カテゴリー: 読書

小説 ヘッジファンド

これ幸田真音のデビュー作の文庫版だったようです。女性っぽい名前だと思いましたが、本当に女性だったとは今知りました。Wikiで見る限りなかなか精力的な女性のようですね。
1日で読んでしまった。内容が軽いな。しかし、ディーリング、アービトラージ、デリバティブ取引というものを詳細を説明せずにドラマティックに面白おかしく書きたてる文章力は私も見習わなければならない。私もこのブログ上でその実態について、何度も書いているが、多くの読者にとって難解で面白くない記事になっている。素人にも読みやすく、プロが読んでも深みのある文章を書いてみたいのだが、どうしても最後に読み返すとプロ向けの記事に仕上がっている結果になってしまう。
「リスクが大きすぎませんか。それじゃあギャンブルになってしまう。あなたは投資家であって、ギャンブラーになってはいけないと思うのですが」
ファンドは投資家だと思うのだが、金融機関のディーリング部隊は投資家とは言えない。どんな取引でも原則は流動性供給者としての参加であり、流動性プレミアムを受け取るというのが基本である。
市場の動きではなく、流動性プレミアムが収益の源泉であり、ポジションは作るものではなく、収益の範囲内で解消する(Unwind)ものだという市場リスクに消極的な立場が一般的だろう。
それに対する反骨精神なのか、当てつけのごとく、「ある投資家」とブログにタイトルづけている著者の意図は、チマチマとした流動性供給ではなく、自身は投資=投資家マインドで市場に臨むという宣言だと私は解釈している。
それからもう一つ。小説の中で終始登場している円高悪玉論。日本では常識の円高=悪は、どこの国にも通じない変わった考え方だ。自国の通貨が買われていて嘆く人は居ない。貿易黒字のドイツ人だって、もはやマルクではないのにユーロが上がると喜ぶし、ユーロ・ポンドのユーロ優位は気分が良いし、ユーロとブンズには常に強気。中国にとって元高は悩みの種ではあるものの、自国通貨が買われる方向は歓迎していることが、買いはよいよい売りは禁止という元の取引規制によく現れている。アメリカ大統領が「強いドルを支持する」以外は言えないだろう?
円高で日本経済破綻っておかしいだろ? 株が買われ過ぎて会社が倒産すると騒いでいるようなものだ。

小説ヘッジファンド (講談社文庫) 小説ヘッジファンド (講談社文庫)
幸田 真音

講談社 1999-03-12
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【アービトラージとは、裁定取引とは】
2012.03.14|マルキールが言えないインデックス投資の欠点
2011.06.03: リチャード・ギア新作映画「アービトラージ(原題)」
2011.02.09: 最強ヘッジファンド LTCMの興亡 ~天才たちの誤り特集
2010.10.21: トップレフト ウォール街の鷲を撃て
2010.08.26: 株メール Q4.複数上場の場合の株価と為替の連動性
2010.05.13: 中国株先物の裁定可能性の検討
2010.01.08: 50% Knock-In PutのPremiumって実現できるの?@理想的な世界にて 
2009.12.14: HとAどっち? 
2009.12.11: Early RedemptionとCouponの関係 
2009.10.06: Black-Scholesは間違っている2 
2009.07.28: Exotic Parity2 
2009.03.18: 歯磨き粉の買い物と債券Arbitrage 
2009.02.27: VolatilityとCredit Spreadの関係 
2008.10.14: 日経225オプションの誤発注 
2009.01.26: Exotic Parity
2007.12.14: 久々のお買い物 C 5.875 FEB 2033







知られざる通信戦争の真実 NTT、ソフトバンクの暗闘

つまらないねー。内容はソフトバンクと個人向けサービスが中心。ADSLやIP電話の話がメインなのよ。どこが”知られざる”なんだ? 何が”暗闘”なんだ? という感じ。NTTを主役にいかにエグイ独占体制、その強さについて書いて欲しかったんだけど・・・
ソフトバンクが、NTTのライバル企業だと思っているなら大きな間違いで、NTTのお客さんです。NTTのライバルは莫大な資本力と電線という”線”を握っている東京電力です。一時期、光ファイバーで電力会社が参入したことがあったでしょう?
あれはソフトバンクがやってるADSL参入ってのと全く別次元の話で、電力会社が自前の線というインフラを作ってしまおうというNTTを震撼させた事業です。現在の東電叩きの裏舞台はNTTが金を配っているのではないかと思ってるくらいです。
総務省を恫喝し、行政指導を撤回
ヤフーBB発表から1年半後の2002年12月16日、総務省11階の1101会議室ではソフトバンク孫社長の怒号が飛んでいた。
「日本方式の機器のメーカーはたくさんここに出席されていますけど、我々が採用する北米方式のメーカーは参加を断られました。なぜ総務省はこんな一方的な決め方をするんですか。中立の方を除いて10対2です。そもそも10対2で何をフェアに議論しろというんでしょうか。どう考えてもメンバーの配分がアンフェアです。メンバー構成をフェアにして何か失うものがあるんですか。後ろ指を指されるだけですよ。そんなことにこだわっていたら。」
孫社長が怒りを爆発させたのは、ADSLの干渉問題。ADSLで使う電話戦には音声の通話はもちろん、ISDNの通信などの電気信号が通る。電柱などを通るケーブルの中は何本もの電話線を束ねた形になっており、ある電話線を使った通信が他の電話線の通信に悪影響を与えることがある。中でもソフトバンクが採用した北米方式ADSLには「他社が採用した日本方式のADSLやISDNに大きな影響を与えて、通信速度を低下させるのではないか」という指摘があった。
孫社長は総務省にソフトバンクへの行政指導を撤回させたこともある。国連の下部組織で通信の国際標準を作成するITU(国際電気通信連合)に、ソフトバンクが国内ルールを無視した形で文書を提出したことが発端だった。ITUに提案を出す際は、通信機器メーカーや通信事業者などで構成する総務省の委員会を通すのが慣例になっている。文書の内容は日本向けADSL方式の技術拡張を反対するというものだった。これにはNTTや国内通信機器メーカーが一斉に反発した。総務省はソフトバンクにITUへの提案を取りやめるように指導した。しかしソフトバンクは総務省の指導を無視してITUに文書を提出。総務省は2003年1月17日、ソフトバンクに対する行政指導に踏み切った。事前に総務省の委員会に提案を出すというのは慣例にすぎない。「慣例に従う義務があるのか」と孫社長に正面切って反論されると総務省は弱かった。総務省は「ITU会合で日本政府の正式な承認を受けていない提案であると口頭で説明する」ことを条件に指導を撤回する羽目になった。
露払いにしかならなかった電力会社参入
光ファイバーサービスに参入したのは、各地の電力会社グループだ。2002年3月29日、東京電力がTEPCOひかりを開始、東京電力のやる気は、子会社ではなく東京電力本体が通信事業者としてサービスを開始したことからも分かる。この東京電力自身の通信事業参入に異議を唱えたのが規制を受けてきたNTTグループだ。「東京電力は他社と公正な競争ができるような電力本体ではなく、電力事業と会計を分けた子会社がサービスを提供すべきです。通信はこれほど新規参入が続いているのに電力はほとんど競争が進んでいないでしょう。その独占体質をひきずったまま電力会社本体が通信にまで参入するのは大問題です。それでも東京電力が自ら光ファイバーサービスを提供すると言うのなら、我々NTTへの光ファイバーに対する規制を撤廃すべきです。」
例えばKDDIを使って市外電話をかける場合、NTTの交換機からKDDIのネットワークに入り、相手先のところで再びNTTの交換機につながる。この時にKDDIは発信側の接続とそれぞれについて通話時間分だけ東西NTTに料金を支払わなければいけない。これが「電話通信料」である。接続料の単価をどういう方法で計算するかは総務省が決める。簡単にいえば「運用費を通話料で割った額」である。このため運用費が一定で通話料が減ると、電話接続料はアップする。
NTTドコモの本格的な海外投資は99年12月に香港第一位の携帯電話会社であるハチソンテレフォンカンパニーに資本金の25%に当たる431億円を出資したことでスタートした。その後、オランダのKPNモバイルに4800億円(同15%)、英国のハチソン3G UKに1944億円(20%)、台湾のKGテレコムに589億円(20%)、アメリカのAT&Tワイヤレスになの1兆1000億円(16%)を注ぎ込んだ。そればかりかAT&Tワイヤレスに490億円、ハチソンテレフォンカンパニーに37億円、ハチソン3G UKに378億円の追加投資も実施。総額は実に1兆8949億円にもなった。
欧州主要各国などでiモードが続々と提供されるようになった。しかしボーダフォングループ15社が提供中のVodafone Liveと違って、海外版iモードは大きな課題を抱えている。iモード提供会社間の横の連携が無いのだ。無料のWebサイトは日本から見ることができる。しかし、携帯電話会社が利用料を代行徴収している有料サイトは使えない。そもそもNTTドコモの携帯電話機を外国に持って行っても通話すらできない。
日本の会社の海外M&A案件はどーも・・・

知られざる通信戦争の真実―NTT、ソフトバンクの暗闘 知られざる通信戦争の真実―NTT、ソフトバンクの暗闘
日経コミュニケーション編集

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【胴元・市場創生者】
2012.06.18|ウォールストリートの歴史 1/8 ~独立戦争直後
2011.12.19: 日本取引所の独占者利益はあるか?
2011.12.06: 東証と大証が経営統合 大証は48万円でTOB
2011.08.12: 8/11 かば子決定 天才がデザインしたかば子
2011.08.02: プロ向け市場「TOKYO AIM」一号案件 上場後値段つかず
2011.05.06: 先物・オプションのブローカレッジリスクはトレーダブル
2010.05.12: 中国株先物が取引が開始
2010.05.07: 二代目、カジノに新風狙う マカオ ローレンス・ホー
2010.04.22: 東証アローヘッド導入のインパクト
2009.09.01: バイナリーオプションの性質から読む市場拡張性
2009.07.14: Globalizationの悪
2008.12.15: 年末ジャンボ ~富くじにおける分散の値段
2008.08.01: Gambler心得
2008.03.14: 上海旅行 最終日 ~株式投資の原点 地場証券にて


宋と中央ユーラシア 4/4 ~ウイグル問題

タングートの盛衰
宋は蘭州から西寧にかけた地域(今の甘粛省西南部から青海省東部)に目を付けた。タングートに抑えられた河西の東西貿易路の、いわあ裏街道として、この祁連山脈西南地域を使うことが可能であった。この地域のチベット系の集団を青唐きょうといったがここにタングートにおおわれた涼州のチベットや甘州のウイグルなどが入り込み、天山ウイグル王国とも連絡を持った。しかし、タングート軍の勢いは強く、宋は苦境を脱することはできなかった。
12世紀初頭、ジュシェン金と宋とが連合してキタン遼をおいつめていく過程で、タングートも、この新興のジュシェンと組むことになった。タングート・キタンが連携していた対宋同盟は、タングート・ジュシェンにきりかえられて継続されることになったのであり、宋が事態を転換させて主導権を握ることはあいかわらずできなかった。そればかりか宋の北側における、この新しい連携は強化されて、宋を南方へ押しやった。こうしてタングートは領土を青海方面に拡大していったのである。
13世紀になって、局面は変わる。チンギス=ハーンのモンゴルがジュシェン金を攻めるようになると、タングートもこれを利用しようと考えてなん像に使節を派遣し、名目上、君の立場にあった金を挟撃しようとはかった。だがモンゴルの攻撃の前に金・宋も和平を回復し、タングートもその攻撃にさらされるようになると、結局タングートは1227年、ジュシェンを兄、みずからを弟の立場に昇格させて、ふたたび手を結んだ。それもつかの間1227年、チンギス=ハーンみずからのりだした征服戦争に敗れたタングートは、モンゴル軍に降伏し、政権を失ったのであった。
天山ウイグル王国とチンギス=ハーン
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キタン人もジュシェン金もタングート西夏も、新たな帝国に飲みこまれていった。ウイグルのバルチュク王はチンギス=ハーンの息子たちの兄弟となり、本領を安堵されることに成功した。これは単に礼儀的なものにとどまらず、この世紀の末ちかくまでほぼ実質を保ち、ウイグル王統の保証という点では14世紀になっても継続された。
しかし、中国もホント大変だね。当時の勢力地図が全てを物語っているが、”天下統一”したものの・・・またいつ反乱がおこるかマジで分からんわ。
文字作成のエネルギー アルタイ語の世界
テュルク後はアルタイ語に属する言葉である。キタンとジュシェンは300年以上にわたって、東北アジア、北アジア、そして華北の地にあいついで統合勢力を築いた。ジュシェンは華北支配を続けるうちに「中華体制」のなかにまきこまれていったが、キタンとともに「中華文明」の根幹である漢字による支配に、完全には組み込まれない体質をそなえていた。その象徴がそれぞれに独自の文字である。キタンもジュシェンもタングートも独自の文字を作った。テュルク系の人々が西方文化の導きによっていちはやく文字文化を確立したのに対して、この動きは200年から400年ほどおくれている。しかも、テュルク-ウイグル文字は現在のモンゴル文字に継承されて、いまなお使われているが、この3者の文字はいずれもいまでは全く使われていない。そればかりか、その言葉も、ジュシェン後が、満州語の流れをくむシベ語として今にかすかに伝わるのを除けば、死後である。
さぶいなぁ・・・今でもウイグルとモンゴルが同じ文字を使っているのか・・・、そりゃ中国も神経質になるわ・・・。
ペンは剣よりも強しの別の面が見れるような気がするな。国家・民族・文字というものの消滅と継続はセットになっているようだ。
名称の連続性という面から厳密に見ると、17世紀末から20世紀はじめまで、ウイグルの名は歴史に華方。15世紀以降から次第にウイグルの名が消えて行った原因の一つは、彼ら自身の政治権力が消滅していったからであることは言うまでもない。それにくわえて、イスラームの東への浸透によって、イスラームという新しい大きなアイデンティティがうまれ、ウイグルとしてまとまった主張する意味が失われたことをあげなければならない。一方、仏教徒ウイグル人のあいだだけには、おそらくイスラームと対抗する「われわれ意識」の証としてウイグルの自称は保たれ、清朝、乾隆帝の時代の17世紀末の河西地方の一角にかろうじて残った。ウイグル人の本拠、東トルキスタンにおいては、イスラームが地歩を確立した後の時代になると、分立しがちなオアシスごとに、たとえばカシュガル人、ホタン人、トゥルファン人、クチャ人などと呼ぶか、または土地の者(イェルリク)、テュルク人などと呼ぶのみであってウイグルの名称は忘れ去られていった。モンゴル高原の時代からの名称は途絶えたのである。20世紀になってウイグルの「民族」名称が復活した。19世紀末以後の民族意識の高まりを背景にしてのことであった。中央アジア住民の呼び名を決める際に、言語学者マローフの提唱で、古名のウイグルが復活した。1921年、まずソ連で採用され、中国では1935年から用いられた。このような名称の浮沈にもかかわらず、現実には名称が消えていた時代の東トルキスタンの住民についても、便宜的にウイグル人と呼ぶことは多い。とりわけ、現地、新疆の現在のウイグル人たちにとって、自民族の歴史は一貫していなければならないものであろう。たとえ各種「民族」集団の混交などがあっても、また確たる証拠が少なくても、遠い過去へ、学問的に立証されているようも前の時代にまでさかのぼって自民族の歴史を認識しようとする傾向がある。それはときに民族分裂主義と中国政府当局から批判されながらも、現代の民族のアイデンティティを求めようとする欲求として潜在し続ける。
たしかに中央ユーラシアからみた周辺文明圏への影響という意味では、東側のジプシー問題なわけだ。
中央ユーラシアという広い領域は、かつてロシア帝国と清朝とにほぼ二分された。前者の領域はソ連に、後者は中華民国、そして今の中華人民共和国に継承された。ソ連の衛星国としてモンゴル人民共和国もあった。こうした広領域国家は、近代西欧が「民族」と定義した人間集団を内に含みこみながら続いてきたものだが、いまや大きく変容を遂げた。ソ連は、各共和国が独立して独立国家共同体という形に再編された。モンゴル人民共和国も、伝統的な名称であるモンゴル国(ウルス)となった。これらの新生国家は、いわば「民族」の国である。旧ソ連から独立した中央アジアのカザフスタン、ウズベキスタン、キルギズスタン、トゥルクメニスタン、タジキスタンの5カ国、そしてモンゴルはそれぞれ、かなり強く「民族」アイデンティティを具現化しようとしている。政治、経済の運営には厳しい前途が予想されるものの、「民族」の自意識は高まった。こうして「民族」と呼ばれるような集団が、自前の国を持とうと、持つまいと、その規模の大小を問わず、「われわれ意識」をもっていることに、いまさらながら、多くの人が気づく時代となったのである。
一方、中国派従来の国家の枠組みを維持し、公認されているだけで55種類の少数民族が、人口の約8%を占め、主に国境地帯の広大な地域に居住する。旧ソ連からの独立国家の誕生が、これらの国境地帯の「民族」に少なからぬ影響を及ぼさないわけがない。「民族国家」を求めるつぶやきが聞こえてくる。しかし中国は、構成諸民族の統合を図るために、独自に「中華民族」という概念を持っている。中国のみならず、いずれの国もそれぞれが、程度の差はあるものの多民族国家でる。それは人々の移動を含む長い歴史によって形成されてきたものだ。かつて第一世界大戦前後、バルカンに民族紛争の火種ありおされ、その解決策として提唱された「一民族一国家」というアイデアもいまだに実を結んだとは言えない。ユーラシア大陸のどこにも実現できていないのである。近代の思潮の柱のひとつ、社会主義思想による運動も、階級闘争を優先させてきて、民族問題にはどこか楽観的であった。とても民族問題を解決してきたとは言えない状況であろう。今後の中国が注目される。
エキゾ予想:俺が生きている間に、中国もインドネシアも現在の領土を保持することはできず、必ず分裂する。
この本は宋の本だから書いてなかったけど、ラストエンペラー愛新覚羅溥儀、清朝の始祖のヌルハチって音からして中国音じゃねーと思うんだわ。満州人って顔がツングースだし、字も漢字ではない、漢民族から遠く離れてる。300年の長い歴史を越えて、溥儀の時代には中国化・中華化・漢民族化したとは思うがな。
【民族意識系】
2012.04.25|美しい国へ 2/3 ~平和な国家(国歌)
2011.08.17: 実録アヘン戦争 1/4 ~時代的背景
2011.05.09: 日本改造計画1/5 ~民の振る舞い
2011.03.25: ガンダム1年戦争 ~戦後処理 4/4
2010.09.09: ローマ人の物語 ローマは一日して成らず
2010.08.02: 日本帰国 最終幕 どうでも良い細かい気付き
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.02.04: 新たなる発見@日本




宋と中央ユーラシア 3/4 ~宋周辺諸国

中央ユーラシア
中央ユーラシアということばは、耳慣れないものかもしれない。その語に地理学的な意味ではっきりした定義があるわけではない。内陸アジアと呼び変えてもよいのだが、イメージとしてはそれより広い。内陸アジアと呼び変えてもよいのだが、イメージとしてはそれより広い。北アジア、中央アジア、南ロシア、東ヨーロッパ、そして東北アジアを含み込む地域である。
草原の都市文明 遊牧民にとっての軍事都市
草原の中に都市を見ることは、いまでは、それほど稀なことではない。だが歴史の上で遊牧民が都市を必要としたのは、家畜の遊牧という日常の生業に由来するのではなかった。スキタイも匈奴も定住する街を持たず、城塞も築かず、家畜を追って移動する民であると、たがいに300年という時間と数千キロの距離を隔てて生きたヘロドトス(前5世紀)と司馬遷(前2世紀ころ)はまるで示し合わせたかのように、全く同じような遊牧民のすがただったと考えてまちがいはない。司馬遷が『史記』で匈奴についてえがいた一文は、遊牧民の基本生活をよくあらわしている。
牧畜をしながら移動する。水と草をおって移り住み、城郭や定住、農耕のなりわいを持たない。しかし、それぞれに領域は持っている。文字を持たず、言葉によって約束ごとをする。働き盛りの者がうまくてよい肉を食べて、年老いたものはその余りを食べる。壮健を尊び、老弱は軽んぜられる。
儒教精神から見ればとんでもないことであろう。だが、それは農耕社会で生まれた倫理観にすぎない。一生の間、いな、世代を超えて永遠に続けなければならない家畜の世話の明け暮れは、老人や弱者に重きを置くことを許さない。騎馬軍による家畜の争奪戦や、農耕地の富の略奪戦に老弱が役に立たないのも節理である。
9世紀モンゴル高原の覇権を失ったウイグルの支配者集団は、南方と西方に散った。
西へ移動したウイグル集団の動きを追って行く。天山山脈の北麓を経由し、草原帯の西へと道をたどったウイグル集団があった。その一部は、天山の西部あたり、いまのカザフスタン東南部のバルハシ湖と、キルギズスタン東北部のイッシク-クル(湖)に挟まれた草原とオアシスに入った。この地域はセミレシエとも呼ばれ、その当時、テュルク系の一部族、カルルクの勢力が強いところであった。カルルクはもともとアルタイ山脈の西の草原にあって8世紀半ばにはウイグルと連合して支配を覆した集団である。しかし、遊牧ウイグル国家の成長の中で、一部を除くと離反して、この天山西部に拠点を持った。そして唐軍が天山南部のオアシスを配下に入れ、天山を越えて北へ進出してくるとその一翼を担った。史上名高いタラス河畔の戦い(751年)で唐がイスラーム軍に敗れたのは、このカルルクの唐からの離反が一員であった。草原の遊牧集団があちこちに分布するなかで西走ウイグルの一部の集団はこの中に吸収されていったのだが、以後、この地域にこの系統のウイグルの名は確かめられなくなる。
東部天山山脈の南北、現在の新疆ウイグル自治区に草原とオアシスをあわせもつ政治的なまとまりが生まれたことにより、東西貿易に新しい重心が生じた。この王国の根本をおなじくするウイグル集団が河西地方に生まれたこととあわせて、中国、とくに宋が西方地域に対してもった認識の中ではウイグルは無視することのできない存在となった。とりわけ宋の全半期、北のキタン(遼)との対立の中で重要な要素であった。その基本状況はタングート(西夏)が河西を席巻する11世紀前半までつづく。また13世紀のモンゴル帝国出現に至るまで、中央アジアにウイグルによる一大文化圏が形成されていたことはそれにもまして大きな意味を持つ。
中央ユーラシアにおけるキタン
モンゴル高原の東南端、いまの中国内蒙古自治区から遼寧省にかかるあたりと、中国の華北の地、そして黄河にかこまれるオルドス地域とその西のいわゆる河西地方が、本章の中心になる。唐の滅亡と同時に、つまり10世紀はじめから、「契丹」と漢字で書かれるキタン族がまとまりをもち、いわゆるマンチュリア(中国東北部)をほぼ統一し、五代十国時代のあいだに、燕雲十六州を獲得し、さらにモンゴル高原に拡大して宋の北辺を領域として、西北辺のタングートとともに、宋の中央ユーラシアへのルートを完全におさえたのであった。これが中華風に言えば、遼王朝(916~1125年)である。
キタイ(キタン)は中国の代名詞になった
ロシア語で中国をキタイというのは、こうした伝播の結果であるし、1946年に開業の香港のキャセイパシフィック航空のキャセイもヨーロッパにつたわったキタイ~カタイの英語読みからの命名なのである。
南宋時代の地図
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金と宋
宋がキタン遼国に支払っている歳幣はジュシェン金国にまわすこと、金はこの戦闘で長城を南に越えないこと、金・宋同盟ののちは金・遼の講和をしないこと。さらに宋から追加された条件は、長城の南にある燕京(北京)と西京(大同)についてであった。燕京は宋が攻め、西京攻撃は金におこなってほしいが、占領後に宋に帰するという。アクダは宋のむしのよさに反駁し、宋もこたえられずにいた。双方の本当の腹が決まらないうちに、キタン遼への両軍の攻撃が始まってしまった。1122年、金は約束通りキタンの西京を落として、遼の天咋帝はタングート西夏の支配する黄河の北、陰山に脱出した。ところが宋は、その前に江南に勃発した方ろうの乱の鎮圧のために、燕攻撃に準備した15万の軍をまわさざるをえず、攻撃が遅れた。この宋軍は、しかし、キタン遼の最後の砦として残る燕の軍隊に破れたため、当初の申し出を自らやぶって金の援軍を要請し、ようやく燕は落ちた。アクダは、約束通り燕を宋にひきわたし、銭100万ビンと糧食20万石を得た。しかし宋は、歳幣を支払おうとしないばかりか、遼の天咋帝と連絡をとって金の西部撹乱を狙った。
金は茶、香料、薬品、絹織物、木綿、銭、牛、米などを宋から輸入し、はんたいに毛皮、人参、甘草、馬などジュシェンの物産のほか、山東の絹織物などを宋に輸出した。しかし、華北に住む多数の漢人と、その生活を模倣していったジュシェン人たちのための消費物質が大量に必要となって、金側の輸入超過が常であった。宋からの歳貢ちすて金領に入った銀なども皇室から民間に流れ、結局はこうした貿易によって宋に還流していったと考えられる。経済の実力派あきらかに江南の宋がにぎっていたのである。
【戦争・内戦・紛争】
2012.07.31|マキアヴェッリと君主論1/4 ~1500年当時のイタリア
2012.05.17|攻撃計画 ブッシュのイラク戦争2/2~戦争責任
2012.04.06: 金融史がわかれば世界がわかる 4/6~ポンドからドルへ
2011.12.26: 宋姉妹 中国を支配した華麗なる一族2/2 ~三姉妹の勃興
2011.10.26: インドネシア 多民族国家という宿命 2/3~紛争の火種
2011.08.22: 実録アヘン戦争 4/4 ~そして戦争へ
2011.03.24: ガンダム1年戦争 ~新兵器 3/4
2010.07.16: ドイツの傑作兵器・駄作兵器
2010.05.26: インド対パキスタン
2010.03.16: イランの核問題
2009.06.05: 現代ドイツ史入門
2009.05.05: 民族浄化を裁く ~ボスニア
2008.10.21: 東インド会社とアジアの海2
2008.10.20: 東インド会社とアジアの海




宋と中央ユーラシア 2/4 ~宋の繁栄

北宋時代の地図。小さかった中国、一つではなかった中国が一目でわかる。
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爆発する人口
広大な中国大陸は、人の手による自然の変化を許容し続けてきた。すでに、漢代に人口6000万人に到達していた中国では、その人口を維持するために食糧生産方法の開拓がおこなわれてきた。中国の食糧生産技術、ならびに生産した食糧保存技術の優秀性はかねてより論じられてきたところだが、例をあげると豚や魚の飼育、養殖技術があげられる。野菜の採取選択や蔬菜の品種改良なども注目すべき技術としてあげられる。また、食料として選択した品種も格段に多い。人類の口にする動物や植物は極めて限られているが、中国のそれは群を抜いて広いのだ。たとえば、昆虫だ。現在、人間がもっとも嫌い食されないのが昆虫だ。もっとも昔から食べなかったというわけではない。かつてはアリストテレス、アリストファネス、ブリニウスも昆虫を口にし、孔子もまた口にしたという。が、現在ではほとんど口にしない。動物も同じだ。西洋中世では猫を食したというが、今日では猫や犬を食するということはきわめて特異な風習となった。中国は内陸部の面積に比較して海岸線の短い国家だから、新鮮な海の魚介類は口にしがたかった。中国人は全体としてヨード分が不足がちで、、そこから幾種類かの病気が発生するというが、これも海産物の摂取の不足から出てくるのだ。だが一方で、中国人たちはそれを克服する技術も持っていた。それが、保存技術だ。中国では塩漬けや天日にさらして乾燥させる技術が早くから発達した。これらの乾燥品をたくみにもどす技術も発達した。その代表が乾燥された海鼠、鮑、烏賊、鱶などの調理技術だ。
開封の繁栄
開封は戦国の雄 魏の大梁に端を発するが、秦・漢帝国以後は一時衰退し、歴史の表舞台から姿を消す。それが再度、歴史の舞台に登場するのは、隋の天下統一によってだ。隋の偉大な事業は大運河に象徴される。大運河とはそれまでに各地で作られていた運河を連結し、南から北までの物資輸送システムとした人工水路だ。この水路が黄河に接続するところこそが開封だった。隋・唐が長安に都をおいたのは見当違いではない。北方民族の侵入、西域ルートの確保を考えれば、司令塔としての都の位置は胃水盆地が妥当だ。だが唐帝国の変質と穀物供給などのシステムを考えると、いささか奥にあり過ぎた。だから唐なかごろ以降は多くの皇帝たちが洛陽で過ごすのを常とした。開封は黄河への物資積み替え地点に位置する。
兵卒クラスの収入と支出
下級兵士の年俸は50~70貫前後だ。前近代の経済は、現在のように収入源が一つに絞れない。諸手当や役得を利用した収入もある。仕事以外にさまざまな商いに手を出す。屋台や振り売り、路上で医療行為を行う者もあれば、人の運命をみすえる者もある。年間50貫を解析してみると1日約139文ほどになる。別途支給の副食費と合わせれば、一日150文ほどで、徴発された農民や人夫が請け負う治水工事の日当とほぼ同じだ。この仕事はきつくて危険で汚い。だから多い時で一日300文。宋代の庶民の家族の一日の生活費は約200文ほどというから米価を基準に考えるとかつかつ生きてゆける数値だ。
宋代の鉄の量と質
暑い文明が生み出した高度な陶器や金属製品は錬度を高めるためにいっそう高温を追求するが、このことを軽く見てきたきらいがある。錬度を問題にせずに生産量のみを問題にする傾向があるからだ。中国は高品質の金属の普及と使用にどれだけ努力したのだろうか。生産量が人口サイズに見合っていたか。宋代の鉄の生産量は多かったが、これらの多くは鋳鉄製品は、権力や権威を誇示するために使用されるケースが多かった。巨大な鋳鉄製の像がこのことを物語る。このほかには武器や建築材料や農具、そして鍋釜、包丁などだ。これらの種類はきわめて少ない。包丁一つをとっても日本のように用途に応じた作りは無い。生産量は多くとも社会の本質を変えるほどではなかったと見るべきではないか。後代の鉄砲に銅筒が少なくなかったことを思えば、中国の鉄は錬度が十分でなかったと思われる。関帝廟などで見かけるか関羽使用と称する青龍刀もその粗末さに驚くばかりだ。日本刀のような精度と錬度は見られない。中国の刀がいつまでたっても切れなかったことは、物語の表現に切るといわずに打つとあることからもわかる。
大理国
雲南の地に大理と呼ばれる国が成立したのは唐代だった。雲南の変動は、段忠国6世の子孫を出自と称する段思平からはじまる。937年より22代316年間続く。東は戒州(いまの四川省宜賓市)、西は身毒(インド)、東南はベトナム、東北は成都、北は大雪山、南は海に至ったという。 面積は四川省に匹敵する広大さだった。大理の活躍は唐の衰退とともにいっそう活発になる。そして宋代になると中国に十分に対抗する存在となった。その名を今日にとどめたのはこの地の特産品の石、大理石だった。
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宋と中央ユーラシア 1/4 ~宋まで、宋勃興当初

大唐帝国の滅亡
華麗な文化を残した大唐帝国が滅んだのは907年だったが、それ以前から呻吟していた。それを明確にしたのが黄巣の乱だった。黄巣は現在の河南省濮陽の南にある山東省曹州出身の塩賊すなわち塩の密売人だった。彼は何度官僚採用試験に応じても及第しない。たまった不満の爆発が、875年から884年までの長期の叛乱の引き金の一つとなった。ほとんど中国全土を駆け巡ったこの乱が、唐という巨木の中がうつろで、抜け出しようのない袋小路に入り込んでいることを自覚させた。
 玄宗朝以降、帝国は次第に揺らぎ始めていた。安史の乱、律令体制から両税体制へといった一連の出来事は帝国をいちじるしく変質させた。支配権は失われ、帝国の華だった貴族たちも力を失った。
五代十国の時代
五代十国はその名の通り華北に5つの王朝、他に十の小国が乱立する時代で、宋建国までのほぼ50年をいう。
皇帝たちの時代
皇帝とはいったいどんな存在なのか。時代が下るほどしだいに官僚制充実に向かう中国にあって、君主の支配権もしだいに強化されていく。これは皇帝の強力な発言権が政治を左右することを意味する。だが官僚制整備と君主権強大化が比例することは普遍的法則なのだろうか。君主独裁制がシステムの問題とすれば皇帝はシステムの一部となって存在感が薄くなってゆくはずである。実際、無能な指導者や混乱した政局が続いていてもある程度システムが整っていれば社会はそれなりに動いて行く。だから統治機構が整えば整うほど、指導者の持つ意味と役割が減少するともいいうる。
規制の緩和
唐と宋を区別するものの一つとして、規制の問題を意識的に取り上げるものは少なかったが、今後考えるべき問題のように思う。両税法の施行以後、土地所有面積の規制が緩和される。古来、中国王朝は無制限な私的土地所有を禁止してきた。だが、両税法施行以後、箍がはずれ、大土地所有制度が進展し大土地所有者が社会のリーダーの基盤となる。これが世に名高い形勢戸であった。では宋代の大土地所有が永続的な支配権を確立するかというと、それは間違いだ。なぜか。ひとつは、永続的な貴族制度の崩壊に理由を求めうる。親から子へ、そしてその子へと地位と財産を受け継ぐシステムは宋以降崩壊していくから、代々かけて巨大な財産を蓄積することができにくくなる。もう一つは相続システムだ。中国の均分相続システムもまた、特定の家に継続した資産の集中と保持を困難にする。
 これに関係するのが完成度の高い科挙制度であった。科挙試験は三段階で構成される。第一段階が解試、地方で行われる予備試験で、次が省試で都の礼部でおこなう本試験、最後が皇帝自ら試験する殿試で太祖の創出したものだった。
名だたる受験地の福州は、都市民の半ばが本を読んでいたという。この伝統は今日も受け継がれ、有名大学への合格率も高いところになった。本は実用書、つまりは科挙試験に利する本と言いうる。この傾向は今も続いているようだ。先般、福州の本屋を丹念に歩いたが、実用書が多いのに驚いた。
宋代の知識人とは士大夫をいった。彼らは科挙試験に及第して官僚となり、天子とともに政治を行う存在だった。宋代こそはその知識人が前面に躍り出て政治をとった最初の時代なのだ。かれらは儒学を学び、科挙を受ける。だが、かれらを知識人といいうるのか。かれらの学ぶ本は限られている。科挙出題の儒学のバイブルだ。かれらの学ぶテキストの総字数を計算した宮崎一定は、約35万字ほどと計算する。現在の本だとおおむね1ページに約1000字入るとされる。とすれば350ページほどの本にすぎない。たったこれだけの字数の本が中国人の心を支配し、思想を律し続けてきたのだ。士大夫の学識の底にあったのは、官僚となるために学習に学習を重ねたテキストへの信仰のみだったのだ。これでは中世ヨーロッパの知識人に及ばない。かれらも古代の思想へ回帰しようとしたが、そこにあったのは失われたテキスト、失われた言語への探索と興味でもあった。またひたすら忠誠を要求するキリスト教とそのテキストへの懐疑でもあった。だからここでは知識の根源の探索が行われた。しかし、宋代の知識人たちにはその発想は乏しい。彼らの世界は古代以来一貫していた。文字が同じだからだ。
貨幣経済の時代へ
マルコ・ポーロが驚嘆したように、元代の中国では紙幣が使用されていた。金や銀といった貴金属ではない。金高を印刷した紙が貨幣として流通するなど信じられなかったのだ。だがその起源はもう少し遡る。宋代の四川省で発生した交子だが、もともとは紙幣ではなかった。唐代に洗われた金融業者の寄附鋪が発行した手形が支払いに使われだし、宋代になって会子・交子・関子などという手形から紙幣への道をたどったのだ。もっとも民間の紙幣運営は危険もあり経営の不安定さがただちに信用不安になる。
 四川の交子も例外ではなかった。成都府の金持ち16の家が金融業者として独占権を持って信用の強化を図った。それはあたかも西洋の金融業者の誕生を思わせる。紙幣が視線で発達した要因は茶という産品があったことや、鉄銭流通地域だったということがある。中国の銭は銅銭を主体としたが、いっそう重い鉄銭は持ち運びに不便なうえに他地域との交換に際しての簡便さも要求されるからである。だからその安定はいつまでも続かなかった。しかも資金の減少が生じ、不払いも生じた。そこで政府は紙幣発行の利益を握るために天聖元年(1023)に益州交子務を創設して発行権を獲得するとともに発行当初から行われていた三年一界という有効期限を2年にして安定経営をはかった。
宋代に銭が沸き立ったことはよく知られている。毎年、大量の銭が鋳造され、国家財政を支えた。銭は東アジア世界にも流通し、日本にも渡来した。いかに膨大だったか、わが国で宋銭が一度に数万枚発見されるという報告からも明らかだ。記録によれば、北宋末にはやや減少しているが、1年間の鋳造量が500万貫という。これを一文銭の鋳造で数えると、一貫は1000枚だから500万貫は50億枚となる。だが宋代最盛期の人口を1億と仮定すれば一人頭50枚、すなわち50文にしかならない。10年分の貨幣が蓄積されて始めて一人頭数百文という額が出てくる。これでは絶対量が足りない。銅が不足がちの上に海外への流出も多い。生き物たる銭は規制を越えて勝手に歩き回るのだ。日本の寛永通宝が中国各地から出土していることも、このことを示す。今日、宋朝の銭が発見される場所は日本だけではない。遠く東南アジアや東アフリカにまで流出しているという。私の手持ちの宋銭のなかにはインドネシアのロンボク島で発見されたものもある。

