月別: 2018年11月

プラトン「国家」~13/13 ハイデガーの存在と時間

家具について、<実相>(イデア)はということになると二つあるだけだろう-寝椅子のそれが一つと、机のそれが一つ。今二つの家具のそれぞれを作る職人が、その<実相>(イデア)に目を向けて、それを見つめながら一方は寝椅子を作り、他方は机を作るのであってそれらの製品を我々が使うのである。

それぞれの種類の手仕事職人が作る限りのものをすべて何でも作るような職人のことだ。すべての家具だけでなく、大地から生じる植物のすべてを、動物のすべてを、自分自身、大地、天空、神々とすべての天体と地下の冥界にある一切のものを作る。むずかしい仕方ではないよ。鏡を手に取ってあらゆる方向にぐるりと回してみる気になりさえすればよい。

そう見える所の(写像)を、しかし本当にあるのではないものを。

では寝椅子づくりの職人の場合はどうだろう。ついさっき君は、こう言っていたのではなかったかね?彼は<実相>を-これをわれわれはまさに寝椅子であるところのものと言うわけだが、その実相を-作るのではなくて、ある特定の寝椅子を作るのである、と。

後のハイデガー存在と時間より、本質存在と事実存在 「デアル」と「ガアル」である

では手綱や馬術がどのようなものでなければならぬかを、画家は知っているだろうか?それとも実は制作者である鍛冶屋や革職人でさえ知らないのであって、そのことの知識を持っているのはそれらを使うすべを心得ている人、すなわち馬に乗る人だけではないだろうか?それぞれのものについて、今挙げたような3つの技術があるのではないかね-すなわち、使うための技術、作るための技術、真似るための技術。

こうしていまやわれわれは正当な理由をもって作家(詩人)をとらえ、彼を画家の片割れと規定することができるだろう。なぜなら真理と比べれば低劣なものを作り出すという点でも画家に似ているし、また魂の同じく低劣な部分と関係を持ち、最善の部分とは関係を持たないという点においても、彼は画家とそっくりだからだ

ホメロスを断罪するなれば、ルネサンスの始祖「ダンテ」も相当に罪深い。それに続いた美術・芸術など、ヨーロッパ中心のキリスト教観という虚構を現代に引き継いで作り出した。


滅ぼしたり損なったりするものはすべて悪いものであり、保全し益する者は善いものだということだ。


後の市場原理、メンデルの優勢の法則である。


プラトン「国家」~12/13 独裁の発生源は民主制

民主制のもとでは、他のどの国よりも最も多種多様な人間たちが生まれてくることだろう。様々な国制の中でも一番美しい国制かもしれないね。この国制を最も美しい国制であると判定する人々も、さぞ多いことだろう。この国は、その放任性のゆえに、あらゆる種類の国制を内に持っている。たとえ君に支配する能力が十分にあっても、支配者とならなければならない何らの矯正もなく、さりとてまた君が望まないならば、支配を受けなければならないという強制もない。

とくにずば抜けた素質を持つものでもない限り、早く子供の時から立派で美しいことの中で遊び、すべて立派で美しい仕事で励むのでなければ、けっして優れた人物とは、なれないだろう。すべてこうした配慮をこの国制はなんとまあ高邁(こうまい)なおおらかさで、足下に踏みにじってくれる。国事に乗り出して政治活動をする者が、どのような仕事と行き方をしていた人であろうと、そんなことはいっこうに気にも留められず、ただ大衆に好意を持っていると言いさえすれば、それだけで尊敬されるお国柄なのだ。

若い時から訓練すれば取り除くことのできるような欲望、何一つ為になることがなく、場合によっては害をなすことさえあるような欲望、これらすべての欲望を<不必要な欲望>であるという。われわれが雄蜂と呼んでいた人間とは、そのような快楽と欲望に満たされていて<不必要な欲望>に支配されている人間のことを言っていたわけだね?他方、<必要な欲望>に支配されている人が、けちで寡頭制的な人間に他ならないわけだね?

雄蜂は名もなき民、寡頭制的な人間とは、必要なもの=エネルギーを供給したロックフェラーである。

寡頭制から民主制が生じてくる過程と民主制から僭主独裁制が生じてくる過程とはある意味で同じ仕方によると言えないだろうか?たぶん、民主制のもとにある国で、こんなふうに言われているのを聞くことだろう-この自由こそは、民主制国家が持っている最も良きものであって、まさにそれゆえに、生まれついての自由な人間が住むに値するのはただのこの国だけである。そのようなことへのあくなき欲求と、他のすべてへの無関心が、ここでもこの国制を変化させ、先制独裁制の必要を準備する。民主制の国家が自由を渇望した挙句、たまたまたちのよくない酌人たちを指導者に得て、そのために必要以上に混じりけのない強い自由の酒に酔わされるとき、国の支配の任にある人々はあまりおとなしくなくて、自由をふんだんに提供してくれないような場合、国民は彼ら支配者をけしからぬ連中だ、寡頭制的な奴だと非難して迫害するだろう。

このような国家においては必然的に自由の風潮は隅々にまでいきわたって、その極限に至らざるを得ない。このような状態の中では、先生は生徒を恐れてご機嫌を取り、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の態度をとる。一般に、若者たちは年長者と対等に振る舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て機知や冗談でいっぱいの人間となる。買われてきた奴隷たちが、男でも女でも、買った方の主人に少しも劣らず自由であるという状態のうちに達成されるだろう。

僭主独裁制が成立するのは民主制以外のほかのどのような国制からでもないということだ。すなわち、思うに、最高度の自由からは、最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくるのだ。民主制の国家を3つの構成集団に分けてみることにしよう。雄蜂族、尊敬されず、支配の役職から遠ざけられているから、鍛えられていないし、勢力も強くはならない。けれども民主制のもとでは、国の先頭に立つ指導者層は、少数の例外を除けばまさにこの種族であると言って良いのだ。

安倍さん?麻生さん?ブッシュJr?

