本書は、君主論ではなく、マキアヴェッリそのものの人生を追っている。塩野七生氏によるイタリア・フィレンツェの表現がオタクっぽくて面白い。
当時は、国家が都市を作るのではなく、都市が国家をつくる時代であった。都市国家とは、フィジカルな現象を表現するだけの、名称ではない。イタリアがルネサンス運動の発祥の地になりえたのは、国家が都市を作るのではなく、都市が国家を作るというこのことに、古代以来、はじめて目覚めたからである。そして、フィレンツェ人はヴェネツィア人と並んで、この意味での都市を作り出した民族なのであった。海の都といわれたヴェネツィアも、花の都とたたえられたフィレンツェも、いずれも、「はじめに都市ありき」で共通している。都市が先に生まれ、国家はその都市の持つ性格の延長線上に、自然な勢いのままにつくられたのである。マキアヴェッリはこの「都市」で、生まれ育ち死ぬ。生粋の都会人として生をうけ、生をまっとうする。
マキアヴェッリの山荘への道から、アッピア街道、レスピーギ「ローマの松」の傘松、キャンティ・クラシコ(ワイン)、サンタ・マリア・デル・フィオーレ。七生ちゃん、語る語るw 一緒にイタリアを歩いて、彼女より楽しい日本人は居ないだろうね。オタクって男が多いけど、女でもいるという証拠だな。
コシモ・デ・メディチが、後世まで広く名を残すことができたのは、彼が育成した学問芸術のためであったろう。この男くらい、なんでも集めさせ、なんでも作らせたパトロンはいない。彼はこう言っている。「わたしは、この都市の気分を知っている。われわれメディチが追い出されるまでに、50年とは要しないであろう。だが、モノは残る。」 残したのは建造物や絵画彫刻や古写本などのモノだけではない。アカデーミア・プラトーニカ(プラトン・アカデミー)と呼ばれる古典研究の中心を、フィレンツェに創立したのも彼である。ビザンチン帝国の命運もこれまでと知ったギリシア人の学者たちが、フィレンツェのメディチを頼れば歓迎してくれると、コンスタンティノーブルを次々と後にしたのであるヴェネツィアとフィレンツェは、彼等の期待を裏切らなかった。だが、どちらかといえばフィレンツェの方が派手で、古典研究のメッカの印象が強かった。出版界が主導権をにぎっていたヴェネツィアとちがって、フィレンツェはシンポジウム活動に重点が置かれていたからである。メディチの別荘が会場だった。
メディチ家・デ・メディチ軍団の系譜 面倒なのでこれでまとめてしまう。
ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360年 – 1429年) → コジモ・デ・メディチ(1389年 – 1464年) → ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ(1416年 – 1469年) → ロレンツォ・デ・メディチ(1449~1492) →
ピエロ・デ・メディチ(1472年 – 1503年)
ジョヴァンニ・デ・メディチ(1475年 – 1521年)
ジュリアーノ・デ・メディチ(1479年 – 1516年)
ジュリオ・デ・メディチ(1479年 – 1534年)
もしもロレンツォに神が少しばかり意地悪したのだとしたら、それは彼が醜男であったことであろう。祖父ゆずりの色の黒さは、まだよい。背が高くがっちりした体格も悪くない。だが、ひどく角張った顎は人目をひかずにはすまず、黒い大きな眼は、生き生きとしていても相当な近眼で、その下に存在を主張しすぎる鼻は、母方のトルナヴォーニ家の特徴を忠実に受けついでたれさがっただけでなくひしゃげている。そのうえ、声がしゃがれていた。とはいえ、番茶も出花は男にも適用可能なのであって、20代ならばさほど絶望的な不利にはならなかったであろう。しかも、出花の時期はすぎようと、ロレンツォはもともと、生き生きとした愉しく陽気な気質の持ち主であり、教養とウィットとユーモアに富み、精神はバランスが取れていて、豪華な雰囲気が常に彼の周囲には漂う。それに加えてナンバー・ワンの財力と権力。さらに加えてあった人をたちまち魅了してしまう。常に陽の当たる道ばかり歩んできた才能ある者独特の、無理の無い自身。これで魅力が無かったとしたら、そのほうがおかしい。実際、女には大変にモテたようである。
パッツィ家の陰謀
歴史上、「パッツィ家の陰謀」として有名なこの事件は、フィレンツェ人が、若きジュリアーノ・デ・メディチの馬上槍試合の際の勇姿が陶然となっていた年よりもずっと前に、根が張られ始めていたのであった。フィレンツェの有力な家系の1つパッツィ家と、法王シスト4世が結託して起こしたこの陰謀について、歴史家たちは、様々な方向に原因を求めようとする。
・パッツィ家の一員が主張した遺産相続権を、ロレンツォ・デ・メディチが特別法を作らせてつぶしたからである。
・フィレンツェ共和国に事実上の君主として君臨するメディチ家の専制にパッツィが反撥したからである。
・メディチが長年享受していた法王庁の財務担当権をパッツィが横取りしたからである。
・反メディチ派として知られたフランチェスコ・サルビアーティを、法王シストが、ところもあろうにフィレンツェ共和国が併合を狙うピサの大司教職に任命したからである。
・弟ジュリアーノを枢機卿にして欲しいというロレンツォの依頼を、法王が聞き入れなかったからである。
ロレンツォの考え方は、軍事大国でないフィレンツェ共和国の独立と自由を守るのは、イタリア半島の独立と自由が守られてこそである。そして、これまた軍事大国ではないイタリアの独立と自由を守るには、イタリア内の各国が互いに争っていては駄目である。問題はイタリアの中の各国の、争いの源を取り除くことにある。15世紀後半のイタリアは、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、法王庁国家、ナポリ王国が、列強という文字を当てはめてもかまわない、いわば大国であった。
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