アラブとイスラエル―パレスチナ問題の構図 (講談社現代新書) アラブとイスラエル―パレスチナ問題の構図 (講談社現代新書)
高橋 和夫

講談社 1992-01
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今まで、学校教育のいわゆる”社会”、世界史を全く勉強してこなかったせいか、国名・地理・人名が
まったくわからず、読むのに2週間もかかってしまいました。私なりに理解したことをまとめました。
ユダヤ教徒
キリストを裏切った者の子孫として嫌悪され、蔑視され、そして必要とされていた。
なぜならば金貸し業に対する宗教的アレルギーがキリスト教徒には多く、キリスト教徒は金融業に
従事しなかったからである。
民族主義
フランス革命によって、王族支配を打倒した民衆は、国家を自らのものと感じ、その国家の主体である民衆
のあいだでの一体感を高めていった。
「お国のために死ぬという」という民族主義の不思議な情念で武装されたフランス軍は、お金のために戦争
していた近隣諸国の職業軍人を圧倒した。
この民族主義の高まりが、欧州諸国に伝染し、ユダヤ人に対する迫害を鋭いものにした。
シオニズム
民族主義の台頭で、ユダヤ人は、自らの国を持たなければならないという声が高まっていった。
その先が、祖先の地とユダヤ人が考えたシオンの丘(エルサレムの古称)で、パレスチナ人の居住地であった。
第一次中東戦争 の背景1948年
パレスチナは、オスマン帝国支配下にあり、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教が長年にわたって共存してきた地域であった。
そこにヨーロッパのユダヤ人がやってきて自分たちの国を建てるなど土台無理な話であったが
当時の帝国主義(ヨーロッパが望めば、アジア・アフリカなどどうにでもなるという思考)の下で
シオニストは、オスマン帝国の許可を得て、パレスチナへの移民をすすめた。
第一次大戦後、オスマン帝国のアラブ領土の分割が始まると、結局イギリスが、パレスチナを国際連盟の委託統治領
として自ら支配することにした。「ナショナル・ホーム」樹立の「バルフォア宣言」であった。
ドイツのナチスのホロコーストにより25万人のユダヤ人がパレスチナに到着している。
第一次世界大戦の始まった当初、パレスチナのユダヤ人人口は8万5千人だったことを考えればかなりな数と言える。
第二次世界大戦が終わると、シオニストは、イギリスのパレスチナからの追い出しに取りかかり
激しいゲリラ攻撃の末、イギリスは1947年、パレスチナからの撤退を発表した。
同年、国連総会はパレスチナの分割決議案を可決し、その土地の57%をユダヤ人に割り当てた。(以前は7%だった)
パレスチナ全土を自らの土地と考えるパレスチナ人はこの決議を受け入れるわけはなく、周辺アラブ諸国も
パレスチナ人に同調した。ユダヤ人国家イスラエルの成立の宣言とともに周辺アラブ諸国がパレスチナに進撃した。
これが第一次中東戦争であった。
その結果、イスラエルは国連決議をはるかに上回るパレスチナの77%を支配下においた。