1944年に連合軍によってベオグラードも解放され、45年には、共産党を中心とする人民戦線が
圧倒的支持を受けた選挙結果となり、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国の建国が宣言された。
こうして、第二のユーゴは社会主義国としてスタートし、ソ連の理論や政策が模倣された。
急速度で社会主義建設を進めるユーゴは連立政権の一翼をになうだけにとどまっていた近隣諸国
の共産党に大きな影響力を持つようになった。
ソ連とユーゴの対立が表面化するようになり、その直接的な契機は、Titoとブルガリアのディミトロフが
スターリンに知らせず、ドナウ諸国関税同盟構想を推進したことだとされている。
こうして、48年「コミンフォルム」からの追放を機に、Titoはソ連を反面教師とし、
友愛と統一をスローガンに掲げた自主管理社会主義による統合を試みた。
つまり非国家化と民主化、官僚主義の克服、地方自治制度を基礎に、生産手段の国有ではなく
社会的所有、政治的・経済的意思決定の分権化、労働者自主管理を特徴としていた

連邦制はソ連の連邦制と同様連邦中央が多大な権力を持つ形態であったが、
多民族国家という認識が確立し、共和国制と民族自決権が承認され、分権が進んだことが
民族問題を再燃させ、第二のユーゴ崩壊への複線となる

憎まれっ子世にはばかって、1980年Titoは87歳にして世を去った。
Titoのカリスマによって、政治バランスを取っていたユーゴが解体への道を歩み始める。
1981年コソヴォ事件:セルビア共和国コソヴォ地区におけるアルバニア人による大規模な暴動で
モンテネグロやマケドニアに住むアルバニア人の間にも動揺を与えた。
1991年ついに、スロヴェニア・クロアチアが独立を宣言しクロアチア内戦へと突入。
1992年ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・セルビア共和国が独立を宣言。
ボスニア内戦を経てユーゴスラヴィアという国が消えた。
ヨーロッパの歴史や地理を知らない私にとっては実に難解で、200ページの本の読破に数週間かかって
しまいましたが、なかなか面白かったです。
7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家
ということで、地図を載せて終わりにしましょう。数えると本当に7つありますよ。
モンテネグロが分離前みたいですが、アルバニアの上辺りです。
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