ラスプーチン一派で、次にスパイだと疑われたのはアンドロニコフ公だったのはいたしかたない。彼は派手な生活を送り、愛人達に莫大な金を使っていた。「彼の使った金額は、およその額さえ推定できなかった」と彼の執事キルテルは後に証言している。「私の妻が1日おきに、ロシア・アジア銀行から1000ルーブルずつ彼に届けていた。妻はお金を小切手で受け取っていた。彼はアパート代として月額600ルーブル払っていた。客達が、朝食、昼食、夕食に来ない日はなかった。客達は集団で来て、主人が家にいようがいまいが気にしなかった。オフラーナは、これらの費用はすべて、ドイツ軍の金でまかなわれているという報告を受け取っていた。翌年、ラスプーチン問題調査委員会が公を取り調べたとき、反逆罪の証拠は見つからなかった。委員会は、彼はあまりにも軽はずみで、妄想に取り付かれていたので、徹底した反逆者に離れなかったのだという判断に納得した。彼には何の政治的理想もなく、ラスプーチンと同様に、彼の政治家に対する意見は自分との個人的な利害関係に基づいていた。
それでもやはり、皇后とラスプーチン、彼を取り巻く一派が親ドイツ的であるという作り話は、広く受け入れられ、彼等の評判を著しく悪くした。ロシアを秘密訪問する途上の英国陸相キッチナーを乗せた英国軍艦「ハンプシャー」号が北海で機雷に触れて沈没した事件も、ラスプーチンが仕掛けたと噂されていた。ラスプーチンが喜んだのは事実だった。「私たちの友人は、将来、ロシアに損害を与えかねなかったキッチナーが死んだのは我々にとってよいことだと言っています」と皇后はニコライに書いている。
前首相のウラジーミル・ココフツォフは、実業化アレクセイ・プチーロフとレストラン「ドノン」で会食しながら、革命は近いと言った。プチーロフはそれに同意せず、革命よりもっと悪い状態、即ち「無政府状態に向いつつある」と反論した。「大きな違いは、革命家は再建しますが、無政府主義者は破壊するだけです」。もう1つの有名レストランの経営者アルヴィン・ジュアンがスパイ容疑で逮捕されたことを着たある評論家は、「現体制は終わりだ。スパイ狩りが『マキシム』ロシア店の厨房にまで及び、無実なフランス人愛国者をドイツのスパイと間違えてつかまえるようでは、何が起きてもおかしくない」と書いた。大臣の平均任期はわずか6ヶ月だった。1年に5人の内相、3人の陸相、4人の農相、3人の法相が替わった。プリシュケヴィチの日記によれば「新しく任命された大臣達は、もはやその地位に相応しい官舎に移ろうとはしない。家具を持って引っ越すほど長くその地位におれないからだ」
皇帝は、ニコライ・ミハイロヴィチ大公が持参した手紙をアレクサンドラに送った。「あんたは誰も信頼できない、自分はだまされているとたびたびおっしゃっていました。もしそうだとすると、同じ現象はあなたの妻にも当てはまるのです。彼女はあなたを熱愛していますが、、彼女をとりなく人たちの悪意ある、異常なまでに極端な策謀のため、正道を踏み外してしまっています。あなたがアレクサンドラ・フョードロヴナを信頼していることはよくわかりますが、彼女言う事は抜け目ない小手先芸に過ぎず、真実ではありません」 この手紙は彼女の「絶えざる干渉と告げ口」に警告し、「暗殺計画のはびこる時代」がすぐにそこに迫っていると予言して「国会(ドゥーマ)に責任の取れる、もっと望ましい内閣」の要請で結ばれていた。
アレクサンドラの反撃は凄まじかった。「もしも大公がもう一度この問題あるいは私のことに触れたなら、それは反逆罪にも等しいものですから、彼をシベリアへ送るぞというべきでした。」 皇帝は翌日の返信で厚顔にも今度も嘘をついた。「忙しくて大公の手紙を読む暇がなかったが、大公との話の中では彼女のことは出てこなかった」と書いた。「もし彼があなたのことで何か行ったとしたら、あなたの夫はかばったであろうことを、あなたは疑わないでしょう!」。皇帝の一族は新たな革命で彼を脅かすことができたが、彼に真の恐怖を呼び覚ましたのは妻だった。