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金融崩壊 昭和経済恐慌からのメッセージ 4/4~高橋是清

高橋是清再登場
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金融恐慌の真っ只中で政権交代が起こった。憲政会の若槻礼次郎内閣が崩壊し、政友会総裁の田中義一が政権の座に就いた。昭和2年1927年4月20日、田中新首相は親任式を済ませた後、初閣議を開いた。蔵相に任命された高橋是清は夜9時過ぎ、私邸に戻った。数日前から十五銀行破たんの噂が流れている。十五銀行休業の噂を聞きつけた預金者が、夜中の2時半過ぎから銀行の店先に列をつくり始める。21日、改行時間と同時に多くの銀行で取り付けが起こった。騒ぎは全国に広がる。
就任二日目の高橋蔵相は電光石火、3つの施策を打ち出した。
第一は三週間のモラトリアムの実施、緊急勅令によって支払猶予令を発する。第二は臨時議会を召集して、台湾銀行の救済と経済界安定のための法案を成立させる方針を固めた。第三はモラトリアム実施までの2日間応急措置として全国の銀行を休業させることにした。
高橋が打ち出した「徹底的救済の方策」の第二は、日銀による市中銀行への非常貸し出しである。高橋は日銀と交渉して事実上、無制限の特別融資体制を作り上げた。兌換券の発行高も普段は10億円内外である。ところが25日現在の発行高は通常の2,3倍まで膨れ上がった。そのために日銀は思いがけない事態に直面した。紙幣の印刷が間に合わなくなったのだ。日銀はこの時期、すでに廃棄処分を決めていた破損紙幣まで動員した。その中には金庫にしまいこんでいた「猪」と呼ばれた昔の10円紙幣もあった。それでも足りず、急増で5円券、10円券、200円券を発行した。取り付け騒ぎが起こると、銀行の店頭に通帳を手にした預金者が殺到する。そのとき、銀行側の資金が潤沢だとわかれば預金者は安心して引き下がる。パニックを沈静させるためには、実際に資金が確保されていることを預金者に示す必要がある。200円紙幣は預金者への払い戻し用というよりも窓口に札を積み上げて見せるために発行された。だが印刷が間に合わない。一昼夜で刷り上げて25日発行された200円券の中には印刷は表だけで裏は白い紙幣まで登場した。日曜日と合わせて3日間の休業期間が過ぎた4月25日、高橋蔵相を初め、政府、日銀、銀行界の関係者は固唾を呑んで営業最下位の瞬間を見守った。ところが騒ぎは水を打ったように静まった。各銀行とも本支店の窓口に山のように札束を積み上げ、殺到するであろう預金者を待ち構えた。だが、玄関前に列をなす銀行は皆無に等しかった。「さすが高橋大蔵大臣だ」誰もが水際立った火消しぶりを絶賛した。
超緊縮財政 浜口内閣-井上蔵相
「非募債と減債」で宣言したとおり一般会計では公債の新規募集は打ち切る。特別会計でもすでに決まっている募集計画の半額以下に押さえ込んだ。予算案作りで井上蔵相がもっとも苦労したのが軍事費である。徹底した歳出削減で健全財政主義を実現しようとした井上は各省に対して1割以上の支出カットを呑ませた。だが陸海軍両省は応じない。粘り強い交渉で経費削減を了承させたが、支出削減は軽微だった。そのため5年度予算では軍事予算の比率は35.6%に達する。一般会計は16億800万余で4年度予算と比べて1割以上の超緊縮予算である。一般会計には公債も借入金も計上しない「無借金予算」が実現した。第二次大戦終了までの間で、無借金予算は明治28年度予算とこの昭和5年度予算だけである。
暗黒の木曜日
浜口・井上コンビが超緊縮政策を強力に推進していた時である。日本時間の10月25日であった。ニューヨークの株式市場で大暴落が起こった。「永遠の繁栄」と呼ばれるほどの長期の好景気を誇ったアメリカ経済が一転して冬の時代に突入したのだ。ところがウォール街の株暴落のニュースが届いた時、日本の経済界はさほど深刻には受け止めなかった。系金循環の波に従って、アメリカ経済の長期好況もしまいとなり、今度はその反動がめぐってきたという程度の認識だった。それどころか株暴落を歓迎する向きもあった。金解禁を予定している日本では金解禁を実施すれば日本からアメリカなど欧米諸国に※正貨が流出するのではないかと心配された。暴落前のアメリカでは熱狂的な株式ブームが話題を呼んだ。そのために高金利が続いた。日米の金利差が大きい状態で、日本が金解禁を行えば、アメリカへの正貨流出が起こる可能性がある。株価の下落によって、高金利にピリオドが打たれることは確実である。金利が低下すれば、日本が金解禁を行っても、正貨流出の恐れは少なくなる。そう予想してアメリカの株価下落に高官を抱いた人も多かった。
※正貨:金本位制の下で金との兌換性がある貨幣。
少数派の新平価解禁論
ウォール街の株暴落から1ヶ月も経たない11月21日、浜口内閣はついに金解禁の実施に踏み切った。金の輸出を解禁する場合、100円=49ドル85セントという平価で解禁するかそれとも解禁実施時の実質的な為替相場で解禁するかという議論である。新平価解禁論者は、為替相場の変動に従って平価を下げて解禁すべきだと主張した。旧平価で解禁すれば通貨の縮小、物価の下落などを引き起こし、不況を深刻化させ国内経済は大きな打撃を受けると警告した。高橋は自著「大正昭和財界変動史 中」で新平価解禁論の論拠を昭和1-3年当時のわが物価水準の国際的位置を見るに、米国のそれを100とするわが物価指数は120台であった大体2割方割高であることを表示していた。わが物価水準を国際並みにし、貿易の推進を期するためには、為替相場指数は120(1ドル2円を2円40銭、対米為替レート約42ドル内外)に相当せしめるか、またわが物価を約2割下げるか、いずれかの措置を必要としていた。
浜口内閣は迷うことなく旧平価による解禁に踏み切った。翌5年1月11日から100円=49ドル85セントで金の輸出を解除すると発表したのだ。金解禁を実施した場合、もっとも心配されたのは不況の進行と金の海外流出である。案の定、流出は解禁と同時に始まった。金と在外正貨はわずか半年で解禁前の流出予想額の2倍に達した。日本経済は金解禁の実施によって新しい環境の中に投げ出された。金解禁は国際金本位制への参加を義務付けている。ところが不運なことに、窓を開けた途端、「暗黒の木曜日」に端を発する世界恐慌の暴風がいきなり吹きつけてきた。金解禁前、生糸10斤につき135円70銭の高ねをはじき出した、解禁後3月初めに暴落105円80銭まで下落、5月には88円20銭、翌6年には55円40銭まで値下がりした。
1931年 官中で首相の指名を受けた犬養はその足で高橋是清邸に向かった。「大蔵大臣をお願いしたい」。組閣が完了すると間髪要れず金輸出再禁止を決めた。市場はすぐに反応した。株式相場と商品相場は急騰した。円相場は平価100円=49ドル85セントが12月中に早くも34ドル50セントまで下落。だが高橋蔵相は放置する。翌7年6月には26ドル75セント、11月には19ドル75セントまで下がった。再禁止前に円下落を見込んでドル買いに走った投機筋は笑いが止まらなかった。
【金融・通貨制度】
2012.07.05|ウォールストリートの歴史 6/8 ~独占体制の崩壊
2012.03.30|金融史がわかれば世界がわかる 3/6~基軸通貨ポンドの誕生
2011.06.16: 巨大穀物商社 アメリカ食糧戦略のかげに 1/4
2010.07.12: 資本主義はお嫌いですか ~貧しい国々が豊かな国々に貸している
2010.06.02: 数学を使わないデリバティブ講座 ~測度変換
2010.03.01: 噂のストップ狩り
2010.01.07: 金融vs国家 ~国の金融への関与
2009.03.12: ゆっくり見ると為替(FX)が通貨(Currency)に見えてくる
2007.12.19: 円保有のリスクって? イギリスで学者街道を進む後輩より





金融崩壊 昭和経済恐慌からのメッセージ 3/4~1927年金融恐慌

関東大震災と震災手形
東京市内の銀行は138の本店のうちの121、310の支店のうちの222が消失した。結局、日銀と大信銀行という中小金融機関を除くすべての銀行が臨時休業に追い込まれた。井上(当時蔵相)は経済の混乱を防ぐにはモラトリアムしか方法が無いと判断した。商工業の活動を常態に戻すために支払猶予令はなるべく早く撤廃して欲しい。震災地宛の手形を日銀で再割引する道も開いていただきたい」委員たちは井上に陳情した。モラトリアムを打ち切って銀行を救済するために手形再割引制度を設けることに決めた。震災手形の登場である。だがこの震災手形は金融界の癌として、後々まで日本経済を苦しめた。昭和2,3年の金融恐慌の火種として燻り続けることになる。
銀行が震災前に割り引いた震災地を支払いちとする手形や、震災地に営業所を持つ者が振り出した手形、これらを担保として銀行が振り出した手がなどの震災手形を日銀が再割引することにした。これによって日銀が損失を受けた場合、1億円を限度として政府が保証することになった。井上はこの制度を設けた理由を議会で説明した。
「大正12年9月1日に銀行に集まっていた何十億円という手形は地震のため、関係者の身元がすっかり不明となり、その結果手形の流通性が失われてしまいました。その手形に流動性をつけ、銀行が手形を金にすることが出来るように、また関係者の財産整理もできるようにしようという点にあります」
政府は、震災のために流通が困難となった手形は約21億円と見た。そのうち決済が困難なものは5億円と想定した。5億円の2割の1億円は回収不能であり、日銀の損失になると見積もった。政府が1億円を限度に補償すると決めた根拠はここにあった。日銀の再割引を求めてきた手形は5億円という政府の見込みをやや下回った。総額4億3081万円えあった。そのうちのかなりの部分は大震災によって決済が出来なくなった震災手形である。ところが、震災とは縁のない未決済手形も相当数その中に紛れ込んでいたのである。9年の反動不況以来整理されずに持ち越されてきた不良貸しなどによる焦げ付き手形があった。それを震災手形と称してこのときとばかりに日銀に持ち込み、再割引を受けた人たちがいた。台湾銀行が持ち込んだ鈴木商店の9000万円の手形もその一つであった。大正バブルの崩壊以来、一部の銀行は巨額の不良債権を抱えて四苦八苦している。これらの銀行は震災手形再割引の制度ができることを知ったとき「しめた」と思った。日銀では、当該手形が震災手形かどうか判別することは事実上不可能だった。震災手形としてスタンプが押される。不良手形は日銀が再割引を保証した適格手形にはや代わりした。震災手形は不良手形を振り出した経営悪化企業の実態を包み隠す役割まで果たしたのである。
現代で照らし合わせると、
銀行が不良債権ぶち込んだという意味では住専問題かな? 
牛肉偽装事件、震災がらみだと、みずほの不当払い出し請求とか・・・
片岡直温蔵相
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片岡は高知県の高岡郡半山村(現葉山村)という山間の村で土佐郷士の片岡直英の子に生まれた。(浜口雄幸も高知)学業優秀だったが、家庭が貧しく、帝国大学というコースを歩むことはできなかった。近郷の寺に小僧に出された。片岡は16歳の時、後の高知師範学校の前身の高知陶治学校に進んだ。卒業後、小学校の代用教員や高岡郡役所書記などを務めた。21の時に状況、一度帰省して高知で自由党に対抗する政治結社を設立した。だが政治活動は実らなかった。25歳で再び東京に出る。内務省に入った。2年後、滋賀県の警部長に任命される。警部長は後の警察部長の前身である。
だが30歳で民間に転じた。学歴などから官界ではこれ以上の出世は無理とわかったからだ。滋賀県警部長の頃に近江商人で県会議員の弘世助三郎と知り合いになった。弘世は生命保険事業に関心を抱いた。片岡は弘世と相携えて日本生命保険会社を設立する。副社長となった。日本生命は発足後、3年で先発の生保二社を抜いた。片岡は日本生命副社長の傍ら、25年の第二回総選挙に高知県から出馬して当選した。
すげー・・・
金融恐慌 1927年
片岡蔵相の大失言
「東京渡辺銀行がとうとう破綻いたしました」むきになってつい口を滑らせてしまった。
「東京渡辺銀行に問い合わせてみたんですが、営業しているようです」 報知新聞の記者から教えられた。
「記事を止めてもらいたい」
「大蔵大臣が議会の予算委員会で喋ったことを差し止めるなんて、そんなバカなことできるか」万事休すである。
東京渡辺銀行と系列のあかぢ銀行は休業を決めた。
もともと1-2ヶ月前から金融界は一触即発の危機状態にあった。
1月、四国の今治銀行が休業、2月は東京起業貯蓄銀行など6行が大蔵省から営業を取り消された。四国の徳島銀行と徳島貯蓄銀行も休業を余儀なくされた。京浜地方の銀行でも緩やかな取り付けが始まった。そこへ3月14日、蔵相失言が飛び出したのだ。不安に駆られた預金者が銀行の店頭に押しかけた。
蔵相失言の5日後19日、東京の仲居銀行が休業、預金総額4500万円で東京渡辺銀行を上回っている。22日、村井、八十四、中沢、左右田の四行が休業、地方でも9つの銀行が閉店。23日、日銀は特別融資、非常貸し出しの総額は23日までに6億を越えた。懸念だった震災手形二法が議会を通過した。
数日後、金融危機の第二波が襲う。震災手形問題の最大の病巣ともいうべき台湾銀行である。貴族院は震災手形法案の可決に当たって三項の付帯決議を行った。台湾銀行が危ないという噂は関東大震災の直後から囁かれてきた。台湾銀行の経営危機を政府が公式に認めたことは一度もなかった。付帯決議はこの噂を国の機関が公式に確認するという役割を果たした。同時に付帯決議によって台湾銀行救済は政府の責任で行うことが公式に表明された格好になった。そのため、金融界で新しい動きが生じたのだ。そこまで台湾銀行を支えてきた民間金融機関が、ここぞとばかり逃げ出しを図り始めた。三井銀行を筆頭に、台湾銀行からコール資金を引き上げる銀行が急増した。台湾銀行は資金繰りに窮するようになった。4ヶ月前の昭和元年末、台湾銀行の貸出残高は6億円を上回った。にもかかわらず預金は9000万円余しかなかった。大幅な資金不足を日銀からの借入金2億8000万円とコール資金を含む1億5000万円の市場からの借入金で賄っていたのである。資金繰りの悪化で、鈴木商店救済のための追加融資はできなくなった。鈴木商店が倒産すれば台湾銀行の経営はすぐに破綻する。震災手形法案が貴族院で可決される前日の22日「台湾銀行は重役会議でこれ以上鈴木商店には貸し出しを行わないことを決定した。」 26日議会が閉幕した。台湾銀行の森広蔵頭取が片岡に「鈴木商店に対する新規貸し出しを停止することに決定しました」 もちは一方的に告げた。「日銀の了解をとったのか」 片岡は問いつめる。4月1日、融資ストップが報道、5日、新規取引中止を発表、8日、鈴木商店の機関銀行と見られた神戸の第六十五銀行が休業、4月28日、鈴木商店倒産。
【タカリの花道】
2012.04.05|KTVデビューしました 4/5 ~プロとして
2012.02.29: タイ旅行 7/11~ゴーゴーバー
2011.07.26: ローストビーフの作り方 1/2 前編 下準備と企画
2010.12.30: 銀行が俺の金を抜きやがる瞬間
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金融崩壊 昭和経済恐慌からのメッセージ 2/4~成金

新興経済人の勃興
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大戦景気に対して経済界は全体として反応が鈍かった。その中で千載一遇の好機と見てとって一気に勝負に出る野心的な実業家もいた。代表的な人物は神戸の貿易商、鈴木商店の支配人の金子直吉である。金子は一代で鈴木商店を三井や三菱と並ぶ総合商社に育て上げた。昭和2年の金融恐慌で経営が破綻し、挫折を余儀なくされることになる。が、それ以前は一時、50数社を傘下に置く一大企業群を作り上げ、「財界の風雲児」と呼ばれた。
石井定七事件
高橋内閣がスタートして三ヶ月余過ぎた11年2月28日、大阪の材木商の石井商店の経営破綻が明らかになった。石井定七は材木商というよりも大阪で1,2を争う相場師として知られた。本業の材木だけでなく、株、米、綿糸などの取引に乗り出した。反動不況の後の中間景気が訪れた10年夏、再び米の取引で大勝負に出た。堂島の市場で大々的に買占めを行う。期米の相場は10年8月頃は一石当たり35円前後だった。強気の石井は11限月の受渡を建値45円55銭で566,200石分、代金総額2300万円余を取引所に積み上げた。大阪以外の市場でも米の買占めを展開する。全部で93万石の米を買った。並行して株の買占めも行った。狙いをつけたのは鐘淵紡績の新株である。鐘紡新株の相発行株数は16万株だった。石井は長期清算取引による空買いも含めて21万株も買った。株価は5月まで200円台だったが、石井の買占めで一時は417円まで暴騰した。だが米取引で敗北を喫した。株式受渡資金に窮した。翌日、堂島米穀取引所に対する追証の納入も不可能となる。
石井事件の影響はそれだけではなかった。資金を提供してきた機関銀行の経営破たんを招いた。高知市に本店を置く高知商業銀行だった。臨時休業、高知県下の銀行で取り付け騒ぎが多発した。石井の負債は総額8437万円。銀行からの借り入れは2933万円余。もっとも貸し込んだのは高知商業銀行で850万円、この銀行は総資産が1700万円、総貸出金が1000万円程度だった。問題は石井の借り入れの手口である。石井は架空の借り入れ証書を利用した。まず自分の手形を高知商業銀行に持ち込んで、架空の預金証書をつくらせる。これを他の銀行に提出して融資を受けた。同時に一部をその銀行に預金した。預金が増えるからと言って、銀行はどこでも喜んで話に乗った。銀行の預金獲得競争と貸し出し競争が背景にあったのだ。石井はこれに乗じてあちこちの銀行から次々と融資を引っ張り出した。
女帝・尾上縫
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この事件は69年後1991年に発覚した尾上縫事件とそっくりである。尾上は大阪の料亭の女将だった。その数年前から大阪と東京の株式市場で3000億円の資金を動かす女相場師として知られた。尾上は株取引の資金を東洋信用金庫の架空預金証書によって調達した。東洋信金の支店長と共謀し、総額3500億円に上る架空の預金証書を作らせた。それを使って、日本興業銀行など東西の銀行やノンバンクから4000億円以上の金を引き出した。債券は預金保険機構からの贈与などで穴埋めされた。が、興銀など大口債券者は結局、穴埋めできなかった残りの1200億円の債券を放棄させられた。
機関銀行
日本に初めて銀行業が導入されたのは、明治2年1869年、為替会社の設立が認められたときである。5年に伊藤博文の進言に基づいて国立銀行の制度ができた。10年から11年にかけて国立銀行設立ブームが起こった。だが後の財閥は国立銀行の設立には消極的で独自の普通銀行の新設を目指した。日清戦争後の28-9年頃、起業勃興を背景に銀行新設ブームが起こった。国立銀行の大部分は、30年前後に普通銀行に転換する。企業金融を活発に行った。34年には全国の銀行の数は約2400に上った。うち普通銀行は1867行に達した。ところが33年から34年にかけて金融危機が起こった。その結果、大正2年1913年までに374行が消滅した。日本の銀行界は明治初年の銀行制度スタートの時から構造的な問題を抱えている。それは「機関銀行」という体質だった。機関銀行は、事業家が自分の事業経営に必要な資金を調達するために便宜上、経営する銀行のことである。欧米よりも遅れてスタートした日本の資本主義は最初から資本不足に悩まされた。後の財閥も含めて、事業家たちは事業を興す一方、自分で銀行を持ち、集めた預金を事業資金に回した。機関銀行では同一人物が事業と銀行の両方を経営する。銀行の貸し出しがもう一方の事業に集中するのは当然の成行であった。貸し出しは放漫になる。銀行経営の健全性も歪められる。政府は明治26年、銀行条例を制定して、大口融資の規制と貸付の分散を図ろうとした。だが、銀行側の抵抗にあった頓挫する。機関銀行は温存される。大正バブル崩壊の際も、銀行の破綻が相次いだ背景に、明治以来の機関銀行の問題が横たわっていたのである。
大正時代に入って金融不安が起こるたびに問題になったのが、機関銀行という金融機関の体質である。経営危機が表面化すると預金者の取り付け騒ぎが起こった。それが連鎖的に広がって全国的な金融不安を引き起こした。政府も大正9年、反動不況に遭遇した頃から、預金者の保護を考え始めた。機関銀行の性格を取り除く方向に動き出した。第一に中小銀行の合併を促進させようとした。9年7月銀行条例を改正する。銀行の合併条件を緩和した。その結果9年から11年にかけて、各地で合併が進み、普通銀行が129行、貯蓄銀行の合併も57行に上った。第二に政府は貯蓄銀行の体質改善を図ろうとした。普通銀行は「証券の割引をなし、または為替事業をなし、または諸預り及び貸付を合わせなす」という金融機関である。
それに対して貯蓄銀行は「複利の方法をもって公衆のために預金事業を営む」という特殊性がある。実態を見ると多くの貯蓄銀行は普通銀行と親子の関係にあった。親銀行である普通銀行は機関銀行という役割を担っている。機関銀行たる親銀行は貯蓄銀行が受け入れた預貯金を不健全な貸し出しに投じるという図式が出来上がっていたのだ。10年4月、貯蓄銀行の普通銀行業務の兼営を禁止する。資本金も従来の3万円から50万円以上に引き上げた。組織形態も全て株式会社として、規模の拡大を図った。預貯金お払い戻しの担保として、受入額の3分の1以上に相当する国債を供託させることにした。銀行の債務について各取締役は連帯して弁償の責任を負うと決めた。その結果、貯蓄銀行の経営内容と体質が改善され、金融不安の原因が取り除かれたかというとそうはならなかった。条件が厳しくなったため、多くの弱小貯蓄銀行は規制を逃れるために普通銀行への転換を図ったのだ。貯蓄銀行法が施行された11年1月1日、貯蓄銀行636行、普通銀行1327行、1年後、貯蓄銀行140行、普通銀行1794行。経営内容の悪い貯蓄銀行の経営者は責任を回避しようとして、いっせいに普通銀行への逃げ込みを計った。逃げ込んだ銀行や親銀行は、大正9年の反動不況以後、抱え込んだ不良資産や欠損を隠し続けることに成功した。不良銀行の経営者達は過去の失敗を隠したまま、口を拭って生き延びようとした。こうして銀行が抱える不良債権は先々まで持ち越されていくのである。

金融崩壊―昭和経済恐慌からのメッセージ 金融崩壊―昭和経済恐慌からのメッセージ
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【金融ヤクザのお仕事】
2012.05.24|眞説 光クラブ事件 1/3 ~山崎晃嗣とは
2012.01.25: 野村證券スキャンダルの検証 1/2 ~損失補てん
2011.11.25: 米MFグローバル、破産法適用
2011.10.19: ザ・総会屋
2011.09.07: 投資詐欺 2/3 手法
2011.01.07: イトマン・住銀事件 ~イトマンをめぐる様々な疑惑
2010.10.05: マネー・ロンダリング入門 ~実際に起きた事件
2009.07.17: 秘史「乗っ取り屋」暗黒の経済戦争
2008.08.18: 8868 スワップ契約についての考察
2008.01.28: ソシエテ・ジェネラルの大損





金融崩壊 昭和経済恐慌からのメッセージ 1/4~1910年大戦景気

高橋是清の死から62年が過ぎた。日本は戦争、敗戦、復興、高度成長と激動を経て経済大国に生まれ変わった。だが、昭和時代の末期、大型バブルに遭遇する。平成2年1990年からバブルの崩壊が始まった。バブル崩壊が始まって7年が経過し、ついに大型金融倒産が発生した。都市銀行の一角を占める北海道拓殖銀行と証券大手四社の山一證券が一週間の間に相次いで倒れた。拓銀は預金量が7兆1千億円余、店舗数が202、従業員は5500人に上った。都銀最下位とはいえ、「マネー・センター・バンクス20行」の経営破綻は戦後初めてである。大手金融機関は戦後「護送船団方式」という大蔵省の厚い保護行政に守られて、長い間破綻はありえないと信じられてきた。ところが「不倒神話」はあっけなく崩れた。大蔵省は「都銀、長期信用銀行、信託銀行の大手20行は潰さない」と何度も公言してきた。三塚蔵相は「公約破綻」については言葉を濁して答えなかった。
行平次雄 1955年 一橋大学法学部卒業
三木淳夫 1960年 東京大学法学部卒業
野澤正平 1964年 法政大学経済学部
東大卒社長じゃなくなった瞬間に、3ヶ月で倒産した。用意された社長であったわけだが、山一きっての凄腕営業マンだったんだろうねぇ・・・頭を下げることを知らないエリート社長じゃ、この会見は無理よのぅ。
8:00辺りから野沢社長の営業マンっぷりが神がかってくる。So Cool!

2つのバブル
バブルの膨張から崩壊を経て金融危機へ、日本人は1910年代後半から現代に至る80年のあいだに、二度同じ出来事を体験した。最近の10年間と大将から昭和初期の10年を比べると、2つの時代はいくつかの点で軌を一にしているところがある。問題はその後だ、70年前は昭和2年(1927年)の金融恐慌に対して政府は3週間のモラトリアムと日本銀行による無制限特別融資などの緊急措置を講じた。ひとまず恐慌を収めて危機を乗り切った。だが、バブル後遺症に端発する日本経済の病巣は取り除かれたわけではなかった。危機はさらに続いた。
4年7月に成立した浜口雄幸内閣は、超緊縮・行政改革断行・金解禁実施などを柱とする「十大政綱」を掲げた。徹底したデフレ政策で危機突破を目指した。だが浜口デフレ路線は、対象バブルの崩壊以来長く続く長期不況を更に悪化させた。運悪く暗黒の木曜日に端を発する世界恐慌も重なった。昭和恐慌が襲来する。
大戦景気 第一次世界大戦
日本の参戦についてはほとんどの閣僚が賛成した。国威の発揚と中国における権益拡大のチャンスと見た。経済の疲弊と財政の困窮を考えるととても戦争に参加できる状態ではないと若槻蔵相は判断した。「たとえ戦局が拡大してもドイツの海軍が日本に攻めてきたり、それに屈服するといったことは無い。莫大な戦費を要することにはならないだろう。」 8月23日、日本はドイツに宣戦布告した。産業界で大戦勃発によってもっとも大きな影響を受けたのは繊維である。この時代の日本の主力産業だった。綿糸布や生糸、絹織物の輸出は激減した。糸の価格が暴落する。大阪の綿糸先物取引は回線の6日後の8初3日から6日間、市場ストップに追い込まれた。横浜の生糸先物取引も4日から14日まで休止を余儀なくされた。大阪の北浜銀行は8月19日支払い停止となった。
この時代、大蔵省の建物は霞ヶ関ではなく、大手町にあった。大戦が始まってから毎日要に大蔵省の次官室に顔を出す男がいた。横浜正金銀行頭取の井上準之助である。「戦況はどうですか。日本の財政・金融政策にどう影響しますか。生糸や綿糸の産業の実態は」 浜口に詳しく尋ねる。井上は欧米の金融や貿易の動向に関する最新情報を入手している。大隅首相は経費節減、国民負担軽減、公債募集の中止、正貨維持、輸出促進などの方針を掲げた。ところが正面から異を唱える人物がいた。野党の政友会で屈指の経済通と評判の高い高橋是清である
高橋は最初、農商務省に勤務した。が、明治22年、辞めて南米のペルーに渡る。銀山経営に従事した。帰国後、日銀に入った。一度、横浜正金銀行副頭取となる。44年に日銀総裁に就任した。第二次大隅内閣の一つ前の山本権兵衛内閣では蔵相を勤めた。大隅内閣の誕生によって野に下った。「若槻・浜口ライン」の経済・財政政策を手厳しく批判した。高橋は大隅内閣が経済危機に対して緊縮・消極政策で臨んでいる点を問題にした。国の産業経済を発展させるために、財政政策は積極的に活用されるものだというのが高橋の持論である。大戦の勃発という好機を捉えて、積極的な手段を講じれば日本の貿易は飛躍的に増大すると高橋は訴えた。開戦によって経済が好転したことは疑いなかった。が、戦争が始まってしばらくの間、これが数年にわたる代景気につながると予想した人はほとんどいなかった。何よりも戦争の規模に対する見方が甘かった。実際は交戦国が国力を使い果たすまで戦うという総力戦となった。が、日本では過去の例に比べて桁違いに大きい戦争になるという認識がなかった。ところがエネルギーと物資の消耗は予想をはるかに上回った。世界的な物資不足が起こる。物価は各国とも高騰した。日本は戦場となっていない。貿易上、極めて有利な立場に立った。
【市場概観】
2011.01.25|政治と株価 総理就任期間と株価の相対パフォーマンス
2010.09.21: 株メール Q8.レバレッジの効用と弊害
2010.05.12: 中国株先物が取引が開始
2010.03.30: 日経平均配当指数 そもそも日経平均が変な指数
2009.12.14: HとAどっち?
2008.10.15: 製造業至上主義的産業構造分析
2008.07.17: 車業界勢力図
2008.06.19: 原油先物の取引高
2008.01.14: またも出た 異なる時価総額ランキング
2007.12.29: 時価総額の計算方法
2007.12.21: 小型株は一部割安感有り
2007.11.30: 中国株はチキンレース


カッシーノ2

本書はなかなか値打物である。なにしろ働き盛りの50オヤジが、世界中のカジノを渡り歩いて散在するのである。非常識である。不見識である。無定見である。しかもその非常識不見識無定見さかげんは、シリーズ前作「カッシーノ! ヨーロッパ編」のページを繰ってみれば一目瞭然で、すなわち膨大な量のカラー写真入り製本に、たった1600円という法外な安値をつけて売っちまったのであった。はっきり言ってこれほどコストのかかった書物はない。豪華な装丁ばかりではなく取材費用とカジノの負けまで考えれば、タダ同然だった。
書き手と読み手の意識の差かな。この本、1日で読みきってしまいました。付箋の数も少ないし。出版の都合はわかりませんが、割安なのかなー?
カイロのカジノはすべて米ドルを使用しなければならない。当然の如く、キャッシャーで手持ちのエジプトポンドをドルに両替しようとしたのだが、これができない。ホテルに備え付けのATMも払い出しはエジプトポンドで、フロントでも米ドルへの換金は受け付けてくれなかった。テーブルにつく前に勝負に負けたようなものであった。考えてみれば、私は今までアメリカやヨーロッパのカジノばかりを巡っており、外貨獲得手段となっている開発途上国のカジノをほとんど知らない。すなわちギャンブルでやりとりする以外には米ドルを放出しないのが彼らのポリシーなのだ。
行きはよいよい、帰りは怖い。退路を断つとはまさにこのこと。
宵の口のディーラーは甘い。ギャンブルに満腹は禁物である。少なくとも彼らは胃袋に詰め込まれた一日分の食い物が消化されると午後8時くらいまで、ブラックジャックのテーブルではやたら親がバーストする。
浅田さん、ブラックジャック知らないのかな? と思われちゃいますよねぇ。この文章。ブラックジャックのディーラーは機械の如く、やり方決まってるのですが、”Dealer must stand soft 17.”とか読んでないのかしら? 満腹かどうかで裁量変わるとしたら、イカサマかミスオペレーションのどちらかということになりますw
Wynn氏のお話
ホテルのデザインですが、今までのホテルのように、通りに面したところにショーがあり、ホテルの正面に劇場があり、というものではありません。ホテルの周りは大きな山で囲まれ、外からは中が少ししか見えないようになっています。歩道を歩いている人が楽しむための仕掛けはないのです。ただ、何もないというのではなく、レストランが入っているクラブハウスの前には山と滝があり、山の色が変わったり雲が出てきたり。プロジェクターを使って水の中化からいろんなものが出てくる仕掛けになっています。ベラッジオは外を歩いている人のためのものですが、このホテルでは、全てのものがホテルの中にいる人のために作られています。これがベラッジオの次のステップになるんです。ベラッジオの経験がなければこのホテルを作り上げることはできなかったでしょう。
確かにそうだ。ベラージオの噴水ショーは部屋から見るより外から見たほうが絶景だ。
http://www.ichizoku.net/2009/06/bellagio-con-te-partiro.html
Wynn氏の言うことはもっともだが、時代を先取りしすぎていた気がする。ベガスは所詮観光客なんだから、見せかけ重視で良いのではないかなぁ・・・。

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【Casino・カジノ】
2012.06.20|シンガポール、政府援助を受ける低所得者のカジノ入場を禁止
2012.05.14|シンガポール:日本人男性のカジノ顧客がS$200万ドル負ける
2010.06.03: Marina Bay Sandsに行ってきました
2010.05.07: 二代目、カジノに新風狙う マカオ ローレンス・ホー
2010.03.25: カンボジア Phnom penhは安全地帯
2010.03.11: 遅ればせながらカジノに行ってきました 
2010.01.13: マカオ将来像 中国に戸惑い
2009.06.25: Bellagio ~Con Te Partiro
2008.11.12: お願い つぶれないでSANDS
2008.11.04: Macau入境規制の理由の推測
2008.10.31: Craps@MGM
2008.07.25: Casino業界懐事情
2008.06.10: ドイツのCasino
2008.01.12: Macau for Family ~香港に住む男のための同伴者と行くマカオツアー


