食と文化の謎 5/7~牛肉出世物語

アメリカ人は一人当たり年間150ポンドの「赤身肉」を食べる。その重量の60%はビーフと子牛肉(ヴィール)、39%が豚肉、1%が子羊肉(ラム)と羊肉(マトン)で、ヤギ肉の量はあまりにわずかで数字にならない。

1632年、プリマス植民地には、6頭のヤギ、50頭の豚、そしてたくさんのメンドリがいた。ようやく翌年になってやってきた牛は肉用ではなく乳用だった。初期の居住地ではどこでも、牛よりも豚やヤギや羊のほうが大切な肉減だった。1633年、マサチューセッツ・ベイ植民地について記述したウィリアム・ウッドは、「4000人の住人に対して、牛は1500頭、ヤギは4000頭、豚は無数にいて、とても貧しいなどといえようか」と言っている。1634年のジェイムズタウンでは、「良家」が食べる「赤身肉」は豚肉と子羊肉だけだった。植民地の夕食テーブルから最初に締め出された「赤身肉」はヤギだった。乳牛が植民地のミルクの需要を十分に満たすようになるとすぐに、ヤギはめったに口にされない肉になった。植民者はヤギを主にミルクの供給源として飼っていたから、肉は副産物だったのだ。ミルクと肉の供給源としてヤギが牛に勝てるのは、牧場が小さく草が乏しいときに限られる。しかし、植民地アメリカにあったのはそれとは正反対の条件だった。

羊肉の場合はどうか。羊肉は-とくに子羊肉-は味覚の点でヤギ肉よりかなり上位にランクづけられているが、牛肉や豚肉よりはるかにしただ。羊肉もヤギ肉が衰退したのと同じ理由で、食べるに悪く、考えるに悪い肉となった。羊肉や子羊肉が副産物である場合には、羊は大量に肉を供給する効率よい動物となりうる。それだからこそ、伝統的なイギリス料理で羊肉や子羊肉が重んじられるのだ。羊毛用の羊飼育の副産物だった。アメリカ人がヤギと羊を飼育し食べることに興味を失ったのは、一つには、それにかわるものとして豚肉、牛肉、子牛肉がたやすく手に入ったからだ。植民地時代の生態学的・人口学的条件下では、ヤギや羊に比べて豚や牛のほうが効率よい肉源だったことが最近まで豚の牛の二つがアメリカ人の最も好きな肉の首位の座を巡って争うことになった理由なのだる。

うっそうとしたアメリカの森林は、豚飼育に特に好都合な環境だった。植民者がインディアンとオオカミを追い払い、どんぐり、ブナの木の実、ハシバミの実をひろったあとの森に「森豚」とよばれる頑強な品種の豚をはなすと、ほうっておいても自力で生きた。北部の植民地では、豚は放し飼いにされ、自分で餌をあさって生き、冬には囲いの中に入れられた。ヴァージニア以南ではメス豚がトウモロコシを餌に囲いの中に呼び込まれる狩集の時期を除いて、1年中放し飼いだった。殺す前の一か月ほどもトウモロコシを与えれば、肉がしまり、すばやく体重が増すことを農民は古くから知っていた。1700年にはすでに、トウモロコシでの仕上げは市販用豚生産の方法として確立していた。豚とトウモロコシの結びつきは、まさに神の恵みだた。豚牛の5倍の効率でトウモロコシを肉に変えることができる。

農業のフロンティアがアレゲーニー山脈を越えて中西部に進むにつれ、豚、牛、トウモロコシ生産の中心地も一緒に移っていった。土壌と気候は、トウモロコシに理想的だった。道路網が未発達で馬車での輸送には多大な経費がかかった当時のオハイオ盆地では、売り切れないほどのトウモロコシがたやすく収穫できた。余剰トウモロコシをさばく最良の方法は、それを豚や牛に食べさせ、育った家畜を、東部海岸の諸都市まで山を越えて歩かせることだった。(本当を言えばバーボンにして瓶につめ、船で輸送することだったのだが、連邦政府は蒸留酒製造業者に課税し、「ムーンシャイン」(密造ウイスキー)を違法としていた)