もう一つの階層が、つねに大衆から区別される。すべての者が金を儲けることにつとめるとしたら、生まれつき最もきちんとした性格の人々が最も金持ちになるだろう。雄蜂どもにとってそこは最も沢山の蜜があって、蜜を取るための最もふんだんな供給源となるわけだ。しかしこの階層の者は、蜜の分け前にあずかるのでなければ、あまりたびたび集まろうとはしないものですよ。だから現にいつも分け前にあずかっているのだ。先頭に立つ指導者たちが、もてる人たちから財産を取り上げて民衆に分配しながらも、なお大部分を自分で着服できるその範囲内でね。

最後に民衆が無知ゆえに中傷家たちにだまされて彼らに危害を加えようとするのを見ると、本当に寡頭制的な人間になってしまうのだ。民衆の習わしとして、いつも誰か一人の人間を特別に自分たちの先頭に押し立てて、その人間を養い育てて大きく成長させるのではないかね。すなわち、僭主が生まれる時はいつもそういう民衆指導者を根として芽生えてくるのであって、他の所からではないのだ。民衆の指導者となったものが何でもよく言うことを聞く群衆をしっかりと掌握したうえで、同胞の血を流すことを差し控えることなく、よくやる手口で不正な罪を着せては法廷に引き出して殺し、こうして一人の人間の生命を消し去り、その穢れた口と舌で同族の血を味わい、さらに人を追放したり死刑にしたりしながら、負債の切り捨てや土地の再分配のことをほのめかすとするならば、このような人間はその次には敵対者たちによって殺されるか、それとも僭主となって人間から狼に変身するか、このどちらの途を選ばなければならない運命にあるのではないだろうか?

僭主となった当初、誰にでも微笑みかけて、負債から自由にしてやり、周囲の者たちに土地を分配してやるなどして、情深く穏やかな人間であるという様子を見せるのではないかね。いったん外なる敵たちとの関係において、あるものとは和解し、あるものは滅ぼしてその方への気遣いから解放されてしまうと、まず第一に彼のすることはたえず何らかの戦争を引き起こすということなのだ。民衆を指導者を必要とする状態に置くためにね。


プラトン「国家」~11/13寡頭制から民主制へ

言論の修練にあずかる期間としては、持続的かつ集中的にそれに専念して他のことは一切行わず、修練するとするならば5年間。その期間が終わった後で、戦争に関する事柄の統率などの若いものに適した役職を義務として課さなければならないことになるからだ。そうした実際の業務の中でさらにもう一度、あらゆる方向への誘惑に対して確固として自己の分を守り続けるか、それとも動揺して脇へそれることがあるだろうかということを、試さなければならない。15年間。そして50歳になったらば、あらゆる点で最も優秀であった者たちを最後の目標へ導いていかなければならない。魂の眼光を上方に向け、すべてのものに光を与えているかのものを、直接しっかり注視させるということだ。そして彼らがそのようにして善そのものを見て取ったならば、その善を模型(模範)として用いながら、各人が順番に国家と個々人と自分自身とを秩序付ける仕事のうちに、残りの生涯を課すように強制しなければならない。彼らは大部分の期間は哲学することに過ごしながら、しかし順番が来たならば各人が交代に国の政治の仕事に苦労をささげ、国家のために支配の人につかなければならないのだ。

自分に代わる国家の守護者を後に残したならば、彼らは<幸福者の島>へと去ってそこに住まうことになる。国家は彼らのために、公の行事として、記念碑を立て犠牲をささげる儀式を行うことになろう。ピュティア(デルポイ)の神託がよしとされるなら神霊(ダイモーン)として祀り、そうでなければ、祝福された(エウダイモーン)神的な人々として讃えながら。

後の国家元首の「任期」である。

彼らのうちで哲学においても戦争に臨んでも最も優れている人々が王となること。支配者たちはその任に着くと、兵士たちを我々が先に述べたような住居へ連れて行って住まわせるのであるが、そこには誰にも何一つ私有されるものは無く、それはみなの者に共同の住居であるということ。彼らは誰も、こんにち一般の人々が所有しているようなものを何一つ所有してはならず、いわば戦争の専門競技者であり国の守り手であるから、他の人々から守護の任務に対する報酬として、仕事に必要なだけの糧を1年分受け取り、自分自身と他の国民の面倒を見ることに専念しなければならない。

4種類の国制、僕が言おうとしている国制は一般に通用している名称を持ったものばかりだからね。すなわち、まず、多くの人々から賞賛されているところの、かのクレタおよびスパルタふうの国制(名誉支配制ティーモクラティアー)がある。それから、二番目の国制で第二番目に賞賛されているもの寡頭制(オリガルキアー、財産の評価を基準とする有産階級による支配制))と呼ばれている国制があり、これは実は多くの悪をはらんでいる国制だ。それから、その敵対者であり、それに続いて生じてくる民主制。そしてこれらすべての国制にたちまさる高貴な僭主独裁制。これが第4番目にあって、国家の病として最たるものだ。世襲王権性だとか金で買われる王制だとか、またこれに類するさまざまの国制だとか言ったものは、いま挙げたものの中間的なところに位置づけられるものだろう。

あなたの言われる寡頭制とはどのような制度のことでしょうか?

財産の評価に基づく国制だ、つまり、金持ちが支配し、貧乏人は支配にあずかることのできない国制のことだ。各人が持っている、。彼ら自身もその妻たちも、法に従わずにね。

デュポン家のGM売却と譲渡益課税非課税。あるいはマイクロソフトの初の配当とブッシュ減税などがこれに当たる。

寡頭制から民主制への変化は、およそ次のような仕方で起こるのではないだろうか。寡頭制国家の支配者たちがその任にあるのは、多くの富を所有しているおかげなのであるから、彼らは若者たちのうちに放埒な人間が出てきても、これを法によって取り締まって、自分の財産を浪費して失うことができないように禁止することを欲しない。というのは、この支配者たちには、そういう者たちの財産を買い取ったり、それを担保に金を貸したりすることによってもっと富を増やし、もっと尊重されるようになろうという気があるからだ。

金を儲けている者たちは、身をかがめて仕事に熱中し、そうした貧乏人たちのことは目にも入らぬふりをして、その他の人々のうちに言うことを聞くものがあれば、そのつど金銭の毒針を差し込んで傷つけ、そして親金の何倍もの利息を取り立てては、雄蜂と乞食を国のなかにますます生み増やしていくのだ。支配者たちは支配される者たちを、国の中にいま言ったような状態に置いているのだ。

痩せて日焼けした貧乏人が、戦闘に際して、日陰で育ち贅肉をたくさんつけた金持ちの側に配置された時、貧乏人は金持ちがすっかり息切れして、なすすべもなく困り果てているのを目にするだろう。-このような場合、彼は、そんな連中が金持ちで居るのは自分たち貧乏人が臆病だからだ、というように考えるとは思わないかね? そして自分たちだけで集まるときに「あの連中は我々の思いのままになるぞ。何の力もないのだから」ということを、お互いに口から口へと伝え広めていくとは思わないかね?

