなくてよいのだ。

規制の緩さが日本のレストランを育てた

日本は様々な規制が厳しいといわれている。しかし、飲食業に関しては、世界レベルで見ると実はとてもゆるい国だ。パリやロンドンで新しいお店を出そうと思ったら、まず場所の確保が難しい。建築基準が厳しくて、高層ビルがそうそう建たないから場所の空きがないことが大きい。高層ビルがバンバンできてお店を大量に誘致する東京は、状況がまったく違う。また、欧米では酒販ライセンスが非常に難しい。アメリカなら州によって異なるが、エリアや時間帯によって細かく規制されている。お店ができあがっているのに「酒販ライセンス待ち」になったり、結局取れずにお酒を出すことができないお店も多いのだ。衛生面では日本が厳しいと思いきや、そんなことはない。たまたま生レバーやユッケに関しては規制が設けられているけれど、基本的に食品衛生責任者の講習を一人が受ければ良いという形になっている。シンガポールだったら、ウェイターになるのでも同等のテストをパスしなければならないそうだ。日本では考えられないがニューヨークでは寿司を素手で握ったお店が州の衛生法に抵触したという理由で罰せられた。

そういった事情を知る人が訳知り顔で「日本ももっと規制を強化して悪徳業者を一掃しよう」なんていうツイートや発言をしているのを見聞きするけれど、大間違いだ。規制がゆるくて、「誰でもお店を出せる状況」だからこそ、日本の飲食業界は多種多様に発展し、こんなに面白いんじゃないか。

バンコクが安く楽しいのは規制が緩いから、とは思っていたけど、確かに東京もパリよりは規制が緩そうだ。漫画の発展も、「漫画なんか書いているヤツは遊びだから、彼等の労働を守ってやる必要がない」という差別意識が、規制のない自由な競争を促し、世界に対する競争力を持っている面もあろう。労働者を過剰に守る労働基準法は日本のガンだと思っているが、漫画の世界にはそんなもんはねぇ。

現代のコミュニケーションツールを使って産地と直接「つながる」

何よりも大きいの仕入れ。「毎日築地に行く」なんて自慢にもなりはしない。現在のコミュニケーションツールを使えば、産地直送でいくらでも魚や野菜を買えるのだから。直接取引になるのでコストが抑えられるのは当然。流通もよくなっていて、あっという間に新鮮なものが必要な量だけ届けられる。築地のヒエラルキーは厳しく、いいものや貴重な素材は、当たり前のことだが長い付き合いの料理人に渡される。そのヒエラルキーもすっ飛ばせるのが産直との一から作るつながりなのだ。

小さな店なら使う量も知れているだろうから、少ししか取れない貴重なものを送ってくれたり、走りの素材、ときには「他の人は使わないけど、実はおいしいんだよ」と、チャレンジアイテムも喜んで送ってくれる。これは、大規模経営では不可能なやり取りだ。わからないことがあったら「試してみたいけど、どうやって食べるとうまい?」と聞けば、きっと新しい料理のヒントをくれる。

日本はそもそもロジスティクスに強い国だ。インターネットを駆使し、コミュニケーションツールを持つ世代には、前時代の料理人や生産者には真似できない広い世界が広がっている。

私でも石巻でやれることだ。ビジネス目的ではないが、直接生産者とのコンタクトはできる。

職人にしか作れないものは作るな

職人技、職人仕事というとても耳障りが良いのだけれど、実際にビジネスになると決して歓迎すべき言葉ではない。この考え方で成功したのが「牛角」。肉は切り方でおいしくもまずくもなるが、それまで焼肉業界でも「職人」が肉を切り出して、その方法は公表することなく高級外食として君臨していた。「牛角」はそのような肉の切り方を完全マニュアル化、アルバイトでも肉が切れるようになり、こうすることでコストを大幅に削減することができた。これは焼肉業界にとって革命的な出来事だったと思う。

2017/04/21 抵抗勢力、イノベーションを拒む人々 
2017/01/27 三田氏を斬るシーズン3 5/9~トレーディング業務でのAI活用

で既に同じことを述べている。

なんでお店が儲からないのかを僕が解決する なんでお店が儲からないのかを僕が解決する
堀江 貴文

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ウィーンはドイツに近い

言語がドイツ語なので当然と言えば当然だが、フランスよりはドイツに近い。

物価の感じは、
パリ・香港・シンガポール をそれぞれ欧州・アジアの基準と考えれば、
ウィーンは、上海並みのレベル(2割程度安い)と等しい。

コーヒーに簡単な朝食のような食事がパリの一級地域だと10~12ユーロ、それがウィーンだと8ユーロ前後となる。

飯のレベルは、当然だがパリには負ける。レストランの食事は、「肉!」っていう感じだけの印象が強くなる。海がない国だし、当然だよね。だから、ウィーンではそのビハインドを最小化するためにレストラン食を減らし、アジアフードを入れ、スーパー食を増やす。だが、さすがはパリだった、と今思うのは、スーパーであんまりよくわからずに冒険して買ってもパリでは外れなしだったが、ウィーンではなんぼか外れをひいている

ハム・ソーセージなどの肉系だと若干飽きるので、魚介系も入れようと、魚の酢漬けを買ってみたら…、外してしまった。パリで食べていたイワシのオリーブオイル漬けをウィーンで買ったら問題ない。単なるソーセージでもパリでは「うーん、スーパーの割にうまいじゃないか!」というレベルだったが、ウィーンだと外れで捨てるほどではないが「…、あんまり食いすぎたら飽きそう」とモノにも当たりうる。

そして、主食のパンのレベルもわずかだがパリに劣る。なんかモサモサ・無骨というか。これは主食なのでわずかの差も蓄積される。

飯の事だけ考えれば、「やっぱりパリだよね」となるだろうが、ウィーンの音楽は飯のレベルの差を埋め合わせるに余りあるほどに素晴らしい。来年以降、時間の都合で迷ったら、私はパリではなくウィーンを取るだろう、と思うほどにウィーンの音楽は素晴らしい。なぜならば、質は異なるが、美味しい料理はアジアでも食べることができる。だが、ウィーンの持つ音楽インフラは、世界中どこに行ってもそんな簡単に手に入るものではないからだ。

言語が同じだから法律も近いのか…、

カジノがある。入場料30ユーロって言われたので入らなかったが、とにかくある。ウィーン国立歌劇場からシュテファン大聖堂という誰でも行く観光地の間にあるので、わざわざ探しに行かなくても発見できる。ドイツにもカジノがあるので同じだ。フランスも町中にカジノはあるのだがカジノという名前のスーパーであって、博打を打つ所ではない。

風俗店がある。Studioという名前でかなりな数ある。イメージで言うとシンガポールの怪しいマッサージ屋さん並みにある。かなり怪しくて入る気がしない。人通りが少ないのも影響している。通りに人っ子一人いない夜、ピンクの明かりがついていて、ドアが閉まってる。あのドアを開けて入っていくにはかなり勇気がいる。慣れれば大丈夫なのだろうが、今年は止めておこう。それからドイツにあるFKKはオーストリアにもある。ウィーンのFKKには行くつもりがないからレポートできないが、フランクフルトのFKKは最高だった。ヨーロッパのマカオと言えよう。


オーストリアってどんな国?

日本人がオーストリアに全く興味が無いのがよくわかるのが、ウィキペディアで、GDP数値が2008年更新で止まっている…。

Republik Österreich で見れば2017年まで見えて、
人口 880万人
面積 84000平方キロメートル
名目GDP 420Bil USD

おぅっ! かつてのハプスブルグ帝国、ちっちゃ! 人口少ないので、一人当たりGDPは日本を上回る。隣国はリヒテンシュタイン、スイス、イタリア、スロベニア、ハンガリー、スロバキア、ドイツ、チェコ。海が無く、東欧とも西欧とも言えない緩衝地帯。国家としての数値は、オーストリアはフランスの10分の1と考えるとシンプルかも。貧しい雰囲気プンプン。

産業は…、ATX – Austrian Traded Index なる指数があるらしいが、これら5銘柄で50%以上のWeightを占めるという不毛っぷり。

ERSTE GROUP BANK
OMV オイル・ガス
VOESTALPINE 製鉄
RAIFFEISEN BANK INTERNAT
ANDRITZ プラント

最も分かりやすいのが、Euro Stoxx 50に採用されているオーストリア企業は”ない”!!! レッドブルがおそらく最も大きいオーストリア企業だろうが、非上場なのが口惜しい。

経済規模は小さいが一人当たりGDPに現れているようにそれほど貧しくはない。敏感な諸君ならすぐ気づく。

鉄道職員が居ない。

東京駅や横浜駅のようにプラットフォームが10以上あるような巨大な駅で、各プラットフォームに数人、改札口も何個もあって、各々数人、電車には車掌もいて…、

改札口に1~2人、プラットフォームにたまに居るかな…、電車の車内に車掌は居ない、このくらいがスタンダードだと思う。
一方、都会の無人駅。オーストラリア(ブリスベン・ゴールドコースト、都会じゃないかw)、サンフランシスコ…、そして、ウィーン。
パリも空港の駅でさえ、プラットフォームに駅員は居なく、社内にも車掌は居ないので、行き先の確認をする相手は居ない。そして、ロンドン…

2007/12/09 やっちまった。飛行機乗り遅れた。

この時は、世界の都市を俯瞰で見ることはできなかったのだが、ロンドンでも聞く相手が居なくて、間違った電車に乗ってしまったという事例だ。

人を減らせば、一人当たりGDP、あるいは給与でも上がるという、例として鉄道職員を使ってみた。

行き先を教えてくれる駅員は居ない。
無賃乗車を防ぐ駅員も居ない。

でも、それで鉄道業務は回ってる。

日本におけるROEの向上だ、昇給だ、という議論の時に、「資本を減らす」という財務戦略を検討しているのだろうか? 同じように「無駄な仕事を減らして、従業員を減らせば」、生産性、一人当たりの給料は上がる。

さあ、がんばって!