輸送手段が発達すると、コーン・ベルトの農民は森豚の飼育をやめ、目方と脂肪の多い品種の飼育に切り替えた。この「ラード豚」は、仕上げの時だけ飼料を与えるという従来の方法を取らなかったが十分に採算が取れた。それはほとんどトウモロコシだけで飼育されてシンシナティに搬送され、解体されたのだが、その量たるや莫大でシンシナティは「ポーコポリス(豚の都市)」と呼ばれるようになったほどだ。コーン・ベルトが広がると、農民は豚のほかに肉牛も飼うようになった。牛は大草原の草と干し草を食べて育ち、仕上げにトウモロコシで太らされてから、山を越えて東部の諸都市までひかれていった。そういうとき、牛は途中で売られているトウモロコシを食べ、豚はそのあとをついていき、未消化のトウモロコシかすがたっぷり含まれた牛の糞を食べていたものだ。

以前には、牛肉と豚肉のどちらのほうが好まれていただろうか。植民地時代後期と19世紀初頭には、塩漬け肉と樽詰め肉に関する限り、国内のほとんどどこでも豚肉のほうが好まれた。そのなによりの証拠に、豚肉のほうが牛肉よりはるか多量に生産されていたにもかかわず、つねに塩漬け豚肉のほうが塩漬け牛肉より値段が高かった。たとえば、1792年のフィラデルフィアでは、豚肉一樽が11.17ドルだったのに、牛肉一樽はわずか8ドルだった。この不釣り合いは南北戦争勃発時までつづいた。

ニューヨークやニューイングランドでは、豚肉好きはそれほど昂じなかったようだ。ニューヨークを例にとって考えれば、北部人は豚の生肉や保存肉よりも牛の生肉を好んだ。ニューヨーク市では、1854年から1860年の間、年平均1億3200万ポンドの牛生肉が卸売されたのに対し、豚肉はわずか5300万ポンドにすぎなかった。北部人が豚肉に対して関心が薄いことの理由の一つに、南北戦争の前、北部では豚が羊に比べて少なくなったことがあげられる。1860年当時のヴァーモントの農場では、25頭の羊に対して豚は1.5頭に過ぎなかった。一人当たりの豚の頭数で考えると、南部と中西部では二頭を飼育していたのに対し、北部では0.1頭にも満たなかった。豚が少なくなったのは、北軍の船の建造や製造工業に供するために森が切り倒されたからであり、トウモロコシ栽培がほとんど行われなくなったのは、乳牛の群れを飼うために、耕地が牧場に変えられたからだ。国民的現象としてのアメリカ人の牛肉好きは、海のかなたのイギリスではなく、ミシシッピー川をわたった大平原にその端を発しているのだ。ここは、豚ではなく牛の飼育にこそ最適な場所だった。そして、草原を牛にとって安全な場所にするためになすべきことは、二世紀前に森を豚にとって安全な場所にするのに必要だったことと同じだった。つまり、インディアンとオオカミを追い払うことだった。ここでは、もう一つ、バッファローが問題となった。飼いならされた動物ではないので市場まで歩かせるわけにもいかず、そのうえ商業的価値はほとんどなかった。そこでバッファロー・ビルのような狩猟者たちは、バッファローを撃ち殺し、現場で皮をはぎ、解体して、選んだ部位を馬車にのせて鉄道敷設の飯場やフロンティアの街に運び、牛にとって安全な草原づくりに一役かったのである。バッファローが姿を消すと、あとは牛の天下、はてしもない大草原で思う存分草をはみ、処理できないほど急速に数を増やしてしまい、当然、牛肉は安くなり軍隊は牧場主から牛を買ってインディアン保留地に供給し、インディアンを飢えから守った。

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