貧しい人々が戦いに勝って相手側の人々のうちのあるものは殺し、あるものは追放し、そして残りの人々を平等に国制と支配に参与させるようになった時、民主制というものが生まれるのだ。そして大ていの場合、その国における役職はくじで決められることになる。

2200年後のフランス革命である。


プラトン「国家」~10/13排他的な哲学者、学問の最高位

最も重要な学問について、

1位:数と計算
2位:幾何 (数は幾何よりも抽象概念だから上位、指で示した1は、何指で示そうが、1は1という抽象性を持っている)

3番目の学科としては天文学をそれと定めることにしようか? 平面の次に、もうすでに円運動のうちにある立体を取り上げたからだ。立体をそれだけで取りあげる前にね。しかし順序としては2次元の次には3次元を取り上げるのが正しい。そしてこれは、立方体の次元や一般に深さを分け持つものについて考えられるものであるはずだ。

しかしそうした事柄はソクラテス、まだ完全に発見されたと言えないように思えますが。

次には深さを持った次元の研究が来るのが順序なのに、その探求の仕方の現状がおかしなものなので、それを飛び越してしまって、幾何の次に天文学を上げたのだ。これは深さを持ったものの運動にかかわるものなのにね。

当時、天文学に必要な数学以上に天文学が進んでいたようだが、2300年後の理論物理学とゲージ理論の時間差である。

どうも君は、上方の事柄について学ぶということがどういうことかをしごくおおらかな解釈で自分の心の中に受け取っているようだね。きっと君は誰かが上を仰ぎながら天井に多彩の模様を眺めて、何かを学び知るような場合でも、その人は目によってではなく、知性によって観ているのだと考えるのだろうからね。僕としては目に見えない実在にかかわるような学問でない限り、魂の視線を上に向けさせる学科としては他に何も認めることはできない。

天文学は空を見上げているだけのバカだと嫌味を言っている。

天空にあるあの多彩な模様(星)は、それが目に見える領域にちりばめられた飾りであるからには、このような目に見えるもののうちでは確かに最も美しく、最も正確ではあるけれども、しかし真実のそれと比べるならば、はるかに及ばないものと考えなければならないということだ。真実のそれとはすなわち、真に実在する速さと遅さが、真実の数とすべての真実の形のうちに相互の関係において運行し、その運行のうちに内在するものを運ぶところの、その運動のことであって、これらこそはただ理性(ロゴス)と思考によってとらえられるだけであり、視覚によってはとらえられないものなのだ。

ちょうど幾何学を研究する場合と同じようにして、<問題>を用いることによって天文学を追求し、天空に見えるものにかかずらうのは止めることになるだろう-もしわれわれが本当の意味で天文学研究に参与することによって、魂の内に本来備わっている知の機能を無用の状態から救って役に立つものにしようとするのならば」

これが実現するのは1900年後、コペルニクスの天文学まで待たなければならない。従来、実験実証によって証明してきた理論物理学は発展しすぎて、宇宙の始まりまで論じていることから、プラトンの言う、視覚によってとらえられないただのロゴスと思考によってとらえられるだけの領域に到達している

18歳当時の私もプラトンのような考えで、数学と理論物理学こそが学問であり、「目に見えない実在にかかわるような学問でない限り、魂の視線を上に向けさせる学科としては他に何も認めることはできない。」というのに激しく同意していたw まぁ、俺も若かった。許してくれや。

数学の中では数論、これが数学の中の哲学、役立たず君。数論のために代数学をはじめとする数学だけではなく、解析や幾何などあらゆる分野を総動員するが、数論によるほかの数学分野の貢献は難しい。そして数学の中でも、統計や金融工学は、言わずもがな、プラトンのいう所の天文学扱いだw ましてや他の学問は言語道断。経済学や心理学など二流の学問として嘲笑の対象であった。そして私が不思議だったのは医療や法律などという「もはや学問ですらない実学」に優秀な学生たちが向かっていることだった。私の友人で法学部なのに、選択科目で取ってる数学に対する質問が、本質的で鋭かったので、「なんで法学部なんかに行ったの?」と思わず聞いてしまったほどだ。いわゆる数学科のエリートコースである灘・数学オリンピック組が、医学部や法学部に流れるというのは、もはや怪奇現象w 現在では合格者最高点が公表されているので、世間の認識では全学部最高得点者が、最難関の医学部以外の法学部や理学部に流れているように見えている。今は大人になったので、その優秀な学生たちが、医学部や法学部に進むのは大いに結構だが、彼等には早くダブルメジャー・トリプルメジャーを認める方向で変わってほしいとは思う。

しかし、心理学や法学をバカにしていたことよりも、コンピュータをバカにしていたことが、もはやトラウマ的後悔(数学を専攻したことは後悔してない)となっている。「子どもがYoutubeばかり見ていて困ったもんだ」と嘆く親御さんに対しても、「しかしYoutubeを否定されるのはいかがなものかと。世界最高峰の機械学習のテクノロジーを使ったあなたへのお薦めはあなどれません! アマゾンは世界中のあらゆる本を読んだことがある先生。教科書を読んだり学校で学ぶのは過去の学問、将来の産業は大人たちがバカにしている遊びから生まれる。」とまで言ってしまうほどのトラウマだw

しかし言い訳なんだが25年前の「情報処理」の授業つまんなかったねぇ…。相対論の授業も、お世辞にも面白いものではなかったので、私が個人的に背景を知っていたから面白く解釈できただけか。25年前の情報処理の授業では、機械学習だ、ビットコインで使用される楕円関数とは…みたいのは無理だろうが、俺なら少なくともプログラミングは無しで、フォン・ノイマン型コンピューターとは何か? チューリング・テスト、インターネットの成り立ちくらいで設計したがなぁ…。情報処理の授業でそういうこと言ってた? 俺が聞く耳持たなかっただけ??

算数や幾何をはじめとして、哲学的問答法を学ぶために必ず前もって履修されなければならないところの、すべての予備教育に属する事柄は、彼らの少年時代にこれを課すようにしなければならない。ただし、それらを教えるにあたっては、けっして学習を強制するようなやり方をしてはいけないけれども。自由な人間たるべき者は、およそいかなる学科を学ぶにあたっても、奴隷状態に置いて学ぶというようなことは、あってはならないからだ。事実、これが身体の苦労ならたとえ無理に強いられた苦労であっても、なんら身体に悪い影響を与えるようなことはないけれども、しかし魂の場合は、無理に強いられた学習というものは、何一つ魂の中に残りはしないからね。

後に各国憲法上で採用された「学問の自由」である。


プラトン「国家」~9/13 マキャベリ以前の君主論

哲学者たちが国々において王となって統治するのでない限り、あるいは現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが真実にかつ十分に哲学するのでない限り、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの2つのどちらかの方向に別々に進むのを強制的に禁止されるのでない限り、国々にとって不幸の止むときは無いし、人類にとっても同様だ。

最も優秀なるものを哲学者と呼ぶか、それを導き出すスキームである憲法であるかが違うだけで、2300年後のヒトラー、最良の憲法と国家形式は、民族共同体の最良の頭脳を持った人物を、最も自然に確実に、指導的重要性と指導的影響力をもった地位につけるものである。 我が闘争より

<知識>のほうは<あるもの>を対象としてそれにかかわる-すなわち、<あるもの>がどのようにあるかを知るのが、<知識>の本性だろうね。他方、<思わく>のはたらきは、われわれの主張では、思わくすることなのだね? はたしてその対象は<知識>が知るところのものと同じだろうか?つまり、<知られるもの>と<思わくされるもの>とは同じものであろうか? それともそういうことは不可能であろうか?

