東条内閣の末期、戦局は絶望的になっていた。軍需省が誕生した18年11月、米軍はギルバート諸島のマキン、タラワ両島に上陸し、5400人の日本守備隊を玉砕させるが、ミッドウェー海戦(昭和17年6月)、ガダルカナルの敗退から打ち続く戦局の悪化はもはや決定的となっていた。以後クエゼリン、ルオット両島(マーシャル諸島)の守備隊玉砕(19年2月)、トラック島壊滅(19年2月)、さらにはマリアナ沖海戦の敗北(19年6月)と日本軍はことごとく惨敗するが、このマリアナ沖海戦とほぼ時を同じくして起こったのが、米軍のサイパン上陸とそれに続く日本守備隊30000人の玉砕であった。岸と東条の対立が公然化した引き金は、まさにこのサイパン陥落であった。「サイパン陥落は日本の戦争継続を不可能にした」というのが岸の主張であったのにたいし「作戦的判断は軍人のやることであり、岸ら素人の関知するところではない」というのが東条の立場であった。しかし、サイパン陥落によって日本本土が米軍用機B29の攻撃射程に入ったことは事実である。軍需次官として管轄する国内各地の軍需工場が米軍の爆撃にさらされることは自明であり、対米戦争はもはやこれまでというのが岸の判断であった。岸の「早期終戦」論である。