第7章 マジャパイト王国の出現(13世紀末~14世紀初)
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旧カディリ王国の復活 ナーガラクリターガマ書などのマジャパイト王朝の公式文書の見解に追随して、カディリのジャヤカドヴァンを、ラージャサ王朝の正統な諸王の当地を中断した反逆者とみなし、王位を簒奪した人物とすることは不当であろう。ジャヤカトヴァンはおそらく、長い世紀の間ジャワを支配していたが1222年ラージャサ(アンロック)によって亡ぼされた王家の後裔であり、その後4分の3世紀を経て非合法の王朝から政権を奪回した人物であったのであり、1292年の事件は正統な王権の復活とすべきであろう。新カディリ政権の前途を阻むものは、前章で述べた如く、首都の北部の戦場でなお優勢を維持していたシンガサーリ軍団であり、その処理が新政権の第一の任務であった。スマトラで作戦中の別のシンガサーリ軍団は当面の問題ではなかった。


諸書にあらわれた元軍のジャワ遠征
中国軍のジャワにおける行動については、ナーガラクリターガマの記事からは何も得るものがない。クリタナガラ王がブッダの世界に帰るとともに裏切り者のジャヤカトヴァンはシャーストラに関する彼の知識によって一時政権を行使し得たが、まもなく故王の女婿ヴィジャヤがジャヤカトヴァンを打倒し王国を復興した。ヴィジャヤはタタール元軍とともにジャヤカトヴァンを攻撃し、敗北させた。以上がこの詩書の伝えるすべてである。
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中国部隊が前後して寄港した2つの河口、つまりソロおよびスラバヤ両河のそれと見ることも可能であろう。マジャパイトの船橋に到達するには、ソロ河よりもスラバヤ河を遡行するほうがずっと容易である。このことから見て中国側の記録はソロ河を意味せず、スラバヤ河およびポロン河を意味していたものと考えられよう。ポロン河の上流地域には事実トゥマプルのクラトンが位置しており、中国軍の進撃はシンガサーリ(トゥマプル)を目的としていると見、このポロン河口でジャワ軍が中国軍を防禦しようとしており、中国側もそのように想定していたとしても不条理ではないようである。しかしこの可能性には多くの困難な問題が付随する。「ジャワの玄関」は何と言ってもスラバヤ河であり、中国軍も「河」を遡航してジャワの内陸部に進出することを前もって予定していたことが明らかである。そうすると中国軍が防禦されていないスラバヤ河を利用せず、さらに海岸に沿って南下した理由はなんと解すべきであろうか。その上、中国軍の本来の目的がシンガサーリであったとしても、当時のジャワの国王がジャヤカトヴァンであり、彼がスラバヤ河を放棄し、ポロン河のみを防禦せしめるとすれば、シンガサーリは安全であろうが、彼自身の首都カディリはブランタス河を遡航する敵に対して無防備となる。この結論が正しいとすればマジャパイトに向かった中国の3人将校は、防禦されていたスラバヤ河ではなく、ソロ河を遡航した後、陸路を取ったことになろう。この地域には強固な防塁をそなえたチャングが構築されていたので、おそらく作戦上の措置であったのであろう。パチュカンに待機するジャワ軍の背後のこうした要地の占領を目的としていたと想像される。しかし、このジャワ軍はこの後間もなく、その軍船のすべてをパチュカンに放棄して退却することになるので、そうした中国側の作戦措置が取られたとしても、おそらく意味をなくしたことになろう。
ヴィジャヤの元軍への「降伏」と同盟
マジャパイトで休息した後、中国全軍は同月の第15日にダハ(カディリ)に向かって進撃を始めた。中国軍は三手に分れ、一部隊は川をさかのぼり、ヴィジャヤの部隊は後衛となった。それぞれの部隊が第19日にダハで合流し、約束した合図によって攻撃を開始することになっていた。すべては計画通り進行した。10万以上の兵力を擁していたジャヤカトヴァンは午前6時から午後2時まで防戦した。3回の攻撃が繰り返された後、カディリ軍は敗走し、2000ないし3000人が河に追い落とされて溺死したほか5000人以上が戦死した。
ヴィジャヤは途中19日に密かに護衛隊から離れ、これを襲撃し全員を殺傷した。両側面から攻撃したヴィジャヤ軍は、護衛にあった軍を切り離すことに成功した。中国軍は追撃する敵と戦いながら、待機している軍船にたどり着くまで、300里に及ぶ退路を切り開かなければならなかった。3000以上の兵員が戦死したとされる。
>まとめて言うと、一時、中国軍に降伏し、同盟したヴィジャヤ軍が突如、中国軍を裏切り、多くの被害を出しながら中国軍は撤退したということだ。
マラユ王国の発展とシャムとの関係
マラユはジャワ軍部隊の引き揚げ後、ジャワから独立したスマトラ王国の観を示し、往時のシュリヴィジャヤの役割を果たすスマトラの最も代表的な国家に発展する。マラユからは1293年に中国のジャワ遠征に関連した使節が派遣された後、1299年および1301年に使節が中国に送られている。中国皇帝はマラユによる宗主権の承認にたいし、この国の保護者としての威厳を示すためか、このずっと以前から始まっていたシャムのマラユに対する敵対行動を取り上げ、これを中止するようにシャムに勧告している。この事件を根拠として一説は、この時期にマラユという王国がマレー半島に所在していたと主張し、さもなければ、シャムつまりスコダヤ(スコータイ)の敵対行動は考えられないとする。さらにシャムとマラッカの戦争に関する後の情報との関係において1295年のマラユの後のマラッカとすべきであるとする。
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