同一であることは、ありえないことになります。

では<あるもの>が<知られるもの>だとすれば<思わくされるもの>は、<あるもの>とは別の何かだということになるだろうね? かといって<あらぬもの>を思わくするということになるだろうか?それともありもしないようなものは、それを思わくすることすら不可能だろうか? 思わくする人は、その<思わく>を何かに差し向けるのではないかね?それとも、思わくはしているが何も思わくしていないというようなことが可能なのだろうか?すると<思わく>は、この両者の外にあるものだろうか?明確さにおいて<知>を超えるものであったり、あるいは不明さの点で<無知を超えるものであったりするだろうか? 思わくは知と比べれば暗く、無知と比べれば明るいもの、両方の極のうちに位置づけられるのだね。思わくは両者の中間的なものだということになるだろう。もし「同時にありかつあらぬ」と言ってもよいようなものが何かあるとわかれば、そのようなものは、純粋に<あるもの>と完全に<あらぬもの>との中間に位置づけられる。<知識>と<無知>とのやはり中間に現れるようなものだろうと。われわれに残されている仕事は、あるとあらぬの両方を分け持つ者、純粋にどちらとも正しくは呼べないようなものを、発見することだろう。

600年後のナーガールジュナの中観、「空」である。

ある人の欲望が、ものを学ぶことや、すべてそれに類する事柄へ向かってもっぱら流れている場合には、思うに、その人の欲望は、魂が純粋にそれ自身だけで楽しむような快楽にかかわることになり、肉体的な快楽については、その流れが枯れることになるだろう。ひいては、そのような人は節度ある人間であって、けっして金銭を愛し求める人間ではないだろう。なぜなら余人はいざ知らずそのような人だけは、人々が熱心にお金を求め散在することによって獲得しようと願うさまざまのものに対して、まったく関心がないはずだから」

100年前に遠い地にてシッタールタが、悟りを開くものは金銭に触れるな、んー、シッタールタと言ってることは、ここだけではなく沢山ある。まあ、いいか。

哲学を志して、若い時に教養の仕上げのつもりでそれに触れた上で足を洗うということをせずに、必要以上に長い間哲学に時を過ごした人たちは、その大多数が、よしまったくの碌でなしとまでは言わぬとしても、正常な人間からほど遠いものになってしまう。最も優秀だと思われていた人たちでさえも、あなたが賞揚するこの仕事のおかげで、国家社会に役立たない人間となってしまうことだけは確かなのだ。

ここが「ソクラテスの弁明」で言及されていたソクラテスの罪。若者たちを堕落させたもの。それは「哲学」という不毛の学問であったことが、この部分で分かる。しかし、当時から哲学は役立たずと言われていたのか。高校から大学に行くにつれ、化学が物理に、物理が数学に、数学は哲学へなんていうものだから、不完全性定理のことも頭の片隅におきながら哲学も少しかじってみたが、「不毛な屁理屈」としか思えなかった。そんな私も学問の最高峰である数学と理論物理学が、今となっては、”必要以上に長い間費やしてはいけない学問”になってしまったのではないだろうかと思っている。大統一理論もリーマン予想も、世界中で10人くらいの人しか証明の正しさを理解できないだろうし、最高峰故に陥ってしまった数学の哲学化か。

教育と無教育ということに関連してわれわれ人間の本性を、次のような状態に似ているものと考えてくれた前。地下にある洞窟状の住まいの中にいる人間たちを思い描いてもらおう。光明のある方に向かって長い奥行きを持った入口が洞窟の幅いっぱいに開いている。人間たちはこの住まいの中で子供の時からずっと手足も首もしばられたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前の方ばかり見ていることになって、縛めのために頭を後ろへめぐらすことはできない。人たちは洞窟の一部に火の光で投影される影しか見ることができない。

彼の一人が、あるとき縛めを解かれたとしよう。そして急に立ち上がって首をめぐらすようにと、また歩いて火の光の方を仰ぎ見るようにと、強制されるとしよう。そういったことをするのは、彼にとって、どれもこれも苦痛であろうし、以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても目がくらんでよく見定めることができないだろう。そのとき、ある人が彼に向かって「お前が以前に見ていたのは、愚にもつかぬものだった。しかしいまは、お前は以前よりも実物に近づいて、もっと実在性があるものの方へ向かっているのだから、前よりも正しく、物を見ているのだ」と説明するとしたら、彼は一体何と言うと思うかね?彼は困惑して、以前見ていたもの「影」のほうが、今指し示されているものよりも真実性があると、そう考えるだろうとは思わないかね?

真実を観たがらないのは古今東西変わらない人間の性質か。影ばかり見ていると実体より影が真実性を帯びてくると。日経新聞は補完的に読むしかないな。日経新聞を中心に世の中見てたら影が実体になってしまうよw

その国において支配者となるべき人たちが、支配権力を積極的に求めることの最も少ない人間であるような国家、そういう国家こそが最もよく内部的な構想の最も少ない状態で、治まるのであり、これと反対の人間を支配者として持った国家はその反対であるというのが動かぬ必然なのだ。

真の意味の富者とはすなわち、黄金に富むものの事ではなくて、幸福な人間が持たねばならぬ富-思慮あるすぐれた生-を豊かに所有する者のことだ。これに反して、自分自身の良きものを欠いている飢えて貧しい人々が、よきものを公の場からひったくってこなければならぬという下心のもとに公共の仕事に赴くならば、善い政治の行われる国家は実現不可能となる。そうすると、国を守る役に、どのような人々がいるだろうか?それはただ国がそれによって最もよく治まるような事柄について、最も多くの知恵を持つ人々、しかも政治的生活にまさる善き生活と他の名誉とをもっているような人々だけではあるまいか。

これ、まだ見ぬ将来、しかし近い将来到来するであろう「発行者なき暗号通貨」の時代?


