イアバディウはヤヴァディヴ(Yavadivu)の転写、すなわちサンスクリット語のヤヴァドヴィーパ(Yavadvipa)に当るプラークリット語であり、ヤヴァ(Yava)は確かに大麦を意味するからその説明も妥当とされよう。食人を慣習とする人種についての記述は、どのような根拠があったにせよ、往時のバタック族の如き種族の慣習の借用でもあり得、これが当時一般に伝えられていたのであろう。イアバディヴという島の名前の由来となった大麦は、この島をジャワとするにせよスマトラに当てるにせよ、この2つの島のいずれにも産出されない。しかし、ヤヴァという語は大麦と同じ穀物として黍をも意味し、黍はジャワとスマトラの双方において産出する。
石碑の出現 3世紀にいたって一連の石碑が後インド(ビルマからインドシナ半島にかけての地域)の海岸地方ならびに島々において、ヒンドゥー文化の影響を証拠立て始め、この一連のものは場所と時期の開きにもかかわらず明確な共通性を示している。これらの石碑は若干の西紀に及ぶものであるが、ビルマ、マレー半島、ジャワ、ボルネオ、チャンパー(ベトナム中部)において発見される。全般的に見てこれらの石碑はサンスクリット語で南インドの東海岸に位置した本源の地に因みパッラヴァ文字と称される文字をもって銘刻されている
バタヴィア東部のトゥグー(Tugu)平地に見出される楕円形の大石に銘刻されている碑文である。パッラヴァ文字をもってサンスクリット語の韻文が銘刻されており、この文字が東ボルネオのものよりやや後代の字体であることから、これらの文書を5世紀半ばに位置づける手がかりが与えられるが、こうした字体相互の僅かな相違から、チサダネ河のチアルテゥンの岩石碑文をこの地域における最も古いものとすることが可能である。
500px-Grantha_VowelComp.gif


*(門+者)婆については「ジャヴァ」が確認されるが、これがジャワかスマトラかについては断言できない。後の中国資料によって(門+者)婆は明らかにジャワとされるが、口蓋音化された最初の死因をもってする形式はスマトラに対しても使用されており、ジャワに対してYをもってするのが最古の形式でありジャ(Ja=Dja)とするのが第二次的印象であるとしてもこの第二次的現象を多少早期とするかどうか問題であり、これについては資料が不十分である。しかし法顕の耶婆抵に対してジャワ、グナヴァルマンの(門+者)婆に対しスマトラを比定したい。5世紀において(門+者)婆をジャワと断定することにはまだ不確かさが残る。
>(門+者)婆の(門+者)は門構えに者と書く古代中国語のようで見つからなかったのであきらめました。
婆利 これと同じ時期、中国仏教の開祖とされる菩提達磨(Bodhidarma)がインドから海路を広東に旅行しているが、(西暦520年あたり)、彼は群島を通過しているはずである。この航海に関連する記事に、群島に所属するとすべき広東の南東の海上に見出される1島に位置する婆利(P’o-li)と呼称される王国がある。この国は最初スマトラの北海岸に位置したとされ、後にバリに比定された。
ヒンドゥー文化の運搬者として、商人、冒険者(追剥騎士団)、バラモン僧とあるなかで、僧侶は最初の場には登場せしめ得ない。彼らの業務に対し必要を感ずるのは、ヒンドゥー文化が一応普及した後のことだろう。バラモン僧がその宗教を伝道する目的をもって国外に出るということは全く非インド的である。外国人は彼らの宗教になんら関係の無い存在であったのである。普遍的な宗教の宣布者として、バラモン僧とは異なった立場にある仏教の伝道僧さえも、通常、特定の目的のためにのみ集団を形成したのである。カンボジアにおけるが如く、バラモン僧が王国を立てたのは彼らが典礼を伝えるためにこの国に出向いた結果ではなく、それとは別の目的を持つ旅行であったが、たまたまヒンドゥー文化の運搬車となっただけのことである。僧侶の業務は別の理由によって既に存立しているヒンドゥー人の共同体において初めて開始されることになろう。
サンスクリット語の役割