2017/04/12 抵抗勢力、イノベーションを拒む人々

「どの仕事を廃止しようか?」という話を始めると、自分が担当しているすべての仕事に価値があると言い張る人が出てくるので注意が必要です。こういう人は、「自分の仕事がなくなり、自分自身が不要になること」を恐れています。


バフェットからの手紙 第4版 6/6~会計制度に全てを求めてはならぬ

しかし、もしみなさんが資本集約的な企業の株の100%を過去10年間持っていたならば、標準的な会計方法で完全に、そして入念な厳格さで計上される留保利益はわずかばかりか、あるいはゼロの経済上の価値しかもたらしていなかったでしょう。会計方法に対する批判をするためにこう述べているのではありません。私たちはより良い会計方法を開発する作業をしたいとは思いません。会計上の数値は、企業評価の始まりであって終わりではないということを経営者と株主は理解すべきだということを申し上げたいだけです。

純利益の危うさ、これは会計上の数値は企業評価の始まりと言えば良いのか。

現在、FASB(会計基準審議会)はプーリング法をやめる提案をしており、多くのCEO(最高経営責任者)が争う構えを見せています。これは重要な争いになると思いますので、私たちはあえていくつか意見を述べておきます。まず、のれんの償却費用はたいていまやかしだとする多くの経営者の意見には賛成です。現実と反しているような償却を会計原則で義務付けることは通常極めて厄介です。ほとんどの会計上の費用は、たとえ正確に測定されないとしても、実際に起こっていることに関連するものです。例として、減価償却費によって有形資産の価値の低下を測定することはできませんが、これらの費用は少なくとも実際に生じていることを説明しています。有形資産の価値は常に下がるものなのです。同様に、棚卸資産の減耗費、焦げ付いた売掛債権の償却費、保証料の発生などは実際の費用を反映した費用です。これらの費用の年間発生額は正確に測定することはできませんが、見積もりを行う必要があることは明らかです。 

対照的に、経済的のれんの価値については多くの場合、低下することはありません。たしかに、時間の経過とともにその価値が実際には上昇することが非常に多い―恐らくはほとんど―のです。経済的のれんは性質上土地とよく似ています。両方の資産の価値は間違いなく変動しますが、その変動の方向性はまったく定まっていません。たとえばシーズ社の場合、経済的のれんの価値は7、8年間にわたり不規則ながら極めて着実に上昇してきました。また、私たちが事業を適切に運営すれば、このような成長は少なくともさらに7、8年間は続くでしょう。 のれん費用というフィクションから抜け出すために、経営者はプーリング法というフィクションを利用します。

エンロンの会計操作よろしく、連結対象にするとのれん費用の償却が発生するが、売買目的有価証券に入れた瞬間に、時価評価。

この会計原則は、二つの川が合流する場合、その流れは区別できなくなるだろうという空想的な考え方に基づいています。この考え方において、企業はより大きな会社に合流するのであって、「買われた」などということはないのです(たとえ多くの場合、巨額の「売却」プレミアムを受け取るとしても)。したがって、のれんが生じることはなく、これによる面倒な費用も発生することはないのです。その代わり、存続する企業の会計は、事業がずっと一つの企業で行われてきたかのように処理されるのです。 空想はこれまでにしましょう。合併の現実は通常はるかに異なります。買収する側とされる側が紛れもなく存在し、取引がどのような形をとっていたとしても後者は「買われる」ことになります。そうではないと思われるのであれば、仕事を奪われた従業員にどちらの会社が征服した側でどちらが征服された側だったのか尋ねてみてください。誤解の余地はないでしょう。したがって、この点においてFASBは正しいのです。大半の合併において購入が行われてきました。なるほど、本当に「対等の合併」というのも幾つかあります。しかし、それはごくまれなことです。 マンガーも私も、購入を正確に記録したいと望むFASBを満足させ、同時にのれんの減少という無意味な費用に対する経営者の反論にかなうような現実的な方法があると考えています。まず、買収する側の会社に購入価格を―支払いが株式か現金かにかかわらず―適正価値で記録させます。

ほとんどの場合、この手続きによって経済的のれんを示す巨額の資産が計上されることになります。その後、この資産は帳簿に残したままとし、償却は求めません。その後、経済的のれんの価値が損なわれた場合は(時としてそのようなことは実際に起こりうるのですが)、ほかの資産について価値が損なわれたと判断される場合と同じように償却を行うのです。 私たちの提案する原則を採用する場合には過去にさかのぼって適用し、買収の会計処理をアメリカ国内で一貫性のあるものとすべきでしょう―現在の会計原則とは大違いです。一つ予想しておきます。この計画が実行されれば、経営者は買収をもっと賢く組み立て、会計上の利益に関する非現実的な結果ではなく、株主に実際にもたらされる結果に基づき現金を使うべきか株式を使うべきかを決めることになるでしょう。


バフェットからの手紙 第4版 5/6~ファッションで株を買う経営陣

5章 合併・買収
A.ひどい動機と高値

私たちの買収の決定は、現実の経済的利益を最大にすることを目的としたものであって、事業領域や会計上の数字を最大にすることを狙ったものではありません(長い目で見れば、経済的な実体以上に会計上の見栄えを重視する経営者は、ほとんどそのどちらも達成することはできません)。即座に収益に影響するかどうかは分かりませんが、素晴らしい企業Tの株式を1株当たり2Xで、100%購入するより、私たちは1株当たりXで10%を買う方を選びます。たいていの企業の経営者はまさにその反対のやり方を好み、その行動を正当化する理由は無限にあるように思われます。

武田の役員さーん、全株取得の正当性ホントにあったのかな?

フォーチュン500に入る企業の経営者の一人に、彼の会社がその有名なリスト上のどのあたりに位置しているか聞いてみると良いでしょう。すると必ず、売上高ランキングにおける順位そのままの数字を答えるはずです。しかし、収益性によるランク付けを尋ねたら、彼は自分の会社がフォーチュンのリスト上のどこに位置するのかは答えられないと思います。

私も同意見だ、前から
「素人は、株を買う時でさえ、商品と売上ばかりに注目し、収益構造と純利益を見ない。」
と言っているが、日経新聞の論調も例外ではないな。

新設された企業や創立から間もない企業が過去10年間に生み出した真の価値は膨大な額に上り、これから先もさらに価値が生み出されることについて私たちも喜んで認めましょう。しかし、中間時点の価値がどれほど高くても、企業の存続期間全体では損失が生じているのであれば、価値は生み出されるのではなく、損なわれてしまうのです。このような場合、実際に起きているのは富の移転であり、それも大規模なものであることが多いのです。最近、プロモーターは、恥知らずにも鳥のいない藪を売買することで、何十億もの資金を一般大衆の懐から自分の財布(さらには友人や同僚の財布)へと移しています。バブル市場がバブル企業を誕生させたというのが事実です。バブル企業は、投資家のため利益を生み出すことよりも、投資家から利益を吸い上げることを目的に作られたものです。企業のプロモーターにとって、最大の目標は利益ではなく、IPOとなっている場合があまりにも多く見られます。実際のところ、こうした企業の「事業モデル」は時代遅れのチェーンレターであり、報酬に飢えた投資銀行家が熱心な郵便配達人の役回りを演じているのです。

しかしあらゆるバブルにはそれを弾けさせる針が待ち構えています。そして両者が最終的に出会ってしまった時、新たな投資家たちは昔ながらの教訓を学ぶのです。第一に、ウォール街の輩たちの多くは-そこでは品質管理が褒められることはありません-、買ったものを全てを投資家に売りつけるということです。第二に、投機というのはたやすくできるように見える時が一番危ない、ということです。

私の中のバブル信号、IPOの数はそのうちの一つ。


バフェットからの手紙 第4版 4/6~民が陥りがちな過ちの数々

買おうとしている資産の将来の利益ではなく、価格変動に注目しているのならば、それは投機です。

みなさんは生涯を通してハンバーガーを食べたいと考えましたが、ご自身では家畜を育てていません。さてこの場合、牛肉の価格は上がってほしいと思いますか?それとも下がってほしいと思いますか? みなさんがこの先5年間にわたって蓄えを増やしていくとします。あなたはその間株式市場が値上がりしてほしいと思うでしょうか。それとも値下がりしてほしいと思うでしょうか。多くの投資家がこの答えを間違います。今後、長い間株式を買い越すにもかかわらず、株価が上がれば喜び、株価が下がれば悲しむのです。つまり、これから買うことになる「ハンバーガー」の価格が上がったと言って有頂天になっているわけです。こうした態度はバカげています。

インプライドボラティリティとかけて、俺の相場観ととく、その心は、いつも下落を期待して笑ってる。うーん、今一つ面白くないな…。

リーマンショック以降上がり続ける株価を見てて、憂鬱になっている今日この頃。

当時の私は、どの組織でも優秀で知性と経験豊かな経営者が合理的なビジネス上の判断を行っているものと思っていたのです。しかしその後、そうでは無いと気がつきました。現実には組織由来の旧習が動き始めると、おおむね合理性の出番はもうないのです。それ例は以下のようなものです。

①ニュートンの運動の第一法則に支配されているかのように、企業は現状の方向をかたくなに守ろうとする。
暇の時間を潰すために仕事を増やすかのように、企業は事業計画や買収計画を実行して手持ちの余裕資金を使い尽くす
③トップが入れ込んでいる事業は、それがどれほどバカげたものでも、部下たちによる収益上、あるいは戦略上の詳細な分析によって迅速にサポートされる。
④事業拡張、買収、役員報酬の設定など何であれ、同業他社が行えば、企業は無意識に追従する

イッテー…なんかほとんどすべての大手企業に当てはまりそうな厳しいご指摘w

特定の通貨建てのマネーマーケットファンド、債券、モーゲージ、銀行預金、その他のインカム性の投資、こうした投資対象の大部分は「安全」であるとみなされています。しかし、こうした商品は実際には最も危うい資産です。こうした商品が期日通りに利払いや元本の償還を続けていたとしても、多くの国々の投資家は過去100年の間にこれらの商品に投資していたことで購買力を失ってきました。さらに、こうした悲惨な結果は絶えず繰り返されていくでしょう。お金の最終的な価値は政府が決定します。金融システム上の力学から政府は場合によってはインフレを生み出すような政策に走ってしまうことがあります。このような政策は時として制御が聞かなくなってしまうのです。通貨の安定を強く願っているアメリカですら、私がバークシャーの経営を引き継いだ1965年以降、ドルは86%という驚くほどの下落を示しています。当時私たちが1ドルで買っていたものは、今や少なくとも7ドルはかかります。課税企業の場合、状況はさらに悪いものでした。この同じ47年間、継続的に発行されてきた米財務証券の利回りは年率5.7%でした。これは十分だと感じられるかもしれません。しかし個人投資家が平均25%の所得税を納めているとすればこの5.7%のリターンは実質所得の面では何も生み出していないことになります。投資家にとってはっきりしている所得税によって利回りのうち1.4%がはぎとられ、さらに表面的には分からないインフレという税金によって残りの4.3%が失われるのです。

金利信仰に対する良い事例です。

LTCMが利用していた金融派生商品の一つはトータルリターンスワップでした。これは株式など様々な市場において100%のレバレッジを利用する取引です。例えば取引の当事者A(通常は銀行です)は株式の購入に必要な資産を全て拠出し、当事者Bは資金の拠出を一切せずに将来ある時点で銀行が実現した利益を受け取るか、損失を支払うことに合意するというものです。この種のトータルリターンスワップは取引証拠金制度を無意味なものにしてしまいます。そのうえ、他の種類の金融派生商品によって、規制当局がレバレッジを抑制し、銀行、保険会社およびその他の金融機関のリスク特性を全般的に把握する能力は著しく低下してしまいます。