プラトン「国家」~8/13 マルクスと選民思想

これらの女たちのすべては、これらの男たちすべての共有であり、誰か一人の女が一人の男と私的に同棲することは、いかなる者もこれをしてはならないこと。さらに子供たちもまた共有されるべきであり、親が自分の子を知ることも、子が親を知ることも許されない。妻女も子供も共有であることが、もし可能でさえあれば最大の善であることを否定するような異論は起こらないであろう。

支配者たちがその名に値するものであるべきならば、そしてその補助者たちも同様とすれば、後者は命じられた事柄を進んで実行し、前者は、あるいは自ら法に従いながら、あるいは我々が彼らに一任した事柄については法の精神にのっとりながら命令を下すことだろう。それでは立法者としての君は、男たちを選び出したのと同じようにして、できるだけこれと同じ素質の女たちを選び出して、彼等に引き渡すだろう。そしてこれらの男女は家も食事も共同で、私的には誰もその種のものを所有していないのだから、みなが同じところで一緒に暮らすことになり、思うに、あの自然から与えられた必然性に導かれて、やがて互いに結ばれるにいたるだろう。

どうすれば最もためになる結婚となるだろうか? 僕は君の家に猟犬や血統の良い鳥がたくさんいるのを見ているからだが、そうした動物たちの結婚と子供作りのことに、何か注意してみたことがあるかね? その動物たちはみな血統の良いものばかりだと言っても、そのなかでも特に優秀なのがいくらかいて、それとわかってくるのではないかね。では君は全部に同じように子を産ませるかね、それともできるだけ最も優秀なのから子を作るように心がけるかね。

最も優れた男たちは、最も優れた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちはその逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方の子供たちは育ててはならない。

2100年後から始まるダーレーアラビアン・バイアリーターク・ゴドルフィンアラビアンのサラブレッドである。馬だけではなく、動植物には適用されている。小さな範囲で人間に対して試みた例はあるが、現在、成功した事例はない。これ、現在否定されている考えなのかなー? 

というのは多様性の強さ。大学や企業のリクルーティングにおいて、多様性を重視する傾向にある。一次元的な優劣による判断は難しいという結論なのだろうか。

シンガポールの政府主催合コンは
「男たちを選び出したのと同じようにして、できるだけこれと同じ素質の女たちを選び出して、彼等に引き渡すだろう。」
と同じことをやってる?

楽しみと苦しみが共にされて、できる限りすべての国民が損失に関して同じことを等しく喜び、同じことを等しく悲しむような場合、この苦楽の共有は国を結合させるのではないかね? これに反して、そのような苦楽が個人的なものになって、国ないしは国民に起っている同じ状態に対して、ある人々はそれを非常に悲しみ、ある人々はそれを非常に喜ぶような場合、この苦楽の私有化は、国を分裂させるのではないかね? それは国の中で、「私のもの」とか「私のでないもの」とかいった言葉が、同じ時に一緒に口にされないような場合ではなかろうか。

この人たちは家も土地もどんな持ち物も、いっさい自分だけのものとして私有してはならない。国を守る仕事の報酬としてのほかの人々から暮らしの糧を受け取って、みなで共通に消費しなければならない。もし彼らが真の意味での守護者であろうとするならば。

後のマルクスである。より明確に所有を否定している。


プラトン「国家」~7/13 国家の上位概念、ユーロ誕生

われわれが設立したような国家のほかに、国家と呼ぶに値するものが何かあると思っているとはね。

おや、では何と呼ぶべきなのですか?

他の国々のためには、もっと大きな呼び名が必要だ。なぜなら、そのひとつひとつがそれ自身、たくさんの国々なのであって、けっして一つの国家ではないのだから。いかなる場合でも二つの互いに敵対する国が、そこにある。すなわち、貧乏な人々の国と金持ちの人々の国とがそれであり、さらにそのそれぞれのうちに、きわめてたくさんの国が含まれているのだ。もし君がそれらを全体として単一の国家のつもりで相手にするなら、たくさんの国々を相手にするつもりで、一方の側の人々の財貨と権力、あるいは身柄そのものを、他方の人々に与えるというやり方を取れば、君はつねにたくさんの味方と少数の敵をもつことになるだろう。

200年後の秦帝国、始皇帝と朝廷である。400年後のローマ帝国とジュリアス・シーザー。2400年後のEUである

国家の全体も自然に一つの国となって、けっして多くの国に分裂することのないようにしなければならないのだ。あれやこれやと大変なことをたくさん彼らに命じているわけではなく、たった一つの大きなことを、大きさというより十分なことを守りさえすれば。

教育と養育のことだ。事実もし彼らがよく教育されて適正を知る人間となるならば、これらすべてのことや、さらには妻女の所有とか、結婚や子供を作ることといったような、我々がさしあたって省略して語らずにいる問題をも、容易に理解するだろう-これらすべては諺に言われるように、できるだけ「友のものは皆のもの」としなければならないとね。

後のマルクスである。所有と家族は社会的に何の合理性もない、というようなことはこの後も繰り返し出てくるので、都度、抜き出していく。

市場や都市や港に関する諸規定、あるいはその他これに類するいっさいのことなど-こういったことについて、我々はあえて何らかの立法を行うべきだろうか?立派で優れた人たちに、いちいち指図するには及ばないでしょう。そうしたことのうち、規定される必要のあるかぎりの法律の内容は、そのほとんどを彼らはきっと容易に自分で見出すでしょうからね。

後の資本主義、市場原理と自由競争である。

不節制な病人たちの生涯の過ごし方たるや、まことにご愛嬌ものだ。なぜって治療を受けながら何一つ効果を上げるわけでもなく、ただますます病気を複雑に大きくしていくだけで、それでいていつも、誰かある薬をすすめてくれる人があると、その薬で健康になれるだろうと期待し続けているのだからね。

後の米国、国民皆保険制度を認めない世論である。

単純にして適正な欲望、知性と正しい思惑に助けられ、思惟によって導かれる欲望はと言えば、君はそれを少数の、最も優れた素質と最も優れた教育を与えられた人々の中にしか、見出さないだろう。多数のつまらぬ人がいだく欲望が、それよりも数の少ない、より優れた人々の欲望と思慮の制御のもとに支配されているのを、君は目にするのではないかね。

プロレタリアートとブルジョワジー、消費する民と投資する資本家である。

各人は国におけるさまざまの仕事のうちで、その人の生まれつきが本来それに最も適しているような仕事を、一人が一人ずつ行わなければならないということ。そして、自分の事だけをして余計なことに手出しをしないことが正義なのだ。

後のホッブス、個人主義である。

女子も男子も同じ目的のために使おうとするなら、女たちにも同じことを教えなければならないわけだ。女子にも二つの術、音楽・文芸と体育、を課するほか、戦争に関する事柄も習わせ、そして男子と同じように扱わなければならないことになる。

2300年後の婦人参政権である。プラトン自身も他の箇所では「女は劣っている」とか書いていたので、すぐに理解されなかったのは無理もない。

あらゆることにおいて女性は男性に、ずっとひけをとると言って差し支えないでしょう。たしかに、色々の仕事にかけて、女が男よりも優れている例は数多くあります。しかし全体として見れば、あなたの言われる通りでしょう。

ね?