土着住民によるヒンドゥー伝統の受け入れの様態についての論拠を、言語に求めることもまた可能である。この最古の時代の言語としては、学術語であったサンスクリット語をもってする韻文の銘刻文書のほかは何も伝えられておらず、この文書は当然のことながら当時の住民が日常使用した言語について何物も示さない。しかし、後の段階において新共同体の言語が古代ジャワ語または古代マレー語の形式で出現すると共に、その構成においては完全なインドネシア語である、その中にヒンドゥー人によってもたされた、主として高度の文書に関係する極めて多数のインド語が受容されているのを発見する。そしてまたこれらのインド語が、移住者相互間において使用されていたと見るべき地方語即ちプラークリット語などではなく、学術語即ちサンスクリット語に由来していることが注目される。この新しい言語は、両当事者が日常使用していた言語から形成されたのではなく、土着言語に特にこれまで欠けていたいわば哲学的な概念を表現する単語をヒンドゥー人が日常使用していた形式ではなく、必要上やむをえない補充としてサンスクリット語から意識的に取り上げた表現形式をもって付加している言語である。ジャワにおいて後に古代ジャワ語として知られることになるこの言語はヒンドゥー人の日常使用語とインドネシア人のそれとが混合した言語ではなく、インドネシア人が習得し付加したサンスクリット単語を伴う「インドネシア語」である。
イアバディウはプラークリット語からの転写と見られる。Iabaはサンスクリット語のYava(大麦)にあたり、diouはプラークリット語のdivuからであり、これはサンスクリット語のdvipa(島、州)にあたり、Yavadvipaとされよう。プラークリット語は中部インドの地方語と密接な関係を持つ多数の言語の総称である。インド古代において既にヴェーダ聖典語とともに口頭の大衆語としてプラークリット語が存在していた。正統サンスクリット語がヴェーダ聖典語に由来している如く、後代の大衆語はプラークリット語を源泉としているが、多くのプラークリット語もまたその形においてヴェーダ聖典語に結びついている。中国史料の地名のうち、特に(門+者)婆について、これがジャワおよびスマトラの双方を意味することになる場合、本来のジャワ(Java)島と区別するためDjawaと表現し、DjまたはJをもって、サンスクリット語および古代ジャワ語においてy(オランダ語の)の音を口蓋音化したdzjを示すものとしている。いずれの場合もこれを「ジャヴァ」とするかまたは史料のまま(門+者)婆とすることにした。なお、オランダ人は通常英語のv、例えばvaをヴァと濁音にしないため、サンスクリット語のvをwとしているが、ここでは原則としてwをすべてvとしている。
アジ・サカ物語は、パンジ・ロマン、いわゆる「パララトン・ロマン」のアンロック物語、パンジ・ウィジャヤクラマなどの諸書、キドゥン・スンダなどの「クシャトリア(騎士)物語」のジャンルに属する書とすべきであろう。この物語は外国からジャワに渡来した青年英雄、アジ・サカ王についての伝説である。アジ・サカはジャワが人食いの王によって統治されていることを知り、自らこの王の食膳に供されることを申し入れた。しかし、その条件として彼の頭巾の広さに等しい土地を要求し、国王がこれに同意した。ところが彼の頭巾を広げていくとその広さは、この食人王の全領地を覆うに至った。ジャワ王は結局敗北を認め、アジ・サカに王位をゆずった。
サカはサンスクリット語の「シャカ」のジャワ語形であり、インドのシャカ(族)を意味するが、ジャワではこの語が特にサカカラ(sakakala)[シャカカラ]、即ち者枯れ木に結び付けられている。この歴は西紀78年にシャカ族の一王朝によってインドに導入され、ジャワおよびバリにも普及しているが、これがアジ・サカ即ちサカ王によって初めてジャワにもたらされ、この時期から未開状態が克服され、文字の普及と共にヒンドゥー文化の基礎付けが行われたとされる。
【宗教関連記事】
2013.05.23 わが闘争 下 国家社会主義運動 2/7~国民の精神
2013.02.26 聖戦ヴァンデ 3/3 ~ショレの敗走
2013.01.25 君はヘブライ語を知っているか?
2012.09.20 ジャカルタに行ってきました 3/9~さっそく夜遊びネシア・キャバ
2012.07.24|記紀以前の資料による古代日本正史 2/2
2012.02.14|タイ旅行 4/11 ~バンコク入り
2011.11.18: 姑獲鳥(うぶめ)の夏 2/2 ~憑物
2011.09.22: ダイヤモンドの話1/5 ~宗教がかったその魅力
2011.07.14: 父親の条件4/4 ~現代史の権力者たち・その父と子
2010.09.24: 世界四大宗教の経済学 ~ユダヤ教とお金
2009.12.10: 公明党・創価学会の真実
2009.07.22: タイ旅行 農業と宗教vs金融と資本主義
2009.07.07: 世界一レベルの低いDerivatives Investor