第6章 シンガサーリ王国時代(13世紀)
1222年のガントゥルの戦いによるカディリ政権の滅亡は新王朝がジャワの支配権を新しい首都において引き継いだこと以上の意味があり、単なる政権の交代とは性格を異にする歴史的転換期の始まりを示唆する事件であった。新王朝によって「ジャンガラおよびカディリ」の両王国が決定的に統一的に統一されたとしても、そうした形式上の事実が新しいジャワの王国の国力の良い大きな展開を可能ならしめえたとはいえない。この「統一」なるものは実質上というより、外見的虚構とすべきである。強力なヒンドゥー文化を基盤とし、古来の中部ジャワの伝統への憧憬を示していた王国と王家は消えさった。これに代わって、新しい、単独、排他的な「ジャワ王国」が、社会の最下層の農民出の「成り上がり者」を始祖とする王家の元に出現した。1222年はジャワの歴史において、政治上よりもむしろ文化上の観点から、極めて重要な里程標とされよう。というのは既に進行中だった文化面におけるジャワ化の過程が特にこの年の事件以後急激に促進され、深化しているからである。
伝説的年代記パララトン
パララトン書(Serat Pararaton)は最新の史実として1481年の事件を掲げる散文書であり、マジャパイト王朝の没落後に完成しているが、その内容はこの王朝期以前の事件を含み、さらにイスラム初期に及ぶ。用語は古代ジャワ語ではなく、近代ジャワ語以前の「中世ジャワ語」とも称すべきものである。副題を「アンロック(Angrok)についての伝承」としているが、事実この書の前半の殆どは、後の首都名シンガサーリにちなんでシンガサーリと称されるにいたるまで、トゥマプルと公称された王国の創建者であり、初代の王でもあるアンロック(ラージャサ王)の伝記によって埋められている。この伝記は神話伝説に満ちた冒険譚、その空想的な性格は、歴史上の事実を述べたものではなく、歴史はその背景をなしているに過ぎない。
元の脅威
クリタナガラ王時代におけるジャワとチャンパーの提携は両国に対する中国からの共通の脅威に原因があったのだろう。中国におけるクビライ(Kuhubilai)の登場は、中国と諸外国の関係に大きな変化をもたらした。この国王が元王朝を樹立し(1260年)、政権の基礎を固めるとともに、東南方面の近隣諸国に対し、積極的な関心を向け始めた。各方面に元の使節が派遣され服属を要求すると共に、関係国王自ら元の宮廷に伺候することを促し、この要求に応じない場合、元軍の武力行使を予期せねばならなかった。チャンパーはこうした元側の要求を拒絶したため、国土の大きな部分を一時的にではあるが、中国軍に占領された。ジャワに対しても、元史によれば1280年に元から最初の服属要求があり、1281年には国王の伺候が支持され、その後も元使の来訪が繰り返されていた。1289年、クリタナガラ王は忍耐の限界に達したか、または強硬な手段による不服従の意思表示をしたためか、元使の顔面を傷つけて(入墨)本国に送還した。こうした侮辱に激怒したクビライは即時に懲罰遠征を決意したが、準備のため元軍の出発は1292年となり、翌年ジャワに上陸した。しかし、この時既にクリタナガラ王は国内の敵の手にかかって世を去っていた。
> 元寇が1274年。クビライ君も侵攻に忙しいね。しかし海を越えられない中国の悲しい歴史。
クリタナガラ時代のジャワの属領
クリタナガラ王のスマトラ遠征軍の出発に続いて、1284年にバリに対する遠征が行われたことについては既に述べた。この当時の群島におけるジャワの支配権の範囲について碑銘資料には、マドゥラを第一の地とする「他の諸島」という記述以外のものは全く見出せない。しかし、ナーガラクリターガマは、クリタナガラ王が支配した属領として、バハン(Pahang)、マラユ、グルン(Gurun)、およびバクラプラ(Bakulapura)を掲げ、スンダおよびマドゥラが従属していたことは言うまでもないと記している。マラユはナーガラクリターガマ時代にはスマトラ全体を意味するのに対し、クリタナガラの時代においてはこの島の限られた地域であったのであるから、この記述は読者に間違った印象を与えるものと言えよう。