プラトン「国家」~6/13 ムハンマド、後退は死

もし人がハデスの国(冥界)の存在を信じ、しかもそこにはいろいろと恐ろしいことがあると信じているとしたら、死を恐れない人間、戦いにおいては敗北や隷属よりも死を選ぶような人間になると思うかね?

いいえ、けっして。

するとどうやら、われわれはそうした物語についても、それを語ろうと試みる人たちを監督して、ハデスの国でのことをそう一概に悪く言わずにむしろ讃えるように要請しなければならないだろう。彼らが現在語っている事柄は、真実の事でもないし、やがて戦士となるべき人々にとって有益なことでもないのだから。

1000年後の「ムハンマドとジハードの戦士たち」である。

名のある立派な人物たちが悲しんだり嘆いたりするくだりも、我々は削除すべきだろうか。立派な人物というものは、自分の友である立派な人物にとって死ぬことが恐ろしいことだとは、けっして考えないだろうと我々は主張する。そのような立派な人物こそはとりわけ、よく生きるために自分自身だけで事足りる人であって、他の誰よりも格段に、自分以外のものを必要とすることが最も少ないのである

ベルセルク第7巻、グリフィス、「オレの采配で命を落とした仲間たちに何ら責任を感じていないよ。なぜならそれはあいつらが自分自身で選んだ戦いなのだろうから。このオレがそうである様にね。でももしあいつら死者たちのためにオレに何かしてやれることがあるとしたら、それは勝つこと。あいつらが命を懸けてまでしがみついたオレの夢を成し遂げるために勝ち続けることだ。俺の夢は仲間の屍の上に立つことでしか実現できない、しょせん血塗られた夢だ。そのことで後悔や後ろめたさはない。だが…何百何千の命を懸けながら自分だけは汚れずにいられるほど…それほど俺の欲しいものはたやすく手に入るものではないんだ。」

ベルセルク第6巻、グリフィス、「私にとって友とは、決して人の夢にすがったりしない…誰にも強いられることもなく、自分の生きる理由は自らが定め進んでいく者…そしてその夢を踏みにじる者があれば全身全霊をかけて立ち向かう…たとえそれがこの私自身であったとしても…私にとって友とは、そんな…対等の者だと思っています。」

語り方の2つの種類といったのは、正しい吟唱のための語りはほとんど同じ調べを取り、単一の音調のうちになされることになるのではないかね。ではもう一人のほうの語り方は、まったく反対に、ありとあらゆる音調とリズムを必要とするのではないだろうか?なにしろこの語り方は、ありとあらゆる形の変化抑揚を持っているのだから。我々の国家にはこれらすべてのものを受け入れるべきだろうか。それとも混合されないどちらか一方だけにすべきだろうか?

優れた人物の真似を行う、混合されない様式を受け入れるべきです。

しかしね、アデイマントス、混合された様式だって確かに楽しいものだし、さらにずっと、子どもたちや、その養育係の者たちにとって、そして大多数の大衆にとって一番楽しいのは君が選んだのと反対の方の様式なのだよ

後のスティーブ・ジョブズ 神のプレゼンテーション、田中角栄、ヒトラー「歴史を変えるのは書かれた言葉ではなく、話された言葉による」、わが闘争より


プラトン「国家」~5/13 戦争の必然と一神教

国家というものがなぜ生じてくるかと言えば、我々が一人一人では自給自足できず、多くのものに不足しているからなのだ。

必要のうち第一で最大の者は、生きて存在するための食糧の備え(供給)だ、第二は住居、第三は衣服類のそれだ。どのようにすれば国家はそれだけのものを供給するに足るだけのものとなるだろうか。農夫が1人、大工が1人、織物工が1人いることになるのではないかね?

農夫は一人で4人分の食糧を供給しー、それとも他の人々のことはかまわずに、食糧の1/4を1/4の時間で自分だけのために作り…

一人が一つの仕事だけする場合がうまく行くだろう。

国家そのものを、輸入品の必要が全くないような地域に建設するということは、ほとんど不可能である。そこで貿易商もまた、必要だということになる。知能的な事柄にかけては共同者としての値打ちがあまりないけれども、力仕事のためには十分なだけの体の強さを持っていうような人々、賃銭取りも国家の成員として補充されるべき人々であるようだ。

我々が最初に語っていたもの-家や衣服や履物-にしても、もはや必要最小限にとどめるべきではなく、絵画や刺繍を始めなければならないし、金や象牙や全てその類のものを手に入れなければならなくなる。国家をもっと大きくしなければならない。先の健康な国家ではもう十分ではなくなって、今やこの国はもはや必要のために国々の中に存在するのではないような様々なものを、数・量ともにいっぱい詰め込まなければならないからだ。領土にしても、先にはその時の住民たちを養うのに充分であったのが、いまではとても充分ではなくなって、小さすぎるものとなるだろう。戦争というものが悪い結果をもたらすか、善い結果をもたらすかについては、まだ言明を差し控えることにして、さしあたって我々としては、これだけのことを言うにとどめることにしよう。我々はさらに戦争の起源となるものを発見した。

戦争の技術よりも靴づくりの技術の方により多くの気を配らねばならぬということがあるだろうか?
いいえ、けっして。
そうすると、国の守護者の果たすべき仕事は何よりも重要である明けに、他の様々の仕事から最も完全に解放されていなければならないだろうし、最大限の技術と配慮を必要とするだろう。

後の「フランスとシャルル・ドゴール」であるw パリ陥落したにも関わらず、何にも早く核開発既得権。

何にもまして国防、守護者は最も優秀でなくてはならず、そのためには教育が必要。

次のことを簡単に見逃してよいものだろうか、行き当たりばったりの者どもがこしらえ上げた物語を子供たちが聞いて、成人したならば必ず持ってもらいたいと我々が思うような考えとは、多くの場合制反対の考えを彼らがその魂の中に取り入れるのを?

