第2章 イリアスについて
イリアスの主題 トロイア戦争の原因になったのは、絶世の美女ヘレネである。スパルタの王家に生まれ、婿メネラオスを迎えて、王妃となっていたが、夫の留守中に異国の美少年に誘惑され、駆け落ちしてしまった。この美少年と言うのは、トロイアの王子パリスであって、ヘレネも海を越えて、この新しい夫とともにトロイア王城に住むことになった。メネラオスの兄、すなわちミュケナイ王アガメムノンが総大将となって、ギリシア各地の諸王国の軍勢を集め、トロイアへ遠征し、ヘレネを奪い返そうといた。トロイアは堅固な城壁をめぐらしており、近隣から援軍も来ていたので、戦争は10年間もつづいた。しかし、ホメロスは戦争全体の経過を年代記式の順序で物語るのではない。戦争の10年目、トロイア陥落の直前の事件を取上げ、その約50日間の経過を物語るだけなのである。
ヘレネ(左)、戦争になるほどの美女みたいです。
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アポロンに仕える神官クリュセスの娘が捕虜になり、アガメムノンのものになっていた。神官がアポロンに祈ったため、アポロンはアカイア軍勢に対して疫病を降らせた。将兵はばたばたと死んでいった。アキレウスはアガメムノンに忠告して、神官に娘を返してやらせた。ところがアガメムノンは、その代償として、アキレウスの女ブリセイスを権力に任せて奪い取ろうとする。アキレウスは怒って、この総大将を切り殺してしまいそうになる。しかし老将ネストルや女神アテネの忠告に従って思いとどまる。アキレウスは、自分の価値や正しさを信じて行動する若者だ。現在の秩序を悪しき矛盾に満ちたものと見なし、それに反抗する若い革命家たちに似ている。そのような若者の原型だといえよう。これらの若者たちの多くは、結局、現存の社会や政治の機構の堅固さの前に屈折せざるを得ない。この屈辱を味わったアキレウスの心の今後の動きが、『イリアス』の中心的テーマなのである。この傷ついた心の救済は、神々の計らいによって果たされてゆく。アキレウスの母は女神テティスであった。だから救済の端緒は、この女神によって始められる。
テティスの洗礼。若き日のアキレウスですね。
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アキレウスは涙を流した。すると、海底で老父の傍に坐していた母なる女神が、その声を聞きとめた。それで大急ぎで灰色の海から霧のように昇り現れた。そして涙を流しているアキレウスの面前に坐り、手で撫でてさすってやり、名を呼んで言葉をかけた。
アキレウスが幼児のように母親に甘えているのには、なお別の含みがある。母が女神であるにしても、少し異常な甘え方ではなかろうか。しかしアキレウスの育ち方は、少し異常であったのである。テティスは女神でありながら、ある事情により、人間の男性ペレウスと結婚し、一子アキレウスを生んだ。ゼウスの妃ヘレがテティスを「みずから養育し、ペレウスに妻として与えた」のである。ペレウスにとってこれは身分不相応な結婚で、破局はすぐに起こってしまった。テティスは幼児を残し、海底の父の館へ戻ってしまった。それ以後アキレウスはいかなる女性の胸にも抱かれること無しに育つ。彼を養育したのはポイニクスという男性であった。
アキレウスはトロイアへの遠征に参加すれば、高い名声を挙げるけれども、若い身そらで戦死するという運命に定められていた。その運命を母から教えられていながらかれは戦争に参加してきたのである。アキレウスは戦場から身を引き、それによって自分の武勇の価値をアガメムノンに思い知らせようと計画していた。それでテティスはこの計画通り、アキレウスが身を引いている間はアカイア軍を敗退させてほしいと、ゼウスに頼み込んだ。ここで第一巻は幕を閉じる。
アキレウスの留守中に、アカイア軍は圧迫されてしまった。パトロクロスは味方の苦境をこれ以上、眺めてられなかった。それでアキレウスの武具を着用して身代わりとして出陣した。出陣するパトロクロスを前にしてアキレウスは次のように祈った。
父なるゼウスよ、またアテネおよびアポロンよ、どうか、あらんかぎりのトロイア人のうち一人として死を逃れませぬように、あたアルゴス人(アカイア軍)とても、同様でありますように。ただ我々二人だけが死を逃れ、トロイアの神聖な冠を打ち砕く役目を果たせますように(第16巻97以下)
友情もここまで度が進んでは、少し異常だといわねばならぬ。古典期ギリシアでは、男性の同性愛が相当に普及し、時には異性愛よりも高級なものと評価される傾向さえあった。しかし「イリアス」には両人の肉体関係を暗示する証拠は一つも見出されない。各々異性との関係はあったから、その点では正常であった。ある学者の解釈によれば、パトロクロスはアキレウス自身の模像であり、それゆえアキレウスはパトロクロスの中に自分自身を愛しているのだという。一種の自己陶酔症だということになる。
> いやいや、子供がいる同性愛とか、結婚している同性愛もあるぞ。