デリバティブは規制や会計や税制を飛び越えてしまうなぁ…。


バフェットからの手紙 第4版 3/6~ローカル産業たる鉄道・電力事業

私たちが保有する2つのとても大きな事業であるBNSF(バーリントン・ノーザン・サンタフェ・レイルロード・コーポレーション)とミッドアメリカン・エナジー(後にバークシャー・ハサウェイ・エナジーに社名変更)は、他の多くの事業とは違った重要な共通の特性を有しています

両者に対する規制は非常に多く、どちらも工場や設備への大規模な投資ニーズは尽きることがありません。またいずれの会社も地域の評判を高め規制を遵守するために効率的で顧客に満足を与えるサービスを提供する必要があります。その代り、両社は将来の資本投資によって合理的と考えられる利益を獲得することが確実に認められるべきです。

鉄道はわが国の将来にとって不可欠のものです。鉄道はアメリカの都市間貨物輸送の42%(トン/マイルで測定)を担っており、BNSFは他の鉄道会社よりも多くの量-業界全体のおよそ28%を扱っています。ざっと計算すればアメリカ全体の都市間輸送の11%以上をBNSFが担っているのです。人口が西部に移っていることを考えると、私が引き受けている割合は若干高まっているかもしれません。23,000マイルに及ぶ線路とそれに付随する橋やトンネル、エンジンや車両を絶えず維持し、改善していかなくてはなりません。

ミッドアメリカンは240万のアメリカの顧客に電力を供給しています。アイオワ、ワイオミング、ユタは最大の事業者で、他の州でも重要な電力供給会社として営業しています。また私たちのパイプラインでは、アメリカの天然ガスの8%を輸送しています。ミッドアメリカンは2002年にノーザン・ナチュラル・ガス・パイプラインを買収しました。その直後において同社のパイプラインとしての業績は43社中最下位でしたが、最近発表された報告書では第2位となることができました。ちなみに第一となったのは私たちが保有する別の会社のカーンリバーです。電力事業についてはミッドアメリカンと比較できる記録があります。私たちはアイオワ州の会社を1999年に買収していますが、それ以降、アイオワ州では電気料金を上げていません。アイオワ州の他の主要電力会社は同じ期間に70%以上の料金を引き上げ、今では私たちの料金を大きく上回っています。

ちゃんと調べてないんだが、ロックフェラーやエンロンの本を読んでいると、アメリカにも、

旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律
電力事業法

に似た法律があるっぽい。地域独占と価格統制を利用して、ロックフェラーやエンロンは鉄道利用料のリベートや電力トレーディングを行っていた。はっきり書いてないが、バフェットもそこを突いてるな。

鉄道や電力・パイプラインは、土地にべったり張り付いているので、グローバルな競争や新規参入に悩まされることがない。航空機の時代に鉄道?と私なら思ってしまう所だ

サーバンス・オクスリー法が2002年に成立したとはいえ、現実が大きく変わることは見込まれません。監査委員会が監査役の逃げ場をふさぎ、彼らが知っていることや疑わしいと考えていることをはっきりと述べなければ多額の違約金を支払うことになると理解させなくてはならないです。監査委員会がその使命を遂行するには監査役に記録すべきことや株主に報告すべきことに関する4つの質問を投げかけてみることだと私は考えます。

1.監査役が会社の財務諸表の作成についてのみ責任を負う場合、多少なりとも経営者が選んだ方法とは違うやり方で作成を行ったことがあるでしょうか。それは大きな違いであるか些細な違いであるかに関わりません。監査役が何か違ったやり方を取ったのであれば、経営者の論拠と監査役の責任の両方について明らかにしなくてはなりません。その上で監査委員会が事実を評価します。
2.監査役が投資家である場合、彼は報告対象機関の会社の財務的業績を理解するために不可欠な情報について-分かりやすい言葉で-説明していたでしょうか。
3.会社は、監査役自信がCEOであったなら従うものと同じ内部監査手続きに従っているでしょうか。そうでなければ、その違いはどのようなものであり、なぜそれを採用したのでしょうか。
4.監査役は-会計面あるいは業務面のいずれかで-収益や費用をある会計期間から別の会計期間に移すことを狙った、あるいはそうした効果が生じる行為に気づいているでしょうか。

監査役は追い込まれれば自分の義務を果たすでしょう。追い込まれることができなければ、結果は見ての通りです。


バフェットからの手紙 第4版 2/6~質の良い株主様に持っていただくために

株式分割はアメリカ企業におけるありふれた行動であるが、バフェットは、これが株主の利益を損なうことを指摘している。

①株の売買の回転率を上げることによって取引コストが上昇すること。(取引手数料とAsk Bid Spreadのこと)
②株価ばかりにとらわれた短期的で市場志向の株主を引き付けること。
③その両方の結果として株価は企業の内在価値と乖離すること。

単元株価格を下げたり、株主優待などの政策には、私も反対だ。バークシャーのクラスBに相当する種類株、議決権のない優先株は最低取引価格をどんどん下げ、誰でも取引できるようにし、普通株の最低取引単位は、1000万円以上とならば、株主総会で不毛な質問をするゴミ株主を一掃できる

総会が非生産的なものとなる原因は、多くの場合、企業の問題よりも自分が壇上で話すことばかりに気を取られるような出席株主にあります。ビジネスに関する討議をすべき場が、素人芝居、恨みのはけ口、あるいは議論を擁護するための場と化してしまっているのです。(これはどうにもならない現実です。人は株価を払った見返りとして、話を聞かざるを得ない立場の顧客に対して、いかに世界を動かすかについて得々と語るものなのです)。こうした状況の下、自分自身にしか関心を持たない株主の常軌を逸した言動によって、企業に関心を持つ人々の出席率は下がり、総会の質は年々、低下の一途をたどっているのです。

アメリカでもいっしょか。国を問わない、民の習性のようだ。

もしストックオプションが役員報酬でないとしたら、それは一体何なのでしょうか。もし役員報酬が費用でないなら一体何なのでしょうか。もし費用が企業の利益の算出上、無視してよいとするならば、どこでそれを計上したらよいのでしょうか」。

むぅ…、株主に対して誠実な会計制度を…。バフェットはこんなことも指摘していたのか…。

取締役会のメンバーとしての必須条件は、事業に精通し、自分の職務に関心を持ち、株主本位に行動することです。ほとんどの場合、単に彼らが有名であるとか、毛色の違う人間を加えるためといった理由で、取締役が選任されています。この慣習は正すべきです

なんか…、これみんな読んだほうが良いんじゃないかな…。

ほとんどのCEOのみなさんは子供たちの資産の受託者又は隣人として喜んで迎えていただけるような人々です。しかしCEOのなかには、近年職場で良くない行動をとるものがあまりにも増えており、数字をごまかし、さほど良くもない業績に常識を外れた報酬が支払われています。とてもお行儀のよい人達が集まる会議室で、CEOを交代させるべきかどうかという問題を提案することはほとんど不可能です。同じようにCEOがOKを出した買収の提案に疑問を投げかけることも気まずいものです。特に、内部のスタッフと外部のアドバイザーが出席し、口を揃えてCEOの提案に賛成しているのであればなおさらでしょう(もし賛成していなければ会議室には居ないでしょう)。

ソフトバンクのアーム社の買収金額に対して社外取締役永守さんが異議を唱えたのはとても健全な例ですね。永守さん自身も「意見の相違があるのは問題では?」と問われて、「孫さんに賛成だけするならば私がここに座っている意味がない」と極めてまっとうなことをおっしゃっていました。

バークシャーが株式を保有することで、最高の取締役ですらさらに効率を高めることができるかもしれません。第一に私たちは通常CEOの仕事とされているような儀礼的で非生産的な活動を全てなくしています。バークシャーの取締役は全体として自らの仕事に専念しています。第二に、私たちが取締役に与える使命は単純です。会社を経営する際には、

①自らがその会社を100%保有していると考える。
②その会社があなたやあなたの家族が持つ資産のすべてであり、この先もそうであると考える。
③少なくとも一世紀の間はその会社を売ったり、合併を行ったりしてはならない。

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バフェットからの手紙 第4版 1/6~進まないガバナンス向上

バフェットとバークシャーは予言を書かない。予言は悪しき慣習であり、しばしばほかの企業経営者が年次報告書に化粧を施す原因ともなっている。

株価の予言をしない。意味無い。

CEOと取締役会の間には慣習的になれ合いの関係が存在するため、取締役会が上司的な役割を果たすことを期待できないことである。これらの主な、解決策として、経営陣のストックオプションを与えることが一つの優れた方法としてもてはやされる一方で、取締役会の機能の重要性も説かれているのである。取締役会の会長とCEOを別個にして機能を切り離すこと、監査や任命権、報酬決定に関する永続的な委員会の設定も、功を奏すであろうという。

SOX以前の手紙ですね。企業統治の向上を目指して法を常に改正し続ける。そして、日本もそれに追随して委員会等設置会社なるものがある。そこでこの話を思い出す。

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遠藤周作 沈黙より

もう一つ注意しなければならないことは、トモギ村の連中もそうでしたがここの百姓たちも私にしきりに小さな十字架やメダイユや聖画を持っていないかとせがむことです。そうしたものは船の中にみなおいてきてしまったというと非常に悲しそうな顔をするのです。私は彼らのために自分の持っていたロザリオの一つ一つの粒をほぐしてやらねばならなかったのです。こうしたものを日本の信徒が崇敬するのは悪いことではありませんが、しかし何か変な不安が起こってきます。彼らは何かを間違っているのではないでしょうか。

なんのつながりがあるのか意味がわからないか? バードレの物質文明に一神教を布教することに対する漠とした不安。これは伏線だ。

日本における「コーポレート・ガバナンスの向上」とかけて、「キリスト教の布教活動」ととく。その心は?

「20年間、私は布教してきた」 フェレイラは感情のない声で同じ言葉を繰り返し続けた。「知ったことはただこの国にはお前や私たちの宗教は所詮、根を下ろさぬということだけだ」「根を下ろさぬのではありませぬ」司祭は首を振って大声で叫んだ。「根が切り取られたのです」

この国者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼らの神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思い込んでいた」

「バードレは知るまいが、五島や生月にはいまだに切支丹の門徒宗と称する百姓どもがあまた残っておる。しかし奉行所ではもう捕える気もない」
「なぜでございます」と通辞が聞くと、
「あれはもはや根を絶たれておる。もし西方の国々からこのバードレのようなお方が、まだまだ来られるなら、我々も信徒たちを捕らえずばなるまいが…」と奉行は笑った。「しかし、その懸念もない。根が立たれれば茎も葉も腐るが道理。それが証拠に五島や生月の百姓たちがひそかに奉じておるデウスは切支丹のデウスとしだいに似ても似つかぬものになっておる。やがてバードレたちの運んだ切支丹は、その元から離れて得体のしれぬものとなっていこう。」
そして筑後守は胸の底から吐き出すようにため息を漏らした。
「日本とはこういう国だ。どうにもならん。なあ、バードレ」

ガバナンス向上とセットで「沈黙」を引用するこの笑いのセンス。かなり自信作なんだけど笑ってもらえた?


