三和銀行 プロジェクト開発室
行内でプロ開と呼ばれ、不動産開発から政界工作にいたるまでこなす。渡辺頭取の直轄部隊でした。プロ開発長の清水美博はバブル期、夕刊紙にミスター三和と紹介された銀行界の有名人でした。バブル当時、プロジェクト開発室の取引先として有名になった企業が、ナショナルリースである。ナショナルリースは松下電器産業が設立した100%子会社のノンバンクだった。松下グループとの取引については当時、住友銀行の牙城であり、なかなか三和が食い込めなかったという。「ただし松下グループには金融ノウハウがない。設立されたばかりのナショナルリースは、住友を切り崩す狙い目でした。リース会社は、ノンバンクなので、預金者がなく資金集めが難しい。そこで三和がナショナルリースの資金元となった。そうしておいて、プロ開で融資先を紹介していったのです。おかげで、設立されたばかりのナショナルリースに短期間で融資を延ばせた。あっという間に融資残高が800億円に達し、評判になりました。」
清水が率いたプロジェクト開発室は、三和銀行にとってリスクの伴いがちな新規事業に切り込む部隊となる。銀行の別働隊だ。この清水が、小西邦彦の経営するキタ新地のサウナをテナントビルにしようと目をつけたのである。「プロ開にはプロ開の目論見がありました。こうした不可解な不動産開発の際、一枚噛ませていたのが、ライトプランニングという地上げ業者です。サウナあすかの時も同じ。ライト社が仲介業者として登場し、そこに利益を落とす仕組みです。そうしてライトプランニングは、三和銀行の中でも得体の知れない取引先として知られていきました。まさにブラックボックスの会社です。」
2001年7月7日、岡野義市は新高輪プリンスホテルのロビーにいた。この日のロビーはいつにもまして華やかな顔ぶれがそろっていた。「いやぁ、おとうさぁーん」 そう大声を上げて芸能人たちが岡野の前を通り過ぎる。「おとうさぁーん」と叫びながら近づく相手は飛鳥会の小西邦彦だ。「会いたかったぁ」 人目もはばからず岡野の目の前で小西に抱きついたのは、岡本夏生だった。小西にぶら下がるように首に手を回す。さすがに元レースクイーンだけに背が高くスタイルが良い。その光景が妙に絵になる。小西が新高輪プリンスにいたのは、西城秀樹の結婚披露宴に招かれたからだった。「おにいちゃん、お元気そうで何より。久しぶりです。」 加賀まりこが落ち着いて挨拶する。オープニングは西田光のステージ。披露宴には芸能人やタレントが大勢いて、そばにいたみのもんたなんかは顔を真っ赤にしてのんどったね。小西さんはそんあ披露宴の主賓の一人でした。」 最初に祝辞を述べたのは西城秀樹と親しい僧侶だった。つづいてテレビプロデューサーの久世光彦だ。かつて西城が出演したTBSドラマ『寺内貫太郎一家』を製作した縁がある。さらに森光子ら芸能界ならではの華やかな顔ぶれがマイクを握る。すでに傘寿を迎えていた森光子は、80歳を超えているとはとうてい思えない若々しい声で、ユーモラス挨拶をする。会場の隅では、テレビレポーターやスポーツ紙の記者たちがそのスピーチの模様を次々と紹介していく。そんな主賓挨拶の中、芸能マスコミにとって馴染みのない顔がマイクの前に立った。「社会福祉法人ともしび福祉会の理事長でいらっしゃいます小西邦彦様。ひとことお願いいたします。」 司会の徳光がそう紹介した。小西はこのような席では「部落解放同盟飛鳥支部の支部長」という肩書きを使わない。あくまで老人ホームの理事長という立場で挨拶する。
元ヤクザと市民運動家という二足の草鞋を履いてきた小西邦彦がなぜ西城秀樹の結構披露宴の主賓として招かれていたのか。 「西城のお姉さんが、山口組若頭だった宅見勝組長のあねさんでしたからね。ただ、披露宴への招待は西城側からのものではありませんでした。嫁半側の槙原家の主賓です。新婦の父親の槙原さんと小西さんは一緒に仕事をしていた仲でした。新婦の父親である牧原さんは不動産開発業者でした。『大林産業』という会社を経営していました。かぶとむしを企業のイメージキャラクターにし、別荘分譲などで名を馳せた開発業者です。」
そんな小西の芸能人脈の中でも最も親しかったのが、勝新太郎であり、その夫人の中村玉緒だった。勝新太郎といえば、現座で一晩に何百万も使う豪遊ぶりで知られたが、大阪では小西に連れられてネオン街を歩く姿をしばしば目撃されている。もっとも銀座のようなわけには行かない。キタ新地の主役はあくまで小西だ。勝新太郎といえども脇役に過ぎなかったという。80年代の半ば、小西の実父が他界した。そのとき勝新太郎夫妻は葬儀に駆けつけている。
キタ新地での豪遊ぶりやその風貌から、小西邦彦は贅沢三昧と傍若無人の限りを尽くして生きてきたように伝えられる。しかし、キタ新地の名物小料理屋「ツクシ」では、わきまえている面があった。「お客さんに迷惑かけるようなまねをしたら、出入り禁止やからね」 淡路支店の行員を引き連れて飲む時以外は、女将の山本幸子からそう諭されるままカウンターの隅で飲むことが多かったという。サントリー会長の佐治敬三や三和銀行の川勝堅二、渡辺晃といった頭取経験者、プロレスのアントニオ猪木やラグビーの大八木敦史などのスポーツ選手にいたるまでが集う。10人程度が座れば満席になるカウンターだけの狭い店である。
セコム創業者との意外な関係
小西邦彦には知られざる意外な人脈がある。財界で言えば警備会社「セコム」の取締役最高顧問の飯田亮もその一人だ。セコムは前身をを「日本警備保障」という。1962年7月に設立された。飯田はその創業者であり、いまもグループ195社の頂点に立つ。昭和50年自分、飛鳥会館の裏手に生活協同組合があって、そこにセコムのシステムを導入した。その生協に泥棒が入ったららしいんです。当然、通報したのだが、そのとき警備員がかけつけるのに15分もかかった。それで小西さんが怒り出した。セコムも現在のような巨大グループ企業ではなく、いちベンチャー企業に過ぎなかった。担当者はすぐに社長だった飯田に報告したという。これを聞いた飯田さんがすっ飛んできたそうなんです。大阪と東京の中間の名古屋あたりで二人が落ち合ったらしい。『大げさでも嘘でもない。岡野、飯田はヘリコプターに乗って謝罪にきたんやで。そこまでする男やで』と小西さんが嬉しそうに言っていました。それいらい二人は親しくなったそうです。」
飯田はセコムグループが経営するホテルにも小西を招待した。2008年7月、主要国首脳会議(サミット)の会場として話題になった北海道の「ザ・ウインザーホテル洞爺リゾート&スパ」もその一つである。ホテルの前身はバブル当時、「カブトデコム」が650億円かけて建設した「ホテルエイペックス洞爺」だ。カブトデコムは、北海道拓殖銀行を破綻に追い込んだとされる不動産開発業者で、そのカブトデコム向けの不良債権をセコムが60億円で買収した、と評判になった。だが、折から北海道は不況は続き、ホテルの経営はあまり芳しくない。そこで飯田が政府に営業して08年のサミット会場に決めさせたのではないか、などと囁かれたものである。この「ザ・ウインザーホテル洞爺」に、小西が招待されたのは、サミットが開かれるずっと前のことだ。セコムグループによる買収後の2002年6月改装されたホテルが再オープンする。
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