2006年10月に開かれた初公判、捜査当局は駐車場経営に対し、市民運動家という肩書きを利用した利権漁りだとみた。もっとも小西本人の意識はそうでなかったようだ。「昭和47年ごろ、その駐車場ができるとこは空き地で、テキ屋の屋台が終結してた。ゴミ捨て場にもなっとった。周辺の住民が地元の市会議員に陳情したわけ。議員から聞いた市役所の担当者が『小西さんはテキ屋をよく知っていると聞いてます。なんとかいうてほしい』と頼みに来た。それがきっかけや。」 本人よれば、もともと駐車場にかかわったのは、大阪市の担当者に頼まれたからだという。小西はテキ屋の元締めに1000万円を渡して立ち退かせた。空き地をどう使うかについて市から相談を持ち込まれた小西が、駐車場の計画を提案したらしい。インタビューでは、この先再びテキ屋が店を出さないようにするためにどうすればいいか、小西が市の担当者から相談を持ちかけられたとして、こう話している。「よしわかったと。そっから駐車場の話になった。ワシの案や。ワシの名前で土地を貸せと言うた。掃除(屋台の撤去)したのはワシや。ゼニもかかっているし、テキ屋に義理も噛んでる。そしたら市は、小西個人に土地は貸せないんやと。そしたら公益法人がある。それでいきまひょとなった。結局、それが命取りになった。駐車場経営は、いわばテキ屋を排除し、行政と同和団体幹部が歩調を合わせてやってきた事業というのである。