フェリックス・ユスーポフ公は、すでに1年以上前からラスプーチンの殺害を考えていた。彼はロシア最大の資産家の相続人で、ヨーロッパ1の美男、皇帝の姪を配偶者に持つきらびやかな貴族の御曹司である。一族の巨大な富の基礎を築いた4代前のニコライ・ユスーポフは、エカチェリーナ女帝のお気に入りで、ヴォルテールやプーシキンとも昵懇だった。フェリックスの母の第一次大戦前の年収は130万ルーブル、金1トン分に相当する。ロシア全土に38のユスーポフ邸があり、そのほとんど彼は見たことがなかった。フェリックスの知っているモスクワにある3つの大きな宮殿の1つはイヴァン雷帝が建てたものであり、そのクレムリンに通じる地下通路は、鎖につながれたまま死んだ哀れな人たちの幽霊が出そうで、フェリックスは恐ろしさにゾッとした。クリミアでは、一族は黒海沿岸200kmに及ぶ石油埋蔵地帯を所有しており、農民達は油のしみこんだ地表の泥を荷馬車の車軸のグリース代わりに使ったという。彼の母は沿岸の一番高い山を誕生日プレゼントにもらった。一族は2両の自家用鉄道車両を持っていた。1両はロシア国内で使用され、もう1両は国境地帯の西ヨーロッパの狭軌道用のものだった。フェリックスは、そうした所有地や邸宅を訪ねることにほとんど関心がなかった。彼は1760年代に建てられた一族の宮殿のあるペトログラードで十分幸せだった。内部は凝った作りで、3つの舞踏会場のうちの大きなものはオーケストラを入れられるほどの広さがあり、列柱を配した絵画展示室には、ティエポロ、レンブラント、ルーベンス、ヴェラスケス、フラゴナール、ワットーの作品がかけられていた。小ぶりの客間の家具は、かつてマリーアントワネットが所有していたものであり、主要階段の上の大きな天井から下がるクリスタル・シャンデリアは、ポンパドール夫人のものだった。名だたる道楽者だった祖先ニコライは300人の愛人の肖像画をかけ並べ、旅に出る時は見世物用のサル、イヌ、オウムなどを連れて歩いたといわれる。
ユスーポフ一族は変人ぞろいだった。フェリックスの祖母は、生涯を切手とカタツムリの蒐集に捧げていた。しかも、そのカタツムリを、自分のバラ園の最上の肥料と信じて、片っ端から足でぐしゃぐしゃに踏みつけるのを楽しみとした。フェリックスの父は釣りに出かけた時、薄汚い、不潔な匂いのする小人を見つけ、つれて帰って息子の家庭教師にした。日曜日はいつも、この小人はディナー・ジャケットを着て黄色い靴を履いた。ある召使は、ランプに転化するという仕事だけのために雇われていた。宮殿が電化された時、フェリックスはこの男が退屈のため酒を飲みすぎて死んだのをほくそ笑んだ。フェリックス自身も色々奇癖があり、その最たるものが女装だった。彼は12歳の時、母親の服でドレスアップして、彼女の美容師からカツラを借り、ネフスキー大通りに娼婦たちと並んで立つという遊びを興じた。誘いをかけてくる男達には、もう予約済みだと答えるのである。しかもフランス語で。家にいるときの彼は母の友人たちにロシア語に話しかけてはイライラさせるのが好きだった。古い世代の貴族たちはロシア語をほとんど知らなかった。彼は一時、面白半分に左翼運動に首をつっこんだことがあり、乞食に扮装してスラム街を訪ねた。ところが、よくよくそばで見ると、無知無学の人たちはちっとも面白くなかった。「辺りにいるのは男も女も半裸で飲んだくれの薄汚い人間のくずばかりだった。こうした恵まれない連中は、互いに喧嘩し、汚い言葉を使い、悪意丸出しで罵り合っていた。」 と貴族的な嫌悪感をあらわにしている。
フェリックスは政治にはほとんど興味が無かった。だが、ラスプーチンの持つ農民的要素に対しては貴族ならではの尊大さを持ち、アレクサンドラが行為にもたらした損害に対しては君主主義者としての憎悪があった。こうした傾向が彼の自己顕示欲とあいまって、自堕落で、魅力を失いつつあった彼を危険な若者にした。
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