2日目の夜に気付いたタイの農家における食事の習慣
家族一同の食事の席で、各々に食器を持っていない。各人の皿に食事を取り分ける習慣は、「これは私のものである」
という利己的で卑しい思想と貧困な発想の現れ
であり、自然の恵みを受け、日々それを神に感謝し、それを全員で分
け合う彼らには不必要な習慣である。
この農民の生活習慣に、よく言われる農耕民族が穏やかであるという説を見る。
究極の製造業である農業に対し、金融業は、金の臭いを嗅ぎ分け、金のありかを見つけたらそれを取りに行く略奪
と恫喝、別の言葉で美しく言うなれば、知的価値の創造と顧客のための提案である。
一般に賃金は高く、頭脳労働であるが、一度金融危機、信用崩壊すれば、たちどころに職を失うという地に足が着
いていないモロさ
がある。そのモロさは水さえ無い金融立国シンガポールを見れば一目瞭然である。
人は、食べて寝てさえいれば生きていける。我々が口にする食物の多くが大地からの恵みであり、いくら頭脳労働
したところで、農業という肉体労働と自然との闘い無しに食糧を生産することはできない。
過去の歴史上、様々な国で起こった食糧危機やハイパーインフレーションの事実を振り返れば、恐怖に駆られた人々
による需給の逼迫で我々一般市民の蓄財など一瞬で吹き飛んでしまう。我々のように金だけ持って食料を持たない
都心部の市民は
、このRiskを意識してかしないか常に猜疑心に悩まされ、金銭的に恵まれていない地域に対して、
「治安は大丈夫?」と不安を覚えたり、単身での突進に、「略奪されるRisk」を感じてしまうのである。それは神なる
農業に従事する人々に対し大変失礼な感覚であったと反省している。
対して農業に従事する方々からすれば、農作物を売って暮らしている立場にあるわけで、自分たちの”生”に必要な
糧は、自らの手で作り、目の前に”売るほど”あるという自信と自負がある
のだろう。
タイ語も話せない見ず知らずの私に対し、「まぁ、食っていけや」と勧められる余裕と寛容があることを痛烈に感じる。
10万Warrant発行したうちの1Warrantを無償で分け与えることに対して、「オプションの価値が0ということは原理
的に起こりえない」と考えてしまう我々と発想が違うのである。
加えて、彼らは盲目的に搾取される無抵抗な民であると私は思わない
「柔よく剛を制す」を国家として実践するタイは、中国をもってしても不可侵。
それはタイ北部のチェンマイなどに見られる中国による民族侵略の失敗に見て取れる。
タイは中国系が多く中流以上はことに7割が中国系が占めるという。しかし、彼らはあくまで中国系に過ぎず「華僑」
ではない
。同じ仏教、能天気な性格、控えめな態度はタイ人そのものであり、中国系とタイの判別基準は色白かど
うかだが、中国系でも色黒はいるし、タイ北部は色白もいるのであくまで参考程度でしかない。またタイの中国系は
「北京語」が話せない
。広東省の満州人、福建人で、北京語と無縁で漢字の読み書きもできない。東南アジアの
他の国では、中国系は中国系として固まり、北京語を教える学校に行くから、北京語はもちろん中国人としてのア
イデンティティーを植え付けられる。
インドネシアにおける暴動は、基本的に「華僑vs非華僑」の図式になりやすく、ビルマでも経済が悪化すると経済的
に豊かな華僑排斥運動が起こる。インドネシアもビルマも中国系は政治家や公務員になるのが非常に難しく、マレー
シアにいたっては「ブミプトラ政策」と称してマレー人優遇を国家運営の基礎に据えている

中国系は頭が良く上昇志向が強い彼らを放っておけば、国が乗っ取られてしまう。だから庇は貸すが母屋には絶対
に上がらせない。中国系は「華僑」という立場で、金儲けに専念し、貯めた富を生命線に現地人とは一線を画す。
こうなると中国系と現地人の意識差は広がるばかりだ。
一方のタイは中国系が首相であったりするように、母屋にも平気で中国系を引き入れる。
唯一の防衛線は、中国語学校の規制のみで、共通語は必然的にタイ語となり、中国の民族支配の源泉である言語
支配から逃れるための同化政策
と言える。
差別意識から生まれる規制と優遇政策に対し、農耕民族の寛容さと柔軟な受容政策の有用性はタイという国家の存
在がそれを証明している
のである。
譲り合いの精神を持ち、歴史上の同盟関係もあった我々日本人の企業と国家の将来を担う役員・官僚候補生達は
タイの農村から同じ農耕民族としての強さと欧米植民地支配、中国民族侵略をかわし続けているタイの政策に学ぶ
ものが多くあると思われる。