世界地図の謎

地図の歴史は文字の歴史より古いと言われるように、まだ文字のなかった先史時代から地図は存在した。最古の地図としてよく紹介されるのは北イタリア、アルプス山麓カモニカ渓谷の岩壁に描かれた紀元前1500年ごの地図。これは青銅器時代の住民の村落と耕地をあらわしたものと推定され、道路や感慨水路、家屋や畑、家畜などが描かれている。それ以前に作られたのではないかと見られているのがバビロニアの地図である。粘土板に2つの山、水路、集落が描かれていて、楔形文字で「アザラの耕地」と記されている。
間違いの多い地図を作っているタイの不思議
タイの首都バンコク市内には細い路地が非常に多い。そのうえカギ型に曲がっているような道路が多数あり、ちょっとした迷路のようでもある。こんな土地を歩くには地図が不可欠と思いきや、地図を持っていてもたいして役に立たない。なぜならタイ政府が作成した地図ではこれらの道路が省略され、真っ直ぐでない道路も直線として描かれているからだ。態で作られた地図よりも日本のガイドブックに載っている地図の方が正確だとすら言われている。だが、この正確性を欠く地図は実は間違いではない。実地と異なる地図をあえて作っているのだ。タイの地図作成機関は軍隊である。彼らが間違った地図を作る意図とは正確な情報を敵に知られないようにするためである。つまり「地図自体が国家機密」という認識なのだ。世界的にみるとこういったことは決して珍しいことではない。旧ソ連では、詳細な大・中縮尺地図は国家機密とされてきた。中国では今でも詳細な地図は国家機密扱いだ。
イスラム教国のなかに取り残されたキリスト教国ナゴルノ・カラバフ
イタリアの中にあるバチカン市国やサンマリノ公国、フランスの中にあるモナコ公国など、世界には自分の領土を他国に取り囲まれている国や地域が存在する。カフカス地方にあるナゴルノ・カラバフ自治州もそんな場所の一つだがアゼルバイジャンに取り囲まれたナゴルノ・カラバフが置かれている状況はバチカンやサンマリノとはまるで異なる。7割以上の住民がアルメニア人のキリスト教徒なのに対してアゼルバイジャン人はイスラム教徒。民族的にも宗教的にも隣国アルメニアの飛び地のような状態で、アルメニア人とアゼルバイジャン人との民族紛争の原因になっている。本来は二国間における領土の帰属問題だが、この問題をかき回してきたのはロシアだった。
ここがロシア!? 飛び地カリーニングラード
バルト海に面した面積15,100平方キロ人口約97万人のカリーニングラード州、カリーニングラードが飛び地になったのは1991年のこと。ソ連の崩壊にともない、バルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)が独立したためだ。ロシアにとってカリーニングラードの持つ意味はその面積のように小さくない。ロシアは世界で一番長い海岸線を持っているが、その大半は1年中凍ったままの北極海。冬でも外洋に出られるバルト海は軍事的にも商業的にも重要な位置を占めている。カリーニングラードの住民はポーランドとリトアニアにビザなしで訪問することが可能だったが、2004年に両国がEUに加盟したことで、それができなくなってしまった。
衝撃!! キムチの本場・韓国が中国産キムチを輸入している事実
キムチは家庭で作るのが常識であり、店で購入することは主婦の恥とされている。最近は家庭で作らずに店で購入する人が増えてきたというのだ。しかも市販のキムチには中国産のもの(5%)が含まれている。
兵馬俑の武士たちは全員同じ方向を向いている。東にこだわる始皇帝。西安市から東へ35キロほど行った所に秦の始皇帝陵がある。地下には水銀を注いだ川が流れ、総数8000体とも言われる等身大の兵士が置かれている。兵士の顔は一人一人違い、実際の人間をモデルにしたのではないかといわれるほどリアルである。兵士たちの向きはみな東。道教方士の徐福は東海に不老不死の薬があると始皇帝に吹き込んだ。東にあると伝えられる不老不死の薬を待ち続けていたのかもしれない。しかしながら秦はもともと中国西部に興り、そこから東方に領土を広げていったということから、国の発展を祝したものだという説もある。
白夜を見るのに絶好のポイントは、ノルウェーのノールカップ。ノルウェーの北の果て、マーゲロイ島の北に突き出た岬の一つで、ヨーロッパ最北端の地としても知られている。ノールカップは一面を海に囲まれているため。断崖絶壁になっている港の突端に立てば眼下は北極海の大海原が広がる。5月から7月は、夕日がそのまま朝日へと変わる神秘的な光景を見ることができる
国連加盟国は192カ国、1945年の発足当時は51カ国しかなかったがアジア、アフリカ諸国の独立が盛んになると1960年ごろには100か国に達し、現在では192か国になっている。
トルコ石はトルコでは採れない。原産地はイラン北東部。かつトルコが東洋と西洋の貿易の中心地だったので、イランやシナイ半島で採れた意思はトルコを経由してヨーロッパへ輸出されることになった。トルコから来た石でトルコ石になったという。
国というのは領土を持ってはじめて成立するもののように思えるが、世界には領土を持たない国がある。「エルサレム・ロードス・マルタの聖ヨハネ病院独立騎士修道会」、通称「マルタの騎士団国」である。拠点はローマにある宮殿とビル一棟だけ。土地自体はイタリアのものなので領土とはいえない。その面積も12,000平方メートル程度。ただし、敷地内の外交特権は認められていて、独自の切手や金貨、パスポートを発行している。しかも世界93か国と外交があり、オブザーバーとして国連も参加している。起源は十字軍遠征、エルサレム付近に宿舎や病院を建て、巡礼ルートの警備を行っていた。ローマ法王から騎士団として公認され各地で戦った。十字軍の奮戦もむなしくエルサレムはイスラム教徒に奪回されてしまうが地中海のキプロス島に逃れ、やがてロードス島に移った。15世紀ごろ、オスマン・トルコが勢力を拡大してくるとロードス島も終われ、彼らと手を結んだのがスペイン国王カルロス1世で、騎士団にマルタ島を与える代わりに島の警護をさせたのである。ところが幸福な時間は長くは続かない。ナポレオンの軍勢によってマルタ島を追われ領土を失ってしまったのである。
自由の国といえばアメリカ合衆国の代名詞のようにつかられているが、アメリカが目指す自由の国の理想を体現したのが西アフリカのリベリア共和国だ。リベリアとは英語で自由を意味するリバティにちなんだもの。リベリアは1847年に独立を果たし、アフリカ最初の黒人共和国となった。アメリカで奴隷が解放されたのが1863年のことだから、これはきわめて早いといえるだろう。ジョージワシントンの甥バシュロッドによって設立された奴隷解放協会がアフリカの土地を購入し、その地へアフリカ人を移住させ援助した。するとアメリカ帰りの黒人たちによる街がいくつもでき、それらの街が大きくなってリベリアという国家が生まれたのである。リベリアの首都をモロンビアというが、リベリア建国の際に援助を惜しまなかったアメリカのモンロー大統領に由来する。

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【国家主権系関連記事】
2012.07.12|ウォールストリートの歴史 7/8 ~コングロマリット
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2010.02.12: ロシアの軍需産業 ~戦争経済・軍事費
2009.12.22: 金融vs国家 ~金融史の観点から歴史を読む
2008.10.01: オレはオレの国を手に入れる








タリバン 2/2 ~麻薬と密輸

レイク・グプタ博士の下でユニセフが行った調査で、ほとんどの子供たちが極度の暴力行為を目撃し、生き残れるとは思っていないことがわかった。インタビューした子供たちの2/3が、ロケット弾で人が殺されるのや、散乱した死体あるいは人体の一部を見ていた。子供たちの70%以上が家族のメンバーを失い、もはや大人を信じていなかった。少年兵の最低年齢制限を15歳から18歳に引き揚げようとする98年の重要な国際的努力は、米国、パキスタン、イランそしてアフガニスタンの抵抗にぶつかった。99年、アムネスティ・インターナショナルは、全世界で18歳以下の少年30万人以上が兵士になっていると報告している。
写真で見るのが一番早い。こういうのを”貧困”というのだ。日本は世界中からお金持ちと思われているし、こんな目をした少女は一人も居ない!
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麻薬とタリバンの経済 見渡す限りのケシ畑
カンダハルの中心部から3キロ半も行くと、そこはもう見渡す限りケシ畑が広がっている。1997年の春、農民達は数週間前に植えたレタスのような若く緑色の葉っぱをつけた作物を注意イブ書く世話していた。数週間すると葉っぱから真紅の花が咲きたつ。ケシの実が採れるのは種をまいてから4ヵ月後である。ケシの実の皮膜に手製の薄いカミソリの刃を突き刺すと液状のゴールドがにじみ出る。農民は一粒一粒ケシの実を指で押さえて傷をつけ、白いミルク状のねばねばした中身をしみ出させる。この中身がアヘンである。アヘンは一日たつと褐色のガムのようにかたまり、これをこてでこそぎ取る。ワリ・ジャンは、広くもない畑で毎年、45キロの生アヘンをつくり、ざっと1300ドルを稼いでいる。ワリ・ジャンは精製されたヘロインがニューヨークやロンドンで50倍もの高値をつけていることを知っている
92年から95年にかけて、アフガニスタンは毎年2200トンから2400トンの生アヘンを生産し、世界一のアヘン生産国の座をビルマと争っていた。96年には2250トンを生産した。国連麻薬取り締まり計画(UNDCP)の当局者によると、96年にはカンダハル州だけで3160ヘクタールのケシ畑で120トンを生産した。UNDCPによるとアヘン取引の稼ぎ全体のうちケシ栽培農民の手に渡るのは1%以下。2.5%がアフガン人やパキスタン人の仲買人の取り分で5%は西側に運ばれるまでの経由国に入る。残りの全てはヨーロッパやアメリカの取引業者や密売人の手に入るだ。
タリバンはアヘン栽培地を拡大しただけではない。輸送ルートを大幅に拡大したのである。1ヶ月に数回の割合で、アフガン・アヘンの50%が生産されるヘルマンド州から、重武装した小型トラックのコンボイが旅に出発する。一部は南に下り、バルチスタンの砂漠を越えて、パキスタンのまくらん海岸に抜ける。別のコンボイは西に向かってイランに入り、テヘランを迂回してトルコ東部に抜ける。さらに別のコンボイは北西部ヘラートからトルクメニスタンに向かう。また密輸業者は97年ごろまでに空輸ルートを開設。カンダハルやジャララバードから輸送機で直接海岸のアブダビやシャルジャなどの港にアヘンを運ぶようになった。中央アジアは、アフガン産ヘロインの爆発的拡大にもっとも強い影響を受けた。ソ連のアフガニスタン占領時代にネットワークを広げたロシア・マフィアは、このネットワークを使って、アフガン・ヘロインを中央アジア、ロシア、バルト諸国経由でヨーロッパに密輸している。タジキスタンとキルギスはこの密輸ルートの重要な部分を占めるようになっただけでなく、自らも主要なアヘン生産国になった
世界のジハード アラブ・アフガンとウサマ・ビン・ラディン
ビン・ラディンは1957年ごろイエメン人の父親がつくった57人の子供の17番目に生まれた。ジッダのキング・アブドル・アジズ大学で経営学の修士課程に学んだが、やがてイスラム神学に転じた。82年にペシャワルに住み着く決心をし、自分の建設会社の技術者や銃器をペシャワルに運び、ムジャヒディンのための道路や武器置き場を建設した。86年には、CIAの金でパキスタン国境近くの山中深くに、大規模な武器倉庫、軍事訓練場、医療センターなどひとまとめにした一大地下施設「ホスト・トンネル」を建設する工事を助けた。このホストにビン・ラディンは初めて自前の軍事訓練キャンプを設けた。
冷戦の終結後、アフガニスタン、パキスタン、イラン、中央アジアにまたがる地域に対する米国の政策は矮小化した。この地域に対する戦略的枠組みが欠如しているためである。米国ははこの地域に起きる出来事に対して一貫した戦略ビジョンを適用するというより、その都度、一回限りの偶発的対応を示した。米国のタリバンに対する政策には、はっきり区別できる数段階がある。いずれもその時の国内政治に引きずられるか、即効的な解決を求めるもので、長期的な戦略に基づくものではない。米国は94年から96年にかけて、同盟国のパキスタンとサウジアラビアを通じてタリバンを政治的に支援した。基本的には米国がタリバンを反イラン、反シーア派、親西側とみなしたからである。米国はこの時、タリバンがイスラム原理主義としての目標を持っていることや、女性に対して抑圧的であることを都合よく無視した。95年から97年にかけて、米国はいっそうタリバン支援に引っ張られた。ユノカル・プロジェクトを支援したためである。97年後半から今日に至る米国のタリバン政策の転換は、まず米国フェミニストによるタリバン反対の運動から引き起こされた。大統領とクリントン夫人は96年の選挙で女性票に大きく支えられ、モニカ・ルインスキ事件でも女性達から支持された。二人はリベラルなアメリカ女性たちを当惑させることはできなかったのである。米国がタリバンに甘いと見られることは許されない環境であった。98年から99年にかけて、タリバンがビン・ラディンを支援したこと、ユノカル・プロジェクトを承認しなかったこと、アフガン反対陣営やイランに誕生した穏健派政府との妥協を拒否したことなど、米国がタリバンに厳しく当たる新しい口実が増えた。99年にはビン・ラディン逮捕が米政府の第一目標になった。
世界最大の密輸ビジネス
パキスタン政府派国際的に広がった非難の嵐の中でタリバンを弁護し続けるうちに、自国がどれだけの損失を下か見えなくなった。アフガニスタンを出入りする蜜貿易こそ、パキスタンの損失を何よりも残酷に示している。「アフガン・トランジット貿易」(ATT)の実態は世界最大の密輸商売であり、タリバンとパキスタンの密輸業者だけでなく運輸業者、麻薬貴族、官僚、政治家、警察官、将校までが加担している。この密貿易がタリバンの主財源だが、同時に近隣諸国の経済を破壊し続ける元凶である。パキスタンはこの密貿易により、パキスタン中央歳入庁の推定によると92年~93年に関税収入35億ルピー、93-94年110億ルピー、94-95年200億ルピー、97-98年300億ルピー(6億ドル)を失った。数字が年々膨張しているのはタリバンの拡張を示している。

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タリバン 1/2 ~アフガンをめぐって

タリバンを構成するのは、2000万のアフガニスタン人口の約40%を占めるパシュトゥン人。パシュトゥン人は、かつて300年にわたりアフガニスタンを支配したが、最近は他の少数民族によって、その地位を失っていた。タリバンの勝利は、パシュトゥン民族主義を刺激し、再びアフガニスタンを支配する望みを、パシュトゥン人に甦らせた。
パシュトゥン人のルーツ
西のペルシャ・サファビ朝、インドのムガール朝、ウズベク王朝がいずれも傾いた18世紀の歴史的混乱期に、アフガニスタンで近代国家を創ろうとしたのが南部のパシュトゥン人だった。パシュトゥンの諸部族は、大きくギルザイ、アブダリの2つに分かれており、しばしば、対抗していた。パシュトゥン人は、その血統を預言者ムハンマドの友のクァイスに遡るとしている。人類学者たちは、パシュトゥンは、インド・ヨーロッパ人種だとしているが、かれら自身はセム人種で、何世紀もの間に数多くの民族を同化してきたと考えている。
6世紀の中国とインドの文献は、ガンジス川の東に住んでいるアフガン人またはパシュトゥン人について述べている。これらの部族は15世紀から西方のカンダハル、カブール、ヘラートの方へ移動を始めた。次の世紀にはギルザイとドゥラニは、カンダハルをめぐる土地争いで戦闘している。今日、ギルザイの本拠地はカブール川の南側のカンダハルまでで、東部はサフェドコーとスレマン山脈の間、西部はハザラジャートまでである。1709年、カンダハルのギルザイ・パシュトゥンのホタキ族長、ミル・ワイスが、サファビ朝の社シャー(王)に反乱を起こした。反乱の一因は、シャーが、熱心なスンニ派だったホタキ族をシーア派に改宗させようとしたことだった。歴史的な憎悪の感情は三世紀後、イラン、アフガニスタンのシーア派に対するタリバンの敵意になってよみがえった。数年後、ミル・ワイスの息子がサファビ朝を倒し、イランを征服した。しかしアフガン人たちは1729年、イランから追い出された。アハマド・シャーはすべてのパシュトゥン人部族をまとめ、相次いで遠征し、まもなく現在のパキスタンの大半を支配するようになった。1761年までにアハマド・シャー・ドゥラニはヒンズー・マハラッタを破り、デリーの王座とカシミールを手中にして、最初のアフガン帝国を築いた
英・ロのグレートゲーム
弱体化し動揺するドゥラニの王は、東の英国、北のロシアという二つの帝国の圧力に抵抗しなければならなくなった。19世紀、英国は中央アジアへのロシア帝国の膨張が、インド英帝国に対抗してアフガニスタンに進出するかもしれない、と警戒した。英国は三度、アフガニスタンを征服しようと試みたが、結局、失敗、アフガン人とは戦うよりも、別なやり方がはるかによいということを理解した。英国は現金で補助金を与えると提案、アフガニスタンを保護国にするため部族長たちに工作した。それに続いたのはロシア帝国と英帝国の間の覇権争い『グレートゲーム』で、知恵と賄賂の秘密戦争と、時たまの軍事行動だった。両国はアフガニスタンを緩衝地帯として維持するために両軍を適当な距離、引き離すようになった。
パシュトゥン人の勢力は、英国がインド北西部を支配したため、さらに弱まった。パシュトゥンの諸部族がインドとアフガニスタンに分離させられたからである。パシュトゥン人の分離は1893年に英国が引いたデュランド・ラインによって確定した。第二次アフガン戦争の後、英国はアミール・アブドル・ラーマンの王位主張を支持した。「鉄のアミール」と呼ばれた国王(在位1880~1901)は英国の補助金と武器供与を投じて、効率的な行政組織と強力な軍隊を作った。彼はパシュトゥン人の中の敵性部族を従え、ハザラ人、ウズベク人の自治を容赦なくつぶすため北へ進軍した。1世紀後にタリバンがそっくり同じように行動した。
「鉄のアミール」の後継者たちは、おおむね近代化指向で、1919年に英国からの完全独立を達成、最初の憲法を制定し、都会的教育を受けた少数のエリートを育て始めた。ザヒル・シャー国王は1933年以来、国を統治してきたが、いとこで義兄弟のサルダル・モハメド・ダウド元首相の無血クーデターで、ローマへの亡命に送り出された。アフガニスタンは73年、共和国を宣言し、ダウドは大統領になった。ダウドは国家近代化のためのため援助を求めてソ連に接近した。アフガニスタンは国家収入の40%を外国に依存する怠け者国家になっていた。1978年、軍内部のマルクス主義シンパたちが、ダウド政権を倒し、ダウドと家族たち、そして大統領の護衛たちは全員殺された。アフガン・ムジャヒディンは、米国が支援する反ソ突撃隊になろうとしていた。ジハードは米国、中国、アラブ諸国が資金と武器をムジャヒディンに注ぎ込んだためにいっそう勢いをつけた。この戦争でアフガン人150万人が死亡したと言われ1989年にソ連軍がアフガニスタンから撤退して終わった
1989年、ソ連軍が撤退したが、ナジブラ大統領の政権との長い戦いが続く。1992年、政権が打倒され、ムジャヒディンがカブールを占領したときである。カブールを占領したのは、ブルハヌディン・ラバニとかれの軍事司令官アハマド・シャー・マスードが率いるしっかり組織されたタジク人勢力とラシッド・ドスタム将軍の北部のウズベク人部隊だった。タリバンが出現した1994年アフガニスタンはバラバラな状態になっていた。
Afgan-Map.jpg
パキスタンはタリバンに加わって反カブール同盟を結成するよう、工作を始めた。ISIは、ヘクマティアル、ドスタム、ジャララバード評議会のパシュトゥン指導者たち、さらにハザラ人政党のイスラム統一党の幹部をイスラマバードに呼び集め、タリバンとの同盟を説得しようとした。反カブール統一戦線の結成に失敗したことは、ラバニをいっそう力づけた。
アフガン人の90%はスンニ派で、スンニ四学派の中ではもっともリベラルなハナフィ学派に属している。イスラム・シーア派はハザラジャートのハザラ人の間では支配的で、極少数のパシュトゥン部族、少数のタジク氏族、そして一部のヘラート住民も同派に属している。アガ・カーンを崇拝するイスマイリ族はシーア派の分派である。スンニ・ハナフィ学派の信条は、本質的に非階層的、非集権的であり、20世紀の支配者たちが、その強く中央集権的な国家システムに宗教指導者たちを組入れることは困難だった。
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私のギリシャ神話

浅いな・・・この本。絵が好きな人は良いかもしれないが、オタク度に欠ける。
バルカン半島は山がちで平野が少ない。広い荒野を駆け巡って大きな統一国家を作るには適さない。ポリスと呼ばれる小さな都市国家が隔離に散って勢力をきそっていたのは一つにはこういう地形と関わっていただろう。アテネ、スパルタ、ミケーネ、テーベ、コリントス、今日風に言えば都市と呼んでよいような集合体が一応国家の体をなして機能していた。こうした多くの都市国家が「同じヘラスの民ではないか」と・・・つまり同じ民族であることを強調して集まった時、それがギリシャと呼ばれる国家となる。歴史的にはギリシャ人は自らのことをヘラスあるいはヘレネスと呼び、この傾向は現代でも十分に残っている。早い話、国名だってヘレネ共和国とでも訳すべき形が正式名である。
ギリシャ共和国(ギリシャきょうわこく、ギリシャ語: Ελληνική Δημοκρατία, 英語: Hellenic Republic)
本当だ・・・それっぽい。
地図くらい載せておくか…
Greek-Map.jpg

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阿刀田 高

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マキアヴェッリと君主論4/4 ~君主と臣民

第14章 軍事に関する君主の義務について
君主は戦争と軍事組織、軍事訓練以外に目的を持ったり、これら以外の事柄に考慮を払ったり、なにか他の事柄を自らの業としてはならない。それというのもこれのみが支配する人間に望ましい業であるからである。この能力はきわめて重要であって、それは生まれながらの君主にその地位を保たせるのみならず、多くの場合私人から君主の地位に上るのを可能にする。反対に君主が軍隊のことよりも優雅な事柄に気持ちを注ぐ時、彼らがその地位を失うことは明らかである。
 君主は戦争の訓練を決して念頭から離してはならず、戦時よりも平時において訓練しなければならない。この訓練に二つの方法があり、一方は行動を伴い、他方は精神に関わるものである。前者に関してみると、軍隊をよく組織して訓練するほか、常に狩猟を行って身体の労苦に慣れさせなければならない。またこれによってその地方の地形を知り、山がどのように起伏し、谷がどのような形を取り、平原がどのように横たわっているかを認識し、側や沼の性格を理解しなければならず、君主はこれらの事柄に非常な注意を注がなければならない。心の訓練についてみるに、君主は歴史を読み、その中で偉人達の行動を考察しなければならず、戦争において彼らがどのように行動したかを知り、勝因と敗因とを検討してそれを模倣したり回避したりできなければならない。例えばアレクサンドロスはアキレウスを、カエサルはアレクサンドロスを、スキピオはキュロスをそれぞれ模倣した。懸命な君主はこのような生活態度を守り、平時にあっても決して安逸に流れることなく努力を傾けて肝要な事柄を実行し、逆境にあってもそれを活用できるようにすべきである。このようにしてこそ運命が変転した時にも、それに抵抗する準備が整うことになっている。
>日本の総理大臣も、年金と消費税の問題から開放して、外交と国防問題だけに集中させてあげたらどうですか? 気の毒にねぇ、内政大臣じゃねぇっちゅーの。
>君主政でない国家であっても、企業経営者というのは企業内では君主的な役割が強いから、身につまされるお小言に聞こえます。
多くの人々は実際見えもしないし、知覚されもしない共和国や君主政を頭に描いている。しかしながらどのように生きているかということと、どのように生きるべきかということとは非常にかけ離れているので、なされるべき事柄を省みない人は自らの存続より破滅を招くことを学んでいるようなものである。なぜならば自らの職業活動すべてにおいて良きことを実行しようとする人は、良からぬ人々の間にあって破滅することになるからである。
>これ、ここだけ読むと何を言ってるかわからない文章ですが、次の事例を一般に抽象化したモノ言いです。
第16章 気前良さとけちについて
私見によれば、気前が良いと見られるのは好ましいであろうが、しかしながら気前の良さが人々の考えられるようなし方で実行に移されると有害である。なぜならば適切かつ望ましいような形で気前良さを発揮する場合、その気前良さは人々の気づくところとはならず、かえって反対の汚名を免れることができないからである。それゆえ人々の間で気前が良いという評判を維持しようとするならば、豪奢に類する行為を避けるわけにはいかなくなる。かくしてこのような君主は、豪奢に類する事柄に常に全ての資産を使い果たすことになる。そして気前が良いという評判を維持しようとするならば最後に民衆を甚だしく抑圧し、重税を課し、金を得るためにはあらゆることを行うことにならざるを得ない。その結果臣民は彼を憎悪し始め、貧しくなった彼に何人も尊敬を払わなくなる。そのような君主はこの気前の良さのために多くの人々を損なって少数のものに利益を与え、その結果早々にあらゆる困難に見舞われ、何かの危険に出会うとたちまち窮状に陥ることになる。彼がこのような事情を認識し、従来の行動様式を改めようとする場合、直ちにけちという悪評が生ずることになる。
 それゆえ君主は害を蒙らずに、しかも人々に明らかであるような形で気前良さという美徳を示すことができない。したがって懸命な君主はけちであるという評判を気にすべきではない。節約によって歳入が増加すると外敵から防衛も可能となり、民衆に重税を課することなく事を起こすことができるようになり、時が経つにつれて気前が良いという評判を必ずとるようになると考えられるからである。
>これ、送って読んで欲しい女性がいますね。「君主たるもの、汝、臣民の評判を気にして、豪奢に類する行為を続けるわけには行かないのだ」
>「君主論 16章読めよ」って言って「なるほどね」と言える女性が居る家はおそらく、君主制の家庭ではなく、”連帯責任をきっちり奥さんも問われる共和制”と思われますが。
第17章 残酷さと慈悲深さとについて、敬愛されるのと恐れられるのとではどちらがよいか
私見によれば、各君主は慈悲深く、残酷ではないという評判をとるよう望むべきではあるが、しかしこの慈悲深さを誤用しないように注意しなければならない。チェーザレ・ボルジアは残酷と考えられていたが、彼の残酷さのおかげでロマーニャを回復し、統一し、平和を実現し、自らに忠実な存在たらしめた。残酷だという評判を恐れてピストイアを破壊のままに委ねておいたフィレンツェ人とりも彼の方が慈悲深いことになる。全ての君主の中でも新しく君主になったものは、新しい権力には多くの危険が伴うため、残酷であるという評判を免れるのは不可能である。君主は容易に他人を信じたり動揺したりせず、自らの影におびえてはならない。そして思慮と慈悲心によって自らの行動を抑制するようにし、あまりに他人を信用して不用心になったり、あまりにも他人に不信感を懐いて他人にとって耐え難いような存在になったりしないようにすべきである。
恐れられるよりも愛されるほうが良いか、あるいは反対であるか。両者を得ることは難しく、両者のうちどちらかが欠けざるをえない場合には、愛されるよりも恐れられる方がより安全である。それというのも人間に関しては一般的に次のように言いうるかれである。人間は恩知らずで気が変わりやすく、偽善的で自らを偽り、臆病で貪欲である。君主が彼らに対して恩恵を施している限り彼らは君主のものであり、生命、財産、血、子供を君主に対して提供する。しかしこれは必要が差し迫っていない場合のことである、必要が切迫すると彼らは裏切る。人間は恐れている者よりも愛している者を害するのに躊躇しない。なぜならば好意は義務の鎖でつながれているが、人間は生来邪悪であるからいつでも自己の利益に従ってこの鎖を破壊するのに対して、恐怖は君主と常に一体不可分である処罰の恐怖によって維持されているからである。
>いや、ますます、企業という社会構成体よりも、家庭に当てはめたほうが有効な気がしてきたw。
君主は仮に好意を得ることがないとしても、憎悪を避けるような形で恐れられなければならない。恐れられることと憎まれないこととは、恐れられることと愛されることよりも容易に両立しうる。このことは君主が市民や臣民の財産と彼らの婦女子に手を出さないならば、必ずや実現されると思われる。仮に誰かの血を流すことが必要な場合には、適切な正当化と明確な理由の下に行わなければならない。しかしなによりも他人の財産に手を出さないようにすべきである。それというのも人間は財産の喪失よりも、父親の死の方をより速やかに忘れるものだからである。
>あっはっは。こりゃ真実。財産の喪失は憎悪に変わるそうだ。うん、多分これ真実だというのが身をもってわかる。
【愚民の欲】
2012.04.18|真面目系クズについて 1/2
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マキアヴェッリと君主論3/4 ~権力の維持

第三章 複合的君主権について
完全に新しくは無いにしても君主権の一部分が新しい、複合的とでも呼ばれる君主権力についてみるに、なによりも完全に新しい君主権に本来伴う困難からその変革が発生してくる。新君主は権力獲得の過程で傷つけたすべての人々を敵に回すことになり、他方かつて味方した者達を彼らの期待に沿うように満足させえないため彼らを味方ににつけておくことができず、また彼らから恩義を受けているため彼らに対して強力な手段を用いることもできないことになる。このような理由からフランス王ルイ12世はたちまちにしてミラノを奪い、たちまちそれを失い、ロドヴィコ(ルイ12世によって追われた当時のミラノ領主)は最初それを回復するのに自らの兵で事足りた。
ところである地域を制圧してその獲得者の旧来の領土に併合する場合、この二つの領土は同じ地域に属し、しかも同一の言語を用いているか、あるいはそうでないかのいずれかである。前者の場合、特にこの被征服地が自由な国制に親しんでいない時、それを維持するのは極めて容易である。その地方をかつて支配していた君主の血統を絶滅するだけで十分であり、そのほかの事柄に関しては旧来の状態を維持するならば風俗習慣の相違が無いため人々は静穏に生活してゆくことになる。それはブルゴーニュやブルターニュ、ガスコーニュ、ノルマンディーに見られるのであって、これらは長い間フランスと結びついてきた。これらの地域とフランスとはいささか言語を異にするが、その風俗習慣は似ており、従って容易に結合することができた。第一に古い君主の血統を絶滅し、第二に方や税制を変えないことであり、こうすればこの地方は極めて短期間のうちに旧来の領土と一体化することなる。
 しかるに言語、習慣、制度において旧来の領土と異なる領土を得た場合、そこには多くの困難があり、それを維持するためには非常な幸運と努力とを必要とする。そこに生ずる諸困難に対する最上かつ最も有効な対策の一つは、征服者自らがその地へ赴き、居をかまえることであり、この方策は領有をより確実で永続的たらしめる。混乱が起こったとしても直ちにそれに対処できる、また部下によって簒奪されることもない。そして臣民も君主に親しく頼れることに満足する。その他、その地方のいわば重要拠点に植民する方策がある。なぜならば、これを行うか、多数の騎兵と歩兵を駐留させる必要があるからである。植民の場合には大した費用はかからない。新しい移住者に土地と家屋を与えるためにそれらを奪われた人々だけは憤慨するが、それらの人々はその領土の極めて少数の部分に過ぎない。
>現代の企業活動についても同じ。征服者が海外拠点に居を構えているかね??
ローマ人は領土を獲得した地域において、忠実にこれらの方策を実行した。彼らは植民を送り、その地域の弱小な勢力と同盟しながら彼らの勢力を増大させず、その地域の強大な勢力を弱体化し、また外国君主の名声がその地で高まるのを放置しておかなった。一方、ルイはこれら5つの誤りを犯したのであった。すなわち、弱小君候を滅亡させ、イタリアにおいてある一国の権力を増加させ、イタリアに非常に強力な外国君主を導き入れ、自らはイタリアに住まず、植民を実行しなかった。こうした誤りも、第6の誤り、ヴェネツィア人の領土を奪うという過ちを犯さなかったならば、彼の存命中に彼を損なうことにはならなかったであろう。教会を強大化しなければイスパニアをイタリアに引き入れいなければ、ヴェネツィア人を屈服させるのは当然であり、必要でもあったろう。しかし最初にこうした方策をとってしまった以上、彼らの滅亡に同意すべきではなかった。それというのもヴェネツィア人が強力であれば他国がロンバルディアの支配について介入するのを常に退けたであろう。もしある人がルイは戦争を避けるためにアレクサンデルにロマーニアを、イスパニアにナポリを譲ったというのであれば、戦争を避けるために混乱を放置すべきでなく、戦争は避けられないのだから先に延ばせばかえって自らにとって不利になるだけのことである。
第八章 極悪非道な手段によって君主となった場合について
一私人から君主になる方法には2つの方法があり、両者とも幸運や能力に完全に帰することができない。極悪非道、残虐な方法で君主となった場合と、ある一市民が他の市民達の好意によって祖国の支配者となる場合である。アガトレクスやそれに類する人々が数え切れないほどの裏切りと残虐な行為を行ったにもかかわらず、祖国で長い間安全な生活を送り、外敵を防ぎ、市民達による陰謀に遭遇しなかったのは何故か。多くの支配者はその残酷な行為のため平時においてさえもその支配権を維持できないし、ましてや不安定な戦時においてはそうであるからである。私の考えではこれは残酷さが濫用されたか上手に用いられたかによる。上手に用いる場合とは、自らの地位を安全ならしめる必要からそれを一度用い、その後はかかる行為を常用せず、可能かな限り臣民の利益の擁護へと統治方針を転換する場合と言えよう。これに対して濫用とは最初残酷な行為は少ないが、時とともにそれを止めるどころかますます増大させる場合である。ある領土を得る場合、占領者は行う必要のある全ての加害行為を検討し、それを毎日繰り返す必要がないよう一気に断行すべきであること、そしてそれを繰り返さないことによって人々を安心させ、人々に恩恵を施して人心を得ることができるようにすべきである。これ対して臆病のためか誤った見解に従ってこのように行動しない者は、常に手に剣を携えていなければならない破目に陥り、臣民は新たに間断なく行われる加害行為のため彼に対して安全を確保できず、当然君主もその市民を決して信用しえないことになる。
第11章 教会の支配権について
この支配権は宗教上の古い制度によって支えられており、非常に強力であって、支配者の行動や生活のいかんにかかわらず彼の地位は安泰である。この君主のみが防禦の必要のない領土を持ち、統治する必要のない臣民を保有している。その領土は防禦しなくても奪われず、その臣民は統治されなくてもそれを気にせず、支配者から離反することを考えもしなければできもしない。それゆえかかる支配権のみが安全で幸福である。しかしかかる支配権は人知の及び得ないような崇高な根拠によって支えられており、ここではこれ以上論じないことにする。なぜならばこの支配権は神によって樹てられ、護持されており、それについて論じるのは傲慢で無分別な人間のなすところだからである。
>傲慢で無分別な人間かもしれないけど、無宗教を代表して、この支配権の根拠をいうと、「神が人間を創ったのではない、人間が神を造ったからである」
【軍事・軍隊・国防】
2012.01.30|武器輸出3原則を緩和
2011.06.23: 米ロッキード:F35、防衛省要望の納期に自信
2011.05.11: 日本改造計画3/5 ~対外・国際関係
2011.03.08: ミサイル防衛 大いなる幻想
2011.01.28: 小泉官邸秘録 ~有事法制の整備
2010.11.02: 米国、サウジに600億ドルの兵器売却へ
2010.07.20: ドイツの傑作兵器・駄作兵器 ~開発体制
2010.06.11: インド対パキスタン ~両国の核兵器開発とこれから
2010.02.23: Air Show 戦闘機の祭典
2010.02.18: ロシアの軍需産業 ~軍事国家の下の軍需産業 
2010.02.16: 台湾への武器売却、やめなければ関与した米企業に制裁=中国 
2010.02.05: ロシアの軍需産業 -軍事大国はどこへ行くか- 
2009.11.05: 核拡散 ~新時代の核兵器のあり方
2009.03.27: 私の株式営業 ~Fiat Moneyの裏打ち 