パハンについても同様であって、この地は現在のマレー半島の東海岸の同名の地にあたり、後にこの半島に位置するジャワの属領の総称となるが、当時ジャワ勢力の支配下に置かれていたのはその一部分に過ぎなかったであろう。グルンは元来ゴロン(Gorong)、ゴラム(Goram)であり、[セラム島東方の小島]、この地名が広義には大東地方(東インドネシア)という広大な地域を意味することもありうる。バクラプラはタンジュンプラ(Tanjungpura)またはタンジュンナガラ(Tanjungnagara)の同義語であり、後にボルネオ(カリマンタン)全体を意味することになるが、当初はこの島の南西海岸の狭小な地域の名称であった。
マルコ・ポーロが記すスマトラ北部
群島における勢力関係の変化に伴い、新しいマラユはジャワの支援の下に、急速な国運の発展を遂げている。クリタナガラ政権が没落するまさにその時期、名高いヴェニス人マルコ・ポーロによって我々は1292年の群島の一部分の情勢を知る。彼の著書・東方見聞録の第3書の第6章がジャワを取り上げ、この国が勢力のある王によって統治されており、異教を奉ずる富栄える王国であり、航海業が活発で特にザイトン(Zayton福建省泉州市)およびマンジ(Manzi蛮子)などとの黒胡椒その他の香料の取引をもって名高いと記している。彼はスマトラ北部に相当する小ジャワと称する地方にかなりの知識を示し(第9-11章)、この地方に8つの王国が所在し、それぞれが独自の首都を持つとし、その中の6つを掲げている。その第一はフェルレク(Ferlec)、これは言うまでもなくプルラック(Perlak)であるが、この地はサラセン商人によってイスラム化されていた。スマトラで最初にイスラム化された地である。しかし内陸部の住民は獣のような生活をしていたのであるから、このイスラム化はしないに限られていたのであろう。この王国に接してバスマ(Basma)、さらにサマラ(Samara)が続くが、それぞれ独自の王によって統治されている。マルコ・ポーロは同行者たちとモンスーン待ちのためサマラに5ヶ月間滞在したが、当時まだ人肉を食していた住民から身を守るため、防塁でかこまれたキャンプで生活した。野蛮な異教徒はこの2国の住民ならびに次のダグロイアンおよびランブリの住民であった。以上の4国は全て中国皇帝に従属しているが貢物は納めていないということである。(この宗主権の承認は形式的とみなされよう) ランブリは、これまで既に何回か記録に見出されたラムリ(Lamuri)、すなわち大アチェーであり、相互に接境していると記されているバスマおよびサマラの2小王国はおそらくラムリとプルラックの間に位置していたのであり、バスマはパセ(Pase)、サマラはサムドラ(Samudora)に比定されている。ダグロイアンについては種々の説があり、インドラギリ、バタック、またはぺディルなどとみなされているが断定は困難である。
マルコ・ポーロはしかし、8章で別の注目すべき記事を残している。南方に向かって航海すればペンタン島、いうまでもなくビンタン島に到着し、さらに航海を続けるとマライウルの党にたどり着く。この島は一つの王国をなし、独自の王をいただき、独自の言語を使用しており、活発な香料其他の取引の行われる大きな首都をもっている。このマライウルの所在についてはこれをスマトラ島外とする説があるが、要するにこの地を島としているのはマルコポーロがその地名によって大きな商港として知られていたマラユがプルラックやバロスと同様、スマトラ島自体に位置していたことを知らなかったに過ぎない。この記事で注目すべきは、マルコポーロがマラユのみを掲げ、シュリーヴィジャヤに言及していないことである。彼の言うマラユが実はシュリーヴィジャヤを意味しているとすれば、シュリーヴィジャヤという名前がマラユに変わっていたと考えることができる。
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