かなり有名人らしい。ドイツ人が聞いてきた。「それ何の本だ?」
「ユーゴスラヴィアの歴史だよ。」
「こいつ、Titoを読んでるのか! 面白いな。」
まだ読み途中だからTitoって言われましても、恥ずかしながら私存じ上げませぬ・・・。
本は、言ったことややったことを書いてくれるのだけど、口ほどにものを言う目は書いてくれないんですよね。
というわけで写真を。ヤ○ザじゃありませんよ。大統領です。
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全部の写真で眉間にシワよってるし! すごいわ、この顔。超コワモテ。体格もゴチーし。
完全に私の負けでございます。命を賭けてユーゴをとった男って感じするわ~。
それに比べ、総理大臣や一流企業の社長は、やれと言われたからやってます的な顔しとるもんなぁ。
パルチザン戦争
 
第二次世界大戦中の反ファシズム人民解放戦争との解釈もあったが
占領軍や対敵協力者からの解放を求めるゲリラ戦、民族相互の内戦、社会変革
の3つの性格が複雑に交錯していたと見なされている。
ドイツは、占領下に置いたユーゴ国内の民族対立を利用して、民族分断統治を試みた。
一方、ユーゴのパルチザン戦争(第二次世界大戦期)の死者は170万人とされているが、ドイツ軍の手で
殺害された被害者は少なく、大部分がセルビア対クロアチアの兄弟殺しによるものであった。
Titoを最高司令官とするパルチザン部隊は、人口の圧倒的多数を占める農民たちに対し戦後の土地改革、
イデオロギーや民族・宗教・言語の違いを超えて、ユーゴの解放のために敵と戦う必要性を訴えかけ、
赤い星を記章とし、共産党が中心となりセルビア各地で一斉蜂起が行われた。
ドイツ軍の度重なる攻撃にの最中、同国の大セルビア主義を掲げるチュトニク(代表ミハイロヴィチ)との
折り合いも付かず、ドイツは、親英的で連合国側にあったチュトニクを自らの陣営に引き入れ、
ドイツ軍+チュトニク 対 パルチザンの構造となってしまった。
ソ連に対して、医療品と武器の供給を援助を求めたが、連合国の一員であったソ連は直接国境を接していない
ユーゴの問題に英米との歩調を崩してまで介入する意思はなかった。このことは、同じ共産主義体制であっても、
戦後のソ連とユーゴの関係においてしこりになった。
Titoは、ビハチを手中に収めた段階で反ファシスト会議を開催し、枢軸軍と戦う意思のみを内外に知らせ、
共産主義への社会変革については触れなかった。
その結果、連合国側の強い関心を引き、イギリスはチュトニク支持を再検討し、パルチザン支持を表明した。
ベオグラードを追われたパルチザンは、その間も、ボスニア・モンテネグロの山岳地代を転々とし、
ヴィスという島にまで逃げ、Tito自身も爆撃による大怪我を追ったという。
なるほど~、最強ドイツ軍が追っても追っても死ななかったしぶといTito。ドイツでは今も知らない人は居ないようだ。