ヘシオドスとホメロスが我々に語った物語。クロノスがどのようにしてウゥラノスに復讐したか、クロノスがやったこと、息子から受けた仕打ちの話など、たとえ本当の事であったとしても、思慮の定まらぬ赤い人達に向けて、そう軽々しく語られるべきではないと思う。

キマシタ。「多神教批判の前哨戦」のギリシャ神話批判です。不道徳な神々、ウラヌス、クロノス、ゼウスの親殺し、子殺し、オイディプスと近親相姦など、スキャンダラスで奔放なギリシャ神話上の”神々”は神として適切か? 僕はギリシャ神話批判はしないがね、ダンテ「神曲」に対してはプラトンと同意見だ。ギリシャ神話と聖書とローマ史をごちゃごちゃにして、面白おかしく、「作りごとの物語」で仕立て、ヨーロッパ中心のキリスト教観という虚構を作り出した張本人だ

いやしくも神であるからには、真に善きものであるはずであり、有害なものではないはずだ。何らかの悪の原因であるということもない。ホメロスであれ他の詩人であれ、

ゼウスの宮の床には2つのツボが置かれてある。その一つには善き運命が、もう一つのには悪い運命が満たされて、ゼウスが両方の運命を混ぜ合わせて与える人は-時には不幸に会い、ときに幸せに会う しかし混ぜ合わせずに一方だけをそのまま与えられる者は-つらく厳しい飢えに駆られて、尊い大地を追われさまよう またゼウスは我々に 善きものをも悪しきものをも施し与える

というようなことも容認してはならない。

神とは魔法使いのようなものであって、あるときにはいろいろと多くの形へと実際に変身して自分自身の姿を変え、またあるときにはわれわれ欺いて、自分についてただそのように見せかけることにより、そのときそのときで、故意にさまざまの違った姿で現れることができるものだと思うかね? それとも神は単一な性格のものであって、自分自身の姿から抜け出すというようなことは到底あり得ないと思うかね?

ちょっとすぐには答えられませんが

では、もし何かが自分自身の姿か抜け出すとすれば、自分が自分で変わるか、他のものによって変えられるか、このどちらかでならないのではないか? まず、他のものによって動かされ変容させられるということの方だが、これは、最も優れた状態にあるものには最も起りえない。また、最も勇気があり最も思慮ある魂ほど、外部からの影響によって乱されたり変容を受けたりすることが、最も少ないのではないかね? 生まれつきにせよ、技術によるものにせよ、あるいはその両方によるものにせよ、すべてすぐれた状態にあるものは、他のものによる変化を受け付けることが最も少ないということになる。神及び神に属するものは、あらゆる点で最も優れた状態にあるはずだ。この観点から考える限り、神がいろいろと多くの姿を取るということは、もっともありえないことになるだろう。

神は自分で自分を変化させたり変様させたりするのだろうか?その場合は神はより優れたもの、より美しい者へと自分を変えるのだろうか、それとも自分より劣ったもの、より醜いものへと変えるのだろうか?

自分より劣ったものへでなければなりません。神が美しさや優れてあることにおいて不完全なところがあるとは我々には決して言えないでしょうから。

そうだとすればアデイマントス、神々であれ、人間たちであれ、みずからすすんで自分をなんらかの点で劣ったものにしようとするものが誰かいると思うかね? 神が自分を変様させようと望むこともありえないことになる。

偽りというものは、神々からだけでなく人間たちからも憎まれるものだ。神にとって偽りは役に立つのだろうか? 創作のための偽りということは、神の内にはありえないわけだ。神的なものは、どのような観点から見ても偽りとは一切無縁であることになる。したがって神とは全き意味において、行為においても言葉においても単一にして真実なものであり、自ら実際に変身することもなければ、現においても夢においても、幻影によっても言葉によっても兆を送ることによっても-他のものを欺くということもないのだ。

われわれはホメロスを多くの点で賞賛するものではあるが、しかしゼウスが「偽りの」夢をアガメムノンに送る件は、賞賛しないであろう。

とこんな感じで、多神教から一神教へのソクラテス的論理が紹介されている。私は神学の専門ではないので、これだけで一神教の論理整合性を主張するにはおそらく不十分であろうが、その原型を認めることができる。また同時に上記文章中の

現においても夢においても、幻影によっても言葉によっても兆を送ることによっても-他のものを欺くということもない

後の宗教の基本、ユダヤ・キリスト・イスラームだけでなく仏教においても言われた「偶像崇拝の禁止」につながっていく。プラトンやソクラテスが、一神教や偶像崇拝の禁止を言ったのではない。だが、歴史的に後に出てきた概念につながる発言があったことが面白いではないか。もちろん、プラトンは「マルクスの資本論」と同じことを言ってるのではない。だが、それを彷彿とさせることを言っているのだ! もうちょっと待ってね、出てくるから。


プラトン「国家」~4/13 キリストの磔、そしてロスチャイルドとモルガン

さて、不正な人間をこのように想定したうえで、その横に今度は正しい人間を-単純で、気高くて、アイキュロスの言い方を借りれば「善き人と思われることではなく、善き人であることを望む」ような人間を議論の中で置いてみましょう。正しい人間からはこの「思われる」を取り去らなければなりません。もしも正しい人間だと思われようものなら、名誉や褒美が彼に与えられることになるでしょう。そうすると、彼が正しい人であるのは「正義」そのもののためなのか、そういった褒美や名誉のためなのか、はっきりしなくなるからです。こうして一切のものをはぎとって裸にし、ただ正義だけを残してやって先に想定した人間と正反対の状態に置かねばなりません。すなわち、何一つ不正を働かないのに、不正であるという最大の評判を受けさせるのです

この直後のソクラテスがまさにそうなるだが、(具体的に知りたい人はの「ソクラテスの弁明」へ)
その400年後の「イエス・キリストの犠牲」が必要悪であったと予言しているのである。

正義だけを残して、不正であるという最大の馮がんを受けたものは、磔にされる、とまで言っているので、まさにキリストの処刑の予言とも思えるのだが、予言というオカルトめいた表現は不適切かもしれない。哲学する=真理の探究、一つの真実に対して無数に存在しうる偽り。真理に言及すれば、一つの真実、それが繰り返される確率が高くなり、将来予想が当たったと拡大解釈ができるわけだ。だが、誰も将来を予測することはできない。市場競争の世界でも、成功した者が正確に将来を見通せていたわけではなく、誠実な対応=真理の追求、それが結果的に将来予想が当たったように見えるだけだ。