オーケストラはウィーンの観光誘致ではなくインフラなのである

自分の好きなオーケストラ曲を聞くことができる世界で唯一の都市ウィーン。7~8月は楽団員の休憩期間。ウィーンに行くなら9月~6月だ

ちょっと乱暴な表現なので、詳細に解説していこう。

私が聞いたウィーンフィルのチャイコフスキー交響曲6番は確かに良かったのだが、私が強調したいウィーンでオケを聞くメリットは、個別の演奏や指揮者によるものではない。一般には、指揮者と楽団名を主体としてコンサートに行くようだが、私が一番重視しているのは演目だ。ある一つの曲、交響曲6番なら6番を、ベルリンフィルは、ウィーンフィルはどう演奏するのか、どう振るのか?の差が面白い。極端な話、音大生オケでも十分楽しめる。一方、日本を含むアジアでは、楽団名と指揮者で聞きに行くので、「ベルリンフィル来るのか…、ブラームス? 俺あんまり好きじゃないからパス」 なーんて言っていたら、永遠にベルリンフィルを聞くことはできない

ウィーンで最も多い作曲家は当然ながらモーツァルトだが、モーツァルトの曲でぜひ聞きたいと思う曲はない。モーツァルトを除外し、

ウィーン オーケストラ・オペラ チケットサイト(日本語対応)

で、好みの曲を探すと…、まぁ、いくらでも出てくる。(どのくらい出てくるかは後ほど記す) ウィーンは音楽を除けばなんの取柄もない田舎町なので、優先順位一番で調べ始めたが、その3時間後、私はコンサート会場に居たのである。

「俺の好きな曲、聞いてみたいな~」

2週間以内で複数個の候補が出てくる街って、ウィーンが初めて。ベルリンとかもできるかもしれないが、パリは無理、演目は妥協せざるを得ない。

パリでもオーケストラやオペラなどをいつでも聞くことができ、値段もアジアほどは高くない。
オーケストラやオペラなどの”自分のお気に入りの曲”をいつでも聞くことができるのは、世界でもウィーンくらいであろう。

この2文の違い、重要ね。開催数が違いすぎる! 俺も日本でオーケストラのコンサートに数千~数万円使ったものだ。自分の好きな曲とは限らないコンサートのためにだ! しかし、今の俺にはそんな”贅沢と無駄遣い”はできない。パリだと価格はアジア比では安いが、演目で妥協せざるを得ない部分がある。ウィーンはパリより価格が安く、自分の好きな演目を選んで行けば良い。この違いは非常に大きい。

そして、ウィーンフィルの立見席、驚愕の値段は5ユーロだ。日本公演でウィーンフィルがいくら取ってるか、1万円弱~2万円くらいだろう。香港・シンガポール公演だと日本のように国内複数個所は回れないので、単価はさらに上がる。それが5ユーロ! 650円ですからね!

1.毎日開催 アジアでオケのコンサートを聞きに行ける日なんて、年に数回だけだ。
2.演奏件数が多い 例えば今日だけで見ても、オペラ 3 オケ 20弱
3.価格が安い 立ち見価格は異様だから除外するにしても、通常席で、1/5~1/2くらい。
4.会場が狭い 臨場感あり。ラスベガスでUltimate Fighting Championshipを見た時も会場が狭く良かったが、チケット価格は500USDだったw
5.街が小さい すぐ行ける。近い。今日開催している演奏にはこのホテルから30分以内で全部到着可能。

Music is

of the people 毎日、気軽に
for the people 庶民的な価格で
by the people 民による演奏(※オペラ座近傍のレストランなどでは音大崩れのアンちゃんによるバイオリンだピアノ演奏付きがいくらでもある。今のところ、私は直接の経験はないが。音大崩れといえども、おそらく、運悪くウィーンフィルの議席を得ることができなかっただけで十分な腕前を持っているだろう。)

アウエルスペルク宮殿(モーツァルトがマリアテレジアに求婚した宮殿)、クアサロン(ヨハンシュトラウスゆかりと言いながらもルネサンス・イタリア調)、シェーンブルン宮殿(ハプスブルグ家の離宮)など、挙げればきりがないが、そのような宮殿でのディナーショーがわずか50~100ユーロ程度だ。レストランでの食事とのスプレッドはゼロにも等しい。


オーストリア、海のない国

海のない国…世界中にはたくさんあるが、東アジア、東南アジアだとモンゴルとラオスくらいだ。いずれも行ったことがないので、初めての経験だ。世界地図を見れば、国々は海岸線を奪い合うように国境線が引いている。戦いに敗れた国は、乏しい海岸線をわずかに恵んでもらい、交易が制限され貧しい。これが私の固定観念だが、ヨーロッパではどうだろうか? 多分大体合っていてスイスという例外が存在するといったところだろう。

シャルルドゴール空港、免税店。タバコ
、赤マル、50ユーロ(1カートン)。ただし、オーストリア行きのボーディングパスを見せると、80ユーロだ。節税失敗。EU圏内の移動では無理か…。

ウィーン着。到着口に免税店は…ある! タバコ、赤マル、55ユーロ(1カートン)。ボーディングパスのチェックなし! 一箱当たり2.5ユーロの節税効果はあるものの、絶対金額5.5ユーロは、まだ高い。インドネシアなら2ドルで…、止めよう。そのことを言うときりがない。

ガーン…、実はオーストリアのタバコ(赤マル)の市中価格は5.5ユーロ。一箱8ユーロのパリで買わずに、5.5ユーロのオーストリアで買っただけ。節税効果ゼロッ!残念。

電車4.1ユーロ、30分以内に市内に突入。パリの10.3ユーロの50分と比較し、空港を含めた都市としての規模が小さそうなことが分かる。

銅羅湾の人混みに比べてパリは人口密度が低い…って言い方は無いよな。これでようやくまともな比較対象ができた。ウィーンの人口密度は、パリよりさらに低い。街の構造がパリとウィーンなら比較しやすい。パリは高速道路で囲まれていて市内に、高速道路がない。ウィーンも同様にパリよりもかなり狭い範囲が高速道路で囲まれている。そして、まだ地図だけ見ている状態だが、パリと同様ウィーン市内にも車両侵入規制が存在しそうと想像させる、都市設計が地図上の道路にあらわれている。

私のホテルは、環状高速道路の外。ウィーンは街が小さいので、それでも十分に利便性は高いが、いわゆるど真ん中の観光地ではない。住所はウィーン市だが、輪の外。それだからか、ホテルの前の一般道路の幅が広く、ものすごいスピードで走っている。エレベーターの閉まるボタンを誰も押さないほどのんびりしているヨーロッパだが、ドイツなどは高速道路の運転スピードは150~160kmとかなり早めと言われている。一般道路でも複数車線の道路だと、アジアでは見たことないくらいのスピード、80km弱?で走っている

メインの一般道路の脇道、駐車している車両はまばらに数台、人通りはゼロ。ただし、メインの通りには飲食店が立ち並び、オープンテラスで飲んでいる人はたくさんいる。ホテルから歩いて5分くらいの範囲で日本食の店が3つもあるくらいの大都会だ。ただし、入る気が起こらない露骨な偽物日本食だが。

スーパーも4つくらい5~7分のところにある。パリだと1~2分だったが、それはしょうがない。閉店時間が19:30とか20:00くらいの店が多いので、夕食前に買い物は済ませておいた方が無難だ。でもパリと同じく、20:00くらいでも、みんなまだ飲んでるだけ。そこからお食事なので、かなり遅い晩飯のようだ。しかし、日曜休業の弊害がある。パリでも日曜になると全てのお店が閉じてしまい…、ということを聞いていたが、大手のチェーンは日曜開業。ところがウィーンは日曜閉店率が極めて高い。4つのスーパーは全滅だ。カフェは開業しているので食べ物には困らないが、1ユーロ以下のビールは買えない。

タバコ同様、酒もさらに安い。パリ・マイナス1ユーロの分布。ワインは何と1.9ユーロくらいから始まる。ばっちりドイツワイン(オーストリア・ワインかもしれないが、とにかくドイツ語)、そして期待通り、ビールが500ml缶で1ユーロ(0.8など)を切り始める…。あっ、キタ。水より安いビール(一番安い水よりは高いが、高い水より本当に安い)。


ヨーロッパを一つの地域と捉えた場合のパリの都市としての価値

ヨーロッパ時間の生活

世界中どこにいようが、メインが米国市場のオプション取引、サブでアジア市場の日本株、というのは変わらない。もちろん、ポジション次第でどこにフォーカスするかは流動的だが、当面は不変である。今となってはEUR SWAP Rateなど気にもしてないので、この時ほどではないが、

2008/05/29 ドイツの気になること 

ヨーロッパ時間で生活するとアジア市場が止まって見える(実際、株式市場は止まっているのだが、デリバティブ市場、先物、SWAP、為替は取引されていても、やはり止まって見える)。一方、米国市場を中心に考えるとアジア時間では、夜から未明にかけてのトレーディング、ヨーロッパ時間では昼過ぎ~夜(深夜前)となる。私はアジアでは深夜過ぎくらいに寝て、昼に起きる(市場環境によって米国市場を最後まで見たり、途中で寝てしまったり)ような生活だが、ヨーロッパでは、米国市場は最後まで見る傾向が強くなる。それでも23時くらいには寝ることになるので次の日は早朝に起きることになり、アジア市場も見ることができる、という意味では、アジアに居ようが、ヨーロッパに居ようが、市場に合わせて同じ時間に寝ていることになる。

ヨーロッパ在住の友達

パリで遊んでまーす、というような投稿をSNSにあげていたら、予想に反して、男友達の反応が多かった。一般に、欧州は女遊びは充実していない。欧州観光=女と思い込んでいたのだが、そうでもないらしい。まぁ、彼等は観光ではなく住んでいるのだが、いずれにしても欧州=女が行く所、という固定観念は改めるべきであろう。

「俺もパリ行くからその時に」、「バルセロナ行くけど来たら?」、「ウィーンはオケ安いよ」、「ロンドンには寄らないの?」などなど、多くの誘いをいただく中で、欧州在住の彼等は、EU圏を一つの国より、もうちょっと狭い、週末なので横浜から浦安まで遊びに行こう、の感覚で、EU圏主要都市間移動を考えていることが伝わってきた。郷に入りては郷に従え、すぐに彼らの思考を採用しよう。

SNSのお陰で生活が豊かになる。ウィーン在住の先輩がいるのだが、彼は僕に対して「ウィーンのオケは安いから来てみたら?」と言ったわけではない。私がパリでオペラ・オーケストラを探していて、プッチーニ65EUR、うーん、まぁ、安いよな…と妥協しかけていたところに、彼はSNS上で「久しぶりに3ユーロでオケ立ち見@ウィーン」とポストしたのである。私も普段ならスルーする投稿なのだが、ちょうどオペラを探していたので、たった一言のポストが、私の行動を変えたのである。