マキアヴェッリと君主論2/4 ~性悪説的君主論

フランスの敗退とメディチ家の復帰
教皇は1510年末からイタリア-イスパニア軍を率いて北上し、モデナ、ミランドラ等を奪ったが翌年フランス軍の逆襲によって壊滅的打撃を受けた。1512年ラヴェンナ近郊で大会戦が両軍の間で行われたが、やがて皇帝およびイングランド王が教皇側に加わり、スイス傭兵も教皇側につくことによって軍事バランスは崩壊し、ロマーニャおよびロンバルディアのフランス領は瞬く間に雲散霧消してしまった。フランス軍を駆逐した同盟側はソデリーニの追放とメディチ家の復帰を決定した。ソデリーニ追放後、彼の「操り人形」としてソデリーニ時代批判の的となったマキアヴェッリは、その職を投げ打つことなく、その職に留まったのである。しかしながらその異才を恐れられて1512年11月全ての職を免ぜられ追放された。
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マキアヴェッリはメディチ家に仕官を試みるが失敗し
「私は絹織物業や毛織物業についてなんら論ずることができず、利益とか損失とかについても談ずることができません。運命は私が統治(支配)の問題について論ずるよう定めており、私は沈黙を守るかそれについて論じなければならないのです。」
失意のどん底にあったマキアヴェッリを最初にこの課題に転じさせたのはフランシスコ・ヴェットーリである。
君主論
基本的特質 君主論はその形式に即してみる限り、古来存在しその後も存在した「君主かくあるべし」を論じた君主教育論のジャンルに属している。聖トマスの「君主政について」との関連で、彼は人間が統治権力を内包する政治社会を生来必要とするというテーゼの証明から始める。そして政治的支配は支配者やある特定グループの利益追求を目論む専制的支配との対比で、公共善の追求を目的とするものと規定される。政治的支配は人間の行うべき正しい行為の体型の実現に関わり、政治学は倫理学と不可分のものとされる。
読んだ後だからわかるな。性善説的、理想論的なアオい君主政だ。俺からは、マキアヴェッリに一本。では対する君主論の主張を続いて・・・
第一に「君主論」には権力の正当性の弁証がなく、権力は端的に存在するものとして前提されている。第二に王と暴君との区別がほとんど完全に消滅している。第三に倫理学は政治学と無縁のものとして現われ、治者に関しても臣民に関しても統治と倫理的価値との一体性は全く見られていない。第4に聖トマスにおいて支配問題が一つの政治的共同体を前提にし、その枠内で考えられていたのに対して、「君主論」ではかかる政治的共同体はまったく姿を消し、相互になんら共通項を持たない君主と臣民との関係が全てとなる。第五に聖トマスの場合、外敵の防衛の観点から消極的にその存在を肯定された軍事問題がいまや君主の最大の義務と規定される。
第一章 支配権の種類とその獲得方法
古来人々に対して支配権をもっている権力者、支配者はすべて共和国か君主であったし、今日でもそうである。君主権には支配者の血統が長い間君主である世襲的君主と新しい君主権とがある。ある地域は君主によって統治されるのに慣れ、他の地域は自由な国制に慣れ親しんでいる。また領土を獲得する方法には他人の軍隊による場合、自らの軍隊による場合、幸運による場合、実力による場合がある。
第二章 世襲の君主権について
君主の血統に服従してきた領域を維持するのは新しく獲得した領土を維持するより容易である。先祖伝来の秩序から逸脱しないよう、君主が勤勉であれば、その権力を奪うような非常に強大な勢力が存在しない限り、常に権力を維持するだろう。
【戦争論・兵法】
2012.05.16|攻撃計画 ブッシュのイラク戦争1/2~準備
2011.07.28: 後藤田正晴と12人の総理たち1/2 ~天安門事件
2011.02.03: 賭博と国家と男と女 ~人は利己的に協調する
2010.12.16: 自作 近未来小説 我が競争 ~第三次世界大戦の勝者と人類の進化
2009.12.16: 孫子・戦略・クラウゼヴィッツ―その活用の方程式
2009.10.23: 核拡散―軍縮の風は起こせるか
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.02.24: 孫子の兵法
2009.01.06: ユーゴスラヴィア現代史 ~Titoという男








マキアヴェッリと君主論1/4 ~1500年当時のイタリア

君主論というジャンルは確固とした伝統を持つ政治論で、君主のために有益なことを書くといっておきながら、実はその支配の秘密を民衆に暴露するのがこの作品の本音なのではないかと思わずにはいられない。フリードリヒ大王が早くからマキアヴェッリ批判に熱心だったのは君主にこうした側面があったからである。
我々は今日なお多かれ少なかれ「暗黒の中世」から「きらびやかなルネサンス」へという歴史像によってとらえられている。しかしこのような見方は今世紀に至って多くの批判を浴び、修正を余儀なくされている。今日人々は中世とルネサンスの断絶性よりもその連続性に力点をおくようになり、その結果、例えば「芸術品としての国家」、「個人の発展」、「世界と人間との発見」などという表現によってイタリア・ルネサンスを特徴付けたヤーコプ・ブルクハルトの古典的名誉も、ルネサンス論として多くの留保付でのみ受け入れられうるものとなった。
君主論かなり関係ないのだが、白人達が作り出した白人至上主義、歴史の歪曲、文明紀元説の捏造=ルネサンスは今だ健在だというのが私の理解だ。
メディチ家追放とサヴォナローラ 15世紀後半のイタリアにおける勢力均衡
中世以来、シュタウフェン朝と教皇との対立に巻き込まれ(グェルフ・ギベリン党争)、ついでアンジュー家の侵攻を受けた。「シチリアの晩鐘」(シチリア島民のアンジュー家に対する反乱)の後、幾度かの戦争を経てナポリ王国およびシチリアはイスパニアのアラゴン家一門の領するところとなった。15世紀、ナポリ王国、ミラノ公国、フィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国、教会領という5カ国がイタリア政治を支配するに至り、イタリアにおける独得な「国際関係」が成立する。1454年のローディの和約は外からの侵入が無いことを前提としたこのここ五国間の現状維持、勢力均衡を確立したものとして有名である。外からの侵攻がないということは、一方で皇帝権力が弱体化し、他方でフランス王が内政に忙殺されていたという事情に基づいている。フランスの国内事情はシャルル8世の下では大きく変化した。1494年、6万の精鋭を率いたシャルル8世はイタリアに侵入し、ロンバルディアを通ってトスカーナに入った。アラゴンと結ぶフィレンツェを侵し、ピエロは極めて容易に王に屈服した上に大幅な譲歩をした。ついで王はシエナを通りローマへ向かった。ナポリ軍はほとんど戦わずして後退し、新仏派の内乱が起こったためにナポリ王は退位し、シチリアに逃亡し、シャルルは1945年2月にナポリに入場した。シャルルの侵攻は従来のイタリアにおける統治・軍事のスタイルの破産を意味した。そしてマキアヴェッリはまさにこの衝撃を最も深刻な形で受け止め、そこから新しい政治理論を切り開いた人間であったのである。
大ロレンツォの子ピエロ、反ピエロ感情が公然化した。ピエロは外交方針を180度転換し、シャルルのもとに赴き、フランス軍にピサ、リヴォルノ等の重要拠点を委ねた。この条約はいっそうピエロの権勢の失墜を招き、ついに1494年11月ピエロは一族と共にフィレンツェを追われた。コシモの統一から60年にしてメディチ家は最初の挫折を味わうことになる。ピエロ追放後、新しい統治体制の整備のために20人の貴族からなる独裁機関が設けられるとともに、メディチ家統治の遺制である「70人評議会」、「100人評議会」が廃止された。新しい政治問題の核心は寡頭政か、民衆のより広汎な参加を認めるかにあった。このような状況の下で後者への道を決定的に押し進めたのが反メディチ派のシンボルであったサヴォナローラである。
1502年ソデリーニとマキアヴェッリは初めてボルジアに接見した。ボルジアはフィレンツェが条約を守らなかったとフィレンツェを批判し、威嚇的にののしった。これに対してフィレンツェ側は、ボルジアに好意的な政府が存在し、フィレンツェほど信義に厚い国はないと反論し、もしフィレンツェに友好的であるならば、直ちに部下ヴィテッロッツォをフィレンツェ領から退却させてその証を立てるべきであると主張した。ボルジアはヴィテッロッツォの行為はまったく自分の関与しないことであるが、フィレンツェがこのような深刻な打撃を受けているのは愉快なことであると答えた。マキアヴェッリがチューザレ・ボルジアに魅了され、やがて「君主論」の有名な記述として表れる。ボルジアに対する彼の関心は異様であり、フィレンツェ政庁内では嘲笑の的とされ、マキアヴェッリがボルジアから何か個人的利益を得ようとしているのではないかという評判が立った。当時の人々にとってチューザレ・ボルジアは父の後押しと悪辣な手段とによって急速にロマーニャを制圧し、父の死と共に一瞬にして消え失せた一人の典型的な小君主でしかなかった。
マキアヴェッリのフィレンツェ批判 資金準備についての論文の中でフィレンツェの伝統的な軍事・外交観は完膚なきまでに批判される。一国の防衛のためには「思慮」と「力」の結合が不可欠であるが、フィレンツェにはこの両者が明らかに欠けている。第一はフランスへの完全な依存であり、「支配者の間で信義を守らせるのは武器のみである」。第二に「力」の欠如の結果として自らの支配下にある人々を十分に保護することができず、したがって彼らはこの保護を可能にする支配者ならば誰でも服従することになる。
ドイツ人の生活習慣 マキアヴェッリは逆説的にドイツ人が豊かであると述べる。それというのも彼らの欲望は小さく、壮大な建物を作ったり、着飾ったり、家財道具を持ったりすることは無く、ただ十分なパンと肉、寒さを凌ぐストーヴで満足しているからである。余分なものを必要な品物で満足し、この必要な品物もイタリア人に比較してはるかに少ない。彼らは自らの生産物で生活を営み、外国から品物を購入する必要が無く、ドイツから外国に金銀が流出することもない。彼らは粗野で自由な生活を営んでおり、共同体の命令無しには戦争にも赴かない。ドイツにおいて私人は貧しいが逆に共同体そのものは豊かであり、時に戦時に備えて食糧や燃料が充分貯えられ、また労働のための原料や労働者に対する配慮も常に行われている。

マキアヴェッリと『君主論』 (講談社学術文庫 (1109))
マキアヴェッリと『君主論』 (講談社学術文庫 (1109)) 佐々木 毅

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【戦争・内戦・紛争】
2012.05.17|攻撃計画 ブッシュのイラク戦争2/2~戦争責任
2012.04.06: 金融史がわかれば世界がわかる 4/6~ポンドからドルへ
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2010.03.16: イランの核問題
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2009.01.05: ユーゴスラヴィア現代史
2008.10.21: 東インド会社とアジアの海2
2008.10.20: 東インド会社とアジアの海





世界の神々がよくわかる本

17ページ (目次などをのぞくと事実上の1ページ目だ)
古代オリンピックは、最高位に立つゼウスにこそ捧げられた祭典であった。その名も、ゼウスの神殿があるオリュンポス山に因んでいる。
違う・・・。オリンピックの名は、オリュンポス山ではなく、ゼウスの聖地オリュンピアだ!
やはりタイトルからしてチャラチャラしている感じはあったのだが、要はこういうクオリティで、浅く広く書かれている本だということがわかる。
「大人用の本だが、このように少し勘違いをして書かれている本もあるということだ。軽く読んでみるかね?」 父は、本を片手に微笑んだ。息子は本を手に取り、「このくらいの漢字なら読める。絵が多いし、一つ一つの話が短いね。」とオタク親子は、内容の希薄さに怪訝そうな顔をしている。
北欧神話
原典は「古エッダ」と「新エッダ」の2種類が残されていて、「古エッダ」とは9世紀から12世紀の間に作られた、古歌謡29篇を中心に構成され、長い間にわたって集められたものであるから特定の作者がいない。「新エッダ」とは別名「散文エッダ」といい、13世紀アイスランドの歴史家で政治家でもあったスノッリ・ストゥルルソン(1179~1241)が詩人たちのためにゲルマン神話解説書として編纂したものである。
ユミル ~北欧神話の創世記
古エッダには世界の始まりには大地もなければ天もなく、ただギンヌンガガプがあるばかりであった。ギンヌンガガプとは火の領域と寒冷の領域の間に存在している大きく口を開けている空虚のことである。ユミルはギンヌンガガプにある氷の塊が溶けた水滴から生まれたとされている。ユミルの脇の汗から次々と巨人族が生まれ、すべての霜の巨人族の祖先となる。いっぽう、牝牛アウズフムラが塩辛い霜の石を舐め、人の形になるとそれは最初の神ブーリとなった。ブーリは息子ボルをもうけ、そのボルが巨人族の女との間に生んだが、オーディン、ヴィリ、ヴェーの産兄弟である。ユミルは巨人族を増やし暴虐をほしいままにしていたが、オーディンを筆頭とする3兄弟は、そのことが疎ましくなり、ユミル殺しを決行する。ユミルが死ぬと血が大洪水となり、ほとんどの霜の巨人族は溺れ死ぬがユミルの孫のベルゲルミルとその妻だけは助かりのちに巨人族の復興を果たすことになる。またオーディンたちはユミルの死体をギンヌンガガプに捨てたがそうするとユミルの肉は大地に、骨は山に血は川や湖や海に、脳は雲に、頭蓋骨は空に、そして睫は人間の世界ミズガルズになったという。
インド神話
数千に及ぶ神の名前があり、それらのうちのある神とある紙が同一の神であるとされることもある。またそうではなく、違う神であるという異説もある。このような混沌こそがインド神話の最大の特徴なのである。そもそもインドは紀元前3000年ごろ、インダス文明が栄えた地であった。そこには独自の信仰があり、神々がいたが、現在それらの神々は当時の姿では残っていない。紀元前2000年ごろから中央アジアより進行してきたアーリア人によってインダス文明は滅ぼされたからである。このアーリア人の子孫が現代のインド人なのだが、彼らが進行していたのが天空神ディアウスやインドラ神などの神々であった。それらの存在は紀元前1500年~1200年ごろに成立した聖典「リグ・ヴェーダ」に書き記されている。天空神ディアウスはその正確も名前の語源もギリシア神話のゼウスと同一であるという説があるのは興味深い。
紀元前900-700年ごろ司祭階級であるバラモンが支配力を強め、古ウパニシャッド文献が編まれ、宇宙創造した最高神とされたのがブラフマーであった。紀元前500年ごろから仏教やジャイナ教などの宗教がインドに発生する。インドの2大叙事詩と呼ばれているのが「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」だ。その中で重要視されたのがヴィシュヌとシヴァである。ここまで眺めてきたすべての神々を包括する形で紀元前2世紀からヒンドゥー教が形成されインド神話は完成を見る。
ハヌマーン 風の神ヴァーユの息子であり、サルの王スグリーヴァの使いである猿神ハヌマーンは並外れた俊敏さと空を飛び、姿や大きさを変える能力を持っている。ハヌマーンの物語は叙事詩「ラーマーヤナ」で知ることができる。このハヌマーンの神話が中国に伝わって、孫悟空の活躍する「西遊記」が生まれた。

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記紀以前の資料による古代日本正史 2/2

大歳御祖大神
「大歳」がどうして饒速日であるか。京都の八坂神社の記録には、素佐之男、稲田姫の間に生まれた8人の子の第5子「大歳」と書いてあるし、父素佐之男といっしょに九州平定をやったため、九州地方にはたくさんの大歳神社がある。また、
大歳御祖神社(旧国幣小社) 静岡市宮ヶ崎町
保久良神社 神戸市灘区
(祭神)大歳御祖大神 素佐之男尊 大国主尊
等がある。御祖というのは天皇の祖先という意味だから、これは5番目の大歳が神武天皇の義父「饒速日尊」であることは、これでも証明になる。
出雲に行って、素佐之男の住んでいた須我神社を調べたら、やはり出てきた。境内摂社に、男の子だけ5人祀ってあった。
若宮 八島野命、秋田 五十猛命(大屋彦命)、琴平 大歳命、木山 磐坂彦命、稲荷 宇迦御魂(倉稲魂命)
の5人で、大蔵は「琴平」ということになっていた。琴平、即ち四国の金比羅宮は、饒速日尊であるから、ここではっきりと証拠をつかむことができた。
という論調なのよ・・・、なーんだか、わかったんだか、わかってないんだか・・・って感じでしょう? この本・・・
饒速日の子供は判明したのが3人ある。長男は宇摩志麻治(うましまち)、これはあとで物部氏の先祖となった人で、島根県の大田で亡くなって、そこの物部神社に祀られている。次男が天香山(あめのかやま)尊、この人は別名高倉下と記されている。越後の弥彦山の麓で亡くなって、現在弥彦神社の祭神になっている。最後が相続人である末子の伊須気依姫、即ち神武天皇の皇后になった人である。饒速日大王は、いつ亡くなったかという調べがはっきりはしなかった。周辺の人の動きから計算して大体222年ごろ、68,9歳くらいまで生きていたと想像される。末子の伊須気依姫に、九州からいまの神武天皇の伊波礼彦(いわれひこ)を養子にもらったのが辛酉の年(241年)の元旦(旧暦)となっているので、この日に結婚式を挙げたのであろうと思う。
故意に歴史から消すために作られた虚像の歴史、書き換えられていた神社は、祭神名、神社名等、この際、元に復して欲しい。
大神神社関係、日吉神社関係、祭神を大物主奇饔玉饒速日尊に復元すること・・・ブツブツ・・・
なぜ歴史から消されたか
なぜ、これだけ偉かった、あらゆる信仰の的だった天照国照大神を、苦心惨憺して、おとぎ話(神話)まで作って、歴史から消したのか。日本書紀、古事記を書いて、二神社、16家の系図を没収抹殺して、日本の古代を塗り替えたのか。どこにそんな必要があったのか。原因はやはり仏教の伝来にあった。仏教が渡来して風の吹きまくるように広まった。その時、この饒速日大王の直系の子孫、物部氏は、この仏教に反対した。特に物部守屋は、寺を壊し、仏像を捨てさせた。一つには日本伝来の神様信仰から仏様信仰に移り変わることに我慢ができなかったのであろう。神、仏の対立は、海石榴市(つばいち)の善信尼の尻叩きの刑で極点に達した。仏教徒はついに物部氏打倒ののろしをあげた。この情勢に便乗したのが蘇我稲目、馬子で仏教徒を扇動して、物部守屋討伐戦を起こし、これが成功して、神武天皇以来権力の座にあった物部氏に代わって、蘇我氏が天下を取ることになった。そして、仏教は勢いに乗って神社を浸蝕し、大神神社に大三輪寺を併せ、その他全国の主なる神社に仏教の寺院を併用して建てさせ、神仏混淆政策をとった。神様の力をうすめるためである。しかし流石に饒速日大王の宋廟、石上神宮だけは、寺院を建てさせなかった。また、代々の天皇も仏教に帰依した。物部守屋没落後、仏教勢力が燃え上がるにつれて、天皇の祖先が、その仏教反対をした物部氏直系の先祖であるのはどうしても具合が悪くなってきた。幸い、神武天皇は、日向の系統である。そこで出雲の系統をなんとか抹殺できないかと考え、だんだんその機が熟し、とうとう日本の歴史書き換えの決心をされたのが第40代天武天皇の時だった。物部氏没落から約100年の後である。
ここは良い推測だと思うしアグリーなのよ。ではこの1000年以上前の証拠隠滅が不完全で、こういう書物が残っているから、それと比較すると・・・という証拠と論理の流れが一切感じられない本なのよねぇ・・・これ・・・。
11月22日(旧暦11月1日)の鎮魂祭は、亡き饒速日の多分命日ではないかと思って天理市の石上神社(布留の社)に行って「11月22日の夜、此方で鎮魂祭というお祭をしておりますね」と尋ねてみたら「厳かにやっております。布留大神の鎮魂祭ですから当社でも最高のお祭です」という答えだった。そしてこの石上神社を宮中に鎮祭したのは神武元年と記されていた。これで物部神社の記録の鎮魂祭が、神武天皇が義父の布留御魂の饒速日尊の鎮魂祭をされたのであることが証明された。この鎮魂祭は一般国民にとって関係は薄いが、皇室にとっては、重大なお祭のはずである。念のため、宮内庁に電話で問い合わせたら、「11月22日の夜、たしかに行っています」という答えだった。どうして現在の皇室はウソの日本書紀をほとんど相手にしないで、正しい本当の歴史で、行事その他を行っておられるのか不思議に思って調べてみた。72代白河天皇の時、こういう偽りの歴史で天皇が政事をするのはいけない。正しい歴史に戻すべきであるという持統天皇の頃から中止されていたこの饒速日尊の鎮魂祭も復活されて今日に至っていることが判明した。
西暦400年ごろまでは西は鈴鹿山脈、関が原の線から東は全部アイヌ民族の毛人が住んでいた。北陸は出雲から郵便が発達していたために、早くから日本民族も加賀、能登あたりまで住んだので、石川県、福井県はまだ毛人と日本人といっしょに住んでいたのではないかと想像される。富山以北は完全にアイヌ民族だった。現在関東を中心に三重県、愛知県までは遺跡を発掘すると、全部アイヌ民族の使った生活用品が出土する。この縄文土器といわれるのは、アイヌ人の生活用品で、モンゴリアン系の日本人には縄文土器を使用した歴史はないようである。出雲から出てくる土器でも、九州の日向から出てくる土器でもモンゴリアン系の日本民族は、日本民族の土器をもっていたのである。縄文の類は見当たらない。
民族・言語起源探究ってのは、国民・民族感情的に難しい問題なんだが、コイツ、こんな書き方して大丈夫だったのかね?
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記紀以前の資料による古代日本正史 1/2

「日本書紀は嘘ばかり」というのを全編を通じて感情的に叫び続けており、最後のほうはあきれて飛ばし読みしたが、一応メモ程度に記録を・・・
文字文章はあった
神武天皇から仁徳天皇までの16代間を調べるのにどうしたらよいか。古事記、日本書紀以前の正確な資料はないか。そこまで考えて、古事記、日本書紀がいつ書かれたのかを調べたら、「なあーんだ」と馬鹿らしくなってしまった。古事記ができたのが712年、日本書紀は720年ではないか。聖徳太子が憲法17条を書き、日本に法律ができたのは、古事記や日本書紀より100年も前のことである。中国から仏教が渡ってきて、日本人が紙に筆でお経を写すようになったのは、さらに170年も前のことである。朝鮮から王仁博士が、千字文一巻、論語十巻を持って来て、儒教を教えたのは、何と古事記よりも300年も前ではないか。「魏志倭人伝」には卑弥呼女王時代文字があったこともはっきり記されている。それから数えたら500年である。少なくとも王仁博士渡来以後、古事記を書くまで300年もあった。その300年間に書いた資料などは、無理に探さなくても日本中どこにでもあるはずだ。調べているうちに、どうもその時の資料が皇室関係に今でも残っているらしい。そういう感じを受けた。というのは、皇室で現在色々行事をやっておられることは、日本書紀や古事記とは関係がなく、正しい歴史できちんとされておられることがわかった。しかし、これを貸してくださいと言っても無理だろうし、その線で私が調べることはできない。そうすると、ほかの日本中のどこにそういう記録があるだろうかと考えて、結局は神社には何かあるのではないか、少なくとも古事記以前、西暦712年以前、あるいは日本書紀十巻の応神天皇の項まで書き上げた持統天皇の時、以前に存在した日本の神社には、何か残っているのではないかということが、私の研究のもとになった。
712年以前に日本にまつられていた神社はおそらく3000から5000ぐらいあったのではないかと思われる。私のところで捜し出せたのは1631社だった。この神社に大体次の項目を当てはめてみた。
(1)いつ建てたのか、(2)誰をまつってあるのか、(3)誰がまつったのか、(4)どういう理由でまつったのか
日本に非常に多い八坂神社とか、熊野神社とか氷川神社とか三輪神社、賀茂神社、日吉神社、琴平宮、あるいは稲荷神社とか、神武天皇以前の人をまつった神社がたくさんある。それらを分類してみると、出雲系の素佐之男(すさのお)の一族をまつったのが大体8割ぐらいで、九州の高天原族、いまの天照大神、昔の大日霊女(おおひみこ)、それが女王になってから大日霊女貴尊(おおひみこむちのみこと)と申し上げた、九州の高天原族(たかまがはらぞく)の系統の神社は大体2割ぐらいしかない。そのどちらにも入らないというのは全体の1%ぐらいだった。
日本書紀は天武天皇の時、編集長1人、編集員12人、書記1人の14人に命じて勅令で書かせた本で38年かかってできた。その日本書紀が応神天皇の項まで書き上げた持統天皇の時に、ウソ八百の創作の歴史を書いて、それでもどうしてもごまかしきれないところは御伽噺のような神話形式にしてごまかした。そのウソ八百ででっちあげたもののばれることを恐れて、神社の古文書を二社取り上げ、あるいは本当のことを書いてあったと思われる系図を16家取り上げて没収した。691年のことである。それが残っていたら自分達の書いたウソがばれるということで、二神社、16家の系図を没収して抹殺してしまったという資料をつかんだ。
> だからどこにあったんだよ? それ漢文なのかよ? お前読めたのかよw
朝鮮経由の文化
一般に日本の文化や経済は、大陸から朝鮮を経て渡来したように考えられているが、調べてみると朝鮮をへてきた時代はごく短くて、分量としても極めて少ない。素佐之男時代は、出雲から北鮮、北満ルートだったし、南のほうも鹿児島湾、揚子江下流ルートだった。朝鮮半島の南部には韓民族という異民族がいて、この民族は必ずしも早く大陸文化を吸収してはいなかった。北鮮に続いている満州も、中国の漢民族ではないので、いわゆる中国の文化は陸続きには入ってこなかった。西暦前100年頃、前漢の武帝に支配された頃から平壌を中心に漢文化がひろまったのが半島文化の歴史である。従って、半島の文化はそんなに古いものではなく、あるいは出雲地方のほうが早かったのではないかとも考えられる。
日本の歴史はどの辺りからはじまったのか。出雲のスサノオノミコト(素佐之男尊)からはじまったと見るのが正しいようである。それまでは水の湧き出る盆地や川の傍に人が住む集落ができて、そこに村長のような支配者がいあるといった形で全国に大小何千と存在したと思われる。素佐之男尊は大体、西暦121年か2年頃に生まれている、いまの天照大神の日向のオオヒミコノミコト(大日霊女尊)が生まれたのは、それから32年くらい後で、西暦153年か4年頃と思われる。素佐之男の第5子で大和の国王になったニギハヤヒノミコト(饒速日尊)と大体同時代に生まれている。素佐之男は出雲国沼田(ぬた)郷で生まれた。現在の島根県の平田市平田町である。この沼田郷は古い書物に「爾多」という字を使ってあり、堤防のできない以前は川幅があの辺りまで広かったのだろう。素佐之男の父はフツ(布都)といった。フツというのは蒙古、満州系の名前で、素佐之男の本名はフツシ(布都斯)で素佐之男は通称だった。

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ホメロスの世界 8/8~帰国

オデュッセウスがトロイアへ出征した時、ペネロペイアは若々しい新妻であり、その胸には生まれたばかりの男児(テレマコス)が抱かれていた。その時から10年間も戦争が続き、やっと終わったので夫の帰還を期待していたのだが、いつまでも夫の消息は不明であった。そしてトロイア陥落から数えてももう10年目になっていた。世間の人たちはもうオデュッセウスの帰還の可能性はないものと考え始めていた。それで数年前からイタケ島および近隣の島々の豪族の息子たちが、多数この王妃のところへ求婚してきていた。その求婚の仕方はまったく異常で無茶なものであった。かれらは毎日オデュッセウスの王宮に集まって、王宮の家畜を持ってこさせて、勝手に殺して料理し、酒宴を開き、夜が来て飲食に飽きると、各々の家に帰っていくのである。豊かだった王家の財産もこれではやがて蕩尽されてしまうだろう。ペネロペイアがこれら求婚者の中から適当に選んで再婚すれば時代は解決するはずであったが、夫がどれほど立派な男であったかを思えば、どうしても未練が残る。
オデュッセウスの帰国
女神アテネは求婚者たちの横暴を説明し、忍耐強く慎重に行動して復讐を果たすようにと忠告し、オデュッセウスをみすぼらしい乞食の姿に変身させた。まずオデュッセウスは自分の奴隷エウマイオスの小屋を訪れる。忠僕は若い主人が無事に帰ったのを見て涙を流して喜ぶ。そして、ペネロペイアのところへ報告すべく出発する。小屋の中では乞食姿のオデュッセウスとその息子と二人きりになる。アテネ女神は一時オデュッセウスを本来の姿に反し「自分こそ、お前の父だ」と名乗らせる。この息子は父の面影を知らないはずであるが、案外に簡単に父親だと了解した。オデュッセウスは他の人々には自分の素姓を絶対に明かすなと厳しく注意する。なにゆえに自分の息子だけをはじめから信用してかかり、他方では昔から熟知している人々を疑ってかかるのか、その点は不可解である。
求婚者たちはテレマコスの帰国を待ち伏せていたのに、その見張りの目を逃れて彼が帰国してしまったことに気付いた。アンティノオスは改めてテレマコスを暗殺するように提案した。ペネロペイアはこの計画を漏れ聞き求婚者たちの前に勇敢にも姿を現し、アンティノオスを厳しく非難する。エウリュマコスはペネロペイアの機嫌をとったが、心中では暗殺を謀っていたようである。ペネロペイアは女神のはからいで奇妙な行動を始める。美しく化粧して、求婚者たちの間に姿を現したのである
「夫が出征する時、自分が戦死した場合には、両親や子供の世話をよろしく頼むが子供が成人したら誰か好ましい男のところへ嫁ぐように申しました。残念ながらいまはもうその時がきたようです。求婚する人は贈り物を持ってくるのが通例だのに、逆に自分の家の財産を蕩尽されているのは、私の心痛です」
するとアンティノオスは全員で贈り物をしようと提案し、求婚者たち各々が贈り物を持ってきた。ペネロペイアの行動を見てオデュッセウスは喜んだ。その理由は彼女が巧みに財産を集め、しかも本心では求婚を望んでいないのだから、と詩人は説明している。
オデュッセウスは妻との再会にて、妻にさえ身を明かさず、なおも妻を試そうとしているのである。これは慎重さの程度を越えて悪意だとさえ感じられる。翌日、ペネロペイアは弓競技に優勝した人と結婚すると宣言した。求婚者の誰も弓に弦を張ることさえできなかった。そのとき乞食姿のオデュッセウスが自分にも弓を試みさせてほしいと申し出る。求婚者たちは激しく反対したが、ペンロペイアやテレマコスがそれを制止した。彼は簡単に弦を張り、12個の斧を射とおしてしまう。それから弓を求婚者たちに向けて彼らを射殺し始めるのである。激戦の末に仇討を果たした。
ペネロペイアは弓競技の後、女神アテネのはからいで眠っていたため、これら大事件のことを知らなかった。老女が一部始終を知らせたがペネロペイアは夫が帰国したのではなく、神がかれらを罰して殺したのだろうと反対する。老女は脚の傷跡のことを言ったが、それでも信じない。今度は彼女の方が相手を試す番であった。オデュッセウスは怒って「自分は一人で床に就くから、寝床の用意をして欲しい」と老女に頼む。そこでペネロペイアは「この家の主人が自分で作った寝台を運び出してやりなさい」と命じた。「自分が作った寝台は絶対に動かせないはずだが」
この寝台はオデュッセウスが秘密裡に作ったもので動かせないようになっていたのである。この男は寝台の秘密を知っている。たしかに自分の夫なのだ。ペネロペイアは泣いて飛び立ち夫の頸に両手をかけて接吻した。

ホメロスの世界 ホメロスの世界
藤縄 謙三

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ウォールストリートの歴史 8/8 ~ニクソンショック

Chapter10. ベア・マーケット 1970-1981
「私はアメリカドルを二度と再び、国際投機家の犠牲にはさせまいと決意している」 リチャード・ニクソン

ブレトンウッズ体制の崩壊
ウォールストリートが弱含みの株式市場や金利の上昇を克服しようと頑張っているとき、国際経済に大きな問題が持ち上がった。ドルの通貨価値の問題はアメリカ国内では1960年代半ばまで忘れ去られていたが、ドイツマルクや日本円の通貨価値が高まり始めると、ブレトンウッズ体制下での各国通貨間の強弱関係が表面化してきた。イギリスポンドが通貨価値を下げ、それにともなってポンドの平価切り下げが一度ならず実施された。アメリカドルも国際収支の問題があり、この件で無関係ではなかった。国際通貨体制ではドル支配が25年間続いてきたが、アメリカの金利上昇と財政赤字がドルにマイナスの影響を及ぼし始めていた。
ニクソン政権はベトナム戦争の影響による物価の高騰を鎮める方法について何ヶ月にもわたって国民に言葉を濁し続けていた。そうした時期に、この金融事件はニクソン政権が打ち出した反インフレパッケージとして表舞台に出てきたのであった。投資銀行やブローカーは固定手数料の廃止問題や資金調達に神経を集中していたから、この国際舞台で起ころうとしていた金融事件に気づかなかったのも無理はなかった。
1971年8月15日、外国為替トレーダーたちが最も恐れていた爆弾発言を投げかけた。ドルの金への兌換を停止し、ドル平価を切下げるというのである。狙いは輸入品の価格を高くし、輸出品の価格を低くしようというところにあった。アメリカ国内では当初、ドル平価の切下げは給与や物価の統制に比べて、それほど深刻なこととは認識されていなかった。ニクソン演説の翌日、ウォールストリートでは株価の高騰が起こった。ダウ指数は32ポイント上がって889で引けている。しかし、海外の投資家達のドル平価切下げに対する認識は違っていた。彼らは厄介なことになったと判断しドルを売り始めたのである。外国為替市場は大混乱となり、この不安定な混乱は1年半にわたって続いていくことになる。その後、主要国の通貨は変動相場制を採用することになり、金本位制が放棄された。伝統主義者たちは変動相場制に移行して20年経ってもこの国際通貨システムについて嘆き続けていた。1991年フォーチュン誌は変動相場制20周年に関して「いまだに高いツケをわれわれに支払わせ続けている、半端な決断が行われた惨めな記念日」と書いている。
投資の世界は1970年代、小規模な変革は経験してきたが新種のミューチュアルファンドが金融界に与えた動揺は大きなものだった。当時、新種のミューチュアルファンドが売り物にしていたのは投機的な利益を前面に打ち出したものではなかった。名前からして、当時、さかんに購入されていたファンドのような魅力には欠けていた。ところがこの新種のミューチュアル・ファンドは数年間で何十億ドルという小口投資家たちの新規投資を誘い出し、銀行システムの安定を脅かし始めたのである。その新種のミューチュアルファンドとは、マネーマーケットミューチュアルファンド(MMMF)のことである。集まったファンドの資金は短期財務省証券やコマーシャルペーパーなど、短期資金市場の商品のみ投資されるようになっていた。MMMFの金利は当時の銀行金利よりも高く、1970年代を通して上がり続けた。当時、FRBが預金金利の率をレギュレーションQで制限していたので、銀行預金の魅力は色褪せ始めていた。そうした時期、MMMFは最近の利回りを広告するだけで現金が集まってきたのである。
> うーむ、確かにこれは革命的商品だ。中期国債ファンド(チュウコクファンド)、公社債投信、MMF、MRF。これはすげー商品だ。銀行預金する意味がわからんからなぁ。
Chapter11. 合併狂 1982-1996 (最終章Chapter11って何か嫌味でも言いたかったのだろうか?)
ルール415 企業が資金調達の必要性を事前に登録することを許可した。こうしておくと企業が資金を必要とした時、投資銀行にすぐに新規募集を組織させることができる。企業から指名を受けたい引受業者は一歩進んで証券を全額買い取ることに同意し、約束を交わしてからシンジケートを組織することになった。
新しく導入されたルール415は、ウォールストリートに日本人投資家達を引き寄せた。日本人投資家たちは1980年代からユーロ市場で存在感を示していたが、この時期ついにウォールストリートに進出してきたのである。日本人投資家達はロンドンで成功を収めていた。資本金が世界最大規模の証券会社である野村證券はユーロ市場に登場して数年も立たない間に債券引受の主幹事の座をドイツ銀行やCSFBと競うまでになっていた。野村證券がウォールストリートに姿を見せたとき、ウォールストリートの反応は冷たかった。野村證券はニューヨーク市場では、ユーロ市場のときほど容易には主幹事の座を奪い取ることができなかった。アメリカの証券会社と顧客とのつながりが予想以上に強かったのである。
ジャンクボンド市場が生まれたとき政界が登場してきたが、最高のタイミングだった。レーガン大統領が1982年、銀行法の規制を緩和すると発表したのである。結果、ガーン・セントジャーメイン法によって銀行や貯蓄金融機関、貯蓄貸付組合(S&L)も企業債券を買うことができるようになった。1980年に成立していた法律の条文を拡大したもので、銀行と証券分離したグラス・スティーガル法の成立以降初めての改正だった。
イギリスや日本などの海外の投資家達がアメリカの企業株を買い始めた。NASDの報告によるとこれらの投資家達はIBMやイーストマン・コダック、ジョンソン・アンド・ジョンソンなどの優良株を好んでいた。しかし、インフレはアメリカの産業界を大いに苦しめていて、企業株の多くは額面を下回っていた。こうした安価な企業群がM&Aの標的となった。過去8年のインフレによって、新規事業をゼロから起こすのはコストが高くつき、既存の企業を買収したほうが安上がりだった。結果、M&Aブームが起こった。M&Aブームの主役は投資銀行だった。ゴールドマン・サックスやモルガン・スタンレー、ファースト・ボストン、メリルリンチ、リーマン・ブラザーズ、ソロモン・ブラザーズなどのトップバンクである。1980年代、乗っ取りのスペシャリストたちは標的とされた企業から恐れられていた。攻撃的なグリーンメーラーだったカールアイカンは物腰は柔らかかったが、ハマーミル・ペーパーやタッパン、マーシャル・フィールド、フィリップス石油などの企業に接近して1億ドル近くを手にしている。オクラホマ生まれのトーマス”ブーン”ピケンズは、自身が経営していたメサ石油会社を使って遠慮会釈ない態度でシティズ・サービスやジェネラル・アメリカン・オイル社の株を取得し、これらの株をそれぞれに企業に買い取らせて1億ドルを稼ぎ出した。合併のスペシャリストが労働者の首切りをおこない、買収された企業の労働組合に大きな犠牲を強いたケースもあった。1985年のカール・アイカンによるトランス・ワールド・エアラインの乗っ取りでは労働組合が潰されている。
【金と金融の意義】
2012.05.08|銀行の戦略転換 1/2 ~メインバンクは劣後ローン
2012.03.28: 金融史がわかれば世界がわかる 1/6~銀本位制から金本位制
2011.09.30: 幻の米金貨ダブルイーグルめぐる裁判
2011.03.04: マルサの女 名シーン名台詞特集 2/3
2010.11.26: 初等ヤクザの犯罪学教室 ~銀行強盗成功のための傾向と対策
2010.09.28: 世界四大宗教の経済学 ~キリスト教とお金
2010.08.16: 株メール Q2.企業業績とは何か?
2010.07.09: 資本主義はお嫌いですか ~大ペテン師 ジョン・ロウ
2010.02.09: デリバティブ理論講座のお題
2009.12.30: 金融vs国家 ~金・金融の意義
2009.10.22: お金と人の行動の法則
2009.08.28: インド独立史 ~ガンディー登場
2008.10.10: あなたが信じているのはお金だけなの?