そういう意味ではこれは、後の「キリストの犠牲」に留まらず、後の「信仰・学問・言論・表現の自由が憲法上で保障されている」ことに、うすーーーく、つながっている。

不正な人間こそは、真実に即してことを行い、人の評判のために生きるのではない以上、不正と思われることをではなく、不正であることを望んでいる。彼はまず、正しい人間だと思われているがゆえに、その国の支配権力を手に入れるだろう。どこからでも好きなところから妻をもらい、誰であれ好きなものの所へ子どもたちを縁付けるだろう。誰とでも望むがままの相手と組んで仕事をしたり、交際したりするだろう。そして、不正を働くことを何ら気にしないから、そういうことをすべて、自分の儲けのために利用して利益を収めるだろう。さらに私的にせよ公的にせよ争いごとをのぞんでは、敵方に勝って多くを獲得し、より多くを獲得すればこそ金持ちとなって、友には恩恵を施し敵には害を与え、神々には物惜しみせず豪勢に数々の生贄を供え、捧げものを奉納するだろう。

国の支配権力を手に入れる=「我に通貨発行権を与えよ。さすれば法など誰が決めようがどうでもよい」 マイヤー・ロスチャイルド

仮想通貨は少なくとも、さらに10倍は上がる根拠

後の「ジョン・ピアモント・モルガンとベルサイユ条約」である。後の「人類史上最大の富の独占者ジョン・ロックフェラー」であるとも言える。これが資本主義批判、すなわち、私が「これが後のマルクスである」と言うことへの伏線である。だが、もっとマルクスに近い表現にまで、ソクラテス・プラトンが迫っているので、ここでは、資本主義批判に留めておこう。

ただここで、馬鹿と天才は紙一重ではないが、究極の不正と正義も紙一重である。詐欺師と言えるレベルの不正は語るに値せず、不正も極めれば歴史に名を残す。私は、モルガンとロックフェラーを悪者扱いするつもりはないが、プラトンの言うところの正義ではなく、不正な人間だと言っているのだ。


プラトン「国家」~3/13 スターリンと大英帝国

指輪の玉受けを自分の方に、手の内側へまわしてみたのです。するとたちまち彼の姿は目に見えなくなって、彼等はギュゲスがどこかへ行ってしまったかのように涸れについて話しているではありませんか。玉受けをまわして内側に向ければ姿が見えなくなるし、外側に向けると、見えるようになるのです。ギュゲスはこれを知ると、さっそく王のもとへ報告に行く使者の一人に自分が加わるように取り計らい、そこへ行ってまず王の妃と通じたのち、妃と共謀して王を襲い、殺してしまいました。そしてこのようにして王権をわがものとしたのです。

後の「ポール・バーホーベン、インビジブル、姿は見えないが、殺意は見える」である。

人は言うでしょう、このことこそは何人も自発的に正しい人間である者はなく、強制されてやむを得ずそうなっているのだということの動かぬ証拠ではないか。つまり、正義とは当人にとって個人的には善いものではない、と考えられているのだ。すべての人間は不正の方が個人的には正義よりもずっと得になると考えているからに他ならない。

後の「オリバー・ストーン、ナチュラル・ボーン・キラーズ」である。

もし極度に不正な人間であるべきならば、色々の不正事を企てるにあたって誤ることなく、人目をくらますようでなければなりません。発見して捕らえられるような者は、へまな奴だと考えるべきです。なぜならば不正の極致とは実際には正しい人間ではないのに、正しい人間だと思われることなのですから。彼は最大の悪事を働きながら、正義にかけては最大の評判を自分のために確保できる人であると考えなければなりません。

後の「スターリン、一人殺せば殺人だが、百万人の死は統計上の数値に過ぎない」である、と書こうとしたが、独裁者とも言われている面もあるので…

後の「日の沈まぬ大英帝国による世界、植民地支配」であるw この方が良いかな。

大英帝国というのならば、地図を塗り替えた男、ジュリアス・シーザーでもチンギスハンでもナポレオンでも同じだろ、ってのがあるかもしれないけど、大英帝国のアジア支配は現代で、その支配冷めやらぬ現在でも未だに反発が少ない(少ないだけでかなりあるけどさ)のが、よりリアリティが感じられるからだ。香港が中国返還を恐れ、未だに選挙制度が非民主的なのだが、それは中国が新たにやったことではなく、イギリスが香港に対して行った愚民化政策の継続なのである。イギリスの最大の罪はイスラエルとパレスチナ問題だと個人的には思うが、アジア的な視点でも、アヘン戦争、日本だったら武器商人グラバーの暗躍、インドネシアから見ればカリマンタン=ボルネオの北半分の領有権をマレーシアが主張しているのは、イギリスとマレーシアの策謀に過ぎない。

我々アジアから見ると反発は薄くなるが、当の大陸ヨーロッパから見ればヒトラーは、著書「わが闘争」の中で

わが闘争 下 国家社会主義運動 6/7~ヨーロッパ外交政策
https://ichizoku.net/my-ideology/20130620/european-foreign-policy/

「今日のヨーロッパの勢力関係を冷静に吟味してみると、次のような帰結に達する。つまり、300年この方わが大陸の歴史は、ヨーロッパ各国の勢力関係を均衡させ、相互に牽制させるといった方法によって、自己の巨大な世界政策的目標にとって必要な後方守備を安全にしようとするイギリスの企てにより決定的に支配されていた。

と憎々しげに書いている。ドイツにとってはドーバー海峡、地中海を持っている国にとってもジブラルタルとスエズ運河とイスラエル、さらにヨーロッパ外でも、アングロ・イラニアンとホルムズ海峡、マレーシアとマラッカ海峡、シンガポール、香港など、すべての要所をイギリスが抑えてる。

ここで大英帝国の強さの根源、日本において希薄な意識は、ロジスティクス(兵站)の重要性だ。やれ核武装だ、ゼロ戦と戦艦ヤマトはすごかっただの、上杉謙信戦闘力100だの表現が多い。イギリスの強さは兵器の強さではなく兵站だ。日本の歴史だって同様の事がたくさんある。強調して触れられてるのは、信長の桶狭間、石山本願寺、ロジェストウェンスキー航海、ハワイ・サイパンをはじめとする太平洋群島列島、まぁ挙げればきりなくあるが。B29と核兵器も大きいよ、それは否定しないよ。でも、もっとくだらない次元で良い。日本のゲームは兵站を意識してない。信長の野望では、どんな大軍でも瞬間移動できたり、ドラクエでは食料も確保せずに無限に歩き回れる。

話がそれすぎた…ごめん。