パリはやっぱりオケは高いんですか?と聞いてみたら、バスティーユ、あるいはガルニエのオペラでも5~20ユーロで当日券・立ち見があり、朝から並べば不可能ではないということだ。だが、10ユーロ以下でオケ・オペラなどはアジアではありえない価格だ。だからオケを見にパリからウィーンへ、とその時即断即決した。従来1か月だけパリでアジアに戻るつもりだったが予定変更だ。

せっかく時差を乗り越えて、ロングフライトでアジアからEU入りしたので、1か月で退散してまた来るのは効率が悪い。観光で滞在できる最長期間3か月弱をEU圏内の3都市くらいで滞在してしまおう。今年から始めるが来年以降も、4~10月の3か月をヨーロッパ、数か月日本、残りをアジアで過ごすようにしよう。

ヨーロッパ最大の都市パリをアジアの都市と比較するのは難しい

パリは好印象だが、初めての1か月滞在でも困ったことや文句が極めて少ない。つまり国際都市として洗練されているということがわかるが、パリのどういう点が優れているのか?というのが弱い。「初めてでも困らない」という消極的な評価となる。次のウィーンと比較すれば、来年以降のパリの過ごし方が変わってくるだろう。ウィーンはパリに比べれば都市機能やご飯のレベルが下がるというのは想像に難くないが、どの程度違うのだろうか? ヨーロッパに数か月滞在するならば、パリでしかできないこと、パリの価値というのは、ヨーロッパの他の都市との違いを明確に認識している必要がある。

その上であえて、香港やシンガポールとの比較だが、パリの物価は高くない。アジアの都市の中では、香港やシンガポールは物価が高い都市だ。パリとロンドンは、他のヨーロッパより物価が高いのは当然だ。そんな思い、来年を布石と思ってオーストリアに移動しよう。


日本食屋で日本人がバイトしている

海外だったらありそうな風景と思われるかもしれないが、アジアではほとんど見かけることは無い。日本食の経営や店長、あるいはホテルの寿司などの高級店だとバイトは、いる。だが、私がパリ・オペラ地区南部にあるリトルトーキョーで見たのはラーメンや食堂といった大衆店だ。アメリカのニューヨークやカリフォリニアでも見たことあるような気がするが、アジアでは皆無。

どうして、パリでは、日本食屋で日本人がバイトしていて、アジアでは居ないのだろうか?

現地人の給料が日本人より高い。それは香港やシンガポールでは当てはまらない。だから香港・シンガポールでは外国人、主として中国人やマレーシアなど周辺国からの外国人労働者が飲食店の基本だ。

では、どうしてパリでは、外国人を呼ばないのか?

多いのはアフリカ系移民であり、中華系と違い、日本料理の作り方などを教えるのに時間がかかる、あるいは不可能。ダシの概念が中華には…とかそういう細かいことじゃない。箸も使うことと、味噌や醤油などの発酵食品を使うこと、米を食うこと、乳製品が無いこと、など大きく見れば日本料理もアジア料理の特徴である共通項が多い。だから、パリの偽物日本食屋のオペレーションは中国人が行っている。

それならば、厨房に日本人を使って、サービスはアフリカ系でも良いじゃないか? ところがサービスも日本人である。パリでは日本人のきめ細かいサービスが求められている? 絶対違う。露骨な片言のフランス語と、サービスもアルバイトレベルなのがわかる。クレジットカードを切ったら、カードリーダーの使い方も知らない素人レベルだったぞ。俺もカードリーダーの使い方など知らなかったのだが、フランスではカードリーダーは自分でスキャンするので、2日目で覚えたよ。つまり、クレジットカードを持ってないような日本人だってことだ。

この現象で需給が分かった。学生、ワーホリ崩れ、芸術志望?現実逃避など、理由は様々だろうが、憧れを抱いてやってくる日本人がいる。一方、職の供給面で、特殊能力の無いワーホリ崩れが現地で職を得ることはできない。別にフランスだからではなくアジアでも同様なのだが、誰でも持っている特殊能力は、海外では日本語が話せることだけになる。そこで対日貿易量が絡んでくる。

http://www.jftc.or.jp/kids/kids_news/japan/country_tmp.html

ヨーロッパだとドイツ、イギリス、オランダなどが上がっているが、ヨーロッパトップ3国であってもシンガポールやタイにも劣る貿易量なのだ。ましてや、フランスとなるとほとんど付き合いが無いに等しい。よって「特殊能力である日本語」を駆使して日本企業に勤めるという規模がシンガポールよりも少ないのだ。「憧れてくる日本人の数≫日本企業の日本人求人枠」なのである。香港シンガポールで供給が絞られているのは、単に憧れが少ないとも言えるが、それだけでなく、香港大学やNUSなどは必要とされる学力も高いので、ワーホリ崩れの学力では相手にされず、カネだけで入れる美術系の専門学校も皆無であることから学生がいないことも大きいだろう。

フランスの労働基準法上ではバイトという概念は無く正規雇用のみ。解雇が難しくフランス経済の足を引っ張っている元凶だ。私が生活しているうえでもこの上なく迷惑、電車、飛行機などの移動手段がストで止まる・延期などの被害がある。中国では人民解放軍が空を支配し、民間の移動を妨害してくるが、フランスだと労働基準法とストが移動を妨害してくるw パリ市内の電車だけでなく、エアフランスや長距離電車など国際移動も入るので要注意だ。

ただし、零細の飲食店などは労働基準法のお目こぼし対象なので、パリの日本食屋はそれをチャンスに生き残っていくしかない。フランスの労働基準法に則らない、日本流のブラック方式で、バイトを雇っているのが現状だろう。

香港やシンガポールに比べて、マニラやバンコクは物価が安い。どうしてコスト削減のためにそっちに住まないのか? 現地人に文句はないがね、そこに住んでいる日本人を含む外国人と話が合いそうにないからだよ。

香港やシンガポールにおいて、「デリバティブ」と言えば、金融業界以外の弁護士や会計士、あるいはまったく別の業界であっても、「デリバティブとは何か?」を説明する必要ないことが多い。だが、バンコクやマニラでは、デリバティブなんてのは日常用語たりえない。デリバティブなんて時代遅れなものを今となっては知らなくても気にしない。

じゃ、日本人が大好きな小説に話を合わせよう。罪と罰、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフの殺人を正当化する論理についての議論にしようか。バンコクやマニラでドストエフスキーを読んだ上で内容論じられる日本人って探すの相当難しそうじゃない? パリで探すのはどうかって? 聞くなよw 俺がワンピース読まないと話に入れてもらえそうにねーよw


生活から推測するフランスの法と規制

私はそもそもフランスの法を積極的に学ぶ気はない。一方、ボトムアップ方式、普通に生活していく中で、どのような法律になっているのか? 規制があるのかを推測してから、調べ始めるのは、どこの国でもやっていることだ。税制や規制による制限が、市場を歪める。それは株式市場だけでなく、日常生活や消費活動でも起こっている。それを発見し、自分に都合よく利用することだ。また、様々な国を見ていると、その平均は大きな母集団から計算されたより精度の高い平均(世界標準)となる。世界標準たる平均から外れているものが異常値で、その中に規制による歪みがある場合がある。

例えば、私が買っているもの、世界標準で考えて不当に割安なワインやハムやルーブル美術館は、おそらく政府の補助金が入っている。ヨーロッパを代表する大都市にもかかわらずパリ市内に高速道路・立体交差がない。その状態でも渋滞が発生しないのはなぜか? なんらかの車に対する交通規制、パリ市内に入るための制限があるはずだ。と考えるようになる。

農産物支援、芸術支援、交通規制は歪みだが、アマゾンプライムがAmazon Primeより安いのは価値観の差であって歪みではない。私が知らないだけで日本がアマゾンに極端に優位な法制度となっているなら別だ。Amazonの国家間節税政策に対して、日本は特に牽制せず有利だから、というのならそれは歪みとなる。うーん、ちょっと例が不適切だが…。

パリでプラプラ街を歩きながら生活する中で見つけた歪みを紹介していこう。

八百屋、肉屋、酒屋などの零細店舗が存在する。

日本・香港・シンガポール・タイなどでは零細店舗は、ローカルの巨大チェーンスーパーに飲み込まれてほとんどが姿を消した。程度の差はあれ、地方都市だけではなく東京でも起きていて、八百屋や肉屋に限らず、個人商店は20~30年で見れば、どこであっても激減しているはず。街の電気屋さんはヤマダ電機、古本屋やブックオフ、タバコ屋は酒屋同様にコンビニ、地方都市のシャッター通りはイオンへと変貌した。昔ながらの市(イチ)・複合店舗、香港なら外市、シンガポールならウェットマーケット、パリならMarcheという形は存在するが、いわゆる街の八百屋ではない。

ホテルから歩いて1分以内、これは偶然にしても徒歩圏5分以内に八百屋、肉屋、酒屋が複数店舗ある。一方、パン屋、携帯ショップ、雑貨屋、スタンド(新聞や飲み物を売るキオスクKiosque)などは、香港やシンガポールでも見受けられる。昔のパリは日曜になるとほとんど全ての店が閉じてしまい、何もできなかったそうだ。今は、巨大チェーンスーパーがあるので特に困らないが、パン屋は法律で「日曜でも営業しなければならない」。

ということは…、パン屋は日本で言うタバコ屋と酒屋と同じ。免許制を取っているかどうかは知らないが、政府に届け出が必要ということになる。その制限の分だけなんらかの税制優遇もありそうだ。さらに想像を拡大させ、消えた零細店舗である、八百屋や肉屋がパリの至る所に存在する、のはなぜか。これもパン屋と同様、なんらかの税制優遇や法的保護を受けていなければ、チェーンに飲み込まれて消えていくのが、市場原理と時代の変化の当然の帰結だ。

パリ在住で外食を経営している友人に聞いたところ、零細の八百屋を保護をしているのではなく大手チェーンをいじめる規制をしている、ということだ。零細の八百屋が存在する社会的意義はほとんどないであろうから、この規制はヨーロッパがアメリカより大きく成長率が劣る要因で、経済的に良い規制だと思わない。

2018年初頭、日本滞在時に、日本ではキャベツ、レタス、白菜などの葉物野菜が例年の4倍ほどに跳ね上がっていたことを思い出した。香港やシンガポールにおいて、これほど激しい野菜の価格変動を見たことがない。日本よりはるかに少ない人口で、食糧自給率などゼロに近いような環境でも、ほとんど価格変動しないのである。これは輸入、市場規模が大きいのだ。対して日本の葉物野菜は国産、しかも業者などの取り分を除いた余りを一般消費者市場に回しているので、1億人以上の人口を有しながらも市場規模を異様に小さくしているためだ。フランスでは業者用と一般消費者で価格差はほとんどなく、価格変動もそれほど激しくない。