ウォールストリートの歴史 7/8 ~コングロマリット

Chapter9. ブル・マーケット 1954-1969
ハロルド・メディーナが司法省による投資銀行業界告発を却下した時、アメリカの金融業界の近代化が始まった。ウォールストリートはそれまで30年間にわたって株価の暴落や不況、2つの世界大戦に苦しめられてきた。その間、ニューディール陣営が銀行家たちから長い時間かけて蓄積された経済力をもぎ取ろうとする時期もあった。アメリカ経済は第二次世界大戦後、1950年代初頭から好況の時期を迎えている。この好況は1920年代の黄金時代のものとは違って、しっかりとした経済基盤や技術革新に基づいていた。株式市場では乱暴な投機ではない投資が急増した。アメリカの平均的な家庭の暮らし向きも上向き、再び「健全な経済の基礎に消費の拡大がある」とするコンシューマリズムがアメリカの社会を支配し、物欲と楽観主義が花開くことになった。国内の工場では戦争のためではなく、消費者のための商品を生産できるようになった。

1957年10月、ソ連がスプートニク1号の打ち上げに成功した。このニュースはアメリカ国内を騒然とさせ、その後、30年間に渡って国民の心理に深い影響を与えていくことになる。アメリカが科学や技術、高等教育などの分野で国際的に抜きん出た力をもっているかどうか、不安視されたからである。景気刺激の面では頼りにされるコンシューマリズムも、違った価値体系を持っている敵には太刀打ちできないというのである。それまで物質主義に力点を置いていたアメリカはハイテク部門で世界第2位の地位に追い落とされてしまったかのようだった。ソ連がスプートニクの成功を発表した直後、アイゼンハワーは国民に向かって「アメリカの国防は万全であり、何も恐れるべきものはない」と演説し、直ちに新兵器開発のための国防予算を増額することを決めた。ロケット燃料を筆頭に宇宙開発関連の製品や類似品を製造している企業の株価が高騰し、さらに国防関係の企業の株も値を上げている。ソ連は株式市場が予期していなかった外的な影響を及ぼし、第二次世界大戦後のアメリカの島国根性の反動がやってきたというわけである。この時期、軍需産業が製品を売り込もうと政府に殺到し、「軍産複合体」という言葉が流行語になっている。
アイゼンハワー政権は株式市場には好意的で、司法省は1950年代末に活発となった企業合併に口を挟もうとしなかった。ただし、アイゼンハワー大統領は2期目が終わるころ軍産複合体の経済力の集中に気づいていて、大統領を離任する時の演説で「連邦政府は毎年、アメリカの全法人の純利益以上の額を軍事費に使っている。政府の審議会は軍産複合体が手にしようとしている権力に対して守りを固めなくてはならない。権力が誤った手に握られるとアメリカが破局に向かう可能性があり、その恐れは消えることがない」と警告を発生している。アメリカ社会の敵は怪物のようなトラストでも自由競争を破壊する独占企業でもなく、軍事と産業の組み合わさった軍産複合体になろうとしていた。国民にソ連への反感を煽り、政府から多くの契約をとって儲けようとしていた。
>ちっ、うまく警告を発し、おかげで軍産複合体はオールドエコノミーさ。第三次世界大戦で使用される兵器は、彼らが作るものではないかもしれないなぁ・・・。
ITTは英国人のハロルド・ジニーンの指揮でM&Aに手を染めていったが、企業買収の手法は堅実だった。ジニーンはレイセオン社の経営陣に加わっていたこともあり、1959年、ITTの経営に参加している。ITTは事業の中核が電話や周辺機器の製造だったが、ATTベルがアメリカ国内の電話事業を独占していたため、事業のほとんどを海外で展開していた。ITTは最盛期に世界70カ国に進出し、20万人の株主と40万人の従業員を抱えるようになった。アンソニー・サンプソンは「ITTは進出した国では説明責任を負わず、しかもジニーンという一人の男が帝国を束ねている。この男は会計士として、自制心のある人物として有名であるが、その経営手法は海賊波である。しかし、誰も彼に異を唱えようとしない」と嘆いている。
アメリカの海外での評判は、コングロマリットの活動が原因で悪化することも頻繁だった。多くのコングロマリットが進出した国の内政に干渉し、ITTも例外ではなかった。ITTの成長は1960年代、必ずしも順調とはいえなかった。アメリカ放送(ABC)の入札に失敗、ニクソン政権下での反トラストの姿勢にも耐えなければならなかった。司法省は、ITTのハードフォードの合併は認めたが、買収先を手放すように強いたこともあったのである。1970年代初頭、チリの大統領に選ばれたばかりだったサルバドール・アジェンデのマルクス主義政権の転覆をめぐって新聞の見出しを大きく飾ったことがある。アジェンデ政権は当時、チリの銅鉱業を国有化しようとして多くの多国籍企業から怒りを買っていた。この国有化の犠牲となった会社にはアナコンダ・カパー社の名前もあった。チリ政府とITTの対立の結果引き起こされたアジェンデ暗殺は、多国籍業の力について暗い影を投げかけることになった。ITTに対して「行動規範を持たないまま、企業が国家のようになっている」との非難が集中した。
【国家主権系関連記事】
2012.04.09|金融史がわかれば世界がわかる 5/6~FRB設立時代
2011.08.29: マハティール アジアの世紀を作る男2/4 ~外圧
2011.05.23: 歴史を騒がせた悪女たち1/7 ~西太后
2011.03.23: ガンダム1年戦争 ~軍隊統制 2/4
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2010.12.14: 自作 近未来小説 我が競争 ~理想国家建設を目指した男
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2010.02.12: ロシアの軍需産業 ~戦争経済・軍事費
2009.12.22: 金融vs国家 ~金融史の観点から歴史を読む
2009.11.05: 核拡散 ~新時代の核兵器のあり方
2008.10.01: オレはオレの国を手に入れる




ホメロスの世界 7/8~漂流地はどこか?

オデュッセイアが成立した前後の、ギリシア人の西方への進出について、簡単に述べておこう。紀元前8世紀中頃から2世紀間は、ギリシア人の植民活動の時代であり、西方にも多くの植民市が建設された。たとえば、シケリア(シチリア)島のシュラクサイは734年に建設され、マッサリア(今日のマルセイユ)は600年に建設されている。「オデュッセイア」が成立したのは、この植民時代の初期の頃であったであろう。ヘロドトス(「歴史」第4巻152)によれば、サモス島の商人コライオスは、エジプトへ航行する途中で大嵐に遭い漂流して、はからずも「ヘラクレスの柱」(ジブラルタル海峡)を越えて、タルテッソスへ到着した。これは今日のスペイン南西部に当たり、古くから通商の要地であったらしい。そこからコライオスは多量の銀を積んで帰ったため、長者として有名になったという。この事件は紀元前638年頃のことと考えられるが、その頃でも西方への航海がきわめてまれであったことを示している。
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ロートス常食人 ペロポネソス南端のマレイア岬を越えて、西部地中海へ入りこむのであるが、その最初の漂流地「ロートス常食人」の国の位置については、古代から現代までの意見が一致している。すなわち、アフリカの北岸チュニジアの辺りである。
キュクロプスの国 シケリア(シチリア)ということが古代以来の支配的な意見である。すでにツキュティデスがこの島の最古の伝説的住民として、キュクロプスたちとライストリュゴネス人とを挙げている。
アイオロスの島 風神アイオロスの浮島へ漂着するが、これこそまったく空想的な島であろう。
キルケの島 ラティウムのケルケイの岬をその地だと比定していた。この比定では島が岬にされてしまっているのである。
メッシナ海峡 カリュプディスとスキュレとに挟まれた海峡は、潮流が規則的に渦巻く難所だとされている。このような海峡は地中海では、ただ一つメッシナ海峡(イタリア半島のシチリア島の間)があるのみである。
日輪の神の島 ヘリオス(日輪の神)の領地トリナキエ島へ着くが、これは古代では一般にシケリア島だとされていた。しかし、この島にはヘリオス神の家畜以外には食物がなかったらしいから小さな無人島であり、それゆえ実際のシケリアではあり得ない。つぎの漂着地、カリュプソの住むオギュギエ島は、海の真ん中にあり絶海の孤島だとされている。ベラールはジブラルタル海峡のアフリカ岸に比定している。
パイエケス人の島 ケルキュラ、今日のコルフ島。しかしこの島はまったく空想的な色調を帯びているから、それを実際にケルキュラと比定してみてもあまり意味がない。
イタケ島 古典期にも同名の島があったが、「オデュッセイア」に記されたイタケ島の位置や地形は漠然としており、しかも古典期のイタケ島とかならずしも合致していないのである。古典期のイタケ島はコリントス湾の出口に近い小さな島であるが、ドイツの学者デルベルトは、その北のレウカス島こそがホメロスのイタケ島だと主張した。今日では古典期のイタケがホメロスのイタケにほかならないという説が有力になっている。いずれにしてもホメロスは、イオニア地方の人らしいからギリシア本土の西側の地理には精通していなかったらしい。




ウォールストリートの歴史 6/8 ~独占体制の崩壊

Chapter7. ウォールストリート、ニューディールと出会う 1930-1935
1933年の晩春に成立した新しい銀行法は「1933年のグラス・スティーガル法」とか、単に「銀行法」と呼ばれるようになった。銀行法によって預金保険が生まれ、投資銀行と商業銀行の業務は明確に分離された。グラス・スティーガル法はハイペースで上院を通過している。預金保険について「なぜ銀行の背信行為に政府が保険を提供しなくてはならないのか」とイデオロギー的に捉える議員もいた。反共産主義的な空気が濃かった当時これは社会主義的なシステムではないかというのである。しかし、この制度の意図は現実的で、何らかの保証をしない限り国民は、タンス預金を続け、景気の回復が見込めなかった。
銀行法は、商業銀行の引受業務や企業証券の取扱業務を直接禁じているわけではない第20条項で商業銀行が証券市場で10%以上の利益を上げることを禁じて、それが事実上の分離を作り出している。モルガンは時代の流れを認めながらも、新しい銀行法は短命に終わると踏み、商業銀行のほうを選択し、証券部門を独立させている。モルガン銀行の株式、債券業務を引き継いだモルガン・スタンレーの初代会長はハロルド・スタンレーで、モルガンのパートナーだった。
インサル帝国の崩壊
ニューディール陣営は、1934年末までに自由に闊歩していたウォールストリートに痛烈な一撃を加えていた。上院は1812年の対英戦争以降、実業界に求めた規制以上のことを銀行業と証券業に要求していたのである。銀行法と証券法は、一般投資家たちを守る手段であると同時に個人を標的としたものでもあった。1933年の証券法はナショナル・シティ・バンクとナショナル・シティ・カンパニーを、銀行法はJ・P・モルガン帝国を狙ったもので、証券取引法はリチャード・ホイットニーと証券取引所を連邦政府の規制下におくものだった。1935年に公益事業持ち株会社法が制定された背景には、札付きの産業資本家だったサミュエル・インサルの公益事業帝国の影があった。新法が成立すると、公益事業を保有する持ち株会社はSECに登録しなければならなくなった。証券当局は持ち株会社を単一組織に限定する権限を持ち、インサルの帝国のような巨大組織を解体できるようになった。新規証券を発行する公益事業会社は従来の投資銀行家と絶縁することが要求されていた。6年後、この条項は拡大され、新規証券の発行のとき競争入札を求められるようになった。ウォールストリートの歴史の中で、初めて投資銀行と企業との関係が連邦政府から干渉を受けることになったのである。
Chapter8. 苦闘は続く 1936-1954
競争入札問題
ウォールストリートは圧倒的に競争入札に反対していたが、地方投資銀行家のなかから公然と競争入札に賛成するものも出てきた。オーティス社のサイラス・イートンやホールジー・スチュアート社のハロルド・スチュワート、アレガニー・コーポレーションのロバート・P・ヤングなどである。3人ともニューヨークの大手銀行から仕事を奪い取るチャンスと考えていたのである。ハロルド・スタンレーはSECが競争入札を求めてくると予想していて「企業債券の新規発行について競争入札を行うことは、発行元企業にとっても投資を行う人たちにとっても不幸な結果を招くだろう」と反対を表明した。競争入札は民間企業に対する政府の強制の表れであるというのである。さらにスタンレーは「投資銀行は有益な事業であり、その発展は専門的な基準と配慮、責任の3つから遠ざかるものではなく、それを目指す方向で行わなければならない」と語っている。
連邦準備制度がコントロールする
連邦準備制度は戦争の勃発によって市場での権威をかつてないほど強めるチャンスをつかんだ。戦争のたびに、政府の資金調達が企業や地方自治体のそれを市場から締め出しており、第二次世界大戦も例外ではなかった。この戦争では連邦準備制度が通貨や債券の市場でウォールストリートから素早くチャンスを奪って活発な操作を行い、それにウォールストリートはただ付き合うしかなかった。資金調達の規模でも全国的な動員数でも、ウォールストリートが連邦政府の先を走る余地はなかった。
戦争中、その戦争遂行の資金調達に大きな役割を果たした機関として、ジェシー・ジョーンズが率いていたRFCが挙げられる。RFCは1930年代を通して巨額の資金を業界に提供していて、世界最大の法人組織といえた。戦時下の生産のほとんどがRFCの子会社だった国防プラント社を通して調整されている。主要な基幹産業の多くがRFCの施設拡大見積もりを受け入れ、自腹を切って施設を拡大して戦争に協力していた。ジョーンズが見積もることで利益は抑えられ、戦争に協力した大企業の利益は最小限に留められていた。RFCと国防プラント社はアメリカ産業が生産増加の要請に見合うように施設を拡大するのを支援するため、90億ドルを投入している。
 投資銀行業界のジェイ・ホイップル会長は、1943年、投資銀行の役割について「投資銀行の仕事は戦争に勝利するための支援活動をすると同時に民間企業を守ることである。自由な資本市場がなくては自由な企業システムはありえない。産業が政府から資本を得なければならなくなるからである。」と発言した。RFCが戦争のために資金調達を助けようと資本市場に乗り込んできたことが投資銀行を神経質にしていた。
連邦準備制度は戦争中、金利を安定させるため市場に介入し、自信の権威を増していた。この介入の意図は、金利をできるだけ低く、安定したものにして債券市場で資金調達が安く行えるようにしようというものだった。財務省は1941年から1945年の間、市場で7回、戦争債を発行している。販売する時各地区の連銀が調整に当たり、販売に協力する銀行に債券を割り当てた。全国の500近くのディーラーと何千という銀行が債券販売に協力していたが、ほとんど利益が出ず、経費も弁済されなかった。もっとも売上高が多かったのはキダー・ピーボディー社だった。こうした戦争債の発行の結果、アメリカの債務高は1941年に480億ドルだったものが1945年には2600億ドルになり、総人口1人当たり1500ドルの増加となっていた。
【金融・通貨制度】
2012.03.30|金融史がわかれば世界がわかる 3/6~基軸通貨ポンドの誕生
2011.06.16: 巨大穀物商社 アメリカ食糧戦略のかげに 1/4
2010.07.12: 資本主義はお嫌いですか ~貧しい国々が豊かな国々に貸している
2010.06.02: 数学を使わないデリバティブ講座 ~測度変換
2010.03.01: 噂のストップ狩り
2010.01.07: 金融vs国家 ~国の金融への関与
2009.03.12: ゆっくり見ると為替(FX)が通貨(Currency)に見えてくる
2007.12.19: 円保有のリスクって? イギリスで学者街道を進む後輩より


ウォールストリートの歴史 5/8 ~第一次世界大戦

Chapter6. 好景気の20年代 1920-1929
ウッドローウィルソン大統領(1913~1921)の2期目、所得税が初めて徴収され、禁酒法が成立し、戦争があった。戦後、連邦議会はアメリカが国際連盟に加盟することを拒み、ウィルソン大統領をがっかりさせた。アメリカ国民の愛国心は戦争資金の調達に結びつき成果につながったが、愛国心にも値段があったのである。
第一次世界大戦に参戦するため財務省が戦争債を発行した時、戦争債の購入は投資としても愛国心の表現としても人気があった。財務省は1917年から1919年の間に総額210億ドルの自由公債を5回に分けて募集した。財務省はこの戦争債の取引で投資銀行に付け入る隙を与えず、過剰な利益を上げさせまいと、銀行家やブローカーに売買手数料を支払わないことにした。債券は財務省によって発行され、ニューヨーク連銀に送られている。連銀はこれを他の銀行やブローカーに分配し、売却させた。この戦争債の販売では購買申込数が発行数を上回っていた。資金調達は大成功で「最高の資金調達の一つ」と自画自賛した。ある単純な理由から大手も小口も戦争債を購入した。所得税がかからなかったのである。連邦議会による課税徴収権限を強める憲法修正第16条が成立した直後の課税率は高く、徴収も厳しく、投資家達も例外ではなかった。この時期、個人投資家が金融商品の販売対象になり始めた。南北戦争が終わってから50年間、銀行家やブローカーは大口投資家を相手にしてきた。小口投資家の相手は、三流ブローカーや闇取引業者に任せていた。闇取引業者は私設賭博場のようなものを経営するブローカーで、投資額が小額であっても顧客が株式の部分ポジションを買うことを認めた。
第一次世界大戦後、金本位制の維持という大問題があった。戦争が終わるとイギリス政府は金本位制に戻ろうとした。イングランド銀行とFRBは戦後のイギリス資本市場から資本が流出していくのを守るため、ある約束事を取り決めた。ポンドの通貨価値を安定させるため、ニューヨーク市場を国際取引に開放するというものである。イングランド銀行総裁モンターギュ・ノーマンとニューヨーク連銀総裁ベンジャミン・ストロングが1920年代に作り上げた協力関係はその後、英米間の強力な金融関係を生み出すことになる。2人はロンドンの株式市場と通貨市場を海外に開放せず、投資家や法人にはニューヨーク市場を使わせることで合意した。アメリカの金利をイギリスの金利より低く抑えて、資金を必要としている企業や政府がポンドではなくドルで調達するようにした。
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ピエール・デュポン
脱税は1920年代のウォールストリートに深く関わる問題である。1922年以降、アメリカでは反税運動が盛んになった。第一次世界大戦が終わり、税というものが愛国心とは無関係であることが明確になったからである。禁酒法の廃止を求める運動を指揮していたのは軍人出身のキャプテン・ウィリアム・ステイトンで、禁酒法反対協会(AAPA)を率いていた。AAPAは1919年に憲法18条修正条項(禁酒法)が成立した後、直ちに設立されている。アルコール飲料の製造を禁じたボルステッド法を廃止し、更にアルコール飲料の製造、販売、輸出入を禁止した18条修正条項そのものを廃止させようとする圧力団体で、憲法に違反すると主張していた。ピエール・デュポンとイレーネ・デュポンはAAPAの活動に積極的に加わり1926年以降、大口の寄付者となった。この2人は「禁酒法には関心がなく、所得税の削減に関心があるのだ」と公言していた。AAPAの目的は憲法18条修正条項と一緒に所得税を葬り去ることだった。
この時代、株式の取引は土地投機とともに税務署をごまかす手段の一つで巧妙な取引捜査で脱税できるようになっていた。よく使われたのは相殺取引という手法であり、株式売買で発生した損失は税の控除対象となることから共謀した投資家同士が低価格で株を売買し合い、実際には損益は相殺されているが儲けを隠して損失だけを表面化させるとそれが税の控除対象になるというものだった。1920年の個人の所得税率は最高で25%に抑えられていた。しかし数年も立たない間に最高税率が70%に達したのである。これに対して猛烈な抗議行動が起こった。トレーダーや事業経営者は市場で相殺取引を仕掛け、わざと損失が出るように株価をつり上げて売買した。ピエール・デュポンとジョン・ラスコフもこうした取引に関わっている。この2人は複雑なやり取りによって儲けた200万ドルを表面化させることもなく損失を計上し、課税を逃れた。この相殺取引は国税局の査察対象となり、租税裁判所は相殺取引は市場の著しい悪弊だとして税の控除から外した。
1929年3月、アメリカ市場の株価が急落し始めた。当時、FRBとニューヨーク連銀との関係はおかしくなりかかっていた。理事会は地方連銀に、コールマネー市場での資金量を減らすために貸出金利を上げることを求めた。それに対し、ニューヨーク連銀は、市場伝統気を抑えるためには公定歩合を上げたほうがいいと考えていたのである。FBRの手法だと会員銀行への貸出金利だけが上がることになるが、実際、市場で貸し出されているコールマネーの多くは非会員銀行や企業から出ていた。それゆえ、これら非会員の機関はFRBのやり方では必ずしも影響を受けない可能性が高いのだった。ニューヨーク連銀はFRBの方針を軽く見るようになり、ニューヨーク連銀の姿勢を支持する議員達が政界にも現れ始めた。

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ホメロスの世界 6/8~オデュッセウスの漂流

オデュッセウスは女神カリュプソの住む島に既に7年間も引き留められていた。オリュムポスの神々の会議が開かれ、その議決によって、かれはカリュプソから解放される。筏を組んで海中へ乗り出すのだが、難破してパイエケス人の島へ泳ぎつく。トロイアからの帰途、最初の冒険はトラキア辺のキコネス人との戦争であった。その町を襲い、女や財宝や家畜を掠め取ったが、すぐに逆襲に遭って命からがら船で逃げ出す。流され、ペロポネソス半島の南側を越えて、地中海西部へ迷い込んでしまう。10日目に着いたところは「ロートス常食人」の国であった。ロートスというのは木の実のようなものらしいが、部下のうち3人のものが、その国の様子を探りに派遣され、この実を食べたため、帰郷の意思をを失ってしまった。
次に流れ着いたのはキュクロプスたちの国である。これは一つ目巨人である。この巨人はちっぽけな侵入者たちを発見する。何者かと問い質されて、オデュッセウスは窮状を訴えたのだが、我らキュクロプスたちは、ゼウスその他の神々など問題にしないのだと暴言を吐き、オデュッセウスの二人の部下をいきなりつかんで地面に叩きつけ、むさぼり食ってしまった。オデュッセウスは剣を抜いて、この巨人を殺そうかとも思ったが、もし殺し得たとしても入り口の大岩を除くことができないから、この洞穴の中で死ぬよりほかない。それでオデュッセウスはその計略の才能を発揮して、身長に行動することにした。オデュッセウスは丸太の末端を尖らせ、それを焼いて巨人の目を突いて潰すための準備を整える。夕方になって巨人が帰ってくるとオデュッセウスはまず葡萄酒をすすめる。巨人は上機嫌になり、オデュッセウスに名前をたずねる。すると偽って「ウーティスだ」と答える。巨人が酔って眠り込んでしまうとオデュッセウスは、あの丸太棒を持ち上げ巨人の一つしかない眼の中に突き込んでぐるぐるまわす。巨人は大声を上げて苦しみ、仲間の巨人を呼びつけた。近くに住む巨人どもが、この洞窟の入り口に集まってきて、「だれかが、腕力か計略かで、お前を殺そうとしているのか」とたずねる。この巨人は答える。「ウーティスが計略で俺を殺そうとしている」。ところが「ウーティス」という語は英語のnobodyに相当する意味なので、仲間たちは安心して帰ってしまった。
魔女神キルケ、アイアイエ島
キルケは、偵察に出た部下を魔法で豚に変えてしまった。オデュッセウスは勇敢にもただ一人で救援に行く。途中でヘルメス神に遭遇し、魔よけの草を与えられたため、キルケの魔法を逃れ、この女神を脅かすことさえできた。逆の立場に追い詰められたキルケは、オデュッセウスに対して愛欲の喜悦を共にしようと誘いかける。そこでオデュッセウスは豚にされた部下を人間に戻して貰い、この女神から1年間も歓待された。しかし最後に仲間の意見を容れて帰郷を決意し、キルケに頼んでそれを許される。キルケは親切に、今は死んで冥界にいる預言者テイレシアスを訪ね、帰国の見込みについて予言してもらうようにと忠告してくれた。
冥界への訪問
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オデュッセウスは、冥界の入口へ行くため、オケアノス(大地の周囲を流れる河)の向こう側に渡った。そこにはキムメリオイ人が住んでるが、その国土には、いつも雲が垂れこめており、太陽は照らず、夜闇がひろがっている。このような冥界の様子を語る部分、すなわち第11巻は、この詩篇中でも異色の部分であり、たとえば日本の地獄絵ほどではないにしても悲惨な来世観を示している。
大嵐で遭難し、裸体のオデュッセウスを見て、娘たちは一目散に逃げ出すが、ただ一人パイケエス人の住む島国の王女ナウシカだけが踏みとどまって、毅然として立っていた。ナウシカはこの男を実直な人間と認め、衣類やオリーブ油を与え、体を洗い清め、美しい衣類を身につける。すると、むさくるしかった男が秀麗の丈夫となった。「このような男性を背の君と呼ぶことができたら、どんなに嬉しいことか」 ナウシカは、オデュッセウスと同伴して帰るのだが、都へ近づくと、世間の人々の噂を憚って、オデュッセウスだけは少し遅れて歩かせ、王宮へ着いたら、母なる王妃アレテに嘆願するようにと教えてやった。
カリュプソ
オデュッセウスの放浪中に出遭ったもののうちでは、とりわけカリュプソが、母権制的・地母神的な女神の性格を端的に現わしている。この女神は単身で島の洞窟に住み、訪れてきた男性を引き留めて、同棲させているのである。オデュッセウスは、この女神と7年間も同棲させられていたのであった。その間は、生活の苦労は全然なく、飲食を供され、そして愛欲の相手を務めていたのである。漂流中の飢餓や疲労や恐怖に比較すれば、夢のような安楽な生活であった。しかし、この英雄的な男性は、この安楽で無事な生活に、すぎに飽きてしまった。そして毎日、海岸に出ては海原を眺め、英国の家や妻子を思い慕って、涙を流していたのである。このような女神というものは、肉体は美しいけれども、その精神は、人間の女性よりも、かえってむなしいものらしい。




ウォールストリートの歴史 4/8 ~モルガン

Chapter5. マネートラスト 1890-1920
第一次世界大戦が勃発する前、アメリカ実業界は合併の時代を迎えていた。19世紀後半に続いて巨大なトラストが続々と生まれ、銀行家たちは革新的な中小企業を買収し、それを業界の巨人へと再編していくプロセスに力を貸し続けていた。銀行家たちはアメリカ経済を意義ある方向に発展させる努力もしないで略奪ばかりしていると非難する人たちが現れ始めた。いっぽう銀行家を連合国の資金調達を助け、アメリカの参戦に手を貸した愛国者と見る人たちもいた。
大恐慌が始まるとアメリカでもっとも有害な専門家集団と批判されるようになる。銀行家たちを攻撃した人たちも銀行家の富に腹を立てているわけではなく、富が経済力や政治力を集中させていることに反発していた。やがて連邦議会で中央銀行の設立を求める声が高まるようになった。銀行家は70年以上も中央銀行が存在しない中で、信用の手綱をどうやって取ってきたのだろうか
アメリカで名門と言うとふつうプライベートバンクや投資銀行と結びついていた。J・P・モルガン社、キダー・ピーボディー社、クーン・ローブ社、リーマン・ブラザーズ社、セリグマン社、ブラウン・ブラザーズ社、ハリマン・ブラザーズ社などがそうである。大手の商業銀行、ナショナル・シティ・バンクやファーストナショナルなども銀行界では名の通った経営陣がそろっていた。これらの人たちは銀行界で名が通っていただけではなく、マネートラストの一員としてアメリカという国の信用の手綱を独占的に握っていたのである。マネートラストは企業に信用を供与し、債券や株式による資金調達を行い、大量の株を持って企業の取締役会に参加することでアメリカの産業政策を支配してきた。20世紀初頭、銀行家たちは多くの事業について急速な中央集権化につながるような取引の成立に深く関わってきた。企業を合理化し、巨大な持ち株会社へ再編させる手助けをしてきた。鉄道会社や電話会社、保険会社など多くの大会社が持ち株会社を親会社とし、銀行家たちが提供してくれる資金を使って中小企業を飲み込んできた。大恐慌が起こるまでアメリカの産業界や金融界は連邦政府より敏速に成長、発展し、政府より大きな権力を行使していたと考えられる。当時の銀行業界を調べてみると、各州の条例に従い「国立」という看板を掲げていた国法銀行の多くが連邦政府のしっかりとした統制を受けていなかった。アメリカには1913年まで中央銀行がなく、ニューヨークの大手商業銀行は通貨や信用創造に責任を持つ中央銀行という権威が不在の中で、やりたいように振る舞っていた。
>モルガンの死亡が1913年、その半年後、同年にFRBは設立されている。
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鼻が奇形らしいな。
委員長を務めたルイジアナ州選出の民主党議員アルセーヌ・プジョーの名前を冠してプジョー委員会と呼ばれた委員会による聴聞会が世間の注目を集めたのは、マネートラストについて証言するためにJ・P・モルガンが出席したからだった。このモルガンの証言は、モルガン一族が20世紀に行った2つの有名な証言の最初のものとなった。ちなみに2つの証言は銀行家が行使している企業支配力の大きさを物語ったものとして有名である。この聴聞会でモルガンに尋問したのは主席調査官サミュエル・アンターマイヤーだった。モルガンは聴聞会で国民の福祉に欠くことができない産業分野でのモルガンやベーカーといった銀行家たちが手に入れた取締役の以上な数について、従来の見解を崩すことはなかった。石炭運搬は多くの公共団体と利害関係があったが、その業務は公共団体を所有しているトラストの傘下にあった鉄道会社がおこなっていた。モルガンは彼自身が8万kmの路線を営業する鉄道会社を支配していたことが裏付けられていたにもかかわらず、大手銀行家たちがアメリカ経済のさまざまな分野を支配していること、支配しようとしていることも含めて、きっぱりと否定した。ファースト・ナショナル・バンク・オブ・ニューヨークの会長だったジョージ・F・ベーカーは「マネートラストは一度たりとも存在したことがありません」と証言している。ベーカーはモルガン同様に「銀行にとって信用が大切で、銀行家は信頼するに足ると判断した人物や同業者が名誉を重んじて行動することを期待しているのです。銀行家が他の銀行の株を所有することも、経営権を持つことも自然なことなのです」といった内容の証言をしている。モルガンと十数人のパートナーたちは、47の銀行で72の取締役を占めていた。ファーストナショナルバンクの重役たちは他企業の89の取締役に就いていて、そのうち36社でモルガンのパートナーが取締役となっていた。金融分野以外では総資産が110億ドルになる32の交通システムで105の取締役を占めていたが、この数は当時として驚異的なものだった。結局、総資産額が220億ドルに達している112の企業で、341の取締役の椅子に座っていたのである。「マネートラストなど存在しない、中央銀行がないのなら資金と信用を提供することはマネーセンターバンクの当然の業務である」。プジョー委員会はJ・P・モルガンが公の場に姿を見せた最後のシーンとなった。
ニューヨークの裕福なユダヤ系銀行家一族だったポール・ウォーバーグは、当時ドイツ系の銀行に勤めていたが、連邦準備制度創設の原案づくりに加わっている。ジョージア州選出の共和党議員ネルソン・オールドリッチの依頼で秘密裏にジョージア州ジェキル島に集まり、ここで草案されたオールドリッチプランは連邦準備制度の青写真だった。ウォーバーグは、クーンローブ社のパートナーだった年上のジェイコブ・シフに「ヨーロッパ的な中央銀行構想は胸のうちに留めておいたほうが良い。さもないとニューヨークの銀行業界で君の評判を落とすことにもなりかねない」と忠告されている。1913年、アメリカの中央銀行として連邦準備制度が創設された。その主要な役割は、通貨が全国12の連邦準備地区に公平に分配されているかどうかを監視することだった。ウォーバーグは連邦準備制度理事会(FRB)の議長職を要請されたが断り、1918年まで理事を務めている。モルガン社のパートナーたちはこの制度が自分達の金融支配を脅かすものであることを見てとった。
1933年、証券市場の大暴落を受けて、投資銀行と商業銀行の業務を分離する新しい法律「グラス・スティーガル法」が成立した。この法律は、当時、活発に活動していたマネートラストの力を抑えるためものでもあった。ニューヨークの大手マネーセンターバンクはすべて証券子会社を持ち、この子会社を通じて証券、債券を引き受け、流通市場で売買していた。ナショナル・シティ・バンクのCEOにまで昇りつめたチャールズ・ミッチェルの銀行界における第一歩は、ナショナル・シティ・カンパニーという証券子会社の運営に成功したことからはじまった。モルガンはドレクセル社のブローカー部門を手中に収め、他の大銀行も証券を扱う系列の子会社をもっていた。
> 日本もマネートラストできてますな。おいしいとなれば、消費者金融から証券まで銀行の傘下に入ってます。
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ウォールストリートの歴史 3/8 ~独占スキーム

