第4章アイルランガ王時代(11世紀)
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アイルランガ政権の正式の発足は1019年ということになるが、その時東ジャワ全土を支配していたのでは決してない。この王が国家の統一を回復するためにこの後長年にわたってあらゆる方面における戦いを続けなければならなかった。その際彼の敵対者の背後にシュリーヴィジャヤがいたことは当然想像されよう。当時アイルランガの領地は東ジャワの限られた一地域であり、彼は多数の小王国の1つとしてこれを統治していたのであろう。アイルランガ王のものとしては最初の銅板文書がブランタス河の下流地域から出ている。かくて、アイルランガの最初の領地の広がりは、最大限スラバヤからバスルハンまでの海岸沿いの地域に若干の後背地を加えたものであったようである。彼はこれだけの領域を持って一応満足せざるを得なかったであろう。と言うのは、1028年にいたり、暫く領土拡大の企図を実行し始めているからである。

スマトラという名称の由来
おそらくダルマパーラと同一人物とすべき国王の注目すべき称号が1017年にシュリーヴィジャヤから中国に派遣された使節との関連において、中国史書に記録されている。当時のシュリーヴィジャヤ王、この王称はハジ・スマトラブーミ(Haji Sumatrabhumi)つまりスマトラの王国の全く正確な転写であり、後にこの島に対して慣用化し、他の全ての呼称に優先することになる、スマトラという名称の最初の出現である。スマトラという地名の語源については決定的な説がなく、これが後にアチェー地方に出現する小王国サムドラ(サンスクリット語で海を意味する)に由来するという説が現在最も通説とされている。スマトラという名称がこの島全体に対する呼称、または首都の位置していた中心地域の呼称であった時期が、サムドラという名称がこの島の一隅に位置した小王国の呼称であった時期よりも、2,3世紀以前であることから、前期の通説は可能性が少なくなる。この通説はむしろ、スマトラはスヴァルナの変形であろうという推定に修正し、サムドラとは何も関係のない者とすべきであろう。
スンダ王ジャヤブーパティ
西ジャワ、チバダック(Cibadak)に近いチチャティ(Cicatih)山の森林で発見された1連の4基の石碑である。この碑文の用語は必ずしも正確でないが、全てが古代ジャワ語であり、古代スンダ語は使用されていない。その文字も全くの古代ジャワ文字である。スンダの石碑がジャワと密接な関係にあることは注目すべき現象である。国王の称号の構成においてもまたジャワの王とすべきほどジャワ的な要素が含まれている。現在までの研究によれば政治上全く独立しているスンダの宮廷が、文化の分野ではあげてジャワの宮廷を手本としていることになる。ジャワ文化がジャワ王国勢力圏外の西ジャワに浸透していることを示すジャヤブーパティの石碑は-1030年にジャワの政治上の支配権がスンダに及んでいなかったことは明瞭である。このジャヤブーパティの石碑は、現在までの資料の中で西ジャワの名称としてスンダという地名を掲げる最初の文書である。
第5章 カディリ時代(12世紀)
アイルランガ王の治世末期における措置、つまりジャワ王国の二分は、その後のジャワの歴史に広汎な影響を及ぼすことになる。分裂したジャワの混乱状態をつぶさに体験し、その統一の回復のため、永年にわたり厳しい環境の中で不屈の努力を重ね、1041年には目的の達成を国民に誇示したアイルランガ王のこの措置は理解し難く、ある意味において生涯の大業を無に帰したものと言えよう。アイルランガ王をしてこうした措置をとらしめた理由として、アイルランガ王は二人の息にたいする愛情によってそのいずれをも国王たらしめた、と伝えている。アイルランガの国土分割の措置によって東ジャワに2つの王国が出現することになった。その第一の王国は、常に最初に名前が挙げられ、かつ明らかに本国と見なされているジャンガラ(Janggala)である。第二は最初パンジャル(Panjalu)と呼称されたが、この国名は公文書に限られ、間もなくカディリ(Kadiri)という国名に変わっている。この国土の分割は極めて重要な歴史上の意味をもつ事件であったものの如く、その影響はマジャパイト王国の没落、つまりヒンドゥー政権の末期に至るまで、ジャワ人社会の伝説ないし観念の中に存続している。ジャンガラはかすかに生存の徴候をうかがわせるのみであり、歴史の光の全てはカディリに注がれる。