八百屋と肉屋の存在は、フランスは農業国と言われるが、食肉や穀物を大量輸出しているアメリカに対して、フランスの保護政策は、地産地消・国内消費にフォーカスを当てている結果であろう(その意味では日本に近い)。最終消費、販売を重視する戦略には同意できる。日本も農林水産省と農協を中心に、生産制限・買取・販売価格統制はしているものの、販売保護はしていないだろう。需給変動を変銃的に一般消費者に押し付けた野菜の激しい価格変動やコメの先物がいつまでも盛り上がらないのが、販売を軽視している証拠だ。最後の販売によるエグジットを確保しない生産の保護が、赤字・売れないコメが倉庫に積み上がるような事態を引き起こしている原因であろう。

実はコメの先物化は日本だけでなく、グローバルにもあまり成功していない。詳しくは、この本に書かれている。ちなみに著者はフランス人なので、アメリカ中心の農業事情ではない視点が面白い。

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水揚げ港による魚のブランディング戦略でも、同じことを感じていて、最終消費と販売はあまり意識してないように思える。魚の場合、鮮度を保つのが難しいため、地産地消を国内のさらに小さな地域で主張もできて、東京に輸送するまでの時間とコストの分だけ、この漁港では、安く良い品が手に入る、とアピールするのがエグジットを意識した「漁港のブランディング」だと思う。

2018/05/24 何が価値か?呼び名にもこだわり

で既に詳しく述べたことだが、これについてホリエモンが同じことを言っている。

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小さな店なら使う量も知れているだろうから、少ししか獲れない貴重なものを送ってくれたり、走りの素材、ときには「ほかの人は使わないけど、実はおいしいんだよ」と、チャレンジアイテムもよろこんで送ってくれる。これは、大規模経営では不可能なやり取りだ。直接のやり取りがヒントを生むコスト以上にうれしいのが、生産者と直接コミュニケーションを取れることだろう。激戦の築地で仲買と仲よくなるよりも、産地と直接LINEやメッセンジャーでやり取りする。電話ももちろんありだが、漁師さんが「こんなのあるよ」と、魚の写真を送ってきてくれることもあるだろうから、LINEなどのほうが早いしわかりやすい。わからないことがあったら、「試してみたいけど、どうやって食べるとうまい?」と聞けば、きっと新しい料理のヒントをくれる

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日本はそもそもロジスティクスに強い国だ。インターネットを駆使し、コミュニケーションツールを持つ世代には、前時代の料理人や生産者には真似できない広い世界が広がっている。

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ここで思うことはカギを握っているのが、生産と販売の間にある中間業者、農協や市場の仲買人であることだ。一方、超優良企業の損益計算書では、その中間を一切省いて高収益を上げている。企業会計では販売=売上が逆に入り口になる。エグジットは純利益や株主資本で、上場や売却という意味ではなく、株主利益や時価総額を増やすことがエグジット。日本企業の場合は、顧客サービス、従業員、銀行のご機嫌を伺う経営は垣間見えるが、相変わらず株主は軽視されたままだ。


フランス人は嫌な奴? アジア人に対する差別

10年程前までは、「フランス語以外は話す気ないよ」という態度だったらしいのだが、現在はそんなことは全くない。メルシーとボンジュールだけで生活できてしまう。フランス語がマイナー言語だという認識がフランス人にもあり、外国人=英語あるいはスペイン語で話しかけておく方が無難という低姿勢ぶり。私が泊まっていた11区あたりでは観光客がいないので、フランス語で話しかけられたり、英語が話せない人がいたりするが、観光スポットではないので当然だ。また、差別はあるのだろうけども、私は感じない。ある気配はするが、あっ!と思うほど露骨には存在してない、というのが正確な表現か。

レストランで注文しようと手を挙げていて、店員と目が合ってるのに無視して注文を取りに来ない。これ、差別? そう感じる人もいるかもしれない。でも、ごめんね、これ香港の話なんだわw わかるかね? 同じことが起きても香港はアジアだからサービスが悪いで、パリだと差別だと思うの? 飲食店のサービスなんてそんなもんだと思えば、多少、注文を取りに来るのが遅い、対応が悪いのがグローバルスタンダードで、それを標準とすると、日本のサービスが過剰なだけなのである。いつも言ってるようにマクドナルドの店員が笑顔だったり、コンビニの店員が品揃えと配置を記憶しているなんてことはない! 偶然、そういう店員もいるかもしれないが、原則、そんなことを期待するものではない。シンガポールのマクドナルドなんて店員がおばあちゃんでポスを打つ手が震えてるほどだw

日本と比較してもしょうがないので、アジア比でサービスを比較すると、アジアで食事をしていて、私が不快に感じるのは、片付けの速さである。明らかにまだ食事が残っていても、店員と目が合えば、”Can I clear?”と言ってくる。「あっ、スプーン落としちゃった」と拾って目を上げたら、もう皿が片付けられていた、などという高速クリアーも聞いたことがある。なぜかというと、異様な人口密度による高い不動産価格だから、回転率を上げることが必須なのだ。注文受ける、料理出す、早く追い出して次の客、というのが原則だ。それから日本人のようにご飯粒一つ残してはならないという道徳観はない。だから、ホーカーセンターなどの屋外では、野鳥が残飯をついばみに来る。野鳥と店員が残飯を片づける競争しているのだ。

一方、フランス…、全体的にスロー。片付けも同じ。シンガポールでは店員が、野鳥の如く、皿を狙っていて、片付けのチャンスを伺っていると、仮に食べ終わっていたとしても、せかされている感じがして嫌なのだが、フランスではそれはない。それからシンガポールあるあるで、22:30ラストオーダーの店だとしたら、22:00過ぎるともう危ない。お得意の”Close already”、とにかく片付けも含めて早く帰りたいので、ラストオーダーの時間は嘘であることが多い。逆にフランス、ラストオーダーの時間はあるが、その時間を1時間近く過ぎてダラダラ飲んでいても追い出されない。店にいても良いけどレジを閉めたいからカネだけは早く払えという請求もない。もちろん、店員たちは店の片づけをしているが、とにかく、のんびりしているのだ。

アジアも東南アジアはのんびりなので、東アジア、日本・中国・香港・シンガポール(華僑の国なので)は、明らかにせっかちだ。エレベーターの閉まるボタンは連打だし、オプションはプットを売ってリターンを最初に見せないとダメだ。コール買ってお楽しみは後程って発想はアジアでは流行らない。その近視眼的な目線や忙しなさに嫌気がさしたら、東南アジアかヨーロッパでのんびりするのも良いだろう。

パリのラーメン屋、フランス人客が多いと食べるのが遅い。食い終わっても延々スープ飲む、しゃべってる、みたいなインターネット上の投稿を見た。俺はラーメン屋経営してるわけじゃないから、あー、アジアはこの感覚なんだと思う。食い終わったらとっとと出てけ。香港やシンガポールでせかされている気がして不愉快、と思っていたのだが、ラーメン屋も同じだ。俺も当然、日本人だからラーメン屋なら食ったら出ていくけどな。でも、レストランだと思って食ってて、「食ったら早く出ろ」は、不愉快だろ。

日本人の認知

帰り際に「ありがと」とか言われることがある。俺はフランス人とドイツ人とベルギー人の区別はつかない。彼らは日本人と中国人をどのように見分けているのか分からないが、「ありがと」と言ってきてるということは何かで見分けているはずだ。ドバイなどは日本人は皆無なので無条件で「ニーハオ」と言われたが。

「ありがと、さよなら」以外で珍しい声かけ言葉、というか初めての呼ばれ方は「ヤクザ?」

言葉の意味をわからずに使っていそうだが、そう呼ばれる原因は、
北野映画の影響で、スーツ着ている日本人=ヤクザ
ビジネス街のラ・デファンスがパリ市外にあり、パリ市内ではスーツマンはほとんど見かけない。高級店などではジャケット着用の事というドレスコードがあると聞いていたので、夏物スーツの上着だけ持ってきたのだが、ジャケットすらもほとんどいない印象である。上下で揃えてないし、ノータイでリラックスした感じにしてるんだが、それでもスーツを着ている東洋人=北野映画なのである。

世界中どこにでもいるのだが、変な日本語が書いたTシャツを着ている現地人もいる。地下鉄の壁広告で日本の漫画の広告があった。ただ、奇面組など、連載停止した古いマンガの絵もあり、その広告が何の広告なのか意味は分かっていない。


パリ市には高速道路がない

国別、車と歩行者の優先順位
タイ>香港>シンガポール>インドネシア>中国>日本>フランス

車優先社会

1.タイ、バンコク
車は左側通行で交差点で赤信号でも左折することができる。その際、歩行者の青信号と必ずコンフリクトが発生するが、その際は車は遠慮なく突っ込んでくる。

2.香港
銅羅湾周辺の狭く入り組んだ通りで人が多すぎてまともに走れないので、「そこのけそこのけ、フェラーリ様が通る」とばかりにクラクションを民衆に向けて鳴らす。

3.シンガポール
信号のないところでの道路横断において、車が譲ることは無い。確か、歩行者は横断歩道以外を横断してはならないという法律があったような…

車と歩行者平等社会

4.5.インドネシアと中国、パリのガルニエ・オペラ前
歩行者と運転手はアイコンタクトをかわし、民がヒョコヒョコと横断していくのが一般的だ。車と人が集中しすぎ、発展が急速すぎて、信号を設置するペースを超えている。また国土が広すぎて、信号を密度高く設置すると国家予算が破綻する。車と歩行者の関係には両国はほとんど差がないが、深圳・羅湖駅前のバスやタクシーなどは、歩行者をかなり優先する傾向にある。ガルニエ・オペラはモータリゼーション時代以前の都市設計を保存しているのだろう。またパリで多くある放射線状道路とラウンドアバウト。代表例はガルニエ・オペラ(ここはラウンドアバウトじゃないんだが)とエトワール凱旋門だが、ガルニエ・オペラの中心だけ(少しでも外側には信号がある)は信号がない。

歩行者優先社会

6.日本
ご存知の通り。バンコク帰りの日本だと、横断する時に、思わず車が通りすぎるまで止まってしまう。私を認識したバスが親切にも止まってしまい、迷惑をかけてしまうことも。

7.パリ
歩行者は赤信号でも安全と踏めば渡たる。アジアで慣らした私も本来そうなのだが、右側通行に慣れず。横断の際は左右両方見て…どっちから車が来るんだっけ?とか考えているうちに青になる。

パリの内部では、アジアの主要都市で必須の高速道路と立体交差を見たことがない。数百年前の都市設計のままで、これだけの人口集中をさばけるのは凄い。地下鉄の導入が、近代社会対応のインフラと言え、地下鉄の駅は普通1km間隔だが、パリは500m以下間隔である。かつ普通3~5分間隔の運行だが、パリは2分…いや、もっと短いかもしれない。パリの地下鉄の駅間隔・運行間隔が短く便利なのは確かだが、地下鉄だけで渋滞を解消できるとは思えない。ぐぐろう。