Chapter4. トラストの時代 1880-1910
20世紀を迎えると19世紀のアメリカ全土をつないでいた通信と鉄道に代わって、テレビと自動車がアメリカ国民の生活に欠かせないものとなっていった。19世紀後半の鉄道建設の拡大は、企業の合併、再編を促進し、1885年以降、アメリカという国の様相は大きく変わり始めた。地方の中小企業は全国に世界中の製品の販売網を持つ大企業に吸収・合併されていった。大企業はカーネギーやロックフェラー、ヴァンダービルト、グールドたちが残した莫大な遺産に助けられ、アメリカ経済の集中を成し遂げていった。企業の合併が進むと巨大なトラストが生まれ、それがアメリカの個人主義と独立独歩の理想に挑戦してきた。トラスト活動が盛んになると、世間はトラストを成り立たせているものに意義を申し立て始めた。少数の人間の手にこれほど大きな経済力を握らせる必要があるのか、労働者を歯車としてではなく人間として扱うことができないのか、経営陣の圧倒的な力から労働者や市民を守る必要があるのではないかといった異議である。
しかし、資本主義とトラストは発展を続け、多くの崇拝者をひきつけていた。トラストという言葉がアメリカ英語で市民権を得たのは19世紀に入ってからである。この言葉はもともと合併(マージャー)と同義語として使われていて、しかも独占という言葉と強く結びついて使用されていた。このトラストという企業合同の組織に参加するとき、各企業はトラストが発行する証書と引き換えに自社株を譲渡する。そこで参加企業は収益を受け取る権利とトラストを運営する財産管理人を選挙する時の投票権を得ることになる。トラストは中小企業を買収しようと決めると、その会社の株主に持ち株の代わりとなる信託証書が株式の代わりとなり、しかも、その証書が証券取引所でも取引されるようになっていたのである。初期のトラストは南部の農業関係の企業に多く見られたが、ほとんど小規模のものだった。トラストが自己資金で賄われ、買収相手の企業も自己資金で運営されている時、投資銀行の出る幕は無くて蚊帳の外ということが多かった。ロックフェラーも金融資本主義を警戒し、企業規模拡大のための資金を手持ちの現金や信託証書で調達する道を選び、ウォールストリートを避けていた。
高金利の資金を借り入れ、利子の支払いは新しい借入金で賄っていたが、この手法は20世紀に入って「ポンジー計画」と呼ばれるようになるネズミ講式のものだった。その名称の由来となったチャールズ・ポンジーは、ボストンでイタリア系移民を自分が立てた投資計画に誘い込み、莫大な配当を約束した。配当金を従前からの出資者に渡す時、新しく計画に参加してきた出資者の資金を使っている。このポンジーの計画を明るみに出したのはウォールストリートジャーナルの記事で、どんな投資でもポンジーが保証した配当を生み出すことはできないことが数学的に明らかにされていた。
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ポンジースキームの歴史は古い。21世紀になっても、この手法が繰り返されているとは・・・。
1890年代、ニュージャージー州が持ち株会社を認めたことで多くのトラストが組織を再編し、持ち株会社の傘下に収まることができるようになった。もともとトラストや持ち株会社は、同じ業種の企業が集まってできた水平組織だったが、時の流れと共にトラストは外へ外へと拡大していき、他の関連会社を合併して垂直構造をもつ組織になっていった。アメリカで初めて誕生したトラストであるサウス・インプルーブメント・カンパニーがもっとも質の良い顧客だったクリーブランドの石油精製会社もろとも鉄道会社との合併をおこなったとき、その狙いは組織の垂直構造だった。それに続くスタンダードオイルも同じ狙いで、石油精製のあらゆる分野に企業の合併によって事業を拡大していった。パイプライン会社や採掘会社を買収し、製品を直接販売するための施設も買い取っている。しかし、こうした独占的な勢力はさまざまな攻撃を受けることになった。シャーマン反トラスト法が成立する前からトラスト攻撃の兆候はあった。
19世紀後期に誕生した企業のなかで、この時代の代表といえるのはジェネラル・エレクトリック社とAT&Tである。エディソンもベルも発明によってアメリカの伝説的な人物となったが、どちらも経営や事業拡大していく能力に秀でていたわけではなかった。2人とも会社を設立した当初から、経営の専門家や外部からの資本調達に大きく依存していた。アレグザンダー・グレアム・ベルは1876年、電話の原型とも言える高周波電信機の特許を取得し、ほどなく電話を発明している。1877年、ベル・テレフォン・カンパニーを設立し、電話の大量生産を開始している。地方の会社とフランチャイズ契約を結んで全国的な電話網をつくり、ベルに特許権の使用量が入ってくるようにしようと考えた。しかし、その契約手続きが始まる前にベル・テレフォン・カンパニーは人手に渡り、新しい投資家に乗っ取られたのである。新会社の名前はアメリカンベルで、AT&Tという長距離通話の子会社も設立。しかし、地方の製造会社は親会社の製品をめぐって熾烈な競争を繰り広げていて、AT&Tを中核企業とする組織再編を行った。
 エディソンの研究室は今で言うメーカーの中央研究所で多くの発明を生み出し、注目すべき発明は1877年に発表されたレコードプレーヤーである。2年後、白熱灯の電球が開発され、同研究所はさらに有名になった。この電球は都市に電力を供給する発電所の建設を目指す壮大なプランのスタートを意味した。この発電事業に関して、エディソンはJ・P・モルガン社から計り知れないほどの支援を受けている。モルガンの銀行はニューヨーク市で最初の電灯利用者となった。エディソン・ジェネラル・エレクトリック社は当時、3つの主要な電力会社があったが、そのなかでもっとも儲かっている会社だった。残りの2つはウェスティングハウス社とトンプソン・ヒューストン・エレクトリック社だった。
【マドフウォッチャー】
2011.11.01: マドフ事件管財人がノムラとABNを提訴-約36億円
2010.12.29: マドフ詐欺事件被害者に72億ドル返還へ
2010.09.01: 英HSBCはマドフ事件の内部報告書の提出必要
2010.01.19: 巨額詐欺事件のマドフ、麻薬ディーラーと同室に
2009.10.26: マドフ受刑囚を米財務長官に
2009.10.14: テクニシャンマドフ 5兆円詐欺男のは小さい?
2009.08.31: Madoff’s Other Secret 愛、金、バーニー そして わ・た・し
2009.05.11: 行きどころのない金が香る
2009.02.06: Madoff続報 (号外)
2008.12.16: 5兆円詐欺事件に含まれるDerivativesの追跡





ホメロスの世界 5/8~オデュッセウス

第3章 オディッセイアについて
「イリアス」は、ヘクトルの戦死と葬式で終わっているが、その後アキレウスも戦死する。アカイア軍はやっとトロイアを陥落されるが、有名な木馬の計略によったのである。アカイア軍は味方同士の間で、また紛争を起こした。これまで仲の良かった総大将アガメムノンとその弟メネラオスとが帰途に着く直前に喧嘩を始めたのである。従弟のアイギストスが王妃クリュタイムネストレと密通しており、帰国したアガメムノンをただちに謀殺してしまった。メネラオスは嵐に遭い、エジプトまで流される。密通したアイギストスとクリュタイムネストレとは、アガメムノンの遺児オレステスに仇を討たれて、ミュケナイにも正しい秩序が回復したところであった。このように戦争中から戦後にかけての混乱はようやく納まりかけていたのであるが、オデュッセウスだけは戦後10年目になってもなお漂流を続けていた。っその間に故国のイタケ島では、この王は死亡したものと見なされるようになり、一種の無政府状態になっていた。そして孤閨を守る王妃ペネロペイアの周囲には、多数の求婚者が押し寄せてきていた。「オデュッセイア」は、このオデュッセウスの放浪と帰国の物語である。
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オデュッセイアにおいては、この善人と悪人との区別がまったく明白なのである。イリアスにおいては、人間の性格や価値は、これほど簡単には割り切られていなかったし、また事件の推移もまったく悲劇的だった。その悲劇性に「イリアス」の美しさがあった。それに比較すれば、「オデュッセイア」には少し甘い人道主義が安易に支配している、ともいえよう。そのため読者に深刻な感動を与え得ず、文学作品として、やや劣るかもしれない。とにかく戦後10年目の世界は、もはや善悪の超越した英雄時代ではなくなっていた。秩序と平凡の道徳を回復し、平凡な新しい社会を作り上げようとしていた。そして、そのような時代の雰囲気が神々の世界へまで反映しているのである。
 しかし、これほど根本的な変化がわうか10年間で起こったとは考えられない。私たち日本人は大東亜戦争に負けるや否や、政治や社会や思想の面で重大な変化を達成した。しかし、これは占領軍の圧力や極度に発達したマスコミの力によって、はじめて達成されたことである。ホメロスの世界には、そのような条件は存在しなかったし、概して古代においては、社会の歩みは、現代と比較すればはるかに遅々たるものであったはずである。
 「イリアス」と「オデュッセイア」との間の精神的な雰囲気の相異は、ミュケナイ時代から暗黒時代へかけての、大きな社会変動と関係している。第一章で述べたように、ミュケナイ文明は戦闘的な文明であり、そこから英雄の武勲を讃える叙事詩が発生したのであった。この文明が崩壊して鉄器時代へ入り、前代とは様相を異にする暗黒時代となった。詩人ホメロスが活躍した時期をたとえば紀元前8世紀とすれば、その頃には新しい体制が、相当に明らかな姿を示し始めていたはずである。すなわち、古典期のギリシアを特徴づける、あの民主的なポリス社会が形成され始めていた。
英雄時代と詩人自身の時代とを結びつける場合に、その主人公としてオデュッセウスが選ばれたのはまことに好都合であった。かれはトロイアへ遠征した英雄たちの中でも重要な役割をはたしていたけれども、きわめて小さな王国の王に過ぎなかった。「イリアス」第二巻の「軍船のカタログ」によれば、アガメムノンが100隻、ネストルが90隻、デュオメデスが80隻の船を指揮していたのに対し、オデュッセウスはわずか12隻しか指揮していなかった。王と言うよりもむしろ一個の有力な貴族と言うべきだった。換言すれば、オデュッセウスの社会的地位は、暗黒時代の中では、第一級の指導的な階級の地位に相当するのである。それゆえ暗黒時代の詩人はオデュッセウスという人物の中に、自分たち自身の時代の価値体系を容易に投入することができたのである。
英雄伝説と民話とを融合させ、英雄時代と詩人自身の時代とを結びつけるのには、相当な無理があったはずである。というのも英雄とは「イリアス」に見られるような英雄的価値体系に生きる人物であり、強烈な個性を持つ。それに対して民話の中では、平凡で素朴な価値体系が支配し、その主人公もそれに相応した常識的な人物であるのが普通である。ここで詩人は重大な課題に直面したわけである。すなわち英雄的な価値体系の体現者を常識的な価値体系の体現者へ変容させるという課題である。オデュッセウスという人物の精神的な成長こそが、この詩篇の主要なテーマとならざるを得なかった。




ウォールストリートの歴史 2/8 ~南北戦争

Chapter2. 鉄道と南北戦争の時代 1840-1870
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クックは1850年代後半の金融界で散々苦労してきたこともあり、政府債券に向けていた目を鉄道事業に集中させるべきだと考えた。鉄道事業の方が利ざやは大きく、マーチャントバンカーが自分で経営に参加するチャンスもあった。鉄道は国の生命線であり、エリー鉄道のような会社を避けさえすれば政府債券と同じくらい有望な投資先だった。1870年代の初頭、ノーザン・パシフィック鉄道の債券発行の独占代理人となり、さらに会計代理人となって取締役の任命権を手にした。報酬は会社の株の約4分の3で、会社の所有者となり、投資銀行となった。そして同社の債券を積極的に内外の投資家に販売しようとしたが、どちらもうまくいかなかった。
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国内の投資家は、グールドによる金の買占め、その悪名高いグールドが手を出していたエリー鉄道といった悪いイメージが鉄道会社に対してあったので、鉄道会社の株や債券には手を出そうとしなかった。そのためクックは同社の債券販売に苦労している。当時、ウォールストリートの雰囲気はグールドのおかげで張り詰めていた。グールドとラッセル・セイジは運輸会社パシフィック・メール・スチームシップ社の株をめぐって派手な株価操作を行っていた。グールドは、コモドール・ヴァンダービルトによって食い物にされていた同社の株をかなり買い込んでいた。クックのノーザン・パシフィック鉄道の持ち株について詳細が明らかになると、クックの銀行に預金していた人々は急いで預金を引き出し始めた。グールドが株を買い占めているノーザン・パシフィックの経営者の銀行に預金しているのは危険だと考えての動きである。1873年、ジェイ・クック社は運転資金の不足で銀行として営業を始めてからわずか12年で廃業に追い込まれた。これを受けて株式市場は暴落した。フィスク・アンド・ハッチ社、クラーク社、ヘンリー・クルーズ社も倒産し、1869年の暴落よりひどいありさまでウォールストリートが立ち直るまで数年かかった。
Chapter3. ロバーバロン(The Robber Barons) 1870-1890
アメリカ経済は南北戦争が終わると、かつてない勢いで拡大し始めた。人口は増え続け、これにヨーロッパからの移民の流入が拍車をかけ、国内に生まれていた新しい産業に労働力を提供することになる。国土も独立当時の3倍になり、開拓と制服によって新しい領土が加わっていった。南北戦争で拡大に水を差されていた鉄道も、再び営業距離を延ばしていった。1866年、大陸を横断するアメリカで初の電信線が敷設された。翌1867年、鉄道敷設に関するクレディ・モビリエ社事件のすっぱ抜きがあり、国民が抗議の声をあげている。1869年、大陸横断鉄道が開通した。
時代は管理資本主義と呼ばれるときを迎えていた。企業の経営管理は大きく変わろうとしていた。19世紀の初頭以来、株式会社が発展、成熟してきていて、大企業の多くは個人所有やパートナーシップではなく、株式会社になっていた。もはや企業経営者たちは企業の創始者の親戚でもなく、創始者の子孫に婿入りした人たちではなかった。こうした変化が起こると、ウォールストリートは株式会社をめぐって利益を享受し始めることになる。成長を続ける企業は新しい資本を必要としており、そうした資本を求める力が市場にも圧力として働いてきたのである。1873年のパニックで始まった長い経済不況のとき、300以上の銀行が何千という企業を道連れに倒産している。経済サイクルの下降局面で多くの銀行や企業が倒産したことから株主の責任が限られていた株式会社の人気が逆に高まった。この不況を生き延びた企業の多くの株価は下がり、相場師たちにとって乗っ取りやすい状態となっていた。実際、多くの相場師たちが、てぐすねを引きながら大儲けしようと暗躍していた。彼らは企業本来の価値に興味をもっていたわけではなく、株を買い占めて株価を操作するチャンスと見ていたのである。
ダニエル・ドルーの手法
ドルーが約束の品物を届けたとしても、それがどのような状態で届くかは保証の限りではなかった。噂によると彼はニューヨーク州北部で売買が成立した牛に、水も食糧も与えずに鉄道で長距離輸送したことがあり、列車が買い手のいる駅に近づいたとき、やっと牛に水を飲ませたという。牛(カウ)はドルーの「水増し株」として有名になった。この「カウ」という言葉は、現在のウォールストリートではキャッシュ・カウ、つまり莫大な利益を継続的に生んでくれる「金を生む雌牛」を意味する金融商品を指している。ドルーの最大の大当たりは牛の売買ではなく、株式市場での「水増し株」をめぐるものだった。19世紀の鉄道への融資は「水増し株」という特徴があった。鉄道会社の資金は債券で調達され、実際にかかる建設費用以上の資金が集められていた。債券の購入者は鉄道建設の全リスクを負うことになり、いったん計画が破綻すると新しい計画が立てられ、新たにかかる費用は債権者の負担となった。鉄道会社の株主には、その会社の取締役たちが含まれていた。こうした取締役達は株主ではあってもリスクがほとんどなく、彼らが新聞や広告で自社株を褒めると株価が急騰するのだった。水増し株という言葉について、のちにヘンリー・クルーズが標準的な定義を与えている。鉄道株は実勢価格が額面よりも高く、ベアの攻勢に対して脆かった。クルーズはこうした資金調達方法のリスクに気づいていて「ヨーロッパの膨大な労働者を魅了した社会主義というものの誘惑を、このアメリカという国の何百万もの労働者はやすやすと受け入れるであろう。いかに富の分配が不平等であるか、いかに組織化された資本が圧倒的な力を持っているのかも、彼らの目には歴然としている」と述べている。
ロバーバロンたちは、社会や経済の情勢を背負って市場という舞台に登場し、アメリカという国に多様な影響を与えてきた。彼らは企業や金融システムの弱点を見抜くということにかけては見事な才能を発揮したが、ほとんど正規の教育を受けていなかった。ロバーバロンの代表ともいえるジョン・ジェイコブ・アスターやコーネリアス・ヴァンダービルト、フィスク、グールド、ドルー、ラッセル・セイジ、これに続くジョン・ロックフェラーやアンドリュー・カーネギーがロバーバロンの好例で、ほとんど公的な教育を受けていなかった。
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ウォールストリートの歴史 1/8 ~独立戦争直後

Chapter1. 初期 1790-1840
ブルスと呼ばれるヨーロッパの証券取引所は17世紀に各国政府が自国の債券を募集し、大手の商業貿易会社が海外事業のために新たな資金を調達する場所として設けられている。1611年、オランダに世界初のブルスが設立され、およそ75年後、イギリスがこれに続いた。これらの証券取引所は発展を続けていた商品取引所と肩を並べるかのように新しい金融概念である株式や債券を活発に取引し始め、政府や初期の貿易会社は個人投資家を資本の源とみなすようになった。政府にとって、投資家からお金を借りたほうが税金を引きあげるよりも望ましく、はるかに安全だった。イギリスの歴代政府は、市民に重税を課したことがきっかけで一度ならず面倒な事態に直面したことがあった。アメリカ連邦政府は独立戦争が終わると国の財政が微妙で危険な事態に陥っていて、その事態がかなり深刻なものであることに気づいた。1789年から1790年にかけてニューヨーク市で初の連邦議会が開かれ、アメリカ合衆国の前身となった植民地が抱えていた戦争負債や大陸会議の負債はすべて新政府が引き継ぐことになったが、負債を返済しようにも収入はゼロに近かった。そこで合衆国政府は8000万ドルを借り入れようとニューヨークで連邦政府債券を発行した。
このような資金調達の場面で、アメリカ政府の主な競争相手となったのは国内で急速に独り立ちし始めていた各種の基幹産業や金融機関だった。これらの企業や金融機関のほとんどがイギリス資本の貿易会社のアメリカ支店ともいうべきもので、独立戦争の前から植民地でもよく名が知れわたっていた。商人や貿易業者、投資家は政府よりもこれらの法人をはるかに信頼していたので、新政府が債券を発行する時、かなり高利の利率を設定しなければならなかった。
バトンウッド合意:貿易商人は価格を設定するオークショナーとオークショナーと取引するディーラーの二手に別れ、オークショナーたちが証券価格を操作した。オークショナーとディーラー達はもっと長続きのする取引の場を作ろうと考え、価格操作を一掃し、バトンウッド(アメリカスズカケノキ)の下に集まって株式や債券を売買する正式な取引所の設立を取り決めた。
初の中央銀行
連邦議会が始めて召集されると第一の議題として合衆国銀行の創設が取り上げられた。合衆国銀行は1791年に設立され、本店はフィラデルフィア、ニューヨークを含めて東部海岸の主要都市に支店が設けられている。この中央銀行は当時既に数多くあった州許可の商業銀行と違って州境を越えて視点を持つことができた。このことが多くの州法銀行を苛立たせ、州法銀行は連邦政府や議会に打ち勝ち、州外の銀行が支店を作るという形で他の州に手を伸ばすことを阻止し続けた。1811年に合衆国銀行の許可が失効して中央銀行が解散した時点ですでに120以上の銀行が州の許可を取っていて、その多くが独自の銀行券を発行していた。数年のうちに市場には紙幣が溢れかえるようになり、これが元となって連邦政府は1817年、正貨支払いに頼り始めることになる。しかし数多くの新しい銀行とその所有者たちは、紙幣印刷の権利や能力を自分達の手に握っておくためにも強力な中央銀行に必死で抵抗した。
ニューヨーク取引所
対英戦争がもたらした混乱はバトンウッド合意に署名したディーラー達の事業を維持するために証券取引の組織化を進めようという動きを加速した。ディーラー達は1817年、ニューヨーク証券取引所(NYSEB)を設立することを決めた。NYSEBという呼び名は1863年まで使われ、その後、Boardが取れたNYSEに改めている。しかし新体制は理想から程遠く、取引成立時の証券価格は公表されなかった。価格の記録は毎日残されていたが、いつでも新聞が入手できるものではなかった。株価の情報が乏しかったのは日々取引されている証券の数が少なかったからで、1818年の時点で、合衆国政府債券5種類とニューヨーク州債券、銀行会社の証券10種類、保険会社の証券13種類、それに外貨取引が数種類という実態だった。上場されていた株式のほとんどはその地方の会社のもので、全国的レベルのものとはいえなかった。
新しい取引所ができたとはいってもあらゆる証券取引が新取引所で行われていたわけではなかった。取引から「会員限定」ということで締め出された人は多かった。そこで非会員のブローカー達は取引所の外に集まり、ウォールストリートの歩道で取引をしていた。場外取引のブローカー達は取引所で扱わない株の取引を専門で行うようになり、それが急速に発展して、ニューヨーク場外市場へとつながる流れを作り出した。ニューヨーク場外市場はのちにアメリカ証券取引所(AMEX)となるが、1920年代初期まで永続的な屋内施設に入ることはなかった
第二合衆国銀行が1816年に設立された。第一合衆国銀行の認可が失効した5年後のことであった。第二銀行を設立するように議会に圧力をかけていたのがステファン・ジラールとジョン・ジェイコブ・アスター(二人は財務省証券のシンジケーションで財を成した)だった。ジラールは断固として中央銀行制度が必要だと考えていた。州法銀行は中央銀行が州法銀行の発行した銀行券や貨幣を貯め込んで地金と兌換してくれと言い出すようでは困ると不満だった。中央銀行の関係者はインフレや通貨価値の下落を食い止めるために操作が必要だと主張したが、州法銀行はそうした主張に対して自分達の金を作り出す権利、能力が侵害されると考えていた。
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(見たことある? そう、20ドル札やー。アンドリュー・ジャクソン大統領)
ジャクソンは1833年、大統領に再選されるとすべての政府資金を合衆国銀行から引き揚げることで中央銀行を支持しない意思を明確にした。当時、合衆国銀行は財務省の供託所としても機能していて、この資金引き揚げは資金の流動性という面で金融危機につながった。多くの銀行が廃業に追い込まれ、海外の投資化も新規の株式投資を差し控えるようになった。1837年のパニックは19世紀で最悪の不況となった。多くの銀行が正貨支払いの停止によって廃業し、これらの銀行に経済的な生命線を託していた多くの中小企業が倒産した。とくに農業が受けた打撃はひどく、数多くの農民が破産に追い込まれた。
【胴元・市場創生者】
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ホメロスの世界 4/8~トロイア戦争

ヘクトルはトロイア軍の最高の指揮者であった。アカイア軍のアイアスが一騎打ちにのぞみ、終始アイアスが優勢であったが、夜になったので両軍の伝令が来て、引き分けさせた。しかし全体的な戦況はゼウスの加護によりトロイアの方が優勢であった。その4日後の大戦闘でパトロクロスがアキレウスの身代わりになって戦列に加わった。そのパトロクロスをヘクトルは討ち取り、まさに死のうとしている。翌日の戦闘でアキレウスが合戦に参加する。そして22巻でヘクトルとアキレウスとの一騎打ちが展開される。アキレウスの側には女神アテネが加勢し、アキレウスはヘクトルの急所、喉笛を槍で突く。ヘクトルは息を引き取る前に嘆願する。「自分の死体を放置して犬どもの餌食にしてくれるな。父母がかならず償いの物を差し出してくれるはずだから、それを受け取って、死体は返してやって欲しい」。アキレウスの心は鉄のように無情であった。アキレウスはこの死体に思いつく限りの凌辱を加える。
23巻でパトロクロスの葬送、翌日はアキレウスがパトロクロスの霊のために競技を主催する。勇士たちは互いに技を競ってはアキレウスから賞品をもらう。英雄たちにとっては戦争も一種のスポーツ、命がけのスポーツであったから戦闘休止となれば、すぐにスポーツに興ずる余裕があったのである。この後12日間もヘクトルの死体を戦車に結び付けてひきずりまわったが、この間アポロン神がヘクトルの死体を守ってやっていたため、どんなに引きずり回されても、肌には傷がつかなかった。
ヘクトルの父、プリアモスは、アキレウスに近づき、わが子を殺した仇敵の手に接吻して嘆願する。アキレウスはヘクトルの死体を洗い清めさせ、さらに美しく飾った上で、返してやる。肉親はもちろん、トロイアの人々すべてがこの死体を囲んで号泣し、やがて火葬の儀式を行った。ここでイリアスは幕を閉じる
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この話を題材にして”創作された”映画トロイ。ヘクトルがエリック・バナってイメージ違うな…、もっといかつい男を想像してたよ。映画トロイにおける「アガメムノン」は俗物すぎ。アキレウスが分家テティスの子に対して、アガメムノンは仮にもオリュンポス本家本元のゼウス直系なのに…
戦車の用法
イリアスの戦闘では、戦車の使用が顕著である。二頭の馬に曳かせる二輪の軽快な戦車であって、主要な戦士と御者との二人乗りである。しかし、この戦車は戦闘の場への往き帰りするための単なる乗り物の役割しか果たしていいない。戦車の上から槍や弓で攻撃することはまったく見られないのである。敵の直前まで来ると、戦士は車から飛び降りて歩兵として敵と一騎打ちする。最初に槍を投げあい、それで勝負がつかない場合には、剣などで戦い合う。他方、御者と戦車は、敵を追跡したり、逆に逃げ出したりするときのために近くに待機している。さらに興味深いことには、陸上にいる戦士と戦車上にいる戦士とが遭遇してそのまま戦った場合には陸上の戦士の方が勝つという原則がある。戦車の上は不安定で戦いにくかったのであろうか。戦車の戦車らしい用い方は一度だけ現れる。第4巻で老将ネストルが「古人の戦法」だとして提案した戦術である。戦車隊を先頭にして、歩兵隊を後に従わせ、戦車隊は秩序正しく車上から槍で戦う方法である。しかし、この戦法は提案されただけで、実際に用いられた形跡は、イリアスには見られない。
 ただし、イリアスにおいて、戦車は乗物としてはかなり重要であった。サラミスのアイアスとディオメデスとの、戦闘での活躍の仕方を比較してみればこの点は明らかになる。ティオメデスは戦車に乗っており、攻撃の際に特に顕著な活躍をする。他方アイアスは味方が退却する時にしんがりを務めたり、防戦の時に頭角を現したりする。かれはしばしば「アカイア軍の防壁」と呼ばれている。このようにして、戦車を用いることによって攻撃や退却が速くなっていることは確かである。そしてミュケナイ時代においても、この程度の効果しかなかったものと、私は想像している。支配階級は戦車隊を組んで戦い、戦闘での大きな役割を果たすことができた。かれらの地位はそれによって安定したものであり得たであろう。しかしギリシアでは、個々の英雄が部下よりも遥か前へ出て戦うために、戦車は用いられたのである。イリアスにおいては他の人よりも前へ出て戦うことが、英雄の義務であった。かれらにはそれ以外に顕著な軍功を挙げて支配階級としての体面を保つ方法がなかったのである。
詩的な宗教
詩人が描き出したところによれば、神々は姦通や乱暴や欺瞞など、あらゆる罪を平気で犯す。そして人間に対する干渉も必ずしも道徳的ではない。しかし登場人物たちは、概して神々を道徳の実現者だと信じていたようである。イリアスの事件の推移は勧善懲悪的には進行せず、冷酷なほどの悲劇に展開している。その劇の展開を、神々、とりわけゼウスが操っているのだが、その操り方は、極めて冷酷なのである。しかし、ホメロスの描く恣意的で人間的な神々はまったく宗教性を帯びていないとまでいえるであろうか。神々の行動を詳細に物語る詩人の立場はいかなるものか。詩人自身は特定の事件の背後で、どの神が操っていたかを実に具体的に物語っている。他方、登場人物たちは、すべて何らかの神々の操りによるものだと信じているが、その神々の操る手を漠然と感じることはあっても、明確には知らないことになっている。ところが詩人は原因ばかりでなく、その間の事情を具体的に描いてみせることができるのである。
 ホメロスは、遠い昔から発達してきた英雄叙事詩の伝統に立脚して、物語っているのであった。その伝統の所与の量に比較すれば、彼自身の創作の程度は微小なものであった、ともいえるであろう。詩の内容ばかりでなく、その韻律に合わせて詩作する技法も、伝統によって与えられたものであった。それゆえ詩の内容も技法もすべてが女神ムーサの啓示だと考えられたのも、自然のことである。
 ギリシア人は感受性が極めて強かったから、傑出したものや奇異なものに接すると、あまりに大きな感動を受けて呆然となってしまう。この感動から美術が生まれ、知的探求も生まれたのである。プラトンは驚異の感情こそが、「愛知」すなわち哲学の始まりだと語っており、アリストテレスも同様の説をとなえている。もちろんホメロスの時代は哲学以前であり、ただ感嘆して呆然となっただけなのである。ホメロスの聴衆は、超自然的な神々の英雄の活動を、このような精神状態で聴き入っていたに相違ない。


ヒトラーのシグナル スパイ物語

1941年、ホテル・ベルビュ(アメリカ・ワシントン)で死体で見つかった男は本名をたしかにサミュエル・ギンスバーグというが、クリビツキーという名前で知られるソビエトの元情報将校で、スターリンの手を逃れてアメリカに亡命してきた人物だという。
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1937年 東京丸の内、帝国生命館に事務所を構えていたナチス対外組織部、東京支部長ルドルフ・ヒルマンからベルリンに当てたもので「ハック博士について」と題された文章は「ハック博士は、飛行機の売り込みのため、日本軍部との関係を緊密にすることを第一の課題としているように見受けられる。この任務がドイツの国益にとって有益なることは認められるがハック博士については疑わしい点が続出している。1936年から日本に滞在、ドイツのどこかの部署から政治的な使命を与えられ、日本で活動していたのではないか。ごく最近、樺山伯爵からハック博士は日独防共協定の責任者であると聞かされたのもその一つである。これが事実だとすればハック博士自身、それ相応の秘密保持に努めるべきである。ハイル・ヒトラー」
初の日独合作映画「新しい土」撮影隊のドイツ側のプロデューサーであったドクター・ハックの行動に疑問を抱いたナチス東京支部の密告書である。ドクター・ハックが理由不明のままゲシュタポによって突然に逮捕されたのは、この報告書が書かれた4ヵ月後の昭和12年7月のことである。
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ドクター・ハックの名が海軍記録の中に始めて登場するのは1920年、三菱の技術者がヨーロッパを視察した際に、案内役として同行した時である。ハックの手を通して日本に輸入されたものは、ロールバッハの飛行艇、デュレネル・メタル、ウェルケのジュラルミンなどでその中で最大のものはハインケル社の航空機であった。ドイツ空軍が採用する以前に、新機種の設計図や試作機の情報をハックを通して日本海軍は入手することができたのである。
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防共協定案に日独双方で大きな思惑の違いがあった。ドイツ側としては防共協定を日本だけど結ぶのではなく、イギリスやポーランドとも結びたい意 向が強かった。ソビエトに対抗する西欧同盟といったものを構想していたのである。とりわけヒトラーはイギリスをこの協定に参加させることを強く望んでいた。これはドイツとだけ同盟を結ぼうと考えていた日本陸軍にとって受け入れがたいものであった。
1935年モスクワを舞台に開かれたコミンテルン(国際共産主義運動)の第7回大会は大きな戦術転換を行った大会として知られている。日本とナチス・ドイツの国際連盟脱退、ドイツの再軍備宣言、イタリアによるエチオピア侵入と、世界情勢は緊迫していく。ソビエトは国際連盟に加盟し、ヨーロッパ諸国との接近をはかった。同時にソビエトが指導するコミンテルンも世界革命から人民戦線の結成へと転換した。人民戦線とは、進歩的な勢力を結集して反動勢力に対抗しようというもので、そこには各国に人民戦線をつくり、親ソビエト政策を取るように働きかけることが、急速に台頭しつつあるファシズムと闘う有力な手段だとする、ソビエトの考え方が強く働いていた。
ヒトラーの関心はスペインに親独政権を作ることにあった。東と西から宿敵フランスをはさみうちにすることが可能となる。ヨーロッパで力を持ち始めた人民戦線派に大きな一撃を与える絶好のチャンスであった。これに加えて、スペインが産する鉄鉱石や水銀などの資源も大きな魅力であった。フランスのブルム首相はイギリスのボールドウィン首相と会談して「帰国がスペインの援助をなさるのも結構。ただしその場合はイギリスをあてにしないでいただきたい」と語ったという。
クリビツキーは、本名をシュメルカ・ギンスバーグ 1899年生まれのユダヤ人である。1917年ボルシェビキの革命がおこった。「私とって、貧困、不正、不平等を一掃する絶好の機会と思えた。私は全身全霊をこの革命に捧げる決心をした。マルクスやレーニンの信念を、諸悪を打ち破る強力な武器と考えたのだった」
ロンドン郊外リッチモンドにあるイギリス国立公文書館、イギリス外務省や海外情報局M16が集めた、幕末以来1955年までの日本に関する膨大な量の情報が整理され治められている。史料はその重要度に応じて公開の解禁年限が、25、50、75、100年そして永久禁止と分かれている。1987年まで閲覧禁止の資料の中に1936年の「日独防共協定」に関する資料が含まれていた。
大島武官が打った暗号電報はベルリンの情報局からナウエンにある中継所を経由して送信されたことが私たちの調査でわかった。ベルリンであった通信の専門家はナチスの諜報機関はこのナウエンの中継所で傍受し、交渉相手のドイツ当局が、大島と東京のやりとりをすべて盗んでいたのである。そしてクリビツキーが密かにナチス諜報機関内部に潜入させていたエージェントがナチスが傍受した極秘電報をまんまと手にいれた。
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科学する麻雀

ライバルに読んで欲しくない麻雀の本、読んで強くなる麻雀の本かも。なので内容を具体的に書かずに超要約してまとめると
第1章 変な格言信じるの止めない?
第2章 大事なのはとにかくスピード(リーチと良形待ち)
第3章 攻守分岐点、聴牌Go、イシャテンStop
第4章 おりる時はとにかく現物。
第5章 何切るクイズ
第6章 配牌悪くともないてあがりにこぎつける
第7章 強さの規定
とまぁ、こんな感じで、非常にシンプルに、データを元に定量的な姿勢で書かれている。面白いことに、近代麻雀に代表される麻雀漫画やドラマは、この本の対極、やたら高い手(3900点じゃドラマにならないからだが)、スピード軽視(とにかく即リーでもドラマにならない)、一点読みの強気打牌(合理的に考えて無理だろ)、などが散見される。
巻末のプロ雀士たちの反論も気持ちは理解できないでもないが、この本はコンピューター雀士最強の可能性を示唆している。パターン認識と最適戦略を実行し、読みや流れと言った偶然性を持たないブレない打ち方をする雀士だろう。オセロ、チェス、将棋の世界でもコンピューターが人間を打ち負かす中、麻雀は例外ととらえる方が不自然だ。競技人口の偏りから、最強プログラムは日本で生まれると予想する。麻雀の本家の中国の経済規模は、GDPで追いついているのだが、こういう開発や文化的なレベルでは日本に追いついていないということを証明することになろう。ソースコードのByte数はオセロ<麻雀<将棋 の順になろう。
いつの時代、どこの世にも、伝統的手法の信奉者たちがおり、おそらく我々の世界も同様である。切った張ったの”相場観”が支配的で、様々な無意味な格言がある(けっこう名言が多いので個人的には好きだが)。そこにコンピューターや数学が導入された時、まったく理解できない長老たちが拒絶反応した。
「数式で将来の株価が導けるのなら、世界で一番の金持ちは数学者になるはずだ。」という抵抗勢力の戯言はよく聞くが、そもそも株価は予想するものではないというArbitrageの発想なのね。実際、Arbitrageは四則演算と機械でできるものも多いので、Arbitrage Opportunityなどほとんど存在しないのが現実で、よりタイトにMarket Makeするために、数学を利用するという程度のことだ。
なかなか面白い本でしたと褒めておきましょう。今までこういう本がなかったのが麻雀の狭さですね。「理系の専攻で銀行で何するの?」みたいな発想がまだあるので、麻雀界でも早く数学を導入し、とつげき東北の次世代は、最強プログラムの開発に勤しんで欲しい。コンピューターの処理速度次第だが、全員プログラム雀士なら東南回しで数秒で終了というシュミレーションも不可能ではなく、1000半荘の統計も容易に取れるであろう。これが基盤開発。プログラム雀士は、基盤から情報をもらうだけなので、開発の参入障壁はかなり低く、多くの優秀なプログラムが集まると思うが、最強ロジックはかなりシンプルなものとなろう。解く前に、解の存在と一意性から、ということで予想すると、一意性はあると予想する。つまり、相性(相手)によって結果が激しくぶれてしまい、最強プログラムが一つに規定できない状態にはならず、どんな相手でもムラなく勝てるロジックが作れてしまうであろう。
真面目な話をしている最中、非常に申し訳ないのだがプロというのはこういうことだ。

