満州国政府最高首脳に
政党人はときに軍部の懐柔に乗せられ、軍部の脅迫に怯え、みずからの腐敗と日和見に自壊し、結局は軍部の勢力を増殖させていったのである。憲政史上最大のクーデター事件、すなわり2.26事件は、こうした時代文脈に咲いた徒花であった。岸は2.26事件後わずか8ヶ月にして満州に渡るが、その岸を待ち構えていたのはもちろん関東軍である。岸は参謀長板垣征四郎に向って次の2点を主張した。「第一に日満一体論、満州の産業経済発展が満州国統治のみならず日本国民にとっても重要であること、第二に関東軍の任務は統治の基本を握ることであって、産業経済については自分に全てを任せて欲しいこと」 岸がまず最初に手掛けた仕事は、満州国産業開発5ヵ年計画の実行であった。対ソ戦略基地たる満州の産業開発は、仮想敵ソ連の計画経済をモデルにした。
産業開発5ヵ年計画が実行に移された当初、2つの不安が岸の脳裏に去来していた。1つは生産過剰の不安であり、今ひとつは資金調達のそれである。石炭や鉄鋼の増産が需要を超えてしまい、操業短縮に追い込まれはしないかという心配である。後者についてはどう計画の所要総資金25億円をどう確保するかという問題であった。第1の不安はその後間もなく(昭和12年7月)近衛内閣のもとで始まる日中戦争によって一挙に解決する。いま1つの不安、資金調達について、日中戦争によって内地の期待は急激に高まり、所要資金は25億円から47億円に膨張した。日本本土の昭和12年度歳出額が27億円、同13年度が32億円であったことを考えれば、どう計画がいかに大規模であったかが理解できよう。
昭和12年12月、鮎川義介率いる日本産業(日産)の満州導入、日産は特殊会社として、その翼下に日立製作所、日産自動車、日本工業、日本化学工業など直系、関連をあわせると130社、15万人の従業員を抱え、グループ全体の公称資本金は8億円を超え、三井・三菱に次ぐ1大コンツェルンとなっていたのである。一方、日産の満州進出によって、その既得権を侵されるであろう満鉄をどう納得させるかという問題、時の満鉄総裁は松岡洋右、いわずとしれた岸の姻族である。満州の総合開発を鮎川の手にゆだねようという岸のもくろみは、満鉄支配下の巨大な事業権が日産側に移譲されることを意味していたから、満鉄が昭和製作所などの中枢の重工業部門を手放すとなれば、その内部から激しい反発が出るであろうことが十分予想された。こうした事情もあって満州国政府側の日産移転工作は終始秘密裡に行われた。しかし岸がこの日産移転について松岡とまったく通じていなかったとする見方には若干無理がある。岸の対関東軍説得が、どう郡と密着していた松岡の耳に入らなかっただろうか、という疑問はやはり残る。岸と松岡がごく近い親戚筋であって、こうした個人的関係をむしろ公的関係に活かしきった、とみることは十分可能である。
岸が在満時代、軍関係者と幅広く交誼を取り結んでいったことは、その後彼が戦時体制化の日本の権力の階段を駆け昇っていくその起動に決定的な影響を与えることになる。岸と東条の関係はすでにこの満州で固まっていた。のちの東条内閣(昭和16~19年)において岸が商工大臣あるいは軍需次官として登場とともに対米戦争を指導していく。そもそもの出発点はまさしくこの満州にあったわけである。
岸は同僚官吏はもとより、民間人、満州浪人、無頼漢に至るまで彼のそばに来るものには惜しげもなくカネを与えたといわれる。その最も顕著な事例の1つが甘粕正彦への資金提供である。甘粕は憲兵隊の大尉時代、大正12年、無政府主義者大杉栄らを扼殺したとして、懲役10年の刑に処せられ、どう15年出獄ののち、昭和4年に渡満する。満州では諜報謀略活動に身を投じ、満州事変、日中戦争をはじめとするあらゆる重大事件の謀略は甘粕を抜きにしては考えられなかった。岸が甘粕をのち昭和14年に国策会社満映(満州映画協会)の理事長に据えたことからもわかるように岸と甘粕は満州で終始一貫親密な関係にあったことは事実である。甘粕正彦の排英工作のために岸が1000万(今の85億円)つくってやったこともある。甘粕のカネ遣いは、そのスケールにおいてケタはずれであった。アヘン密売によるところが大きかったといわれる。満州支配層がアヘンの密売によって収入を得る道は2つあった。1つは満州国政府が熱河省(河北・遼寧両省と内蒙古自治区に編入)のアヘンを南方(上海、香港)でさばくルートであり、今ひとつはイギリスから、上海の里見某なる人物を経由して甘粕に通じるルートである。甘粕が当時大規模な諜報謀略活動に従事しえたのは、莫大なカネを生むこのアヘン・ルートを彼が握っていたからである。
「諸君が選挙に出ようとすれば、資金がいる。如何にして資金を得るかが問題なのだ。当選して政治家になった後も同様である。政治資金は濾過器を通ったものでなければならない。つまりきれいな金ということだ。濾過をよくしてあれば、問題が起こっても、それは濾過のところでとまって、政治家その人には及ばぬのだ。そのようなことを心がけておかねばならん。」 『私と満州国』
岸信介―権勢の政治家 (岩波新書 新赤版 (368)) 原 彬久 岩波書店 1995-01-20 |
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