この時期の中国人の記録においては明らかにカディリのみが問題にされている。趙汝カツ(しんにゅうに舌)によって著作された書にある、租税と行政についての記事も注目に値する。農産物に対する租税は生産品の1/10であり、商取引に対しては籾(パディ)2.2ピクルにたいし1/10両(テール、中国の重量)が課税されている。中国の貨幣価値による換算の結果にしても、籾135kgにたいし金3.8gという信じがたい重税である。この税金が籾に限られたものかまたは他の土産物一般の取引に対する税率かは記されていない。銀の延べ板を切断して貨幣としているが、これはこの種の貨幣のみが使用されていたことを意味せず、普通の金貨および銀貨とともに流通していたのは明らかである。例えば「ペイベ・ラック(pijepelak)銀貨や前ナーガリー文字のマー(ma)を刻印した、いわゆる「マー(ma)銀貨」などの出土物によって、この種の貨幣がカディリ期よりずっと以前に存在していたことが立証される。こうした大小の板銀が通貨として使用されていることは、商取引の拡大に伴う旧来の通貨に対する補充を意味しよう。
古代文化におけるジャワ的要素の復活
ジャヤバヤ時代の詩人パヌルは、ハリバンシャ、詩書ガトートカチャーシュラヤなどの作者。注目すべきはガトートカチャーシュラヤ書において、その主人公や女主人公が、現代のウァヤンにも保存され大衆に愛好されている道化に似た奇妙な従者パナカウァン(Panakawan)およびイニャ(inja)を伴って初めて登場することである。このことによって、この詩書がインド史詩を題材としながらも、こうした段階にまでジャワ化を進めている最初の作品とされ、特記に値する。動物名とすべきクボ(Kebo水牛)その他の名前によって出現する人物名もまた、ヒンドゥー文化によって永い間背後に押しやられていた往古のインドネシア思想、おそらくはトーテム思想の復活を証する、もう一つの現象と見なされよう。
カディリ王朝期のインドネシア群島にとっての政治上の意義、対外関係は中国史料によって明らかにされる。この中国史料もまた例によって通商関係を第一義とするものであるが、政治情勢も明瞭に観取される。周去非は既に1178年の著書「嶺外代答」において、多種多様の高価な物質を大量に貯えている、すべての富裕な外国の中でアラビア人の国、つまりアッバース王国に凌ぐ国はないと述べ、その次がジャワ、第3がシュリーヴィジャヤ(三仏斉)であるとしている。この記事はジャワが東南アジアにおける最も重要な商業国家として競争相手を既に追い越していたことを意味しよう。しかしシュリーヴィジャヤが東西通商路の中継地として重要な地位を占めていたことに変わりなく、趙汝カツ(しんにゅうに舌)もこの地に外国商船のための他の全ての国の物産が集積され、商人たちが来航すると記している。
シュリーヴィジャヤ弱体仮説 スマトラについては、この地域の一王国がこの時期シュリーヴィジャヤの支配を脱していたことが注目される。この王国はKian-pi(カンパルと解されているが、むしろカンペーとすべきである。この地は後にカンパルとともにマジャパイトの海外属領となる。北スマトラのあるー湾岸に所在する)だり、武力をもってシュリーヴィジャヤから独立し、独自の王が統治していた。住民は弓術に長じ、産物を錫、象牙、真珠とする。この王国が独立し、その後中央政権の干渉を受けていないと見られることは、シュリーヴィジャヤの国力のある程度の弱体化を意味しよう。このことを示唆する別の資料は、マレー半島北部のチャイヤに由来する青銅の仏像(現在バンコクにあり)に付されているクメール語碑銘であろう。この碑文には、マラッカ海峡対岸のこの地は政治上クメール王国の治下になく、別の政権の支配下にあったと見られ、この場合その王称が1世紀後のスマトラで知られるマラユの国王のそれに全く共通していることが注目される。この碑銘は年代は十分に確立されていないが、一説ではこの年代を1183年とし、この年マラユがスマトラにおける独立国であったばかりでなくマラッカ海峡を越えた対岸にも統治権を及ぼしていたと結論する。

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