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ホメロスの世界 3/8~イリアスの登場人物

第2章 イリアスについて
イリアスの主題 トロイア戦争の原因になったのは、絶世の美女ヘレネである。スパルタの王家に生まれ、婿メネラオスを迎えて、王妃となっていたが、夫の留守中に異国の美少年に誘惑され、駆け落ちしてしまった。この美少年と言うのは、トロイアの王子パリスであって、ヘレネも海を越えて、この新しい夫とともにトロイア王城に住むことになった。メネラオスの兄、すなわちミュケナイ王アガメムノンが総大将となって、ギリシア各地の諸王国の軍勢を集め、トロイアへ遠征し、ヘレネを奪い返そうといた。トロイアは堅固な城壁をめぐらしており、近隣から援軍も来ていたので、戦争は10年間もつづいた。しかし、ホメロスは戦争全体の経過を年代記式の順序で物語るのではない。戦争の10年目、トロイア陥落の直前の事件を取上げ、その約50日間の経過を物語るだけなのである。
ヘレネ(左)、戦争になるほどの美女みたいです。
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アポロンに仕える神官クリュセスの娘が捕虜になり、アガメムノンのものになっていた。神官がアポロンに祈ったため、アポロンはアカイア軍勢に対して疫病を降らせた。将兵はばたばたと死んでいった。アキレウスはアガメムノンに忠告して、神官に娘を返してやらせた。ところがアガメムノンは、その代償として、アキレウスの女ブリセイスを権力に任せて奪い取ろうとする。アキレウスは怒って、この総大将を切り殺してしまいそうになる。しかし老将ネストルや女神アテネの忠告に従って思いとどまる。アキレウスは、自分の価値や正しさを信じて行動する若者だ。現在の秩序を悪しき矛盾に満ちたものと見なし、それに反抗する若い革命家たちに似ている。そのような若者の原型だといえよう。これらの若者たちの多くは、結局、現存の社会や政治の機構の堅固さの前に屈折せざるを得ない。この屈辱を味わったアキレウスの心の今後の動きが、『イリアス』の中心的テーマなのである。この傷ついた心の救済は、神々の計らいによって果たされてゆく。アキレウスの母は女神テティスであった。だから救済の端緒は、この女神によって始められる。
テティスの洗礼。若き日のアキレウスですね。
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アキレウスは涙を流した。すると、海底で老父の傍に坐していた母なる女神が、その声を聞きとめた。それで大急ぎで灰色の海から霧のように昇り現れた。そして涙を流しているアキレウスの面前に坐り、手で撫でてさすってやり、名を呼んで言葉をかけた。
アキレウスが幼児のように母親に甘えているのには、なお別の含みがある。母が女神であるにしても、少し異常な甘え方ではなかろうか。しかしアキレウスの育ち方は、少し異常であったのである。テティスは女神でありながら、ある事情により、人間の男性ペレウスと結婚し、一子アキレウスを生んだ。ゼウスの妃ヘレがテティスを「みずから養育し、ペレウスに妻として与えた」のである。ペレウスにとってこれは身分不相応な結婚で、破局はすぐに起こってしまった。テティスは幼児を残し、海底の父の館へ戻ってしまった。それ以後アキレウスはいかなる女性の胸にも抱かれること無しに育つ。彼を養育したのはポイニクスという男性であった。
アキレウスはトロイアへの遠征に参加すれば、高い名声を挙げるけれども、若い身そらで戦死するという運命に定められていた。その運命を母から教えられていながらかれは戦争に参加してきたのである。アキレウスは戦場から身を引き、それによって自分の武勇の価値をアガメムノンに思い知らせようと計画していた。それでテティスはこの計画通り、アキレウスが身を引いている間はアカイア軍を敗退させてほしいと、ゼウスに頼み込んだ。ここで第一巻は幕を閉じる。
アキレウスの留守中に、アカイア軍は圧迫されてしまった。パトロクロスは味方の苦境をこれ以上、眺めてられなかった。それでアキレウスの武具を着用して身代わりとして出陣した。出陣するパトロクロスを前にしてアキレウスは次のように祈った。
父なるゼウスよ、またアテネおよびアポロンよ、どうか、あらんかぎりのトロイア人のうち一人として死を逃れませぬように、あたアルゴス人(アカイア軍)とても、同様でありますように。ただ我々二人だけが死を逃れ、トロイアの神聖な冠を打ち砕く役目を果たせますように(第16巻97以下)
友情もここまで度が進んでは、少し異常だといわねばならぬ。古典期ギリシアでは、男性の同性愛が相当に普及し、時には異性愛よりも高級なものと評価される傾向さえあった。しかし「イリアス」には両人の肉体関係を暗示する証拠は一つも見出されない。各々異性との関係はあったから、その点では正常であった。ある学者の解釈によれば、パトロクロスはアキレウス自身の模像であり、それゆえアキレウスはパトロクロスの中に自分自身を愛しているのだという。一種の自己陶酔症だということになる。
> いやいや、子供がいる同性愛とか、結婚している同性愛もあるぞ。


眞説 光クラブ事件 3/3 ~国家権力との闘争

軍隊時代にこの人物なら大丈夫と思う学徒兵の仲間には「五箇条の勅論(注・軍人勅論のこと)をかしこみ一命を海に捨てようと私は云はうと思ふ なぜなら国家は最大の悪である 虚偽は最大の善である」といった手紙を出したりしているのである。
国家は最大の悪か・・・20代の若者の意見として、おじさんはニコニコとうなづきながら聞こう。
山崎の歩もうとする法律の世界は、人間の感情や思惑に振り回される世界であり、法律の条文がその立場によって解釈も変わってしまうという世界である。
当時(一高から東大法学部に合格した頃)私は数量刑法学・・・ともいうべき一つの学問体系をつくろうと思っていた全刑罰法規全体を総合考察した、法定刑における刑罰数量の論理的構成を明らかにして量刑上の処断を限定するもので建築技師が対数表によって設計するように裁判官はこの刑罰数量表によって合理的に判決できる。
この刑罰数量表をつくってみようというのが、山崎の学問上の目的だったというのである。私が何人かの弁護士に尋ねると、こんな数量表で刑が執行されることになるなら、我々の仕事は不要になると笑うだけだった。
インフレ状況下での現金不足に悩む企業、それに運転資金の回転が円滑でない企業は正規の金融機関からの調達には時間がかかる。それは待っていられない。それでヤミ金融であろうが、とにかく資金調達の場を確保しておきたいとあせる。こうした状況下で、大蔵省や警察・検察はどこか一社を対象にして、このようなヤミ金融の存在は社会正義のために許されないとの意図をこめて罰則を加える必要があった。いわば一罰百戒である。山崎の光クラブはその対象になった節もあった。当時のヤミ金融の実態にふれておくならば、大蔵省の各地方統計局の調べによると、昭和24年4月の段階で東京は239人、大阪が395人、神戸939人、神奈川が139人のほか北九州、広島などでもヤミ金融業者の活発な動きがある。税務署がその動きを追いかけているのは所得9000万円の森脇将光とやはり東京の所得1000万円の貸金業者というが、それでも昭和22年度から23年度の新興金融成金業者の摘発を続けているにもかかわらず、成果は上がっていないのだという。
「私にかけられた容疑は、物価統制令違反、つまりは金利が高すぎたということでしょうが、貸金利法によりますと、我々貸金業者の金利決定は臨時金利調整審議会にかけて決まったものではない。大蔵省は日歩50銭としているが、これは臨時金利調整審議会にかけて正式に決まったものでない以上、違法行為といっていい。だから私がたとえ日歩70銭で貸し出しを行ったところでおかしくはない。もし大蔵省がこれに横槍をいれるなら、私の方が大蔵省の違法行為を訴えたい。」
山崎は終始この論法で押した。これは正論であった。実施には大蔵省の行政指導が前面に出ていて審議会は名目に過ぎなかった。その点を巧みに突いたのである。山崎は自身の予想通り一ヶ月余りで釈放になった。
戦後のホリエモンを地で行く感じだな。
初めての客は50代の男性で小金持ちだ。山崎が出勤してみると、三木がその小金持ちに光クラブの説明をくり返していた。事実と嘘が入り混じっている弁舌で、この医学生は山崎よりもこの仕事に関心をもっているようであった。まず三木の弁は長くなるが紹介しておくことにしたい。
「会長はまだ若いですが、その道では人に知られた練達の士で、東京帝大の最高学府を出た秀才でしてね。私も大学を出てるのですが、敬服して入会してるのですよ。堅実第一・・・つまらぬ事務所に金をかけるより、お客さんのため最も有利な貸し出しをやるために夜も寝ずにやっている努力家です。何しろ会長の家は、千葉県でも何番目かの資産家で、その関係からも資金が流れてくるので、いままでは余り宣伝もしなかったのですよ。今朝も50万円ばかり出したという会員があってそっちに廻ってますが、いまに来ます、や、来ました。こちらが会長の山崎氏です。」
「ヤー、イラッシャイ、御投資の方ですか、三木君。そうですか。三万円ほど1か月ためしに投資したい?判りました。私は皆さんに私を信用してくれなどと言いません。ここに30000円ある。30000円ただ抱いているだけでは何もならない。今は金より物の時代ですから、取引の時は現金取引です。戦前のように信用取引がない。サッカリン10キロ売ってもいいというAを見付け、また一方にサッカリンが欲しいというBがあってもCは金がなければ荷が動かない。昔ならAから掛けでサッカリンをかってBから金を取ればよかったが、今ではまずAに金を渡し、サッカリンを受け取ってBに渡して代金を取る間の”みせ金”がなければならない。ウチは主にこの”みせ金”を貸すのです。Cは、いまどきです、相当儲かるから日歩1円や1円50銭の金利はなんでもない。日歩1円なら10日で1割ですからね、アメリカでも大戦後は、小売のマージン-利ざやですね、これが3割を越えている。日本のブローカーも3割以上をとっているから、うち1割の金利は簡単に払えるわけです。あなたの30000円もウチの金と合わせてこの”みせ金”に使うわけですよ。ただ持ち逃げされると困りますから光クラブの事務員が金と一緒にブローカーについて歩く。この給料をを頂かなくてはならぬから、10日1割、月にして複利計算して3割4分の利息が入りますが、クラブの1割9分頂き、お客様に1割5分、月々お払いすることになるわけです。お判りになりますか。この3割4分マイナス1割9分=1割5分という科学的機構を信用して頂きたい。数学を信用して欲しいというのですからこんな若造を信用するより堅実でしょう。」
この台詞びびるわ。他人とは思えない。俺の仕事と全く同じ論理。
私は自分が天才だとは申し上げません。私がうまくやるとか天才だとか属人的なことではなく、デリバティブが持つ性質で損失は常に限定的であることが保証されるのです。これは小難しい確率論ではなく、”算数”です。」
「東大生社長の光クラブは大々的に預り金募集を行っている。これは預金と貸付を併せ行う銀行類似であり、小ヤミ金融界の新設銀行である」として銀行法違反と決めつけられた。あわてて山崎は、銀行法をめくttみたという。その結果、銀行法違反はコーヒー一杯の値段にも及ばない罰金50円の罰則である。「なんだ」と山崎はつぶやいている。
50円など形式的な罰則はないと同様である。罰則のない法律は強制力のない倫理、道徳の類である。私は社会秩序の規範として、法律は守るが、モラル、正義の実在など否定している。私は合法と非合法のスレスレの線を辿ってゆき、合法の極限、法律によって禁止されていると誤解されているものを、きわめたいと思っているのでほとんど強制力のない倫理綱領類似の銀行法など問題ではなかった。
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【国家権力による搾取】
2012.03.19: 下山事件 最後の証言 1/2 ~国鉄合理化
2012.01.10: 競争と公平感 市場経済の本当のメリット 3/3 ~規制と経済効果
2011.10.12: 日本中枢の崩壊 1/2 東電
2011.08.05: 金賢姫全告白 いま、女として2/6 ~今、君が嘘をついた
2010.10.14: 道路の権力1
2010.08.24: 中国の家計に約117兆円の隠れ収入、GDPの3割
2010.07.05: 警視庁ウラ金担当
2010.05.20: 秘録 華人財閥 ~独占権、その大いなる可能性
2008.09.24: 俺の欲しいもの
2008.09.23: 被支配階級の特権
2008.07.18: Olympic記念通貨に見る投資可能性








眞説 光クラブ事件 2/3 ~女性遍歴

「山崎さん、あなたに惚れて仕様がなかったという女はありましたか」という問いに答えた部分である。
「ないわけではありませんが、そういうのは私の方で好かないのです。不思議なものでございますね。というのは理想の女性には愛されないということが結論でございましょう。つまり理想が自分以上に高いというわけです。いや自分より高いというよりもパーセンテージからいえば男の良き性格にくらべて、女のよき性格を持ったものが少ないのでしょう。だから私と同じ程度の人は私より以上の人に行くべきであり、私のところに来るのは常に私より以下のものだということになるのでございまして、女はつねに男よりも劣等だということでしょう。
概ね同意ですが、対して私も私見を述べさせていただきますと、私よりも優秀な女性というと印象がよくないので、私の劣等を許容していただける女性の方が良いですね。しかしよく考えると、劣等な私と時間を共有することの意義をあまり考えてらっしゃらない女性ということになり・・・、いわゆる「お金持ちが好きな女」と同様の矛盾を抱えることになります。金持ちがなぜ金持ちかって、お前みたいな女に無駄金を使ってこなかったからだろ・・・とつっこむくらいなら、私も自分でつっこまないと。
「合意は拘束されるべき」とこだわりつづけるのは、実はひとりの女性に手ひどい裏切りにあったからだとわかるのだが、とくに女性のあまりにも露骨な演技に欺かれたという悔しさを元にしていたのである。S・Kは光クラブでの社長秘書募集という新聞広告に応じて訪れた22歳の女性である。「才気煥発、よく身の回りまで気のつく」女性だったからという。「求む秘書、近代的教養アル女性、容姿端麗ノコト」というコピーを出したのだが、実際、S・Kは世間で言う美人のタイプでもあった。「彼女を処女とのみ信じ、彼女の親切さを自分個人にのみ対するものと思ったところに私の誤算があったのだ」と嘆くことになる。
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ホテルの一室で山崎はそれとなく、彼女に関係を迫る。当時のGHQの検閲を通らなかった部分があるように思える。
私は戦車のようにただ力で押した。
唇を離すと、K子は喘ぎながら
「あたしキライよ」
といつた。
「僕がキライなの、それともこんなことが?」
「社長さんがです」
それをきくと、私は私の実力で、K子を好きにしたいと欲望にかられた。
渾身の力をこめて、遮二無二行動した。
反抗にあえば遭うほど、快いものが私の血管をズキズキと突っ走った。
(私は偽悪者より)
K子は山崎の前では初めての体験にふるえながら次のような言を吐いた。「こんなことが人間社会で普通だとしたら、わたし、今日家へ帰ってから、お母さんの顔がきっと醜く見えるわネ」
山崎は「ああ、醜いのはK子、お前だ。そのとき、すでに妊娠3ヶ月の体であったとは・・・それどころか私は、彼女に山本という下級税務吏の恋人がいることさえ知らなかったのだ。私は地獄の果てまで遍歴するファウストだ。私はドン・キホーテではない。」と罵っている。
山崎はK子についての詳細な調査を探偵事務所に依頼する。報告書には山崎が慄然とする内容が書かれていた。山本某とS・Kはそれぞれ中央大学予科、ドレスメーカー女学院在学中から交際し、美松ダンスホールに同伴で来店をくり返していたという。昭和23年5月、山本は京橋税務署に勤務する身となったが、同年10月にはふたりで4日間にわたり熱海に旅行するなどして、それが両家の両親に洩れて監視状態に置かれるも、「両人は何等の反省無く益々同伴回を重ねて情欲を充たしS・Kは昨今山本の借間たる根津須賀町の某方に往々宿泊、山本と同衾するに至る」 S・Kは山本の成績をあえるために光クラブに入り、スパイ活動のようなことをしている伺える報告もある。山本の光クラブに対する感情という項があり、そこでは「公的には不愉快とは思わぬが、個人的にあることから不愉快に思っている」とも書かれていて、これは山崎のS・Kとの性交渉をさしているとも窺える記述であった。
「君の恋人の山本君の手足をもごうが、片輪にしようが、僕の自由だ。そうしたら、君はどうする」と詰め寄っている。K子はあっさり答えた。
「あたしは何も最初から処女だとか未婚者だとか言いませんでしたわ。あたしに恋人があったって、その人と結婚しようと、これもあたしの自由ですわ。」すると山崎はすさまじい言で罵った。
「あいつの自由を奪ったら、君はきっと転落してパンパンになるだろう。そしたら、パンパンの君を僕が買ってやる」
山崎は投じの同年代の者がそうであるように、北海道で遊郭にあがって性を覚えた。その後はなんども遊郭にかよったという、その分だけ処女へのあこがれが強かった。
ホラホラ・・・無理やりやるからこういうことになるんだよ・・・俺はそういうことはしないぞぇ。ございます調なんだろ? だったら「キライ」なんて言われたら、「ハッ、申し訳ございませんでした。では本日は失礼させていただきます」くらい言ってのけないと自己矛盾があるんじゃねーの?
昭和24年7月4日に、光クラブが京橋署によって摘発された裏には、山崎のもとに巧みに入り込んだS・Kの情報が発端になった。山本某を通じて京橋税務署が前面に出てなかば強制的に光クラブの裏側を暴いた。二重帳簿のすべてが押収されたために光クラブは事実上活動ができなくなったのである。山崎は検挙されてから拘置所であまりにも内部事情が筒抜けになっているのに驚いた。
税務署と女には気をつけろ・・・メモメモ・・・ダブルでやられるとは、真実は小説より奇なり
私も「また変な女にひっかかってるんじゃないの?」とよく忠告されるのですが、私自身としては女性に騙されたことはないと思っています。私は騙されたことにも気付かない馬鹿男なのでしょうか?
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眞説 光クラブ事件 1/3 ~山崎晃嗣とは

光クラブ事件要約
金詰りの街に私設銀行が続出しているが、その一つ学生社長の「光クラブ」が摘発され杉並区東田町1-18同社長東大法学部三年生山崎晃嗣(27)同専務取締役日本医大三年生三木仙也(25)の両名が四日京橋署に暴利による物価統制令違反の疑いで留置された。両名は親戚友人から募って中央区銀座2-3に資本金600万円と称して光クラブの金融業を始め全国的に宣伝し、東京国税局からも高いヤミ金利だと警告をうけていたもので、中央区月島機械株式会社に3月19日から4月23日期間で76万円を貸した際に山崎は利子として1割1分を天引きし、さらに3万190円20銭を利息として取り、また現金30,000円を同社に貸付たときも日歩70銭の割で差引き契約したことが法定利子を超過する暴利とみられたもの、別に現金50万円の貸付けにつき10日で1割の利子もとっていたという
山崎は調べに対して事実を認めている。(朝日新聞 昭和24年7月5日)
山崎の自殺のあと、競うようにして二冊の書が刊行された。一冊は、「私は天才であり超人である」(光クラブ社長山崎晃嗣の手記)といささか読者を小馬鹿にしたようなタイトルの書である。全編、まるで女性との関係に憂き身をやつしているような記述に覆われている。もう一冊は「私は偽悪者」といかにもアプレゲールを象徴するかのようなタイトルがつけられ、著者は、光クラブ社長山崎晃嗣となっているのだが、内妻だったと称する「佐藤静子」なる女性が山崎から託されていた原稿を刊行するに至ったとある。
やべー、俺もそろそろ自称天才宣言止めないとな。「人のふり見て我がふり」じゃ。山崎君は27歳で命を絶っているが、私もこの年になるとずうずうしくなるせいか、その繊細さはもうないな。でも読んでるとけっこう類似性あるんだわぁ。
(山崎に)出会ったらちょっとやりきれない男だったらう。「ございます」口調の高い鼻にかなにかの眼鏡をかけたような男、失恋してどんな気がしたかと問われて「味はひ深うございました」などと、しやれ気もなく答へる二十何歳の学生には横を向きたくなったに違ひない。しかし、戦後の無軌道な社会、既成の生活基準が崩壊しさり、新しいモラルが単に言葉としてしか用意されなかった時代にあって、みづから「合意によるものは拘束さるべし」といふ単純な標語をかざし、そこに生き、そこに死んでいったこの青年は、戦後一現象としてみるだけではかたのつかないものをもっていゐる。(唐木順三「自殺について」)
男性読者諸君はしらんだろうが、私も女性の前では「ございます口調」なんだわ。女性の前では、俺->ワタクシ、てめー->苗字+さん、呼ばれたら「アン?」->「はい」だ! 敬語とまでは言わないまでも、丁寧語で話し、歩く時は半歩後を歩くよう心かげております。
全国どこの大学内部でも社会主義運動への共感から共産主義者の勢力が肥大化しているときだった。「革命」のためには、山崎のような死は意味の無い死でしかないと判断されたのであろう。ただ当時、やはり東大法学部を卒業して大蔵省の官僚となったが一方で小説家として世に出ていた三島由紀夫が「青の時代」として発表したことが目をひく程度である。山崎を知っていると自認していた藤田田に取材を申し込みをしたが、体調がすぐれないという理由で断られた。
君さらず 袖しがらみに 立つ浪の その面影を 見るぞ悲しき 
君さらずが木更津になった。江戸時代には木更津船と呼ばれる運搬船が江戸とこの港を往復したといわれている。近代に入って一時期は木更津県庁も置かれたが、木更津港は遠浅だったために大型船の入港が難しく、新たに開通した鉄道に輸送の比重が移り、街全体にしだいに活気が薄れていくことになった。三島由紀夫の「青の時代」の冒頭は、木更津の地勢について描写されているが、それはきわめて的確であった。
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三島するどいなぁ、青の時代読んでみようかなぁ・・・。
「父にとって子供たちは一高に入らねばならない。また東大から教授にならなければならなかった。しかし長男、次男、三男とつぎつぎに彼の期待はずれたので、小学校の頃から成績がよく、一高、東大に入れそうな私は一番可愛がられた。ことに小さいときから体が弱く、石塀の外に出て遊ぶことを知らぬ私は、母からこわれもののように大事に扱われた。幼い暴君であった。山崎は自ら認めるように、父親の期待と願望を直接に浴びながら成長したということにもなるだろう。
私は自身の人生で、親のおもーい期待ってのは背負ったことはないが、父親の期待というのは子供にとって重いようだな。
石川昌「山崎君がのような事件を起こした時、あの山崎君とはなかなか信じられなかった。弟と同級生で弟は一高に幸い浪人せずに入ったから一年遅れで一高、東大法学部と入った山崎君とは学校で会えば話はしていたようだ。その弟からあの山崎君だと聞いて驚いた。あんなタイプではなかったけれどね。そのあと三島由紀夫君が「青の時代」という小説を書いたわけだが、それを私も読みましたよ。読んだ瞬間に、ああ三島君は、山崎君の家に遊びに来たことがあるのか、とすぐわかりました。なにしろあの小説の中で語られている山崎家の家の内部は、僕らが子供の頃に遊んだときの情景そのままだったからね」

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ホメロスの世界 2/8~ホメロスの生涯

ホメロスはギリシア文学史の劈頭をかざる有名な叙事詩人であるが、その生涯についてはほとんどまったく知られていない。トロイア戦争と同時代とする説から、前7世紀頃の詩人アルキロコスと同時代とする説まであり、約500年もの意見の相違があった。トロイア戦争と同時代とする説は、ホメロスがトロイア戦争を、まるで自分が見てきたかのように詳細に物語っているために起こった説であろうが、これは明らかに誤っている。有名な歴史家、
ヘロドトスHerodotus.jpgやツキュディデスThukydides.jpg
、かかる意見に反対する語調で自分の見解を述べているからである。ヘロドトス「歴史」第2巻53章は、「ヘシオドスとホメロスは私よりもせいぜい400年ほど以前の人であるに過ぎない」と述べている。ヘロドトスは前5世紀中頃の人であるからホメロスは9世紀後半頃ということになる。またツキュディデス「歴史」第1巻3章は、「ホメロスはトロイア戦争よりも遥か後に生まれたのだ」と述べている。しかし両史家にしても、特別な根拠があったわけではなく、あれこれ思案したうえで、大まかな推定を行ったものらしい。おして今日の私たちにしても、多くの研究を積み重ねてきてはいるものの、この両史家より以上のことは、ほとんど言い得ないのである。またホメロスの出身地についても多くの異説があり、この点でも決定的な証拠がなかったのだと思われる。詩人ピンダロス(前5世紀前半)によれば小アジアのスミルナであり、詩人セモニデス(前7世紀)によればキオス島であり、古代の文献学者アリスタルコス(前2世紀)によればアテナイであった。アテナイ説は可能性がきわめて薄い。ホメロスの方言上の特徴が、スミルナとキオスの方言と比較的よく合致するし、ホメロス、とりわけ「イリアス」の詩人は、これら両地の近辺の地理に特に精通しているからである
ヘシオドス以後の有名な詩人や文筆家たちはすべて同時に農民であったり、政治家や軍人であった。ホメロスは職業的な詩人であり、その点でギリシア文学史上の例外的な存在である。芸術家は王侯や貴族に保護され、その王宮や屋敷に寄生してる場合が多かった。特定の有力者に寄生しない場合は、民衆の間で吟唱して日々の生活の資を得る詩人たちも存在したけれども、有能な詩人は王や貴族の間に招かれ、そちらで活躍することになる。このような事実から類推して、もっぱら支配階級の間で吟唱していたのであり、詩の内容も貴族主義的な高みに達しているのだ、ということである。たしかにホメロスは高貴な生まれの英雄たちばかりに脚光を浴びせ、庶民のことは一括して描いたり、背景に書いたりしているだけである。
イリアスは15,000行以上、オデュッセイアは12,000行以上もある。これほどの大叙事詩が文字を用いずに成立したというのは信じがたいことかも知れない。最近に至るまで、あちこちの後進地域に文字を用いない英雄叙事詩が実際に歌い続けらていた。しかし、それらはいずれも短篇であり、例外的に長い詩篇となると統一性が欠け、いくつかの短篇を集成したもののように見える。統一的な長篇は、文字を用いてのみ可能であったという主張もあるわけである。しかしアメリカの学者がユーゴスラヴィアで採集した叙事詩のうちには、10,000行を越えるものがいく篇か含まれており、そのうち少なくとも一篇は、驚嘆すべきほどの統一性のセンスを発揮しているということである。そうだとすれば、ホメロスの場合にも、文字に頼る必要はかならずしもなかったことになる。しかしホメロスの時代に文字が存在しなかったというのではない。問題は文字を用いて詩を作るほど、文字文化が発達し普及していたかということである。線文字B種は、日本の仮名のような音節文字であるゆえ、ギリシア語の発音を精密に表現することができなかったのである。この文字はミュケナイ時代の最後に起こった各地の王宮の崩壊とともに、消滅してしまった。400年続く暗黒時代のある時にギリシアのアルファベット文字が発明された。その文字の数は27個で22個は形も名称もフェニキア文字と酷似している。しかしフェニキア文字には母音を表記する文字がなかったのに対し、ギリシア人は借用した文字のうち5個を母音と表記する専用の文字とした。この偉大な発明が、いつ、だれによって行われたのか、不明である。この文字を刻んだ最古の遺物は、前8世紀の後半のものであり、主として所有者の名前を刻んだり、神への簡単な奉納文を記したりしたものである。
 あれだけの長篇を記すためには相当な量の紙が必要である。粘土板や金属版や木板などに記したとは考えられないからである。パピルスはいうまでもなくエジプトの特産品であり、古典期やヘレニズム時代のギリシアへは、これが輸入されて書物に用いられていた。ホメロスの時代に、すでにパピルスの輸入が行われていたであろうか。ギリシア人がエジプトのデルタ地域と密接な通商関係を結ぶようになったのは前7世紀の末頃からのことである。それ以後ならば問題は無いのであるが、ホメロスの時代についてはかなり否定的にならざるを得ない。
筆で書くよりも口で語る方がはるかに直接的であり自由である。しかも、言葉の音声には強弱や高低や遅速や色調があり、きわめて多彩な表現性を持っている。文字というものはこれらの微妙な要素を捨て去って、無味乾燥な骨だけにしたものである。文学とは文字で書かれたものだと考えるようになって以後、人間は言霊への感覚をむしろ大きく害されてしまっているのである。
 筆記された詩篇ははじめは一般に売買するためのものではなかった。一般に書物が市販され、読書の風が起こったのは前5世紀以後のことであるらしい。多くの偽作の詩篇もホメロスの作と称される傾向があった。「ホメロスの詩歌集」もその一例である。もちろん鋭敏な人たちは偽作を見破ることができた。たとえばヘロドトス「歴史」第2巻117章は「キュプリア」という叙事詩の内容が「イリアス」と矛盾していることを指摘し、誰か別人の作だと主張している。かくて結局「イリアス」と「オデュッセイア」だけが、ホメロスの真作として一般に通用するようになった。ホメロスの原典は早ければ前6世紀末、遅くとも前5世紀末頃までには、ほぼ現在の形に固定したものと考えられる。



攻撃計画 ブッシュのイラク戦争2/2~戦争責任

CIAはサダム・フセインが大量破壊兵器を保有していると断定的に言明したことは一度もない。2000年の正式な国家情報評価(NIE)は、フセインが化学兵器用物質を少量の備蓄を維持している-だが、弾頭はない-と結論付けている。量は以前に保有していた200トンの残りの100トンほどだという。この結論はイラクが国連査察団に述べた数字と放棄したと称する備蓄の記録の数字の食い違いから算出されたものだ。
CIAはイラク国内に資源をほとんど持っておらず、信用もない。諜報活動による政府転覆、外交、国連査察団、八方塞だが・・・経済制裁で原油市場から締め出しても、じっと耐え忍ぶフセインは、調子づかせると怖い。
大統領演説草稿の裏舞台
1995年以降、イラクは炭疽菌その他の致死性の生物兵器薬剤25,000リットルを製造したことを認めたという部分について、CIAは数字を30,000リットルに増やしてもよいと告げた-演説では現にそう述べられている。
1991年の湾岸戦争以前、イラクが5年ないし7年で核兵器を開発できることを示す確実な証拠があった、という部分は、8年ないし10年としないと実情に合わないので訂正した方がいいと、CIAは勧めた-演説でブッシュはそう述べることになる。
18か月以内にイラクは核兵器を保有する可能性が高いことを発見したとされている。CIAの覚書では、この年月を2年もしくは3年と訂正すべきだとしている。ブッシュは結局、「遅くとも1993年には」という表現に決めた。発見の二年後に当たる。
国家安全保障局(NSA)は、世界の通信の傍受、アメリカの暗号の防護、外国の暗号の解読を担当する、秘密情報とも言える組織だ。総額300億ドルの全情報機関向けの年間予算のうち、60憶ドルが割り振られている。電話、無線、コンピュータ、銀行取引など、電子情報で動くものすべてがNSAのターゲットとなる。
NSA.jpg
サウジアラビアはイスラム社会ではことに危険な立場にある。ビン・ラディンがアルカイダの活動を大々的に展開するようになったのはイスラム世界で政治的にも宗教的にもメッカとメディナの二聖都の保護者とされているようなサウジアラビア国王が1991年の湾岸戦争中およびその前後に異教徒である米軍を受け入れたことがきっかけだった。サウジアラビアのアメリカとの間断ない協調は過激な原理主義者の運動に火をつけた。
駐米サウジアラビア大使バンダルは「相手はサダムフセインです。フセインのためにイラク国民は涙を流しやしません。しかしアメリカに再度攻撃されて、それでも生き延びたら、実力以上の評価を受けますよ。1991年の湾岸戦争の前のことを思い出してください。お父上がどんなことを言われたか、憶えておいででしょう。大西洋から湾岸までのアラブ諸国が、すべて立ちあがるだろう、と。当時はそうならなかったし、今回もそうはならないでしょう。問題はフセインが生き延びた場合です。サウジアラビアは、フセインがたしかにトースト(おしまい)になるという保証が欲しい。」
ブッシュが国連で単独でも軍事行動を起こすとイラクを脅す演説行ったとたんに、9.11同時テロ以降は鳴りを潜めていたアルカイダが活動を開始したのは偶然の一致とは考えられない。というのがウォルフォウィッツ(国防副長官)の見かただった。10月12日にはバリ島のディスコで爆弾テロがあり、202人が死亡した。さらにクウェートで米海兵隊員2人が狙撃され、イエメン沖でフランスのタンカーが襲撃されるという事件がすべえ1週間のうちに起きている。
戦争を回避できるのならフセインの亡命も選択肢になりうると、前月にパウエル、ラムズフェルド、ライスがそろって公に発言していたにもかかわらず、ブッシュはフセインが亡命した場合、アメリカはその身柄は保証しないと答えた。さらに、保護しようと働きかけている国々を好意的に見ることはあり得ないと述べた。
あーあー、もうやるしかないってところまで持っていってるね・・・。
ドーラ農場を空爆したが、フセインと側近たちはあそこにいたのか?
ブブー、居ませんでした。つかまされましたね、アメさんも。
1998年、上院情報委員会でケリーは「フセインは大量破壊兵器を製造する計画を推し進めている」と述べ、イラク戦争が開始された2003年も「サダム・フセインの大量破壊兵器は驚異であると思うし、だからこそフセインの責任を問うとともに武装解除を図ることに賛成票を投じたのだ。」と発言している。
あなたは大統領と同じ情報に目を通し、同じ結論に達したわけですね。大統領がアメリカ国民を誤った方向に導いていると非難するのであれば、あなたがやっていることはいったいなんであるのか? わたしは騙されました、とでも言うつもりなんですか?
戦争の悪影響が広がると、当然ながらケリーは主戦論をひっこめ、賛成票を投じたのは戦争に賛成したからではなく、戦争を大統領が恫喝の材料に使えるようにするためだと主張した。2003年のミート・ザ・プレスでは「われわれが通過させたのは大統領には政権転覆を行う権限を与えるためではなかった。国連決議案に関連した権限をあたえたにすぎない」と述べた。議会の決議が明らかに大統領のイラクに対する武力行使を承認するものであったことは、国民すべてが知っていることだった。
そ、後からなんとでも言えるのよね。
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攻撃計画 ブッシュのイラク戦争1/2~準備