大気汚染とステッカーによる車両交通規制。だよなぁ…。世界の大都市がみんな高速道路で対応している中で、モータリゼーション以前の都市設計で渋滞が起こらないはずがない。良かった良かった。

パリの違法駐車は香港・大阪並みにひどい。路駐も二重駐車もあたりまえ。大阪はなぜだか知らないが、香港とパリは昔から変わらない道路で、駐車場設備などを作ることができないから。


食と文化の謎 7/7~最善採餌理論

ミルク・ゴクゴク派と飲むとゴロゴロ派

ロバート・ロウイーの本に出会うまで、私はミルクについて何も知らないも同然だった。彼は有名な人類学者で、人間の「気まぐれで不合理な」食慣習の事例をいろいろ集めるのが好きだった。ロウイーは「中国人、日本人、朝鮮人、インドシナのひとびとがミルクを飲むことに深い嫌悪感を持っているという、驚くべき事実」を発見した。私もびっくりした。中華料理の愛好家であり、よく食べに行く私としたことが、中華料理にメニューにミルク料理が一つもない、ということに全く気が付かないでいたのである-魚や肉料理にクリームソースが使われていない、チーズものっていなければスフレもない、野菜、麺、ご飯、まんじゅうにバターが使われていない。

ラクターゼ不受容の地理的分布を眺めてみれば、中国人やほかの東アジア、東南アジアの人々がなぜミルクを嫌悪するのか、まったく自明なことのように思われる。つまり、彼らはラクターゼ欠乏であり、消化できないからミルクを嫌ったのだ。この点に関して中国人はなぜインド人と違っていたのか。東洋で酪農を嫌った地域ではインドの農耕システムのような動物を使ったスキ耕作に依存しない、集中的灌漑農耕が行われていた。インドのように大量の使役動物を村の中や近くに飼っておく必要のなかった中国では、雄牛を生ませるために大量の雌牛を飼う理由などなく、それゆえ、動物を農耕に使う副産物としてそのミルクを利用しようなどという気は、まったく起きなかった。

昆虫栄養学

生態学者は、最善採餌理論というものを考えだした。この理論は、動物は、手に入れられるものの中でもっともコスト/ベネフィット比のよい「お徳用」食料を選んでいることを言っていると同時に、特定の食物がどういう条件になるとコストがかかりすぎるようになって、採集したり捕まえるのに割が合わなくなるのかを正確に算定する方法も示している。最善採餌理論によれば、狩猟者、あるいは採集者は、捕獲採集に費やす時間に対して、獲得できるカロリーの比率が最も高い種類のものだけを、捕まえたり集めているであろう、という。

実例で説明すると、いま、ある森に野豚、アリクイ、コウモリの三種だけがいるとする。さらにその森で探し回っての豚を見つけるのに4時間かかり、処理(しとめ料理その他にする)に2時間必要で、カロリーが2万だと仮定してみる。さてアリクイの処理時間も同じく2時間で、しかしカロリーの見返りは1万だけの場合、狩人はアリクイに出会ったら追いかけるべきであろうか。

4時間の探索で野豚しか得られなかった場合、狩人のカロリー収益は

20000カロリー/(4時間+2時間)=3333カロリー/時間

狩人がアリクイも捕まえることにしたら

(20000+10000)/(4時間+2時間+2時間)=30000/8=3750カロリー/時間

3750カロリーは3333カロリーより多いのだからアリクイを見逃す手はない。コウモリの場合はどうか。コウモリの「処理時間」も同じく2時間、しかしカロリー収益は500だけだとすると、狩人はコウモリを取るべきか。

(20000+10000+500)/(4時間+2時間+2時間+2時間)=30500/10=3050カロリー/時間

ダメ。アリクイかの豚を追いかけるのをやめてコウモリをつかまえることにしたら、「時間の浪費」になる。この説は、ある食品-たとえば昆虫-の多寡が、食物「リスト」のなかで占めるその食品の位置にどんな影響を与えているのか、という問題を考えるとき、とくに興味深いものがある。全体のカロリー収益率を下げるような食品は、それがどんなに豊富になろうと、リストに加えられることはない。上位の食品の多寡のみが、そのリストにのる食品の数をかえる。

昆虫は捕まえやすく、重量当たりのカロリーとタンパク質の収益率は高いかもしれないが、大型哺乳類や魚に比べて、また、げっ歯類、鳥類、ウサギ、トカゲ、カメなどの小型脊椎動物とくらべても、大部分の昆虫の場合、それをつかまえ、料理して得られる益は非常に小さい。それゆえ、大型脊椎動物を手に入れる機会が少ない社会ほど、食物品目の幅が広く、そして昆虫類をたくさん食べるのではないかという予想がたてられる。

人肉食の原価計算

人間を食べる人たちが獲物の人間をどうやって調達しているのか、という問題をまず処理しておかなければならないのだ。基本的に食用の死体を手に入れる方法は2つある。食べる人間が食べられる人間を強制的に狩り集め、捕獲し、殺すか、自然死した縁者の死体を平和的に獲得するか、のどちらかである。暴力的手段による死体の獲得は、戦争の一側面である。

多くの部族社会や村落社会で葬制の慣習によって親類の遺体の一部を食べなければならないといっても、それは、たいてい、死者の灰や炭状になった肉、あるいは臼でひいた骨粉である。そんなわずかな量では蛋白質やカロリーの足しにはほとんどならない。もっとも熱帯地域では、骨や灰の摂取は、希少ミネラルをリサイクルする重要な手段であったろう。平和的に獲得する死体が潜在的に持つ食料としての価値に無関心なのは、一つには、そのような食糧の非効率性と健康に対する有害性のためだと考えられる。非効率であるというのは、自然死の場合、たいてい死ぬまでに体重をかなり減らしており、肉があまりに少なく、料理するのにかかる費用を賄えるほど残っていないからだ。健康に有害であるというのは、そういう死体は伝染病の病気にかかっていることがよくあるからだ。これと反対に、戦争で殺したり捕獲したものは、そうした運命に遭遇するまで、良い栄養状態、健康でいた可能性が高い

どの社会でも厳しい制裁があることが、第一次集団内の成人成員が互いに殺し合い食べたりしないようにする防波堤になっている。実際のところ、近親者を殺して食べてはならないというタブーは、人間が集団で暮らし、日々助け合っていかなければならないとしたら、最も基本的な前提条件である。このタブーは、カニバリズムが力ずくで捕獲した死体に対して行われるのであるなら、その死体は社会的に遠い人間-よそ者や完全な敵-のものでなければならない、ということを必然的に意味している。

戦争カニバリズムのコストとベネフィットの予備的概算を少し行ってみよう。戦争を肉獲得のための組織された一つの狩猟形態として見てみると、コストがベネフィットをはるかにオーバーしている。人間は大型動物ではあるが、数匹を捕まえるだけでも莫大な労力がかかる。狩られるほうも、狩るほうと同じくらい機敏で逃げ足が速く、狩についてよく知っている。また獲物動物として、人間はもう一つユニークな特徴を持っている。バクや魚やイナゴとちがって、人間の場合は、その数が狩人の数より多くなればなるほど、獲物としての魅力は減る。それは人間は地球で最も危険な獲物だからであり、狩人に殺されるのと同じくらいの可能性で狩人の何人かを殺すことがあるからだ。最善採餌理論にしたがえば、狩人が出会った人間をとらえることなど、普通はあり得ない。そういうものはパスして、ヤシの木につくイモムシやクモをとったほうが、よっぽどよい

しかし戦争カニバリズムを行う人々は、人肉を目的とする狩人ではない。戦争にいった副産物として人間の肉を手に入れるのだ。だから捕虜の肉を食べるのは、コストとベネフィットの観点から見て、まったく合理的なことだった。非のうちのどころのない上質の動物性食物源をあたら無駄にするのとは全く逆の、栄養を考えれば実に賢い、もう一つの選択肢であり、しかも、フォレ族の場合のような罰則は何も伴っていないのである。捕虜の肉は、余禄の動物性食物として、とくにふだん肉の割り当てが少ない人たち、とりわけ女たちに喜ばれたに違いない。女性はたいてい、肉に飢えていた。そのため、トゥピナンバ族やイロコイ族の女たちが、人食いの宴会を伴う諸儀礼で目立った役割を演じるのである。

捕虜を捕まえ、戦場でそれを食べ、家まで連れ帰るのが軍事的に容易になればなるほど、戦争カニバリズムの程度と規模も大きくなるのではないか、と予想されるだろう。この予想が当てはまるのは、首長制の社会発展段階までである。国家という政治組織形態が登場するとともに、戦争カニバリズムは突然という感じで行われなくなる。国家レベルの社会と、部族あるいは村落レベルの社会との間には、根本的な違い3つある。国家レベルの社会は、第一に、農民や労働者が大量の余剰食物その他生産できる生産力の高い経済を持っている。第二にそういう社会は、征服した領土と人民を一つの政府の傘下に置くことができる政治組織を持っている。第三にそういう社会には、平民や従属民から貢物や税を取り立てることによって政治的及び武力的な力得ている支配階級が存在する。国家レベルの社会の農民と労働者は、一人一人が余剰の生産物と労役をうみだすことができるので、国家の人口が多くなればなるほど余剰生産物の量が増え、税と貢物の基盤が大きくなり、支配階級の力が強固になる。これとは逆にバンドや村落社会は、大量の余剰物を生産できない。バンド社会や村落社会には、打ち負かした敵を中央政府のもとに組み入れられるような軍事的、政治的な組織がないか、あるいは、税の徴収による駅にすがっている支配階級がない。それゆえ、バンド社会や村落社会にとって、勝利者に最も益をもたらす戦略というのは、近隣集団の人間を殺すか、追い散らして、資源に対する人口圧力を低めることである。余剰物を生み出せない捕虜を、奴隷に使うために連れてきても養わなければならない口がもう一人分増えるだけである。捕虜を殺し、食べてしまうということは当然考えられる結果である。

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食と文化の謎 6/7~牛肉とハンバーガーの法的定義

牛肉はどうして最後には王者になったのか。それは、牛肉生産と市場システムの変化があいまってのことであり、それが第二次世界大戦以後に出現したライフスタイルにうまくあっていたからである。20世紀が進むにつれて、アメリカ合衆国の牛肉生産において放牧地が果たす役割は縮小するばかりだった。「肥育用牛」の飼育にかける時間と仕上げ肥育にかける時間がどんどん短くなっていった。品種改良、人工的な牧草栽培、科学的経営によって、肥育用牛は、今や4か月で400ポンドに育てることが可能だ。それらは牧場主から肥育業者に売られ、そこで生コントラックのような機械で最適温度に温めて日夜与えられる混合飼料をなかば強制的に食べさせられる。なかには高蛋白大豆、魚粉、高カロリートウモロコシ、ソルガム(アワの一種)、ヴィタミン、ホルモン、抗生物質が配合されている。牛たちは日がな食べ続け、夜を昼に変えるまばゆいばかりの照明の下、夜通し食べ続ける。かれらがどんなに食べようとかいば桶はいつも餌であふれ、ここでの4か月でさらに体重を400ポンド増やし、解体処理を待つばかりとなる。

