第1章 ホメロスの背景
第一の詩篇「イリアス」は、トロイア戦争の10年目、トロイア陥落の直前の一つの案件を扱っているに過ぎないが、そこには、この大戦争の全局面が集中的に表現されているようである。第二の詩篇「オデュッセイア」は遠征軍中の英雄の一人オデュッセウスの、祖国への帰還の物語である。
 ギリシア人にしても、ホメロスの詩の内容を全面的に史実だと信じていたわけではない。誇張や美化や歪曲があるものと考えていた。しかしトロイア戦争が史実であること、そしてホメロスの詩に登場する英雄たちがすべて歴史上の実在人物であること、このような基本的な点だけはすべてのギリシア人が信じて疑わなかったのである。トロイア戦争の年代についても、ギリシア人の意見はほぼ一致していた。紀元前5世紀の代表的な歴史家たち、ヘロドトスもツキュディデスも、紀元前13世紀末頃の事件と考えていたようである。紀元前246年にパロス島に建てられた大理石碑文の年代記には、トロイア戦争開始から、その年までの年数は954年だと記されている。これを西暦に換算すれば、開戦は紀元前1218年であり、その後10年目の陥落は1209年ということになる。紀元前3世紀後半の博学者エラトステネスは、トロイア陥落を紀元前1184年と計算し、それ以後は、この説が支配的となった。
近代の古典学者や歴史家は批判的精神が旺盛であったからほとんどだれもホメロスの詩に史実が含まれているとは考えなかった。ところがドイツの片田舎の教師の子として生まれたシュリーマン(1822-1890)は、トロイアやミュケナイの豪華な遺跡を発掘して世間や学界を驚かせた。ミュケナイ文明の栄えた年代は紀元前16世紀から12世紀頃までであった。しかしイギリスの学者エヴァンズ(1851-1941)が1900年にクレテ島の食ノックスでもっと古い文明を発見し、その地の伝統的な王ミノスに因んで「ミノア文明」と名付けた。このようにしてそれまでは夢想もされていなかった「エーゲ文明」の全体像が明らかになってきたのである。エーゲ文明とは、エーゲ海地域に成立した青銅器時代の文明であり、極めて豪華なものであった。この地域は、世界最古の文明成立地、メソポタミアやエジプトに近いため、それらの文明の波を早くから受け、この地域が青銅器を用い始めたのは、遅くとも紀元前2500年頃からであり、紀元前1100年頃までつづく。
トロイアの丘の上には何度も都城が築かれている。その遺跡の下層から数えて第6番目の都城は紀元前1900年から1300年頃まで続くが、この時期の住民はミュケナイ文明と密接な関係にあった。この都城は地震で滅びたらしい。そして生き残った人々がその後に都城(第七市a層)を復興するが、これは紀元前1250年前後に戦火で滅びた痕跡がある。この戦火の痕跡こそ、トロイア戦争の証拠であると推定されるのである。トロイア戦争はミュケナイ文明圏のギリシア人が、トロイア文明を滅した戦争であったことになる。
ミュケナイ時代の諸王宮、人民からの貢納などの記録を、書記たちが粘土板に刻み込んでいた。その文字(線文字B種)は、明らかに先住民のミノア文字(線文字A種)を模倣したものであるが、1952年にイギリスのヴェントリス(1922-1956)によって解読され、ギリシア語であることが判明したのである。
紀元前15世紀頃にはミュケナイ文明の軍勢がミノア文明の中心地クノッソスの王宮を滅ぼし、そこに定住するようになったらしい。他方トロイアへの遠征については、考古学的証拠は確実ではないが伝説だけは豊かに伝えられているわけである。トロイア戦争から数十年後には、ミュケナイ文明圏の各地の王宮はつぎつぎに戦火に遇って滅亡し、かくてミュケナイ文明は崩壊してしまった。この破滅はおそらくドーリス人の侵入によるものであろう。ドーリス人は、同じギリシア語を話す一種族であるが、ギリシアの北西部にとどまっていたため、後進的な段階にあり、それだけにかえって素朴で強力な戦闘態勢を保持していたらしい。
ミュケナイ文明崩壊後の約400年間については記録が皆無であるばかりでなく、伝説さえもきわめて乏しい。それゆえ明確なことは少しも知られていないので、この時期は「暗黒時代」と呼ばれる。ホメロスは前8世紀頃の人であり造形精神の成立と同時代なのである。ホメロスはどのようにして自分よりも400年も以前の住民分布の状況を知ることができたのであろうか。ホメロスの背後には明らかに口承叙事詩の伝統があり、その伝統はミュケナイ時代に発し、その頃の状況を語り伝えたのだと推定されている。