ラムズフェルドをはじめとする国防総省関係者は、複数の目的に使える品目があると主張した。なんら害がないように思える装置が、作り変えられて兵器開発に利用されると何度となく反論していた。たとえばダンプカーだ。荷台を傾けるための油圧装置ををはずせば、ミサイルの発射機に転用できる。イスラエルに向けて発射するミサイルを立てるための道具を売ってやるのか? パウエルは「ミサイルを立てる油圧装置を手に入れるのに20万ドルもするダンプカーを買う必要がどこにある!」と反論した。もう一つの品目はイラクが購入している重機輸送トラックだった。このトラックは大型で戦車を輸送できる。情報部が偵察衛星の画像から突き止めたところではイラク軍は輸送トラックを何台か改造しているという。ラムズフェルドは禁輸項目の変更によって、イラクが戦車輸送部隊をひそかに編成できるようになる、と結論づけた。
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ラムズフェルドは、「テロリズムはどうやっても防げないという考え方が根底にある」と述べている。「あらゆる場所で常時あらゆる手口を防ぐのは不可能だ。敵は手口を変え、時期を変える。こっちはそれを追う格好になる。敵に合わせなければならない。だから先制しないといけないんだ。」ブッシュが先制攻撃のドクトリンを正式発表する4ヵ月半前のことである。ラムズフェルドは将来を見据えていた。いずれアメリカが先に攻撃する備えをしなければならなくなる。
アメリカの評判が現地イラクで評判が悪くなった歴史
1972年、大統領ではなかったサダム・フセインがソ連と友好条約を結んだ。中東におけるソ連の影響力の増大に待ったをかけるため、ニクソンはCIAに対しクルド人への秘密工作資金として500万ドルを渡すことを支持する命令書に署名した。クルド人は5カ国にまたがって、イラン、トルコ、シリア、当時のソ連、そしてイラクの北東の隅-居住する山岳民族で部族は40を数え、人口は2500万人におよぶ。CIAのクルド人支援はイラン国への好意を示す意味の方が大きかった。だが1975年イラン国王はフセインと和解し、クルド人を見捨ててCIAの武器輸送を止めた。窮したクルド人はCIAとキッシンジャーにじかに訴えたが反応はなかった。秘密工作は崩壊し、フセインは多数のクルド人を虐殺した。
1991年の湾岸戦争後、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領はCIAにフセイン政権転覆を許可する大統領令に署名した。CIAはヨーロッパに亡命していたイラク人や反フセイン勢力に金をばらまいた。ところが北部のクルド人と南部のシーア派が放棄するとアメリカは軍事支援を拒んだ。その結果、またしても大量虐殺が行われた。クリントン政権下でもCIAはちょくちょく手出しをしてさまざまな反フセイン作戦を支援した。1996年にはCIAの支援を受けてクーデターをもくろんでいた元イラク軍士官のグループがフセインの国内保安機関によって摘発され、約120名の元イラク軍指揮官が処刑された。
ホワイトハウスによって動きを凍結された長官
誉れ高い元陸軍大将で今は外交官の頂点に立つパウエルは自分が今目にしていることや耳にしていることに懸念をつのらせていた。ブッシュ政権の上層部には戦争経験のあるものが極めて少ない。ブッシュはテキサス州空軍に所属していたが実戦には参加していない。チェイニーは湾岸戦争中は国防長官だったが、軍隊経験はない。ラムズフェルドは1950年代に海軍のパイロットだったが、戦時には軍務に服していない。ライスとテネットは軍務の経験が全くない。
最高のキャッチフレーズ 「悪の枢軸」(下記動画2:01辺りです)

同時テロ直後2001年9月20日直後の演説では、これ以上国民を怯えさせてはいけないという理由から大量破壊兵器に触れなかった。それらの結びつきを”枢軸”と名付けたのはみごとだし、”悪の枢軸”としたのはなおのことみごとだと、ライスは思った。イラク、イラン、北朝鮮の三カ国を挙げるという案は、ブッシュも気に入った。ライスとハドリーはイランを除いてはどうかと提案した。「いや、いい、イランも入れたい」とブッシュは答えた。ブッシュをはじめ三カ国を結びつけるのが筋が通っているかどうか疑問を抱いていたが、人が耳をそばだてるようにするには強力な隠喩(メタファー)が必要不可欠だ。大統領の演説を解釈し、あるいは色付けして「大統領が言いたいのつまり・・・」というような具体的なことを誰かが言っては困ると考えていた。
パウエルのメモ
戦争は、サウジ、エジプト、ヨルダンなど友好的な政権を揺るがします。テロとの戦争だけでなくその他もろもろの事柄に対処する力を殺がれ、石油の供給と価格に大きな影響が出ます。アメリカの将軍がアラブ人の国を運営しえいる光景を想像してみてください。何を持って成功と見なせばよいうのでしょうか? 戦争によってフセインを打倒し、新しい政府ができるまで、アメリカが政府となるのです。イラクは非常に複雑な歴史があります。民主主義が根付いたことが一度もない。単独行動主義でやればいい、と申し上げたいところですが無理です。地理的に厄介なことが多すぎる。フランクス将軍も、中東その他の地域の同盟国に基地や施設の使用を許可してもらわなければならない。

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銀行の戦略転換 2/2 ~証券化に向けて

事業債、シンジケート・ローン、相対ローンのそれぞれの市場におけるクレジットカーブ
高格付企業については市場間の違いは小さい、低格付になるに従ってスプレッドの違いが大きくなっている。高格付企業では事業債のスプレッドの方が低いが、低格付企業では相対ローンのスプレッドの方が低い状況にある。社債と貸出のクレジットカーブが交わることでクレジット市場は分断化しており、完全に裁定が行われているとは言い難い状況にある。
裁定って、相対ローンと社債だとモノが違うんだろう?
相対ローンは債権管理の面では強くないものの、基本契約である「銀行取引約定書」や個別担保によって強く守られている性格のものである。一方、公募社債は社債管理会社が設置されない場合(FA債)も多く、債権管理の面では強く守られていない。また実際に発行されている債券は、無担保かつコベナンツ(財務制限条約)が定められているものはほとんどない。法律的には優先債務のなかで貸出も有価証券も同じ優先度を持っているが、現実には債権管理や担保設定などによって優先度は異なってくる
日本には低格付けのハイイールド市場がないことがクレジットプライシングを見え難くしている。シンジケートローンの拡大によって低格付けのクレジットが評価されるようになり、これが相対ローン市場の貸出金利に反映されるべきであろう。ただし、実際に日本のハイイールド市場は相対ローンであり、その低収益と低スプレッドの存在がハイイールド市場の成立を阻害している。そうしたなかでハイイールド市場が成立するには相対ローンの正常化と同時に相応のスプレッドでも資金を調達するようなニーズが存在する環境になることが前提となる。
1990年代以降、最大の経営課題は不良債権問題であったが、信用コストが上昇した時は経済環境全般によるものとされ、特別な問題案件を除き、融資セクション責任者がリスク管理上の責をを問われ続けたわけではない。一方、この本業である貸出に対し、有価証券部門は余資運用として扱われ、業績が上がらなければ「余計なことをして損をした」かのようにみなされる。そのような潜在的な意識バイアスがある。有価証券運用に関しては時価会計導入後初の本格的な金利上昇に対し、含み損が自己資本に直入してしまう難しさも抱えている。さらに株式に対しては一段とネガティブなバイアスがかかっている。ただし、今や有価証券運用は経営そのものだ。有価証券は総資産の40%近くを占めることが見込まれるなか、有価証券運用を資金が余ったので仕方なく運用するという「消去法的」なことではなく収益機会としてどうポジティブにとらええていくかという問題意識が必要である。
透明な市場価格は、時として損益に大きなブレを起こし、ブレは安定が大好きな日本人に合わない。この本は06年に書かれているが、2012年になっても、銀行は何も改革していないし、以前と変わってはいない。相変わらず日本経済の劣後部分のリスクを取っているので、大手銀行の株価は悲惨なことになっている。
慣行から市場原理へ
そもそも金融仲介業はリスクが大きいものであり、誰もが同じ情報を持ってシステマティックに資金を右から左へ融通するといった性格ではない。金融は情報の非対称性が非常に高い。資本市場が発達した米国においても多くの中小銀行が存在することは金融が未開発な領域を残していることを示すものである。日本の閉鎖的な社会においてはなおさら他人にはわからない世界が広がっているだろう。実際、信用金庫、信用組合、第二地方銀行などの前身は相互に会員間で資金を融通する互助会的なものであった。大手銀行であっても元々は旧財閥グループの資金融通をしてきた点では「互助会」の性格を持っている。そうしたクローズドな組織の中で体化された情報は完全には市場化しにくい面も存在している。必ずしも特殊性が非効率を意味するわけではない。経済の参加者が多数いる世界では多様なニーズにきめ細かく応えることで金融仲介を行うことも重要である。画一化しないことで応えられるニーズもある。リスク・リターンが全てを決める世界が理想であるとは思えないが、閉塞感が強い日本の金融仲介を再び拡大させるためには従来の特殊な金融慣行のなかに市場メカニズムを導入することが起爆剤となる。
銀行だけじゃないんだよね、古い慣行を捨て、市場メカニズムで効率化を・・・というのは全てに対して言えるんだが、日本人はダイナミックな変化が嫌いなんだ。だから当然、否定しようがない“時価”という変化するものがある市場も、嫌いなはずだ。

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銀行の戦略転換 1/2 ~メインバンクは劣後ローン

銀行と企業と日本(地域)の利害が一致した、ベクトルが揃った状態でのモデルは「疑似エクイティ」モデルと呼ばれる。疑似エクイティを供給する銀行は一般的に「主力銀行、メインバンク」を想定した場合が多い。こうした形態は比較的大手の法人企業と取引する大手銀行にあてはまるものが多い。
信用仲介を銀行が一手に担うなかで銀行と企業の一体化が進んだことを表している。銀行が株式保有も含めプロセスを一手に囲い込んでいたと考えられる。それは銀行が資金を供給し経営にも関与する意味で成長の見込まれる未公開企業に出資しそれを育て上げる「プライベートエクイティ」モデルでもあった。すなわち、戦後の日本の主力銀行を中心とした貸出モデルは株式保有が前提となっており、株式保有によって企業価値増加のアップワードポテンシャルを享受していたと考えることもできる。そのモデルは戦後一貫して成功裏に推移したが、日本の銀行が日本経済のインデックスファンドになってしまったばかりに、本来、プライベートエクイティファンドでは売却・新規公開で利益を確定させるエクジットが必要であるにもかかわらず、エクジットすることもできずに「共倒れ」の流れに入ってしまった。
主力銀行の貸出は劣後貸出
債務の償還の確実性が最も高い優先貸出と優先貸出が全額返済された後で返済となる劣後貸出に分けられる。主力銀行に貸出先に対して強いコミットメントを持つということ、すなわち、「最後まで逃げない」ということは、自ら持つ貸出債権に対する返済を最も後回しにするという点で、先に想定した負担の序列が崩れ、劣後性を持つことになる。つまり、主力銀行の取引先の取引先に対するコミットメントの強さは、債券の性格を非主力銀行のものとは異なったものにしていた。すなわち主力銀行の貸出は、契約上明記されていないものの、実態上は「劣後性の貸出」であった。貸出先の企業価値(融資先の信用状況)によって、主力銀行と非主力銀行の実質的な貸出価値は大きく異なっていたはずである。さらに主力銀行の貸出は「メイン寄せ」というオプション取引が暗黙のうちに含まれていたと考えられる。主力銀行と非主力銀行との関係は企業価値が低下して破綻状況に近づけば近づくほど、主力銀行の負担が大きくなり、本来ありえないはずの負担を背負うことにもなりうる。主力銀行から見れば暗黙のうちに「企業価値のプットオプション」を売却売る契約が付いていたようなものである。主力銀行は「メイン寄せ」によって企業価値が低下すると急速にキャッシュフローが悪化し、マイナスになる場合もある。しかも主力銀行と非主力銀行の貸出金利に違いがない場合が多かったことからすると、主力銀行はこのプットオプションをただ同然で売却していた可能性が強い。主力銀行の損益は、本来、①貸出、②メイン寄せ効果(非主力銀行が保有する貸出を主力銀行に肩代わりさせること)、③株式の三つの取引が組み合わさったものと考える。主力銀行が収益を拡大させるためには、貸出先企業が成長して株式価値が高まることが必要となる。まさに主力銀行は「企業とともにある銀行」であり、一蓮托生の関係になる。すなわち、理論上も企業価値の動きと同一性を持つ、文字通り「企業と一体化」した状態にあったと考える。
銀行はリスクを取り過ぎていて、証券は逃げ過ぎていた。株屋と揶揄されるゆえんは「手数料商売」に徹しすぎて、顧客とともに栄えるなどという考えはなく、「客を殺す」という証券会社の体質にもこの原因として考えられる。メインバンクはプットをタダで売っているのだろうが、収益の絶対額の大きさ(収益性ではない)、シェアを取るということが、プット売却の際の受益である。
銀行の改革を”証券化”を通じて直接金融化する流れを作るのは難しいだろう。この暗黙の劣後ローンを明文化すると、時価で売却したら主力銀行は大きな赤字になってしまう。また劣後ローンの劣後性を取りやめると貸出先が持たない。証券化を本来担うべき証券会社の参入もご時世的に難しい。証券会社はブローカレッジに徹し、バランスシートを使うトレーディングが縮小傾向にあるのは、日本だけでなく世界の潮流で、日本だけがそれを拡大することを期待するのは難しい。

それでは主力銀行はなぜ、割に合わない主力銀行の立場を引き受けてきたのか。戦後、拡大期においては金融機関のビジネスモデルはいかに規模を拡大するか、シェアを上げるかの椅子取りゲームであり、金融機関の優劣は資金量を中心に規模で序列付けられる時代でもあった。主力銀行の地位を確保し、常に資金需要の拡大に応えられる長期安定益な関係の確保が優先された。そうした状況下で「不義理」な対応を行えば、その後、シェア拡大時の恩恵に浴することはできなかった。大手行にとって「規模拡大」「シェア拡大」のビジネスモデルは不可欠なものであり、大手行に入っていない金融機関は安定した成長、規模拡大を実現しにくく、同時に金融サークルでのプレステージも高く見られにくかった。
 最も重要な視点は、株式投資によって本源的なクレジット投資が可能となることである。企業金融においてはデットとエクイティをどのような割合で組み合わせて効率的に資金を仲介するかが重要である。当時の銀行は貸出によってデットを供給する傍ら、投資家として株式を持つことで企業ファイナンスを支えていたのである。メインバンクシステムとは持ち合い株式構造そのものといってもよい。主力銀行の大きなメリットは取引企業の成長を株式投資のキャピタルゲインで実現できる点と、デットとエクイティの両方の金融手段を活用したクレジットの投資機会を広げることにあったのだ。
大手行と地域金融機関の持つ地元企業向けの「疑似エクイティ」は異なる性格を持っていることに注意する必要がある。大手行の取引先である大企業向け取引では、株式市場に上場している場合もあり、当該企業の業績が拡大した時に銀行が収益機会を獲得する手段がある。具体的には取引先企業の株式を市場で売却すればいい。しかし、地域金融機関が地元企業に対する取引のなかで、収益機会を実現化させる手段は極めて限定的であり、逆に当該企業の業績が悪化した場合に支えなくてはならなくなる。地域金融機関にとっての疑似エクイティは、ダウンサイドリスクの方が高いという非対称な性質を持ちやすい。90年代後半から行われた債務調整は大企業と大手行が中心であったが、経営難に陥った企業の中には一定の存在基盤を有するものも多く、債務負担を切り離せばキャッシュフローを生む部分を持つことも多かった。しかし地域経済の場合、その劣後部分のリスクの引受手が限られることから処理は一段と難しい。地方への権限及び税源委譲の具体的方向性が定まらない中で、三位一体改革の名のもとに、地方交付税縮小、補助金削減、公共投資削減等、地域への資金配分機能を低下させる状況が生じており、これも環境を一層困難にさせている。こうしたなかで比較的負担を免れてきたのは、公的金融機関と新たにビジネスを開始した外資系の金融機関等であった。公的金融機関はその制度上の制約からデットリストラクチャリングが行いにくく負担が除外されやすかった。また、外国資本を導入した新たな金融機関は非主力銀行に徹することをビジネスモデルとしているケースが多い。
新生銀行のことですね。ダイエーに対する貸し剥がしとか見事な逃げっぷりだったな。そんな新生も今や虫の息ですが・・・
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ホメロスの世界 1/8~時代背景

第1章 ホメロスの背景
第一の詩篇「イリアス」は、トロイア戦争の10年目、トロイア陥落の直前の一つの案件を扱っているに過ぎないが、そこには、この大戦争の全局面が集中的に表現されているようである。第二の詩篇「オデュッセイア」は遠征軍中の英雄の一人オデュッセウスの、祖国への帰還の物語である。
 ギリシア人にしても、ホメロスの詩の内容を全面的に史実だと信じていたわけではない。誇張や美化や歪曲があるものと考えていた。しかしトロイア戦争が史実であること、そしてホメロスの詩に登場する英雄たちがすべて歴史上の実在人物であること、このような基本的な点だけはすべてのギリシア人が信じて疑わなかったのである。トロイア戦争の年代についても、ギリシア人の意見はほぼ一致していた。紀元前5世紀の代表的な歴史家たち、ヘロドトスもツキュディデスも、紀元前13世紀末頃の事件と考えていたようである。紀元前246年にパロス島に建てられた大理石碑文の年代記には、トロイア戦争開始から、その年までの年数は954年だと記されている。これを西暦に換算すれば、開戦は紀元前1218年であり、その後10年目の陥落は1209年ということになる。紀元前3世紀後半の博学者エラトステネスは、トロイア陥落を紀元前1184年と計算し、それ以後は、この説が支配的となった。
近代の古典学者や歴史家は批判的精神が旺盛であったからほとんどだれもホメロスの詩に史実が含まれているとは考えなかった。ところがドイツの片田舎の教師の子として生まれたシュリーマン(1822-1890)は、トロイアやミュケナイの豪華な遺跡を発掘して世間や学界を驚かせた。ミュケナイ文明の栄えた年代は紀元前16世紀から12世紀頃までであった。しかしイギリスの学者エヴァンズ(1851-1941)が1900年にクレテ島の食ノックスでもっと古い文明を発見し、その地の伝統的な王ミノスに因んで「ミノア文明」と名付けた。このようにしてそれまでは夢想もされていなかった「エーゲ文明」の全体像が明らかになってきたのである。エーゲ文明とは、エーゲ海地域に成立した青銅器時代の文明であり、極めて豪華なものであった。この地域は、世界最古の文明成立地、メソポタミアやエジプトに近いため、それらの文明の波を早くから受け、この地域が青銅器を用い始めたのは、遅くとも紀元前2500年頃からであり、紀元前1100年頃までつづく。
トロイアの丘の上には何度も都城が築かれている。その遺跡の下層から数えて第6番目の都城は紀元前1900年から1300年頃まで続くが、この時期の住民はミュケナイ文明と密接な関係にあった。この都城は地震で滅びたらしい。そして生き残った人々がその後に都城(第七市a層)を復興するが、これは紀元前1250年前後に戦火で滅びた痕跡がある。この戦火の痕跡こそ、トロイア戦争の証拠であると推定されるのである。トロイア戦争はミュケナイ文明圏のギリシア人が、トロイア文明を滅した戦争であったことになる。
ミュケナイ時代の諸王宮、人民からの貢納などの記録を、書記たちが粘土板に刻み込んでいた。その文字(線文字B種)は、明らかに先住民のミノア文字(線文字A種)を模倣したものであるが、1952年にイギリスのヴェントリス(1922-1956)によって解読され、ギリシア語であることが判明したのである。
紀元前15世紀頃にはミュケナイ文明の軍勢がミノア文明の中心地クノッソスの王宮を滅ぼし、そこに定住するようになったらしい。他方トロイアへの遠征については、考古学的証拠は確実ではないが伝説だけは豊かに伝えられているわけである。トロイア戦争から数十年後には、ミュケナイ文明圏の各地の王宮はつぎつぎに戦火に遇って滅亡し、かくてミュケナイ文明は崩壊してしまった。この破滅はおそらくドーリス人の侵入によるものであろう。ドーリス人は、同じギリシア語を話す一種族であるが、ギリシアの北西部にとどまっていたため、後進的な段階にあり、それだけにかえって素朴で強力な戦闘態勢を保持していたらしい。
ミュケナイ文明崩壊後の約400年間については記録が皆無であるばかりでなく、伝説さえもきわめて乏しい。それゆえ明確なことは少しも知られていないので、この時期は「暗黒時代」と呼ばれる。ホメロスは前8世紀頃の人であり造形精神の成立と同時代なのである。ホメロスはどのようにして自分よりも400年も以前の住民分布の状況を知ることができたのであろうか。ホメロスの背後には明らかに口承叙事詩の伝統があり、その伝統はミュケナイ時代に発し、その頃の状況を語り伝えたのだと推定されている。


美しい国へ 3/3 ~教育改革

自衛隊派遣の大義とは、なんだったのか。
第一に、国際社会が、イラク人のイラク人のよるイラク人のための自由で民主的な国を作ろうと努力している時、その国際社会の一員である日本が貢献するのは当然のことであり、先進国としての責任である。第二に、日本はエネルギー資源である石油の85%を中東地域に頼っている。しかもイラクの原油の埋蔵量はサウジアラビアに次いで世界第二位。この地域の平和と安定を回復するということは、まさに日本の国益にかなうことなのである。
これはちょっと・・・アメリカ国民は騙せても、日本国民には通じないかもしれない。当時のテレビの街頭調査で、「ブッシュとフセインどっちが怖い?」ってアンケートとったら過半数でブッシュだったよ。俺もテロの直後くらいにラスベガスに遊びに行ったのだが、べラージオの噴水ショーの最後の曲まで、やたらとAmericaだWinだという歌詞が目立つ煽動的な歌に変わっていた。ラスベガスにまで及ぶアメリカのプロパガンダ恐るべしと当時思ったものだ。アメリカは民主主義と自由を輸出している。しかし、アメリカにとっての民主主義とは、戦争のための言い訳である。しかも国際社会はイラク侵攻は反対で、あればアメリカの単独行動とも言える。第二の理由はもっと強調して良いとは思うが、あの地域の平和と安定は永遠に来ない。あの地域の権益を押さえているアメリカさんに「お前も来い」と言われると日本としては断りにくいでしょう?
「中国を冷徹に、かつ客観的に判断することはなかなかむずかしい。特に中国専門家にとってはなおさらだ。なぜなら、中国は悠久の歴史と文化をもつ、きわめてチャーミングな国だからだ。エドガー・スノーばかりではない。多くの専門家が、恋に落ちる。」
日本では戦争中の1944年にまず厚生年金だけが始まった。このときは完全な報酬比例年金、給料の多寡に応じて保険料を支払うもので、国民年金に相当する基礎年金部分は作られていない。1950年代になってから国家公務員の共済組合が始まった。(地方公務員は62年)。国民年金ができて国民皆年金と言われるようになったのは1961年、このとき日本の年金はサラリーマンの厚生年金、自営業者らの国民年金、公務員の共済年金と3つ揃ったのである。3つの年金のすべてに共通する基礎年金の仕組みが完成するのは1986年まで待たなければならない。
戦後日本は、60年前の戦争の原因と敗戦の理由をひたすら国家主義に求めた。その結果、戦後の日本人の心性のどこかに、国家=悪という方程式がビルトインされてしまった。だから国家的見地からの発想がなかなかできない。いやむしろ忌避するような傾向が強い。戦後教育の蹉跌のひとつである。1980年代、イギリスのサッチャー首相はサッチャー改革と呼ばれたドラスティックな社会変革を行った。イギリス社会には大きな軋轢を生じさせたが、それはよりよき未来へ向けた、いわば創造的破壊だった。私たちはこの構造改革を金融ビッグバンに象徴させる民営化と市場化の成功例ととらえているはずだ。しかし、そればかりではなく、壮大な教育改革、1988年教育改革で2つのことを断行した。一つは自虐的な偏向教育の是正、もう一つは教育水準の向上である。自虐的な歴史教育は敗戦国に特有のことだと思っていたから、戦勝国のイギリスでもそのような教育が行われていると聞いてたいへん驚いた。聞いてみると長年にわたってイギリスがおこなってきた帝国主義の反動なのだという。たしかにイギリスの植民地政策を思い浮かべれば、イギリスの歴史は収奪の歴史であり、国内に自虐的な自国の歴史観が生まれてもおかしくない。長い間のイギリス病が敗戦国シンドロームに似た感性を教育界にはびこらせたのかもしれない。当時イギリスでつかわれていた歴史教科書の中には、「人種差別はどのようにイギリスにやってきたのか」というようなものもあった。アフリカを搾取するイギリスを太った家畜にたとえたイラストも乗っている。この教科書は高等教育ではなく、初等教育で使われるものだ。大変自尊心を傷つける教科書である。こんな教科書で子どもを教育したのでは、イギリス国民として自尊心を育てることはできない、とサッチャーは考えた。
 つぎが、教育水準の向上である。イギリスでは戦後、国が教育内容をチェックする仕組みがなく、現場の自主性に任されていた。そのため数も満足に数えらあれない子どもが続出したのである。まず国定のカリキュラムを作り全国共通学力テストを実施した。そして教育省から独立した女王直属の学校審査機関を作り5000人以上の査察官を全国に派遣して国定カリキュラムどおりに教育がおこなわれているかどうかを徹底的にチェックした。その結果、水準に達していないことがわかった学校は、容赦なく廃校にした。その数は100以上に及ぶ。そういう学校に教師を送り出している大学の教育学部までがつぶされた。もちろんこの改革は現場教師の猛反発を食らうことになった。国家にはデモ隊が押し寄せ、教育大臣の人形が焼かれたり、教員のストが半年も続いたりした。しかしサッチャーは一切妥協しなかった。そしてついに改革をやり遂げたのである。

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【教育一般論】
2011.08.08: 金賢姫全告白 いま、女として3/6 ~少年時代
2011.05.12: 日本改造計画4/5 ~外交政策
2010.10.04: ハーバード大が世界の大学番付首位 vs東大
2010.02.24: 容疑者Xの献身
2011.02.04: 賭博と国家と男と女 ~囚人のジレンマ
2010.01.15: 幼少期からのエリート性教育
2009.11.06: 子育て1人3000万円 その内訳






美しい国へ 2/3 ~平和な国家(国歌)

君が代は世界でも珍しい非戦闘的な国歌
日の丸はかつての軍国主義の象徴であり、君が代は天皇の御世を指すとかいって拒否する人たちもまだ教育現場にはいる。君が代は他の国の国家に比べて、リズムといい、テンポといい戦いの前にふさわしい歌ではない。「さざれ石の巌となりて苔のむすまで」という箇所は自然の悠久の時間と国の悠久の歴史がうまくシンボライズされていて、いかにも日本的でわたしは好きだ。そこには、自然と調和し共生することの重要性と歴史の連続性が凝縮されている。「君が代」が天皇制を連想させるという人がいるが、この君は日本国の象徴としての天皇である。日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ。ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか。素直に読んで、この歌詞のどこに軍国主義の思想が感じられるのか。
 アメリカ国歌には「星の輝く旗は、まだはためいているか?」と問いかける一節があるのをご存じだろうか。独立後の1812年に起きた米英戦争の際、激しい攻撃を受けながらも砦に星条旗がはためく光景を歌ったものだ。戦意を高揚させる国歌は世界にはいくつもある。独立なり、権利なりを勝ちとった歴史を反映させようとするからだ。フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」は、はじめから終りまで「暴君の血に染まった旗が、われらに向かってかかげられている」「やつらがあなた方の息子や妻を殺しにくる」と激しい言葉が並び、最後は「進め!進め!汚れた血が我らの田畑を染めるまで!」というフレーズでしめくくられている。
ハハハ・・・、これ良いね。
自分が帰属する場所とは、自らの国おいて他にはない。自らが帰属する国が紡いできた歴史や伝統、また文化に誇りをもちたいと思うのは本来ごく自然の感情なのである。私はパスポートの例をあげて、「わたしたちは、国歌を離れて無国籍には存在できない」と述べた。しかしそれは旅行の便宜上のことばかりではない。そこに横たわっている本質的なテーマとは自分たちがいったい何者なのか、というアイデンティティの確認に他ならない。外国に住んでいたり、少し長く旅行したことのある人ならわかるだろうが、ただ外国語がうまいというだけでは外国人は深く打ち解けたり、心を開いてくれることはしないものだ。心の底からかれらとコミュニケーションをとろうと思ったら、自らのアイデンティティを確認しておかなければならない。なぜなら、かれらは「あなたの大切にしている文化とは何か」「あなたが誇りに思うことは何か」「あなたは何に帰属していて、何者なのか」-そうした問いをつぎつぎに投げかけてくるはずだからだ。初めて出会う外国人に「あなたはどちらから来ましたか」と聞かれて、「地球市民です」と答えて信用されるだろうか。「自由人です」と答えて会話がはずむだろうか。かれらはその人間の正体、つまり帰属する国を聞いているのであり、もっといえばその人間の背負っている歴史と伝統と文化について尋ねているのである。
そうなのだ・・・ここに書いてあることはとても重要だ。アイデンティティの確立、帰国子女やシンガポール人のようにアイデンティティが希薄な人たちを見ると気の毒に思うことがある。日本を信じられないという親御さんの気持ちもわかるがね・・・、最低限、自らの言語を持つ国に帰属させてあげた方がいいと思う。その意味ではアメリカも・・・駄目だがな。では中国か? アイデンティティの確立とは、中国語を話せるようになることではなく、中華思想バリバリの中国人になるということだ。そういうとちょっと嫌だろう? でもハンパモンはもっと可哀そうだぜ。
“行使できない権利”集団的自衛権
我が国自衛隊は専守防衛を基本にしている。他国から日本に対してミサイルが一発打ち込まれた時、二発目の飛来を避ける、あるいは阻止するためには、日本ではなく、米軍の戦闘機がそのミサイル基地を攻撃することになる。それは米国の若者が日本を守るために命をかけるということになる。だが、条約に規定されているからといって、自動的にそうなるのだと構えてはならない。なぜなら命をかける兵士、兵士の家族、兵士を送り出すアメリカ国民が、そのことに納得していかなければならないからだ。現在の政府の憲法解釈では、米軍は集団的自衛権を行使して日本を防衛するが、日本は集団的自衛権を行使することはできない。日本は1956年に国連に加盟したが、その国連憲章51条には、「国連加盟国には個別的かつ集団的自衛権がある」ことが明記されている。今の日本国憲法は、この国連憲章ができた後に作られた。日本も自然権としての集団的自衛権を有していると考えるのは当然であろう。権利を有していれば行使できると考える国際社会の通念の中で、権利はあるが行使できない、とする論理が、はたしていつまで通用するのだろうか
【民族意識系】
2011.08.17: 実録アヘン戦争 1/4 ~時代的背景
2011.05.09: 日本改造計画1/5 ~民の振る舞い
2011.03.25: ガンダム1年戦争 ~戦後処理 4/4
2010.09.09: ローマ人の物語 ローマは一日して成らず
2010.08.02: 日本帰国 最終幕 どうでも良い細かい気付き
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.02.04: 新たなる発見@日本





美しい国へ 1/3 ~国家が民のためにしてくれること

この本、タイトルが良くないねぇ・・・
「国防と教育」、「国はわたしたちに何をしてくれるのか」、「私たちは国のために何をしているのか」「国民意識を覚醒させよ
とかさぁ、大事なこと言ってんだから、もうちょっと踏み込んだ挑戦的なタイトルにすべきだと思うがね。
日本では、理想的立場をあらわすとき、よく「リベラル」(自由主義的)という言葉が使われる。これほど意味が理解されずに使われている言葉もない。もともと「リベラル」という言葉はヨーロッパとアメリカでは受け取り方が大きく違う。ヨーロッパでは、王権に対して、市民が血を流しながら自由を獲得し民主主義の制度をつくりあげたきた歴史をもつことから、同じ「リベラル」でも他者の介入を許さないという「個人主義」にちかい意味合いで使われる。これに対してアメリカにおける「リベラル」は社会的平等や公正の実現には政府が積極的に考える、いわゆる「大きな政府」を支持する立場だ。アメリカには封建制度の歴史がない。生まれながらにして平等な社会が原則であり、その制度や権力は、新大陸に渡ったピューリタンたち個々人の合意の上でつくられた。だから自由主義と民主主義が対立することなく共存できた。建国から150年余り後1929年に始まった世界大恐慌は、アメリカに1300万人の失業者を生み出すことになった。このときニューディール政策を唱えた人たちが自らをリベラルと呼び始めたら、社会主義あるいはそれに近い考えを持つ人のことをリベラリストと呼ぶようになった。革命主義も左翼もこの範疇にはいる。いうなれば「リベラル」はヨーロッパとアメリカでは、むしろ対立する概念だったのである。日本でしばしば用語の混乱がみられるのは、このことが理解されていないためだ。
国はわたしたちに何をしてくれるのか
外国旅行で私たちが携帯を義務付けられてるパスポートには、外務大臣の署名で「日本国民である本旅券の所持人を通路支障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する」
これは所持人であるあなたが日本人であることを日本国家が証明し外国のおける権利を日本国家が担保するという意味である。そこでは、どこの国に属しているかということが極めて重要な意味を持つ。わたしたちは、国家を離れて無国籍には存在できないのだ。国民がパスポートをもつことによって国家の保護を受けられるということは、裏を返せば、個々人にも応分の義務が生じるということでもある。タックスペイヤーとしての義務を果たす。一票の権利を行使する。自分の住む街を含めた公共に奉仕する。個々人がそうした役割を担わなければ、国家というものは成り立っていかない。公害訴訟など、過去の国の失政を追及する国家賠償請求訴訟によって原告が勝訴するとマスコミは「国に勝った」と喝采することが多い。しかし、その賠償費用は税金から支払われるのであって、国家という別の財布から出てくるわけではない。国家と国民は対立関係にあるのではなく、相関関係にある。
「パスポートを発行してないけど、税金払っている」と反論する人のために私が代弁しよう。国家がしてくれていること、それは日本の領土に住まわせてやってる、ということである。他の国に行くならパスポートが必要だし、パスポートだけじゃ、通常住まわせてくれないんだわ。税金ってのは賃料・家賃の他にも払わなければならないショバ代ってヤツですよ。取り立てる人? 闇金も真っ青、泣く子も黙る国税局だよ。
ああ、国家と国民は対立関係ではなく相関関係でしたね、国が国民にしてくれていることで最も価値があることは義務教育だと思う。そもそもこの言葉が気に入らないので、「全ての国民に9年という長期にわたる教育を受ける”権利”が与えられている」と言い直そう。教育を受ける権利が与えらていない国と比較すればこれは素晴らしいことだ。
 昔、バナナ園で強制労働させられている子供のテレビを見たことがある。木に登ってバナナを取るのだが、バナナは落とすと怖いおじさんが棒で殴りつけてくる。木から落ちたらそのまま。救急車も呼んでもらえない。その少年が言うんだ。「僕は学校に行って教科書を読んでみたい。数字の1は確かこう書く・・・」と地面に木の枝で数値を書いて弟に教えているシーン。泣いた・・・俺もまだ10代だったが当時から子供ネタに弱かった。
しかも、日本では、小学校と中学校の教科書、授業料は驚くべきことに無料だ。これは憲法26条に定められている。法律ではなく憲法にだ。私は機会あって今年度の小学1年生の算数の教科書を読んでいる。足し算の説明であるが、絵を使って数を数えることを意識させ、可換律も盛り込まれている。小学校の教諭が大学レベルの数学を意識した教え方をしているかどうかは別として、少なくとも教科書の編集者は整数の代数的構造を意識していることが伺えるそれなりの内容の教科書だ。「学校に行きたくない、勉強がダルい」などとふざけたこと言ってると・・・バナナ園で働かせるぞ! オラァ。何が不登校だ、なめやがって・・・。
【国民意識と愛国心】
2011.08.26: マハティール アジアの世紀を作る男1/4 ~東南アジアの雄
2010.09.10: ローマ人の物語 すべての道はローマに通ず
2009.08.19: インド旅行 文明という環境汚染
2009.07.20: タイ旅行 国土がある、通貨がある、言語がある
2009.01.23: ドイツからのお手紙 銘柄選定における国民性
2009.01.07: ユーゴスラヴィア現代史 ~国家崩壊への道 
2009.01.05: ユーゴスラヴィア現代史
2008.12.08: アラブとイスラエル―パレスチナ問題の構図
2008.10.22: 香港とシンガポールの違い
2008.08.22: Olympicと国家