牛肉の生産方法の変化とともに重要だったのは、牛肉の消費形態の変化である。まず最初に、郊外に家を持つ階層が育ち、庭を調理と客のもてなしに使うようになった。都市から郊外に逃れてきた人々にとって戸外での炭火焼きは、鬱積したリクレーション願望とグルメ願望の成就に他ならなかった。裏庭の炭火焼きは、食堂も鍋もいらない便利さの上に、手早くできる料理なので、夫が主人役を務め、昔の首長のように祭を主催し肉をふるまうという大役を演じることが多かった。そして、このような裏庭の肉分配者が網に乗せたのは牛肉だった。裏庭料理では豚のひき肉を使うのは技術的に難しかった。豚肉のパテを網で焼けば下に落ちてしまうし、フライパンで焼くのでは、わずらわしい台所仕事からの解放という意味がなくなってしまう

それより大きな問題は、豚肉には寄生虫の恐れがあるために、牛肉よりも長い時間をかけて料理する必要があることだった。信じられない話だが、合衆国農務省は豚肉の寄生虫検査を行っていない。豚肉の中のセンモウチュウを探すには顕微鏡検査しかないが、その方法では時間と費用がかかるわりには十分な効果が望めない。その結果、アメリカ人の約4%は筋肉中にセンモウチュウが住みつき、症状が出た時にも、軽い風邪ぐらいに思い過してしまう。顕微鏡検査はしないかわりに、1930年代、農務省の公衆衛生局とアメリカ医学協会は、豚肉はピンクから灰色にかわるまでよくよく火を通すようにという徹底した教育活動を行った。この警告に従って灰色になるまであぶると、豚肉はすっかりかたくひからびてしまうので、豚の厚切り肉の炭火焼きは影をひそめることになった。バーベキューやスペアリブは脂肪が多くよく焼いてもやわらかくて肉汁も残るので手軽な解決策だが、ハンバーガーやステーキよりも肉がずっと少ないうえに食べづらく、パンにものせられないので、便利な食べ物としてはハンバーガーよりも分が悪い。

郊外への人々の移動に続いて、ほどなく他の社会変化も起こり、それがまたアメリカ人の牛肉好きを助長した。それは、女性の社会進出、共稼ぎ家庭の形成、フェミニズムの台頭であり、しだいに強まる女性の鍋、流し、レンジに対する反感の増大だった。このような社会変化は戸外での盛大な牛肉パーティーの舞台をしつらえただけでなく、アメリカが世界の料理になした最大の貢献、すなわちファーストフードのハンバーガーを登場させることになった。賃金獲得者が二人いる戦後の新世代の家庭にとってファーストフード・ハンバーガーのレストランは-たとえ持ち家がなく、裏庭でバーベキューができなくとも-戸外で食事し、台所仕事のわずらわしさから解放される機会を与えてくれた。しかもその費用は、家庭でほどほどの料理をつくったばあいと大して変わらない額で済んだ。とくに、働いている女性がよくするように、主婦の家事労働をお金に換算するなら、十分見合う金額だった。

私に言わせれば、ファーストフード・レストランの台頭は、少なくとも社会的には、人間を月に送り込んだのと同じくらい重大な出来事だった。かのエドワード・ベラミが、社会的反響をよんだユートピア小説『ルッキング・バックワード』の中でした予言が思い起こされる。彼は社会主義の医大の業績の一つは、資本主義的な食事をやめさせることだと言っている。ベラミの小説中の主人公は。1887年に眠り、夢の中で目覚めると、そこは2000年の世界だった。色々な驚きに出会う中で、彼にとって最も印象深かったのは、アメリカ人がここに買い物をし、料理を作って食事をすることが無くなっていることだった。そのかわり彼らは、新聞に出たメニューをもとに注文を受けて地域の調理場で作られた料理を気持ちの良いクラブで食べるのだ。マクドナルドもウェンディーズもバーガーキングも、ベラミが思い描いたような高級料理や豪華なサロンこそないが、快適に外で食事するという夢の実現に、かつて例を見ないほどに使づいて見せた。資本主義のただなかで成長をとげたマクドナルド、ウェンディーズ、バーガーキングは、中央集権化、効率化、共同化という条件が意味をなさない-食べものは安くて栄養がある上に、いくらでも即座に食べられる。誰も待つ必要はなく、皿その他の食器類は使い捨てだから洗う手間もいらない。

豚肉をファーストフード・レストランのブームに組み込むためのてっとり早い解決策は豚肉と牛肉を混ぜたハンバーガーを売ることだった。現に、フランクフルトソーセージは牛豚あいびき肉の製品で、しかも長らく豚肉産業を支えている屋台骨の一つだ。しかし、どのファーストフード会社も、今のところ、そのような商品を売り出そうとはしていない。合衆国で売られているハンバーガーはすべて、フランクフルトとは違って、牛肉だけでできていて、他のものは一切混ぜていない。たいていのアメリカ人は知らないが、そのわけは簡単だ。法律上、100%ビーフ以外のハンバーガーは存在しないのだ。合衆国農務省令は、牛肉以外の脂身をふくまないひき肉のパテをハンバーガーと定めている。もしごくわずかでも豚肉かその脂身が入っていれば、それは「パテ」、「バーガー」、「ソーセージ」とは呼べても「ハンバーガー」とは呼べない。言い換えれば、政府の定めるところによって牛肉産業は、アメリカでもっとも人気の高いコンビニエンス・フードの特許権ないしは登録商標をもっているというわけだ。現行法規(連邦法1946年、319・15のB)には次のようにある。ハンバーガー 「ハンバーガー」とは、生と冷凍、あるいはそのいずれかの細切れ牛肉に、ときによって牛の脂身、そして調味料を加えたものとする。それには30%以上の脂身、水、リン酸塩、つなぎ、増量剤を加えてはならない。牛のほお肉は、本条の(a)項で定めた条件にしたがって、ハンバーガーの調理に使うことができる。

豚のひき肉は食べても差し支えない。牛のひき肉もしかり。しかし、両方を混ぜて、それをハンバーガーとよんではいけない。それでは、まるでレビ記の再現のように、うさんくさい話だ。しかし、本来の豚肉タブーもそうだが、ある面では無意味にみえるものが、別の見方をするときわめて実際的な意味を持っているものだ。この規定の核心は、牛ひき肉の脂肪含有率はひくまえの肉そのままであるのに対し、ハンバーガーは100%牛肉製品でなければならないと言いながら、30%まで脂身をまぜてハンバーガーが作れるわけだ。次に牛ひき肉について定めた法規を上げ、関係箇所に傍点を施した。

牛こま切れ肉、牛ひき肉 「牛こま切れ肉」あるいは「牛ひき肉」は、生と冷凍、あるいはそのいずれかの牛肉をこまぎれにしたもので、調味料を加えても良いが、牛の脂身を添加してはならない。また脂身は30%を超えてはならないし、水リン酸塩、つなぎ、増量剤を加えてはならない。

この難解な定義と不可解な禁止が意味するところは、つまり、どちらも片方だけでは売り物にならない成分-ある種の牛肉とある種の牛の脂身-を混ぜ合わせたものがハンバーガーであると、連邦政府がお墨付きを与えたということだ。いつの時代も、一番安い牛肉は、仕上げ飼育のできていないやせた放牧去勢牛だ。しかい、この肉をひいてそれだけでハンバーガーを作ろうとしても料理の途中で崩れてしまう。放牧牛でハンバーガーを作ろうとすれば、万国共通のつなぎ剤である脂肪が必要なのだ。そのばあい、動物性であれ、植物性であれ、どんな脂肪でもその役目は果たすだろうが、パテやソーセージではなく、ハンバーガーを作ろうというのだから、それは牛からとった脂肪でなければならない。ここで話は、飼育用地と、そこで4,5か月も1日24時間トウモロコシ、大豆、魚粉、ビタミン剤、ホルモン剤、抗生物質を取り続ける牛に移る。こういう牛は太っていて太鼓腹をしていて、解体した後でそれをそぎ落とさなくてはならない。つまるところ、飼育牛の脂肪と痩せた放牧牛が産業用ひき肉機のなかで合体し、やがて国民的な食糧であるハンバーガー用肉に変身して姿を表すのだ。もし、ハンバーガーを、豚肉と牛の脂身、または牛肉と豚の脂身でつくったなら、あるいは肉と脂身を別々の牛からとることが禁止されたなら、牛肉産業自体が一夜にして崩壊してしまうだろう。

ファーストフード企業は、安いハンバーガーを作るのに飼育牛の無駄な脂身が必要だし、飼育牛業界は、飼育牛のコストをさげるためにハンバーガーが必要なのだ。その関係は象徴的で、あなたがステーキを食べれば、他の誰かがハンバーガーが食べられるようになるし、その逆に、あなたがマクドナルドでハンバーガーを食べると他の誰かがリッツで食べるステーキに助成金を出していることになるのだ。豚肉と豚の脂身がハンバーガーからしめだされたのは、豚肉生産者よりも牛肉生産者のほうが政界に大きな影響力を持っていたからではないかと思われる。牛肉産業は長い間比較的少数の大規模な牧場主や飼育会社に支配されてきたのに対し、豚肉産業を担ってきたのは比較的多数の中小規模農場だった。二者のうち、集中化が進んでいる分、牛肉産業のほうが農務省の法規に対して影響力を持てるのであろう。

厄介な問題が残っている。脂肪の少ないハンバーガー用肉の最も安いものは、オーストラリアやニュージーランドなど、人口密度が低く牧草地が豊富な諸外国にある。ファーストフード・チェーンは、放っておいたら肉のほとんどを外国から買ってしまう。そういうことにならないように、連邦政府は、牛肉輸入を制限する割り当て量を定めている。それでもアメリカ人が消費する牛ひき肉のほぼ20%は外国産である。外国産の牛肉がどのようにして消費者の胃袋に入るか、詳しいことはだれにもわからない。ひとたび税関を通過してしまうと、それがどこをとおり、加工業者はそれをどう処理したか、記録を残している仲介業者はいない。ファーストフード・レストラン・チェーンのなかには、自社のハンバーガーは100%牛肉かつ100%国内産であると強調するものもある。しかし、一方では沈黙を守るものもあって、アメリカ人の肉事情にさらに一つ謎を加えている。

結局のところ牛肉は、100%ビールのハンバーガーの影響によって、つい最近になって豚肉より優位になったということだ。仕上げのできていない放牧牛の肉と、飼育牛の余分な脂身をむすびつけることによって、ファーストフード・チェーンは、穀物を肉に変える変換器として豚肉のハンバーガーを分類上の変則物として禁止したことは、レビ記のタブーと比較的類似以上の意味を持っている。

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