今読み途中のサピエンス全史より、一部を抜粋。

たいていの人は、自分の社会的ヒエラルキーは自然で公正だが、他の社会のヒエラルキーは誤った基準や滑稽な基準に基づいていると主張する。現代の西洋人は人種的ヒエラルキーという概念を嘲笑うように教えられている。彼らは、黒人が白人居住区に住んだり、白人の学校で学んだり、白人の病院で治療を受けたりするのを禁じる法律に衝撃を受ける。だが、金持ちに、より豪華な別個の居住区に住み、より高名な別個の学校で学び、より設備の整った別個の施設で医療措置を受けることを命じる、富める者と貧しい者のヒエラルキーは、多くのアメリカ人やヨーロッパ人には、完全に良識あるものに見える。だが、金持ちの多くはたんに金持ちの家に生まれたから金持ちで、貧しい人の多くはたんに貧しい家に生まれたから一生貧しいままでいるというのが、立証済みの事実なのだ。

ユヴァル・ノア・ハラリ.サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 (Kindle Locations 2508-2516). 河出書房新社. Kindle Edition.

もう一度繰り返すが、私もここで触れられている典型的な「たいていの人」で「自分の社会的ヒエラルキーは自然で公正だが、他の社会のヒエラルキーは誤った基準や滑稽な基準に基づいていると主張する。」である。私は日本の被差別部落の本を好奇の視点で多数読み、日本の地方都市のキャバクラでその手の話を質問しまくる。最近思わずポチってしまったのは、


現代ではもはや消えかけている日本の「ヒエラルキーと差別」をあえて掘り起こそうというほどヒエラルキーに縛られた人間なのに、外国(他の社会)のヒエラルキーを目の前に見ると”凍り付く”

タイのシラチャでほぼ毎日通っているカラオケがあるのだが、そこに毎回花売りの女の子がやってくる。体も小さく貧しそうで毎回来るので、思わず「100THB分花を買うよ」と申し出た。

「おー、お前優しいな。だけど、あいつはロヒンギャだよ。タイ人じゃねぇ。」

その時のタイ人たちの侮蔑的な態度と顔つきが私を震撼させた
。私の顔から笑みが消え、酒を飲む手が止まってしまった。「ロヒンギャ問題」、我々日本人にとっては新聞の文字でしか認識していない「ロヒンギャ」が、今、私の目の前にいて非常に差別的な扱いを受けている。私から見たら「見かけ」だけでロヒンギャかどうかわからない。国境沿いの小さな村の難民キャンプにいるとか、大都会バンコクで乞食をしているならまだしも、シラチャなんて地方都市でロヒンギャがいるとは…。とてもショックだ。

同様のことはタイで2回あった。タイがインドシナ半島で威張り散らし、タイが抱えている闇が窺い知れる。

タイのラオ国境の町で食事をしていたら、
「この辺りのレストランの従業員はラオ人だ。だからタイ語は通じねぇ。」

パタヤのウォーキング・ストリートで飲んでいたら、
「ここはスリが多い。アイスクリームを持ってる子供がべちょってお前につけてくる。『あーっ!』とか騒いでいる間に財布をスルんだ。そういう連中はタイ人じゃねぇ。カンボジア人だ。気を付けて歩いた方が良い。」

いずれもタイ人による不十分な英語の説明なのだが、非言語コミュニケーション、「その時のタイ人たちの侮蔑的な態度と顔つき」を、私は忘れない。私は「そんな差別的な発言をすべきでない」と本気で思っているが、まさにユヴァル・ノア・ハラリの言う「自分の社会的ヒエラルキーは自然で公正だが、他の社会のヒエラルキーは誤った基準や滑稽な基準に基づいていると主張する。」たいていの人である。

インドネシアのジャカルタでも独立記念日には、インドネシア各州ごとの代表がジャカルタをパレードして歩く行事がある。ジャワ島だけでも「スンダ族」と「ジャワ族」(もっと細かく分けられると思うが)が居て、17000以上の島(インドネシア政府もいくつの島があるか認識していないw)がある、東西5000kmの群島列島インドネシアは各島ごとに部族が違うと言ってもいいくらいに多様な民族性を抱えている。そんな中、パプア州のパレードが歩いてきたときに、ジャカルタの都会市民たちが

「パプアの連中が来たぞ」

好奇の視線でスマホで写真を撮っていた。パプア州の人々ではなく、都会市民たちに嫌悪感を抱いてしまった。ジャカ1にそのことを話すと、

「パプア…まぁ、森の人だから。」

と流された。土人とは言わずに森の人と日本語で言ったのだが、オランウータンはインドネシア語で「森の人」。まさか人間扱いしていないのか?と深読みしてしまったり…。

餃子の王将社長射殺事件 2/3~九州地縁 

とか書いてるくせに、「自分の社会的ヒエラルキーは自然で公正だが、他の社会のヒエラルキーは誤った基準や滑稽な基準に基づいていると主張する。」